1)過去とは何なのだろう。 a.
過去は自分だ。 ア.小学校の頃、縄文時代の少年が石器を作る物語を読んだ。放課後、裸足で工事現場の土の山から山へ追いかけっこをしている時に、石の破片を見つけた。その少年が作った石器のように思えて、大切に持ち帰った。その石がその後どうなったかは全く記憶に無いが、少年の記憶は一生消えない。 イ.毎朝8時過ぎになると、裏の保育園から子供たちの声が聞こえてくる。泣き声、呼び声、叫び声、遊戯の歌声。全身を振り絞って発する、小鳥のさえずりのようだ。昼の11時頃まで騒いで静かになる。自分もあの頃、あんな声で喜怒哀楽の渦を泳いでいたのだと思う。幼い頃、父母や祖父母から、その数年前に終わったばかりの戦争の話を聞かされても、絵空事のようにしか思えなかった。昔がどういうものか実感できなかった。つい最近までそうだった。自分が実際に過ごした世界や時間が過去に吸い込まれたことを実感するにつけ、昔とは、実際あった人や世界や時間だということが、身にしみて分かるようになった。 ウ.祖先はどういう人だったのか、せめて祖父母くらいまでは知りたいと思う。蚕が繭で身を包むように、自分を生み出した過去を知って安心したいのだ。自分は言葉の心の働きだから、本当の祖先は言葉のDNAのことなのだが、体の祖先に思えてしまう。体だって、本当は体のDNAの遺伝子が作り出しているのだが、体が体を作り出しているように思えてしまう。木を見て森が見えない、体を見て、体のDNAや言葉のDNAが見えないということだ。 エ.小学校の卒業アルバムが出てきた。先生や級友達が、幼い顔で並んでいる。カメラをにらみ付けている自分もいる。いじめたりいじめられたりが思い出される。校長を除けば、先生達は息子や娘のような年頃だ。高尾山や相模湖、パン工場、遠足や運動会の写真もある。何とも物悲しい気分になった。 オ.過去のない男。感覚や感情のまま、動物のように生きてきたので、言葉に出来なかった色々なことを、鶏のようにきれいさっぱり忘れてしまったということ。 カ.体は、傷や痛みや病原菌を消そうとする。消しきれない時は、共生を図る。言葉の心の働きである自分には記憶が根雪のように積み重なっている。記憶は快不快にかかわらず、言葉の心の働きである自分が生きてきた証だ。過去の自分が言葉になってすべて保存されている。昔したことが、今の自分の言葉の体系では悪に分類されることも沢山ある。いくら反省を繰り返しても、悪の記憶は消えない。その苦しみが天罰だ。 b.
過去は言葉だ。 ア.暑い日差しの昼下がりを歩いている祖母と孫らしい二人連れの後姿を見ると、幼い日の記憶が湧いてくる。着物姿の祖母の背中を追っていやいや歩いている自分がいる。喉が渇き、足も疲れ、暑かった。最初の記憶だ。 イ.昔のいやな場面が思い出されてならない。いても立ってもいられなくなる。その場面が現在の現実としてよみがえる。とっくに死んだ人もいて責めてくる。もう終わったことだ。幻だ。しかし現実と幻の区別はつかない。言葉の心はそのようにできている。 ウ.今日は3.11の震災から2度目のお盆だ。多くの人々が、迎え火を焚いて亡くなった家族を偲んでいることだろう。家族とは何だったのだろう。家族は元々物としての存在でなく、自分が生み出していた言葉なのだ。今日こうして、在りし日を偲んでいるのは感覚や感情の心で、言葉の心の働きである自分としては、家族は以前のまま自分の中に生き続けているのだ。 エ.誰でも、子供の頃の記憶は定かではない。いつごろから記憶が残るのか。幼い自分を可愛がってくれた祖父母がくれた言葉は定かではない。消えてしまったようでさびしい。新聞で俵万智という俳人が、自分の子供が小学3年になった話を書いていた。その頃から記憶に残るのだと言っていた。言葉の読み書きを習ってほぼ身につくのがその頃で、記憶の始まりは、脳の発育というより、言葉の心の発育なのだなと思った。 オ.遠く前方に廃墟が見えてくる。周りは砂漠だ。昔、黄金とか権力が溜まっていた場所だ。欲望の砂嵐は、そんなところに惹きつけられて襲ってくる。すべてが持ち去られ、残るのは、奪われた者と奪った者が残した残骸だ。周りの自然は、欲望の対象にならないので、そのままだ。周りの、貧しい人々の暮らしもそのままだ。富や権力に関わった者達の墓だけが白く光っている。道端に人だかりが見える。紙芝居のおじいさんと貧しい身なりの子供達がいる。鼻水と水あめが、顔や手にテカテカしている。ああ、あの時の自分だなと思いながら、その脇を巻いて、車は遠ざかっていく。 カ.過去は、記憶された言葉だ。 キ.感覚や感情の心に映る現在の現実を言葉にする。過去や未来になる。 ク.電子書籍にはスクロールという機能がある。触れると情報がどんどんめくれて、欲しい情報を瞬時に取り出せるのだ。ヒトの脳にも記憶のスクロール機能がついている。目や鼻や耳や肌のスウィッチで触れられると、記憶がスクロールできるのだ。香りでも過去が蘇る。 ケ.記憶の中では、過去の出来事は、ワインやウィスキーが熟成するように、時間の経過とともにまろやかになってくる。言葉は生まれた後も、川を流れる小石のように、洗われ、磨かれて、丸くなっていくのだろう。。 コ.たくさん言葉を作ると、その時間は充実して長かったように思われる。たくさん悩み、苦しみ、考えた人には、たくさんの言葉が生まれる。快適な時間を過ごした人は、言葉を生み出す必要がなく、感覚や感情の心でいた時間が長かったので、言葉が希薄で、蓄積も少ないから、人生を振り返っても、あっという間で、ぼんやりと虚しかった感じになる。竜宮城から戻ったばかりの浦島太郎だ。 c.
過去を作る。記憶を作る。 ア.妻が家族の写真を撮りまくっている。思い出を作るためだろう。思い出は言葉の記憶だ。写真は外部の記録装置だが、自分が記憶したことにはならない。美しい花を見て感動する。写真にとって安心する。しかしそこには感動は写っていない。次にその写真を見ても同じ感動はない。感動は残らないということに気がつかない。ペットや旅行や外食を写真にして、インターネットに載せる人もいる。インターネットは見知らぬ人との感覚や感情のやり取りだから、差異や変化の刺激が必要だ。しかし、ありきたりの写真の刺激による興奮は1回だけで飽きられる。残らない。 イ.母と郊外の団地の商店街へ散歩に行く。「年をとったらこんなところに住みたいね」という。今87歳なのにと思うが余分なことは言わないことにする。母は食事をしながら喜んでいる。孫との違いは、こちらの懐を心配することだ。孫なら無心に喜ぶだろう。途中、墓が見える場所を通る。「墓があるね」という。しばらくして「何をしに来たのか分からない」というので、食事をしに来て、家に帰るところだという。「食事をしたことは覚えていない、墓参りに来たと思った」という。この際、記憶は言葉なので、どうでも良いことなのだと思うことにした。 d.
記憶の過去はあの世だ。 ア.記憶の過去は言葉なので、競争差別は無い。みんなで仲良く共有できる。協力したり、仲間になったり、睦まじくするには、この世界がいい。未来は願望の言葉だ。みなが同じ願望なら、過去と同様に、協力したり、仲間になったりできる。しかし、こちらの方が多いのだが、願望が異なると、感情の心が刺激され競争差別の心が燃え上がる。 イ.卵は母鳥の胎内に戻れない。雛は卵の殻に戻れない。花は蕾に戻れない。蕾は枝に戻れない。過ぎてしまった現在の現実は今の現在の現実に戻れない。 ウ.この文章を書き始めてから、特に書いている最中に、心が痛むようになった。心の傷は、自分が傷ついた記憶というより、他者を傷つけた記憶によって生じる。他者から裏切られた事はほとんど覚えていないが、他者の期待に添えなかったことや、結果として裏切ってしまったことばかりが傷跡になって残っている。生き方を反省するなら、したくても出来ないことより、しない方がよいことをしてしまうことが後々心の傷になる、ということだ。後悔先に立たず。今思えば、一番大切な事は、ヒトに迷惑をかけないこと、他者の心を傷つけないことだと分かる。しかし、その時の自分には、それが他者を傷つけることだと分からない。記憶の過去になって始めて気がつくのだ。手遅れなのだ。 エ.4歳の頃、毎朝、玄関に牛乳か配達された。牛乳とヨーグルトで、白かったり、茶色だったり、ピンクで、私の希望で変えてくれた。父が結核に罹り家にいた頃で、子供への感染を恐れた母は、栄養を考えたのか、白を勧めたが、コーヒーやフルーツをねだった。いつしか弟が育ち、分け合った記憶になる。兄弟が3人になるにつれ、取り合ったり、分け合ったりした。親が子を思う気持ちが、ありがたく思い起こされた。 オ.今日は母と、昼食を宮ケ瀬湖の見晴らし台で食べようと、途中のドライブインで弁当を買った。箸がついていなかった。ふと小学校の国語の教科書で読んだ物語を思い出した。小さな男の子が炭焼きをしているおじいさんと一緒に、秋の数日間、山で暮らす話だ。谷間の日当たりの良い斜面で雑木を切って束ねている。向こうの山の斜面に熊が見えたり、山鳥が鳴いたりする。お昼になって、お弁当を食べようとすると箸がない。おじいさんが木の枝を大きなナタで削って、あっという間に箸を作ってくれる。その箸のおかげで、弁当が本当においしそうに思え、羨ましかったことを思い出した。その頃の給食は、脱脂粉乳とコッペパンとキャラメルのような銀紙に包まれたマーガリン、食後のデザートは糖衣の肝油。それが基本形だったことを思い出した。ナプキン代わりのハンケチを毎日洗って、箸を包んで、持参した。肝心の主菜は思い出せない。 カ.幼い頃育った団地の公園で、日曜日に、父が兄弟3人と並んで自動で撮った写真を見ている。白い塑像の前で。あの頃はとても長い時間の中にいた気がする。ずっと長い時間、子供のままだったようにも思える。しかし思い出そうとしても霧の向こうだ。思い出せる子供時代は、とても短い。子供時代は言葉が少ししか作れなかったということだ。 キ.呆け気味の母と話していて気がつくのは、過去は一つの鍋の中でごった煮になっていて、順不同につまみ出されてくることだ。楽しかった記憶はつい昨日のように話す。過去は脳に順不同で詰め込まれていて、取り出す時に時間の味付けをしているのだろう。済んでしまったことについて順序や時期にこだわる自分の無意味さに、改めて気づかされた。 ク.江ノ島線の沿線に住んでいる。夏休みになると、若者や若い家族が、海水浴の格好で、出勤客とは反対方向に乗ってくる。昔は江ノ島で日焼けをするのが、夏の過ごし方の流行だった。当時の子供達が親になって子供に伝え、孫の代でも続いているのだろう。子供の頃、親に連れられて遊んだ場所に、子供を連れて行くのは、最高の喜びだろう。江ノ島というのは、場所でなく、記憶の過去の再生装置なのだろう。 ケ.脳は、体験したすべての情報を蓄積して、仮想の世界を構築し、自分はその中にいる。その記憶容量は、物質宇宙を凌ぐほどだ。言葉にしたものは自在に思い出して再体験や演習ができるが、大部分は感覚や感情のまま沈んでいる。その一つ一つを掘り出して、言葉に成仏させてやるのは、生きてきた証を作るようで、とても楽しいことだ。 コ.母を助手席に乗せて、郊外の古い団地を通り抜けている時、ふと母が「小さいお前とお父さんと3人で、手をつないで団地に来た時は、みんなうれしくて、3歳だったお前がどんどん手を引っ張っていた」と言った。60年以上前、三歳の頃のある日の話だ。自分が生まれる前や、記憶にできない頃のことを言われると、神様のご託宣を聞いているような、厳粛な気持になる。過去は聖なるものなのだ。その時の子供だった自分は、まさか60年後、老いた母とこんな会話を交わすことは露も知らない。しかし今の自分には60年前の場面が生き生きと思い浮かぶのだ。 サ.行楽地で、観光客のグループが、互いの写真を撮りあっている。楽しそうだ。この生きている瞬間を永遠に残したいという切ない気持ちが伝わってくる。自分は言葉の心の働きだから、思い出は心の中に言葉として残すしかない。写真は視覚への刺激を記録するだけだ。感情も写らない。勿論、言葉の心の働きである自分も写らない。それでも写真にしてしまうと、安心して、言葉にする作業を放棄してしまう。過ぎた現在の現実の断片ばかり集めることになる。自分も人生の大半を、こんな勘違いをしながら生きていたのだと思い、悲しくなった。 シ.早春の庭に、白いバラがポツンと咲いていた。無意識に、蝶を探している自分がいた。幼い頃、蝶採りが好きだった。脳神経のシナプスは数千億、組み合わせを考えれば全宇宙の物質の数より多いという。生まれて以来のすべての出来事が、その一個一個に克明に焼き付けられている。それは死ぬまで消えない。ただ引き出すのが困難なだけだ。体の傷は治るけど、心の傷は治らないというのは、体は細胞で修復可能だが、心は書き込まれた情報が蓄積するばかり、消しゴムは無いということだ。 ス.過去とは、自分が生まれてきたところ。生きてきた道筋、自分の存在を証明する証拠。競争差別や願望や迷いが消えた心安らかになれるところ。もう確定して、動かしがたく、野心も努力も通じない、誰とも争う必要の無いところ。故郷や思い出というという形で感情の心をやさしく包んでくれる。一方で、犯した罪を責め立てる、天罰が湧く井戸でも在る。 セ.65歳の誕生日も過ぎ、手術から3年目、そろそろ心配になってきたので病院で検査をした。特に異常はないとのことだ。これからどうしよう、何が出来るかを考えた。ふと言葉を思いついた。人生とはこれまでのことや、失ったことについてのことではなく、今の自分にこれから出来ることのことなのだ。その人に何が出来るかは、記憶と願望と能力と体力で決まる。願望や能力や体力は工夫や目的の選択のし方でどうとでもなる。記憶はいつも今が過去最大だ。何かに挑戦しようとする今は、自分がこれまでで最強の能力を持っている時なのだ。 ソ.若い頃、未来ばかりが見えていた。過去など眼中になかったというか、過去そのものがなかった。願望優先で、願望が生み出す仕事の前では、現在の現実である家族は、色あせて見えていた。この歳になると、野心とともに未来こそが色あせ、自分に唯一残されたのは記憶の過去だったと気がついた。過去は、唯一変わらない、失われない自分の一部だ。普遍で不動、安らぎに満ちている。過去の自分は、もう済んでしまった事だから、欲望や競争とも無縁だ。後悔や慙愧の念はあるが、迷いや不安は無い。 タ.古書には作者の他に、かつてこの本を読んだ人の気配が残っている感じがする。古い街並にもかつてここに住んでいたり、通り過ぎた人々の気配が残っている感じがする。その気配が言葉になって自分に語りかけてくる。 チ.故郷は場所ではなく、記憶された言葉だ。故郷とは記憶の過去のことだ。だから生まれて育った場所に立っていても、故郷はそこにはなく、言葉の働きである自分の心の中にある。 ツ.実家のある王禅寺のプールに行った。リハビリで流れに逆らって1000m歩くのだ。終わって喫茶コーナーへ向う途中、日曜画家のサークルの展示会をやっていた。王禅寺公園の雑木林の中を抜ける山道の秋の風景画があった。40年前、その場所で、父や兄弟達と、木や草を採って、庭に移植していた日々、縁側で、一服する父のタバコのにおいがした事を思い出した。まもなく分譲地が拡大して、山は削られ、斜面の一区画のみが公園として残ったのだ。南の方面に地平線の彼方まで、山並みは続いていたのに、今は地表を剥いだような住宅地が、青葉台を越えて横浜の方まで連なって霞んでいる。 テ.少年時代の自分の写真を見る。今、この少年は地上のどこにもいず、写真があるだけ。それが自分だという記憶は、自分の中にかろうじて残っているだけ。息子が見てもわからないだろう。そこに広がるのは、自分だけの中にある過去の世界だ。記憶の過去は、チョコレートの詰まった缶のようだ。甘いほろ苦いものばかりが詰まっている。感覚や感情のエネルギーが消えた分、心安らかな世界だ。 ト.小学唱歌は、幼くて言葉を作れなかった自分に、言葉を与えてくれた。当時の感覚や感情を、言葉にして思い出させてくれる。今在ってもやがて消えてしまう予感。昔在ったのに今は無いものへの慕情。今在る世界と消えた世界を思い出がつなぐ。思い出が雪になって降る。思い出が川になって流れる。思い出が木漏れ陽になってちらつく。思い出が霧になって消える。思い出が星になって光る。思えば作詞者は皆、詞を作った時点ですでに年寄りだったのだ。 ナ.日常の生活では、感覚や感情の心のまま、現在の現実のリンゴばかりが見えている。言葉にしなければ消えてしまう。言葉にして心に刻む。記憶になる。目を閉じると脳の中に言葉のリンゴが浮かぶ。リンゴが言葉で再生されたのだ。目を閉じて、目先のことから離れると、言葉の心が甦ってくる。 ニ.時間の道を振り返ると何が見えるのだろう。暑いとか痛いとか快いという感覚は消えている。悲しいとかうれしい、さびしいという感情も跡形も無い。暑かった、うれしかったという言葉だけが見える。風景や鳥の声などは消えて、つけた足跡つまり言葉だけが点々と見える。それも古いとか新しいに関係なく、みんな重なって見える。 ヌ.この冬一番の寒さ。離れた部屋から、風邪を引いた母の咳きが聞こえる。外の町から、犬の声が響いてくる。暖かかった西日が陰っていく。きっと江戸時代や室町時代の祖先たちも、こんな風に、うら寂しい冬の夕暮れを迎えていたのだろうと思うと少し気が晴れる。 ネ.呆けると、古いことは思い出せても、新らたに言葉にして記憶することが難しくなる。本のようだ。書かれている内容はしっかり維持するが、新しい書き込みは出来なくなる。 ノ.過去は、一人ひとりの脳の中の記憶が映し出す、一人ひとりの世界だ。 ハ.丘の上から、丹沢の山並みの上に広がる夕焼けを見た。昔の自分に出会った気がした。中学生の頃、友人と3人、日帰りで、陣場高原に昆虫採集に行き、夕方、バスで八王子の郊外を通り抜ける時、夕焼け小焼けの石碑の前を通り過ぎたことを思い出した。「ここであの歌が生まれたんだ」というようなことを、友達がささやいた。思い出すだけで、良い気持ちになれる、記憶にはそんな力がある。 2)未来とは何なのだろう。 a.
