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1.疑問。孫と祖父。

(1)                   死について考えるという事。

@    歳と共に、抽象的なあの世への思いが深くなってきた。具体的なこの世との別れの予感が深まり、一方で抽象的な事物についての言葉が豊富になったせいもある。

A    死について考えることと、あの世について考える事は違うことだ。

B    釈迦は、無駄な事だから、いい加減にして、おやめなさいと言っている。

C    煩悩を越えた釈迦にとってはそうかもしれないが、凡人にとっては大問題なのだと、反論して、10年近く、湧いてくる思いを言葉にしてきた。

D    最近その言葉を整理していて、だんだん、死という言葉の無意味さに気が付いてきた。自分はどうでもよい事、中身の無い空虚な事に、労力を傾けてきたのだなという気持ちだ。

E    考えたり、思ったりしたことを言葉にすると、キラキラ光って見えていたシャボン玉を手に取った時のように、消えてしまう。まるで子供のシャボン玉遊びだ。

F    釈迦だって、最初からその事に気づいていたわけでもないと思う。散々思い悩み、弟子や信者から、山ほど死についての疑問や悩みを浴びせられた結果、そういう気持ちにたどりついたのだと思う。結局廻り道しかないのだ。

G    私のたどってきた道を振り返れば、死についての、恐れや誘惑という感情的な思いは、途中までは確かにあった。その一つ一つを言葉にしているうちに、そういう感情的な思いが言葉に固まって、感情的な悪さをしなくなったのだろうと思う。そして、やはり釈迦の言ったとおりだったなと思うに至ったのだ。

H    死についての恐れや誘惑は確かに存在する。しかしそれは感情の心に囚われた偽の自分の迷いであって、言葉の心の働きである本当の自分にとっては、無であったということだ。

I    信者なら、釈迦の言葉を、はいそうですかと信じて、さっさと無視してしまうだろうが、そうでない自分にとっては、この過程は必要だったのだ。

J    夜道で、黒い影が横切ったり、向かってきたりしたら、誰だって恐れるだろう。それが愛犬の出迎えだと知れば、恐れは消えて苦笑いするだろう。

K    今、この文章を読み返していると、気恥ずかしく鬱陶しい気持ちになる。

L    しかし、私と同じ人も多いだろう。私ほど家族に恵まれることなく、自由に過ごせない人も多いだろう。この文章が、死への恐れや誘惑への、免疫の、予防注射になればいいと思う。

(2)                   死ぬとはどういうことなのだろう。

@    幽体離脱という話がある。生死の境目で、自分と体が分かれて、自分が天井から体や周囲を見下ろしているという話だ。自分と体は元々互いに異次元に在る。だから、自分と体が分かれるというのは当然のことだ。しかし、互いに異次元にいるのだから、互いを見たり感じたりはしない。さらに、暗闇の向こうに光が見えて、トンネルを進んでいくと、花畑や川があって、向こうで祖先が呼んでいる、という話もある。言葉を発信すると言霊になって、元居た言霊の海に戻る、ということなら、その通りだ。言霊の海が祖先だというのも理解できる。

A    問いを、「誰にとっての何なのだろう」、としなければ答えは出ない。死には自分の死と、自分以外の死がある。自分の死について考える。事物には、感覚や感情の心で観察できる、つまり現在の現実にある具体的な事物と、感覚や感情の心で観察できない、つまり現在の現実には無い、言葉の心でしか観察できない抽象的な事物つまり言葉がある。自分の死は、観察すべき本人の感覚や感情の心が無いから、抽象的な事物だ。自分の死について、感覚や感情の心をこめて考えても、生じている次元が違うという意味で無駄な足掻きだ。自分以外の死についても、同じ事が言える。だから死について考えるに際しては、感覚や感情の心の出番はない。言葉の心でしか観察できない抽象的な事物なのだ。臨終や葬儀、追悼や法事などはそう考えるべきなのだ。

B    誰が死ぬのか。人間関係の死。

1)      親しくない人が死ぬ事。

a       命に限りがあることを、人はどのように、認識するのか。昔の人の、言霊や写真。親の教育。死者の死顔。人の成熟度は、心の中に、何人の死者が住んでいるかにより決まる。

b       他人の死が、「望み」の虚しさを教える。他人の死が脳の暴走を鎮める。死を思うことには、「望み」の毒を中和する作用がある。

c       死は、外から観察している人の心に起こる現象だということがわかる。

d       人間以外に心は無いと思っている。心の無いものには同情する必要は無いと思っている。ペットなど特別な感情で結ばれれば、心があると思い、人と同じ扱いになる。

e       死ぬと、心が消えて体だけになり、体は物に変わると思っている。

2)      親しい人が死ぬ事。

a       言葉の心の働きである自分にとって、もともと、その人は体ではなかった。言葉の心に焼き付けられた記憶つまり言葉だった。外にある物体でなく言葉の心の中に作られた言葉だった。だから、その人の体が死んでも、遠くに引っ越して音信不通になっても、その人の存在は何も変わっていない。もともと、言葉だったのだから、自分にとってのその人の在り方に変わりは無い。かえって、感覚や感情の心の邪魔が無くなり、仲良くすることができる。

b       今日、暑い日ざしの中、麦藁帽子を被った年配の男性が、自転車の後ろに仏花を乗せて去っていく姿を見た。白シャツの背中に奥さんの気配があった。体が消えただけで生き続けているということだ。

c       体が無くなったとは知っていても、私の脳の中で、相変わらず生きつづけていて、いつでも会える。話も出来る。戸籍がどうなっているかは関係ない。最近ちょっとご無沙汰程度だ。死体はあっても、死者とは、別の何かだ。

d       おとうさんとお母さん、おじいちゃんやおばあちゃんが死んだら、もう会えないの。おまえと、おまえの子や孫と同じ関係だ。だから、おまえは、おまえの子や孫のことを考えればいいんだよ。

e       親しい人が死んだらなんでみんな悲しむのかな。死ぬのも生まれるのも同じ現象だと思えないのかな。小学校を卒業するのと中学校へ入学する。入学がうれしくて、卒業が悲しいのと同程度だ。中学校が見えないので心細いだけだ。この世で死ぬということは、未知の別の世界に生まれるということだ。そうでないとはいえないし、悲しみが所詮幻なら、そう思えばいいだけだ。死を恐れる気分は、子供の頃、親の都合で引っ越すことになったときの気分に似ている。友人と別れねばならない。行き先がどんな世界かわからない。ただ家族が一緒なのが救いだ。突然両親を失った子供は、死よりもっと恐ろしい体験をしていることになる。

f        自分にとって、愛する他者の死とは何なのだろう。空想の場合もあるが、実際に遭遇する場合もある。愛する他者の死とは誰にとっての何なのだろう。死者本人にとっては(1)と同じだ。自分にとって、愛する者の死とは何なのだろう。どこが変わるのだろう。その人は体としてではなく、言葉として、言葉の心の働きである自分の中に居たのだ。自分の中の言葉であったその人は、これまでも今もこの先も変わらずに居続ける。現在の現実とは感覚や感情の心が外界の刺激から映し出している感覚や感情だ。元々、言葉の心には、現在の現実はなく、記憶の過去や願望の未来しか無い。その人も、会ったり話したりしている間は感覚の心が働いて、その人が現在の現実に居るように思えるが、ちょっと目先から離れてしまえば、記憶の過去の言葉になっていたのだ。死によって変化するのは、その人の体だけだ。その人の体が現在の現実に生じないのは、今までも一緒に居る時以外は、同じだ。電話で話したり、呼び出して会ったりできなくなる。それは生きている間も同じことが起きるという意味でこれまでと同じだ。その人が死んだという言葉さえなければ、最近会わないなという程度だ。愛する人の体の死も、人の体が離合集散を繰り返す日常の一コマなのに、世界の一画の崩壊のように思わせる。感情の心という偽の自分が、「死」という偽の空想の言葉を作って、元々無かった現在の現実が失われたかのような錯覚を起こし、動揺しているだけなのだ。本当の自分が付き合っていた本当のその人は言葉なので、何も変わらず、自分が生きている限り、今までと変わらず、これからもずっと居るのだ。その証拠に、どんなに嘆き悲しんでいる人も、感情の心は長続きできないから、しばらくすれば熱が冷めるように醒め、言葉の心を取り戻し、言葉である本当のその人と、終生の対話を始めるのだ。

g       心に空洞ができる。どう埋めるか。現実世界に穴が開いたと感じているうちは、埋めることは不可能だ。すべての出会いは、脳の中で織っている布のひとつの模様で、心の世界の出来事だったのだと理解すれば、何も変わっていないことがわかり、心の穴は幻だったことがわかる。いつでもどこでも会えるし話しもできるということがわかる。

h      昔、自分を大層大切に思っていた王様が、自分の心に触れたものは、何でも取って置くように家来に命じた。夕日の風景や、親しかった人々の話し声や一緒に笑った感情など本当に大切なものは保存できず、変色した写真や、干からびた食物や、冷たい宝飾品や美術品や、標本やミイラの山が残された。王様も、この世の喜びのすべては、自分の心の中以外に何も保存できないことがわかった。その瞬間、王様はすべてが失われずに自分の中に残っていることを理解した。

i        抽象的な世界が見えるようになる。作れるようになる。きっかけは、親しい人の死だ。抽象的とは。形而上的とは。感覚や感情の心で把握できる事物を具体的と言い、感覚や感情の心では把握でない、言葉の心で作った言葉を抽象的という。昼から夜へ。太陽が沈み、月や星が浮かぶ。月や星は、昼間もあったが見えなかっただけだ。太陽は活動を励まし、月や星は思索を促す。

3)      言葉の心の働きである自分が死ぬ事。

a       死には、体の崩壊と、心の行く末の2面があることを理解する。自分の死のことを考えている時は、自分が体でなく心であると考えている。問題は体の崩壊でなく心の行く末なのだ。体にこだわるのは誤り、穢れへの迷路だが、他人の死しか知りえないので、そして他人の心の行く末は見えないので、見える体の崩壊にとらわれてしまう。体は動植物など他の命からの借りものなので、崩壊して、借り物を返すように、地球へ返すのだ。本当に気にすべきなのは心の行く末だ。心は体から生じたいわば信号だ。信号は点いたり消えたりするだけで、死んだりしないのだ。

b       外の世界も体も脳も、形があるゆえに消えるのは未練が湧くが、脳の中に築いた架空の世界で揺れている命の無い電気信号だと知れば、消えるとしても、このほうが諦めやすい。自分が体なら、体が失われたり、親しかった人の体が居なくなるのは辛いが、実際には自分は信号で、見えていたのも信号だから、所有したり、産まれたりも脳の中の信号で、だから失うことも、いなくなることも無い、信号なのだ。

c       自分の死は心のこと。他人の死は体のこと。情報と物、次元が違うのだ。ものごころついて以後のあらゆる出来事は、自分に起きるが、自分の死は、自分ではなく他者に起きる出来事だ。しかし普通に想像すると、他人の体の死のように自分も死ぬのだと勘違いしまう。本当の自分は体ではなく、言葉の心の働きという情報だから、体のような死は無い。電球が割れて明かりが消える。割れたのは電球であって、光ではない。光はついたり消えたりするだけで壊れないのだ。つまり自分には体のような死は無いのだ。自分は言霊の海から注ぎこまれだ言霊が点いたり消えたりしている情報だ。体が死ねば、自分は消える。自分を作っていた言葉は、発信されて他者の一部になったり、消えたりするが、オリジナルは言霊の海に在り続ける。自分はもともと言霊の海の一部だったのだ。

d       知っているつもりの死は、他人の体の死で、本当の自分の心の死ではないことに気がつこう。

e       言葉の心の死。これが、本当の自分の死だ。

f        他人の死に立ち会う。死んだらどうなるのか、死とはどういうことなのかが良くわかる。自分は死んでどうなるのか考える。不可思議になる。他人の死は体のこと。自分の死は心のことだからだ。

g       DNAが、肉や野菜や米で作った体は、来た場所に帰る。言葉の心の働きである自分が発した言葉は、言霊となって言霊の海に戻り、時空を越えて、人類の言葉の心の間を、循環し続ける。

h      家系や家族。生物には、自分と他者という排他的な、競争差別の本能がある。ヒトも生物として例外ではない。むしろ言葉の心が有る分、本能に言葉が加わり、さらに強化されている。そこから派生して、家族という観念がある。未来の家族は、現在においては家族でない者同士から生じる。未来の家族は、今は生じていない。そしてしばらくすると、感覚や感情の心が映し出している現在の家族は、日々言葉になって消えていく。言葉は記憶の過去、さらには言霊の海に帰る。たんぽぽの綿毛の球のように、日々、少しずつ言葉になって、時間の風に乗って消えていく。そういう意味では、家族、つまり現在の現実は普遍的なものではない。さらに一族という観念がある。そんな家族の不連続性を隠すために、不安と虚無感から逃れるために、家名という言葉に置き換えて、連続しているかのように装っている。さらに、未来の家族について言えば、縁もゆかりも無い他者同士が、無から作るように思えてしまうが、元は大昔の一人の人間から生じているという意味で、大きな家族の一員なのだ。たんぽぽの綿毛のように、日々、少しずつ言葉になって、時間の風に乗って消えていく。そんな時、自分を花だと思えば、自分が散るように思える。自分を綿毛の付け根の台のように思えば、自分が空っぽになって消えてしまうように思える。自分が花つまり体ではなく、感覚や感情の心でもなく、自分は現在の現実の孤立した何かではなく、自分は綿毛つまり言葉、つまり言霊の海の一滴だということに気がつけば、心が安らかになる。

i        体が無くなったとは知っていても、余分な思い入れを省けば、私の脳の中で、相変わらず生きつづけていて、いつでも会える。話も出来る。戸籍がどうなっているかは関係ない。最近ちょっとご無沙汰程度だ。死者という言葉は、架空の動物のように、よくわからない空言だ。

j        人だけが死者と意思疎通できる。記憶や文字の言霊だ。文化伝統とは死者が残した情報のことだ。

k      自分にとっては生だけが在って、死は空想の言葉だ。つまり、死とは生の終わりというだけの意味だ。どのように死ぬかというのは言葉の遊びで、どのように生きるかということだ。どのように生を終えるかではなく、どのように最後まで生きるかだ。

4)      ここでは、言葉の心の働きである自分が死ぬことについて考えよう。

C    何がどうなるのか。

1)      体が死ぬ事。

a       一年草は多年草より不幸か。犬猫の寿命はゾウや鯨より、太陽の運行を基準にした時間としては短い。人もその寿命の長さで幸不幸が決まると思い込んでいる。長く生きる。長いという意味。時計の時間や平均との比較でいうなら、冷凍人間になればよい。

b       子供を作るということ。満開のリンゴの木が有るとする。一人ひとりは、無数の花の一輪だ。ある花は小鳥に食べられてしまい、ある花は実をつけたとする。この実は何の子供だろう。実をつけた花の子供か、リンゴの木の子供か。自分を何と考えるかだ。

2)      言葉の心の働きである自分が死ぬ事。

3)      ここでは、言葉の心の働きである自分が死ぬ事について考えよう。

4)      3日前からインフルエンザになった。飲み物も食べ物も、全く旨くない。ごちそうは外にあるのでなくそれぞれの脳が作り出す情報なのだ。熱が出て頭痛がひどい。この痛みが取れるならなんでもしたい気分だ。ふと思った。死を間近にした時、死を恐れる気持ちはどうなのだろう。苦痛が大きければそのことだけになって、抽象的な死のことなどどうでもよくなるだろう。却って苦痛から解放してくれる光の出口のように思うだろう。苦痛が無い状態で、死が迫るのを実感したらどうなのだろう。間もなく死ぬかもしれない。間もなく必ず死ぬ。いつかは定かでないが必ず死ぬ。感情の心が拒否し興奮し、感情の心の興奮が消えて絶望し、言葉の心が働き始めて、冷静に理解するということか。苦痛は感覚の心の現象、苦悩や恐怖は感情の心の現象だ。言葉の心にとっては異次元の事だ。

(3)                   自分は死んだらどうなるのだろう。

@    体はどうなるのだろう。

1)      現代の医学の基準では、脳波が停止した時、体が「死んだ」とする。

2)      桜の正体が花ではなく木であるように、体の正体はDNAだ。DNAは種(しゅ)という一本の樹で、体は、そこから「咲いては散って」を繰り返す花なのだ。体一つ一つには生死はあるが、その正体であるDNAは情報なので、生死は無い。

3)      火葬の時間や温度で、残り方はいかようにもなる。欧米では高温で長時間なので、サラサラの砂状になる。日本ではそれより低温なので、骨格が残る。砕いて、形を崩してから遺族に見せる。故人の記憶があった顔の表情も、心があった脳も残らない。心は脳波が消えた時に消えている。

4)      毎年、木から葉が落ちて、新しい葉に入れ替わる。春は、葉を広げ、夏は栄養を吸収し、秋は葉を落として、根を肥やす。冬は、芽を育む。花が咲く。花弁を落とす。実を作る。実が木から離れる。これのどこに死があるのだろう。

5)      花には咲く機能がある。受粉して実をつける働きもある。すべてが終わったら、萎れて落ちるが、これは新しい働きでなく、前の働きが終わっただけだ。だから無意味だ。死も同じだ。死ぬという別の状態があるのでなく、生の一部だ。右にどんどん延びている命の線が、伸びるのを止めた右端を言う。

