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@      「世界の香り」を身に着け持ち帰る

1)自分は、何処にいるのだろう

a.    生物は物を情報として感知している。物に触れずに、反射光を見たり、空気の振動を感じたり、香りをかいでいる。味は食物の香りだ。見かけは体の香りだ。音は振動の香りだ。感覚に入るのはみな香りだ。在ると思っているすべてが、そのものでなく、香りなのだ。すべての現実は事物そのものではなく事物の香りなのだ。それを言葉に変換したのが自分にとっての本当の世界だ。色即是空の意味だ。

b.    言葉の心の働きである自分は、感覚や感情の心が映し出す現在の現実とは異次元の、記憶の過去や願望の未来にいる。

c.    香炉の中に世界の全てがある、というのは大げさではない。世界は脳の中に生じている言葉だ。香りが香木の中から生じるように、世界は自分の中から立ち上る言葉なのだ。言葉の心の働きである自分は、情報なので、物より香りの方が、次元が近い。現在の現実を感覚や感情の心で味わっても、素通りで、何も残らない。言葉にすれば、言葉の心の働きである自分の一部となり、その時の現在の現実を記憶の過去にして、いつまでも残すことが出来る。

d.    鼻が感知しているのは香木ではなく、香りであること。見えているのは月ではなく、月が反射している太陽の光であること。

e.    イルカや蝙蝠にとって、世界の全ては、音の反射の形をしている。蜂や蝶なら、紫外線の反射の形をしている。モグラならにおいの形をしている。人は五感がバランスよく働いているが、それでも世界は可視光線の反射の形でしか見えていない。においも犬の数万分の1しか見えていない。音や味や温度についても同じことが言える。鳥と違って地上からしか見えていない。鳥と違って地磁気が見えない。要するに見えているものしか見えないのだ。だから、見えているものが全てだと思ってはいけない。自分に与えられたこの世のすべては、物そのものでなく、香りのようなものだ。脳が生み出している情報だ。香木でなく、その香りを味わっているように。

f.    物はそのままでは物ではない。物が発する情報が受信されて初めて、受信者にとっての物になる。香りは、鼻の持ち主が感じて初めて生じる。本や文字は香木や香道具に当たる。本や文字を読むことは香木を焚くこと、読んだ者の心に生じる言葉は香りに相当する。反射してくる光や音、放出される分子は、物と心の架け橋だ。発信された香りや言葉は、発信者のものではなくなり、受信したみんなのものになり、みんなの心の一部になり、さらにみんなからも発信されて、どんどん広がっていくのだ。

g.    香を焚き、香りに感覚を澄ますと、自分が住んでいる世界の本当の姿が見えてくる。世界の内側にあると思っていた心が、外から世界を包んでいるのが見えてくる。自分の外にあると思っていた世界が内にあるのが見えてくる。自分の世界と他者の世界は別の島宇宙で、糸のようなものでかろうじてつながっていて、光の点滅つまり言葉がその糸を行き来しているのが見えるようになる。

h.    ヒトには新世界を目指す本能がある。新世界を思うだけで興奮する。征服者が敵地や未開の地を目指す、探検家が未踏の高峰や極地、深海や宇宙を目指す、普通の人も、行った事のない場所、見たことのない物、食べたことのない物を目指す。聞いた事の無い音や香りを聞く、触れたことの無いものに触れるという意味もある。今は見慣れたこの家や道、空き地や小川も、子どもの頃の自分にとっては未知の世界、新世界だった。住んでいるAさんには住み慣れた町も、他所から来たBさんには未知の町だ。未知や新世界は、地理的な場所でなく、個人個人に生じる言葉だ。青い鳥の物語が教えるように、新世界は、外界でなく自分の脳の中にある言葉なのだ。技術者や科学者や哲学者が目指すのも、作家が物語を生み出し、読者が物語に求めるのも、言葉の新世界の開拓なのだ。

i.    道端の、煤けたガードレールの足元に、枯れた花束が供えられている。最近ここで、事故死があったのだろう。何かがここに居る感じがする。霊魂はあるのだろうか。あるとすれば、旅立った死者の心か、花束を供えた人の心か、通りすがりに見て動かされた自分の心か。自分が感覚や感情の心つまり現在の現実の住人なら、ここには何も無いことになる。言葉の心なら、ここに記憶の過去が生じているのが見える。ここに現在の現実としてあるのはアスファルトの道とガードレールばかりだが、花束を置くことによって、花束が言葉になって、過去という異次元の世界を映し出している。

j.    晩秋、午後の光に満ちた病室で、宙に浮いたような気持ちで天井辺りを眺めていた。ベッドを囲っているカーテンの金具が、鶴のお雛様のように見える。今は、絵で描きたいこと、言葉で書きたいことがたくさんあるが、子供の頃なら、こんな時、何も頭に浮かばなかっただろうと思う。生きて来た間に言葉が降り積もって、その言葉が書きたいものとなって頭に浮かんでくるのだろう。

k.    氷のブロックで、大きな中空の像を作る。つまり言葉で自分を作る。その空洞に、同じ氷のブロックで、見聞きしたり、想像したり、望んだりした物や風景の模型を作って配置する。つまり言葉で世界を作る。言葉で作る世界は物語になる。記憶の物語が過去、願望の物語が未来だ。思い出は過去の物語だ。アルバムはそのきっかけに過ぎない。他人が見ても、アルバムは思い出に変貌しない。氷のブロックで作った自分の像の中身、つまり世界は自分だけの物語でできている。

l.    5つの窓がある部屋にいる。窓は五感を意味している。それぞれの窓から光や香り、音、感触、味などが流れ込んでくる。感覚の心の部屋だ。この部屋には、窓から差し込む、刻々と変化する光や音しかないという意味で、言葉の心の働きである自分が安らげる世界ではない。その奥は感情の心の部屋だ。この部屋では感覚に損得をつけている。外の具合に右往左往するだけという意味で、自分が安らげる世界ではない。最後は言葉の心の部屋だ。言葉の心の働きである自分は、この部屋の中に居て、流れ込んで来る香り、音、感触、味、損得などを、言葉のDNAの海から受け継いだ言葉の型枠にはめて、言葉に固め、積み上げている。こここそ、言葉の心の働きである自分にとっての本当の世界だ。自分にとって、感覚や感情の心が見せる現在の現実はあの世で、あの世と思われている言葉で作られた過去や未来こそ、この世なのだ。自分として到達できるのはここまでだ。この先、この部屋から発信された言葉は、自分という殻を脱皮して、言葉のDNAになって、言葉のDNAの海に戻るのだ。

m.    自分は言葉の心の働きだ。自分にとって世界は言葉で出来ている。自分が世界を作っている。リンゴを見る。リンゴという言葉が浮かぶ。その瞬間このリンゴは物理的に無数にあるリンゴつまり虚無でなく、自分の世界の確固たる唯一のリンゴになる。あなたやみんなの世界にはないこの唯一のリンゴになる。「星の王子様の花」の話だ。地球の裏の畑に実っているリンゴの話を聞く。そのリンゴが言葉になって心に浮かぶ。そのリンゴはその瞬間からこの世に生まれ、自分のものになったのだ。

2)世界とは何なのだろう

a.    世界は情報だ

ア.世界は2つ有る。感覚や感情の心が映し出す現在の現実と、言葉の心が言葉で作る記憶の過去や願望の未来だ。

イ.何を見ている。物ではなく物が反射する光を見ている。物理的な物そのものではなく、脳が、感覚や感情の心や言葉の心で作った情報を見ている。感覚や感情の心が映している情報を現在の現実だと見ている。言葉の心が生み出している情報を過去や未来だと見ている。

ウ.満腹でもおいしい食べ物、喉が渇いていなくても美味しい飲み物、寒くなくても心地良い毛皮、必要なくても貯めておきたい物。人はそれを求めて今も進んでいる。本当は、その時、心が空腹や渇きや寒さを訴えているのだが、本人は、体が空腹や渇きや寒さを訴えているのだと思っている。

エ.湯豆腐の味。弾力は表面温度70℃が適温で、旨みは中身の温度50℃で最高になる。豆や水や製法より、豆腐の温度と、誰とどこでどんな風に食べるかで決まる。美味即是空なのだ。

オ.眼が、見ることで世界を把握しようとしているように、口も食べることで世界を把握しようとしている。口や舌が食べているように思っているが、実際は脳で情報として食べている。五感のすべてを動員して食べている。感覚や感情の心が現在の現実の刺激を、言葉の心が記憶の過去と願望の未来を一緒に味わっているのだ。悲しみや痛みなどが強い時、舌や味蕾は変わらないのに、味を感じなくなる。暑い時冷たい物が、寒い時は熱い物が美味しいと思う。

カ.食べる前に、脳の中で、どれだけ食欲を盛り上げられるかで、食事の満足度は決まる。自分のために自分で作った料理は美味しくない。一人で食べても美味しくない。いつも通りでは美味しくない。

キ.食事には2面ある。「食べる」と「味わう」だ。栄養を得るための食事と、癒しを得るための食事だ。消化器の食事と脳の食事だ。両者は重なって生じるが、繰り返すうちに後者の比重が増してくる。快感物質の分泌が目的になって、際限なくエスカレートしてしまう。

ク.名物はどこが普通の食べ物とも違うのか。例えれば、名物は刺身で、物語や名所がわさびだ。わさびがあって初めて、生魚の切り身が刺身、脳の食べ物になる。名物をお土産で貰っても、脳の味覚を刺激する場所や物語を離れたら、舌先だけを刺激するただの食べ物だ。買った人が名所で味わった物語の滓だ。

ケ.釣り。狙う魚を特定し、習性を調べ、場所や季節を予測し、えさや針や糸や竿を工夫し、釣り方を駆使して、魚と知恵比べをする。釣れるまでが面白い。釣れたらおしまいだ。だから実際の釣りより釣り場の推理や道具の工夫の方が面白い。目的は、言葉になった情報生物としての魚なのだ。細胞生物としての魚ではない。

コ.写真といえばネガフィルムだった頃、ネガ入れから望みのネガを探していていつも思ったのは、こんなちゃちな仕掛けで、自分の目は世界を見ているのかという、虚しさだった。今はさらに進み、すべての感覚は、ONOFFの刺激に組み合わせで合成され、再現できることも分かってしまった。

サ.物質の根源である素粒子もエネルギーも情報だ。体も情報を生み出す働きであるDNAが、物質を組み合わせて作っている情報だ。感覚や感情の心は、神経や大脳辺縁系が刺激を受けて作った情報だ。自分は、言葉を生み出す働きである言葉の心が、言葉を組み合わせて作っている情報だ。そんな自分が見ている世界も時間も、自分が作り出す言葉という情報だ。そんな自分が見ている宇宙も世界も言葉という情報なのだ。

b.    世界は言葉だ

ア.人類の脳が考え得る最大の入れ物は、昔は神の懐だったが、ここではそれを世界と呼ぶことにする。世界を想像するには世界の創造者を想像することが必要だ。神、科学的な言葉の体系、生物、人類、みんな、自分などだ。ここでは世界の創造者は言葉の心の働きである自分だということにする。言葉の心の働きである自分が作るのだから、世界は言葉だということになる。自分は言葉の心の働きで、世界は自分の言葉だから、世界は自分そのものだということになる。自分以外は世界の外、つまり虚無だ。自分が生まれる前は、すべてが虚無だった。この体が生まれても、言葉の心の働きである自分が生じる前は、すべてが虚無だった。言葉の心の働きである自分が生じた後も、言葉にできていないすべては虚無なのだ。世界は物でなく情報つまり言葉なのだ。感覚や感情の心が映し出す現在の現実も、言葉の心の働きである自分が言葉にしなければ、虚無だ。見えているだけでは虚無だ。世界は、自分が自分の中に作る言葉なのだ。

イ.体は生老病死の宿命に流される。感覚や感情の心も川のように、現在の現実になって流れ去るだけだ。流されない言葉のレンガで、自分や世界や時間を築こう。

ウ.感覚や感情の心が見せる現在の現実がこの世で、言葉の心の働きである自分が作る記憶の過去や願望の未来があの世だ。あの世は、この世と別のどこか遠いところにあるのではない。次元が違うだけで同居している。この世は神経や大脳辺縁系が五感を通じて感じる信号の世界だ。あの世は、大脳新皮質の言葉の心の働きである自分が、自分の中に作っている言葉の世界だ。心はこの世とあの世を行ったり来たりしている。心があの世にいる間、言葉の心の働きである自分になっている。つまり我に返っている。逆に思えるだろうが本当だ。

エ.本当のこの世とは、言葉の心の働きである自分がいる世界のことだ。自分は、感覚や感情の心がいる現在の現実とは異次元に生じている。生老病死も自他の差別も競争も関係のない世界にいる。

オ.世界は果てしなく広くて、とうてい知りつくすことが出来ないように思う。昔の博物学者のように、世界は外に広がって、自分はその一点にすぎないと思うと無限に未知が広がる世界になる。世界の果ての隅々にまで旅行しなければ理解できない気分になる。虚無の宇宙で迷子になった気分になる。世界は自分の脳の中に自分で作っている言葉だ。そう分かれば、世界を知るとは自分を知ることだと気がつく。それなら誰にでも、どこへも行かなくても可能だ。

カ.色(いろ)というものは外には無い。脳が光の波長から脳内で作る信号だ。3原色があればすべての色が作れる。脳を離れて色などない。脳は3色の混合で世界を仮想し、いくつかの単語で世界を仮想し、8音階で世界を仮想し、5味で世界を仮想している。それで十分世界が作れるのだ。世界はすでに在るものでなく、言葉や色や音で、一人一人が心の中に作り出すものだ。

キ.交差点で考えた。交差点は空間としては一つだが、時間で区切って二つにしている。空間と時間は別次元にあるのだ。一人一人別々の無数の世界を共存させるために、すべてをこのように分け合っている。世界は、普段は個人ごとに別々にあって、時々交叉するのだ。

ク.箱の中で生まれたアリを上から観察する。アリにとっての世界はこの箱の内側だけつまり現在の現実だけだ。それを見ている自分には、視覚が届く限りの現在の現実と、記憶の過去と、願望の未来が見える。しかし自分が言葉にしていない事物は、箱の中のアリと同じで、見えていない。

ケ.言葉の心の働きである自分は、世界のすべてを、自分と同じ次元に属する言葉に変換して認識している。自分の中に言葉の世界を作っている。アメリカ大陸はもともとあって、インデイアンによってすでに発見されていたのだが、コロンブスと言葉を共有する人々の勢力の方が強かったので、アメリカ大陸はコロンブスの発見によってこの世に生じたようにされてしまった。星だって、自分の言葉となって初めて、自分の宇宙に生じる。こうやって、自分は外の事物を発見しては言葉に変えて、自分の世界の一部にしているのだ。このようにして脳の中の自分の中に、言葉で世界を作っている。科学者が発明や発見に嬉々として取り組むのも、言葉の世界で、神のように天地創造ができるからだ。