願望を作る。目的を作る。生きようとする力の源泉を掘る。 ア.5歳の頃、母方の祖父が、不遇のうちに死んだ。2月の雪の日だったと思う。祖父の不遇の死が、悔しかった。自分が大人で、お金をもうけていたら、スイカを外国から取り寄せて食べさせたのにと思った。焼け付くような思いだった。 イ.仕事場の窓から、遥か西に丹沢山塊が見える。若い頃は、青く霞む山を見ると「青い山脈」の歌や、何かいいことが、この世のどこかで自分を待っている感じがした。今は、この世のどこかの何かいいことは消えて、心静かに、ただ眺めるばかりだ。 b.
自分は言葉で作る願望の未来にいる。 ア.現在の現実に安住していたヒトの回顧録はつまらない。願望の未来に生きたヒトの回顧録は面白い。ヒトは未来に生きようとしている時に満足を感じるのだ。現在の現実では不満なのだ。感覚や感情の心のままでは、人生はつまらない。言葉の心に従って生きると、人生は面白い。ヒトは言葉の心で生きようとしている時に満足を感じるのだ。感覚や感情の心で生きているだけでは不満なのだ。 イ.言葉の心は、願望の未来に居る。感覚や感情の心は、現在の現実に居る。教育ママは子供の未来を自分の未来にすり替え、子供の未来を横取りして、自分の未来を作ろうとする。子供は言葉の心が未熟だから、未来を乗っ取られてしまい易い。母親から押し付けられる未来は、子供にとっては現在の現実だ。子供の言葉の心は出番を得られない。その子供は、未来のない、現在の現実の中で、受身で癒しを求める、動物の心に閉じ込められてしまう。 ウ.ヒトはしたい事がある時、しなくてはいられない事がある時、つまり言葉の心になって、願望の未来を持っている時、幸せを感じる。したいことが無い時、しなくてはいられない事が無い時、つまり感覚や感情の心になって、現在の現実に生きている時、動物のように安楽だが、言葉の心の働きである自分は退屈だ。 エ.タイムマシンの正体は、言葉のDNAの海のことだ。人類が得た記憶の過去や願望の未来は、言葉になって、すべて保存されている。巨大な事典やインターネットのウィキペデイアのようだ。自分は言葉の心の働きだから、この辞典を開けば、過去にも未来にも行ける。過去は変えられないが未来は変えることができる。何故なら言葉の心の働きである自分にとって、未来とは現実つまり出来事でなく願望だからだ。出来事を座して待つのは現在の現実の延長であって、本当の未来ではない。というか、現在の現実に安住するのは感覚や感情の心で、言葉の心の働きである自分ではないのだ。そもそも未来が見えていないのだ。未来へ行って当たりくじを知って、現在で買うというような空想は、未来より現在を優先しているという点で感覚や感情の心の働きで、本当の未来は見えていないのだ。 c.
願望の未来は一人ひとり別々にある。 ア.未来は、一人ひとりの願望が映し出す、一人ひとりの世界だ。 d.
感覚や感情の心は、動物として、現在の現実に受身の姿勢で生きている心だが、言葉の心の働きである自分は、ヒトとして、現在の現実を乗り越え、願望の未来の実現を目指して、生きようとする心だ。 ア.自分は願望の未来や記憶の過去にいる。感覚や感情の心が映し出す現在の現実にはいない。現在の現実は、感覚や感情の心が映し出す外界で、言葉の心の働きである自分にとっては虚無だ。 イ.感覚や感情の心は現在の現実に生じている。言葉の心の働きである自分は過去や未来に生じている。自分は過去を見ながら、現在の現実を通り抜けて、未来にいる。自分は過去や未来が見えないと不安になる。 ウ.見知らぬ暗い部屋に居る。感覚や感情の心は感じられること以外に何も分からない。言葉の心は、記憶の中から色々な言葉を持ち出して、見える世界を作り出す。それが例えば幽霊だ。これから家族に会うとする。感覚や感情の心は実際に家族の姿は見なければ何も思わない。言葉の心は、あたかも家族が既にここに居るようにうれしく思う。 e.
自分は現在の現実の癒しでなく、願望の未来の救いを求めている。 ア.言葉の在り方から、自分の在り方が見える。言葉には細胞や体や、感覚や感情の心のような、偏狭な自分はない。水のようだ。自他の区別がないので競争や差別もない。君が発信した言葉は、僕が受信した後は僕の言葉になる。僕の言葉も、君が受信した後は君の言葉になる。というより言葉は発信された途端、みんなのものになる。言葉の心は、未知つまり虚無を言葉にすることがうれしい。言葉は発信されることがうれしい。言葉は広がることがうれしい。つまり共有されることがうれしい。合流して一つに溶け合う事がうれしい。言葉は心のDNAなのだ。 イ.自分を他者に伝えるために、感覚や感情を言葉にしたり、言葉を文字にする。自分は言葉の心の働きで、自分を成長させるとは言葉の心を成長させることで、言葉の心を成長させるというのは言葉の受発信能力を高めることだ。言葉を作り発信することが、自分や世界や時間を作ることで、自分はその為に生まれ、そのことを最高の喜びとする者だ。生きる目的は、細胞生物としては子孫を作ること、情報生物としては言葉を受発信して言葉のDNAの海に自分だった言葉を注ぐことだ。 ウ.「自分は言葉の心の働きだ」と唐突に言われても、全く理解できないだろう。こう考えている自分は言葉の心の働きだ。考える素材は言葉だ。できた料理も言葉だ。 エ.征服者が被征服者を皆殺しにして、体のDNAを抹殺したとする。同時に、征服者の言葉が被征服者の言葉に置き換わったとする。どちらが征服したのか分からない。動物を越えたヒトとしての正体は言葉の心の働きだから、征服つまり置き換えとは、体のDNAに生じることでなく、言葉のDNAに生じることだ。体のDNAを引き継ぎながら、言葉のDNAを引き継がない者と、体のDNAは違っても、言葉のDNAを引き継ぐ者と、どちらが本当の子孫なのだろう。 オ.毎日を規則正しく、いつも通りに、心安らかに過ごしていると、心に何も残らないまま時が過ぎてしまい、時が過ぎていくのも分からないくらいだ。悩んだり、苦しんだりが無いから、乗り越えるために知恵を絞ったり新しい言葉を作らないで済むが、虚しくなってくる。自分を体や、感覚や感情の心だと割り切れば、楽で快適だろうが、自分は言葉の心だから、酸素不足の金魚のような気分になる。自分は言葉の心の働きで、体が呼吸をするように、新しい言葉を生み出すことが、自分の基本的な在り方なのだ。心が安らかというのは、何も考えないで済む、何も変化がない、危険がない、不安がない生活のように思うが、実際にそのような境遇になれば、老人はともかく青年は心穏やかでいられなくなる。35億年間、環境変化に対応して生き延びてきた。ヒトは心穏やかに暮らすようには出来ていないのだ。情報生物への進化は、穏やかに暮らせなくなる進化でもあったのだ。人にとっての平安は、安楽の中でなく、苦難との戦いの中に生じるのだ。平安を求めることは不安を引き起こす原因なのだ。 カ.自分は言葉の心の働きだ。だから自分が求めるのは言葉による救いだ。何処へ行こうとしているのか、何について迷っているのかと聞かれても困る。自分は羅針盤で、羅針盤には個別のゴールはセットされていない。ただ正しく北を指していること、つまり感覚や感情の情動を言葉にして、情動を我慢させ、抑制することが使命なのだ。 キ.自分は体とは別の在り方をしている。自分は言葉の心の働きだ。言葉の心には、未知つまり虚無を言葉にしたい、発信したい、受信されたい、記憶されたい、他の言葉と合流したいという性質があるだけだ。 ク.若い頃は、不特定多数の他者の興味を引きたい、愛情や好意を得たいという気持ちが強い。自信の無さの表れだ。自分が自分であるために、たくさんの他者からの評価が欲しいのだ。自分は情報で、情報とはそういうものなのだ。情報は共有されたい、広がりたいのだ。 ケ.言葉の心の働きである自分にとって、他者が自分の話に頷いてくれると、至上の幸福感が湧いてくる。情報生物としての最高の快感だ。言葉の心は、一人一人、島宇宙のように互いに隔絶している分、交信ができた喜びは格別なのだ。 コ.心も体も全部まとめて一つの自分だと思っているが、自分は心、それも言葉の心の働きで、体や、感覚や感情の心とは分けて考えることが必要だ。自分を、体や、感覚や感情の心だと錯覚すれば、言葉の世界は幻に思える。しかし、自分は言葉の心の働きで、言葉の世界にいる。各人が生み出す言葉の世界は独立しているが、発信した言葉は、もう誰のものでもないものとしてみんなの世界の一部になる。手紙を入れたビンを海に流すように、星が光るように、自分の信号を発するのだ。 サ.父の父の姉、私の大叔母の写真が1枚だけある。父は幼くして母を失い、この大叔母に育てられた。会った事はない。父の残したノートに、大叔母が幼い父に言った一言が残されている。「どんなご馳走でも、お腹に入れば同じだよ」という言葉だ。写真よりずっと鮮明に、大叔母の存在が感じられる。顔や体しか写っていない写真、肝心の心が映っていない写真と、一言の言葉。言葉はその人の心の写真だ。言葉にはその人が宿っているのだ。できれば自分も自分を残し伝えたい。そう思ってしまう理由は、自分が言葉の心だからだろう。言葉は情報で、情報は受発信され、記憶されることを望む。他の情報と合流したい。会話をしたい、独り言でもいい、絶海の無人島なら、日記や文字を書いて、残したい。永遠に誰にも読まれなくても、残すこと、つまり発信することで満足なのだ。 シ.自分は言葉の心だが、常にいるのではなく、脳のある部位に電気が流れた瞬間だけ生じている。言葉にするとはニューロンのつながり、記憶にするという事だ。記憶になるというのは、死ぬまでニューロンとして在り続けるということだ。発信され、他者に理解されれば、ウィルスのように広がり続ける事になる。文字になれば、古代蓮の種のように、ずっと在り続けて、いつか誰かの脳の中に生き返ることになる。だから、今、聞くヒトも見る人もいなくても、自分は言葉になるだけで満足だ。 ス.言葉の心の働きである自分が育ってくると、未来が生じ、体がいつか消えてしまうことに気がつく。体は残せない。残せるのは言葉だけだ。言葉のDNAの海に流れ込んでいくのだ。 3)現在の現実に縛られていた視野が、記憶の過去や願望の未来に広がる。世界が静止画から動画になる。 4)現在の現実に流されていた受動的な生き方が、未来を作ろうとする能動的な生き方になる。生きている心から生きようとする心になる。動物の心からヒトの心になる。 a.