6)      体はDNAの樹に咲く花だから、今年の花と去年の花の違い位で、毎年繰返し咲く。来年の花は同じハードとソフトで命を開始する。それが感情的に、自分の生まれ変わりかどうかは、今年の花の幻想にすぎなくて、来年の春にはもうどうでも良いことだ。

7)      釈迦は、特定の個人の体や人格の転生輪廻は否定していた。因果応報は、生きている間の話だ。オウムは若者に、密教を利用して、悟りの近道を教えると言い、逆らえば無間地獄に落ちると言い、薬で快感を与えて、あたかも悟りへの階梯のように思わせた。

A    感覚や感情の心はどうなるのだろう。

1) 感覚や感情の心は、体と一体なので、脳の働きが停止した時、つまり体が「死んだ」時、感覚や感情の心も消える。

2) 私達は、自分の生まれてきた時がわからないように、いつ死ぬのかも分からない。それでも当分生きつづけると思っている。手帳に予定を書きこんで、10年後まで埋め尽くそうとしたり、家族を毎朝送り出すのに何の不安も感じなかったり、色々なことを欲する時も、死は当面100%無いと思っている。虎やライオンを死に例えるなら、動物の目は動くものしか反応しないので、近くの叢でじっとしている死に注目しないが、それが少しでも動くと察知してひどく怯える。

3) 死の瞬間。普通の苦痛や喜怒哀楽はあるかもしれないが、特別な何かは起こらない。苦痛や喜怒哀楽の原因となっている、自分へのこだわりや、欲望は消えて、生まれて初めての、深いやすらかな気持ちを味わっている。

4) 死ぬ時の気持ちを考えると、ドキドキする。初めて幼稚園に行くのを待っていた日々、小学校や中学校、とりわけ受験を控えていた時も同じだった。要するに、死についての恐れも、未知の体験を前にした子供時代と同じ気持ちなのだ。

5) 戦いでも抵抗でもなく、恐怖や孤独や苦痛でもなく。

6) 今年の梅雨は長かったね。雨にぬれるとママに叱られるので、お外で遊べなくて、じいちゃんも退屈したよ。さっきから耳鳴りのような音がするね。今年最初のセミの声だ。最初のセミの声は良くわかるけど、最後のセミの声はいつも記憶にないね。聞くときにこれが最後だとわからないから、覚えていないんだね。きっと死ぬときも、そんな感じで、わからないまま死じゃうんだと思うよ。おまえが生まれてくるときはどうだった。よくわからなかったよ。

B    言葉の心の働きである自分はどうなるのだろう。

1) 言葉の心の働きである自分も、体から生じているので、脳の働きが停止した時、つまり体が「死んだ」時、消える。

2) 生きている間、発信した言葉はもう、体とは関係ない。他者に記憶されたり、文字や絵になって情報空間を漂ったりして、次の宿主が取り込むのを待っている。それを言霊という。自分が発信した言葉を自分の分身だと思えば、もう生死は無い。

3) はじめに言葉ありき。世界のすべての物や現象は、自分が言葉の光を照射して、名前をつけなければ、自分にとっては存在しない。自分も、自分で言葉を付けて自分になる。無名無欲で生まれ、言葉を付けたり付けられたり、欲望を寄る辺に生き、死して来た処へ戻るに当たり、体は奪った相手に返し、言葉は言霊の海に流していく。言霊の海は一つで、自他の区別は無いのだから。

4) ヒトだけが死者と意思疎通できる。死んだ家族や仲間の言霊。わからないものに恐怖を感じる。死はわからないから怖い。死者が語れば、わかった気持ちになり、安心して生きることが出来る。問題は語る死者を見つけること。死者は記憶になって生者の心の中にいる。死者の記憶を温めて薫らせればよい。そこから「黄泉の国の話」が始まる。

5) 他人の死に立ち会う。死んだらどうなるのか、死とはどういうことなのかが良くわかる。自分は死んでどうなるのか考える。不可思議になる。人の死は体のこと。自分の死は心のこと。子供の誕生に立ち会う。誕生とはどういうことなのか、何処から来たのか良くわかる。自分が何処からきたのかとなると不可思議になる。人の誕生は体のこと。自分の誕生は心のこと。

6) 死ぬのは体ではなく心で、心の死は、通常思うような肉体の崩壊の時でない。心が生きている間、体の本体である細胞は刻一刻と壊れて再生しているが、心はそれを意識しないから、体が生きたり壊れたりしているということもわからない。つまり、生死は心の中で生じる心理現象だ。体が活動していても意識がなければ死んでいる。体の活動が停止していても、脳が活動していれば生きている。脳も停止しても、その人が残した情報が活動していれば、その人は生きている。つまり、生死は体とは次元の違う場で生じる情報伝達現象なのだ。もし鉱物が情報を発信し、私達が受信するなら、その意味で、その鉱物は生きているのだ。

7) 僕は花火が燃えている間だけパチパチいっている光だ。 花火は職人が火薬や木や紙で作る。体は、地球が育てている他の動植物を材料に、遺伝子が作る。 死ぬのは、花火が燃え尽きるのと同じで、お前である光は、何所かに飛び散り、体は火や他の遺伝子の力で地球に返される。だから、死んだ体には、お前はいない。花火の燃えカスに光が残っていないように。

8) 他人にとっては、この世の中での一つの出来事にすぎない。本人にとっては、TVが真っ白になるように、この世が消える。世界の終りだ。

9) まず自分という視点があって、この世のすべては、そこに映って初めて生じる、という意味で、この世は自分の中にある。この世は、すべての生き物の自分に、一つづつある。一つの自分が消えるたびに、一つの「この世」が消える。一つの自分が生まれるたびに、一つの「この世」が生まれる。「自分が死ぬ」と考える時、どの視点で考えているのだろう。自分の意識は残したまま、体のような偽の自分が死ぬのを、他人の死のように眺めているつもりなのだろう。他人についてなら、どんな気持ちで死ぬのかと思うかもしれないが、自分自身については考えても無意味だ。自分の意識も消えているのだ。自分が消えると、すべての意味も消える。自分の死を意味付けようとしても、所詮他人の視点を仮想する無意味なことだ。生きて身につけた名前、欲望、借りていた体もすべてが消える。自分で自分の死の瞬間を想像しても、突然電球が切れる以以外のことはない。

10)         最後の晩餐。ここにいる人たちは先生と生徒で、一緒に食べるのはこれが最後という食事をしている。真ん中にいる人はもうすぐ殺される。しばらくしたら生き返って、みんなに生きる意味を教えるために、地球最後の日まで生き続ける、という2000年前のお話だ。この人の誕生日が、おまえの好きなクリスマスだ。生き返るというのはたとえで、教えとか考えは生徒の心に生き続けるので、何千年も伝わっていく。今朝、散歩の途中で、おまえと二人、マクドナルドで朝ごはんを食べているとても幸せな気分だ。なんだか、40億年と60年を、このために生きてきた感じがする。このポテトフライ、おいしいね。ワシは今日までのことを噛締めながら、おまえはどんなことを思いながら、同じ味を楽しんでいるのかな。

11)         体の死後は言葉の心の働きとしての自分も消える。もう個々の自分は消え、生前に発信した文字などの記録や言動などの記憶が、ヒトに特有な情報の堆積、つまり言霊の海に戻る。時空を超えて、地球の水の循環のように、新しい言葉の心に降り注いだり、戻ったりを繰り返す。

C    体が死ぬ時、自分は、痛かったり、苦しかったりするの。

1) 痛みや苦しみは感覚の心の働きだ。痛みや苦しみがあっても、自然に備わった脳内麻薬や医療による麻酔が効くから何も感じない。

D    体が死ぬ時、自分は、虚しかったり、悲しかったり、恐ろしかったりするの。

1) 喜怒哀楽や恐れの主役は感情の心だ。言葉の心とは別次元の話だ。自分がその時、どちらの心になっているかだ。

2) 言葉の心が、自分の死に対してどういう言葉や物語を持っているかによって感情の心は左右される。それは日常でも、臨終でも同じだ。臨終だからと言って、何も変わらない。

3) なにも言葉を持っていなければ、自分の死を、虚しかったり、悲しかったり、恐ろしかったり思うに違いない。

4) 猫の死に方を手本にする。その時の気持ちは、いつもいじめる横丁の犬が近づいてくる気分に近いだろう。人目につかない、安全な場所を探し、身をかくすだろう。いままでがそうだったように、しばらくすれば、この苦しさは、なくなるだろうと思っているだろう。死ぬ瞬間まで、これでおしまいとは思わないだろう。

5) 不幸とは願望が満たされない時に湧いてくる感情。願望が無ければ不幸な気持ちも生じない。だから死の直前の人は自分を不幸だとは思っていない。自分のことをあれこれ考えるから不幸になる。他人の幸せを願っている間は、自分の願望を忘れ、結果、不幸感も消える。家族はそのために居る。

6) 最後には、満足している状態で死にたいと思う事がある。すべての欲望を満たしきって、不満が無い状態ということだ。それなら、不可能だ。感覚や感情の心の不満は無限に生じるし、得られる満足は、その場限りだからだ。自分の死に関しては、感覚や感情の心ではどうしようもないと明らめて、言葉の心に切り替えることが必要だ。

7) 誕生の時は、欲望が育っていないので、本人が無意識のまま、花が咲くように、静かに生じる。死も同じように起こるのだが、欲望の構造が壊れる分、大騒ぎになる。

8) 痛いとか、苦しいとかは、体、つまり感覚や感情の心のことで、本当の自分とは別次元の事だ。

9) サクラの花やモミジが散るのを見て、心が騒ぐのは何故だろう。老病死の予感が湧いてくるのだろう。そしてそれは、ヒトが生きる上で、役に立つ心理現象なのだろう。わが身の老病死を感じると、喜怒哀楽も穏やかになり、わが身に固執する欲望も薄くなる。大脳新皮質は、際限の無い願望を生みだす。それを毒消するために、老病死を想像する能力も備えているのだ。オオカミが鋭い牙と、仲間にはそれを使用しないブレーキを併せ持つようだ。

10)         死を迎えるにあたり、この世にいる自分にしがみつくな。浮き輪につかまっていては、水底の出口が見つからない。

11)         胡蝶の夢。病室のベッドで目が覚める。白い布団、白い天井。こちらを見つめる白い人。そういえばあれから60年、途中が在ったような無かったような、夢のようだ。腕に繋がれた管から薬が流れ込む。しばらくうとうとして、また目が覚める。やはり白い布団、白い天井。こちらを見つめる白い人。違うのは、横に誰かいて、乳を含ませてくれる。乳とともに、私だった記憶が真っ白に溶けていく。

12)         太陽を正面に見ているうちは、自分の影は見えない。太陽は若さで欲望で未来や将来だ。欲望が沈む夕日で、夕焼けの風景が欲望や過去の残影だと思えば、惜しむ心がすべてを美しく見せてくれる。老いを醜くさせているのは、剥げかかって斑に残った欲望の化粧だ。

13)         自分自身は、脳の中の架空の世界で点滅している電気の信号で、そこに映る世界のすべても電気信号だから、外界のような生生流転はない。

14)         自分は体から生じているが、体ではないと知って、体への拘りから距離を作り、体が消滅する事を受容れやすくする。これを明らめという。

15)         心は体が生きている間しか生じない。死には、生きている終点としてしか意味がない。終点の先には、何もない。死は生の右端のことなのだ。自分の死は、生の右端を示すただの言葉だ。スポーツと異なり、終点にゴールはないから、そこに意味はない。生きている間がすべてなのだ。登山や事業とは違い、人生の意味は、ゴールではなく、プロセスにある。

16)         私には、幼いころの暗い記憶がある。冬の早い日没、下落合の駅から、小滝橋の自宅を目指して、暗闇を、母と弟と一緒に、工事のための土と砂利が盛られた道を歩いている。道に迷っている。心細さが湧いてくる。今日、西武新宿線に乗った。母の妹の家が武蔵関だと気がついた。なるほどそうだったのかと、それだけで過去に明かりが点いた感じがした。

17)         自分が死ぬことを受け入れる能力。死を他人に説明し、納得させ、安心させる能力。何故「死」が怖いのかを理解する能力。淡々と受け入れ、生きる障害にならなくする能力。

18)         還暦を過ぎたら、もう未来を恐れるのはやめよう。いつ死んでもいいという気持ちにならなければ、苦は深まるばかりだ。未来のために今を生きるのは楽だった。楽しかった。でもそれは還暦まで許された遊びだ。未来が少なくなった今、今だけを生きようとしてみよう。貯められないものを貯めたり、先延ばしできないことから目をそむけるのをやめよう。死は自分にとって、スウィッチが切れる一瞬に過ぎない。スウィッチが切れる準備など無意味だ。

19)         二子玉川駅は、多摩川をまたいでホームがあるので見晴らしがいい。早朝の通勤ラッシュで混雑する上を、鴨の大きな群れが、延々と連なりながら、多摩川の上流へ向かっていく。あちこちの茂みや川面から2・3羽と舞い上がって合流していく。群れは、秋に分かれた仲間を、帰路も同じ経路に沿って拾いながら、秩父や上越の山々を越えて、日本海の向こうの国を目指すのだろう。春がくると、そろそろかと思い、空に注意しながら、準備を整え待つのだろう。今年生まれた者は出発が恐ろしいだろう。

20)         死のことを考えよう。何でも、考えれば恐れは消える。猛獣やお化けについても同じだ。恐ろしいというのは、考えられない時に起こる感情の心の状態だ。自分の死を自分の生の一部に組み込むのだ。

21)         死ぬのが怖くなくなるために、死とは何かを知る。知れば怖くない。ルールがわかればゲームを楽しめる。死を空想する能力は、欲望が自己制御が不能なほど肥大した人類が持つ、唯一の欲望の制御手段。欲望の鎮静剤だ。欲望の虚しさを教えてくれる。

22)         歳をとったら、自分と同じ流れを同じ速さで流れている、人や物に囲まれて暮らしたい。つまり、外界と心の世界のギャップを小さくしたい。

E    死にたくない願望は、絶対に満たせない。

1) 孤独死という言葉がある。高齢者の半数が、孤独死を恐れている。70歳未満の方が、さらなる高齢者より、恐れている。歳を増すごとに恐れている人の比率は下がって行く。自宅より賃貸住宅、鉄筋より木造住宅に住む人の方が、恐れている。子供が無い人の方がある人より、恐れている。会話の頻度が少ない人の方が、多い人より、孤独死を恐れている。しかし、ほとんど会話が無いヒトは、孤独死を恐れている人の比率は低い。「孤独死を恐れる」とは、死を恐れるのか、孤独を恐れるのか、孤独と死のセットを恐れるのか。死は、何をどうしようと、絶対的に孤独だ。もっと孤独な死など幻想だ。見守られて死にたいということか。見守るのは、家族や医療従事者か。ペットや見知らぬ他人でもよいのか。きっと、死を、自分が生きている間の出来事として空想しているのだろう。死の前には、寂しさも、孤独も、喜怒哀楽も消えている。あるのは、現在の現実とは異次元のあの世、つまり生きている間に用意しておいた言葉だ。祖先や神仏の出番だ。それとて、その時点では、本人にはもう無関係だ。生きている間、自分の死を空想した時のための精神安定剤だ。死ぬためでなく、生きるための言葉の精神安定剤だ。多くの日本人には神仏が無い。つまり死についての言葉が無い。恐れの原因だろう。宗教の有無で分けた調査結果が知りたいところだ。子どもが、抽象的な課題について、言うことを聞かない時に、お化けが来ると、脅かすことがある。大人に対して、抽象的な課題、つまり宗教などを押しつけようとして、天罰が下るとか、地獄に落ちる、あの世で先祖が苦しむなどと脅したり、逆に、極楽にいけるなどと、現実的な利益誘導をしたりすることがある。抽象的な世界に引き込もうとして、具体的な罰や褒章を持ち出す。次元が違う子供だましなのに、騙されてしまう人も多い。普通の死は勿論、孤独死への恐れも似たようなものだ。マスコミが、孤独死という死のブランドを広めた結果なのだろう。病死でも事故死でも災害死でも、孤独死でも、どこで死んでも、どんなふうに死んでも、死は死だ。人生の必須の一部だ。それ以上でも以下でもないのに。

2) 言葉の心は知っている。地上の物にはすべて寿命が有るということを。地上どころか地球にも宇宙にも寿命が有ることを知っている。動植物や人間にも寿命が有ることを知っている。なのに、自分にも寿命が有ることを認めたくない。それは自分だからだ。自分への囚われが目を曇らせてしまうのだ。自分から離れない限り、悩まされ続けるのだ。

3) ヒトにとっては、生きていることは手段であって目的ではない。目的が持てないと、生きていることが目的に思えてしまう。動物としての心になってしまう。長生きを目的にしてはならない。手段を目的にしてはならない。却って不死願望を深め、生きる妨げとなる。