コ.言葉の心の働きである自分は、環境を客観的に観察、評価する為に、言葉で環境の模型を造る。その模型が世界の正体だ。勿論、言葉の心の働きである自分が作るのだから、作る世界も言葉だ。言葉にならない事物は、この世界には含まれない。言葉になった時点で、世界に加えられる。実際の世界では、発見しようとしまいと、アメリカ大陸はコロンブス以前から存在したし、ガリレオが発見しようとしまいと、地球は太陽の周りを廻っていた。しかし、情報は、誰かに受信されて初めてこの世に生じる。学者や探検家が何かを発見したことが言葉で伝えられれば、受信した人々の世界の一部に加わる。アメリカを発見したのが、インデイアンではなかったのは、当時のヨーロッパ人に、インデイアンの言葉が伝わらなかったからだ。

サ.箱の中の蟻には、箱の外が存在しないように、ヒトにも宇宙の外側や宇宙を生み出したものは存在しない。見たことも、聞いたことも、想像したこともない物は、現実にあるとしても、言葉になっていないので、存在しない。宇宙の外側や宇宙を生み出したものを言葉にしたヒトにとっては、現実にどうであろうと、そのヒトの世界に宇宙の外側や宇宙を生み出したものは厳然として存在している。

シ.見えている、感じている世界、つまり感覚や感情の心が映し出している世界は、言葉の心の働きである自分が居る記憶の過去や願望の未来という言葉の世界とは異なる。

ス.あの世は、この世と別のどこか遠いところにあるのではない。脳内に電気信号としてある。この世は感覚や感情の心が映し出す現在の現実として生じる。あの世は、言葉の心が作り出す、記憶の過去や願望の未来として生じる。

セ.見えていてもいなくても、必ずしも、在るとか、無いとか、断定できないことに気がつく。

ソ.ヒトが言葉で自分の世界を作り始めるのはいつ頃からだろう。点や線、面が描けるようになる。その前に、事物が点や線や面に思えるようになる、さらに前に、事物が見えるようになる、もっと前に、胎内で音が聞こえたり、羊水を感じている時からだ。つまり脳が外界を感知して世界を生み出すのだ。音は発信源ではなく空気の振動だ。生物は外界の物を認知しているのでなく、物から発せられる信号を感知している。点は存在する物ではなく位置だ。線は長さで、面は広さ、三角や四角や円は図形だ。すべて、実際には存在しない抽象的な情報だ。山を三角に、家を四角に、顔を円に見なしている。リンゴとリンゴを比べる時は、円と見なして直径に当たる場所に補助線を引いて、その長さで大きさを判断している。実際には無い点や線、面や図形や補助線で世界を作っている。さらに進んで言葉でも作っている。というか線や面や図形や補助線も言葉の一種なのだ。リンゴを食べる。本当のリンゴを食べているのだろうか。見た感じ、口に含んだ時の香りや味、歯ざわり、舌触りをリンゴだと思っている。喉を過ぎれば消えてしまう。体が本当に食べるのはこれからなのだが、そこで消えてしまう。

タ.世界は、その人が、それまでに蓄積した言葉の塔のことだ。

チ.ダーウィンが見つけたのは、新生物ではなく進化論という言葉だ。ガリレオが見つけたのも、地球ではなく地動説という言葉だ。アインシュタインが見つけたのも、新光や新エネルギーではなく相対性理論という言葉だ。何かを見つけたのでなく、説明する新しい言葉を作り出したのだ。言葉の心の働きである自分は、説明する新しい言葉を作り出すのが使命なのだ。

ツ.百万光年の向こうで今起きている星の誕生は、百万年経たなければ、この地球からは観察できない。その間、地上ではこの星は誕生しているのかいないのか。感覚や感情の心では、この星は誕生していないことになる。言葉の心では、そのことを知る前は、その星は誕生しておらず、言葉にした瞬間から誕生したことになる。実際に宇宙の果てでその星が誕生しているかどうかは関係ない。

テ.ヒトが感知するこの世のすべては、象徴、記号、言葉などの信号だ。人が感知するこの世のすべては、そのヒトのブロッケン現象だ。光を背負った自分の影が雲に映り、世界や時間に見えるのだ。

ト.ヒトの歴史を見ると、強者は油断して情報への対応力が低下し、弱者が情報への対応力を進化させて、勢力を交代させていくように見える。何故情報への対応力が、現実の力に勝るのだろう。未来の力が現在の力に勝つのだ。言葉の力が感覚や感情の力に勝るのだ。あの世の力がこの世の力に勝つのだ。それは、ヒトの活動のすべてが情報で、本当の世界は、記憶の過去や願望の未来に、言葉で作られているからだ。

ナ.昔話によくある、異界とこの世を出入りする物語は何を意味しているのだろう。異界とは何だろう。古事記のイザナギは死者の国、桃太郎は鬼が島、浦島太郎は竜宮城、村人は桃源郷へ、三蔵法師は天竺へ行って、戻ってくる。高市皇子「山吹の、立ちよそひたる、山清水、くみに行かめど、道の知らなく」も黄泉の国、死者が住む霊の国のことを言っている。この世の者が、霊の国へ迷い込んで、夢から覚めて元通りという筋書きだ。桃太郎は西遊記浦島太郎はアリスと似ている。夜が明るくなって、身の回りに霊が住む余地がなくなってからは、海底や地底、極地や暗黒の大陸、宇宙や恐竜時代が異界の代わりになった。しかし今はもう、外界に異界を求めるには無理がある。異界は、インターネットや小説や映画が生み出す言葉の世界にしかない。

ニ.地球や宇宙は世界ではない。虚無だ。言葉の心が世界を作るための素材に過ぎない。

ヌ.宇宙や地球、空や星や大地や海、世界は自分の外に広がる何かだと思っているが、見えているのは感覚や感情の心が映し出す虚無で、本当の世界は脳の中で自分が作り出している言葉なのだ。脳の中の宇宙に言葉の星が輝いて、星座になっているのだ。自分や世界や時間も、脳の中で自分が生み出している言葉なのだ。

ネ.世界は言葉で、自分の中にある。それも、一人一人、別々に。もしかしたら犬や鳥も、魚も、虫も、バクテリアやウィルスにまで一つずつある。それでは、今、見えて、触って、歩いているこの外界は、一体何だというのか。大きな世界に皆で一緒に生きているのではないのか。その世界は自分がいてもいなくても存在し、人類の発生前から絶滅後も、未来永劫あるものではないのか。人類の知らない遠くの星にも世界があるのではないのか。実はそれは、感覚や感情の心が映し出す、現在の現実と言う錯覚だ。虚無だ。一人一人の言葉の心が作り出している脳の中の言葉の塔が本当の世界だ。

ノ.美しい景色を見ても、興味が無い人にとっては虚無だ。世界は対象から生じるのでなく、見る人の心に生じる信号から生じるのだ。

ハ.孫が、一番好きな玉子焼きを残して、そうでない順に食べていくのを見て、言葉の心が成長したなと思った。食物は、口にいれて舌で味わっている時だけが美味なのではない。言葉にした食物の美味は、待っている時から始まり、飲み込んだ後も思い出せる。舌で味わうのは感覚や感情の心に映る現在の現実だ。言葉にすれば記憶の過去や願望の未来も楽しめるのだ。想像している間は、口にいれて舌で味わっている時とは異なる美味がある。美味しさは感覚の心よりも、言葉の心の方が、より長く、深く味わうことが出来る。人だけがする技だ。

ヒ.言葉と香りは、物ではなく情報だと言う点が似ている。自分は言葉の心の働きだから、自分にとっての世界も物でなく言葉なのだ。自分にとってこの世はすべて言葉つまり香りのようなものだ。感覚や感情の心が映し出している現在の現実は自分にとっては虚無だ。言葉にして初めて自分の世界の一部になる。世界は言葉なのだ。

フ.世界とは何だろう。地図や地球の表面を世界だと思っている。自分もそこに住んでいると思っている。自分は細胞生物である体が生み出した情報生物だ。体は地表の「この世」に住んでいるが、自分は情報だから、異次元の「あの世」に住んでいる。体と心は住んでいる次元が違うのだ。「この世」は情報である自分にとっては虚無なのだ。自分が作った言葉の「あの世」が、自分が住む本当の世界だ。

ヘ.言葉の園の園丁である自分にとって、世界は言葉の花園だ。その花園は自分が作っている。そうして、花園はみんなが一つずつ別々に作っている。持っている。

ホ.現在の現実つまり日常生活より、演劇や小説、映画の時空にいるほうが快適な感じがするのは何故だろう。体を動かさないで済むからか。しかし、体を動かさないのは楽でもあるが苦痛でもあって、快適の原因ではない。言葉の心である自分は、感覚や感情が受けた刺激つまり現在の現実を言葉にしなければ受け容れられない。面倒だ。演劇や小説、映画は作者によって、予め言葉に加工された現在の現実を楽しめる。自分は体でなく言葉の心の働きで、物語は自分と同じ次元の世界だから、居心地がいいのだ。

マ.自分は世界を、映画の観客と同じように見ている。スクリーンでなく光の変化を見ている。光でなく物語を見ている。スクリーンは物そのもの。光は五感に差し込む刺激。物語は言葉のこと。

ミ.感覚や感情の心が映し出す外界は虚無で、言葉の心の働きである自分が言葉にして初めてこの世界の一部に組み込まれる。世界は自分が作る言葉の塔なのだ。

ム.自分が言葉の心の働きだと気がつけば、世界の正体が言葉であることが分かる。自分に見えているのは言葉だと分かる。自分を感覚や感情の心だと錯覚している時は、世界を、感覚や感情が映し出す、物や刺激でできた現在の現実のように思ってしまう。

メ.19世紀頃までは、異界は海底や地底や異星だったが、それも怪しくなってきた。みんな竜宮城が信じられなくなって久しい。異界そのものを見失ってしまっている。本当の異界は、異次元にあるのだ。それも一番身近な自分の中にあるのだ。鏡に鏡自身が写らないのと同じだ。竜宮城は、海底というより、自分の中に言葉で作るものだ。自分の中には、細胞と液体しかないというのは、映画にはスクリーンと光しかない、というのと同じだ。

モ.世界は言葉の心の働きである自分が生み出している。一人一人が、脳の中に作っている。世界とは一人一人が言葉で積み上げた塔のこと。宇宙に広がっていたり、地球に乗っかっていたり、社会や国や地域の形をしていたり、物語のようなものだったりだったりするが、すべて自分が自分の中に築いた言葉の塔だ。

ヤ.満天の星空や、山頂の広大な見晴らしは、感動的だが、捉え所が無くて虚しい感じがする。その時働いているのは言葉の心だ。感覚や感情の心の感動は残らないから、言葉の心の働きである自分は虚しく思うのだ。言葉は額縁だ。感覚や感情を切り取って脳の中の世界にはめ込む言葉にする型枠だ。小さな窓から見える空。時々、雲や鳥が通り過ぎていく。太陽も月も星も小さな窓を通り過ぎていく。こちらの方が本当の世界の在り方に近いのだろう。

ユ.みんな、世界は現在の現実だと思っている。外に広がる宇宙のようなものだと思っている。しかし本当の世界は、一つ一つの命が自分の身を守り生かすために、自分の中に描いた自分にしか見えない言葉のようなものだ。同じ地球にいても、人にとっての現在の現実は、蟻やモグラや魚にとっての現在の現実とはまったく異なる。ヒト同士でも君と僕では違う現在の現実を見ている。見ている角度や位置や感覚の精度が違う。うれしい時と、不安な時、悲しい時、満腹や空腹、酔っている時ではまったく違った現在の現実が見える。一人の時と、孫と一緒の時ではまったく違った現在の現実が見える。同じ自分でも、子供の頃と今ではまったく違った現在の現実を見ている。昨日の自分と今日の自分ではまったく違った現在の現実が見えている。今この瞬間と次の瞬間でもまったく違った現在の現実が見えている。さらに、言葉で作っている本当の世界について言えば、抱いている記憶や願望が違う。基盤となる知識や経験、思考方法や感情のパターン、興味の方向が違う。思考に使う言語も違う。世界は対象の側にあるのでなく、見る側に生じている夢のようなものなのだ。

ヨ.この世は一人一人が生み出している言葉だというと、虚しいと思う人もいる。それは無意識のうちに、この世は本来、物であるべきだという感覚や感情の心にとらわれた見方だ。世界は感覚や感情の心に映る現在の現実だと思っている。自分を体だと思っている。体を物だと思っている。でもその体ですらDNAという情報が生み出している情報なのだ。この世は情報だ、自分も情報だ。自分こそこの世を生み出している言葉の心の働きという情報なのだ、と考えるといい。

ラ.台風一過の青空だ。稜線の梢が、空の青に食い込むのこぎりの歯のように光っている。白い雲の峰が山の向こうから乗り出して、こちらをのぞきこんでいる。眺めているだけで清々するがこのまま忘れてはもったいないと思い、写真を撮る。さらにこの感動を言葉にする。写真はいつか撮ったことすら忘れてしまうだろう。孫が見ても無意味だろう。言葉にすれば、心に溶け込み、青空も山も雲も、生きている限り自分の中に存在し続けるだろう。記憶は消えるが、写真は消えないから、写真の方が確かだというのは、自分が言葉で世界を作り出しているということが分かっていないのだ。

リ.東名の海老名のSAで、名物のメロンパンをぱくつく人々がいた。一口ごとに、しげしげ眺めたり、匂いをかいだり、グループで情報交換したりして、全身で味わっている。指の感触、目や鼻の感覚、舌で順繰りに味わっている。パン屋の看板に張られている能書きや新聞の切抜きの拡大コピーを読んだり、感想を話し合ったりしている。物としては各器官がそれなりのやり方で食べている。それ以上に脳が情報として食べている。

ル.安心や不安とはどういうことなのか考えた。世界は空間でなく、言葉の心の働きである自分が作る言葉の塔で、自分はその中心点だ。安心や不安は、その塔の中での自分が感じる住み心地なのだ。どういう時に安心と感じ、不安だと感じるのだろう。自分も世界も時間も言葉として一貫していると安心、どこかが断絶していると不安なのだろう。「自分は外界でなく言葉の塔の中に住んでいる」と考えれば、よく分かる。

レ.言葉の心の働きである自分にとっては、美しい花が咲いているのでなく、「美しい花が咲いている」という言葉が咲いているのだ。

ロ.ファミレスで、隣の席に3歳くらいの女の子を連れた若夫婦が座って、食事をしている。突然、舌足らずに「大きな栗の木の下で・・・」と歌い始めた。聞いたままの音をなぞった言葉以前の声だった。まだ言葉を作る力が弱いのだろう、幼い頃の気持ちを思い出した。言葉で把握できない外界は、底なし沼のように思え、何が起こるか分からない感じで、恐ろしく、とても不安だった。言葉が発達する思春期になると、願望が支配を強め、願望が映し出す未来の世界に支配された。そのおかげで、人生はばら色で、自分が祝福されているような気分になれ、活力も湧いていた。世界は自分が言葉で作っているものだ。そう思うことで、人は安心できる。この年齢になって、やっと世界を言葉でつくる力が追いついてきた。言葉の心は時間としては過去や未来に属している。過去を記憶し、未来を夢見る。そのようにできている。それが、ヒトという種(しゅ)が生き延びてきた戦略なのだ。

ワ.川原でバーベキューをしているポスターを見て考えた。何をどのように楽しんでいるのだろう。食べているのは肉や酒ばかりではない。家族や仲間がいる。日常つまり現在の現実とは違う時空にいる。