生きている心と生きようとする心。 ア.生きているとは、何がどうなっていることなのだろう。無意識に成り行きで「生きていると自覚せぬまま現在の現実に生きている」のと、他者を観察して「あの人は生きているのだな」と思うのと、「自分は今、生きているのだ」と思うのがある。無意識に成り行きで「生きている」時は、心は感覚や感情の心の状態にある。他者を観察して「生きているな」と思う時は、言葉の心で、その人の体について評価している。「自分は今、生きているのだ」と思う時は、言葉の心が、自身の感覚や感情の心に「だからがんばろう」と鼓舞する言葉を発している。「生きているとは、何がどうなっていることなのだろう」とは、「言葉の心の働きである自分にとって、生きているとは何をどうすることなのだろう」ということだ。言葉の心の働きである自分は情報で、体ではないから、生まれたり死んだりするものでなく、「生きたい、どのように生きればいいのだろう」という言葉を生み出して、めげそうになる感覚や感情の心を励ます者なのだ。言葉の心の働きである自分にとって「生きている」事の意味は、「感覚や感情の心を叱咤して、未来に生きさせようとする言葉を生み出すこと」なのだ。 イ.「生きているとは、何がどうなっていることなのだろう」と思っている自分は、言葉の心の働きだから、「言葉の心の働きである自分にとって、生きているとは、何がどうなっていることなのだろう」という意味になる。生きているのは体で、言葉の心の働きである自分は、心が言葉の心になっている間だけ、生じているのだ。感覚や感情の心のままで居る間は生じていないのだ。つまり、自分が生じているのは、ヒトとして生きようとしている間のことで、動物として生きている間は、いないということになる。だから、「言葉の心の働きである自分にとって、生きている」とは、言葉の心を働かせて、言葉で目的をを作ったり、言葉の目的を実現しようとすることだ。 ウ.苦痛や苦悩は、感覚や感情の心に映る現在の現実だ。自分は言葉の心の働きだ。感覚や感情の心に映る現在の現実とは異次元の、記憶の過去や願望の未来にいる。言葉の心の働きである自分から見れば、現在の現実の苦痛や苦悩は異次元のことだ。半歩でも一歩でも離れてみることが出来る。生きていればこそ、痛い、つらい、悲しい、死んだほうがましだと思うこともできると分かる。何とかしようとする気持ちも湧いてくる。事故で全身の感覚を失った人が、リハビリで、指先の痛みが戻った時、その痛みは喜びをもたらすということも分かる。 エ.感覚や感情の心には、現在の現実で安楽に生きていようとする働きがある。言葉の心の働きである自分には、感覚や感情の心の、安楽や苦難からの逃避を求める心を叱咤して、未来へ向かって挑戦する勇気を起こさせようと励ます使命がある。 オ.階下の老人が、外出も出来なくなって、家族に言いつけて今半の牛肉を1週間食べ続け、飽きると大間のマグロを1週間食べ続けていた。味覚の喜びでは本当の喜びつまり救いに至れないことに気付いたろう。自分は味覚の喜びでは救われないことが分かったろう。自分は感覚の心ではないことが分かったろう。逆に、大切な何かのために、味覚の喜びを我慢することこそ救いだったことに気がついただろう。 カ.自分の死について考えると、感覚や感情の心が沈んで、言葉の心が浮き上がってくる。日々を楽しく生きているより、その日までに何かを成し遂げたいと思うようになる。 キ.生きていることと、生きようとすることは違う。生きているとは感覚や感情の心で、現在の現実に居る状態のことだ。生きようとするとは言葉の心で、願望の未来に居る状態のことだ。生きているというのは、感覚や感情の心の働きのことだ。生きようとするというのは、言葉の心の働きのことだ。言葉の心が未来を生み出す。未来は言葉なのだ。感覚や感情の心のまま、自動的に来る明日、みんなで迎える新年は、未来ではない。どこまで行っても現在の現実の延長、つまり永遠なのだ。未来は一人一人の、生きようとする言葉の心の働きのことだ。自分と未来は、同じ、言葉の心の働きのことなのだ。 ク.人は狩人であり、狩られる者でもある。自分を狩人だと思っている時は、恐れ知らず、死を恐れず、ゲームに熱中する。自分を狩られる者だと思った時は、気弱で、臆病で、死を恐れる。戦いは狩人の立場に立った方が勝つようにできている。狩人の心とは言葉の心のこと、狩られる者の心とは感覚や感情の心のことだ。生きている心より、生きようとする心のほうが強いのだ。 ケ.ヒトの戦いの勝負は、現在の現実の戦力でなく、持っている言葉の射程距離で決まる。今日の勝利より明日の勝利を目指す者、10年後の勝利を目指す者、100年後、1000年後の勝利を目指す者が勝つようにできている。言葉には寿命が無いことがわかる。 コ.手術の後は毎朝血圧を記録している。先週寒かった朝、ポンと上昇した。きっと体が冬に向かって身構えをしたのだろう。夜、横になると、交換した人工弁の開閉音が喉の奥から大きく響く。こんなに激しく鼓動をしなければ、命を維持できないのかと思う。何も努力しなくても、当り前に生きているのだと信じていた。生きているのは当り前、という前提でいたことに気付かされた。体が休み無く必死に活動している結果、生きているのだということを、実感させてくれた。「生きている」のは体で、言葉の心の働きである自分は体が「生きている」ことに関しては無関系だ。自分は体が発している信号で、体を未来に「生かさせよう」という意欲の言葉なのだ。 サ.心臓の手術をして、人工弁を移植した。それまでは心臓の鼓動を意識することは無かった。手術後は、金属の弁が回転しているのがよく分かる。言葉の心の働きである自分が、体によって生かされていることがよく分かる。鼓動は、体が自分に今生きているぞと知らせてくれるシグナルだ。 シ.心臓の拍動のように、体は、自分とは無関係に勝手に生きている。感覚や感情の心はそれを代弁している。自分は言葉の心の働きだ。自分には生きている現在の現実はなく、生きようとする言葉でしかない。 ス.偏西風にのって、高空を飛んで、ヒマラヤを越えている孤高の鶴のように、来し方、行く末を考える。月夜、静かな湖面で、1日の旅を思いながら、ウトウトと浮かんでいる疲れた白鳥のように考える。冬とともに来て、春とともに消える、雪のような鳥をやめて、いっそ居付いて、このままアヒルになろうかと思う。孤独や疲れは翌朝には消えている。朝日とともに生きようとする力と勇気が湧いてくる。鶴も白鳥もそのように生きている。 セ.35億年の生命の歴史は、環境変化に適応して、わが身を変える歩みだった。人類になっても、常に環境変化に追われて生きてきた。遺伝子を変化させて体の変化で適応するには百万年単位を要する。言葉での進化は一瞬で足りる。言葉を作り、道具を作り、環境変化に適応するのが人類の特質で、その力の源は脳の使い方にある。ヒトとしての強さ弱さの違いもここにある。脳の働き方を、どうやって鍛えれば良いのか知らせておきたい。感覚や感情の心ではなく、言葉の心のことだ。 ソ.未来とは、現在の現実の、1秒以上先のことではない。未来とは言葉で作った、こうありたいという願望、生きようとする心のことだ。現在の現実と未来は、生じている次元が異なり、つながってはいないのだ。 タ.動物としての心、つまり感覚や感情の心は癒しを求める心だ。脳内麻薬が分泌される限り、その行動をやめられない。癒しを求めて活動するようにできている。これが生きている心だ。ヒトも動物だから癒しを求めて自動的に活動するように作られている。一方で、ヒトの脳は進化して言葉の心を生じ、言葉で生み出した目的の達成つまり救いを目指して活動することができる。目的達成のために、脳内麻薬の力に抵抗して、癒しの誘惑や苦難からの逃避を我慢して活動することができる。目的達成つまり救いを求める。それが言葉の心の働きである自分の在り方、生きようとする心だ。輪廻や地獄、畜生道とは、感覚や感情の心が支配する心の状態のことで、救いは、言葉の心の力が支配する心の状態のことだ。ヒトは動物の心つまり感覚や感情の心で生きている一方で、言葉の心で生きようとしているのだ。 チ.感覚や感情の心は相手の感覚や感情の心と反発しあう。言葉の心は相手の言葉の心と同化する。 ツ.生まれる時に、脳の中に生きようとする心を作る仕掛けを持ってきた。言葉の心だ。 テ.苦痛や不快や不満は生きようとする意欲を生じさせ、安楽や快適は生きようとする意欲を失わせる。生きようとする言葉の心は、苦痛や不快や不満によって進化したのだ。生き延びる力は、苦痛や不快や不満から生じるのだ。生物を退化させ滅亡させるのは、十分すぎる癒やしなのだ。 ト.動物は、感覚や感情の心で現在の現実を受け容れ、生きている。言葉の心の働きである自分は、言葉で未来を作り出している。現在の現実を超えて、生きようとしている。 b.
生きている心。安楽つまり癒しを求める心。苦難から逃避用とする心。 ア.コオロギの鳴き声を聞くと、幼稚園児だった頃を思い出す。虫の声に誘われて、捕まえたい気持ちが抑えられなかった。エンマコオロギはコロコロと鈴を転がすようなすばらしい声だった。庭の暗闇に飛び出して、胸をときめかせながら、声の方向へ忍び寄る。歓喜が湧いてきた。夕食の途中で、ヒグラシの声を聞いて、補虫網を抱えて跳びだした時もあった。人生の絶頂だったなと思う。生きる力がみなぎっていた。 イ.孫とは、生まれたては無欲で、周囲に喜びの光を与え、お地蔵さんの役割をしてくれる。自分も、両親や祖父母を、そのようにして喜ばせたのだろう。 ウ.今は朝8時、未明に名古屋に上陸した台風が刻々と接近している。外を見れば、まばらだが出勤する人が歩いている。背中に風の後押しを受けて、傘もさせずに、駅のほうへ、スキップでもするように、軽い足取りで向かっている。窓を開けると風に千切られた葉っぱがとばされていく。台風は空気のにおいを変える。ああこれだ、千切れた葉っぱの血のにおいだったのだなと思う。血が騒ぐにおいだ。ライオンに追われて逃げ惑う鹿の群れは、興奮して楽しそうだ。イルカに追われるいわしの大群の群舞も楽しそうに見える。食われた仲間の血のにおいも狂わせているのだろう。生きている喜びとは興奮するということで、事の良し悪しとは関係の無い、感情の心の浮き沈みだということがわかる。 エ.2時間後に、今年一番の大型台風が首都圏を直撃するようだ。TVはこの報道一色だ。海辺で風に煽られながら、実況中継する人、インタビューを受ける年寄り、アナウンサー、皆、新年を迎えるときのようにウキウキして楽しそうだ。共通の敵の出現はみんなを結束させ、心を浮き立たせる。オリンピックやサッカー以上だ。きっとこの間は、自殺も減っているだろう。 オ.東の空が明るくなってきた。なんとも言えない喜びの感情が湧いてくる。明かりに引き寄せられる虫たちの気持、母なる川に呼ばれる鮭の気持も、これと全く同じなのだろうと思う。 カ.美味しい物を味わっている間、現在の現実に生きている喜びを感じる。美味しいという気持ちは、何処から生じるのだろう。空腹からだろう。空腹は苦しい。空腹ならたいていの物はとても美味しい。空腹でなければ、何を食べても美味しくない。胃に生じる空腹から脳が地獄を生み出し、舌が生み出す美味から脳が天国を生み出している。空腹が地獄で、美味が天国だとする。天国は地獄から生じることになる。地獄は本当は天国で、天国は本当は地獄だということになる。胃や脳の手術で、空腹を感じなくなったらその状態をなんと呼べばいいのだろう。死しか思い浮かばない。空腹の地獄でも死よりはずっといい。天国も地獄も生きているから生じるのだ。 キ.感覚や感情の心は、DNAに書かれたとおりに、現在の現実を映し出している。 ク.食べているのは誰だろう。自分が食べていると思っている。しかし自分は、口に入れて租借して飲み込んでおしまいだ。胃液で殺菌して、胆汁など苦い消化液を加えて、最終的に食べているのは、小腸のその先の、全身の無数の細胞だ。そこまでの作業も体の各部位が勝手にやっている。自分は口に入れて飲み込むまでを担当しているだけなのだ。 ケ.DNAは手近な物質を集めて、細胞を作り、体を作る。神経や脳も作る。神経や脳の働きで、感覚や感情の心を生じ、現在の現実を映している。言葉の心を生じ、記憶の過去や願望の未来を作って発信している。 コ.言葉の心の働きである自分には、体の老病死や痛痒など、体や感覚の「生きている力」にはどうにも勝てない。感情の「癒しを求める心」にも抵抗は困難だ。言葉の心の働きである自分の「生きようとする力」は未完成のまま生まれてきたからだ。 サ.生きているというのは喜んでいるということだ。快も不快も、喜怒も哀楽も、生きているから生じることのすべてを喜んでいるということだ。生きている喜びの中に、苦痛や不快や怒哀も含まれている。だから、喜んで楽しんでいるように、喜んで怒ったり、喜んで悲しんだりしているのだ。命の信号が消えるまで、喜んで痛がったり、喜んで苦しんだり、喜んで死を恐れたりしているのだ。生きることを苦しんでいるのではなく、生きていればこその苦しみを喜んでいるのだ。死ぬ瞬間まで、感覚の心が苦痛を、感情の心が苦悩を感じても、それは命の中で生じている、生きている喜びの一形態なのだ。 シ.感覚や感情の心が求めているのは、未来に向かって生きようとする救いではなく、現在の現実の、苦痛の回避や安楽、つまり癒しだ。生きている力だ。より良い未来にすべく生きようとすることより、現在の現実を生きていること、苦痛を避け、死なないようにすることだ。生きようとする救いを求めるのでなく、安楽を求め、苦痛を避けようと、現在の現実の中を右往左往するだけだ。現在の現実を優先する心は、雪山で遭難して眠くなったら眠ろうとする心だ。 夕方、商店街に明かりがともる頃、中学生の集団とすれ違う。本当に楽しそうだ。町の明かりも、今夜の食事も、今日も明日も、すべてが輝いて見えているのだろう。進学など、不安や悩みは、大人より大きいはずだろうに。 c.
生きようとする力。怠惰や臆病に打ち勝つということ。勇気。 ア.雪に覆われたり、日差しが変わったり、闇が広がったり、電球が点いただけで、景色の印象が変わる。脳には35億年間磨かれ続けた仕掛けがあって、朝起きたら、ガラっと気分が変わっていて、さあ、はりきって食物を探そうという勇気が湧くようにできている。 イ.イチョウの黄色い葉が吹き飛ばされ舞い落ちていく。一群れの落ち葉が、風に逆らいすごい勢いで渦を巻きながら舞い上がっていく。雀の群れだった。雀は精一杯生きている。 ウ.若い時は、粗末な家具でも豊かな気分になれた。食事や旅行でも同じだ。未来だけで満足だった。現在の現実など、悪魔にくれてやるような気分だった。 エ.感覚や感情の心は苦痛を恐れるように出来ている。感情なのでどうにもできない。注射は大人でも嫌だ。しかし、大人は、健康のためだと、我慢できる。 オ.言葉の心が、苦難に挑戦を開始する。苦難を言葉にする。言葉の心には苦痛や恐怖は無い。苦痛や恐怖に惑わされずに、対策を観察し思考する。「苦痛や死や失敗を恐れない」生きるための勇気をもたらす言葉を作って、めげそうになる感覚や感情の心を叱咤し、苦難に挑戦する勇気を奮い立たせる。願望を言葉で目的に作り、活動を促す。 カ.坂道を、自転車で上る。足の筋肉や心臓が苦痛にあえぐ。足の筋肉や心臓つまり感覚の心にはブレーキはない。壊れる前に自主的に停止することはない。感情の心は、限界はまだ先なのに、苦痛に耐えられずに、または苦痛を避けて、止めさせようとする。言葉の心は、苦痛に耐えて目的地まで頑張ろうとする。言葉の心は、感情の心を叱咤する言葉を、作り続ける。スポーツや武道で得られるのは、この言葉の心の鍛錬だ。癒しに逃げずに、救いを求める言葉の心の鍛錬だ。 キ.今この文を整理している。膨大で、投げ出したくなる。全部で何ページ残っているか確認する。これからどのようにまとめていくか構想を立てる。やる気が涌いてくる。ヒトの強さは筋力や知識ではなく、願望を持つ力と、言葉で目的を作る力ある。 ク.言葉で目的を作り、それを実現すべく努力する。これが生きようとする言葉の心が働いている、自分が救われている状態だ。生きようとする言葉を湧かせることが、言葉の心の働きである自分の使命だ。そしてそれが、自分が救われることだ。感覚や感情の心の安楽つまり癒しは、生きようとする目的ではない。却って生きようとする心を眠らせる。生きている過程で生じる苦難や困難が願望を生み、言葉になって目的が生まれ、自分を救ってくれる。苦難や困難は救いの種だ。ヒトは苦難や困難によって救われるのだ。 ケ.感覚や感情の心つまり動物の心には、困難や苦難は生じない。ただ現在の現実の快不快があるだけ、従順に受け入れるだけだ。言葉の心には必ず苦しみが生じる。燃えれば光だけでなく熱も出るのと同じだ。かえって熱を求めて燃えるようなものだ。困難や苦難は言葉の心の生みの母だ。困難や苦難は、言葉の心の働きである自分を救いに導く目標の星だ。