4)               命は増やしたり蓄えたりできないが、お金を増やしたり蓄えたりすることで、命が守られるような、安心な気持ちになれる。

5)               医者や占い師に、「あなたは○○が原因で、あと○年後の○月○日に必ず死にます」といわれない限り、自分はいつまでも生きていて、親しい皆がみんな死んだ後に、自分も死ぬくらいに思っている。同様に、余命のことも考える。「余命とは、時間の長短か、残された時間が、何時間、何日、何ヶ月、何年以下なら余命と言うのか」と。どうもそうではないようだ。自分がいつか必ず死ぬということを、心底理解し、覚悟した日から、余命は始まるのだと思う。余命だと思うと、生きていることがありがたくなる。いとおしくなる。大切にしようと思うようになる。余命を意識した日から、本当の、生きる時間が始まるのだと思う。

6)               生き続けることより面白く思える目的を言葉で作る。つまり、船が老朽化して動かなくなる前に、島影を目指す。

7)               体が死んだ後も、現在の現実に在り続けたいと思ってしまう。感情の心が映し出す偽の現在の現実だ。現在の現実とは、その時その場に生きている者の感覚や感情の心に映る刺激や興奮のことだ。その時その場に生きていない自分が、感覚の心に訴える道具は、せいぜい墓石や写真、形見の品だ。それも化石にすぎない。見る側も、よほどの思い出がなければ、鬱陶しいだけだろう。普遍性とは、時代も個人も超えて語りかけ受け入れられる情報の特性のことだ。現在の現実は、体つまり感覚や感情の心の主が消えれば、存続できない。しかし発信された言葉は、個別性を脱皮して、人類に共通の、記憶の過去や願望の未来になることができる。体が死んだ後も、現在の現実に在り続けたいのなら、普遍性のある言葉を発信することだ。その言葉は、先人の残した言霊の海から汲み上げ、そこに戻すのだ。

8)               命は、貯めたり、増やしたり、変えたり出来ない。命は自分自身だから、そしてその姿は願望だから、願望の為に使えば良い。60歳になったら、命を出し惜しんだりしない方が良い。ゴールが近づいたら、まだ道は遠いと抱えていた重荷をおろして、心を身軽にして、脳の活動に専心すると良い。

9)               次の生を信じると、色々、辻褄が合って、生きやすい。代数のX、幾何の補助線と同じだ。

10)         自殺は、自分のDNAに繋がる過去や未来の人々や記憶の中の人々を殺す行為だ。自分を愛してくれている人々に、深く重い罪の意識や悔恨と苦しみを負わせる行為だ。子供の頃、何があっても両親を悲しませてはいけないという自制心は、おとなになるにつれて消えていく。両親が死んだ後はなおさらだ。記憶やDNAの痕跡になった両親は、この脳の中に同じようにい続けているのに、そのことがわからなくなってくる。

11)         自分が体で、外の世界にいると思っているうちは、自分を含め見えるもののすべての頼りなさに、不安になる

12)         私は、自分が体だと思いこんでいるので、自分も周囲と同じ有限の生生流転と思え、情報生物である自分の本質と葛藤している。

13)         木の葉は、芽吹きの時は皆同じなのに、落ち葉の時は千差万別になっている。基調は茶色だが、緑や赤や黄色や紫。それが生涯の証なのか。それまでの一時、夕映えのように、残された人々に美しさを残す人もいる。それも束の間、みな茶色になって、土に消える。残照をのこしてもいいし、残さなくてもいい。

14)              犬猫は、自分が生きていることを客観的に見たり、生きている状態の終わりを抽象化して理解するはずがない。大脳新皮質は本来、よりよく生きるための道具として発達したもので、死ぬことの意味を探るためのものではない。そのようなことを考えると不安になる。そのことも、どこかでよりよく生きるために役立っているのだろう。すべては生きるための工夫で、死んだり、死について考えることが目的ではない。抽象化したり、類推したり、論理を組み立てる能力が生み出す幻想だ。よりよく死ぬというのは本当はよりよく生きるというのと同じ意味だ。

15)              日々、そのその時を、感覚や感情の心で楽しんでいればいいのだ。動物達はそうしている。脳が発達して未来が見えるようになった人間は、記憶の過去や願望の未来を自由に行き来するようになった。結果、衣食住は豊かになった。一方で、幸福や死の空想も手に入れた。老いや死の予感が忍び寄ってくる。恐怖が湧いてくる。漠然とした不安だ。感覚や感情の心で楽しんでいても邪魔をする。楽しい感覚は、恐怖の感覚には勝てない。美しいもの、楽しいこと、美味しいもの。感覚の喜びは記憶できない。蓄積されない。瞬間だけで消滅する。絶え間なく繰り返せば飽きる。死の恐怖は、老いがすすむにつれて益々現実味を増してくる。感覚の喜びでは紛らわせない。死の恐怖は、紛らわしたり消したり出来ない。受入れることしか出来ない。受入れれば、言葉の心の世界を豊かにする。

F    明らめる。受入れる。死ぬのは仕方が無い。

1) 老病死は自分一人で引き受けなければならない。喜びや楽しみは共有できても、老病死の共有は無理だ。見舞いに来てもらっても、葬儀に参列してもらっても、慰めにはならない。肝心なことはすべて一人の身に生じてきたのだから、老病死も例外ではないのだ。普段、どんなに親しい友人でも、老病死について言えば、見知らぬ町の夕暮れの雑踏ですれ違う通行人と同じなのだ。

2) この世を学校だと思うといいよ。そのままいればいいのではなく、学ぶことなど、目的があって、いる場所だと思うといいよ。そして、その目的が済めば卒業する学校のようなものだと思うといいよ。目的をもたないままでは、卒業せずに、何時までもい続けたい、おじいさんになっても幼稚園で遊びつづけたいとなって、見廻せば、自分だけおじいさん、先生より年上になって、どこにも居場所がないのに気が付くことになるよ。

3) 言葉の心は、新しい言葉を得ることに喜びを生じる。繰り返しは段々つまらなくなる。無限といわれる能細胞も、記憶容量が在って、徐々に言葉の受け入れ能力が落ちてくるのだろう。

4) 秋の夕暮れ。種まきより刈り取り。刈らぬまでも、さよならの時間だ。

5) 葬道とは自分の弔いのことで、他人の始末は二次的なことだ。葬道とは心のことで、体の始末は二次的なことだ。

6) 死を恐れないで生きるために。どうせ死ぬのだ。せっかく手に入れた当たりくじなのだから、取り上げられるまで持っていよう。苦しみだって楽しみだ。

7) セミやトンボや蝶は、脱皮して翅が生えると、片道切符で、二度と戻らぬ旅に出る。生きる旅は死出の旅でもある。人だけが最後に戻る場所にこだわる。絶対に戻れない死出の旅は嫌なのだ。

8) 花は蕾の鞘には戻れない。蕾も枝には戻れない。枝は幹に、幹は根に、根は種に戻れない。命としては付加逆だ。木の葉は土になり、元に帰るが、姿かたちは消えている。

9) 早春の花吹雪、早秋のモミジ舞。いさぎよさこそ美しき。秋の残花、冬の残葉、痛ましき。

G    自殺について考えよう。

1) 自殺の心理は、絶望だ。ここでいう絶望とは、困難や苦難に負けるという意味ではない。困難や苦難とは関係なく、願望が作れないことだ。動物は言葉の心を持たないから、願望を持てない。現在の現実を受け入れ、困難や苦難からは逃避するだけだ。しかし動物は自殺をしない。ヒトには言葉の心が在る。願望が作れず、動物としての心になると、現在の現実の困難や苦悩から逃げることしかできない。動物と違うのは、自身を破壊するという知恵を持っていることだ。

2) 動物に自殺は無い。猟師に追われた鹿が、断崖から谷底にジャンプする。生きるための行為が結果として失敗するだけ。言葉が無いから。自殺は抽象的な死を空想するヒトにしかない

3) 生きているのは、望むとか望まないとかの選択の対象でも結果でもなく、自分の存在そのものだ。しかし、生きたい、死にたいというのを、食べたい食べたくないと同じような願望の一つだと思ってしまう。光にはONの状態しかなく、光にON,OFFの状態があるのではない。

4) 死は、抽象的な言葉なのに、具体的な場所だと思ってしまう。死が、逃げ場所として実在しているように思えてしまう。動物が穴に逃げ込むように、抽象的な死に逃げ込んでしまう。

5) 自転車で、苦痛に負けずに、諦めずに、坂道を登り切るコツ。母のところへ行く途中に、急で長い坂道が有る。最近は、途中で降りて押して歩くことが多かった。今日も、すぐに降りて歩こうと思っていた。前方に人が見えた。せめてあそこまではと思い、近づいていくと、気がついたのか立ち止まり、道を空けて待ってくれた。仕方なくそのまま登り切った。降りて歩こうという言葉の心の妨害が消えたのだ。動物なら、登れるだけ登るだろう。登る前に諦めたりしないだろう。

6) 感覚や感情の心に生じる苦楽と、言葉の心に生じる、生きようとする意欲や、挑戦しようとする勇気は、別の次元に生じている。苦しくても、辛くても、恐ろしくても、目的となる言葉が有れば、生きようとする意欲や勇気は衰えない。生きていて良かったというのは感覚や感情の心のその場限りの働きだ。苦難や困難を乗り越えようとする勇気は、言葉の心の働きだ。今、楽しい、快いからといって、この先の苦難や困難を乗り越えようとする勇気が湧くわけではない。目的となる言葉を持っているかどうかだ。自殺志願者は、言葉の心が、目的となるべき言葉を見失っているのだ。「生きていればきっといつか何か良いことが有るよ」と言うのは、感覚や感情の心を励ますのみで、言葉の心には届かない。香心門はそれを目指そう。

7) 自分は言葉の心の働きだ。言葉の心は願望の未来を作り、現在の現実を克服しようとする。そのためには現在の現実の苦難に耐えようとする。感情の心は、現在の現実で生きていようとする。願望の未来を作ることはできない。言葉の心が弱ければ、現在の現実の苦難から逃げてしまう。それが自殺だ。

8) 小学校の校庭に「希望を輝かせよう、夢を燃え立たせよう」という大きな看板があった。何に向かっての希望や夢なのか。子供は、希望や夢を否応無しに持つように出来ている。肥大して自他を傷つけやすい両刃の刃である希望や夢は怒りと同じだ。知性でどう制御するかが大切なのに、闇雲に掻き立ててどうする。結果は、競争心と闘争心を煽り、自殺やいじめを助長する。先生や両親も持っていない空疎な希望や夢を、壊れやすい子供の心に注ぎ込むのはやめよう。

9) 自殺する心。自殺はどんな心の働きで起きるのだろう。ヒト以外の動物には無いというところから考えれば、ヒト特有の脳の働きによって生じるのだろう。その脳の働きを言葉の心とする。動物としての心を感覚や感情の心とする。動物としての心は、体や、感覚や感情の心の快楽や安楽を求める。困難や苦難を避けようとする。避けられない時は諦め、じっとする。言葉の心は困難や苦難を超えようとする。言葉の心は苦悩を苦痛や我慢して努力しようとする。自殺は、未熟な言葉の心が、動物としての心、つまり感覚や感情の心のように逃避しようとして生じる。言葉の心にしかできない逃避の仕方をしてしまう。言葉である死へ逃避するのだ。その差は、持っている言葉の豊富さと中身だ。安楽と挫折を積み重ねた言葉の心には、安楽と逃避を求める言葉が貯まる。苦難や困難への挑戦と我慢と努力を積み重ねた言葉の心には、挑戦と我慢と努力の言葉が貯まる。その言葉に導かれることになる。

10)         天上天下唯我独尊という言葉が有る。自分は言葉の心の働きだ。言葉で自分を作り、言葉で世界を作り、記憶の過去や願望の未来を作っているという意味だ。ヒトは動物として生まれ、言葉の心を育ててヒトになる。自分を言葉の心の働きだと思えば、そんな自分として自分を完成すべく生きたい。昔、先進国、福祉国家と言われたスウェーデンで、老人の自殺が多いのが不思議だった。現代の日本でも自殺が多いのが問題にされる。その過半数は老人の自殺だ。韓国ではもっと老人の自殺が多い。次の世代に迷惑をかけたくないというのが多い。若く健康な人の自殺と、病人や老人の自殺は別なのだと思う。さらに言えば、病人や老人でも、「生きている」ことを超えて「生きようとしている」人が、生きられるようにするのは大切だ。言葉の心の働きである自分として生きてきて、もう言葉の心が燃え尽きようとする時、そのヒトの言葉の心の働きである自分は、どうすればいいのだろう。老人ホームで手厚い介護を受けながら、時々目覚めながら、消えていく自分と動物になって行く自分をかみしめながら暮らすのだろうか。願望の未来を見失っても、生きていたいのだろうか。

11)         罪と罰について考えた。法律や道徳のような、社会の共有の言葉になっている悪を意識的に犯した場合に生じるのが犯罪だ。自分の外(社会)によって裁かれ、反省を強制する為に課されるのが罰だ。子供や精神障害など言葉が持てないヒトや動物や機械や自然には、罪も罰も生じない。自分の中(良心)によって課される罰もある。自分が言葉で持っている基準で悪とみなされることをすると、感情の心に苦悩が生じる。言葉を持たぬまま、悪を意識せずに犯してしまうことがある。社会の罰を受けないまま、良心の罰も受けないまま、済んでしまうことも多い。しかし言葉の心は育ち続ける。いつか、それは悪だという言葉が生じ、思い出すたびに罰を受けるようになる。良心の呵責、良心のうずきだ。これが高じると、生きようとする力が衰えていく。子供の心のまま、動物の心のままなら、罪も罰も生じない。

12)         今朝はとても寒い。薄着で朝食をとっていると、背中から寒さがしみ込んでくる。上着を着る。暖かかくなってくる。有難いと思う。しかしこの暖かさは、自分の体から生じているのだと気がつく。上着はそれを逃さないだけだ。体が熱を発しているのだ。死者に着物を何枚も着せても決して温まらない。生きようとする力、それが大切なのだ。

H    自分の死についての言葉や物語は、どうすれば持てるの。

1) 先ず疑問文を作る。そして、それに対する回答文を作る。物語はこうしてできる。

2) 四国のお遍路を見た。それぞれの命の目的や意味を保証してくれる何かが、建物や場所にあるかのように、寺や道や道標をグルグル廻って、そこに行ったことを、天国の役場に登記するかのように、書きつけたり朱印を集めている。本当は外には何も無く、自分の力で、自分の脳の中に、寺を建てなければならないのに、外をいくら歩き回っても何も見つからない。休日ともなると、この寺町にも、それらしい人々が、一つでも多くの寺社を参ろうと、足早に駆け抜けていく。きっと、何かご利益のようなものを求めているのだろう。本当は、それは、地上のどこにも、勿論この寺町のどの寺社にも、あるものでなく、いくら駆けずり回っても、足や目で見つけられるものではない。自分の頭の中に、一生かけて作り上げるものなのだろう。

3) 死は、みんなの問題でなく、自分だけの問題だ。だから死の事を考える時、人は孤独になれる。死は、時には、みんなの問題にもなる。だから死の事を考える時、人は仲間になれる。死は、体の問題でなく、脳の中の問題だ。だから死の事を考える時、人は賢くなれる。死は、競争差別の問題でなく平等の問題だ。だから死の事を考える時、人は共生できる。死は、答えが出る問題でなく、永遠に解けない問題だ。だから死の事を考える時、人は謙虚になれる。

4) 汽車に乗って景色を見ている。景色がどんどん走っていくように見える。本当は汽車と共に自分が走っているのに。自分が世界の中心で、動かなくて、世界が自分を中心に存在しているように思う。天動説だ。死を想像する。汽車が突然停車する。心はつんのめる。もう、自分は風景の中心ではないことに気がつき動転する。

5) 死を考えることは、最高の修行だ。死の意味を考えることは、生きていることをどのように理解したらよいか考えるということだ。死を理解して、生きる力に変えよう。

6) 死後の物語を書くには、ノンフィクションなら、死者がよみがえって書かねばならない。だからフィクションである。現世の人間が想像力を働かせて書くしかない。生きている人間を慰める話しが大切だ。人は、自分を包んだまゆの内側に、物語を映して見て生きているのだ。

7) 体が生きたままの死もある。食欲がないのにご馳走がある時。困難に向かって気力や勇気が湧かない時。

8) 残された者という言い方は、死者や死後の世界からこの世を見るような言葉だ。死者も死後の世界も、こちら側の心の世界にある。残った者が、死の意味を考え、生きる意味に思い当たり、より良く生きることを考える機会を提供してくれる、この世の知恵なのだ。

10)         死を恐れない勇気が、生きることを助け、死ぬことから自分を守ってくれる。

(4)                   自分の死はなぜ恐ろしいのだろう。

@    言葉の心を働かせているから、死が見え、言葉にできないから恐れる。

A    ヒトは、生き死には、重大なことだと思っている。でも、そう思っているのはヒトだけだ。動物にはない記憶の過去や、願望の未来を言葉で作る力が、死を見せ、言葉にし切れないから、恐れるのだ。