ヲ.大脳新皮質が言葉の心を作り、言葉の心が言葉で自分を作り、自分が世界や時間になっている。眠気が襲ってくる。少し寝ようと思う。目を閉じる。意識が消えていく。しばらくして意識が戻ってくる。目を閉じたまま、自分は今どこかにいるのだなと思う。でも、今がいつで、ここが何処で、どんな状態でいるのか分からない。だんだん思い出してくる。眠っている間、気を失って、自分も世界も真っ白になっていたなと思う。途中で少し夢を見た気もする。眠ると消えてしまったり、眠っている間、消えたり点いたり、起きると戻ってくる自分や世界や時間とは何なのだろう。言葉の心で見た夢は思い出せるはずだ。しかし、実際にはほとんどの夢は思い出せないから、夢のほとんどは感覚や感情の心が見るのだろう。

ン.感覚や感情の心で見ればこの世のすべては物であるように見える。しかし言葉の心の働きである自分にとっては、この世のすべては言葉なのだ。石のかけらがある。地質学者はそれが安山岩だとか、石英や輝石の混合物だとか、珪素で出来ているとか、分子とか原子とか、原子核、電子や素粒子という風に、感覚や感情を除いて、つまり言葉にして分類し、それが物の正体だと主張するだろう。私なら、道具や武器、記念品や貴重品、無視べき虚無だという言葉にして分類し、それが物の正体だと主張するだろう。人それぞれだし、同じ人でもその時々で異なるだろう。物は人に見られる前は虚無だ。見られた瞬間に、虚無がその人の願望をまとって物という言葉になる。物は言葉だったのだ。言葉になっていない物自体というのは虚無なのだ。不確定性の理論というのがある。人に見られるとその影響で物自体が変化してしまう、つまり、観察者抜きでは物は語れない、つまり物は存在せず言葉が存在しているという理論だ。粘土のコップがある。コップを知らない人には粘土に見える。コップが不要な人にはガラクタに見える。興味の無い人には見えもしない、虚無だ。物は見る人の願望から生まれた言葉でできているのだ。

ア.見えたり感じていることを、現在の現実だと思っている。自分を顔だと思っているのと同じだ。家は建材のような物なのだろうか。氷河時代の人が作った、マンモスの牙と毛皮で組んだテントと、新建材のプレハブ住宅とは、家として違うのだろうか。家族がいて自分の居場所があるのが家だと言う意味では、同じだろう。ブッシュマンの露天の焚き火の回りも同じ意味で家だ。家族が身近な分、かえって本当の家だ。家は物ではなく言葉なのだ。

イ.死者の写真にほほ擦りをしたり、話しかけたり、拝んだり、祈ったりする。仏像や仏壇や墓石や朝日や夕日を拝んだり祈ったりする。位牌にも、文字にも、故人が宿っている感じがする。体が消えても、自分の中に、言葉になった故人がい続けていて、それらに鏡のように映るのだろう。

ウ.幼い日々を過ごした土地を40年ぶりに訪れた。道や学校や消防署はあったが、肝心の故郷が見当たらない。故郷は心の中に作られるもので、場所や建物とは関係が無いのだ。その意味で、故郷は、この世のものではない幽霊なのだ。当時の記憶が、故郷という言葉の塊となって、保存されているのだ。故郷を探しに、地表をウロウロしてしまったが、自分は40年間、自分の中に故郷を抱えて歩いていたのだ。

エ.北アフリカの民主化の波で、昨夜、リビアが最終局面を迎えている。感覚や感情の心でいるヒトの群れは、バラバラだったり烏合したり、癒しを求めて外界を右往左往する。言葉の心でいるヒトの群れは、言葉によって結集し、救いを求めて進む。言葉は情報で、自他の区別がなく、出会えば合流する。体や、感覚や感情の心は、力で潰すことは出来るが、言葉になると、力とは異次元の情報なので、言葉によってしか影響できない。それも消すことはできず、新しい言葉を塗り重ねる事しか出来ない。

オ.「昔々、◇◇に、○○がいました。○○は△△したいと思いました」。物語は、時間と場所と願望から始まる。一人一人の世界もこのような物語で出来ている。子や孫に、楽しい物語を聞かせてやりたいと思う。昔々、あるところに、○○がいました。昔々、あるところに」とは、物語の入り口がある現在の現実のことだ。ここから、言葉の心が作る過去や未来という異次元、あの世への入り口が開くのだ。

カ.海には向こう岸があると思い込んでいる。でも地球は丸いと知ると、向こう岸があるとは言えなくなる。宇宙にも果てがあるはずだと考えている。宇宙の果てとは何なのだろう。道の行き止まりのような物理的な壁を想像している。本当は、五感や計測装置のみならず言葉の心の想像力も届かない限界のことだ。そうだ、宇宙の果てと言っているのは、自分の外の何かの事でなく、自分の言葉の心が到達出来ない先の虚無のことを言っているのだ。宇宙は光の速度で膨張している。本当は言葉の心の働きである自分の、言葉の射程距離の拡大に合わせて膨張しているのだ。宇宙の果ては言葉の心の働きである自分の限界、言葉の向こうなのだ。

キ.新しいファッションも、暗黒エネルギーや暗黒物質も、宇宙の果ても、言葉にされた時、この世界に生じるのだ。

ク.サクラの美はどこから生まれるか。花からか。見る人の心からか。父が3月に死ぬ前後、病院に通った。途中桜並木で、死の前後は花のトンネルだった。14年経ったが、今も桜並木を通ると、その時の気分を思い出してしまう。私が好きなサクラは、実物より、物語に出てくるサクラだ。別離の演出、思い出の額縁。映画の別れの場面で、時代劇でも、寅さんでも、桜並木がよく出てくる。西行の和歌のサクラもいいと思う。サクラはバラ科の植物の花に過ぎないし、寿命もせいぜい80年程度だ。桜並木のソメイヨシノは、挿し木で増やした人工の品種だ。これまで何百億枚もサクラの写真が撮られたろうが、本人以外は見向きもしない。写真を撮っても、いいと思うのは撮った本人だけだ。サクラへの特別な感情。西行や万葉の歌人達の和歌や文学やマスコミの言葉が、サクラに特別な力を与えているのだろう。見る人の心を刺激するのは、色や形でなく、見る側に宿った言葉なのだろう。記憶の食べ物は、実際には粗末であったとしても、とても美味しかったように思える。舌でなく脳が、言葉を味わっているのだ。

ケ.この世のすべては、一人ひとりの自分の中に、それぞれの言葉として存在している。星や物やエネルギーが物理的にどうであろうと、言葉の心の働きである自分にとっては、そうなのだ。自分の言葉になったものだけがこの世に存在するのだ。それ以前は虚無なのだ。だから、自分の外に、自分を超えた何かを想定して、当てにしたりうらんだりしても無意味だ。風景も、神仏も、他人も、自分が言葉にしなければ、虚無なのだ。自分の感覚や感情、体の働きや体そのものも、言葉にしなければ虚無なのだ。他人と競争して何かを取り合っても、自分の物にしても、子供の頃のおままごとのように、母親の声がして「夕方だから家に帰ってきなさい」と呼ばれて、みんなバラバラに放り出して帰っていくようなものだ。すべては物でなく、自分の心の現象なのだ。

コ.若い頃、あの世とは、目を閉じて見えるまぶたの裏の光の模様しか思い当たらなかった。本当は自分の言葉の心に蓄積した言葉の堆積から、時々プクプク浮かんでくる、泡のような言葉で、記憶の過去や願望の未来のことだ。言葉の心の働きである自分にとっては、この「あの世」こそこの世で、そして、感覚や感情の心が「この世」と信じていた現在の現実が、実際はあの世だということに気がつくのはもっと後になってからだった。

サ.商店街を抜けていく。歩いている人々の背中が時間の川を流れていく花びらのようだ。昔は、影の無い人が見えた。現在の現実の体しか見えていなかったのだろう。今は、一人一人シャボン玉のような影法師に包まれているように見える。キリコの輪ころがしのようだ。シャボン玉がその人の願望の未来で、影がその人の記憶の過去だ。今歩いている人の現在の現実の体だけでなく、未来や過去も一緒に見える。若かった頃は世界の半分以上が見えていなかったのだなとつくづく思う。

シ.幽霊とは何だろう。言葉にしきれない感覚や感情の心の情報のことだ。言葉の心の働きである自分には言葉しか見えない。暗がりでは、物の輪郭がはっきりしないので、言葉にしにくい。見えない、理解できないが、気配がするものには、恐怖心や警戒心が湧くようにできている。幽霊やお化けは、言葉になりきれないで浮遊する感覚や感情なのだ。

ス.外界の刺激は、脳に感覚や感情を生じ、一部が言葉になって、自分や世界や時間になる。言葉の心の働きである自分にとって、世界のすべては言葉で出来ている。

セ.子供は部屋の明かりを消すと世界が消えたと思う。大人は見えないだけで世界はあると思う。大人は世界を言葉にして持っているからそう思えるのだ。

ソ.外界は虚無で、自分が言葉にして初めて世界になる。つまり世界は自分の言葉なのだ。

タ.本で読んだ景色が目に浮かぶ。自分が、脳の中に、言葉で景色を作ったのだ。実際の場所へ行く。感覚や感情の心が現在の現実を映し出す。時間や季節や天候で変わるし、その時々の風や香りがするし、小鳥の声も聞こえる。本に書かれた景色は何処にも無い。次元が異なる別の景色だと気がつく。

チ.言葉の心の働きである自分は、この脳から一歩も外へ出られない。その代わり、全宇宙を言葉にして、脳の中に作ることができる。

ツ.世界は自分の中の言葉だ。自分は言葉の心の働きだから、自分に見える世界も、物でなく言葉なのだ。自分にとってこの世はすべて香りのようなものだ。つまり物ではなく言葉だ。自分の中の言葉なのだ。言葉の心の働きである自分にとって、世界は現在の現実でなく、言葉で作っている記憶の過去や願望の未来なのだ。世界は自分の脳の中に生じた言葉なのだ。目に見え、耳に聞こえ、肌に触れる感覚や感情は、言葉の心の働きである自分にとって、虚無なのだ。

テ.李朝の井戸茶碗は、青磁や白磁の完璧な完成状態を超えて、崩して空間を作り、そこに空想など、見る人の心が入るように作ってある。物が物として完璧でも、それは道具としてはいいが、心の器としては、役に立たない。心は物とは異次元なのだ。

ト.抽象画を見て、この画家はなぜ具象ではけないと思ったのか考えた。世界の事物は自分の脳の中に作られる情報であって、自分とは独立して外界に存在するものではない。だから作品は、外界をそのまま外界として鏡のように写して見せるのでなく、描く者の脳の中に結んだ像でなくてはならない。感覚や感情の心が映し出す現在の現実という虚像ではなく、言葉の心が生み出す記憶の過去や願望の未来の実像を描こうとしているのだろう。

ナ.冬の夕暮れに、冷たく光る雲や、鋭くとがった夕月などを見上げていると、何だか自分が頼りないものに見えて、心細くなる。自分を包んでいる世界がよそよそしく見えて、自分の居場所が無いように思える。言葉の心の働きである自分が、感覚や感情の心の働きに圧倒されているのだ。世界とは宇宙や地球のような星の表面のことではなく、自分が見て情報に変えて脳に取り込んだ、物語のようなものだ。自分がいなければ、世界は生じない。世界は一人一人の脳の中に作られるものなのだ。自分は自分が生み出した世界にいる。世界は自分が生まれた時に脳の中に生じ、自分とともに成長して、自分の死とともに消えるのだ。つまり世界は自分なのだ。世界最後の日とは、地球が壊れてしまう日のことではなく、体としての自分が地球にいる最後の日でもなく、一人ひとりの自分が言葉の心の働きを止めた、、一人ひとりの日のことだ。

ニ.子供の頃は終戦直後で、物質的に貧しかった。市販のおもちゃも乏しかったが、その分情報で出来たおもちゃは豊富だった。赤胴鈴の助の真空切りというジェスチャーや少年ジェットの悪役が用いる「いりがんぷあー」という声の兵器、忍者の印の結びや呪文などだ。情報のおもちゃのほうが楽しいと思う。物が不足していた頃は、世界は情報だという真実が垣間見えていた。おもちゃが単純なほど子供の言葉の心を遊ばせる効果が強い。おもちゃが精巧になるほど子供は感覚や感情の心の働きに圧倒されて、現在の現実に受身になる。得られるのは感覚や感情の心の癒しばかりになる。言葉の心の働きである自分が未熟になり、現在の現実の迎合型の人格になる。

ヌ.冬の朝、晴天なので、外出をするため、門前でグズグズしている母を急かせていた。ふと小鳥の鋭い声がした。見上げると青空がまぶしい。電線からホシムクドリがこちらを見下ろしている。14年前に死んだ父が、こちらを見て笑っているような気がした。

ネ.外界のりんごは、今見えていても、目を閉じれば消える。言葉になっていれば、目を閉じても思い浮かび、現れる。その時は、関連する風景や、過去や未来が自由自在に、時空を超えて現れる。自分にとって、目を開けて見える現在の現実のりんごと、どちらが本物のりんごなのだろうか。自分を体のような物と見るか、自分を言葉の心の働きとして見るかだ。目を閉じてもリンゴが見える方が本当の自分だ。

ノ.大掃除の話。机の上をきれいに整頓してからでないと考え事が出来ない学者がいた。当時は何かの儀式、脳細胞の準備体操だと思っていた。本当は、この世界は脳の中に出来ていて、机の上も脳の中に出来ていて、脳の中を整理しなければ思考が出来ない。机の整理からすでに思考が始まっているということだとわかった。この世界は脳の中に出来ていて、時間もまたその一部だ。時間も、一人ひとりが別々に、脳の中に作っている。年末の大掃除は、時間に区切りをつける、脳の世界の大掃除の一部だったのだ。

ハ.昨夜、座敷ワラシのお宿が焼失したとのことだ。座敷ワラシはどうなったのだろうと心配になり、これを書くことにした。そもそも座敷ワラシはどこに、どのようにいたのだろう。宿の部屋と一緒に燃えてしまったのだろうか。座敷ワラシは物や生き物でなく、情報だから、火事のような物理的な現象に影響を受けない。もちろん座敷と運命を共にするはずもない。座敷ワラシは、建物とは異次元の言葉のDNAの海に居て、一人ひとりの言葉の心に居続けるのだ。だから宿を新建材で新築してもまたそこに現れるのだ。

ヒ.犬は主に嗅覚で世界を作り把握している。人は主に視覚で、蝙蝠や鯨は聴覚でだ。生物がいなければ、いてもその生物の心が動かなければ、地球の表面があるだけで、それは世界ではない。虚無だ。分かれ道の右側に1週間前に通過した鹿の臭いが付いているとする。猟犬には鹿の姿が見えるだろう。猟師には何も見えないだろう。少し先にいくと、道標があって、この先落石注意と書いてあるとする。猟師には落石が見えるだろう。猟犬には何も見えないだろう。勿論、この山道を、心を持った生き物が通らなければ、何億年経ってもここには世界は生じないだろう。世界は生物が心の中に信号として作り出すものだ。