困難や苦難を言葉に出来た時点で、困難や苦難に打ち勝ち、救われているのだ。 コ.生きようとする力はどんな時に萎えるのか。どうすれば奮い立たつのか。生きようとする力は言葉の心の働きである自分から生まれる。自分に自信がもてなくなると言葉が作れなくなり、生きようとする力が萎える。どうなると自信が失われるのか。自分を構成している言葉の体系が壊れた時だ。現実の困難に打ちのめされても、言葉の体系が無傷なら再起できる。どうすれば言葉の体系を復活できるのか。レンガの家はレンガでしか補修できない。言葉の心の働きである自分は言葉でしか補修できない。三匹の子豚の話。わらの家は感覚の心、板の家は感情の心、レンガの家は言葉の心の例えだ。 サ.意に沿うとか沿わないという時の意とは目的の事だ。目的とは言葉の心の働きが作り出す言葉だ。意に沿わぬとは、言葉の心の働きである自分が作り出す目的と合致しないという意味だ。 シ.蜂蜜を食べたい一心でいる熊は、蜂に刺される痛みは、苦にはならない。目的がはっきりしていれば、途中の困難や苦痛は、苦にはならない。 ス.言葉の心は、目的を遂げることが最優先で、途中の苦痛や苦悩、危険を厭わない。現在の現実を犠牲にして未来のために努力する心だ。 セ.願望が生まれ、言葉で目的に作られ、目的に引っ張られて、生きようとする力が湧く。 ソ.体にはあらかじめきっちり寿命の分の砂が入っている。そう思って砂時計を見ると、上の部屋の完璧で完全な状態が、どんどん崩れて消えていく暗い物語が見える。しかし本当の寿命はあらかじめきっちり計量されて決まっているものではない。そう思って砂時計を見ると、上の部屋は空洞で、くびれた辺りで砂が雪のようにふっと現れて、下の部屋に落ちて山になる。一粒が一日。一粒ずつ現れては下の部屋に落ちていく。その粒が感覚や感情のままなら積もらずに消えてしまうが、言葉になると積もっていく。言葉の数だけ、下の部屋に降り積もっていく。1日生きればその分山が高くなるのではなく、言葉になった分だけで、円錐形のピラミッドになる。そんな明るい物語が出来る。体が死ねば砂は現われなくなるが、それまでの言葉は降り積もったまま残る。言葉の心である自分にとっての本当の寿命とは、降り積もった粒の数、言葉なのだ。 タ.生きようとする心とは、現在の現実に生きている心ではなく、現在の現実を脱出して、未来を生み出そうとする心だ。生き難い、辛い、不快な現在の現実の環境が、感覚や感情の心を進化させて生じたのが言葉の心なのだ。長い苦難の歴史が人類の脳をそのように進化させたのだ。だからヒトは苦難にいる時だけヒトになる。安楽にいる時は、ヒト以前の動物なのだ。 チ.生きようとする力とは、したいことがある、したくないがしなければならないことがある、そんな時に生じる言葉の心の働きだ。感覚や感情の心では快適でも、言葉の心である自分は絶望しているということがある。自分は今堕落しているな、このままでいいのだろうかという感じだ。したいが出来ない状態というのは絶望ではない。かえって生きる力が燃え盛って、希望が燃えている状態だ。したいことが無い、したい気持ちが湧かないことが絶望だ。牧場でのんびりと草を食んでいる牛や馬は、現在の現実を超えて何かをしたいという気持ちが無いという意味で、ヒトに置き換えれば絶望しているのだ。ヒトでいる限り、本当の絶望は不可能だ。言葉の心を捨てて、感覚や感情の心に逃げ込もうとしても、言葉の心は、感覚や感情の心の、現在の現実の寝床では安らげない。何とか未来に生きようとしてしまうのだ。 ツ.ヒトは、言葉の心に背中を押されて、生きようとしてしまうようにできている。太陽にとって暗闇が無いように、在るものには無い状態が無いように、言葉の心の働きである自分は、生きようとしてしまうのだ。 テ.電車に乗って目を閉じていたら、隣の席から「好きなことだけしていたい」という会話が聞こえてきた。嫌いなことがあって初めて好きなことが生まれるのだ。暗いところがあって初めて明るいところが出来るのだ。昔コマーシャルで「何かいい事ないかなあ」というのがあった。嫌なこと、辛いこと、苦しいことがあって初めて、いい事が生まれるのだ。辛いこと、難しいこと、苦しいことに挑めば、挑む行為そのものがいい事なのだ。苦難があって初めて生きようとする力が湧いて、結果、君も私も、ここまで数百万年間、人類として生き延びてきたのだ。 ト.言葉の心は日々新たな目的を生み出す心だ。欲しい物やしたい事を自分で生み出す心だ。未来へ生きようとする力を生み出す心だ。感覚や感情の心は、与えられた事物によって生じる心だ。現在の現実を生きている心だ。言葉の心は原子炉で、感覚や感情の心はソーラーパネルだ。 ナ.体の成長ではなく心の成長、それも言葉の心の成長が大人になることだ。大人への道は感覚や感情の心が映し出す現在の現実への疑問と否定から始まる。言葉の心には、世界や自分を抽象化して客観化する能力がある。自分の現在の現実を批判的に観察したり、行動を変化させようとする力がある。 ニ.中学生の頃、夏山で遭難しかかった。死んだら両親を悲しませるだろうなという言葉が湧いて、激しい後悔の感情を引き起こした。死ぬよりそちらの方が何万倍も嫌だった。 ヌ.生きようとする力つまり救いを生み出すのが言葉の心の働きである自分の使命だから、生きようとする力つまり救いを得るには、言葉の心の働きである自分を育てればよい。言葉の体系、つまり自分と世界と時間の一貫性の確立が、言葉の心の働きである自分を強く育てる。言葉の心の働きである自分は、言葉の体系に支えられて生きようとする力を生み出し、苦難に打ち勝とうとする。つまり未来に生きようとする。 ネ.生きようとする力とは、苦難に会っても、言葉の心の働きである自分が、感覚や感情の心が求める癒しや逃避の誘惑に打ち勝って、苦難に耐えて、生きようとする為の言葉を作ることだ。生きようとする力は、癒しのような一瞬の火花ではなく、言葉による永続的な救いを目指すものだ。 ノ.言葉の心の働きである自分は、生きようとする力そのもので、苦難にあっても、苦難の原因を言葉にして明らかにし、克服のための目的を生み出すように出来ている。目的は外に探すのではなく言葉で作り出すものだ。言葉の心の働きである自分には、感覚や感情の心のように、癒やしに逃げたり、自殺するという選択肢はない。 ハ.今、したいことがある。その先にもしたいことが詰まっている。しないではいられないことがある。これが生きようとする力だ。したいことを言葉にした目的こそ、言葉の心の働きである自分にとっての救いだ。 ヒ.正月は言葉の心が作るものだ。子供の頃、ちゃんと準備をしなければ正月は来ませんよと言われた。大人たちは、すす払いや飾りつけなど、普段しないことを忙しそうに必死になってやっていた。このプロセスで、感覚や感情の心を通り抜けていた日常の虚無が言葉に変わり、来年という未来へのエネルギーと生きようとする心を生み出していたのだろう。準備の大変さに比例して、輝かしい正月がやってくるのだ。正月は暦の上の日付ではなく、感覚や感情の心を言葉の心に変える、年末の準備作業がその正体だ。最近は、何もしないで、何かがやってくるのを待つだけ。何もしなければ何も来ないので、テレビで囃し立てたり、買ってきた御節など普段より余計に飲食するだけの、光の無い正月になっている。 フ.他者から誉められたり、認められた体験が、自信につながって、言葉の心が強くなり、逆境に耐え、切り抜ける勇気、生きようとする力を湧かせてくれる。 ヘ.人は、安楽を求め苦難を避ける感覚や感情の心に流されて自殺する。感覚や感情の心は生きている力の源だが、苦痛や苦悩や恐怖を避けようともする、癒しの誘惑には抵抗できない。言葉の心は生きようとする力を生み出す。、逆境を乗り越えて生きようとするのは言葉の心の働きだ。言葉は、自分に一貫性を与え、強くする。言葉の心の働きである自分は自分の言葉でしか救えない。希望を失った順に死んでいったナチ収容所の話のように、救ってくれるのは、言葉になった願望、つまり目的だ。 ホ.孫が、幾種類か食べたソフトクリームのうちで、じいちゃんがくれたのが一番いいと言った。とてもうれしかった。人は他者に対して仏になれる。仏とは、生きようとする力つまり言葉を与えてくれるものという意味だ。仏像でよく言われる柔和な表情などの癒しとは違う。この場合は自分を認めてくれる言葉をくれたという意味で、孫が私の仏だ。心に光が差し込んだ感じだ。それが言葉の力だ。感覚や感情の心の快感とは違う、言葉の心の働きである自分としての満足だ。死すべき身である自分にとって、感覚や感情の快感をもらっても、それは月に帰る日が迫ったかぐや姫が地上の宝物を貰ったようなものだ。言葉の心の働きである自分の満足は、言葉からしか得られない。思えば3年前に無から生じた孫が、今自分を喜ばせてくれる。これが仏だと思う。 マ.何となく、自分を、快不快や喜怒哀楽の気分だと思っている。感覚や感情の心が自分なのだと誤解している。自分より大きな苦しみに耐えていたり、自分より勇気を持って生きている人を見ると、自分だけの快不快や喜怒哀楽へのこだわりが消えて、自分の言葉の心が見えてくる。「雨にも負けず」のデクノボーと呼ばれる人は仏だ。仏とは見る人に言葉の心を生じさせる人の行いのことだ。 ミ.言葉で目的を作ると、生きようとする意欲が湧いてくる。言葉の心の働きである自分は、現在の現実には居ない。未来にいる。言葉の心の働きである自分は、感覚や感情の心が映し出す現在の現実を超えて、記憶の過去や願望の未来にいるのだ。感覚や感情の心で癒しを求めると、満たして消えて又欲するという現在の現実を繰り返すことになる。言葉の心で目的を求めると、永続する満足が得られる。 ム.生きようとする力とは、生きたいという意欲のことで、言葉の心の働きだ。感覚の心は快不快を、感情の心は喜怒哀楽を感じるだけだ。感覚や感情の心は、与えられた情況に従うばかりで、現実をどうにかしようとはしない。与えられた現実に対して工夫を凝らすのが言葉の心の働きである自分の在り方だ。 メ.指がレールに挟まったまま、電車が近づいてきたとする。痛いのが嫌でそのままでいるのが感覚や感情の心の働きで、指を切り落として逃れるのが言葉の心の働きだ。苦難に会って死にたいと思うのは、感覚や感情の心の働きだ。何とかしようとするのが言葉の心だ。 モ.励まされるとやる気が萎える。妨害されるとしたくなる。隠されると見たくなる。手に入り難いと欲しくなる。生きるのが難しいと生きたくなり、生きるのが易しいと生きようとする力が薄くなる。それが困難を克服するために進化した心の働きである、言葉の心の性質だ。 ヤ.魚釣りの楽しみ。見えない魚。釣れるかどうか、どんな魚かわからない、そんな状態で、期待が膨らむ。簡単にたくさん釣れるとつまらない。喜びもしぼむ。言葉の心が働く条件は、困難、苦難の存在だ。 ユ.父が死の床にいる。病院へ行く前に、自分のために目玉焼きとサラダとパンの朝食を用意しながら思う。死にゆく人と自分と、何処が違うのだろう。この後、父は死んで時間が消え、自分は生きる。朝食を作ったり、食べたりを続けるだけでは、生きていることなどどうでもいい感じがする。死者には出来ないことをするのが生きていることなのだろう。死者には出来ないこととは何だろう。ただ生きていることでなく、新たな願望や目的を生み、求めることだ。死者を供養する最高の事は、死者の遺志を継ぐ、つまり死者の願望や目的を引き継ぐことなのだ。死んで失うもの、生きて得られるものは、暦や時計の時間でも、細胞の活動でも、感覚や感情の心の働きでもなく、言葉の心の働きつまり願望の未来つまり救いなのだ。 ヨ.鹿は猟師に追い詰められると断崖から谷底にジャンプする。これは現実から逃避する自殺ではなく、現実の中で生きようとする力だ。ヒトは言葉の力で未来を作り、それを実現すべく現在の現実を作り変えようとする。感覚や感情の心の、現在の現実の苦難を恐れる心に打ち勝って、苦難を克服しようとする。数百万年前のある日、アフリカから東へ移動を始めたグループ。その時、我等の祖先は、言葉の心に導かれたのだろう。人が「生きようとする力」を得たのは、言葉の心を持った時なのだろう。言葉の心の力で、感覚や感情の心が生み出す現状維持の眠りから自由になったのだろう。 ラ.死ぬというのは、感覚や感情の心にとっては破綻だが、言葉の心の働きである自分にとっては、異次元の出来事だ。メロンなら種を除いて、果肉だけ食べる事は可能だが、生きることから死を取り除く事はできない。感覚や感情の心は死を忘れて生きていることは出来るが、言葉の心の働きである自分は、死を乗り越えて生きようとする。メロンを種ごと食べると甘みがもっと強くなるのと同じだ。言葉の心の働きである自分が「死を乗り越えて生きようとする」のと体の不死は別次元のことだ。 リ.人生にはレールは無いし無い方がいい。実例はたくさんあるがお手本にはならない。分かれ道はあっても、迷路や間違った道はない。袋小路、行き止まりも無い。そもそも決まったゴールが無いからだ。ゴールを自分で作り、ゴールへ向かって好きなように歩めということだ。 ル.赤子のように頼りないが愛おしい者を授けられると、人には生きる力が湧いてくる。兵士は、そのような者の為に戦ったのだろう。生きようとする力とは、自分が生きようとする力ではなく、愛する者を生かそうとする力だ。 レ.幼い日、目覚めると、カーテンの隙間から光が差して来て、生きている力がみなぎった。歳をとって、生きている力が減るのはやむをえないことだ。代わりに、言葉の心の力が増して、未来へ向かって生きようとする力が増してくれればいいのだ。ミネルバのふくろうは夜に飛び立つ(ヘーゲル)。体の日暮れにもめげずに、言葉の心を奮い立たせよう。 ロ.苦難を前にして、自分を励ます心は言葉の心で、逃避させる心は感覚や感情の心だと理解しよう。言葉の心は前に進もうという意思だ。勇気、目的、未来だ。救いだ。感覚や感情の心は癒しだ。眠りや逃避、自殺の入り口だ。 ワ.藤沢修平の作品の魅力は、登場人物の願望が明快なことだ。下級藩士、職人、遊女。封建時代は、職業、身分、住む場所、人間関係のすべてが、限定を受けていた。脱藩、浪人、落伍、犯罪。限定を受けた人はそれを打ち破ろうと願望を抱くことが出来る。作用と反作用だ。今は、何でも出来る、何にでもなれると子どもに教えている。それを信じた子どもにとって人生は、具体的な願望を持てない、眠りの沙漠になる。 ヲ.朝食で、パンに蜂蜜を塗って食べた。ミツバチがどんなに増えて、いくら蜜を集めても、誰も困らない。花は受粉ができて喜ぶ。ミツバチの巣を壊して蜜を舐めている熊の気持ちになった。巣を壊されたミツバチはたまらないだろうなと思った。もう一枚のパンにバターを塗って食べた。牛はミツバチと同じだなと思った。牛は草の根までは食べないし、肥料を播いて地面を踏んで耕し、土壌を豊かにする。食べたタネは消化しないで、肥料つきで播かれる。草は満足だろう。ミツバチも牛も、上品に生きている。生きる意味や目的とは、自然体系の中で、自分以外の何かを生かしているということだ。その意味で熊は生きていない。ただ生存している。自分以外の何かを生かしていることが生きる意味だ。子育てが終わると一気に虚しくなるのはそのためだ。 ン.火は燃えている。熱や光を発している。燃えているのは戦っているのと同じだ。体は、環境変化や敵の侵略から身を守るために、生まれた時から戦い続けている。生きているというのは、戦っている、燃えているということだ。戦っている、燃えている事をやめれば消えてしまう。火の熱や光にあたるのが苦だ。言葉の心は、そんな体の戦いを補助するために進化した。言葉の心は苦しみが生み出す心なのだ。 ア.感覚や感情の心は現在の現実の安楽を求める。苦しみから逃避しようとする。言葉の心の働きである自分は、現在の現実を乗り越える目的を作る。目的達成のためには苦しみも恐れない。というか、苦しみから生まれ、苦しみが好物なのだ。言葉の心の働きである自分にとっては、危険は安全より、不安は安心より、困難は容易より、敵は味方より、魅力的だ。怖い、苦しい、辛いだって、退屈よりは魅力的だ。言葉の心の働きである自分は、苦難を克服しようとする心の働きだ。苦しみを敢えて求めているのだ。 イ.自分は言葉の心の働きだから、感覚や感情の心に生じる迷いや苦しみから、自分は既に救われているということに気がつくこと。感覚や感情の心に生じた迷いや苦しみを言葉にして、過去や未来を見通す力を用いて、現在の現実を乗り越える目的を作る。救いとは、現在の現実の中で自分が変化することでなく、自分が願望の未来にいることに気がついて、眼前の迷いや苦しみから自由な立場に立ち、その上で眼前の迷いや苦しみを冷静に客観的に観察、分析して、活路を見出そうとすることだ。感覚や感情の心の生きている力とは別次元の、生きようとする力を発揮することだ。 d.
生きようとする心、未来を求める心、現在の現実の苦難を恐れない心。つまり、救いを求める心。 @ 星を作る。 1)「言葉のDNAの香り」 a.