B    言葉の心を働かせて、「生きている」ことを越えて、「生きようとする」から、死を恐れる。

C    死を思わず、恐れないのは、ヒトとして言葉の心を眠らせて、動物としての感覚や感情の心のまま、現在の現実を生きている状態だ。

D    病床にいる。苦痛や手術を繰り返しながら、何とか生き続けている。かゆを食べる。美味しいと思う。窓の外に虹がかかる。孫が笑顔で見舞いに来る。生きていて良かったと思う。逆に、誰も来ないし何も起きなかったら、悲しく辛いことが起きたらどう思うのだろう。自分が生き続けることの是非と、これから生じるであろう出来事や感情の起伏との関係を考える。生きていて、良かったと思うかもしれないから生き続けるのか、生きていても良いことはなさそうだとか、生きているともっと辛い目にあいそうだから諦めるのか。ご飯が美味しいから、季節の花が楽しみだから、できる限り生きていたいというのは、快楽や安楽を求め続ける動物としての本能に囚われているのだろう。感覚や感情の心にとっては極楽で、言葉の心にとっては地獄だ。

E    生きていることが、一番大切だと思っていると、死ぬことを想像した時に、どうしようもない暗澹たる気持ちになる。一番大切なものが無くなるその先は虚無になる。生きていることを何かの目的の手段だと考えると楽になる。生きていることが一番の目的で、他の目的なぞ無くても良いし、自分は自立した存在で、何かのためにいるのではないと思っている間は、恐れから救われない。

F    死を思い、恐れるのは、ヒトとして言葉の心を働かせて、生死を越えた、記憶の過去や願望の未来を築こうとしている証しだ。

G    ここはどこだ。自分が作り出している言葉の世界だ。考える。言葉が生まれ、自分や世界や時間が生まれる。香をたくと香りが漂うように。

H    危険や飢えや渇き、寒さで、死に追い込まれるような苛酷な環境では、自殺は起きない。生きようとする心、言葉の心に切り換わるからだ。

I    死の恐れは、自分の死なのに他人の死のように、心の消滅なのに体の消滅のように、見えてしまうことから生じる。感覚や感情の心が見ている幻影が、消えるだけなのだ。

J    自分の命があと3日しかないと分かったとしても、きっと、特別にすることは無いだろう。いつもと同じように過ごすのだと思う。子供の頃なら、世界中を飛び回りたい気分になっただろう。

K    自分の死を直接考えても、何も見えない。自分の死を、自分の生き方の一部だとして考えると、具体的に見えてくる。自分の生き方が分からないと、自分の死も分からない。言葉の心は、分からない事物を恐れるように出来ている。

L    動物は迫ってくる敵や災害は恐れるが、未来の死には気がつかない。何故、ヒトだけが、未来の死を恐れるのか。起きていない死は、抽象的な言葉だ。現在の現実としては存在しないものを、言葉で作り見ているのだ。そして容器としての死という言葉だけが在って、中身の言葉が無い。分からないままの虚無を、言葉の心は恐れるのだ。

M    感覚や感情の心には現在の現実しか見えていない。記憶の過去や願望の未来は見えていない。だから、感覚や感情の心に囚われていると、現在の現実が消えてしまう死は、すべての消滅のように思え、恐れるのだ。

N    感覚や感情の心でいると、外に見える外界や人々が、自分を包んでいる唯一の世に思えてしまう。死ぬと、そこから放り出され、捨てられてしまうような気持ちになる。子供が家族から締め出された時のような感情に襲われる。

O    大脳新皮質は本来、よりよく生きるための道具として発達したもので、よりよく死ぬためや、死ぬことの意味を探るためのものではない。しかし、そのようなことを考えたり不安になったりすることは避けられない。そのことも、どこかでよりよく生きるために役立っているのだろう。すべては生きるための工夫で、死んだり、死について考えること自体が目的ではない。抽象化したり、類推したり、論理を組み立てる能力が生み出す幻想だ。

P    死と生は同じこと。生の一部として死への恐れと、生の終わりとしての死がある。死そのものには生の終わり以上の意味は無い。

Q    動物は、現在の現実を受け入れ、願望の未来が無いので、死への恐れはない。ヒトは言葉で願望の未来を作れるので、死を意識できる。未来を思う時、現在の現実に安住できない、願望に発情している、願望のとりこになっている、願望を満たしたいと思っている。だから、死によって未来が無くなると思うと、感情の心が恐怖を感じる。願望と恐れはセットなのだ。

R    宗教であれ何であれ、ともかく「自分の死」のことをはっきりさせておかないと願望を捨てられないまま、生き先も分からないまま「死」に臨むことになり、いざと言う時、自分も家族も、判断不能に陥ることになる。

S    本人に死の告知をするのは0.8%とか。本人よりも周囲の人が恐れている。理想は違う。周囲の人がしっかりしたイメージを持っていないからこうなる。

21    死にかけている鳩を見ていると、その瞬間まで、恐れやひるみや諦めの無い、強いまなざしで見開いている。親を知らず、子も兄弟も知らず、蓄えも記憶もせず、瞬きもせず、生きつづけることに徹している。人はそうはいかない。感覚や感情の心は、外界の現在の現実にドップリ漬かっているので、未来の死は見えず、心構えが無いまま或る日突然、理不尽に死が来るように思える。何かの拍子で死の影が見えた時、絶望と恐怖に囚われる。言葉の心を育てている人は、死を言葉にできているので、心の準備が出来、恐れる事がない。

22    死が恐ろしい、汚い、暗いという感じはどこから湧いてくるのか。脳は、過去の経験では説明できない現象に出会うと、混乱したり、恐怖や怒りの感情が生じるようにできている。恐怖や怒りの感情が、汚い、暗いというイーメジにつながる。死んだら消えてしまう世界に生きていると思い込んでいる。死んだら消えてしまう自分しか持っていないと思い込んでいる。消えてしまうことは、恐ろしいことだと思い込んでいる。つまり、感情の問題だ。自分、家族、知人、見知らぬ人、動植物が死ぬことは、それぞれ違う感情引き起こす。ペットは家族と同じ感情引き起こす。自分の脳の中にどう生きているかで、親しみに差が出るのだろう。自分や他人の死を、平静なやさしい気持ちで、受け入れられるようになるにはどうすればいいか。

23    怖いというのは、危険というより、理解できないときに湧く感情だ。岩登りやスカイダイビングは危険だから楽しい。作り話だとわかっている怪談や、暗闇で揺れる白いもの、動けないお墓や死体の方が、実際に危険なものより怖い。夜中、鏡に映る自分の顔が、見知らぬ他人のように見えたらぞっとする。ライオンだって、自分が木の上だったり、こっちに気がついていないと思えば怖くない。どうやってやっつけてやろうかと思う。見えないから怖い。見えれば獲物だ。得体の知れないものが、自分に何かしようとしているのではないかという感じが怖いのだ。相手の爪や牙でなく、自分で空想した相手の心が、自分の心を怯えさせるのだ。何でも、わかれば怖くなくなる。

(5)                   なぜ、死を恐れる事は良くない事なのだろう。

@.   「死後はどうなるか」の物語は、生きる人を勇気付けて、生きやすくする為の薬だ。抽象的な言葉、作り話だからしないというのは、誤りだ。患者の苦しみには苦痛と苦悩がある。医師が患者に与える薬は苦痛つまり体に効く。心に処方する物語は苦悩つまり心に効く。苦悩を和らげれば、生きようとする気力や勇気につながる。

A.   死を忘れようとしたり、死を恐れないようにしようとしたりしても、心臓を意思で止められないように、ヒトである限り言葉の心の働きも止められないから、結果、死への恐れは避けられず、本来の生き方の邪魔になる。

B. 僕は、自分が体だと勘違いして、矛盾に苦しむ。情動、願望(幸福、不死)、錯覚。聞香死の香り。幸福の香り、願望の香り。幻の香り。

C. 問題は、死ではなく、死への恐れ、つまり「死にたくないという願望」だ。死が問題だと考えると、「死ななくなる」か、「なるべく長生きする」ことしかない。「死ななくなる」は無理だし、「なるべく長生きする」は中途半端な感じだ。何を具体的にどうしてよいかわからない。どうしてよいか分からない心の状態が、「死にたくないという願望」または「死ぬのが怖いという感情」の正体だ。物語が作れれば、どうにかなる。

D. 最後に幸福な状態で死にたいと思う事がある。幸福は、目的に向かって我慢や努力をしている時に湧いてくる心の状態だ。最後の幸福は、それまでの生き方の反映だ。

E. 医師は、死の知識があるのに、死を恐れる。なぜだろう。それは知識が自分の死でなく、他人の死についての知識だからだ。他人の死は体の死。自分の死は心の死。自分は体でなく心なのだ。体が死んでいくプロセスはよくわかるのに、本当の自分である心が死んでいくプロセスがまったくわからない。そのギャップが、普通の人よりたくさん、恐ろしさを感じさせる。未知なものを恐れる本能がそうさせている。

F. 死を思い、死を恐れることこそ、ヒトとして充実して生きるための脳の働きだ。しかし死を思い、死を恐れることは生きるための道具であって、目的ではない。つまり必要以上にこだわっては、やはり生きる妨げになる。言葉にすると恐れや悲しみの興奮から自由になれる。それを学ぶのが香心門の葬道だ。

G. 人は見慣れぬ事物を恐れるようにできている。死は身近な人が死んでいく姿を見たり、介護をしたり、言葉を交わすことで、慣れることで、自分の死への恐れが薄れて、死や死者を、日々の生活と近い次元で、受け入れることができる。核家族で、老いていく祖父母の姿や感慨を聞くこともなく、介護を老人ホームや病院に任せていると、いざ自分の死のことを考えなければならなくなると、頭が真っ白になってしまう。孫への最高の贈り物は、自分の老いを説明して聞かせ、死ぬ実演を見せてやることだ。

H. 死は終りではあるが、敗北、挫折、失敗ではない。それが心にどう映るかは、受け止める心の問題だ。

I. 自分の死について考えるとは、自分の意識が失われた後で、周囲にいる人々の視線で自分を見るような、不自然な思考だ。自分の意識が失われた時点で、世界は消滅している。消滅した自分が、あたかも消滅していないかのように、消滅した世界について、あたかも消滅していないかのように、2重の思い違いの上の錯覚だ。

J. 不死願望が線路で、体が機関車で、心が乗客だとする。線路は、どこかは定かでないが必ず老病死の断崖に落ちている。機関車は線路がある限り先に進みたい。乗客は目的地を持つ乗客は目的駅で降りる。目的地が無く、自分が機関車の一部だと思い込んで、漫然と旅をする乗客は、断崖に落ちることを恐れながら、そのまま乗り続ける。どちらの方がいいのかな。人生に目的が持てないなら、終点までいくだろう。人生に目的を持てるなら、目的の駅で下車する方が良い。体は未練でも心は満足だ。

K. 他人の死をどう受け止めたらいいのか。体はその人、つまり心を生み出す装置で、死んだ体は、壊れた装置の残骸だ。牛や魚や穀物で作った部品の残骸だ。心は脳死の段階で消えている。人が体でなく心、それも言葉の心の働きだとわかれば、相手も、自分も、互いの言葉の心の中の、言葉だったことに気がつく。

L. 死なない自由でなく、死を恐れることからの自由なら、努力して達成できる。不幸にならない自由でなく、不幸を恐れることからの自由なら、努力して達成できる。死なない自由は不可能だし、不幸にならない自由のためには、不幸の元になる危険や不安の種のすべてをやっつけるしかなく、途方にくれてしまうだろう

M. 死があって、死の恐れはその結果だと思っている。でも逆だ。死の恐れがあって、死の幻想が見えているのだ。

N. 死とは、体の状態のことでなく、心の予感のことだ。

O. 恐れは、予測のできない、原因のわからないものに対する脳の痛みのような反応だ。予知できたり、理由がわかれば、注射も怖くなくなる。

P. 細胞の遺伝子には回数券がついていて、再生するたびに減って、最後はアボトーシス。細胞の死だ。器官、個体、心臓、脳の死。

Q. 心臓が一生に打つ心拍数は決まっている。人間の場合は20億〜25億回。部品にはそれぞれ寿命があり、全体としても寿命がある。

(6)                   何故、見えるはずがない自分の死が見えるのだろう。

@    自分は言葉の心の働きで、感覚や感情の心とは別の脳の働きなのだ。そんな自分にとっては、感覚や感情の心、つまり五感で見えなくても、言葉が見えるのだ。だから見えないから、聞こえないから、匂わないから、触れないから、無いと思うのは誤りなのだ。自分の死を言葉にして持っている人には、見えるのだ。宇宙の果てやミクロの世界、学問や哲学にも同じ事が言える。

(7)                   なんで死にたくないのだろう。

@    自分を残したいとはどういう気持ちなのか。残すとは何をどうすることなのか。

A    宇宙にも地球にも終わりがある。永遠不滅はない。自分もそうだ。死にたくないという気持ちが、世界から追放されるという被害妄想が原因なら、そもそも、自分が言葉の心の働きだと分かれば、宇宙も地球も自分も世界も時間も、自分が作り出した言葉だと分かり、自分だけがどうのという妄想も消える。

B    動物は、死という抽象的なことは理解できない。ヒトは言葉として抽象的なことを見ることができるので、未来の自分の死が見える。

C    死ぬことを、敗北とか、失敗、挫折、残念で、悪いことのように思うと、これまでの人類全員だけでなく、地上に現れたすべての生物が、そのような目にあった悲惨な存在だということになる。40億年間繰り返されていることが、マイナスの出来事であるはずが無い。生物の反映がそれを物語っている。ただそれを受け止める、人類全体とか、生物全体と言う視点が持てないからなのだ。箱の中の蟻が、箱の外の全体が理解できないように。成就するもの、羽化するもの、続いたり残ったりするものが何なのか、言葉にできれば、安心する。体や心の死が、何か明るいものに例えられればいいのだ。

D    ピーターパン症候群。歳をとりたくない、若返りたい、今のままでいたい。日々過ごしてきた時間の経過の中で、失ったものしか見えない。本当は、体は心の養分になる球根だが、心が育たず、球根のまま萎びる。

E    ひたすら死を恐れるだけで、生き続けたいと思い、生きている間だけ役立つ生きがいで、死の恐れに立向かおうとする。

F   

(8)                   どうしたら死を恐れないようになれるだろう。

@    死への恐れの感情を言葉にする。死がこの世の一部になる。思考の対象になる。つまり言語化される。自分の心の中の、死者の行き場所、居場所、在り方を明確にする。

A    自分は何で、体の何処にいて、どんなものなのか、何処から来て、何処に行くのか、知ろうとしないままにしておくと、死のブラックホールはだんだん大きくなる。

B    弟が死んで、5カ月。遺族の引っ越しを手伝い、近所のすし屋で昼食をした。寡婦が、「お父さんがここにいたらいいのにね」と言ったら、みなが沈黙した。次女が「みんながしゅんとするようなことを言ってはダメ」とたしなめた。私は、良かったなと思った。悲しみの第一段階では、言葉に出せない。やっとその段階を過ぎたのだ。次はジョークが混じればいい、さらに、織田信長が死んだのは何歳だったっけなど、歴史的な事実のように語れるようになれればいいと思った。

C    自分は、脳の中の仮想の世界で点滅している電気の信号で、そこに映る世界のすべても電気の信号だから、外界のような生生流転はない。

D    死ぬというのが、見知らぬ、訳の分らぬ何処かに行くことだと思うから怖いのだ。ヒトの言葉の心は、未知を恐れるように出来ている。だから昔から、あの世を言葉で物語として築き、見えるようにすることで、恐れから逃れようとしてきた。生き先の名前を知りたいのだ。科学的な思考に慣れた現代人でも恐れは同じだが、科学の知識が邪魔をして、物語の受け入れが難しい。

E    死は喪失の象徴、すべての欲望の否定だ。だから、死に対峙する時は欲望を捨てなければ負ける。もっと生きたい。もっとしたいことがある。金や権力を手放したくない。子や孫が気がかりだ。欲望に囚われるほど、死は辛くなる。

F    悲しみ、苦しみ、不幸、貧乏、悩み、老い、死は治さなければならない、避けなければならない、忌まわしいものではない。

G    自分と体の間に一線を画すことが必要だ。自分は言葉の心の働きで、情報で、体は物で、互いに異次元に属すことを知る。物質である体には死があっても情報である自分には死は無い事を知る。言葉の心の働きである自分が、分身として発信した言葉は、自分を越えた人類共通の言霊になって、人類とともにずっと在り続けてきたし、これからもあり続けるという事を理解する。そもそも自分を構成している言葉は、この言霊が流れ込んで形成されたものだし、自分が生涯をかけて発信した言葉は、言霊になって、時空を越えて、人類全体の言霊として在り続ける。それが言霊の海だ。

H    恐竜は、生きている限り際限なく成長を続け、巨大化した。個体の死は、際限なく肥大していく欲望で、種が自滅しない為の安全装置なのだろう。個人に永遠の命があったら、とっくに人類自身も、地球や生物さえも、消えていただろう。

 

2.答え。

(1) 死は言葉だ。死という言葉におぼれない。

@   心は、言葉に出来ない何かや、中身が分からない言葉を恐れ、圧倒されるようにできている。中身が分からない言葉には、幽霊や怪物や神仏であるかのように思わせる力が在る。