フ.光学望遠鏡では見えなかった137億光年向こうの宇宙の果てを、電波を用いて、学者が発見した。それまでは、そこは存在しなかった。初め、その学者の心の中だけに生じ、論文を読んだ学者仲間の心に広がり、新聞などで取り上げられて一般の人々の心にも広がった。体に備わった感覚の心で感知できる世界と機械や電子などの物理的手段でしか認識できない世界、感覚や感情の心が映し出した現在の現実と、言葉の心が作り出した過去や未来、他者から教えられた言葉の世界、それらはみんな情報としては同じだ。目で見えたものと、伝えられた言葉で認識したものとどう違うのだろうか。見えたのと、想像した、知ったのとは情報としては全く同じだ。見えたからあるとは限らないし、想像だから無いとも限らない、伝聞は体験より信用できないとも限らない。自分は情報なので、自分に分かるこの世のすべても、情報でしかないのだ。

ヘ.香りを、物質から揮発した分子だと思うと間違いだ。分子と鼻や脳の間で生じる電気信号だ。世界を物だと思うと間違いだ。物と自分の心の間で生じる電気信号だ。

ホ.見えているこの世のすべては信号だ。信号が見えているのだ。自分が信号なので、見えるすべても信号なのだ。空(くう)とは信号のことだ。虚しいという意味ではない。自分にとって虚しいのは、信号を互いに受発信できない事物だ。自分が体で、物だと思っていると、信号を虚しい幻だと思ってしまう。自分と異なる次元の物は、自分が知りえない宇宙の果てのように、自分には虚しいのだ。DNAが発する信号が、水や栄養素から体を組み立て、その体が発する言葉の信号がその人の自分なのだ。DNAの信号が消えれば、体はまた水や栄養素にもどり、体が信号を発するのをやめれば、その人の自分も消える。愛してくれる父も母も、体が発している信号なのだ。しかし、続きがある。信号であったその人が発信した言葉は、体や狭い自分から脱皮して、言葉のDNAになって、時空を超えて、言葉のDNAの海に戻るのだ。

マ.この世界は自分の言葉が生み出している。宇宙や森羅万象も、自分の言葉としてあるのだ。世界は自分の言葉で出来ている。

ミ.大きな3つの発見について考えた。地動説。太陽や星の運行は、地球つまり自分の動きに原因があるのであって、天を動かしている神のような存在はないということだ。アインシュタインのE=mc2乗。物質つまりこの世界のすべては、エネルギーつまり情報だということだ。ビッグ・バン。天地にもヒトと同じように生死があり、超越的な神は居ないということだ。

ム.人類という時、それはDNAのことを言っているのか、DNAが生み出している体のことか。世界と言う時、宇宙のこと、地球のこと、町内のことを言っているのか、それとも、自分の中に作った言葉の塔のことを言っているのだろうか。

メ.コロンブスのように、発見して言葉にするとアメリカ大陸が自分のものになる。インデイアンのように、住んでいても言葉にしていないと、乗っ取られる。自分も言葉にしていないと他者や虚無に乗っ取られてしまう。

モ.この世を、宇宙や地球という星の世界だと思えば、永久普遍に思え、自分の存在がちっぽけに思えてしまう。感覚や感情の心が映し出している現在の現実だと思えば、不安定で、めまぐるしく変化して、とらえどころのないものに思える。世界を、自分が脳の中に言葉で作っているものだと思えば、世界は自分とともに育っていくものだということになる。救われた感じがする。

ヤ.感覚や感情の心は、変化を新しいと感じる。新しいと快感が生じる。変化の刺激が快感を生じさせる。感覚や感情の心は、変化、快感つまり癒しを求める。快感つまり癒しを望むなら変化や新しさを求めればよい。自分は言葉の心の働きで、その使命は救いを求めるものだ。癒しはその妨げだ。変化や新しさを無視すればよい。救いつまり目的だけを求めればよい。

ユ.心の中に、この世とあの世がある。感覚や感情の心に映るのがこの世で、言葉の心が作っているのがあの世で、心はこの二つを行き来している。自分は言葉の心の働きだが、見たり感じたりしているのは感覚や感情の心だから、見えている現在の現実が本当の世界だと錯覚してしまう。言葉の心の働きである自分にとっての本当の世界は、言葉で作った記憶の過去や願望の未来なのだ。

ヨ.自分は現在、過去、未来の何処にいるのか考えた。疾走する新幹線に例える。自分は新幹線の中に居ると思っていれば、ずっと同じここに居続けていることになる。現在の現実がずっと続いている感じだ。感覚や感情の心はずっと現在の現実に居るということだ。窓から景色を見ている。右を思えば未来、左を思えば過去が浮かんでくる。正面を見ても、今ここに居るのはほんの一瞬で、そう思った瞬間通り過ぎている。言葉の心の働きである自分は、現在にはいないのだ。自分は過去や未来にいるのだ。現在の現実は感覚や感情の心でなければ捕らえられない。過去や未来は言葉の心でしか作れない、互いに異次元の現象なのだ。

ラ.職人と芸術家、道具と芸術品。どう違うのだろう。体で用いるものが道具で、それを作る人が職人だ。その道具を心で用いると芸術品になる。作者が芸術を作るのではなく、用いる人の心が芸術品を作るのだ。普通に茶を飲めばただの茶碗で、茶人が心で用いると、茶碗の製作者は職人のままで、茶碗は芸術品になる。芸術品は鑑賞する側の心に生じる心理現象なのだ。

リ.言葉は絵の具、脳がキャンバス、世界はキャンバスに描いた絵だ。世界は言葉の絵の具で脳に書いた絵だ。

ル.物として無くても、言葉として作れば、それは虚無ではなくなる。物とは関係なく、言葉によって世界はあるのだ。物が、言葉を失うつまり忘れ去られると虚無に戻る。自分は体とともに消えるが、発信した言葉は、他者の記憶や言葉になって、いつまでもあり続ける。地中深く埋もれても、いつか掘り出され、解読されると、言葉が生じ、解読した人の心に言葉として復活する。

レ.頭の中には、感覚や感情の心に映っている現在の現実と、記憶された言葉つまり過去と、願望によって生み出される言葉つまり未来がある。自分は言葉の心の働きだ。自分にとって、言葉こそが本当に存在しているものだ。言葉でないものは虚無だ。感覚や感情の心に映って、言葉に出来ないまま消えていく現在の現実は虚無だ。世界は見えているものがあるのでなく、自分が言葉にして記憶したものだけがあるのだ。誰かの世界に存在していても、自分の言葉になっていなければ、自分には存在しないのだ。さらに、誰かと言葉を共有した分だけ、互いに似たような世界になるが、似ているだけで別々の世界にいるのだ。

ロ.子供の頃、鞍馬天狗や少年ジェットなどテレビのヒーローにあこがれて、なりきって遊んだ。与えられた自分や世界に浸った。映画やアニメ、小説が心地良い気分にしてくれるのは、自分や世界を与えてくれるからだ。自分や世界や時間を作る作業を代行してくれるからだ。しかし、本当の救いは、自分の言葉でなければ得られない。子供心にも、与えられたヒーローの役を演じても、虚しさを知っていた。

ワ.昔の繁華街の写真を見ると、この世は映画で、主役は町、人はその他大勢の通行人の群れのように見える。しかし人が立ち去った廃村や砂漠に埋もれた遺跡を見ると、主役は人で、街は大道具のセットで、撮影が終われば抜け殻だと言うことが分かる。街すらも、外の世界には無く、一人一人の脳の働きで生み出された、物ではない言葉なのだと分かる。

ヲ.人生を、何かを求める航海だとする。船が体だ。船長が言葉の心の働きである自分だ。副船長が感覚や感情の心だ。船長には過去や未来の海が、副船長には現在の現実の海が、見えている。二人は別々の海を見ている。言葉の海と、水の海だ。

ン.世界とは、人々がそれぞれの心に築いている言葉の塔だ。地球儀のような、主役のいない球体は、世界とは別の虚無だ。人々は、互いの世界のほんの一部を伝えあうことが出来る。映画や小説や芸術はその試みだ。しかし世界そのものは共有できないのだ。

ア.世界は、宇宙や地球、海や大地や空のような物質や空間のことではなく、言葉の心が映写する映画のようなものだ。世界とは、言葉で満ちた風船のようなものだ。記憶の過去、願望の未来という言葉の空気が風船を膨らませる。風船が言葉の心の働きである自分、風船の中の空気が言葉、感覚や感情の心が映し出している現在の現実は、風船の外の大気だ。

イ.この世の基盤は無なのか有なのか考えた。無の中に有が生じているのか、有の中に無が生じているのか。何もないところに、ポツンと何かが生じて、結局はまた無に戻っていくのか、この世は有で、無は幻想なのか。有とは、枠があって初めてその中を有とすることが出来る。宇宙もビッグバンという容器が在って初めて、中を宇宙とすることが出来る。ビッグバンという容器の外は理解不能だ。同じように、世界も自分という容器が在って初めて、中を世界とすることが出来る。自分という容器の外は理解不能だ。世界は自分が自分の中に言葉で作っているもので、その中が有で、その外は無ということになる。有無とは物の有無のように思ってしまうが、言葉の有無なのだ。何かが物理的に在るか無いかではなく、本人がその何かを言葉にできているかどうかのことだ。本人が言葉にできている事物は有、できていない事物は無だ。世界が一人一人に別々に在る様に、有無も一人一人別々なのだ。

ウ.世界を、自分を包んでいる外界だと思っているが、本当は自分が作り出している言葉の塔のことだ。世界は、自分が言葉に出来ている事物であって、言葉にしなければ、何も無いのだ。何万年も前や未来、遠く宇宙の果て、他人の脳の中の世界、そこに自分の体はいないけれど、話を聞けば、そこは自分の言葉となり、自分の世界の一部になる。外界から取り込み、融合した言葉が自分や世界を肥やしているのだ。脳が生まれた時に、言葉の心が備わっていて、その働きである自分という言葉の容器が生じ、自分の中に外界の信号が言葉になって溜まって世界ができる。外界は虚無で、自分の中に貯まった言葉が世界なのだ。

エ.名前は脳の投網だ。虚無や未知に投げて、言葉にして捕らえる。名前のついた場所で、名前のついた物を見たり、触ったり、食べたり、考えたりすると、名前にこめられた物語が脳に取り込まれる。名前の無い道や場所や人は、記憶できない、物語にも取り込めない虚無だ。

オ.日記を書く。日記に書くために感覚や感情を言葉にする。言葉が自分になり、自分が世界や時間になる。一晩眠れば消えてしまう今日一日の感覚や感情の心に映った現在の現実が、言葉になって、死ぬまで在り続ける自分の世界に加わったのだ。世界の中に日記があるのでなく、日記の中に、自分や世界が生じているのだ。日々の出来事も、日記に書かないと、つまり言葉にしないと、その時々の自分が、砂時計の砂のようにサラサラとこぼれて消えてしまう。言葉にする、日記に書くのは、自分や世界や時間を作るためだ。

カ.今、自分はここに居る、頭が重いなどというこの感じは、自分には在るが、他人には無いのに、実際に在ると言えるのだろうか。だれも居ない庭に、どこからかシャボン玉が飛んできて、自分だけの眼前で消えた。このシャボン玉の破裂は、塀の向こうにいる人にも在ったのだろうか。友人と二人で繁華街を歩いている。向こうから別の知人が歩いてくる。私は気がつくが、友人は気がつかない。知人は居たのだろうか。居るとかあるというのは、対象の状態にあるのでなく、観察者に生じる情報なのだ。物や現象がそれ自体として存在していて、自分がそれを観察しているのではなく、自分が観察して始めて生じるのだ。感覚や感情の心が映し出している現在の現実は、その都度生じて消えてしまう、虚無から一瞬生じた泡だ。言葉にすればずっと在り続ける。いつでも何処でも望めば自由自在に生じさせることができるようになる。科学は、科学の言葉の体系に取り込めるか否かが問題だが、私達は、自分の言葉にして取り込めるか否かが問題だ。

キ.自分は物でなく情報だ。体でなく心だ。感覚や感情の心でなく言葉の心だ。そんな自分にとっての世界は、自分と同じ次元にある言葉なのだ。今見たり聞いたり触れたりしている外界は、感覚や感情の心が映す現在の現実、つまり虚無から一瞬生じた泡だ。脳の中に言葉で記録された言葉が本当の世界だ。今日、いつもと別の道を通る。今日のこの道で起きた様々な現象は私の世界に入るが、今日のいつものあの道で起きた様々な現象は私の世界には入らない。しかし、今日その道を通った別の人の世界には入る。その人が別の人にその現象を話し、聞いた人が信じたら、聞いた人の世界にも入ることになる。もしだれも通らなければ何も無かったことになる。

ク.フィクションだ、いやノンフィクションだと言うことがある。フィクションとは観察者の心が作り出したもの、ノンフィクションとは、観察者とは無関係に勝手に生じている事実という意味で使われる。観察者と無関係に勝手に生じている事実があるという思い込みこそフィクションなのだ。本当は、みんなフィクションなのだ。実際にあると思っているエベレストも、登ったり、見たり、聞いたりした人の数だけあるフィクションなのだ。世界は一人に一つずつあるフィクションなのだ。

ケ.誰も行ったことのない、誰も見たことのない世界に行きたい。自分の脳の外を探してもそれは見つからない。宇宙船から地球を見下ろしても、それは見つからないだろう。それは、今とは違う新しい言葉を作ることであって、新しい感覚や感情の刺激を得ることではないからだ。見方を変えなければ、箱の中をいつまでもウロウロしている蟻のままだということだ。

コ.雑踏ですれ違うように、ただ感覚や感情の心に映って消えていく人々は、この世つまり現在の現実の人々だ。その都度感情をくすぐっては消えていく人々もこの世の人々だ。視界から消えても心に残る人々があの世の人々だ。あの世の人々とは言葉になって記憶されて、記憶の過去や願望の未来にも登場する人々だ。どちらが本当の人々かといえば、言葉の心の働きである自分と同じ次元に属すると言う意味で、あの世の人々の方が、自分にとっては本当の人々なのだ。勿論その人々は言葉だから、体の離別や生老病死とは無関係に存在し続けるのだ。

サ.秋の草むらを眺めていた。光や風や匂いや景色が、感覚の心に否応なく流れ込んでくる。小さな花や実や蝶が見えた。興味が湧いたものについては、感情の心が注目する。さらに言葉の心が、言葉にして固定する。子供の頃、父が生物好きで、昆虫や植物に親しませてくれた。蝶を採卵、飼育、羽化までする体験をさせてくれた。数年繰り返したので、命の連続も体験できた。個体の輪廻を超えて、種(しゅ)として連続する在り方についても教えてくれた。おかげで、蝶の名前や習性、発生から死までが言葉になって、心に蓄えられている。草むらのヤマトシジミを見て、去年同じ場所で戯れていたつがいの蝶のことを思い出した。彼らの子孫だろうと思う。来年も会えるかな、吾亦紅が去年より増えたな、野菊は消えてしまったのかなど、時間を超えることも出来る。野原は、興味を持てば意味が生じて、言葉となって、本のように読むことが出来る。現在だけでなく過去や未来も見える。感覚や感情の心に任せていては、すべては現在の現実だけという虚無になって、虚しく消える流れとなるのだ。野原だけでなく日々の暮らしについても同じだ。