言葉のDNAとは。 ア.動物の時代、未だ言葉の心が無くて、自分という意識を持たずに、地上の現在の現実を、癒しを求めてさまよっていた。ヒトになったのは、脳に言葉の心の働きが備わり、言葉の心の働きである自分が生じ、言葉で記憶の過去や願望の未来を作るようになった時からだ。言葉の心の働きである自分は、体から独立して情報生物になる。情動を抑制したり、言葉を発信する。発信された言葉は自分がとれて、言葉のDNAになる。体のDNAは体の子孫を作るが、言葉のDNAはウィルスのように、時空を超えて人類全体に広がる。 イ.体の目的は、体のDNAを伝えることだ。体のDNAを伝えてくれた父母や祖父母は、神のような存在だ。父母や祖父母にとって、子や孫は自分の生まれ代わりだ。小学生向けの教育TVを見た。星の色や運動の話を分かりやすく伝えていた。体のDNAの伝達と同じだと思った。言葉のDNAの伝達だ。教えてくれるものが神だ。受け止めてくれるものは、自分の生まれ代わりだ。血縁とは別の、言葉の縁だ。 ウ.幼い頃、父がギフチョウの卵を採集して持ち帰り、育てて、蝶にするのを手伝った。始めはイチゴの木箱に入れていたが、後年、立派な飼育箱を用いた。風にまだ冷たさの残る早春の晴天を狙って電車とバスを乗り継いで、中津川渓谷の山道を登り、石小屋付近の、杉の植林を終えたばかりの日当たりのいい山の斜面。残雪の割れ目にスミレが咲いている。待っていると、交尾を終え、蝋のような生殖器をつけた♀蝶が、谷から吹き上げる風に乗って舞い降り、スミレの蜜を吸ったり、カンアオイの葉裏に産卵をする。氷河期の生き残りで、他の昆虫には寒すぎるこの頃に出るので、蝶好きの間では春の妖精と呼ばれる。網で捕らえ生かして三角の紙袋に包んで家に持ち帰る。カンアオイは、ハート型の深い緑色の葉をした野性の蘭だ。潅木の根元など半日陰に生えている。周辺のカンアオイの葉裏を丹念に探し既に産み付けられた真珠のような卵を、葉ごと摘んで、食草にするための大量の葉とともに持ち帰る。その夜、蝶を大きな飼育箱に放し、中央に食草のカンアオイの鉢を置く。翌日、仕事を終えて帰宅した父が、私たち兄弟を呼び集め、赤外線ランプで蝶を照らす。産卵を始める。父は克明にノートをつける。漢字とカタカナと細密画だ。それから数か月間、幼虫が出す黒い糞粒を捨てたり、冷蔵庫の葉を与えたり、養蚕のような作業が続く。葉は1週間しか保存できないので、毎週休日に、同じ場所へ行って葉を取って持ち帰る。弁当は握り飯に魚肉ソーセージ、その美味しさは今も忘れられない。以下は観察の記憶だ。薄緑色の小さな真珠のような卵から、黒い毛糸の屑のような幼虫が殻を食い破って出てくる。幼虫は殻を食べてしまう。それから葉を黙々とかじる。体が大きくなるたびに脱皮をする。やはり殻は食べてしまう。小指の半分ほどが最後の大きさだ。真っ黒いコロコロした乾いた体が、太くて硬いひげのような毛で覆われている。指で掴んだり、手のひらで転がすと肌触りがひんやりしたり、毛の肌触りが快かった。怒らせるとアゲハチョウの幼虫のような匂いがしたような気がするがもう忘れた。太って動きが鈍くなる頃、木箱の壁面や天井や床の気に入った場所を選び、安全ベルトのような太い糸で腹を壁に固定した。最後の毛皮を脱いで黒い小粒の落花生のようなさなぎになる。ここまでが夏の終わりだ。世話も終わりだ。安全で風通しの良い場所に保存する。時々霧を吹いてやる。年が明けた早春、気の早い者から順に蝶になって飛び出してくる。自然界では無事に殻が取れるか、縮んだ羽を広げられるかが、生死の分かれ目だ。脱いだ殻が羽にくっついて取れないことが多い。手でそっとはがしてやるのも自分の仕事だ。飼育箱の外から赤外線ランプを照らし、脱皮や羽の伸展の補助もした。何でこんな話をするかというと、蝶がさなぎの殻を脱いで初めて蝶になれるように、言葉は自分を離れて初めて言葉のDNAになれるのだと気づいたからだ。 エ.自分は言葉の心の働きだ。言葉は発信されると、自分を脱皮して言葉のDNAになる。 オ.言葉の心の働きである自分が、普遍の存在である言葉のDNAになる。体がDNAになって体を越えて伝わるように、自分も言葉のDNAになって、自分という在り方を越えて発信され、伝わる。 カ.ヒトとヒトとは、体のDNAでつながるのか、言葉のDNAでつながるのか。釈迦が死んで2500年経って、イスラム教徒になっている血縁者と他国の仏教徒と、どちらが釈迦の子孫なのだろう。釈迦を体と思うか、言葉の心の働きと思うかの違いだ。自分は言葉の心の働きなので、体や体のDNAとは無関係だ。言葉のDNAだけが自分と他者をつなぐものだ。言葉は、一たん口から出てしまえば、誰のものでもない。釈迦が発信した言葉も、釈迦のものでもない。吸って吐いての、みんなの空気となる。自分と他者は、何かが無いとつながらない別のものでなく、言葉のDNAの海を自由に出入りしている、同じ水の一部なのだ。 キ.哺乳類の進化のTVを見た。1億2千万年前の化石は、ネズミのような形で、卵を産んでいた。7千万年前の化石は、体つきはほとんど変わらず、体長も15cmほどだった。ただ、胎生になっていた。1億数千万年続いた恐竜の繁栄期には、祖先は恐竜からの圧力で胎盤以外の進化は抑えられていた。隕石の衝突による気候変動で恐竜の支配が終わり、胎盤のおかげで厳しい環境変化を生き延びた哺乳類は、以後爆発的に進化した。35億年以上前から今日まで、人につながる進化は右肩上がりに見える。恐竜と並行していた潜伏期には、胎盤とともに脳も進化の種(たね)を蓄えたのだろう。それから7千万年たって、そろそろ進化の種の蓄えは尽きるのだろう。体の進化はここまでで、また長い停滞期に入るのだろう。前向きに見れば、人はこれから、体のDNAの進化に頼らず、言葉のDNAの進化によって、細胞生物としてでなく、情報生物として進化していくのだろう。 ク.言葉は一人一人から個別に涌いてくるものではない。過去からずっと文化として蓄積された言葉の海から個人に流れ込み、再生され、それぞれの自分となるのだ。再生された言葉は、発信され、その自分を離れ、言葉の海に戻り、いつかまた誰かに流れ込んで、再び自分になる日が来るのだ。 ケ.言葉の心が働く。言葉が再生される。自分になる。世界や時間を作る。人は蚕のようだ。言葉で繭を作る。体験の葉をむしゃむしゃ食べて、合間にウツラウツラ夢も食べて、言葉の糸をつむいで、世界という繭を織り上げる。蚕と同じで、いつか体は用済みになるように、発進された言葉は自分を離れ、言葉のDNAとなって、言葉のDNAの海に戻る。 コ.言葉は言葉のDNAの海から個々の言葉の心に流れ込み、その中で再生されて、自分や世界や時間となり、発信されて、言葉のDNAの海に戻る。 サ.言葉を伝えることで、自分を他者に写すことが出来る。言葉はウィルスのように、時空を超えて、不特定多数に、自分を写すことが出来る。文字は言葉を伝える力がある。文字には、文章と同じ情報がある。人は言葉の心の働きであり、文字も言葉だ。だから文字は人そのもので、書いた人の命が文字の中に封じ込まれる。一文字の書には、一人の人間と同じ情報がある。言葉を発信したり文字に書くと、絵を描いても同じだが、自分が言葉になって体から独立して、体の輪廻を離れて、自由になった気がする。時空を超えて、自他の壁を超えて、情報の空間に、永遠に漂い遊ぶことが出来るような良い気分になる。 シ.幼いころは、今日の出来事を、両親に聞いてほしかった。若いころは、楽しいことや美しいものを写真にしたり、収集して、残したかった。子供ができると、子供のすべてを撮影して残したかった。なぜなのだろう。自分が見ている現在の現実は、そのままでははかない、虚しいものだと知っているからだ。現在の現実は虚無なのだ。歳をとって、物である写真や収集品もやはり虚無だったのだと気づく。残せるのは自分の心に書き込んだ言葉だとわかる。しかしその自分もいつか消えると分かると、言葉のDNAしか残らないと分かる。 b.
自分から離れて、言葉のDNAに足場を置く。 ア.自分は、数百万年かけて育った言葉のDNAの、バトンランナーだと、意識する。 イ.自分は常に居るものではなく、感覚や感情の心から時々浮かんでくる言葉の泡だ。泡が水面に達すると言葉の大気圏に広がってその一部になる。それが言葉のDNAだ。 2)「言葉のDNAの海の香り」を身に着け持ち帰る。 a.
自分が言葉のDNAの海の一部であることを実感する。 ア.体のDNAの空(そら)と言葉のDNAの海が広がっている。海から声が聞こえる。「おうい、空よ。新しい子供が産まれるそうじゃないか。その子は、良い言葉使いに育つかな」。空が答える。「感覚の心と感情の心と、ついでに言葉の心のタネも播いておいた。あとはおまえさん次第さ」。その子の感覚の心がささやく。「ここは気持がいいね。いつまでもこのままだといいね」。感情の心がささやく。「お母さんの声が聞こえる。うれしい。ずっとこのままでいたいよ」。言葉の心のタネがささやく。「暗い。何も無い。僕は誰だ。ここは何処だ。早く外が見たい」。海が言葉の心のタネに話しかける。「おうい、立派な言葉使いに育つのだぞ。わしが応援してやるぞ」。さらに続けて海が言う。「これから、言葉の力でパワーアップする方法を教えよう。おまえはおまえに自分という名前をつけるのだ。おまえは見聞きするものすべてに名前をつけて、名前の世界を作るのだ。おまえは、このままでいいという現在の現実に名前をつけて、こうすればよかったと反省できる記憶の過去を作るのだ。こうしたいという願望の未来や目的を作り、生きようとする力を湧かすのだ」。「お前は名前をつけるために生まれてきたのだよ。自分や世界や時間を作るために生まれてきたのだよ。世界の名付け親、生みの親として生まれてきたのだよ。願望を言葉にして、未来つまり生きようとする力を奮い立たせ、体を守り、命ある限り言葉を作り、この海に戻し、この海を豊かにするために来たのだよ」。 イ.体は生きているのが使命。感覚や感情の心は癒しを求めるのが使命。言葉の心は、子供の時は、エデンの園の蛇つまりつまり言葉のDNAの海から、知恵の実つまり言葉のDNAをもらって食べるのが使命。青年の時は、知恵の実を発芽させるのが使命。壮年の時は、苦難を乗り越え、癒しの誘惑に打ち勝ち、知恵の木を育てるのが使命。老年の時は、知恵の木に知恵の実を実らせ、蛇に返すのが使命。エデンの園の蛇とは言葉のDNAの海のこと。知恵の実とは言葉のDNAのこと。 ウ.嫁が孫の世話をしている姿を見て、自分も父母に世話をしてもらったことを思った。体を生んでくれた恩と、体を育ててくれた恩もあるが、それがすべてではない。言葉の心を育ててくれた恩がある。こちらは無数の人々から受けた恩だ。 エ.個性つまり自分のオリジナルは何だろうと考えた。体だという思いからどうしても離れられない。それは父母や祖父母への愛情がそう思わせるのだろう。父母や祖父母は血縁だから、体のDNAをくれたから、自分のルーツだと思ってしまう。本当は、自分は言葉の心の働きだから、言葉のDNAをくれた言葉のDNAの海が自分のルーツなのだ。 オ.体のルーツについて考えた。体は体のDNAが咲かせる花だ。体のDNAは、地上の生物すべてに共通で、見えないけれど一つの株が35億年かけて無数に分かれているその枝先の一つ、種(しゅ)というグループだ。体が作られる時は、種(しゅ)の全体から無作為に選ばれた2人のDNAの遺伝子がシャッフルされて、結果、種としての同一性が反映されるように仕組まれている。だからこの体のルーツは種のDNAの海なのだ。父母や祖父母などの肉親は、種と体をつなぐパイプなのだ。満開に咲く桜を、一輪一輪の花ではなく、木の一部として見る。体という一輪一輪の花には個性は無い。個性は木や種のことなのだ。 カ.言葉の心の働きである自分のルーツについて考えた。自分のルーツは、父母や祖父母だけでなく、生まれてこの方、言葉をやり取りした無数の人や絵や文字、音楽など、人類の言葉のDNAの海から引き込まれた言葉だ。という意味で、自分のルーツは体のDNAではなく、言葉のDNAの海にある。父母や祖父母が自分のルーツのように思えるのは、血縁だからでなく、多くの言葉を教えてくれたからだ。生みの親より育ての親というのもそういうことだ。 キ.実朝の和歌。割れて砕けて割けて散るかも。割れて砕けて割けて散って、元の海つまり言葉のDNAの海に戻って、また別の波つまり別の自分になると解釈した。 ク.体のDNAが細胞を作り、細胞が体を作るように、言葉の心の働きである自分は、言葉を作り、自分や世界を作り、言葉を発信して言葉のDNAの海に注いでいる。 ケ.言葉の心の働きである自分は、食物も言葉として食べている。勿論世界のすべてを言葉として食べている。発信した言葉は、体を離れ、自他の区別のない言葉のDNAになって、体のDNAと同様に、世代を越えて在り続ける。 コ.言葉は、体のDNAのように子孫に自動的に複写されるのではなく、個体ごとの学習によって伝播する。体のDNAのように進化に数百万年を要するものでなく、言葉と言葉が出会うたびに瞬時に進化する。 サ.言葉が記された新聞は、病院の待合室や長距離電車の網棚に置かれて、次々に読まれて捨てられる。読まれた言葉は、おじいちゃんが孫に教訓を垂れるネタになって、孫はそれを一生忘れられなくなったりすることもあるだろう。読者一人一人の自分に合流して、どこまでも流れ続けていく。言葉のDNAの大海になるのだ。 シ.感覚や感情の心に生じた興奮を、言葉の心の働きである自分が言葉にする。さらに言葉を発信すれば、その言葉は、自分から独立した言葉のDNAになって、体のDNAと同様に、生老病死の輪廻から脱して在り続けることになる。 ス.言葉の心は、人類共通の脳の働きで、文法やデータに違いはあっても、働き方は同じだ。 セ.近づき難かった人が死ぬ。体の存在感や、感覚や感情の畏怖の心が隔てていた距離が消え、対話が出来るようになる。その人が書いたものを読む。素直な気持ちで受け入れられる。その人の存在の仕方が、言葉のDNAに変わったのだ。 ソ.言葉は発信される前は、自分という殻をつけている。甲殻類の殻のように、自他を峻別して身を守る、免疫力を備えた言葉だ。他者と共有できない、つまり普遍性の無い、自分だけの孤独な言葉だ。一たん口から出たり文字に書くと、自分という殻は消えて、純粋な情報に脱皮する。自分という殻を脱ぎ捨て、キャベツ畑で群舞する白蝶のように自由に情報空間で遊べる言葉のDNAになる。蛇や昆虫は脱皮して体が成長する。ヒトは体としては脱皮しないが、言葉の心としては、言葉を発信するたびに、自分から脱皮して言葉のDNAになる。 タ.箱根の展望台で下界を見渡していると、初夏の鶯が鳴いている。幼いせいか、みな、ケキョ、ケキョとさえずるばかりだ。そのうち谷の奥から、ホーホケキョという熟達した声がした。一瞬シンとした幼鳥が一斉に鳴き真似を始めた。 チ.言葉のDNAになるか、感覚や感情の心のまま、体とともに消えていくか。言葉のDNAになれば、言葉のDNAに在り続けることになる。 ツ.体が、自分を超えた体のDNAの海の一滴であるように、自分が発信した言葉も、自分を超えた言葉のDNAの海の一滴になるのだ。 テ.DNAのつながりは体の血縁だが、言葉のDNAは言葉の血縁を作る。 ト.言葉の心の働きである自分の正体は言葉だ。言葉は発信されると、自分を脱皮して言葉のDNAになる。 ナ.言葉のDNAは、合流のたびに進化していく。体を超えて、時空を超えて、進化していく。 ニ.木の葉は、芽吹きの時は皆同じなのに、落ち葉は千差万別になっている。基調は茶色だが、緑や赤や黄色や紫。それが個性ある生涯の証なのか。それも束の間、みな茶色になって土に消える。それまでの一時、夕映えのように個性を残す。人も、自分を知る人々の記憶の中に個性を残すが、やがて個性は消えて、言葉のDNAの海に溶けていく。 ヌ.体重つまり細胞の数は爆発的に増える。人なら生後15年で30倍、白熊なら1年で100倍の重さになる。全身の主な細胞は刻々と生死を繰り返し、数日で入れ替わる。体は死ねば水やCO2にもどってしまう、35億歳の遺伝子が咲かせる季節だけの花のようなものだ。心は花粉のようなもので、物でなく信号だ。体が死ねば、心も消えるが、既に発信した言葉は、言葉のDNAになって、体のDNAと同じように伝わり続ける。 ネ.生殖細胞になったDNAが、古い体を脱ぎ捨て、新しい体を生み出すように、自分が発信した言葉は、自分という枠を脱ぎ捨て、言葉のDNAになる。 b.
自分が言葉のDNAの海から来たことを実感する。 ア.自分が何者か、言葉に出来ないと、不安になる。そんな時、家系図や墓で補おうとする。しかしそれは、子どもがどこから来たのと聞かれて、指を差しながら「あっち」と答えるようなものだ。進化論で学んだ、体の進化の歴史の話で満足するのも同じことだ。本当は、言葉の心の働きである自分のことなのに。写真や墓は、体の由来の説明を補強することは出来るが、言葉の心の働きである自分の由来は説明できない。 イ.体にとっては、体を生み出したDNAの海が神様だ。自分はその体が生み出した言葉の心の働きだ。しかし自分を育てたのは、会話や本やマスコミなどがらもらった言葉だ。自分にとっての神様は、体ではなく、この言葉をくれた言葉のDNAの海なのだ。 ウ.体を超えた不変の霊魂があって、その都度体を得て、つまり体を乗り換えて復活しているというのは魅力的な話だ。しかし世界の人口は50年足らずで倍増している。霊魂と体の数が合わないことになる。霊魂とは、不変の何かではなく、体から体へと伝わるものでもなく、個々の体ごとにその都度生じるものだとわかる。しかし、自分は体ではなく、DNAでもなく、言葉の授受で伝わる情報生物なのだ。物である体と情報である自分は次元を異にする存在なのだ。祖父母や両親も近所の友達や先生も、体のDNAとは無関係に、みな言葉のやり取りで私の一部になっていて、私も彼らの一部になっている。体や自分は今生の一度限りのはかない存在だが、体を体のDNAと見ればはかなくないように、自分を言葉のDNAと見ればはかなくないのだ。 エ.砂漠で砂粒を一つ一つ観察するとすべてが違うが、全体でひとつの沙漠であるように、体や自分も一人一人異なっているが、全体で一つの体のDNAの海、全体で一つの言葉のDNAの海なのだ。 オ.胎盤を持つ動物の最古の化石が中国で発見されたというニュースがあり、写真を見た。10cm位のネズミのような真獣類だ。ヒトもこの動物の進化の先にいる。自分を含め、この動物の子孫である沢山のヒトがこの写真を見ているだろう。この動物の体から生じた、70億人の人類を含むあらゆる哺乳類が、今地上にいるのだ。子孫が祖先を見ている。不思議な感じがする。しかし、本当は、自分は言葉の心の働きで、体ではないという意味で、自分は真獣類の子孫ではない。言葉の心の働きである自分の祖先は、言葉のDNAの海だ。 c.