A   死への恐怖やあこがれは、自分の死を充分な言葉にできないことや、中身が理解できないまま立ちはだかる死と言う言葉が、引き起こす。

B   ヒトは言葉に出来ないものに、恐れや憧れを抱く。アフリカから、東へ移動を始めたグループ。最果ての地にたどり着いた我等の祖先は。死を知らない若者だったのだろう。生きるために危険に跳び込む。猟師に追われた鹿が、断崖から谷底にジャンプするように。このジャンプは生きようとする挑戦だ。この鹿はその時、言葉の心になったのだろう。吾等の祖先が、ユーラシア、そして一瞬気候変動でできたベーリング海や日本海の氷の橋を越えてきたことを思う。獲物の群れを追ってきたり、その獲物たちと同じように、敵に追われて逃げてきたりしたのだろう。挑戦する価値と成功の確率は関係がない。樹海を目指す人の心も同じなのだろうか。挑戦ではなく逃避だ。言葉の心が死という言葉に酔わされて、感覚や感情の心に圧倒されてしまったのだろう。

C   寿命というのは不思議な言葉だ。死なのに何故、先人は、お目出度いという字を当てたのだろう。

(2) 死という言葉を恐れない。

@   或る時、有識者たちが相談して、命を脳波だと決めたので、脳波の停止をヒトの死だと決めることができるようになった。脳波の停止が死であると定まり、心がずいぶん楽になった。それ以前の死は、恐ろしいだけの虚無だった。迷信が跋扈する心の無法地帯だったのだ。言葉にすることだけが死の恐れから解放される手段なのだ。

A   死を言葉で、生き方の一部にする。

B   言葉の心を働かせて、死を言葉にする事が大切だ。しかし、自分の死は体験や観察が出来ない抽象的な言葉だ。抽象的な言葉にゴールは無い。どこまでも続く疑問の列だ。言葉の心の働きである自分でいる限り、恐れは消えない。それでは、自分という言葉の心の働きを放棄して動物になるしかないか。勿論、そんなことは本末転倒だ。

C   体も世界も、形が消えるのを見ると未練が湧くが、見ている自分も脳の中で揺れている形の無い電気の信号だと知れば、受け入れられる。自分が形がある体で、外に見えている形の在る世界の住民だと信じるなら、体の形が失われたり、風景の形が変わったり、親しかった人の形がなくなるのは受け入れられない。実際は自分は電気の信号で、見えていた人も風景も自分の脳の中の電気の信号だから、産まれたり、存在したり、消えるのも、脳の中の電気の信号で、見えているほど恐れるべきことではないということが分かる。

D   キリギリスは夏を楽しんだので、冬に不幸になる。蟻は夏に我慢したので、冬を幸福に過ごせるという童話がある。冬を単に季節の変化としている。本当は、冬は死のこと。アリは本当に冬を幸福に迎えたのか。夏に蓄え、冬に消費するのが理にかなっているのか。キリギリスだけでなく、アリにも二度と春は来ないのに。キリギリスは卵になって土中に入るから蓄えを必要としない。アリは成虫で冬を越すから巣穴や蓄えを必要とする。それだけのことだ。自分の死は、言葉だから、言葉の心を持たないアリにもキリギリスにも関係の無い話だ。言葉の心の働きである自分は、体の死への対策として、体とは別の対策をしている。言霊になって、言霊の海で冬を越すのだ。

(3) 死を言葉にして受け入れよう。

@    老人ホームの前のバス停に、老婦人が二人ベンチにすわっている。何を待っているのだろう。インドの、マザーテレサが運営する死を待つ人の家では、みな明るい顔で、お迎えを待っていた事を思い出した。

A    「死」という言葉を手に入れると、生とは別の、独立して存在する何かのように思ってしまう。しかし、具体的に考えれば、死は生の糸の右の末端のことだ。生の一部なのだ。生きている間に生じる何か、なのだ。

B    死は、残された者にとっては、この世の具体的な出来事だ。本人にとっては、というか、その時には本人はいないのだ。

C    生きているというのは、感覚や感情の心に映る具体的な世界に属す出来事だ。他人が死ぬというのも、感覚や感情の心に映る具体的な世界に属す出来事だ。しかし、死について考えるには、このように心の在り方を変える必要がある。この世は感覚や感情の心に映る具体的な世界。あの世は言葉の心が言葉で作る抽象的な世界だ。自分の死と同じ抽象的な世界に入らねば、自分の死を見ることはできない。心の基準を切り変える必要がある。つまり、感覚や感情の心が映す具体的な世界から、言葉の心が言葉で作る抽象的な世界に、心の重心を移す。抽象的な、しかし現代人が信じられる物語が必要だ。お迎え物語や西方浄土のような、しかし、科学的な思考に耐えられる何かだ。

D    生と死という時、違った二つがあると思ってしまう。実際は生の終点が死だ。

E    ヒトは動物としての感覚や感情の心のほかに、言葉の心の働きを持っていて、言葉で作る記憶の過去や願望の未来という抽象的な世界を作っている。あの世も、黄泉の国も、そしておとぎ話も、その抽象的な世界にある。数字の零や、仏教の無と同じように、自分の死を知るにはそういう抽象的な思考が必要なのだ。

 

3.自覚。

(1)                   救い。

@    救いは、言葉だ。だから、言葉の心を持つ者にしか生じない。動物には救いは無い。救われないのではなく、救いそのものが無い。ヒトには言葉の心がある。だから救いが必要だ。救いに見向きもしないで過ごしていても、自分の心はだませていないのだ。

A   極楽は地獄の先にある。地獄を抜けた先が極楽なのだ。今は地獄だと思う人だけが極楽に行ける。今が楽しいばかりの人は極楽に行くことはない。なぜなら、地獄も極楽も言葉で、地獄という言葉がまず出来て、そこからの脱出先として極楽という言葉が生まれるからだ。生きようとする心が苦しんで死という言葉を生みだす。生きようとする生という言葉が出来て、その反対語として死という言葉が生じる。言葉になった死は、生きようとするための道具で、恐ろしくない。ただ生きているだけの感情の心には死は言葉にならず、喪失への恐れという感情として生じる。感情の心にとって死は虚無で、天変地異や幽霊のように恐ろしい。夏、暑くて不快な苦しみから涼しいという言葉が出来る。冬、寒くて不快な苦しみから暖かいという言葉が出来る。苦しみの無い春や秋には言葉は生まれない。

B   先ず安全、次に衣食住、次に興奮、次に願望に挑戦。最後は言霊の海に行く。

C   金と金細工。金の入れ歯が有るとする。持ち主の死とともに不要になる。溶かされて金塊になる。前の持ち主からそのヒトに渡ったように、さらに次の人へと渡り続ける。ヒトも、言葉は金で、その他は細工なのだろう。

D   自分を残したいと思う。自分は、言葉の心の働きという情報だ。体とは別次元の存在だ。体が消えても、発信した言葉は、異次元の言霊の海に在り続ける。つまり、自分を言葉にして発信すればいい。

E   自分を残すという意味で子孫を残すということがある。この体が子孫を残したとしてもそれは二つの意味で、自分ではないのだ。一つは、自分は言葉の心の働き、言霊の集合という情報であって、細胞の集合であるこの体とは異次元に生じている、別のものなのだ。もうひとつは、この体は40億年前に生じたDNAの変化の一つであって、子孫も、同じDNAの変化の一つ、つまり自分とは兄弟であって、子孫ではないのだ。この体は樹齢40億年のDNAの大木の葉の1枚であるのに、あたかも独立した樹のように思えてしまうのだ。言霊である自分についても同じことが言える。自分を構成している言霊は、長い年月を掛けて、先人達が蓄積した言霊の海の一部であって、自分独自のものではない。リレーで例えれば、自分はランナーで、DNAがバトンだ。リレーでも、主人公は個々のランナーでなく、バトンなのと同じことだ。

F   魂が個性的な存在で、個々の体の寿命を超えて代々引き継がれるものなら、人口の増加と魂の恒常性の関係が理解できない。魂が個々の体を超えて、もともと一つならよくわかる。体の魂は、DNAの海だし、言葉の魂は、言霊の海なのだ。そういうことならよくわかる。

G   生物は化石以外に何を残すのだろう。子孫つまりDNAなのか。これは見方による。花は何を残すのか。化石と、種(たね)つまりDNAなのだろうか。実際はDNAの樹があって、DNAの樹が花も、花の化石も、種(たね)も残すのだ。花の立場から見るから訳が分からなくなる。ヒトが残せるのは、何なのだろう。ヒトを、体やDNAだと考えるか、言葉の心の働きである自分だと考えるかだ。つい、体だと考えてしまう。しかし、今これらのことを考えているのは物である体ではない。情報である言葉の心の働き、つまり自分なのだ。ということで、ヒトが残せるものとは、情報である言葉の心の働き、つまり言葉だ。言葉とは記憶の過去や願望の未来のことだ。記憶の過去や願望の未来が同じなら、同じ自分なのだ。記憶の過去や願望の未来を伝えることが自分を残すことになる。

H   救われるということ。イメージはこうだ。自分は生まれおちた時から、生老病死の空間を、落下している。二つのことを考えた。落ちるのを止められないか。落ちていくことを恐れず安心できないか。「落ちるのを止められないか」というのは無理だ。宇宙の法則に逆らう天動説と同じだ。「落ちていくことを恐れず安心できないか」ということに対して2つの道がある。癒しと救いだ。感覚や感情の心の興奮で一時不安を忘れる、紛らわす癒しの道。そして、言葉の心で言葉で舗装した救いの道だ。3匹の子豚に例えれば、藁の家と石の家だ。救いの道について述べる。運動する物体が自身の運動を止めることはできない。自身以外の固定した何かを掴むしかない。それが言葉だ。言葉はどうしたら掴めるのだろう。心の持ち方を、感覚や感情の心から言葉の心に切り替えるだけでよい。

(2)                   結論。葬道は生道。

@   死を思い煩うことそのものが、迷いなのだ。つまり、葬道は、生きている生き方の問題として、自分の感情の心の迷いをどう制御したらよいか考える、より良く生きる為の道なのだ。

A   私達は、自分の生まれてきた時がわからないように、いつ死ぬのかも分からない。天災と同じ。それでも当分生きつづけると思っている。手帳に予定を書きこんで、10年後まで埋め尽くそうとしたり、家族を毎朝送り出すのに何の不安も感じなかったり、当面、死は100%無いと思っている。動物の目は動くものしか反応しないので、近くの叢でじっとしている死に注目しないが、それが少しでも動くと察知してひどく怯える。どんな先でも、死因と死期が示されるとガックリする。大切に生きようと思うきっかけになる。

B   死からの自由。死はただの言葉だ。言葉からどうすれば自由になれるかということだ。本当の自分は言葉の心の働きだ。言葉は自分そのものだ。だから自分からの自由ということになる。自分が自分から自由になるとはどういうことなのか。自分を忘れる。みんなになる。言霊になるということだ。

C    死に限らず、すべての不安や恐怖、苦痛や苦悩は、感覚や感情の心に生じる。感覚や感情の心のままでは、何をしても一時の癒ししか得られない。解消や解決に必要な、知恵や勇気が湧かない。その不安や恐怖、苦痛や苦悩を言葉にすればよい。過去の記憶や未来への願望が湧いてくる。知恵や勇気が湧いてくる。死もその一つだ。それが死からの自由の目的だ。死のみならず、すべての不安や恐怖、苦痛や苦悩から目をそむけるのでなく、意識し、考え、言葉に定義して、感覚や感情の心から解放する。より生き生きと生きるための自由だ。

D    死の定義。欲しいのは、自分という立場を離れ、神のような視点から普遍的な真理を求める自然科学的な体や細胞の死についての定義ではなく、自分にとっての、自分の死の定義だ。つまり、科学的現象としての死でも、一般的な死でも、他人の死でもなく、体や感覚や感情の心にとっての死でもなく、言葉の心の働きである自分にとっての死についての定義だ。結論を言えば、自分は情報なので、体のような死は無いのだ。

E    定義の対象。

1)      自分とは。

2)      自分にとっての他人の死とは。

3)      自分にとっての自分の死とは。

F    感情の心から言葉の心へ転換しよう。

1)      自分の死への恐れ。

2)      愛する他者の死への悲しみ。

3)      自分の死の受容。

4)      自分の死からの逃避。

G    生きようとする気持ちへの転換。

1)      苦痛や苦悩や困難に対して、生きようとする勇気や挑戦や忍耐や知恵の構築。

2)      逃避。

3)      昨日も、母を訪ねて、ホームへ行った。母の部屋で寛ごうと、ベッドに並んで腰を掛けた。4人部屋で、カーテンで仕切られている。右と斜めの部屋のカーテンは開けられている。昼間、住人は、50人くらいが集う大きな部屋に行って留守だ。向かいのカーテンが閉められている。具合が良い時は車いすに座り、皆と一緒の広場で見かけるが、一人では動けず、かろうじて車いすに座れる程度の人だ。うめき声のような独り言が、低く漏れてくる。不満を誰かに向かってぶつけるような感じだ。自分や世界を呪っているような感じだ。死はどのように迎えればいいのだろう。植物や虫や動物たちはどうしているのだろう。医療や介護が不足した先祖たちはどうしていたのだろう。母方の祖父は、私が幼いころ、自宅で皆に囲まれて死んだ。病床に横たわり、具合がいい時は起き上がって、周り将棋などして遊んでくれ、徐々に弱って行く姿は、今でも心に浮かぶ。「どのように死を迎えればいいのか」には、答えは無いのだろう。「どのように死ぬまで生きればいいのか」ということなのだろう。「生きること」だけが、我々に与えられた使命なのだ。しかし、「生きること」には2種有ると思う。「生きている」ことと「生きようとする」ことだ。「生きている」こととは成り行き任せということだ。「生かされている」ことだ。老人ホームの大半の人々はそのように過ごしているように見える。家族もそう願っていることだろう。「生きようとする」ことは、「自分の意思で生きる」ことだ。逆境でも、苦痛でも、運命に逆らってでも生き続けようとすることだ。その原動力は言葉で作る目的だ。その主体は、言葉の心の働きである自分だ。2種の違いは、動物としての感覚や感情の心に従うか、ヒトに特有の言葉の心の働きである自分の声に従うかだ。うめいている声で思ったこと。体の苦しみではなく心、それも言葉の心の苦しみのように思えた。こんなに老いたこと、体が不自由な事、誰も愛してくれないこと、どう生きればよいかわからないことなどか。こうなると、認知症の方が救いだ。ヒトに特有の言葉の心の働きが鈍り、成り行き任せのまま、安楽に生きていられるからだ。老いても、体が不自由でも、成り行きで受け入れられるからだ。動物は自殺しない。言葉の心やその働きである自分を持たないからだ。自殺は言葉の心が起こすものだ。自殺は、言葉の心が感覚や感情の心に負けて、現在の現実に降伏するという生き方を選ぶことだ。そんな自分へのせめてもの怒りと反撃の表明が自殺なのだろう。安楽死について考えた。これは方法のことだ。目的によって評価は変わる。現在の現実に降伏するためなら自殺だ。自分を生かすためなら尊厳死だ。尊厳死とは、自分を生かすための生き方だ。自分は情報であって、体ではない。自分を生かすために、体を切り離すことは、自殺ではない。言葉の心の働きである自分の「生きようとする生き方」の一つだ。

(3)                   死からの自由。死を受け入れて、つまり言葉にして、生きる。

@    戦争で捕虜になって、どこかへ連れて行かれるとする。どこへ連れていかれて、どうなるのかわからなければ、生きた心地がしないだろう。自分の死への恐れが人生の邪魔をする。死んだらどこへ行くのか、どうなるのか分からないと、気になって、不安や恐怖に囚われてしまう。人によっては、無視したり、決めつけたりして、忘れようと、わざと刹那的な快楽におぼれたりする。自分は死んだらここへ行って、こうなるのだという物語を、元気なうちに作っておかねばならない。そうする事が、前向きな人生を、支えてくれる。あの世とは物語なのだ。感覚や感情の心の次元ではなく、言葉の心の次元のものなのだ。外界から感覚や感情の心を刺激して感じさせてくれる具体的な事物ではなく、言葉で作る抽象的な物語なのだ。だから自分で作らねばならない。自分で作って自分がそこへ行く世界だ。今こう思っている自分も言葉の心の働きで、言葉、抽象的な次元に居るのだ。

A    感覚や感情の心が映し出す具体的な現在の現実を唯一の世界だとする風潮が広まり、抽象的な世界がわからなくなって、抽象的な言葉である死を受け入れられなくなっている。

B   新聞のテレビ欄で、ネクスト・ワールドという題が目についた。説明を読むと、ロボットの普及のことだった。ネクストとは誰の視点から見たネクストなのだろう。法人という立場に立てば、法人が存続する限り、昔も今も未来もそのままつながっている一本の帯なのだ。しかし限りある命の個人として見れば、そうはいかない。今のこの世と死後のあの世しかない。死後に、ロボットやコンピュータがどうであろうと、それはその時代の人々のこの世の話なのだ。自分の死後には、この世がこの世としてどうであろうと、どうでもよく、自分のあの世の方が問題なのだ。あの世は、生きている間作り続ける言葉の繭だ。死後にはその中にしか、世界は無いのだ。

(4)                   自分が体や、感覚や感情の心でもなく、言葉の心の働きだということを受け入れよう。感覚や感情の心が映し出す現在の現実に居るのでなく、言葉で作っている、記憶の過去や願望の未来の住人だということに気がつこう。