シ.子供の頃、目覚めている間だけ自分や世界が在って、眠ると全部が消えてしまうと思っていた。だから眠るのが怖かった。大人になっても、生きている間だけ自分や世界が在って、死ぬと全部が消えてしまうと思っていた。だから死ぬのが怖かった。世界を感覚や感情の心に映る現在の現実だと錯覚していたのだ。自分を体だと錯覚していたのだ。自分も世界も言葉だから、、感覚や感情の心の点滅や、体の死は、別の次元の出来事なのだ。

ス.自分がいる世界は、エネルギーや物質や空間からできているのでなく、言葉でできているのだ。自分がいる世界は、みんなをまとめて包み込んでいる1つの大きな入れ物でなく、一人に一つずつあるコップなのだ。世界を、外側に感知していると思っているが、実際は脳の中に言葉で作って、それを見ているのだ。幼いうちは感覚や感情の心に依存しているから、世界は外側に広がっているようにしか思えない。この世界は感覚や感情の心が進化した言葉の心の働きである自分が作った、言葉の繭だ。若いうちは、感覚や感情の心に惑わされて、世界が外に見えたり、遠くの青い山並みの向こう側に、別の世界が自分を待っているように見えたりする。今は、ただ青くかすむだけだ。

セ.見えているのは物ではなく、その反射光で、網膜をかすめて、通り過ぎていく虚無から生じた泡だ。世界は一人一人が言葉にして初めてそれぞれの脳の中に作られる。世界はそれぞれの命とともに生まれ、消えるものだ。一緒に消えるものに、何かを託したり、残すことなど無意味だ。残らない者が、残らない世界を作っているのだ。自分がそういう存在で、世界はそんな自分が作り出しているのだから、そんな自分にはそんな世界で十分なのだ。ただ、今年の蝶と去年の蝶がつながっているように、体のDNAとは別に、自分も言葉のDNAとなってつながっていくのだ。

ソ.脳の中にカメラのようなものがあって、差し込んでくる光つまり感覚や感情の信号を焦点に集め、印画紙に焼き付けて固定する。それが写真つまり言葉だ。被写体と反射光は別物だし、反射光と写真も別物だが、カメラにとってはそうすることでしか被写体を捕らえられない。被写体は次の瞬間変化するだろうし、反射光だけでは把握しきれない複雑な奥行きや裏面がある。その一瞬の一部分を切り取って固定したのが言葉で、言葉にすれば、記憶したり再生して、論理操作や数字のような計算対象にできる。つまり脳内に抽象的な世界を再生することが出来る。目の前の山を、言葉にすれば、他の山と比較したり、動かしてみたり、削ったり積み上げたり、見えない部分を想像したり出来る。写真をスキャンしてデータにして、コンピュターに画像を取り込んで、加工するのと同じだ。

タ.現在の現実つまりこの世では、動物として、競争差別の心で競い争って、生存することに集中する。記憶の過去や願望の未来つまりあの世では、言葉の世界を構築する。この世とあの世を、お盆の里帰りのように行き来する。ということで、あの世は、死後に行く場所でなく、生きている間に、自分の中に作るものなのだ。あの世が気になるなら、時には感覚や感情の心を捨てて、言葉の心の働きである自分になって、あの世の畑を耕すのがいいと思う。

チ.言葉の心の働きである自分は、言葉に出来ない事物、つまり虚無や未知の存在を許せない。言葉で征服して自分の世界に取り込みたい。通り過ぎては消えてしまう車窓の風景のような、光で描いた虹のような、感覚や感情の心に映る現在の現実のままではなく、言葉の絵の具で、過去や未来、記憶や願望の世界をしっかり書き残したい。言葉の心の働きである自分には、動物のように、現在の現実だけに生きることができない。この言葉の絵画の中こそが終の棲家だ。感覚や感情の心で感じていた現在の現実は幻で、言葉の心で描いてきた記憶の過去や願望の未来こそが本当の世界だったことに気がつく。言葉の心の働きである自分は、感覚や感情の心で感じていた現在の現実だけでは心休まらない。迷い悩むことになる。動物のように感覚や感情の心として死ねない自分は、この言葉の世界でしか成仏できないのだ。

c.    世界は自分だ

ア.自分だけが老い、死に、この世から消える、と思ってしまう。自分を含め世界のすべては、自分が言葉で作っている。だから老いるのは自分だけでなく自分が生み出している世界のすべてが老いるのだ。死んで消えるのも自分だけでなく、世界のすべてが消えるのだ。以下そう思った経緯を書いてみる。今日も町田の高校の前を通り抜けた。グランドの方から運動会の準備の声が聞こえ、たくさんの生徒や先生の後姿が見えた。無意識に、当時の級友や教師の面影を探していた。居るはずもない。友人も自分ももう老年だし、先生は皆鬼籍だろう。自分が言葉で作っている高校は実際にはもう無いのだ。あるのは、自分の高校とは別次元の高校だ。自分の時間も世界も自分とともに老いて消えていく。決して自分だけが普遍的な世界から消えるわけではない。父母も祖父母も、友人も先生も、家も物もみな自分とセットで消えていくのだ。

イ.それは、中学の英語の時間から始まった。gowentwill go。現在形、過去形、未来形だ。人類全員が一つの空間に属し、それを時間という切り口で切ると、断面が現在、その左右が過去と未来という3つの世界に分かれているというイメージができてしまった。今思えば、本当は、現在、過去、未来という抽象概念でなく、goは「いつもかよっている」現在の現実を、wentは「行ったことがある」記憶の過去を、will goは「行きたい」願望の未来を表していたのだ。全ては一人一人の心の持ち方のことだった。それなのに、現在、過去、未来という人類共通の時間が自分の外側にあって、大河のように世界中を包み込んで流れていると思い込んでしまった。過去は名前を羅列した歴史年表となり、名が残った人や事件と、無名のまま消えてしまった庶民の日常があって、歴史に名を残した事物だけで出来ているように思えた。現在は地図のような平面の世界となり、自分はそのかたすみにポツンと産み付けられた虫の卵の様な、ちっぽけな存在に思えた。未来は科学技術や社会の発展が生み出す輝かしい世界で、そのようなプロジェクトに所属しなければ、未来に参加できないように思ってしまった。つまり、輝かしい過去や未来は自分の外界、それも特別な舞台で行われていて、参加するには、観客席から舞台に上がることが必要だという、思い込みを持ってしまったのだ。そしてそれは不毛な焦りや苦悩、絶望へと繋がるのだった。高校で柔道部に所属した。入部すると自分の名が書かれた木の札が、段位の順に壁に掛けられた。昇段の度に札も移動していく。歴史年表に自分の名が記載された感じがした。未来に参画できた感じもした。世界中の誰もが認めてくれたような、晴れがましい舞台に上った気分になった。国会議員も議事堂に名札がある。サラリーマンや工員にも同じ工夫がされている。人の本性を掴んだ巧妙な罠だと思う。

ウ.庭を造るのは、言葉の世界を外界に模写することだ。外界を見て生じる感覚や感情を言葉にして言葉の世界を作るのとは逆の行為だ。私が作るなら、竜安寺の石庭などの枯山水がいい。感覚や感情の心が映し出す、花や紅葉の癒しの庭でなく、言葉の心が作る、石と砂の救いの庭だ。花も紅葉もなかりけりだ。庭園の素材は、石と砂とは言葉のことだ。四方を囲む塀も必要だ。塀の外は虚無、塀の中が自分だ。言葉で作られた世界や時間が、石と砂で象徴されている。感覚や感情の心を象徴する草花は無い。縁側に腰掛けて庭を眺めているのは、言葉の心の働きである自分だ。見られている庭は言葉になった自分や世界や時間だ。外界の虚無を言葉にして、心の中に言葉の庭を作る。これは普段していることだ。

エ.大脳新皮質の進化で言葉の心が生まれる。言葉のDNAの海から言葉が流れ込む。中に貯まった言葉が自分になる。自分は世界や時間になる。言葉は発信されると自分が消え、自分が消えると特定の世界や時間も消え、みんなで共有できる言葉のDNAとなり、言葉のDNAの海に戻る。

オ.見えている世界は、感覚や感情の心が外界の刺激を映し出して見せる現在の現実だ。自分がいるのは、自分の中の言葉の世界だ。自分も世界も言葉なのだ。

カ.世界はいつ始まり、いつ終わるのか。世界は、主人公の言葉の心が活動を開始した時に始まり、停止した時に終わる。言葉の心の働きである自分が生じた時に始まり、自分とともに育ち、体の死などによって自分が消えるとともに消える。自分がいる場所は脳神経のシナプスの密林で、その密林は、体とともに生まれ、自分とともに育ち、体とともに消える。自分の正体は心それも言葉の心の働きだ。体を香木とすれば香りのようなものだ。外界の野原に花が咲いているように見えるが、実際は、見ている自分の心の野原に、言葉の花が咲いているのだ。

キ.世界の中に自分がいるのでなく、自分の中に世界がある。自分がいなければ、世界はない。自分が生じる前も、眠っている間も、消滅後も、世界は無いのだ。宇宙や地球や社会は世界ではない。世界は自分の中に生じている言葉の塔だ。つまり地理で教わる「みんなの世界」と、「自分の世界」は違うのだ。自分も自分がいる世界も脳の中に生じている言葉だ。「世界」は映画だ。自分という観客がいなければ、ただの無意味な音と光だ。

ク.生き物はみな、外界に自らの心の模型を作る。巣やコロニーやテリトリーだ。模型に意味を与えていた心が消えると、模型も意味を失う。巣は、親鳥の雛に対する愛情の模型だ。壮大な建築も、社会制度も、宗教や思想も、作った者の心の模型で、心が消えたら、建物は崩れていなくても虚無になる。言葉を共有しない者にとっては、教会も寺院も城も岩山と同じ虚無だ。個人の愛蔵品も本人が消えればゴミになる。はかないのは、この模型のことだ。模型は心が映し出している蜃気楼だ。見えている、あると信じている世界は、自分が作っている自分の心の模型だ。

ケ.子供の頃、自分が死んでも世界が残って、自分だけが、みんなのいる世界から放り出されるという恐怖心をもっていた。逆だった。自分の中に世界があったのだ。

コ.自分は体でなく、言葉の心の働きだ。自分も世界も言葉だ。世界は自分の外にあるものでなく、自分が脳の中に作り出している言葉の塔だ。自分が生まれて世界は生じ、自分が消えれば世界も消える。自分も他人も虫も鳥も、島宇宙のように、一つずつ別々の、世界を作って、その中にいるのだ。

サ.自分は世界に投げ出された者でなく、世界を生み出している者だ。世界は自分の外でなく、中にある。世界が自分を生み出したのではなく、自分が世界を生み出しているのだ。

シ.子供の頃、年中行事や季節の変化が、喜びと実感を伴っていた。正月、セーターや下駄が新品になって、ミカンやお餅、ご馳走が食べられ、お年玉で、凧や独楽を買って、近所の仲間達と遊べる。どこからか銀色を帯びた緞帳が降りてきて、世界が厳かな舞台になる。2月、雪景色。朝起きて、カーテンを開けると、光り輝く銀世界。出走前の競走馬のような気分になる。春は文具や教科書が新しくなって、いいにおいがした。夏休みに入る。寝静まった家族を起こさぬように、そっと朝顔を観察に行く。アリたちはもう起きている。晩秋には、山で冬籠りに入る動物達の光景が絵本の絵のままに浮かんでくる。自分も、落ち葉の海や木の洞に身を潜めて、動物になった気がした。

ス.何も考えずに過ごしていると、ちょっと前の自分も世界も時間も消えて、何処で何をして、これからどうすればいいか分からぬまま、虚無の海を漂っている気分になってくる。紙を取り出し、この場所の名前、していること、日時や時刻を書き記すと、自分や世界や時間が戻ってきた感じがする。後日その紙を広げて見ると、その時の自分や世界や時間がよみがえってくる。この紙が積もり積もって、自分や世界や時間を生み出しているのだ。

セ.自分が生まれる前は、この世は存在せず、自分が生まれ、成長するとともに、この世も徐々に形が出来てくる。つまりこの世と自分は同じものだ。自分の中にこの世が作られていくのだ。だから世界のすべてと同様に、家族も、感覚や感情の心に映る体でなく、言葉として自分の中にいるのだ。自分がいる限り、家族は消えないのだ。

ソ.自分は何なのか考える。感覚や感情の心でいると、眼前の現在の現実に囚われて、鏡に映っている体だと思ってしまう。本当の自分は、グーグルアースのように、言葉で作った世界を、天空から見ている、言葉の心の働きなのだ。

タ.宇宙を作ったのは誰だろう。あの星を作ったのは誰だろう。あの星座を作ったのは誰だろう。あの満月の中に、アンパンマンの笑顔を作ったのは誰だろう。あの星はどこで光っているのだろう、あの雲はどこを流れているのだろう。自分が生まれる前、この宇宙はどこにあったのだろうか。自分の死後、この宇宙はどこにあり続けるのだろうか。この宇宙を作っているのは誰なのだろう。言葉の心の働きである自分だ。

チ.世界は自分が生まれる前からあって、死んだ後も在り続けるのか。感覚や感情の心ではそう思えるが、自分は言葉の心の働きで、言葉の心で見れば、違う。自分が生まれた時に世界は生まれ、自分とともに育ち、自分とともに消える。昨日会ったばかりの人や、何十年も会えない人や、とっくに死んだ人が言葉になって、言葉の心の働きである自分の中に、木霊し続けている。発信した言葉は、言葉のDNAとなって、体の死後も、他者の言葉の心に木霊を続ける。

ツ.動物の種類の多い地域には、言語の種類も多いという。1つの動物の種類が消える事は、1つの言語が消えることだ。1つの言語が消えることは、未来の沢山の人々の世界が消えることだ。

テ.他人や社会の欠点を直そうとするのでなく、わが身を省みて反省するほうが、世の中を良くする。

ト.今、窓の網戸に、一匹のミツバチが来ている。入り口を探すように、羽音を立てて飛びまわっている。なかなか諦めない。お前は家族を持つ虫だ。早く蜜を持って、家族のいる巣に帰れと思いながら見ている。子供の頃、保育園から家まで、雨にぬかるんだ道を、黄色いカッパと長靴で、テクテク帰って、家に着いて母がいて、家の匂いに包まれて、乾いた畳を歩くと、自分の居場所に戻った気がしたことを思い出した。

ナ.西洋では自然は虚無で、克服すべきものだとされる。日本では自然こそ実在で、自分の故郷のようなものだとされる。自分を体だと思うと、自然は外にあって、征服すべき敵や獲物となる。自分を言葉の心だと思うと、自然は自分の中にあって、自分と一体だとなる。