自分は他者つまりDNAの海と交信をして育つ。 ア.言葉の心は、脳の機能としては、生まれた時から備わっている。その働きである自分は、言葉のDNAの海からもらう言葉で育っていく。 イ.木に例えれば、DNAは根や幹だ。体は毎年の花だ。時期が来れば花が散るように、体も散る。根や幹が残るようにDNAも残る。翌春、根や幹が別の花を咲かせるように、DNAも新しい体を咲かせる。心について言えば、感覚や感情の心は体とともに咲いて散る。言葉の心は、花粉のように言葉を発信して、言葉のDNAになる。別の花に受信され、時には時空を超えて未来の花に受信される。ヒトは言葉を発信することで、不死を得るとも言える。 ウ.現在の現実は、一人ひとりの感覚や感情の心が、別々に映し出して、別々に見ている、夢のようなものだ。あなたは夢の一部になって、私の現在の現実にいるし、私も夢の一部になってあなたの現在の現実にいる。しかし二人が見ている現在の現実は別々の夢だ。島宇宙のように、決して合流できない。感覚や感情の心は免疫のように、自他の差別や競争の壁を設けて、互いに拒否しあっている。言葉の心が作り出す言葉の世界も、個々の自分が別々に作り出して、個々に見ている言葉だ。あなたは私の言葉になって私の言葉の世界にいるし、私もあなたの言葉になってあなたの言葉の世界にいる。二人が作っている言葉の世界は別々だ。しかし言葉は蝶のように行ったり来たり出来る。相手の心に卵を産みつけることもできる。二本の川のように、出会えば一つになってしまう。感覚や感情の心が映し出す現在の現実は、人それぞれで、調整も交流も出来ないが、言葉の心が作り出す言葉の世界は、情報である言葉の性質で、互いに調整や交流を求め、合流しようとする。感覚や感情の心は現在の現実を自身の中だけに映し出しているが、言葉の心は、みんなが共有できる世界を作ろうとしている。それが言葉のDNAの海だ。 エ.自分は、他人の心が読むのが不得手だった。結婚しても、子が出来ても変わらなかった。孫ができて初めて、ヒトは自分を愛する者ではなくて、他者を愛する者だということが実感できた。そうなると、今は亡き祖父母も自分を愛してくれたことに気がついた。そのうち、他人にも祖父母や孫がいて、きっと同じ気持ちなのだろうということに気がついた。自分の心を飛び越えて、他人の心も飛び越えて、人の心そのものが見えた気がした。過去に傷つけたたくさんの人々の顔が浮かび、その人々の親や祖父母の心も浮かんできて、悔やまれた。 オ.感覚や感情の心を、他者と共有することは難しい。つまり現在の現実を共有することは難しい。競争や差別の心が湧いてしまう。言葉の心は協力できる。言葉は伝えられる、共有できる。つまり言葉で作る記憶の過去や願望の未来は、共有できる。感覚や感情の心が及ばない過去や未来について、言葉の心で語り合えば、競争や差別の心に邪魔をされずに言葉を共有できる。 カ.世界を、自分の外に広がる宇宙と考えるか、自分が作っている言葉だと考えるか。自分を体と考えるか、心と考えるか。自分を感覚や感情の心と考えるか、言葉の心と考えるか。世界は自分が作る言葉の宇宙だ。自分は心それも言葉の心の働きだ。 キ.体も自分も孤立した存在ではない。体は35億歳の体のDNAの海の一部であり、自分も数百万歳の言葉のDNAの海の一部だ。体がDNAの海から生じているように、自分も言葉のDNAの海から生じている。体や自分という小さな枠は本質ではなかったと気がつく。体や自分の本質はDNAの海なのだ。 ク.ヒトは自立して活動するだけでなく、同じ言葉に支配されると、多細胞生物の細胞のように、一つに連結する。一個の体から発信された言葉は、言葉のDNAになって、時間を越え、空間を越えて、他の誰かの脳の中で解凍し、そのヒトの自分になる。 ケ.一人ひとりバラバラにあるように見える体も、同じ一つの体のDNAの海から生じる飛沫であるように、一人ひとりバラバラにあるように見える自分も、同じ一つの言葉のDNAの海から生じる飛沫なのだ。 コ.言葉のDNAが生まれるのは、言葉にくっついていた自分という殻が脱げた時だ。他人と協力しなければならない時に、言葉が成熟していないと、つまり自分という殻がついたままだと共有できない。蝶はさなぎの殻を脱ぎ捨てて羽を得て飛び立つ。言葉も自分を脱ぎ捨てて、情報生物になって、言葉のDNAの海に流れ込む。 サ.乳飲み子は、母親の懐から離されると泣く。懐に戻るまで泣き続ける。小児は母親が見えないと泣く。見えるまで泣き続ける。少年は、母親が家にいると思えば安心して外で遊ぶが、成人になれば、相手が地上の何処かにいればいいが、地上ではない所へ行くと悲しむ。大人は他者と何処で繋がっているか。手と手でもなく、目と目でも、声と声でもない。言葉で繋がっている。もう、相手に手が届き、見え、話が出来るか否かはどうでもよい。相手がちょっと見えなくなっても、遠く離れても、地球の裏に移住しても、あの世に引っ越しても、関係は全く変わらなくなる。 シ.自分にとっての自分は、体と心の組み合わせとして見える。自分にとっての他者は、心の交流が在るか否かで違う。あれば体と心の組み合わせとして見える。無ければ体としてだけ見える。 ス.自分は物ではなく情報なので、終わりなく伝わり続ける。自分は感覚や感情の心でなく言葉の心の働きなので、物ではなく、言葉を欲する。 セ.朝起きて今までに何をしたか、覚えていることと覚えていないことがある。覚えていることも、昼頃には大半を忘れてしまうだろう。大部分は消えていく。情報とは、脳の一瞬の信号で、生まれた瞬間から、変わったり、消えてしまったり、言葉になって痕跡を残したりする。ヒトは自分という情報を、何かに記憶させたり、他者に合流させることを望む。自分を体だと思えば写真や音声を残そうとするが、何も残せない悲しさを味わうだろう。自分を感覚や感情の心だと思えば、物を残そうとするが、何も残せない悲しさを味わうだろう。自分を言葉の心だと思えば言葉を残そうとする。結果として残る残らないを越えて、言葉にするだけで満足が得られる。 ソ.自分が生まれて生きた証、自分がいた証を残したいと思うことがある。特に若い頃は強かった。何を残したかったのだろう。幼児の頃は家庭など自分を囲む世界がこのままずっとあって欲しいと思っていた。成長して祖父母の死を見たり、幼稚園の卒業や引越しなどでの別れをして、世界は残らないことが分かってくる。思春期の頃は、自分の体がこのままずっとあって欲しいという気持ちで、写真を撮った。自分が体でなく心だと気付いた頃は、感動を残したいと思った。しかし感覚や感情の興奮は残らない。その後永く、名前を残したいと思うようになった。しかし、名前つまり言葉の本質は情報なので、本来自他の区別は無いことに気がついた。自分にこだわった名前を残そうとするのは、残らないものを残そうとする、無理な話なのだと気がついた。墓石に故人の名前を刻んだからといって、故人の何かが残ったことにはならないように。 d.
他者つまり言葉のDNAの海からの言葉の受信。 ア.今朝もTVで、避難所にいるおばあさんの話があった。息子と二人きりだったのに、息子は行方不明のままだ。津波の一週間後に、飼い主を失った泥だらけの犬が来て、お婆さんが避難所の庭で世話をしている。本当は規則違反なのだが、みんな黙って見守っている。ここまではTVで見た話だ。おばあさんには息子の生まれ代わりのように思えるだろう。いつか、その犬も来なくなるだろう。代わりに雀が来るようになるだろう。おばあさんは息子の生まれ代わりだと思うだろう。花になったり、風になったり、月になったり、そんな風に、おばあさんが死ぬまで、息子は色々な姿になって、慰めに来るだろう。生まれ代わるというのは、生き返るという意味で、それは死者の体が生き返るのではなく、おばあさんの心の中の言葉が、体を得てよみがえるという事だ。言葉になった息子が、犬や鳥や木や花や海や月の体を借りて、生きていた時のように語りかけてくるということだ。 e.
他者つまり言葉のDNAの海への言葉の発信。 ア.リンゴについて考えているうちに、自分が相手にしているのは、リンゴという物でなく、リンゴという情報、言葉だと気がついた。誰もいない山中の木にリンゴがなっているとする。旅人が通りかかってそのリンゴを食べる。旅人がそのリンゴのことを日記に書く。旅人が死に、日記は箱の中に忘れ去られる。100年後、誰かが日記を見つけ、読み、そのリンゴのことを知る。別の誰かに伝える。リンゴが有るとか無いというのは、誰にとって、どういう状態なのか。五感に感じられる現在の現実のリンゴだけでなく、記憶の過去のリンゴや願望の未来のリンゴ、つまり言葉としてのリンゴもある。Aさんが発信したリンゴという言葉が、多数の人々に広がったり、地球の裏側のBさんや、100年後のCさんに届いて、それぞれの人々に在るという事にもなる。一旦文字や絵や記憶になると、もう今の誰かが知っているかどうかは問題ではなくなる。今知らない人も、いつか知ることができるものになる。いわば未来の人類も含めて人類全体のものになる。在るというのは感じている現在の現実だけでなく、記憶の過去や願望の未来に言葉としてあることも含まれるのだ。 イ.言葉の心の使命は、抽象的な事物を作り出すことだ。感覚は刺激としてその人にだけ一瞬生じて消えるが、そんな痛みや暑さ、冷たさや寒さを、記憶したり、伝達したり、思考したり出来るように、あたかも道具のように形を与える。感情も興奮としてその人にだけに一瞬生じて消えるが、そんな喜怒哀楽を、記憶したり、伝達したり、思考したり出来るように、あたかも道具のように形を与える。物や風景や出来事についても同じだ。りんごは感覚や感情にとどまる限り、そこに在る限りの、感覚や感情の心を刺激する限りの、その特定のりんごだ。そんなその場限りのりんごを、記憶したり、伝達したり、思考したり出来るように、あたかも道具のように形を与える。自身や家族についても同じだ。家族も言葉にしなければ、時が経ち、死んだり別れてしまえば忘れてしまう。言葉にすれば、いつまでも自分の一部になって居続けることになる。そうやって言葉に作られた感覚や感情や物や風景や出来事や家族は、その時のその人限りのものから、言葉を解する全人類のものになる。みんなにとっての痛みや暑さ、冷たさや寒さになる。みんなにとっての喜怒哀楽になる。みんなにとっての物や風景や出来事や家族になる。自分に生じた感覚や感情や事物や出来事や家族を、あたかも他人に生じたもののように、冷静に受け止め、記憶したり、伝達したり、思考したり出来るようになる。言葉は発信すれば、自分という殻を越えてみんなに広がる。現在の現実を越えて、過去や未来の人々、地球の裏側や見知らぬ土地の出会うことの出来ない人々と心を共有することが出来る。 ウ.感覚や感情の心でいる時、形や色、香りや肌触り、味などとして、対象は生じている。感覚や感情の心の興奮が冷めれば消えてしまう。感覚や感情の心に映っているこの世は、現在の現実としてその時だけ生じたり消えたりするばかりだ。渇きと癒やしを繰り返す砂漠のようだ。その対象に「リンゴ」という名前つまり言葉をつけたとする。かじり終わっても、自分がいる限りそのリンゴは言葉として在り続けることになる。過去の思い出や未来の願望として、いつでも現れるようになる。感覚や感情の心が映し出す、食物としてのリンゴは、その人に、その時だけ生じているが、言葉になったリンゴは、形や色、香りや肌触り、味などとは無関係に、この世のすべてのリンゴが一つになったものだ。自分にも他人にも同じものになる。一つでも無数でもリンゴはリンゴとなる。ここにあっても無くても、昔食べたことがあっても無くても、誰のものでも、リンゴはリンゴとなる。リンゴという言葉を伝えれば、未来の人とも、見知らぬ人とも共有出来る。言葉になると、時間や場所を超えて、誰のものでもない、みんなのものになる。感覚や感情の心でいる時は、すべてははかなく、虚しく、手につかんだ淡雪のように思えるが、和歌などの言葉にすると、永遠で、確かな世界の一部になったような気がするのはそのためだ。言葉を重ねれば、リンゴはどんどん特定化されて、その時その場その人だけに生じて消えたはずのリンゴを、永遠に固定することになる。輪廻の流れから掬い上げた感じになる。感覚や感情の心に囚われていた心を言葉にすれば、自分になって、時空を超えて、輪廻の流れから救われた感じになる。さらに自分も超えて、誰でもが共有できる普遍的な言葉のDNAになる。 エ.リンゴは言葉になると、時間が消える。しなびたり腐ったりしなくなる。すべてのリンゴは同じになる。人も言葉になると、老いたり、病んだり、死んだりしなくなる。 オ.自分は、体でもDNAでも、感覚や感情の心でもない。自分は言葉の心の働きだ。発信された言葉は、自分から独立した存在で、自分の消滅後も、言葉のDNAとして広がり進化し続ける。 カ.感覚や感情を固定して言葉にする。言葉を発信する。言葉が言葉のDNAになる。 キ.体は命の輪廻や時空を越えられない。感覚や感情の心も命の輪廻や時空を超えられない。しかし言葉の心は言葉になって、命の輪廻や時空を越えることができる。 ク.言葉は、発信されると、自分という殻を脱皮して、人類としての言葉になる。体や時空を超えてウィルスのように人とヒトの間を自由に行き来する。 f.