@    自分は何なのかを知る。つまりヒトなのかサルなのかを知る。ヒトとサルの違いを知る。ヒトとサルの生き方の違いを知る。

1)      この体はどこから来た何なのか。香道具

2)      自分は心だ、言葉の心の働きだ。自分は世界だ、時間だ。香木

3)      目が覚める。一時、脳が活発になっている。眠る前から今までの意識の空白を回復させようとしているのだろう。睡眠中は意識が無い。眠る前の自分と目覚めた自分はつながっていない。夢を見ても思い出せるのは稀だ。睡眠中は周囲のことも自分のこともわからなくなっている。死んだのと同じ状態だ。まさしく死んで、生き返ったのだ。この隙間を埋めるため、あたかも起き続けていたように脳が記憶を捏造しているのだ。

A    年をとるにつれ、自分が夕映えの影法師になっていく感じがする。日が傾くにつれ、影は体を超えて、大きく濃くなっていく。夕映えは、同じ太陽の光だが、昼とは違う絶景を見せてくれる。昔のたそがれ時は、夕餉の支度の買い物や、帰宅する人、遊びから帰る子供達でにぎやかだが、町に明かりが少なく、皆、顔がない。前を行く姿が死んだ肉親にそっくりで、追いかけても少し先の角で消えたりする。犬や猫がすり抜けていく時、人のように笑いかけることもある。逢う魔が時といわれ、天狗や人攫いがいた。月が出て、体が薄くなって影が濃くなる。体は目に見えるこの世、影は脳で考えるあの世の象徴だ。

(5)                   感覚や感情の心は欲望への癒しを求め、言葉の心の働きである自分は、願望への救いを求めている事に気がつこう。

@    欲望は際限なく膨らみながら続くように出来ている。しかし、これはつらいことだ。頂上の無い山を登るようなものだ。死を思う事は、頂上を見極めることだ。

(6)                   死に方というのは無い。生き方しか無い。

@   死に方というのはなく、その日までの生き方しかない。

A    その日までをどう過ごすかに心を込めるしかない

B   他人に迷惑をかけずに、自分も納得できる形で死ぬ、というのもない。他人に迷惑をかけずに、自分も納得できる形でその日まで生きるということしかない。

C   どのように死ぬかでなく、どのように生きるかの問題だ。

D   大往生とは、思い残すことなく死ぬことだと思っている。しかし、その時、好都合に死が訪れるかどうかは別問題だし、次の瞬間、新しい愛憎に囚われるかもしれない。きっとそうなるだろう。感覚や感情の心の安定は永続しないし、外界からの刺激に自動的に反応して興奮してしまうようにできている。言葉の心は過去や未来を思い煩ってしまうようにできている。ヒトが得られる大往生とは、死とは関係の無い一時的な心理状態のことなのだ。思い残すことの無い心境に至った瞬間のことなのだ。感覚や感情の心がある限り、そして言葉の心が働く限り、心残りから自由になることはない。ヒトは大往生できないようにできている。動物なら感覚と感情の心だけで、言葉の心が無いから、現在の現実だけで、記憶の過去も願望の未来も無いから、心の葛藤も無い。いつでも大往生だ。大往生は動物のためにあるので、ヒトがそれを求めるのは、いいとこ取りの虫がいい話だ。

E   死に方について考えた。大切なのは本人の救いなのか、癒しなのか。救いは言葉の心に生じ、癒しは体や、感覚や感情の心に生じる。回復の見込みがなく、苦痛が著しい時、本人の体や、感覚や感情の心は癒しを求めているだろう。苦痛のより少ない道を望んでいるだろう。医師や家族はどうすべきだろうか。本人の言葉の心に耳を澄まし、もしあればそれに従うべきだ。もしなければ、本人の体や、感覚や感情の心が望む癒しに重点を置くべきだろう。苦痛をより小さくする道だ。

F   生まれて間も無い赤ちゃんが、何も見えない目を開いて、空っぽの欲望で口をモグモグさせながら、眠りに入ろうとしている。そんな風に、何が起きつつあるのか、何処にいくのか、何をしたいのか全く忘れて、毎日繰り返してきた眠りに入るように死んでいきたい。つまり最後までそのように生きたい。

G   うれしい終わりと悲しい終わり。なぜ終わり方にこだわるのだろう。観客にとっては、一幕の劇だ。終わりがあって完結するのだろう。しかし、登場人物にとってはどうだろう。うれしい場面も悲しい場面もあって、これが劇の途中なのか最後なのかは、自分の預かり知らない偶然なのだ。という意味で、いつも、劇の途中なのだ。終わり方を知るのは劇作家だけで、観客も俳優も、終わり方などどうでもよいのだ。きっと、終わりたくないのだ。永遠に続いてほしいのだ。どうして終わり方を心配するのだろう。個人の人生という劇では、終わり方は必ず死で、感情の心にとっては、意にそぐわないという意味では、悲劇なのだ。

(7)                   老いからの自由。

@    老いるのは、体や、感覚や感情の心であって、言葉の心の働きである自分ではない。

1) 生き場所も死に場所も見出せない還暦の民。子作り、子育ての喜びはもう無く、労働力でもなく、愛してくれた人もだんだん減った。風呂の水が冷めるように、周りがどんどん寂しくなっていく。愛されて生まれたのに、疎まれて死ぬことになる。どこかへ脱出しなければと思う。そのどこかは、脳の中に在る。

2) 年をとるとこうなる。体験や知識が蓄えられて、喜怒哀楽の感情も成熟し、精神世界を作る材料が豊富になる。

3) 老いを受け入れるための言霊は、その人、その社会の最高の文化だ。

4) ふと、おれももう歳だな、この先、何をどれだけ出来るだろうか、と思った。この先どれだけ生きられるだろうか、ではなかった自分をほめてやりたい。避けられない死を思う自分、つまり言葉の心の働きである本当の自分と、死は感覚では感知できないから実感できない偽の自分がいる。偽の自分の方が身近で、本当の自分の様な気がする。死は抽象的な言葉だ。感覚や感情の心である偽の自分には存在しないのだ。

5) 具体から抽象へ。後天的な障害(老病)で、感覚機能が衰えてくる。生きる重心を抽象的な世界に移さねばならない。活動から思索へ。

6) 老いや病は牢獄の様に思われる。牢獄とは何だろう。物理的な空間や精神的な束縛の事か。方丈記など狭さを楽しんでいるし、さまざまな修行やトレーニングなど不自由を楽しむ事もある。牢獄とは、心の持ち方だ。心が不本意な状態に閉じ込められるということだ。感覚の心にとっての牢獄、感情の心にとっての牢獄、言葉の心にとっての牢獄はそれぞれ異なる。老いや病は体の牢獄だが、必ずしも心の牢獄ではない。その束縛や不自由を受け入れてしまえば牢獄は消える。老いや病、さらには死を牢獄にしない、つまり受け入れるにはどうしたらいいのだろう。感覚や感情の心を抑えて、言葉の心になればいい。そして、老いや病、死を言葉にして、言葉の心で受け入れてしまえばよい。

7) 老いと共に、体の機能や感覚や感情の心が衰えていく。自分と一体だと思っていたすべてが自分から離れていく感じだ。さて残りの人生、どの方向に歩もうか。何かが失われようとする時の心の感じだ。子供がおもちゃを取り上げられた時のように、却って執着が強くなるのも嫌だ。これは自然の摂理だから抵抗しても仕方がない。体や、感覚や感情の心の喜びを捨て、物を捨て、関係を捨て、出来れば言葉の森に隠居するのがいい。

8) 長生きの意味を考えた。生きるとはどういうことなのだろう。生きているのは体か、感覚の心か、感情の心か。自分にとって、本当に生きているのは言葉の心のことだろう。長い短いについても考えた。感覚や感情の心は、永遠に続く現在の現実に居る。これで充分長いということはありえない。満足や納得はありえない。言葉の心にとっては、記憶した言葉の質や量に比例する。その長短は、本人にとってのことだったり、観察者にとってのことだったりする。延命措置だって、家族は本人の為だと思っていても、実際は家族自身の自己満足のためだったりする。

9) 母が入院した。見舞いのついでに実家に寄った。夏の終わり。庭もやつれて見える。長雨が続く。誰もいない部屋にいると、さみしさがこみ上げる。昔居て、今も居るべき旧家族が居ないという感じだ。喪失感だ。しかし、これは家族たちが飛び立った後の巣だと考えてみた。急に納得がいって、さみしさが消えた。

10)              老いは誰にも、避け難く、自然に訪れる季節の変化のようなものだ。と、言葉の心で考えればよいのだが、どうしても感情の心が邪魔をする。

11)              体の老いは、睡眠のように、自然に訪れる。心の老いは脳の中で自分で熟させるしかない。体は老いても心が熟れないと、断末魔を迎えることになる。

12)              消えた欲望の残映を求めて、街をさ迷う老人。残るはずのない、感覚や感情の心の残り火を捜すために。

13)              蟻とキリギリス。キリギリスは夏を楽しんだので、冬に不幸になる。蟻は夏に楽しまなかったので、冬を幸福に過ごせると言う日本人好みの話。冬を単に人生の浮き沈みとしている。本当は冬は死のこと。蟻は本当に冬を幸福に迎えるのか。夏に蓄え、冬に消費するのが理にかなっているのか。キリギリスだけでなく、蟻にも春は二度と来ないのに。蓄えをすれば、その悲しさが少しでも軽くなるという切ない幻想なのだ。死はどちらにも不本意にやってくる。蟻にも、キリギリスにも平等の重さでやって来るのだ。冬の穴倉に何を蓄えても無駄だ。何物も、暗い衰えた心を、慰め温めることは出来ない。その穴倉を暖めるのは、それまでに温めた家族や人の心からの輻射熱だ。温めた人々の思い出の照り返しだ。自分の力では暖められない。

14)              蟻とキリギリスと、どちらの冬が、豊かか。冬を老いとすれば、物を蓄えた蟻と、情報を蓄えたキリギリスとどちらが豊かだろうか。それは、自分を体と考えるか情報と考えるかだ。

A    老いと幸福。

1) 散歩の途中の川の淵に、大きな黒い鯉が、いつも一匹で、ゆらゆらしている。通るたびに、今日もいるかなと覗いてしまう。居れば安心だし、見えないと不安になる。大雨や台風、渇水の後など、特にそうだ。他にもそんな人が多く居て、私だけではないようだ。存在しているだけで、人に安心や喜びを与える。老人の姿にも言える。

2) 老人ホームで、香を焚く前に願いを書いてもらうことにしている。比較的しっかりしている人は、子や孫、ホームの人々、世界の人々など、他者のための願いも混ざる。認知症が進むにつれ、自身の安楽や健康長寿などが増えてくる。感覚や感情の心は、自身を守るための心の働きなのだ。つまり利己的ということだ。老いて言葉の心が弱まり、感覚や感情の心の命ずるまま健康長寿などの利己的な願いが多くなるのだろう。

3) 老人ホームの昼下がり、テレビを囲んで、懐メロや唱歌を繰り返し合唱している。昨日も今日も、毎日同じだ。退廃とは何なのだろう。希望が無いことだ。願望の未来が無いことだ。あるのは感覚や感情の心が映し出す現在の現実という永遠だけだ。動物としての心の状態のことだ。そんなことを思っていると「希望という名のあなたをたずねて 遠い国へとまた汽車にのる」という歌声が聞こえてきた。何だか希望がわいてきた気がした。希望という言葉の力だ。「ウロウロと、心の闇を、登りけり。あてのない、旅にも終りは、やってくる」。

4) 皆、行く先に、ゴールがあると思っている。老人ホームの前のバス停で、待ち続ける人々。死のバスは、いつ、どちらから来て、どこにつれて行くのか、本当は誰も分からない。それぞれ勝手に想像しているだけ。ゴールは建物や場所でなく、脳の中の言葉としてある。独力で建てなければ、何処にも無い。誰かと一緒でもないし、世間で認められたブランドも無い。貰ったり買ったりもできない。ゴールは、探すものでなく、「願望」という言葉で作るものだ。

5) 長寿とは、充分に生きたという満足の気持で迎える死の事だ。感覚や感情の心は、永遠に続く現在の現実の中に居る。死を受け入れることは無い。これで十分はない。長寿は言葉の心にだけ生じる言葉だ。記憶の過去の質と量に満足することで生じる言葉の心の満足のことだ。

6) 思い出すと、興奮が湧いてくる記憶。詳細は消えていても、そのことを思うとそうなるという記憶が重なって、条件反射のように、心が温まる儀式。いくつも悲しい苦しい記憶や現状があっても、たった一つの記憶が、すべてを温めてくれる。いくつもの悲しみも、一つの霧のようで、一瞬の陽光にすべてが消える。

7) 幸福は、体が衰えて快楽を楽しめなくなり、周囲から愛されにくくなり、死への不安が増す、晩年にこそ必要だ。幸福の正体は、目的を持ち、それに向かって挑戦する勇気を奮い立たせ、苦痛や苦悩に耐え、努力する間に生じる心の喜びだ。幸福に挑戦することが幸福の正体だ。

8) 体が不自由になっても願望を灯し続ける。体の活動でなく脳の活動が良い。これこそ人生晩年の目標に相応しい。願望を灯し続ける。これが定まれば、その過程を歩んでいる安らかさが幸福になる。

9) Black is beautiful。黒は美しい色だ。その言葉の由来は知らないが、きっと、黒人よ、誇りを持てということだと思う。白人に対してというより、自分に対して胸を張れということだ。Silver is beauiful。年をとると卑屈になる。それは体の衰えが、肌の色のように、心を暗くするからかもしれない。失うことばかりに意識がいくと、暗くなる。得るといっても、体として得るのではない。心として与えることで得るのだ。

10)         幼い日、目覚めると、カーテンの隙間から光が差して来て、今日への期待で、幸福感がみなぎっていた。期待つまり目的が幸福を生むのだ。歳をとっても、期待つまり目的を持つ力は、幼いころと同じだ。。

B    老いと明らめ。

1) この世の海のあちこちで漂流物や水平線や蜃気楼を目指してさまよった。そろそろ碇を降ろすかな。自分の心に作った港、そこに行くしかない。夏、お盆も終わり、遠くへ帰る子や孫。たくさんの祖父母が、これが永久の別れと思いつつ、ホームやバス停で、黙って見送る。体は、順繰りに新陳代謝をしている。老夫婦も、茶の間で、黙って茶を入れて、それぞれの過去を思うことがある。そのころ陽光は、水底で見上げるように青く揺れる感じがする。

2) 子供には未来がある。未来は願望で、不安や不満とセットだ。還暦で、もう未来がない。願望がない。不安や不満もない。

3) 自分の老いは何故悲しいのか。死ぬことが悲しいのだと思っていたが、そうではないことに気がついたので書いておく。自分の在り方の悲しさに気がつくので悲しみが湧いてくるのだ。生まれたのは自力ではない。体が育つ過程も自力ではない。食べたり下の世話まで受けなければ生きられない。体は自立しても、心は教えという世話を受けたり支えが無ければ自立できなかった。心が自立できても、生計を立て、自分や家族を養うのは、自力では出来なかった。それでもつかの間、他力を否定し、自立している自由と自信を味わうことが出来た。しかし年をとり、体力や健康も衰え、小児の頃のように寝たきりになる自分の姿が想像できるようになると、やっぱり、元々、そのようなか弱い存在だったことに気がつく。築いた自画像が崩れていくのだ。ただ違うのは、世話をしてくれた父母や先生がもういないということだ。手に入れていたものが失われていく喪失感だ。世界からの疎外感だ。友人知人が減っていく。味や色彩や興奮があせていく。

4) 加齢につれて、体の老病は進み、心は怖れる。いつか来るのは漠然とした幸福でなく確実な死なのだから、幸福は未来ではなく今ここになければならない。死なないことを前提とした幸福論は沢山あるが、死ぬことを前提とする幸福論が必要だ。体に安楽死の医療が必要なように、心の安楽死の知恵が必要だ。確信をもって晩年を生きられれば、命の終わりを脳に納得させ、諦めて受容れる、そのまま安楽死の道筋になる。野菊が花をつけ種をつけ、散らし終えて、冬まで少しの水と養分で、晩秋の太陽の暖かさを楽しみながら枯れていくように。

C    老いの和香会。

1) 老人ホームは体や感覚の心のホスピスか。感情の心の幼稚園か。言葉の心の学校か。誰でも、どんな歳でも、何かを学んでいる時が一番幸福なのだ。そんな和香会を開こう。

2) グレープの里という老人ホームを訪問した。少し時間が早かったので、近くの木陰に車を止めて、景色を眺めていた。住宅地の真ん中だが、大きな林と、貸農地に囲まれた閑静な場所だ。早春の日差しと冷風が心地よい。小鳥の声が爽やかに響いてくる。ホームの狭い裏庭が見える。大きな桜の木があって、満開だがすこし盛りを過ぎていて、明日あたりから散り始めそうな風情だ。老人ホームの象徴のように思えた。今日の香題は「ひさかたの、光のどけ木春の日に、静心無く、花の散るらん」だ。