ハ.Emptyという言葉がある。からっぽという意味だ。これは空(くう)のことを言っているのでなく、空(くう)の入れ物のことを言っているのだ。宇宙という時も同じだ。何もない虚空の空間というより、虚空が入っている容器というイメージだ。だから、宇宙には果てがあると思ってしまう。果てを求めてしまう。果てがないものは想像できないのだ。地上で暮らすことに慣れた脳の空想力の限界なのだ。自分も、宇宙と同じで、何かを入れる入れ物だ。何が入っているのだろう。言葉の心の働きである本当の自分の中には、世界や、記憶の過去や願望の未来つまり言葉が入っている。感覚の心、感情の心である偽の自分の中には、現在の現実が入っている。

d.    世界は願望だ

ア.牢獄と自分の部屋。遭難中と探検中。苦難中と遊び中。世界の見え方は見る側の願望によって変化する。

イ.今朝は一段と寒かった。起きて着替え、パソコンの椅子に触れたら氷のように冷たく、あわてて毛布を敷いて座った。夏はひんやりしてうれしい椅子と、夏には不要な毛布のことを考えた。何時でも良い、何時でも悪いという事物はないということだ。自分の置かれた状況で、良かったり悪かったりするのだ。

ウ.おまえがこの世で一番好きなのは、今はお母さんの顔だが、思春期になると異性になり、大人になれば、言葉の心の働きである自分になるだろう。

エ.世界は2つある。未知や、感覚や感情の心が映し出す虚無と、虚無を言葉にフォーマットした世界だ。

オ.幼い頃、父の指導で蝶が好きだった。翅の微妙な模様や色や形の違いに目を凝らせていた。そのおかげで、石や植物や焼き物にも、細かい美が見えるようになった。

カ.久しぶりに実家に帰った時、体は歳をとるけれど、家はもっと速く歳をとるなと思った。新建材やコンクリートも、大谷石の土台も崩れかけている。それ以上に、家屋の意味も崩れている。住んでいた子供達も夫婦も消え、勉強部屋も意味を失い、炊事が減って台所も影が薄れている。庭木だけは元気だと思ってみたが、元気なのは人より寿命の長い種類だけで、よく見ると随分消えている。庭もはかないものだ。古びていくのは物や宿っていた人の心だ。変わらないのは、DNAの働きだ。セミの声や虫の音は昔のままだ。物と違い、どんどん更新されていくのだ。連れてきた孫を庭に遊ばせた。ウキウキと楽しげにあちこちを探検している。孫にとってはこの廃屋や廃園は、新世界なのだ。

キ.今日、ドライブで、蓼科の別荘地を通り抜けた。夏が終わり、玄関に鎖が張られて、シンとしていた。主がいない別荘は虚無だ。香りが、嗅覚との共鳴で生じるように、意味は、物と、言葉の心の共鳴で生じる。物だけでは意味は生じないということに、早く気がつけばよかったと思った。

ク.まず食欲があって、ご馳走が生じる。満腹なら、ご馳走はない。食欲が消えればご馳走も消える。このように考えれば、自分が見ているこの世は、自分の心が生み出しているのだと分かる。

3)世界は自分が作っている

a.    すべては言葉の心の中にある。あの世もこの世も、心に生じる情報だ。天国も地獄も心の中にある。感覚や感情の心が映し出すのがこの世で、言葉の心の働きである自分が言葉で作り出すのがあの世だ。感覚や感情の心が求め、手に入れ、すぐに失うのが癒しで、天国と地獄というのはこの世の癒やしの浮き沈みの事だ。言葉の心の働きである自分が、言葉で目的を作り、求めることで得られるのが救いだ。この世は感覚や感情の心が映し出す現在の現実で、あの世は言葉の心が作り出す記憶の過去や願望の未来だ。この世は、体や、感覚や感情の心が生きている世界で、あの世は言葉の心の働きである自分が生きようとしている世界だ。自分がこれまで生きてきた、言葉に出来なかった時間は、その場限りの現在の現実として、今はもう消えてしまった虚無なのだ。

b.    離島の役場が、団塊世代の移住を勧誘するニュースをやっていた。何処に住むかでなく、何をするかだと、キャスターがコメントをしていた。ニュースとコメントが矛盾していた。

c.    幻視痛。痛みが続くと、痛んだ部位が無くなっても、脳の中にその部位が残り痛み続けるようになる。脳の中に、世界が作られている証拠だ。

d.    人や生き物が作り出す巣や建物は、その生き物の願望によって作られており、自然物のように自立していない。壮大な建築も、願望の持ち主が消えれば、壊れたり崩れていなくても、廃墟になる。

e.    人生の教室。成長とともに進級し、その都度目標を与えられ、入学と勉強と卒業を繰り返した。学校が終わり、社会で学び、社会も卒業した。ふと、なつかしい教室に座っている自分に気がついた。思えばずっと、この教室のこの席に、どこにも行かず、座っていた気がした。色々な学校や社会の出来事は夢だった。病気などの事情で教室から消えたはずの友人もずっと一緒にここにいた。ここは、言葉の心の中だ。いまやっと安らかに学べる気分だ。

f.    風はどこに吹いているのだろう。大気圏でも、肌や揺れる木の葉の表面でもない。一人ひとりの脳の中に吹いている。成層圏を吹くジェット気流は、どれほど強く吹こうが言葉に出来なければ虚無だ。風は一人ひとりの心に触れて初めてこの世に生まれる。

g.    外側から自分を包んでいるように思える世界は、外界の刺激が、感覚器官を通じて、脳の中に映している映像だ。本当の世界は外にあるのでなく、脳の中にあって、その人が歩くと世界が歩き、夜の月のようにどこまでもついてくる影法師のようなものだと考えると辻褄が合う。

h.    幾何学で補助線を1本入れたり、代数でリンゴの数をX個と仮定して式をつくると、答えが分かるように、世界を変えたければ、自分を変えるしかない。直接対象に手を出すのは、鏡に指を突っ込もうとするようなものだ。他人は山彦のようで、こちらから声を出さないと、返事が来ないし、来ても内容はオオム返しの山彦だ。他人を変えたければ、自分を変えるしかないのだ。

i.    世界と自分の関係をどう考えているか。それによって自分が何者なのかも変わってくる。普通、世界は既に存在していて、自分はその中に生まれ、自分は世界の中にいると思っている。別の考えもある。自分が生まれた時に世界が生じ、自分の中に世界があるという考えだ。何だか、屁理屈のように聞こえるね。でも、こっちの方が正しいと思うよ。世界の中に自分がいると思うと、自分は頼りない、はかない、虚しい、石ころのような、物のように思えるだろう。自分の中に世界が生まれると考えると、自分が、確固たる、現実味を帯びた、生き生きしたものに思えるね。自分は何かと考えた時、自分は自分で、誰が何と言おうと関係ないと思えるかな。それとも、周囲の人が思っているだろう自分が本当の自分だと思うかな。他人の目で自分を見てしまう。名前や成績や、顔や身体的特徴の方が、自分の本体で、心の自分は、影のような、蜃気楼のようなものに思えてしまう。500万年前の川原で、猿人の家族の足跡の化石が見つかったニュースがあった。体はどこかへ消えて、足跡だけが残って、この猿人は足跡だったように思えてしまうのと同じだ。

j.    グローバリズムの競争と変化の波が打ち寄せ、個人も、組織も、自己否定しながら、自己改革をすることが迫られている。ヒトだけが、言葉の心の力で現在の現実を、疑問の目で見たり、否定できるのだ。

k.    ヘリが映す、夏の北アルプスの稜線の映像を見た。濃い緑と白い残雪、薄茶色の岩肌のコントラストが絶景だ。ヘリが旋回してカメラが頂上や道に近づくと、豆粒のような登山者が、あちこちに見える。みんなこうして人生の山を登っているのだなと思う。山はいくつも連なっている。最も高い突起が頂上で、人間のように名前が付いていて、道標やケルンがある。人がたくさん群がっている。一方、名の無い突起が沢山ある。その突起は山襞を谷底から着物のすそのようにひいている。そんな場所にもポツンポツンと人がいる。その突起はその人にとっての孤高の頂上なのだ。感覚や感情の心の人は、有名な頂上に群がり、言葉の心の人は、孤高を目指すのだと思った。

l.    自分は自分だ。自分の中の何かを恐れ、敬うことは必要だが、外にいる他人を恐れ、敬ってはいけない。自分の内側の世界は、自分だけのものだ。他人の鏡はまぶしいだけで、自分を見失うことになる。誉めてもらいたい、評価してもらいたい、見ていてもらいたいというのもいいが、いつか卒業しないと必ず終りが来て。いっぺんに虚しくなるよ。

m.    孤独について考えた。世界は自分が自分の中に生み出している言葉だ。その意味では世界は自分そのものだ。一方で、世界は自分にも他者にも、一つずつ別々にある、と言う意味では、世界は互いに、絶対的に孤独だとも言える。これは言葉の心が生み出す孤独で、さびしいとか悲しいという感情とは関係が無い。言葉の心には、感覚や感情の心のような孤独や痛痒や喜怒哀楽は無いのだ。

n.    ニュートンもライプニッツもアインシュタインも、この世を創った神の存在を信じていた。神を統一理論に置き換えた。私の考えは、この世は、神ではなく、言葉の心の働きである自分が言葉で作るもので、自分が言葉にする以前は虚無であって、言葉にして初めて存在するようになる。

o.    今日も暑い日ざしにうんざりしながら、町田の中学校のグランドの横を、自転車で通り抜けた。中学生が野球の試合をしていた。3階建ての屋根ほどの高いネットが校庭を囲っていた。アゲハチョウが飛んできてネットに行き当たった。何度か通過を試みてあきらめ、垂直に、上がり始めた。上空が見えないまま、乗り越えられないものは無いと確信しているようだ。スズメが飛んできた。5cm四方の網目の前で羽ばたきを止めて、肩をすぼめて、すっとくぐっていった。

p.    見えているから真実だと思っているが、本当は網膜に光が上下左右逆さまに差し込んでいるだけのことだ。さらに上下左右は自動的に補正されている。子供のころ、左右が反転した逆さ文字を書いてしまうことがあった。その頃は、左右の補正が未熟だったのだろう。

q.    暗闇を懐中電灯で照らしている。光が当たるところだけが世界だ。世界は、照らしている人の脳が光の反射を感知して、その人の脳の中に作られる。しかし光の反射以外はわからない。わからないということもわからない。自分が蝙蝠なら音波の反射が世界のすべてだ。♂の蛾なら雌のフェロモンが世界のすべてだ。ヒトだって感覚や感情の心でいる時は、世界は感覚や感情の心に映る現在の現実がすべてだ。しかしヒトには言葉の心があって、脳内に言葉で抽象的な世界を作ることができる。記憶の過去や願望の未来を見ることができる。

r.    心には感覚や感情の心と、言葉の心がある。それぞれ別の世界を作っている。どちらも、それぞれの心にとっては本当の世界だ。受信するだけの心と発信もできる心、作られる心と作り出す心だ。感覚や感情の心が映し出す世界は、受信した世界、外界からの刺激で作られた現在の現実だ。言葉の心が作り出す世界は、言葉で作った記憶の過去や願望の未来だ。

s.    感覚の心の判断基準は、快不快だ。感情の心の判断基準は、喜怒哀楽だ。言葉の心の判断基準は、生きようとすることにおいて有益か否かだ。自分は言葉の心の働きだ。言葉の心が生み出す世界は一人一人別々に在って、互いに異なる。判断基準も一人一人別々に在って、互いに異なる。社会生活は、一人一人が作っている判断基準とは別の、共通の判断基準を必要とする。一人一人が、ルールとしての判断基準を学んで、自分の判断基準に優先することが、社会生活をするために必要だ。自分の判断基準とルールの判断基準が合致しないことがある。ルールとしての判断基準を無視した時に社会から罰が与えられる。自分が自分の判断基準を無視した時に、無気力や虚無感、敗北感などの罰を、自分から受けるのだ。

t.    小石の川原にいる。みんな同じ袋を持っている。それぞれ手近な小石を選別して良いと思うものだけを磨いて袋に入れている。小石はそれぞれ、模様や色や形、大きさや重さ、材質が違っていて、同じものは無い。みんな別々の袋を持って、それぞれ自分という袋を満たしている。川原が虚無、拾う手が言葉の心、小石が言葉、袋の中の小石が自分や世界だ。

u.    感覚や感情の心は地上で現在の現実を見ている。言葉の心は天から記憶の過去や願望の未来を見ている。

v.    世界を作るとは、感覚や感情の心が映し出す現在の現実を言葉にすることだ。外界のリンゴは、見る者の願望を写して、変幻自在の情報を生み出す。つまり、外界の物達は、鏡のように、ヒトが願望を照射すると、その願望に応じた情報を反射してくる。つまり世界は見ている者の願望の反射光が、見ている者の心に生じさせる言葉なのだ。

w.    リンゴが置かれている。見る者の願望によって、見えたり見えなかったり、違って見えたりする。リンゴがそのつど変わるのでなく、見る側の願望が変わっているのだ。世界は、予めそこにあるのでなく、見る側が自分の中に造っている情報なのだ。言葉の心の働きである自分にとって世界は言葉なのだ。

x.    風の音に、死者の声が聞こえた感じがすることがある。雑踏の人声が感覚を通り抜けて消えていく。本当の声はどっちだろう。自分は言葉の心の働きだから、自分の中に言葉として取り込まれた方が本当の声だ。風の中に聞こえた死者の声が本当の声だ。

y.    感覚や感情の心の関心は、何を得るか、何をするかだ。言葉の心の関心はどんな言葉を受発信するかだ。

z.    魚には水中が住みやすいように、言葉の心の働きである自分は、感覚や感情の心が映し出す現在の現実より、言葉の心が作る記憶の過去や願望の未来の方が住みやすい。言葉の心の働きである自分は、外界から得た感覚や感情を言葉に固め、言葉で世界を作っている。そして、その世界に似せて、外界を作り変えようとする。ビーバーが川をダムに変えるように。住みやすくするとはそういうことだ。未開の原野は落ち着かない。言葉の世界に似せた里山や鎮守の森の方が、居心地がいい。自然を、言葉に作り変えようとしているのだ。

aa.白い蝶が花に止まった瞬間、ツバメが急降下してくわえて行った。雛にやるのだろう。私が眼前の光景を見ているように、白蝶も世界を見ていたのだろう。白蝶の死とともに、白蝶の見ていた世界は消えたのだろう。私の世界やツバメの世界は消えずに続いている。体の外に広がる空間は虚無であって、世界ではない。世界は生きるものが自分の中に作るものだ。世界は一つ一つの命の中に生まれている、命そのものなのだ。

bb.丹沢山麓の谷の村に売店がある。裏に、日当たりのいい、白い広場がある。赤い尖がり屋根の幼稚園が建っている。春夏秋冬、来る度に園児達の声を聞き、遊ぶ姿を眺めては、幼い頃の気分に浸る。子供にとってそこは全世界で、大人が味わうすべての喜怒哀楽をすでに味わっているのだろう。幼い世界も一人一人が自分の中に別々に作っているのだろう。

cc.明け方、目が覚める。窓の外は未だ暗い。誰も居ない町に、地平まで、家根と灯火が並んでいる。昔なら、こんな時、輝かしい特別な未来が、自分を待ち受けているように思えただろう。小学校からの雨上がりの帰り道に、点々と水溜りができていた。覗き込むと、水底の溶けた泥に、小さな生物が這い回った跡が道になっていたり、指で掻き混ぜると泥の煙が立ったり、水面に太陽が反射してキラキラしていたり、幸運なら、水澄ましや風船虫や源五郎が泳ぎ回っていたり、アメンボがスイスイ滑走していたりする。大人が大海原を見ているような感じだ。人生に、ゴールや特別な出来事、未来が在るわけではない。水溜りが点々と続いているだけだ。若い頃は、感覚や感情の心が幻影のゴールの海を見せていた。今、言葉の心で見れば、特別な海はなく、虚無の中に水溜りが点在していたのだ。ぬかるみの道に点々と水溜りがある。それぞれの水溜りに足を突っ込む。水溜りが言葉となって、自分になり、世界になる。これが人生だったのだ。