言葉になった自分に死はない、言葉のDNAの海に還るのだと実感する。 ア.死んだ家族や知人のことを思うと、今自分が味わっていることを味わえないということが哀れに思えてしまう。しかし、この自分がそうであるように、死者の自分も言葉の心の働きだったのだ。自分がそうであるように、死者にとっても感覚や感情の心が映し出していた現在の現実は幻想だったのだ。もともと持っていなかった幻想を失って悲しいというのも幻想なのだ。言葉の心の働きである自分にとって、現在の現実という幻想の死者は失われたが、言葉であった死者は、自分が生きている限り失われてはいないのだ。 イ.兄弟や両親を失った子供を、なんと言って慰めたらいいのだろう。体は一年草のようで、花が咲いて種を播き、枯れるようにできている。このことに一片の理不尽も不幸も無い。それなのに、親しい人の死は、何故苦しみを与えるのだろう。それは心の持ち方に原因がある。感覚や感情の心では、現在の現実しか見えない。現在の現実がすべてのように思われる。現在の現実の体の消滅はその人のすべての消滅のように思えてしまう。現在の現実から消えたその人がどうなったのか意味が分からない。意味が分からないから怖れや怒りが湧き、理不尽に奪われたように思えてしまう。本当は、その人は、言葉の心の働きだったのだ。かく言う私も言葉の心の働きだし、あなたも言葉の心の働きなのだ。自分と言葉の関係は、体とDNAの関係と同じだ。体の死がDNAの消滅ではない様に、自分の消滅は言葉の消滅ではない。言葉には自分のような「消滅する」という仕掛けはなく、DNAと同じように、在り続ける情報なのだ。DNAは、体とは別次元の、人類共通の海になっている。言葉も、自分とは別次元の、人類共通の海になっている。体のDNAの海も、言葉のDNAの海も、この体や自分より前から、この体や自分とは別にあるものだ。自分が消えても、海として在り続けるのだ。鏡に顔を映しているとする。鏡の中が体や自分、鏡のこちらが体のDNAの海や、言葉のDNAの海だ。鏡が消えて体や自分が映らなくなっても、体のDNAの海や、言葉のDNAの海は何も変わらないのだ。 ウ.死は、本人にではなく、観察者に生じる心理現象だ。感覚や感情の心には、その人のすべてが消えてしまったように思える。喪失感が生じる。言葉の心には、いままでと何も変っていないように思える。なぜなら、元々、その人は自分の中の言葉だからだ。体が無くなっても、言葉の心にとっては何も変らず、いつでも会える、会話も出来る。体の戸籍がどうなっているかは関係ない。言葉の心にとって他者は言葉だ。その人は「墓の中にはいない」。体がそこに埋められていたとしても、言葉の心の働きであるその人はそこにいない。死んでもないし何処にも行っていない。いつも生者の言葉の心の中に居る。発信された言葉が言葉のDNAの海の一滴になっている。 エ.今日、車で、山梨の知人を訪ねた。昔、その知人を紹介してくれた友人のことを考えた。高校の同級生で、喧嘩ばかりした間柄で、4年前に美食の果て糖尿病をこじらせて60歳で死んだ。彼が死んで、私の中の彼に変化はあっただろうか。私にとって、今思い出している彼は、生前思い出していた彼と何も変わっていない。彼の死は、彼の体の消滅のことで、私の記憶が消えた訳ではないということだ。今でも思い出すたびに意見が衝突して喧嘩になる。ヒトにとって、思う事物はすべて言葉で、物自体とは異次元なのだ。私にとって彼は、体ではなく、彼という言葉だったのだ。彼の死も、私にとっては、彼が発信した言葉の一つだ。知らされても、彼がこうしたああしたというのと同じように、彼が死んだという言葉が加わっただけだ。彼の死は、彼の体に生じた自然現象で、私の中の言葉としてある彼とは異次元の出来事なのだ。彼についての言葉のちょっとした追加の一つで、言葉である彼の消滅ではないのだ。10億光年離れた星が今日消滅しても、地上から永遠に見え続けるように。その星自身には消滅が観察できないように、死んだ本人にとっては、自分の死はもう言葉として生じていない。4年前に死んだ彼も、15年前に死んだ父も、交友があったが音信が途絶えた沢山の人々も、飼っていた小鳥や熱帯魚、釣りや昆虫採集で殺生した沢山の生き物達も、この星と同じだ。私が生きている限り言葉を送り続けてくるという意味で在り続けているのだ。 オ.体を新聞紙、自分をニュースだと考えてみる。体つまり新聞紙には消滅は生じるが、言葉の働きである自分つまりニュースには消滅は無い。 カ.午前中に親しい人に会うと「おはよう」という言葉が浮かんでくる。その時自分は「おはよう」という言葉として生じている。孫に「おはよう」を教える。孫は生きている限り「おはよう」を言い続けるだろう。祖父の「おはよう」が父に、父の「おはよう」が自分に、自分の「おはよう」が孫に移り、孫はたくさんの人々に「おはよう」を言い続ける。「おはよう」はもうみんなのものだ。言葉は誰のものでもないことがわかる。自分は言葉の心の働きだ。自分が発信した言葉は、自分のものでも、誰のものでもない。みんなのものになる。体には所有者の名前を付けているが、言葉には所有者の名前はつけられない。口から出た瞬間、文字や絵に書かれた瞬間、みんなのものになる。この風邪は誰のものか、移ったみんなのものだ。ということで、体が死んでも体のDNAは残るように、自分が消えても言葉のDNAは残る。 キ.原始人類の骨の化石を見る。自分の体のDNAの源を見る気分だ。原始人類の壁画を見る。自分の言葉のDNAの源を見る気分だ。 ク.君が生まれる前も世界はあって、死んだ後も世界は続くのだろうか。この世界は一人ひとり別々に生じている言葉だ。君の世界は君の中に生じている言葉だ。君の体が死んで、君が消えたら、君の世界も消える。他人の世界は他人の中にあって、他人から見た君はそこにいる。他人にとって、君は言葉で、君の体がどうなろうと、まったく関係ない。つまり、君が死んでも、他人の世界の君は在り続けているということだ。 ケ.丸々と太って、鮮やかな色をして、活発に葉を食べ続けていた芋虫が、ある日突然動かなくなって、縮んで、黒く萎れた。ある朝見ると殻だけになっていた。地上のみんなは芋虫が死んだのだと思う。本当は古い体を捨て新しい体になったのだ。今はもうみんなの花園で、蝶になって、花から花へ飛び回っているのだ。 コ.晩夏にミンミンゼミが鳴いている。今年の最後の1匹かもしれないと思う。体を見失った心のようだ。いくら叫んでも、探しても、仲間も伴侶もいない。来年の夏にならないと誰もこの世に出てこない。寿命が数週間のセミにとって、来年は、宇宙の果て、あの世のように遠い、異次元の世界だ。この体は今年の土となり、願望は来年に向かって、叫び続けるのだろう。自分がセミなら、言葉を作って、幹に刻んで、投げ文の様に未来に投げこむだろう。 サ.自分は何歳なのだろう。普通は体が生まれた年から数える。体はDNAが作り出している細胞の集まりで、数日間で新陳代謝して全部入れ代わってしまう。その意味では今の体は数日前に生まれたことになる。体を作り出しているのはDNAだ。DNAは35億歳以上だ。体の正体をDNAだと考えれば体も35億歳以上だということになる。自分は体でなく心、それも言葉の心の働きだ。発信した言葉は情報だから、年齢や寿命、生死は無い。生老病死の輪廻も無い。自分は言葉になれば、光のように、不死になるのだ。 シ.自分が幼くて、日々の出来事を言葉にして記憶することが出来なかった頃を知っている父母、祖父母はもう居ない。言葉に出来なかった、感覚や感情のまま過ごしていた時代は消えてしまった。寂しい。自分のこれまでの成長や体験を知っているのは自分だけだ。それも言葉にできた記憶だけだ。言葉にすると記憶でき、自分の一部となる。発信されて自分から飛び立った言葉達は、自分という殻を脱ぎ捨て、言葉のDNAの海に戻る。体が死んで言葉の心の働きである自分が消えても関係ない。発信された言葉は永遠の命を得るのだ。感覚や感情を言葉にするということは、消えてしまうものを掬い上げて、言葉の心の働きである自分の故郷、言葉のDNAの海に戻すことなのだ。 ス.ヒトは不死を願う。永遠に居続けたいと願う。残したいのは体のことだと思いがちだが、残すに値するのは、そして残せるのは言葉だけだ。自分は体に宿った、体とは別の情報生命体だ。SF的に言えば、宇宙から来た永遠の命を持つ寄生生物が、地球を乗っ取るつもりで、ヒトの体に乗り移ったが、結果、体はどんどん寿命がくるので、一緒に死んでしまって、何も残らなかったという笑い話だ。 セ.言葉は、体や時空を超えて、人類共通の知恵の実となる。それが言葉のDNAの海だ。自分を感覚や感情の心だと思っているうちは、現在の現実しか見えず、記憶の過去も願望の未来も見えない。自分が言葉のDNAの海の一部だと気がつけば、人類としての過去を身に付け、未来に参加していることに気が付く。 ソ.言葉の心の働きである自分はいつ生じるのだろう。自分は生まれた時にはいない。自分の種つまり言葉の心の働きだけがある。父母や祖父母が言葉を教えてくれる。その言葉の蓄積が徐々に自分を形成していく。だから自分はこの体に芽生えるものでなく、父母や祖父母を介して注がれた、言葉のDNAの海の水溜りなのだ。元はみんなと同じ海の水なのだ。私の自分も、君の自分もその程度の違いなのだ。しかしそれぞれの自分から見れば、その小さな違いが大きな個性に思えるのだ。だからこの体が失われることが、すべてを失うことのように思われる。自分を形成していた言葉のDNAには生死もないし、個性もない、同じ海の水なのだ。 タ.父母の話を聞く。二人が出会った顛末や、自分が生まれたいきさつを聞く。そこからわかることは、この体は生まれるべくして生まれたのではないこと。そして自分はこの体から生じてはいるが、体が出す信号で、体そのものではないこと。言葉の心の働きである自分は、この体とは異次元に生じているということ。体は、DNAの木に、35億年間、咲いては散るを繰り返している、その時々の花だということ。体が散っても体のDNAは消えないように、言葉の心の働きである自分が消えても、発信した言葉のDNAは消えない。自分を体だと思えば、輪廻の一幕の花に思える。自分を感覚や感情の心だと思うと、咲いている間だけ点滅を繰り返す花の色香で、ますます虚無感が深まる。自分が発信した言葉が、言葉のDNAの海に流れ込むのだと思うと、エネルギー不滅のような安らかな気分になる。 チ.祖母は父を生んで数年で死んだ。父の死後、いとこから写真を貰って、初めて見た。想像とは全く異なる顔をしていた。祖先に思いを巡らすと、暗い虚空に葬列があって、自分はその最後尾にいるように思える。これには錯覚がある。自分は体であり、体が体を生み出しているという錯覚だ。去年の花が今年の花を咲かせているのでなく、同じ木が、毎年花を咲かせているように、体が体を生み出しているのでなく、35億歳のDNAの海が、その都度の体を生み出しているのだ。さらに言えば、自分は言葉の心の働きで、体とは異次元に生じている。そして自分は、体のDNAとは別次元の、祖先が発信した言葉の蓄積である言葉のDNAの海から生じているのだ。 ツ.千年前の桜の花や木は残っていないが、そしてそれを見ていた西行法師の体も残っていないが、和歌は残って、鑑賞者の心を打ち続けている。和歌とは何なのだろう。情報だ。心には感覚と感情の心と言葉の心があって、言葉の心が生み出した情報だ。言葉の心といっても、西行法師の体と伴に言葉の心も既に消えている。西行法師の言葉の心が生前に発信した言葉だ。西行法師は発した言葉は、西行法師の体や心の有無に関わらず、生前と同じように在り続けている。西行法師の正体は発信した言葉なのだとわかる。ヒトの正体は、発信した言葉なのだとわかる。 テ.死んでこの世にいない人と、会えないまま地上のどこかにいる人と、言葉の心の働きである自分にとって、何か違いがあるのだろうか。その人は自分の中に言葉としているのであって、体が今どこでどうしているかは、無関係だ。その後会話をしても、それは情報が更新されるだけのことだ。 ト.言葉を交わせる相手が居ないことは最大の苦痛だろう。相手の体の有無には関係無い。相手の体の有無は感覚や感情の心の問題だからだ。自分は言葉の心の働きで、言葉になった相手と対話が出来ればいいのだ。言葉がありさえすれば、記憶でも、墓石でも、夕日でも、寝床の天井でも、対話はできるのだ。言葉こそ最高の贈り物だ。 ナ.ヒトは名前を得て虚無から自分になる。死んだら名前も自分も卒業して虚無へ戻る。それまでに発信された言葉は、発信の都度、名前も自分も卒業して言葉のDNAになっている。無名で生まれ、名をつけられ、名を信じ、名を惜しんで生きて、発信されて名を返上して、言葉のDNAになって、来た処へ戻る。 ニ.感覚の心は鏡に映して見ている。感情の心は波打つ水面に映して見ている。言葉の心は、見えたものも、見たことのあるものも、見たいものも、キャンバスに描いて見ている。今生きている人も、記憶の故人も、同じキャンバスに描かれている。対象が物理的にどう変化していようと、戸籍上どうなっていようと、既に描かれているキャンバスに影響は無い。死者も生者もまったく同じ付き合いができる。それが言葉の心のキャンバスの働きだ。 ヌ.言葉は口から出てしまうと、自分と他者の区別が無くなる。自分へのこだわりも無くなるから競争や差別の情動も消える。他者の言葉と融合したり、入れ替わったりする。言葉は溶けあい合流するだけだ。 ネ.発信された言葉は、体や時空を超えて、体にとってのDNAのように、言葉のDNAになって、世代や時空を超えて引き継がれ、進化を続ける。 ノ.化石には、体の化石と心の化石がある。恐竜でも、巣や足跡が心の化石として残るが、圧倒的に体の化石の方が多い。文字や絵や道具や伝承はヒトの心の化石だ。ヒトは、圧倒的に心の化石のほうが多く残っている。それは人が恐竜に比べ、心の生物だという証明でもある。体は一つで、心は千変万化、同じ体に、毎日無数に生まれるのだ。心の化石には、結果として残った化石である道具や住居と、残そうと思って残した化石である絵や文字がある。ヒトには、自分や世界や時間を生み出す言葉の心があって、未来を見ているからだ。ヒトは、絵や文字になって、体を超えて、生死も自他も超えた言葉のDNAを発信するのだ。大賀ハスのように、いつか未来の解読者が現れれば、時間も空間も飛び越えて、解読者の脳の中で生き返るのだ。そうやって、言葉のDNAを、過去から受信し、未来に向けて発信して、言葉のDNAの海との間を行き来している。ヒトは言葉を持った時、細胞の体の生物から、体や時空を自在に跳び越える、言葉の生物に進化したのだ。DNAが体を船にして未来へ生き延びるように、言葉の心の働きである自分は、言葉を発信して、言葉のDNAになって、未来へ生き延びる能力を得たのだ。 ハ.感覚や感情の心を我慢させるのが言葉の心の働きである自分の使命だ。言葉の心は言葉を操り、言葉で自分や世界や時間を作り出している。発信された言葉は、言葉のDNAとなって、他者の心や時空を超えた言葉のDNAの海に流れ込む。感覚や感情の心のような自他の差別がないから、他者と交信したり、溶け合ったり、世界を共有したり、時空を超えて共存することもできる。 ヒ.天文学者は、137億年前の宇宙誕生の時に生まれた光の化石を拾い集めている。考古学者はアフリカの砂漠で、450万年前の人類最古の化石を発見した。学者は言葉の心の使い手だから、集めているのは化石という物でなく化石が語る言葉なのだ。遺物の道具や住居や足跡も言葉だ。人は言葉を発信つまり残し、言葉を受信つまり読む生物だ。言葉は古くても死んだ化石ではなく、ウィルスのように、いつでも生き始め、未来を生み出し始める。 フ.鳥は卵から生まれるが卵ではない。鳥は雛から育つが雛でもない。翼を得て飛び回る。これが本当の鳥だ。蝶は卵から生まれるが卵ではない。毛虫から育つが毛虫でもない。毛虫はやがて硬い蛹になるが蛹でもない。羽化をして、美しい羽を得て、空高く飛びまわる。これが本当の蝶だ。人も乳飲み子から少年、青年、熟年となり、蛹のように固まって、死んでしまうと思っている。人も蝶のように羽化をするように出来ている。羽の代わりに言葉の発信なのだが、目に見えないので、みんなそのことが分からない。分からないまま、蛹で終わりだと思っている。 ヘ.生物は、体のDNAの突然変異と試行錯誤によって環境変化に適応してきたが、ヒトは言葉の心の獲得により、体のDNAが進化しなくても言葉で環境変化に適応するようになった。だから体のDNAだけでなく、言葉を新しいタイプのDNAとして考えることができる。言葉のDNAは人類に宿った新しいDNAで、体のDNAが生み出す感覚や感情の心と矛盾しながら共存している段階にある。水中と陸上を行き来して、迷いを繰り返していたある時期の両生類のようだ。体のDNAは、2対1の関係で体を伝えるが、言葉のDNAは1対無数の関係で言葉を伝える。言葉は、体のDNAとは別の方法で、個別の体や世代や時空の壁を超えて広がる。言葉の心の働きである自分は、言葉という花粉を播いて広げ、同世代や次世代に残していく花のような存在だ。 ホ.自分は言葉を発信し、言葉のDNAの海に注いでいる。勿論、体の境界を超えて現在の他者の言葉達とも交流している。 マ.体の進化とは別の、言葉の心の働きである自分の進化の物語を書こう。体は、35億年以上の間、無数の突然変異を重ねた体のDNAが咲かせた花だ。最後の突然変異は、大脳の言語野の誕生だ。心の進化としては、自分の誕生だ。言葉の心の働きである自分は、感覚や感情の心が映し出す現在の現実の環境から、言葉で、仮想の環境である世界や時間つまり記憶の過去や願望の未来を作り出し、細胞生物としての、体のDNAによる進化でなく、情報生物としての、言葉のDNAによる進化を始めたのだ。この突然変異は生殖細胞によらず、言葉のDNAによって時空を超えて発生し、ウィルスのように感染する。体のDNAに関係なく、言葉を解するあらゆる個体に伝わるのだ。 ミ.本当に生きているのは、35億歳のDNAだ。DNAが材料を組み立てて咲かせているのが体だ。だから体はDNAのようには実在しているとはいえない。いわば、DNAがマスゲームをして作り出している絵のようなものだ。自分はその体から生じている電気の信号だ。そんな頼りない自分が言葉のDNAになると、体のDNAのように個体から個体へと伝えられるだけでなく、体のDNAの進化をしのぐ速度で進化するようになる。 ム.感覚や感情の心には現在の現実しかないから死を受け入れられない。生老病死の輪廻に囚われて嫌々泥沼に沈むというイメージだ。言葉の心の働きである自分が気にかかっていることを、言葉にしないまま、感覚や感情のまま、抱えて死ねば、言葉の心の働きである自分は、救われないままで終わったことになる。救われないままで終わってしまった言葉の心の慙愧の念を思う。蝶に羽化せずに終わった毛虫は、残念だろうということだ。 g.