3) ボケ防止の5か条。鼻を利かす。五味を言葉にする。感情を言葉にする。願望を言葉にする。もうひとつはまだ不明だ。

4) 今日、老人ホームに見舞いに行った。良く見かける年配の男性と退出が重なって、同じエレベーターになった。時々帰宅の途中を見かけ、家が近くだと分かっていたので、車で家まで送りましょうと言うと、助かると言って乗った。認知症の奥さんを一日おきに見舞っているのだと言った。私も母をほぼ一日おきに見舞っているのだと言った。私より15歳年上だった。家の近くのパン屋の前で降してほしいと言った。そういえば、先日見かけたときもフランスパンを持っていたなと思い、おいしいのですかというと、この辺では一番だという。私が、フランスパンはバターを塗るだけでおいしいので食べすぎて困るという。あちらの国の年寄りはバケットをコーヒーに浸して食べるのですよ。私も歯が悪いからそうしていますと教えてくれた。歳をとって、だんだん自他の区別が薄くなってくる。あと15年たつと、自分が彼の立場で、別の自分が、こんな風に車に乗せてくれるのかもしれないと思った。さらに先の住宅街で、黄色い帽子と不釣り合いに大きなランドセルの女の子が、小さな交差点をきょろきょろしながら走って渡っていた。昔の自分のようだと思う。もう、男も女も関係なくそう思う自分が面白かった。

5) 俳句。

a       病窓の、雑木の山に、秋日差す。

b       床の母、爪ばかり元気、手を触れる。

c       点滴を、むしる母の腕、青いあざ。

d       実を取って、後は根こそぎ、ナス畑。

e       実を取って、又春を待つ、梨畑。

(8)                   どう生きればいいのだろう。

@   長生きの意味を考えた。「生きる」とはどういうことなのだろう。動物としての体や、感覚や感情の心、ここでは偽の自分と呼ぶ、は、ただひたすらに現在の現実を生きている。言葉の心の働きである本当の自分は、記憶の過去や願望の未来に生きようとしている。長生きとは何がどうなる事なのだろう。動物としての体や、感覚や感情の心のことなのか、ヒトとしての自分のことなのか。動物としての、体や、感覚や感情の心は、永遠に続く現在の現実を生きている。始まりも終わりも、時間も無い。長生きが表す時間は、言葉の心の働きである自分だけにある。自分は現在の現実を生きているのでなく、記憶の過去や願望の未来にいて生きようとしている。だから、本当の長生きとは、記憶になった言葉や、生きようとしている願望の質や量のことだ。体や、感覚や感情の心に映る、ただ生きている現在の現実の長さの事ではない。というか、時間は言葉なので、そもそも体や、感覚や感情の心には、長生きは関係がないのだ。

A   自分を体だと思っている人には、すべてが壊れたように思える。自分を感覚や感情の心だと思っている人には、やはり自分が壊れるように思える。体や、感覚や感情の心は人類という大きな木の誰でもない全体の一部なのだ。体や、感覚や感情の心は、誰でもない人類の一人なのだ。本当の本人は言葉の心なのだ。体の死は、冬の前に養分を球根に戻した葉が落ちるようなものだ。葉が言葉の心で、養分とは発信した言葉、つまり言霊なのだ。これまでも皆にとっての本人は言霊だったし、これからも言霊として相変わらず皆の心の中、つまり人類共通の球根の中にいて、これからも、皆とともに在り続けているのだ。

B   人間には動物としての心、つまり感覚や感情の心と、言葉の心の働きである自分が同居している。ヒトだけに自分がある。自分だけが狭義のヒトだ。現在の現実を乗り越えて、記憶の過去や願望の未来を作ろうとする脳の働きだ。困難に挑戦する勇気と工夫をする脳の働きだ。再挑戦の為に、停止、後退、休憩するのは勇気だが、挑戦を放棄して逃避するのは動物の心への退行だ。死に方や自殺を考えることは動物の心への退行なのだ。動物としての感覚や感情の心には、現在の現実しか見えない。記憶の過去も願望の未来も見えない。現在の現実の変化や困難に遭遇しても、本能の命ずるまま自動的に対応することしか出来ない。人間が、言葉の心を無視して本能に従うことは、動物に戻る、ヒトでなくなる、人でなしになることになる。

C   死とは時間の終わりのことだ。地球や宇宙にとっての時間はどうでもよい。時計の目盛や暦の年数もどうでもよい。そもそも動物としての体や、感覚や感情の心には時間というものは無い。ヒトにとっての本当の時間は記憶や願望という言葉で出来ている。記憶や願望という言葉の流れや堆積の事だ。他者の死をわが身に置き換えて受けとめる。病気で余命を予告される。それは幸運だ。してきたこと、つまり記憶の過去がはっきり見えるようになる。したいこと、つまり願望の未来がはっきり見えるようになる。挑戦できる時間が残されていればさらに幸運だ。せずにはいられないことに挑戦する気持ちの中に幸福の正体がある。自分は必ず死ぬ者だという確信を抱く。ほんの短い時間しかこの世にいないのだと思うと、見知らぬ土地を旅する人のように、世界は鮮やかな色彩を帯びて見えるようになる。いつまでも生きているつもりで、やり残したり、手抜きしたり、挙句の果てに、犬が棒に当たるように死ぬのと、死期を意識して生きるのでは、どちらの方が幸せな人生か。死を意識すると強い気力が湧いてくる。漠然と希薄な感覚や感情の心で生きている50年と、明日の死を控えて、気力を完全燃焼させる1日とどちらが本当の時間なのかだ。

 

4.香葬。

(1)     香葬。

@   来し方から漂う香りに、振り返る人。見送る人。黄泉の香炉。心が体から羽化する。あの世に移住する。

A   葬式の目的。故人の肉体を始末する。

B   遺族が心にその事実を受け入れる機会を作る。

C   葬儀を薫香式、葬儀屋を薫香師とする。古来の作法で行う。死者はもう見ることも、食べることもできないのだが、香りだけはわかるとされている。体は煙や灰となって地球の循環に戻る。心は香りとともに、家族の心の世界に移り、残る。心の移り香、残り香だ。古代からの、心の行方に重点を置いた葬儀を薫香によって執り行おう。

D    香炉は宇宙、灰は虚無。香木は体、炭団は言葉の心、けむりは情動、香りは言葉。人生は薫香、死は薫香の終り。香木は焚き殻やけむりとなって消えて、香りが残る。体は香木で、煙として立ち上り、香りを残して消えるものだ。初香が感覚、煙が感情、本香が言葉だ。煙は見るもの、香りは聞くもの。煙は消えるが香りは残る。残る香りが残り香だ。葬儀は、焚き殻を地に、煙を空に、香りを残された者の心に収める儀式だ。眼に見える焚き殻や煙にとらわれて嘆くのは、香木が焚かれるのを惜しみ嘆くようなことだ。香木は香りとして完成したのだ。残り香をありがたくいただくのだ。残り香とは、故人の香り、つまり言霊のことだ。

E    香道葬。和香会としての葬儀。木の香りは木ではない。花の香りは花ではない。ヒトの香りは心だ。心は体ではない。心は残された者の心に在る言だ。香を通して、言を取り入れるのだ。その点前が香道葬つまり、葬道だ。

F    昨日はひらお苑で和香会をした。95歳の二人を筆頭に高齢の婦人ばかり7名が参加した。お盆の入りの日だったので、おもかげ香の盂蘭盆をやった。焼香をして先祖供養をするという趣向だ。両親はどこの生まれだか聞かないうちに死んでしまい残念だと言う人がいた。本当にお墓参りと同じ功徳が有るのでしょうねと念を押す人もいた。みんな真剣に手を合わせている。炭団に直接香木を載せる。しばらくすると一筋の白い煙がまっすぐ上にのぼる。そこで手を合わせ拝む。煙が消えるまで手で扇いで、体や髪に香りをつける。「さあ、ご先祖様とつながりましたよ」。「まだ伝えたいことがあるようですよ」。などと軽口を言ってしまった。

G    どんなに有能な人でも、自分の葬儀を取り仕切ることはできないし、棺のふたを閉じることもできない。親の死に動転した子には大変な難事業だ。しかし、事前に考え準備しておくことはできる。いざという時、医師や葬儀社に連絡してくれる隣人の確保、それがすべてだ。日ごろの行いや人生の集大成だ。今からでも遅くない。お金に頼らず、自分の心で、それを実現してみよう。そんな人を一人作っておこう。そんな人が一人いたら、死出の旅路は安心だ。形だけ豪華な葬式など浪費はやめて、必要で十分な葬儀になる。

(2)     自分が出来る自分の後始末。

@   終活としての香心門。終活とは、自分の終わりの準備を自分ですること。心構えと後始末。本当の終活とは、死ぬ前にこれだけはしたい、生きている間にこれだけはしたい、つまり言葉で作った目標を達成したいということだ。ごく当たり前の願望だが、若者の願望と違うのは、死が避けられない、身近にあるという意識の有無だ。求めるのは、消滅すべき体や感覚や感情の心の癒しではなく、永遠につながる救いを求めているのだ。救いを求めている主人公は、言葉の心の働きである自分だから、そんな自分の救いは言葉でしか得られない。自分を言葉にしておきたいということだ。言葉になった自分は情報で、体とは別次元の、永遠の次元の存在になる。書き記したりしなくても、思うだけで、自分は永遠の次元に属することになる。動物としての感覚や感情で得たものを、本当の自分のものにすることだ。香りを言葉にする訓練を通して、自分を言葉にする力を養うのだ。

A   自分という心の後始末と、自分の体の後始末は違う。自分の後始末と、自分の感情の心の後始末は違う。自分の後始末と、自分の人間関係や物の後始末は違う。問題は言葉の心の働きである本当の自分の始末つまり救いだ。それは、日々日常の生き方の問題だ。言葉の心を育てて、言霊を発信して、言霊の海に自分を移住させておくことだ。

B    自分の生きた痕跡の後始末。散らかしたおもちゃ箱の後片付けのことだ。自分だけですべきことだが、どうしても自分で出来ない部分が残ってしまう。それについては、残った者に混乱が無いよう、明確に指示しておかねばならない。いざと言う時、判断不能に陥ることになる。

C    生き残った者が、死の意味を考え、生きる意味に思い当たり、より良く生きることを考える機会を提供する。子や孫に、恐れ過ぎたり、悲しみ過ぎたりしないように、死について、言霊を残しておきたいと思う。

D    今、生きている状態の自分はもういなくなる。今考えて、こうありたいという願望も消滅している。自分のすべての願望は消滅していることを肝に銘じる。

E    眠っている間に、何が起きようと、目覚めた後で知るだけだが、この場合は、目覚めはこないのだ。

(3)     葬儀。

@    考える。

1)           葬とは、故人を、それまでの感覚の心の対象から、感情の心の迷いを通り抜けて、言葉の心の対象に、切り替える事。

2)           死と死体や墓や葬儀は別だ。死は心のこと、情報世界の出来事。死体や墓や葬儀は体のこと。物の世界の出来事だ。

3)           葬の意味。葬をどうすればよいか、自分で、判断できるようになるために。

4)           葬と死は別物。死は本人の気持ちのこと。葬は体と愛していた皆の心の、片付けのこと。

5)           死後のことが気になる原因のひとつには、他人の目を自分の目だと思い込んでいることにある。人は、自分を他人の目で見る動物だから仕方が無いが、死だけでなく、さまざまな個人的な課題に向き合うことが難しくなる。

6)           死を理解できないで、恐れる人は、葬儀で何かを償おうとするが無意味だ。

7)           思索を深めていくと、自分は体でなく、こういう風に考えている者で、次第に考えそのものが自分になってくる感じがする。考えを言葉にして深めたり、書き留めたりすると、そこに自分の命が固まったように思えて、心が安らかになっていく。一生は、生きていることにつき物の不安や苦痛を乗り越え、安らぎを求め続けるものだ。死はその意味で元に戻ることだ。あれほど願った平安になることだ。

8)           京の辻で思ったこと。今ここを、たくさんの人が歩いているのが見える。しかし、かつてここを通った、今は死者になっているもっと多くの人々がいたのだとも思う。いや、いたのではなく今もいるのだとも思う。死者とは言葉で作った、体が死んだヒトのことだ。体が有ろうが無かろうがヒトはヒトなのだ。感覚の心には、現在の現実しか見えないから、どうしても死者は片隅に埋めてしまうか、忘れてしまう。墓石や写真、形見の品、そうでなければ亡霊などにすがりつく。生者も死者も体の有無の区別だけのことだ。それぞれが発した言葉は、もともと個別の命を超えて在り続ける言霊の海から来たもので、体が消えた後も言霊の海の一部として有り続け、また別の体に流れ込んでいる。DNAが40億年間あり続け、体のサイクルを超えて在り続けているように。

9)           子や孫が地球の裏側へ引っ越す。高齢な祖父母は、生きているうちに再び会うことは無いだろうと覚悟する。遠くに行ったり会えなくなっても、同じ地上で、似たような生活をするのだろうとわかっていれば、寂しく悲しくはあるが、恐ろしくはない。子や孫が死んだとする。死ぬとは、想像できない、言葉にできない未知の状態になることで、恐れを生じる。残された者に必要なのは、悲しみや寂しさという感覚や感情を癒すことでなく、未知への恐れや不安を消すこと、つまり死者の体が発していた感覚や感情の信号を言葉へ作り変えることなのだ。

A    すべきこと。

1)           葬儀は、死者がしたいように、喜ぶようにすることだと思いがちだが、死者の思いは、もうどこにもない。死者の体だけが残っている。淡々と事務的に体の片づけをするのが良い。

2)           本人は死に臨んで何を思うか。すべての心は消えている。こうして欲しいだろうとは、残された者の感情で、死者は、そんな感情を超越した世界にいる。自分の感情になぞらえて、つまらない計らいをするのは、死者への冒涜だ。感情を超越したという点で、仏や神に成っているのだから、世俗の人間の計らいは不要だ。残された体を、死者の尊厳を傷つけぬように、人目に触れさせず、速やかに片付けるのが良い。

3)           葬式の目的。故人の肉体を始末する。遺族が心にその事実を受け入れる機会を作る。

4)           火葬の意味。子供の頃、祖父の火葬に立ち会って、残酷で嫌な気がした。何でこんな野蛮な事をするのだろうと思った。その後たくさんの葬儀に出た。挨拶で、くどくどお悔やみを言う人も嫌だったが、寿命だとあっさりいう人など、ずいぶんドライだなと思いながら聞いていた。今は、火葬も寿命も、未練を断ち切るための昔からの知恵だったのだなと思う。未練を断ち切るとは、感覚や感情の心から言葉の心に切り替えることだ。その人の体や、感覚や感情の心に囚われていた心の在り方を、その人が本当は自分の中の言葉だったと気づいて、体の死によっても、何も変わっていないのだと気がつくためだ。人の繭は、炎の繭だ。蝶が重い体液を羽に変えるように、この世で身につけた有機物を洗い流して、飛び立つのだ。

B    してもしなくてもいい事。

1)           NHKの番組で。お葬式は亡くなった人のためでなく、残された人の為というのが、大方の意見だった。本人がそこにいると仮定して、その喜ぶことをしようというのも、残された者の心の満足のための儀式だ。子は親の多面的な姿や、交友関係を知らない。良い機会を提供する。友人は呼ばれ、別の友人と会えることを喜ぶ。個人に感謝する。正岡子規の葬儀は全国の同人から、1000の俳句が送られ、灯明のように、朗読が延々と続いた。以上、一見良い意見のように思われる。しかし、葬儀をお祭りか催事、さらにその後片付けのように思っている感じがする。これでは定年退職者の送別会、ただの癒しだ。こんなことをして、本当のところ、誰がどんなふうに救われるのだろうかと思う。幸い、こんな葬式観はその後すたれてきている。

2)           納棺と出棺の間に、お別れの儀がある。旅立ちの装束を入れる。時代錯誤で、誰も信じてはいないけれど、何かをしなくてはという、切ない気持で、する。さすがに置くだけだ。白い三角の鉢巻とわらの編笠を枕元に置き、白い襦袢を胸元から足元に広げ、その上に、白い帯、紙のお金を入れた肩掛け紐のついた白い布の札入れを載せ、白い布の手甲を両手付近に、白い布の脚絆も両脛付近に載せ、わらじを足元に置く。白木の杖を手元に置く。これ、嫌だけれど、よっぽどしっかり生前予約しないと、確実にされてしまう。この場面では、誰にも止められない。

3)           戒名は納骨のために、信者(檀家)が教団(旦那寺)へ支払う、遺骨保管料を美化したもので、A寺で戒名をつけた遺骨を、B寺に持ち込んでも拒否される。JRの切符で、私鉄に乗れないのと同じ。寺の収入のためで、本人の供養とは方便。檀家信者でもないのに、墓石のアクセサリーとして刻めば、近未来、馬鹿者の刻印になる。

4)           この世とは、感覚の心が映し出しているもの。自分が消えれば一緒に消えるもの。葬儀の時点で本人はいない、つまり葬儀はこの世のものではないことを行うから、この世のものは役に立たない。そこでこの世のものにこだわって、あたかもこの世の虚栄心で華美にするのは、死者を冒涜することだ。