dd.自分がいる世界は、脳の中に在る。自分は世界を肩に載せて歩いている。自分が隣町に行けば、世界も隣町に行く。自分がラオスに行けば、世界もラオスに行く。月をお供に夜道を歩くように、影法師のように、何処までも世界が付いてくる。でもどうしても自分は、世界の中に自分がいるように感じてしまう。感覚や感情の心が映し出す錯覚なのだ。

ee.あの丘の向こうには、大きな川が流れていて、見たこともない花が咲いているはずだが、今日はここでキャンプしよう。いま、君の世界はここまでだが、明日はもっと世界が広がって、その大きな川や花も加わることだろう。本当の自分は、ここではなく、既にあの丘の向こう、願望の未来に居るのだ。

ff.朝起きると、頭が冴えて、喉の渇きのように、言葉の心は新しいニュースを求めている。言葉の心は、目覚めると、この世を留守にしていた間に生じた変化を少しでも早く察知し、記憶の過去の空白を埋めようとするのだ。

gg.何かに興味をもつ。名前を付けて、つまりフォーマットして、インプットする。名前が蓄積して自分や世界や時間になる。自分が育つ。世界や、記憶の過去や願望の未来が深く広くなる。言葉の記憶容量には物理的な限界が無い。この世よりもっと深い、別次元の、あの世ができる。

hh.自分とは何かを突き詰めて、137億年前のビッグバンにさかのぼる発想がある。その時、自分も今ある宇宙のすべても、同じ一点だった。だからこの世のすべてはみな同じだというイメージだ。自分を物だと考えるとそうなる。今地球は自分を乗せて、宇宙の中心から光速で移動しながら、太陽の周りを回転し、コマのように自転している。さらに太陽系全体がセットになって、毎秒270kmで、銀河系の外れにある渦の間を航海している。体はこの地球と一体で運動中だが、自分は不動で自分を中心に地球も宇宙もあると感じている。天動説の方がしっくりくる。それは、自分と宇宙は異次元に生じた別のもので、世界は自分が自分の中に言葉で作っているのだから、自分が中心にあるように思えるのだ。そしてそれが正しいのだ。

ii.自分がいるここは何なのだろう。宇宙の一点や、地球の表面だというのは錯覚だ。大脳新皮質の働きがこの言葉の心を作り出し、この言葉の心の働きが言葉を作り、自分になって、自分が世界や時間になっているのだ。物としての宇宙や地球を探しても、自分は居ないのだ。

jj.子供の頃、元旦の早朝、一人で台所へ行くと、まぶしい朝日が差し込んで、夕べのうちに母が用意した重箱や屠蘇などが置かれている。なにか妖精のようなものが夜のうちに来て、魔法をかけたように、世界が輝いて見えた。

kk.世界はあるのか。幻想ではないか。世界があって、自分はその中で生まれて消える泡なのか。自分が世界をシャボン玉のように膨らませているのか。

ll.母親は、子守りをしている時、子供に美しい世界を見せてやりたいと思うだろう。この部屋があばら家でも、母親が与える心は、美しい世界を作るのだ。

mm.乾隆帝が選りすぐりの宝物を鑑賞する為の3畳ほどの小部屋を作っていた。乾隆帝の死とともに、意味を失って、ただの物の山、虚無に帰る。その人の世界は、その人とともに消え、その人が物に与えていた意味や価値は、物から離れて、物は、元の虚無に戻るのだ。

nn.りんごが1個置かれている。多忙なら気が付かないだろう。空腹なら気が付くだろう。世界はこのように生じているといわれてもよくわからないかな。外界があって、それが世界で、りんごも自分も世界の一部としてそこにあると、普通は考えるだろう。その時は、自分をりんごと同じ「物」だと思っている。世界は自分と関係なく勝手にあって、宇宙そのもののように、これからも永遠にあり続けると思っている。自分はその中に在って、寿命がくれば消えてしまう泡のように思っている。ところで、こんな世界を見ているのは誰なのだろう。自分を見ているのだから自分ではなく、自分を超えた神のようなものということになるだろう。これでは、自分が余りにちっぽけで、孤独で、頼りない者のように思えてしまう。この考えはおかしいことが分かってくる。やっぱり、自分を見ているのは自分なのだ。世界を作っているのも自分なのだ。

oo.宮が瀬ダムの高台から広い芝生の広場を見渡している。遠足の小学生の集団がいる。班ごとにシートを広げ、その周りで歓声を上げながら駆け回っている。水面のあちこちの小さな渦のようだ。緑の芝生の台紙に、色紙のように広げられた敷物と、子供らの歓声が、動く千切り絵のようだ。私は50年以上前の自分の遠足を思い出している。世界は見える範囲だった。世界の住民も、家族や隣人、先生そして数人の遊び友達で全員だった。その中が楽しければ世界はばら色だった。現実に戻る。横で母も同じように子供達を見ている。きっと私を連れて行った遠足のことを思い出しているのだろう。さらに母自身の幼い頃のことも思い出しているのだろう。

pp.本を読むと、そこに自分を受け入れてくれる世界があるように思えた。仲間と会話をすれば、そこに自分を受け入れてくれる世界があるように思えた。今、自分の殻が固まって、海老のように、自分の穴に一人で潜んでいる感じだ。殻がじゃまで、他人の世界に入っていけない感じだ。山奥の、渓流の岩の隙間に頭を突っ込んでいるサンショウウオになった感じだ。

qq.人は、感覚や感情の心を通り過ぎる現在の現実、つまりこの世だけでは安心できない。記憶の過去や願望の未来、つまりあの世を持つと安心できる。あの世は自分で、言葉で作るしかない。

rr.外界は虚無で、自分が言葉にして初めて自分の世界に組み込まれる。つまり世界は自分の言葉なのだ。自分が世界を作っている。自分は世界に投げ出された者でなく、世界を生み出している者なのだ。

ss.朝、目が覚めて思う。目が覚めなかったら、今、どうなっているのだろうと。家族は生活を続け、交通も、学校もいつものまま動いている。だから世界はそのまま在り続けるのだろうか。肝心の自分がいない。見ていた自分が消えてしまったのだ。世界も時間も自分が言葉で作り出している。自分の目が覚めなかったら、世界は虚無に戻ったままなのだ。

tt.目が覚めた。ここはどこで、何がどうなっているのか、今は何時頃で、約束の時間はどうかなどと、目を閉じたまま、不安がわいてくる。あわてて目を開けて見回す。自分の寝室だ。時計を見る。まだ大丈夫だ。眠るということ、目が覚めるということ、眠っていた間この世を留守にしていたこと、世界を見失っていたこと、留守中のことが気になること、などについて考えた。

uu.電車に乗って見回すと、自分は最年長だなと思うことが多くなった。世界が相対的に若返ったのだとも思う。随分前から、父親の姿も見えなくなり、息子も大人になった。ああ、ここはシルバーシートだったのか。でも大丈夫、ちっとも寂しくない。この世界は、自分が生み出している世界だとわかっているから。

vv.自分は、本来の自分である言葉の心よりも、感覚や感情の心が見せる現在の現実を信じてしまう。そんな自分を未熟だと思う。感覚や感情の心に左右されない言葉の心である自分を作ろうと思う。そのためには、感覚や感情を一たん言葉にして思考する習慣を身に着けるしかない。

ww.自分は、脳の中に、世界地図を描いている。知らないところは白地だ。普通の地図と違うのは、地図がそのまま世界だということだ。白地は虚無ということだ。この地図は、実際に行って測量しなくても、伝聞や想像で描ける。だから、昔の地図のように、製作者一人一人で全く違っているのだ。

xx.感覚や感情の心が感知している現在の現実は、言葉の心の働きである自分にとっては、虚無から湧き上がっては消える泡なのだ。言葉にしたものだけが世界に取り込まれるのだ。感覚や感情の心が映し出す夢は、いくら見ても、頑張っても、覚めれば消える。自分に何も残さない。言葉にせずに感覚や感情に流されるままの人生は、夢を見ているのと同じだ。湧いては消えていく竜宮城での月日だ。言葉にして初めて人生になるのだ。

yy.子供の頃、映画で見た紅孔雀や真田十勇士にあこがれた。そこに本当の世界があって、自分がいる無意味な場所からなんとかしてその晴れ舞台に上がりたいと思った。子供は自分の世界を未だ作れていない。他者によって作られた輝かしい舞台、物語に参加させてもらうことでしか、世界に上がれない。スターへの憧れとはそういうことだ。本当は、世界は自分の中に作るものだ。自分の中に晴れ舞台を作ることだ。晴れ舞台は外にはない。晴れ舞台に上がるというのは、自分の中に晴れ舞台を作るということだ。

zz.うらぶれた町のうらぶれた路地裏のうらぶれた喫茶店でうらぶれたコーヒーやうらぶれた定食が口に合って、うらぶれた雑誌や新聞を読むたびに、最近の世の中はどうしてこんなにうらぶれているのだろうと思う。ふと、ああ、うらぶれているのは自分の心だったのだなと気がつく。照明が暗くなれば、舞台も暗くなるということだ。

aaa.生き物はそれぞれの感覚の心で現在の現実を映し出している。犬は、数日前通り過ぎた獲物の存在を、臭いで現在の現実に映し出す。猟師は過去の獲物を記憶して、いつでも現在の現実によみがえらせることができる。さらに、これから通るであろう獲物の存在を描くこともできる。

bbb.恋人よ我に帰れというジャズを聴いた。The moon was new,and so was love.世界も自分も若かった。今は、The moon is new, and the love is old. 世界は変わらず、自分だけが年老いた。本当は、The moon is old, and so is love. 世界も自分も年老いたということだ。自分だけが年老いたのではない。世界も年老いたのだ。世界は自分が作っているのだから。

ccc.「見渡せば、花ももみじも、なかりけり、浦の苫屋の、秋の夕暮れ」。定家。感覚や感情の心で花やもみじを漁っても、何も得られないよ。自分は言葉の心の働きなのに感覚や感情の心だと錯覚して、感覚や感情を刺激するものが無いこの風景を、寂しいと見てしまう心のあり方に問題があるのだよ。自分の心が未熟で寂しいのだ。それに気がつけば、風景などこのままで十分ではないか。

ddd.大切なのは、脳の中に言葉で自分や世界や願望を作ることだ。世界は言葉でできている。自分の世界には自分が知らない事物は含まれていない。感覚や感情のまま通り過ぎていくものも残らない。だから言葉にすることは、神が虚無から世界を作り出すのと同じ技なのだ。

eee.この世は感覚や感情の心が映し出し、あの世は言葉の心が生み出す。見えているこの世つまり現在の現実が本物で、言葉で作っているあの世つまり記憶の過去や願望の未来は偽物だと思っている。実は逆だ。自分は言葉の心の働きなので、自分にとっては言葉で作るあの世こそ本物なのだ。金魚にとって水面の下こそ本当の世界であるように。

fff.感覚の心は、差異や変化という刺激で、対象の存在に気づく。感覚の心は、差異や変化を感知しているだけで、対象そのものを感知しているわけではない。周囲と差異が無く変化もしない物は感知できない。外界は現在の現実としてあるように思えるが、感覚や感情の心が映し出している変化や差異の信号に過ぎないのだ。両国橋は、感覚や感情の心で思えば、この世のこっちとあっちの境界だが、本当は、感覚や感情の心が映し出すこの世から、言葉の心が作っているあの世へ渡る橋のことなのだ。町田市に七国山、箱根に十国峠がある。感覚や感情の心で思えば、この世のあちこちを見渡す高台のことだが、本当は、この世とあの世がそれぞれ別々に見渡せる場所ということになる。あの世は重力や空気のように普遍的に存在しているが、感覚や感情の心には見えない。あの世は言葉の心の働きである自分が言葉で作っている世界なのだ。

ggg.明け方に夢を見た。流れる川から水を汲み出して、凍らせて、氷のブロックにして積んでいる自分がいた。そうか、こうやって、虚無から言葉を取り出しているのか、現在の現実から記憶の過去や願望の未来を作り出しているのか、虚無から自分や世界を作り出しているのかと思った。川の水が感覚や感情で、氷のブロックが言葉だ。粘土の大地に暮らす人が、日干しレンガを作り神殿に積み上げていく。神殿が自分や世界や時間だ。動物だって期せずしてケモノ道を作る。日々現在を繰り返して通ううちに、道という感覚や感情を超えた言葉、現在の現実を超えた過去や未来、自分や世界や時間への通路を作る。足跡が言葉だ。人はその様にして、自分や世界や時間を作って来た。外界からの情報は風だ。感覚や感情の心は蜘蛛の巣だ。風に揺れるだけの現在の現実だ。現在の現実は虚無の沼から湧き上がる泡だ。言葉にならなければ虚空に消える。ビーバーはダムを作って水をせき止め、巣を作る。ダムが言葉だ。言葉のダムが自分や世界や時間の湖を作るのだ。

hhh.時間を自由に操る。過去や未来を自由に変える。タイムマシンのSF映画では、自由にする対象が、外界や他人になっている。本当は言葉の世界のこと、自分のことなのだ。そしてそれは簡単だ。William BlakeTo sa world in a grain of sand一粒の砂に、世界を/And a heaven in a wild flower,一輪の花に、天国を、見たければ、/Hold infinity in the palm of your handその手で、無限を/And eternity in an hour.この今に永遠を、捉えよう/見ているだけでなく、言葉にして自分に取り込もうということだ。

iii.今朝、ゆで卵のサンドイッチを作って食べた。いつか孫と一種に食べる時が来たら、毎回違ったやり方で殻をむいて、それを言葉で記録するように言ってみようと思う。何気なくむけば、すぐに忘れてしまう。横から、縦から、割り始める場所、無限に方法があることを発見する。それが言葉を生み出し、自分や世界を広げる基本的な方法だと教えよう。

jjj.山道の行く手に廃村が見える。手前に藪があって、その一角が陽だまりの平地で、3体の地蔵がある。赤かった前掛けの布もボロ糸の絡まりのように風化して、世話をする人が絶えてからずいぶん時が経っているようだ。私が来て久しぶりに石から地蔵に戻ったのだ。世界は勝手にあるように思っている。しかし見ている誰かがいなければ、虚無なのだ。世界は人の心が生み出しているのだ。この地蔵も私がいる間だけ地蔵になって、去ると虚無の石に戻るのだ。

kkk.自分では動いていないと思っているが、実際には、地球の自転や公転とともに回転移動し、太陽系や銀河系の一部として、光速で宇宙の中心から飛び去っている。しかし、それは体の話だ。言葉の心の働きである自分は静止している。それどころか、それらのすべてを生み出しているのだ。天動説の方が正しいのだ。