言葉のDNAの海から言葉を受信して自分が生まれ、自分が発信した言葉は、言葉のDNAの海に流れ込む。そのように循環している。 ア.川はどこから始まるのだろう。川をさかのぼって、山の上にある小さな泉に至る。川はここから始まる。この泉は、雨が姿を変えたものだ。雨はどこから始まるのだろう。雨は雲から始まる。雲は地面や海や川から蒸発した水蒸気だ。このように地球の表面をぐるぐる回っている水はどこから来たのだろう。水の素は137億年前、宇宙と一緒に生れた。川はどこで終わるのだろう。別の川に合流したり、海に注ぐ。砂漠の砂に吸い込まれ地下に潜るものもある。川を水と考えれば、終わりは無い。川に名前をつけて特定するから終わりができる。終わるのは名前で、水ではない。川のことなら、外から見える通りでよくわかる。宇宙のことも、ちょっと大きいだけで、水と同じようなことだ。体はきっと水と同じなのだろう。それに比べ、自分は物ではなく言葉、情報だ。そもそもDNAに言葉のタネが仕込まれ遺伝しているともいえるし、この一回限りの体が生み出しているともいえるし、そうやって作り出された言葉の積み重ねが体のDNAとは別ルートで先祖から伝えられているともいえる。始まったり、終わったりしているのは、自分という名前なので、名前をつけなければ、始まりも終わりも無いのだ。自分も世界も時間も、すべて自分が言葉で名前をつけて作ったもので、だからそれらには始まりや終わりがあるはずだと思ってしまうのだ。 イ.自分はどこから始まりどこで終わるのだろう。言葉の心の働きである自分に、体のような始まりや終わりはあるのだろうか。自分の始まりは、脳内で、言葉の心の働きが始まった時だ。自分は体によって生み出された言葉の心の働きで、個性は無い。自ら生み出したと思っている言葉も、そのほとんどは先人が作り出した言葉の複写だ。個性とは、自他を差別したいという、感覚や感情の心が生み出す錯覚なのだ。言葉の心の働きである自分は、言葉そのものでもある。言葉は情報だから生も死も無い。言葉は発信され、共有され、記憶される。言葉は体や世代を超えて伝わる。体のDNAから独立した存在になる。体のDNAと同じように、言葉のDNAとなって、エンドレスに伝わり続ける。 ウ.言葉の心になっている間だけ自分が生じている感じがする。さらに複数の自分が脳内で話し合っている感じがする。自分は言葉そのものだという感じがする。脳の中に、感覚や感情の興奮の霧が生じ、一部が言葉に結露する。一滴一滴が全部、小人(こびと)の自分で、組体操を始める。この小人達は、先人が数百万年かけて育て増やした言語の大集団が、ウィルスのように、この頭の中に転写されて移り住んだものだ。言語は伝承や壁画、会話や書物などによって、個体や世代、時間や空間を越えて、ウィルスのように、脳から脳へと転写されていく。感覚や感情の刺激を受けて、言葉の小人がポッと現われると、その言葉として自分も現れる。小人達は自分でもあり、みんなでもあり、先人一人一人でもあるのだ。つまり誰でもない、人類共通の、時空を超えた、いわばDNAのような無人格のウィルスだ。このことを突き詰めれば、自分への執着は消えてしまう。 エ.母とダム湖の畔のベンチで弁当を広げた。すぐ近くの梢で鶯が鳴き始めた。去年、梅雨明けに来た時も、同じことが起こったのを思い出した。去年と同じ小鳥だろうか、子だろうか。父が大昔、飼育して、鳴き方を教えていたあの鶯と関係があるのだろうかなどと思って、つながっているようで懐かしい感じがした。この体は、DNAとして考えれば、35億年前に芽生え、試練を乗り越え、今日まで茂り続けている木の先端の、一枚の葉だ。DNAには生死は無い。一本の木の枝が分かれ続けるように、分裂し続けているだけだ。木と違うのはつながっている枝や幹が見えないことだ。つながっていないのではなく、つながりが抽象的なのだ。分裂して伸びた枝の大部分は途絶える。今地上に茂っているあらゆるDNAは、35億年間伸び続けられた枝の先端だ。この体はこの枝が今年付けた葉だ。言葉の心の働きである自分は、葉つまり体の中で、光つまり情報を受けて、養分つまり言葉を作る葉緑体のようなものだ。言葉は落ち葉になって積もり続け、腐葉土として木を養い続ける。それが言葉のDNAの海だ。珊瑚虫で考えてみる。DNAが、毎年新しい珊瑚虫つまり体を生み出す。珊瑚虫はCaつまり言葉を作り出し珊瑚の塔の一部を作る。個体の珊瑚虫は死んでも塔は残る。それが言葉のDNAの海だ。毎年新しい体を生み出す体のDNAの海と、体を越えて塔を造り続ける言葉のDNAの海があるのだ。この体のDNAは35億年前に流れ始めた一本の川だ。どんどん流れて、分かれ広がる。川なら再び合流することもあろうが、体のDNAは分かれたら合流は出来ない。ただ出会うのみだ。その時、勿論、過去の記憶などあろうはずもなく、敵か餌か無関心しか生じないのだ。一方、言葉のDNAには、同じ海の一滴のように、自他の区別は無い。出会えば混ざり合うのだ。 オ.TVでシュリーマンのトロイの遺跡の発掘現場を見た。城壁や戦跡、武器や装身具、遺骨や住居、生活用品などが掘り出され、年代順に並べられる。ヒトの細胞生物としての活動の復元だ。情報生物としての活動つまり言葉は、年代順に並んではいない。2千年以上前の言葉は、掘り出され解読された瞬間に、現在になる。言葉は体のようには死なず、ウィルスの冬眠のように在り続けるからだ。 カ.感覚や感情の興奮は、すぐに消えて、虚無に戻る。言葉にすれば虚無から脱する。他者の心は他者の世界にあって、他者が死んでその体が消えた時、他者の世界や心も消える。その他者が発信していた言葉は、みんなの言葉の一部になって在り続け、さらに別の人々に広がり続けている。言葉は不滅なのだ。 キ.他者の死は体の死に思え、自分の死は心の死に思える。晩秋、タネを散らし終えた草達が、冬を待っている。体は役目を終え、間もなく消える。草には自分はないが、ヒトには自分がある。体が死んだら自分はどうなるのだろう。自分は体に生じている言葉の心の働きだが、この世界を生み出している創造主でもある。体が消えてしまえば、自分も消え、自分が作っているこの世界も消えてしまう。発信した言葉は、自分が生きているうちに播いたタネだ。体の生死や自分の有無とは関係なく、言葉のタネは播かれた途端自立して、春が来れば新しい体に乗り移り、新しい自分に乗り移り、新しい世界を作るのだ。体のDNAとは別の、言葉のDNAとして、体や時間や空間を超えて、伝わり続けるのだ。 ク.体は、樹齢35億年の、体のDNAの木に咲く、毎年の花だ。言葉の心の働きである自分は、樹齢数百万年の、言葉のDNAの木に咲く、毎年の花だ。生まれてきたからには、自分も言葉のDNAの木に美しい花を咲かせたいと思う。言葉のDNAは体のDNAより速く進化する。言葉のDNAは、時空を超えて伝播していく。一人が、言葉を発したとする。驚くほど早く、地表を覆う70億人に広がり、さらに世代を超えて伝わり続ける。 ケ.冬虫夏草はキノコで、土中の虫に寄生して成長し、虫を虫の姿のままキノコにしてしまう。キノコは成熟すると地上に現れ、振り撒いた胞子が、次の虫を目指して飛んでいく。ヒトを冬虫夏草に例えれば、虫が他者で、キノコが自分、胞子が言葉だ。言葉という胞子を飛ばして、他者に広がっていくのだ。 コ.体のDNAは、体から羽化して、生殖細胞になって体から脱皮して、次の体を作る。言葉の心の働きである自分も、言葉を発信することで自分から脱皮することができる。他者の体が作っている自分に乗り移ることが出来る。 サ.言葉の心の成長が自分や世界や時間を成熟させる。発信された言葉は、体を超えて、時空を超えて、他者の自分に溶け込み、その一部となって、体のDNAよりもっと速く、広がり、進化する。 シ.二つの香木がある。香炉を整え、二つの香木を別々に温める。それぞれの香りは異なっている。新しい一人が部屋に入ってくる。そのヒトは一つになった部屋の香りを聞くことになる。自分を香木とするなら言葉は香りだ。自分は自分として生じ自分として死ぬが、発せられた言葉は、自分という殻を脱いで、言葉のDNAの海と一つになってしまう。水が大気と地上を循環するように、言葉のDNAは、人類に宿るそれぞれの自分を、時空を超えて循環する。 ス.感覚や感情の心に囚われて、自分が言葉の心であることを見失っているヒトには、現在の現実しか見えない。動物としての心だ。言葉で、自分や世界や時間を作って、感覚や感情の心から言葉の心に切り替えられるヒトもいる。この進化は、個体ごと、一代ごとに生じ、DNAのようには遺伝しない。しかし言葉がDNAの働きをする。言葉のDNAは牧草の種のようだ。食べられて、さらに撒かれて広がる。食べた者の中で発芽して、食べた者のDNAになって、乗っ取ってしまうウィルスのようでもある。 セ.ヒトは動物のままでありながら、一方で大脳新皮質が進化して、感覚や感情の心の他に言葉の心も持っている。言葉の心の働きは未熟なまま生じ、言葉のDNAの海から引き入れた言葉によって成熟する。 ソ.大雪警報の町を歩く。白く濁った空から、湧き出るように、雪の破片が落ちてくる。アスファルトに触れたとたんに溶けて消える。初めは跡も残らない。何も無い虚空で湧いた雪が、次々に突撃する兵隊のように、屍を重ねて消えていく。不思議だ。感覚や感情に囚われ、わが身に重ねて、物悲しくなる。虚空には見えないけれど気体の水が在って、冷やされて液体の水になる。さらに冷やされて固体の水になる。重くなって重力で地上に落ちてくる。言葉の心を働かせると、物悲しさは消える。よく見れば、次々に来る雪の兵隊が、わが身を犠牲にして、アスファルトから熱を奪い、溶かす力を失わせ、後輩達が生き残るための下ごしらえをしている。自分も、無数の先祖達、子孫達とつながっていることが思われ、明るい気持になる。 タ.夏の終わり。今朝も新しいセミが羽化した。鳴き声が変だ。途中でしゃっくりするように止まってしまう。地中で傷ついたのだろう。地上に出て来れただけで幸運なのだ。でも羽化がゴールではない。傷ついた声で力いっぱい鳴いている。これまでの一生のすべてを込めて鳴く。土中には来年以降に羽化する幼虫が沢山埋まっている。地上の♀ばかりでなく、土中の子孫たちにも聞かせているのだろう。人でいえば、子孫に言葉を伝えるようなものだ。 チ.体について考えるなら、体はDNAが動植物や鉱物を材料にして作った桶だ。DNAの水を湛えている。そんな桶がたくさん並んで、人類という体のDNAの海を形成している。♂♀の二つの桶の水を汲み上げて混ぜると、新しい桶と水ができる。一つ一つの桶には寿命が在る。体の先祖とは、新しい桶から見た元の桶のことだ。すべての桶の先祖は最初の唯一つの桶に至る。家系や血縁にこだわるのは、枝分かれを無視しする思い込みだ。一方、言葉の心の働きである自分の先祖について考えるなら、水つまり言葉をたたえた桶つまり一人一人の自分がたくさん並んで、言葉のDNAという一つの海を形成している。一つの桶の水は他のたくさんの桶から少しずつ分けてもらった水だ。誰が何処から分けてもらったのかは、ウィルスがどう移ってきたのかと同様に、複雑で判別不能だ。おまけに水は受発信しあって混じりあい、何処から何処までが自分なのかも分離不能だ。一つ一つの桶は体とともに消えるが、水はみんなの水のままあり続ける。水には自他も祖先もなく一体なのだ。 ツ.発信された言葉はみんなの心に在り続け、事あれば人々を励ます。物は何も語らない。残るのは、物でなく、発信した言葉だ。ある人が発した言葉が、みんなの言葉の一部となって、水面の輪のように広がり続ける。人は言葉の心の働きで、言葉はヒトからヒトに伝わることが使命だ。文字や絵などの記録になれば、独立した発信源になる。誰かへのさりげない一言や、一遍の書付は、みなの心の花園を、自在に飛び回る蝶なのだ。 テ.蝶は、幼虫から蛹になり、羽を得て脱皮して飛び立つ。食草を見つけ、卵を産みつける。言葉も発信されて、自分という殻を脱いで言葉のDNAとなり、他者の心に卵を産みつける。そこでもう一度体を得て生まれなおす。それが永遠に繰り返される。 ト.永遠の命を得る方法。自分は言葉の心の働きだ。だから言葉を作る事は自分を作る事だ。言葉は誰かに伝わると、その誰かに乗り移る。その誰かの自分になる。アルタミラの洞窟の壁画のように2万年以上埋もれて、誰にも読まれないとしても、いつか誰かが読めばその誰かになれるという意味で、生き続けている事になる。結果としてその誰かが現れようと、現れまいと同じことだ。つまり永遠の命を得る方法は、言葉を作ることだ。文字でなくても、誰かに話せばそれで十分だ。その誰かが洞窟の壁画のように別の誰かにつなげてくれるのだ。逆に言えば、祖先も父母兄弟も家族も、出会って言葉を交わした人々全て、さらに自分が接した言葉や作品などの全ては、今、自分になって在り続けているのだ。 ナ.言葉は、発信されると、自分の殻を脱いで、言葉のDNAになる。人類が蓄積してきた言葉のDNAが、自分に流れ込んで、自分を作っている。自分が発信する言葉も、言葉のDNAになって、自他を超え、時間や空間を超えて別の自分の一部になる。体のDNAが体の花を咲かせ続けるように、言葉のDNAは世代を超えて、それぞれの自分とその世界を咲かせ続ける。 ニ.体の形態や脳の機能は世代を超えて伝わる。遺伝子の組み合わせで個体毎に少し異なるが、世代が移る毎にシャッフルされるから全体としては均質が保たれている。しかし生きるノウハウは体のDNAでは伝わらない。ノウハウは言葉にしなければ伝わらない。現在の現実は生まれながらに見ることが出来るが、過去や未来は、生きる過程で、言葉で作らなければ見えない。 ヌ.言葉を受発信するたびに、自分が生じる。自分は、言葉の受発信をすることで生じている。脳の受発信機能が失われると、自分も消える。しかし、発信した言葉は、海に漂うブイのように発信を続ける。 ネ.いつからか、自分は自分だという気持ちが芽生える。この気持ちが自分の正体だ。普段は体を自分だと思っている。病気や怪我で体が思うように働かない時に、ああ体は自分ではなかったのだと思うことになる。自分は体から生じてはいるが、体ではなく心で、それも体と密着している感覚や感情の心ではなく、体を客観的に観察している言葉の心の働きだと分かる。父母や祖父母と自分との関係について考えた。父母や祖父母と自分は、この体を作っているDNAが流れてきた上流と下流という関係だ。父母や祖父母はDNAのパイプだ。体の本当の源は父母というより人類という種(しゅ)のDNAの海だ。パソコンに例えて考えた。体はハード、感覚や感情の心はソフトに当たる。自分はハードでもソフトでもなく、データだ。父母や祖父母からもらったのはハードやソフトで、これは父母や祖父母からもらったというより、人類共通のDNAの海から父母や祖父母を経由してもらったのだ。父母や祖父母から、ソニー製のハードにマイクロソフト社製のウィンドウズを搭載したパソコンつまり体と感覚や感情の心のセットをもらったが、データは搭載されていない。データつまり言葉は父母や祖父母を含め、兄弟や知人、先生やクラスメイト、本やTVなどから、その都度分けてもらうのだ。人類共通の言葉のDNAの海から汲み上げるのだ。そのデータの蓄積が自分だ。先生が懐かしいのは、空っぽだった未熟な自分に口移しで入れてくれた言葉が、今の自分になっているからだ。自分は、体と同様に一代限りの存在だ。自分と体の違いは、与えられたのでなく自身で生み出したという点だ。自分は言葉を発信する。その言葉は、時空を超えて、血縁を超えて伝わる言葉のDNAになる。自分は言葉の心の働きで、言葉のDNAの海を出たり入ったりする者なのだ。 ノ.体が、体のDNAから生じ、新しい体を生み出す生殖細胞つまり体のDNAの種(たね)を発信するように、言葉の心である自分は、言葉のDNAから生じ、新しい自分を生み出す言葉を発信する。 ハ.人類が共有する大きな一つの心のようなものがある。それが言葉のDNAの海だ。その大きな一つの心の飛沫が、一つ一つの身体や環境を得て、それにふさわしい一つ一つの言葉の心の働きである自分になる。言葉の心の働きである自分は、個別に、学習よって成長する。言葉の心の働きである自分は、言葉で自分や世界や時間を作る。発信された言葉は、「人類が共有する大きな一つの心のようなもの」に還流する。 ヒ.言葉は、発信されると、自分の殻を脱いで、言葉のDNAになる。一方で、人類が蓄積してきた言葉のDNAの海が、それぞれの言葉の心に流れ込んで、自分を作っている。 |