5)           体が死んで24時間は、何かがあると困るので、法律上、荼毘を待たなければならない事になっている。その間、手持ち無沙汰なので、お葬式をしながら待っているのさ。誰のためか。死者の慰めのためにするという建前で、実は遺族の慰めのため。何のためか。死者をあの世へ送るためという建前で、実は遺族の慰めのため。実際にはどこにも無い死者の心をどう仮定するか。死者はこう考えているだろうと仮定して、遺族の心を納得させるため。儀式は虚構だ。一編のドラマだ。基本に、どのような気持ちを想定するのか。この世とは脳波の停止で切れている。生きていたこちらでなく、死者が向かっている方向を想定する。今すでにあの世に移っている。この世の価値観で騒ぎ立てるのは、よろしくないと想定する。お経は、どのように煩悩を越えて生きるかを説くものだから、死者には不要だと想定する。すでに行ってしまった者を呼び戻したり、振り返させることはよくないと想定する。遺族を励ますことも、人知を超えた、身の程知らずの、僭越なことだと想定する。ただ静かに、目立たぬように、体の始末をするのがよいと想定する。無から生じて、一時この世で夢を見て、また覚めて無に戻る。胡蝶の夢の世界だ。その目覚めを邪魔してはいけないと想定する。人間同士は、お互いの夢の中で出会う。死は死んだ者の夢の終点ではあるが、一方が夢を見る限り、死者はあり続けているのだから、わざわざ肉体の死を手紙で知らせることはないと想定する。

6)           祭壇を設けるな。

7)           家族だけで、幼い者が楽しめる会食をしてくれ。

8)           遺骨は燃え滓だ。残った者の自由にしてくれ。

9)           棺は、心の無い体の運搬用の、ただの木箱だ。

10)      金は欲望の結晶。死者が葬儀で消費するより、生きていく者が、そのために使うのが良い。

11)      地域社会を巻き込んだ冠婚葬祭は、農耕社会の集落共同体に生きる人々の、交際費だった。保険料だった。共同体のない都会では、企業が村落共同体の代わりを務めた時期もあったが、終身雇用の終焉とともに、それも廃れた。知識人や文化人は、家族だけで行う。相変わらず公開の豪華な冠婚葬祭をしているのは、企業や、芸能人、政治家など共同体で生きている少数だ。あとは、葬儀屋にそそのかされて、勘違いをしている人たちだ。読経、戒名、墓、法事などの葬式仏教も、江戸時代に始まる宗門人別帳など、非宗教的な民衆支配の手段の名残に過ぎない。

C    心の整理。

1)           葬とは、故人を、それまでの感覚の心の対象から、感情の心の迷いを通り抜けて、言葉の心の対象に、切り替える事。

2)           死者を愛していた皆の、感覚や感情の心に残る死者の体への未練の火を消す。死者を愛していた皆が、死者の本質である言霊を、自分の言葉の心に受け入れる。死者を愛していた皆の感覚や感情の心、言葉の心のために行う、心の儀式が大切だ。しかしこれはその場で急に出来るものでもない。時間を掛けて自然に任せることだ。その場で、あれこれ小細工をして、無我夢中の時に何をしても無駄だ。棺にくぎを打たせたり、茶碗を割ったりの芝居は、体に執着しがちな心の傷を深めるばかりだ。死者を愛していた皆の心の整理の為にするという観点で言えば、葬儀は却って邪魔なのだ。

3)           体の中の心は病院で消えている。心はもうそこにはない。葬式の主眼は、体の始末だ。体との別れは家族だけでいい。大切なのは心のことだ。心の記憶は残された者の心の中に散らばって宿っている。心は、体のようには、消えない。残された者の心に宿り続ける。だから、お別れ会ではなく、思い出し会だ。お盆の法事のように、子孫達が集まると、各自の中の故人の言霊も集まる。その時、皆が話している言葉は、故人たちが話をさせているのだ。故人は勢いを盛り返し、よりしっかりと各自の心に宿りなおし、各自の行く末を見守るのだ。

4)           幼い者達に、人は必ず死ぬものだということを、身をもって教え、より良く生きるための教育をする場だ。祖父を失って半人前に、父を失って一人前になった気がする。

5)           死者の言葉の心と付き合っていたことを思い出し、体は容器に過ぎないと決心して、体や遺骨に未練を起こしたり、儀式にこだわらないようにする。中身を失った体を諦め、互いに言葉の心であったことに気がつき、死後もその言霊と交流が続けられるし、体が無くなって、却って円滑になることに気がつくようにする。

6)           一緒に暮らしていた家族が、急に別々に暮らすことになった時の、喪失感に似ている。いつでも会えると思いながら、何年も会わないこともある。かえって、身近な時は、些細なことで反発しあったり、いさかいをしていたのが、離れたことで、親密な感情が湧くこともある。この世(感覚や感情の心の世界)からあの世(言葉の心の世界)に引っ越した場合、理屈で考えれば、もう実物には会えないのだから、喪失感や悲しみはもっと深いが、基本は同じだ。完全に心の世界での交友になっても、親密さは妨げられない。

7)           体への誤った愛着を断ち切る。当日は体の始末だけでいい。死者は体にはいない、抜け殻だということを肝に銘じる。普段から人間は体より心だと知って生きてこないと、この時とても辛くなる。

8)           葬儀は、具体的な現実ではなく、抽象的な言葉を対象にする。感情の心が紛れ込むと、感情と言葉が入り組んで、訳が分からなくなる。感情の心の興奮は消す必要はない。時と共に鎮まって行けばいいだけだ。

9)           我々は、お互いの脳の中でイメージをつくり、交際している。死んでも、相手の中に生きている。そのイメージを壊さぬように、貶めぬようにしなければならない。

10)      死者の顔は、いつの、どの顔か。死者は、生者の脳の中で、いつも笑っている。

11)      葬儀では、急だった、残念だった、諦めきれないなどと、感情をあおるようなことは言わない方がいい。

12)      お葬式のこと。故人の記憶のジュースを持ち寄って、さらに濃くして持ち帰るためにする。真水の他人はいないほうがいい。

13)      精神上の結びつきだった人は、肉体の生死はとは無関係なので、何もする必要は無い。

14)      司祭や僧侶の助けを借りるな。司祭は家族自身だ。取り乱すな。大切なのは残された幼い者の心だ。

(4)     墓。

@    考える。

1)           骨が無いことが物足りなく思えてしまう。火葬の時間や温度で、残り方はいかようにもなる。欧米では高温で長時間なので、サラサラの砂状になる。日本ではそれより低温なので、骨格が残る。砕いて、形を崩してから遺族に見せる。故人の記憶があった顔の表情も、心があった脳も残らない。心は脳波が消えた時に消えている。だから骨や墓に執着しない。

2)           お墓のことを考えた。何のために作るのか。血筋を信じ、その象徴を石と骨で何かを残そうとする。血筋にこだわるのは虚しい。皆大本の一人から発する大河の一滴だ。一滴というより大河だ。一滴にこだわる心は、他者を敵とみなす心にもなる。一滴にこだわる心が、互いを敵にする。血筋や体や名前は自然に帰して、生まれ出た時と同じように、どこの誰であったということは無しにして、大河に帰るのがいいと思う。

3)           死と死体や墓は分けて考えた方が良い。死は心、情報世界の出来事。死体や墓は体のこと。物の世界の出来事だ。

4)           戸籍法や社会制度が、先祖と子孫の関係を消す方向で完備している。墓にこだわるのは、無駄な抵抗だ。子孫が絶えれば、先祖や墓は無意味になる。社会制度がそのように変化している。

5)           子孫が絶えれば、先祖や墓は無意味になる。社会制度がそのように変化している現在の、祖先や墓の祀り方。特定の個人ではなく、全体の一部として祀る。

6)           霊歌のハモニカが聞こえてくる。頭の中で、去年亡くなった歌手の歌声が聞こえてくる。名前は浮かばない。顔も浮かばない。死ぬ時、本人は何を残したいのだろう。実際には何が残るのだろう。なぜ残したいと思うのだろう。意味はあるのだろうか。残したいという気持ちがあるだけで、実際には残す物や方法は実在しない。幸福と同じだ。生きている間、そう思っているだけでよいのだ。死後、自分の望みがどうなるのかは考えずに、残された者の気持ちだけを考えればいいのだ。

A    本当の墓。

1)           本当の墓は、愛してくれた人々の心の中にある記憶だ。その人々が生き続けて、思い出すことが墓参りだ。

2)           散骨。料理は食べる人のためにある。感覚や感情の心は現実のお骨を必要とする。言葉の心は言葉があれば充分だ。さらに、懐かしむ人がいなければ、無いほうがいい。

3)           本人の本質である言霊は、残された者の心にあって、脳や体は水や炭酸ガス、ミネラルとなって大気圏に拡散し、Caだけが人為的に焼き残される。物はすべて死者の本質ではない。本質は心に在って、こちらの方が大切だ。

4)           納骨堂というのはあるが、本当は納魂堂だ。魂は死者の魂か、遺族の魂か。老人ホームのような納魂ホームの管理人の物語を書こう。

5)           お寺に行った。過去帳を見た。昔、大金持ちは三代で没落、五代で復活、復活は没落よりちょっと難しかった。今、核家族や非婚で、家の盛衰は見えない。墓をはさんで先祖や自分や子孫が繋がっているというのも全くの幻想になっている。

6)           子孫の負担にならないように。心の本当の拠り所になるように。

7)           ファラオたちの誤算。残すべきものは、財宝や肉体の干物でなく、言霊だった。先祖が残した言霊は、今を生きる子孫には、黄金の墓石より心強いだろう。

8)           江戸時代以降、寺の檀徒制度による一族墓がその役目を果たしてきたが、経済的にも戸籍上も支えていた家族制度が消えて、自由の代償に、支えが無くなった。自由ゆえの不安より、安心を望む者にとって、代わるものが見つかっていない状況が続いている。

9)           ビデオや写真は簡単に作れる。何でもかんでもできるだけ残したいと望む。結局、何のためにどの程度残せばよいかわからなくなってやめてしまう。それは、本来、死後に何かを残そうとするのが、無意味だからだ。残したいという気分は、生きている自分に生じている欲望だからだ。映像は不自然で、感覚や感情の心を刺激して心を混乱させるだけだ。文章なら、死と関係なく在り続ける言霊なので、自然だ。書く過程で言霊になる。子の幸福に手を貸したければ、物で残すより、文章で言霊を伝える方がいい。

10)      体や本能は世代を超えて伝わる。体の色や形もDNAの組み合わせで個体毎に異なるが、世代が移る毎にシャッフルされるから均質に保たれている。しかし生きるノウハウは、体とセットでは伝わらない。ノウハウは別に学びとらねばならない。それが言霊の海だ。

11)      戸籍法が変わり、墓は苗字の由来を示すだけで、血縁や共同体の象徴でもなくなり、住居の移動が増え、少子化や核家族化で、世代を超えて伝達することが困難になった。墓もコンパクトで移動や参照が容易な媒体に変わる必要が生じている。墓がただの情報機器だということが分かる。

12)      香りは祖先や神仏との交流手段だということ。祖先や神仏は、一人ひとりの脳の海馬にある記憶だ。嗅覚はその近くにつながっている。香りの情報が海馬を刺激する。香りは記憶の扉を開く鍵なのだ。だから、科学的に言っても、香りはあの世との通信手段だということになる。香りを聞くと、先祖や神や仏が出てくる。話も出来るし、話も聞ける。だから香りは嗅ぐといわずに聞くというのだ。

13)      人の形見には何がいいのだろう。人は情報だから、その人が作った言霊がいい。それは生きているうちに、すでに皆に分与され尽くされている。

14)      遺品や墓に故人を見てしまう。これはどの心の働きなのだろう。故人は、記憶の過去という言葉になっている。遺品や墓は、そんな故人の再生装置なのだ。しかし、心と物の中間、中途半端なのだ。

15)      お盆風景。今日は盆の入り。早朝の街を車で走る。祖父と孫、老母と中年の息子、そんな二人連れが目に付く。あの世は言葉でしか見えない世界だ。お盆はその世界の扉が開く日だ。

16)     

B    偽の墓。

1)           自分を知る人が死に絶えて、記憶も消滅しても、墓標を残したいというのは世迷言だ。言霊は、勝手にこの世を生き延びて、新たな記憶を産み続ける。言霊を墓標とすれば良い。

2)           銀行には持ち主消滅の口座がたくさんある。ミツバチたちが生きた証だ。

(5)     供養。

@    供養つまり慰めるということ。愛する者の死を受け入れる作業。

1)           死んだらどうなるのだろうと考えてしまうことがある。死んだら体は消えて、体が生み出していた信号である自分も消えて、「死んだらどうなるのだろうと考える」主人公も消える。これに間違いは無い。しかし何も無くなるのかと言えばそうではない。死者を愛していた人の心に「死者はどうなったのだろう」という問いが残る。だから「死んだらどうなるのだろう」とは「愛する者に死なれた者は、心の混乱をどう収めればいいのか」、「例えば子供に親の死をどう納得させたらよいのか」という意味になる。つまり「愛する者をどのような言葉にすればいいのか」ということになる。死者に心があるなら、「残された者の心を救って欲しい」と思うだろう。救われるとは言葉で納得すること。死がもたらす混乱から救われるとは、死者を感覚や感情から言葉にすることだ。言葉の心の働きである自分にとって、親も含めて世界のすべては感覚や感情の心への刺激ではなく、言葉なのだ。親が生きていた日々は、感覚や感情の心に流されて、親の存在を言葉にしないまま過ごしていた。親の死に直面して、改めて親を言葉にして自分のものにしようと努める心の働きが生まれる。それが死を悼み、苦しみ、悲しむ気持ちの正体だ。死者を言葉にすれば、自分がいる限り、死者の体の生死に関係なく、ともに居続けていることに気がつく。生きていた時と何も変っていない事に気がつく。地震や津波や海へのうらみも消え、失われたという錯覚や苦しみ、悲しみも薄れ、いつか消える。心はその様に出来ている。死者を言葉にして自分のものにすることが、死者への供養なのだ。

2)           「失う」とは何がどうなることなのだろう。自分の世界があって、そこから自分の何かが奪われる、消えるということか。家族はどんな風に自分のものだったのか、どんな風に奪われ、消えたのか。その前提としている自分のものとは何のどういう状態のことなのか。さらにその前提としている自分とは何なのだろう。さらにその前提としている自分の世界とは何なのだろう。世界を地図や地球や人類国家や宇宙のように、自分とは別に、勝手に存在しているもののように思ってしまう。しかし本当は、世界は自分がいなければ無いし、自分が眠っている時は消えるような頼りないものなのだ。他人に見えている世界と自分の世界は違う。世界は一人に一つずつ別々にある心理現象だ。家族が世界にいるとはどういうことなのだろう。家族の体が世界のどこかにあるということではなく、家族への思いが自分の心にあるということだ。一緒に住んでいれば勿論、離れていても、音信が途絶えていても、死んでいても、よく覚えていなくても、家族への思いがあれば家族は自分の中にいるのだ。死んだ父母や祖父母と、ふとした瞬間や夢の中で、出会い、話し、思ったりすることが生じる。その時、父母や祖父母は、生きているのと何も変りなく、実際にこの世にいるのだ。家族や世界は言葉で作った自分の思いなのだ。生きている間、体から受けていた感覚や感情の心への刺激は、その都度、外から与えられたり奪われたりする不確かなものだった。体と体はいつか必ず離れ離れになる宿命だ。本当の世界や家族は、感覚や感情への刺激ではなく、言葉で作った自分の思いなのだ。思いは言葉になって、言葉である自分の一部になって、自分が居る限り自分から失われない、奪われない。言葉の心の働きである自分にとって、言葉だけが本当に自分のものにできるものなのだ。君は幼くして母親の体がくれていた感覚や感情への刺激を失うことになった。あまりに幼くて、お母さんを感覚や感情から言葉にしきれていなかった君は、きっとお母さんが自分や世界から根こそぎ失われた気分だろう。感覚や感情の心、つまり動物の心では、家族への愛情を維持する為には、家族の体の存在を必要とするので、体から離れればすぐに忘れてしまう。言葉の心の働きである自分は、家族への思いを言葉にして、家族の体の有無に関わらず、家族への思い、つまり本当の家族を持ち続けることができる。幼い君は、言葉の心の働きが未熟で、母親を感覚や感情の心で捉えているので、母親の体の消滅が、母親のすべての消滅のように思えてしまうが、本当の母親は言葉だったことに気がつけば、母親は君の一部となっていて、これまでどおりずっと一緒だということに気がつく。身近にいた時は却って言葉にできにくいが、言葉を生み出す思いの強さは、遠く離れるほど、会いにくいほど、困難なほど大きくなる。今がその時で、言葉の心が強く働く時だ。苦しみや悲しみは感覚や感情の心を言葉の心に切り替えなさいという警報だ。世界は、感覚や感情が映し出す宇宙や地球のような茫漠とした空間ではなく、言葉で作った自分の思いなのだ。体がなくなって、感覚や感情の心が得られる情報が消えて、言葉の心の働きは逆に強くなり、もっと親密な関係を築くことができる。体が生きていようとなかろうと、母親への思いは深まり、これまで以上に会話や心の交流が豊かにできる。それはひとえに、自分も母親も言葉であることに気がつくかどうか、母親を感覚や感情でなく、言葉にできるかどうかにかかっている。

A    誰を慰めるか。

B    どう慰めるか。

1)           死者は、言葉の記憶になっている。情報になっている。

2)           情報は伝えられ、受け入れられることが、その働きで、その働きを満たされることによって、満足する。

3)           死者についての記憶を話題にする事が最高の苦様だ。法事や墓参に限らない。日常、一人であっても、思い出したり対話をしたりするのが良い。