lll. 子供の頃、街を眺めていると、自分がちっぽけな存在に見えて、心細くなった。それは街が確固たるもので、自分はその中のちっぽけな一点に過ぎないと思われたからだ。今、言葉の心が育ったおかげで、街こそ雑多な人間がそれぞれの欲望の砂で描いた絵で、風が吹くたびに変わってしまう虚しい幻影だと分かる。言葉の心の力が弱い時は、自分が街の一部としてあると思えて、不安になる。自分が言葉で街を作っているとわかると平安な気持ちになれる。

mmm.余所見をして階段を下りている時、もう平らだと思ったらまだ1段あって、一瞬、無限に深い穴に落ちたような感じがすることがある。自分は世界を言葉で作っていて、それが崩壊したのだ。外界としてはたった20cmだが、言葉の世界では大崩壊なのだ。

nnn.歳をとるとともに世界が変わったように思える。街の様相や社会や政治が変わったように思う。本当は自分が変わったのだ。世界が外にあって、自分がそこをうろついているのではない。世界は自分が生み出している言葉なのだ。蟻には蟻の世界があるし、モグラにはモグラの世界がある。動物は感覚の心によって世界を作っているのだろう。言葉の心の働きである自分は言葉で世界を作っている。

ooo.コウモリの世界は音が彩る世界だ。複数の着信の数千分の1秒の差異で獲物の位置を見ている。犬の世界は臭いが彩る世界だ。先週ここを通り過ぎた獲物が今見える。人の世界は言葉が彩る世界だ。数十万年前の壁画が今語りかける。

ppp. 母とドライブ中、多摩ニュータウンの大きな団地に迷い込む。昔、新宿の団地で暮らしていた思い出がよみがえってくる。ここも高齢化の波か、人影がほとんどなく、遊ぶ子供は居ない。商店街はさびれてシャッターを降ろして、和菓子屋とデイサービスだけが開いている。今夜はひな祭り、桜餅を買う。この季節になると、妻の神戸の叔母さんから、イカナゴの炊いたのが送られてきていたのを思い出した。その叔母が亡くなって、下の叔母が送ってくれる。夜、散らし寿司と、ハマグリのお吸い物と、菜の花のおひたし、冷酒にイカナゴをつまんだ。今年は、出始めと言うことで、魚が小さく、口の中でとろけるようだった。ほどほどにして、桜餅で茶を飲んだ。40年前からの繰り返しで、思い出もよみがえり、酔いも回って、ついほろりとした。その夜夢を見た。日曜日の晴れた朝だ。昼間見たシャッターがみんな開いている。懐かしい顔が笑って、登校する私を見送っている。夏休みの自分は朝靄の中、小学校の校庭のラジオ体操会場に、朗らかな気分で向っている。秋晴の朝、裸足足袋の土踏まずに地面を感じ、紅白の帽子をかぶって、運動会に向っている。学校の方から祝砲の花火の音がする。雪が降り始めた空を見上げる。赤土の坂道が塩をまいた土俵のようになっていく。夏の大粒の通り雨が地面に叩きつけてはじけ、乾いた土が舞い上がり、焦げたようなにおいがする。空腹の帰路は、母が待つ家がやけに遠く感じられる。けんかをしたり忘れ物をしたり、結構複雑な気持ちで通学していた。父に言われて、熱帯魚の餌にするために、ドブの底で揺れている糸ミミズを割り箸でつまんで牛乳の空き壜に取ったり、十姉妹の餌になるハコベをつんだ。それらがなつかしくよみがえってくる。商店街の手前に駄菓子屋があった。子供達はその店をスギヤマと呼んでいた。店先で見るもの、味わうものが銀河宇宙のようだった。お金の残酷さと万能さが身にしみたのもここだ。その頃はTVも無く、街も人も朝早くから活動していた。日曜日の朝ご飯は、豆腐とあぶらげとネギの味噌汁、生卵を溶いた納豆か塩じゃけ、炊き立てのご飯だ。母に渡された編籠に紙に包んだ10円玉を入れて、サツカワという名の乾物屋に買いにいく。店先に味噌や漬物の樽や、干物や佃煮の浅い木箱。母がくれる駄賃や、店の人が褒めてくれる言葉がうれしかった。これは夢だと思いながら見ていた。数日後、50年ぶりに、その商店街を歩いた。新宿のはずれだが、高層化の波が届かぬ淀んだ入り江のようになっていた。高齢化で街の活力がしぼんでしまったことが幸いして、昔の面影が所々残っていた。公園は消えて区の老人施設になっていた。そのまま生きているのは小学校だけで、商店街はひっそりとした住宅になっていた。あの頃の街は地理的にはあるが、もう何も無い。人や建物が復元されれば世界も復元できるのだろうか。そうではない。見ている自分が変わってしまったのだ。舞台を作り直しても、芝居が終わればもう世界は二度と復元されない。それは世界が、舞台や出演者でなく、見ている自分の脳細胞が、一回限りの配線で編み上げる、その時限りの物語だからだ。

qqq.くもの巣は、くもが居なければ、風に揺れるだけの千切れた糸くずだ。家も、家族がいなければそんなものだ。

rrr. 育った団地の最寄りの駅で降りた。子供のころ、その駅が世界への出口で、そこから世界が広がり始めた。そのころは未だ、世界は自分の外にあったのだ。本当の世界は脳の中に、一人一人別々に作られている。でも、眼前の現在の現実以外にどんな世界があるのだろう。街や地球がリアルで、一人一人が脳の中に作っている世界は幻想だと思いがちだ。自分は言葉の心の働きで、自分にとってのリアルな世界は言葉なのだ。世界は不動の確固たる額縁で、自分はその中の小さな点のように思っていた。今なら、不動で確固たるものは、この外界には何一つなく、しいて言えば、この自分が唯一不動で確固たるもので、世界は、自分の中に生じている言葉なのだと分かる。家に母と弟を残して、父が小さな私だけ連れて新宿西口へ行く。鰻屋で生まれて初めてのうな丼を食べる。みんなには内緒だよと言われて、誇らしい気持ちになる。今もその店はやっていて、その店を思うと、父の言葉や笑顔が浮かぶ。父やかつての自分に会えるような気がする。言葉の世界は、時間を越えていつまでもあり続けるのだ。

sss.星の王子様は「世界中にたくさんの花が咲いている。この花はその中の一本にすぎないのに、出会った瞬間から、世界でただ一つの特別な花になった。何故だろう」と思う。花は感覚に映る花のままではただの通りすがりの花だ。言葉になって初めて、言葉で作られた自分の世界に咲く花になるのだ。

ttt.自分が性善説ならその様な世界が、性悪説ならその様な世界が見える。世界から説が生じるのでなく、説から世界が生じる。言葉が世界を作っているのだ。

uuu.1千万画素のカメラの広告を見た。人の目は何を見ているのだろうか。網膜がバラバラの光の点を写している。点を面や立体にするのは脳の働きだ。世界は脳が作っている。

vvv. 自分の中に、言葉で、世界を作っている。

www.虚無に、言葉の心の働きである自分が名前を与えると、虚無は事物になって、自分の世界の一部になる。名前を与えていないものは存在しないのだ。自分を離れては、世界も空間も宇宙も無いのだ。

xxx.ご本を読んでるね。面白そうだね。さっき、ママが呼んでいたのに、ぜんぜん気がつかなかったね。「何にも聞こえなかったよ」。その時、お前は、体を残して、どっか別の場所に行っていたんだよ。「僕はずっとここにいたよ」。もしかするとご本の物語の世界に行っていたのかな。「ご本には、紙と字と絵ばかりで、入れる場所なんかないよ」。そうだね。本当のことを言うと、信じられないだろうが、そのご本はお前の中にあるのだよ。ご本の絵や字をおまえが一生懸命読んだので、おまえの脳の中に物語の世界が映し出されていたんだよ。そうなると、こちらの世界では、見たり聞いたりできないし、時が経つのもわからなくなるんだよ。脳の中には小部屋があって、時々そこに閉じこもるんだ。そこには本棚があって、経験を積むたびに一冊づつ増えていくんだ。本が増えると、滞在時間が長くなってくるんだ。外の世界の事をこの部屋で考えるようになるのだ。それが大人になるということさ。

yyy.子供が独立して、夫婦二人きりになって3年、そろそろ、息子が幼い日に壊して行った食卓椅子や、大きすぎるテーブルを買い換えようと、家具売り場へ行った。ベビー用品や学習机など、子育てを思い出させる家具が目に付き、物悲しい気分になった。高齢の富裕層向けか、ロココ風とか民芸調など「これで寂しさを紛らわせたらいかが」というような家具を見るにつけ、侘しさはますます深くなった。家具は、使う人の夢や思い出が滲み込んで完成する、組み立てキットのようなものだ。素材やデザインは無関係。今はもう、新しい家具に思い出を吹き込む季節は過ぎた。古い家具がくれる思い出が大切。昔そこにあった暮らしが化石になって、大理石の模様や銘木の木目のように語り掛けてくる。結局、修理することにした。

zzz.電車の向かいで、浅く腰掛けた紳士が、目を見開いて床を見ている。焦点は遠くにある。きっと自分の心の世界を見ているのだろう。

aaaa.この家や街が、ずっと昔から在って、これからもずっと在り続ける様に思える。感覚や感情の心に錯覚させられているのだ。感覚や感情の心には時間がない。現在の現実だけだ。現在の現実には始まりも終わりもない、のっぺりとした永遠なのだ。自分は言葉の心の働きだから過去や未来を持っている。始まりや終わりも見える。生き物が作ったものは、その生き物の心で作られ、維持されている。生き物の心が去ってしまえば、消えてしまう。空き家になった蜂の巣のように、この家も、お前達が巣立って、お母さんが老人ホームに行ってしまえば、消えてしまうのだ。誰もいない廃屋は、もう家ではないのだ。世界は、言葉の心の働きである自分が生み出している、そういうものなのだ。

bbbb.子供は、果てしなく何故何故問答を続ける。言葉で自分や世界や時間を作ろうとしているのだ。自分や世界は言葉で作るものだということがよく分かる。何故と聞くと、答えとして新しい言葉ができる。新しい言葉はレンガとして積みあがり、自分や世界や時間を作り出していく。このレンガは、生きてきた足跡のようなものだ。

cccc.世界は金魚鉢で、自分をその中で泳ぐ金魚のように思っている。世界を地表や大気圏のことのように思っている。しかし、地底や海底、月面や宇宙がその世界に含まれるかどうかは人によって違う。江戸の庶民は、黒船到来で世界が太平洋の向こうまで広がった。本を読んだり話を聞いただけで世界は広がる。空想しただけでも世界は広がる。縮むことが無いという事は、世界は知識や経験つまり言葉の集積なのだろう。一人一人別々に、各人が勝手に作っている言葉なのだ。

dddd.子供の頃、世界も家族も、自分を中心に生じているのだと思っていた。両親は自分を生むために存在し、兄弟も自分との関係で生じているのだと信じていた。これは結構正しかったのかもしれない。

eeee.どんな文化でも、一人に一つずつ、違った名前が付いている。それは、一人ずつ違っていることを、本能的に知っているからだ。捕虜や囚人、兵隊や奴隷など、人格を無視する時は、わざと番号にして名前を剥奪する。飼い犬に名前を付けてヒトのように思うが、名を知らない犬はただの犬だ。脳に情報として取り込む時、重要でない事物は、一般名詞で一括りにして記憶するが、大切な事物には、個別に名前を付けるのだ。

ffff.ヒトや物や日付や場所は、名前をつけないと、覚えられない。覚えるとは事物を保存するのでなく、事物につけた名前を保存することだ。名前が無いままでは、事物は虚無から立ち昇る泡なのだ。すぐに消えてしまう。自分は世界を言葉で作っている。感覚の心が刺激を電流にして感知しているように、言葉の心の働きである自分は、感覚や感情の信号を言葉にして世界を組み立てているのだ。

gggg.観光やらで、一度に沢山の寺や神社や滝や山、大木めぐりをする。何を見て、何かを祈っているのだろう。寺や神社なら仏や神、森や木や岩や滝には八百万の神が宿っているのか。きっと神仏は見る者の心にそれぞれあって、それが外界に映し出される。そのスクリーンが寺や神社や滝や山、大木なのだろう。

hhhh.自分は地球や地図のような世界にいると思っているが、自分がいるのは自分の脳の中だ。自分は脳の中の言葉だ。星や大地、見えているこの世のすべても、脳の中に作った言葉だ。脳に言葉の心の働きである自分が生まれた時世界が生じ、自分が消える時世界も消える。

iiii.どうせ1回の命なら、最高の物を食べようなどと、チマチマ五感を刺激して、癒しをつまみ食いするのでなく、世界を言葉にして、世界そのものを食べよう。つまり、言葉で自分の世界を造ろう。

jjjj.秋の彼岸の墓参り。孫と墓地の草むらで遊ぶ。足元からバッタが飛び出す。うれしそうだ。ウキウキしている。天国にいる気分とはこんなものなのだろう。自分は孫がうれしそうにしているのがうれしい程度で、原っぱやバッタなどどうでも良い。天国の気分はない。天国は、そのもとしてあるのでなく、心の働きが本人に見せてくれるものなのだ。

kkkk.子供は成長すると秘密を持ちたくなる。何故だろう。秘密とは何なのだろう。秘密とは、自分だけの世界ということだ。子供の頃は、外界も自分も一緒だった。言葉の心が育つに従い秘密つまり言葉の世界を作って、仲間や母親から独立していく。人は言葉で秘密つまり世界や時間を紡いで、自分を包んでいくのだ。

llll.子供の頃、脱いだ手袋が裏返ることがよくあった。面倒臭くて、裏返ったまま手を入れた。大人になって、気がついた。世界が地球儀のようなものだとすると、一人一人が、裏返しになった地球儀を頭にかぶって、歩き回っているのだと。一人に一つずつ裏返しの地球儀がある。その中に時間も流れている。外側は虚無だ。下半身である体や、感覚や感情の心は、現在の現実という靴を履いて、その虚無の中をさ迷っている。言葉の心の働きである自分だけ、裏返しの地球儀の中に入っているのだ。

mmmm.記憶の中の祖父母の歳に近付いて、祖父母が近しく思われる。似ているものは近く、違っているものは遠く感じる。時間や空間の遠近とは別に、心の遠近が生じている。

nnnn.自分はどこに居るのか。自分がいる世界は、自分が作っている言葉の体系だ。

oooo.色即是空。すべては空(くう)だ。空(くう)だからこそ繋がっている。人も世界も、自分も他人も、動物も植物も虫も、空(くう)という一つの一部だ。色(しき)とは、感覚や感情の心が、すべてを区別し差別してバラバラに見せる世界。そのように見えるのは、感覚や感情の心がそう映し出しているだけ。人も物も景色も、この世のすべては空(くう)だ。空(くう)とは無ではなく、例えれば、色(しき)が水滴なら、空(くう)は海だ。自分を一滴(色)だと思っているが、海つまり空(くう)の一部だ。この世のすべてが別々に在ると思っているのは、感覚や感情の心がそう見せているだけのこと。自分も他人も、死者も生者も無いということ。そのことは、言葉の心にならなければ見えない。色(しき)とは感覚や感情の心が映し出す、競争差別のこの世つまり現在の現実のこと。空(くう)とは言葉の心が作り出す、あの世のこと。記憶の過去や願望の未来のこと。

pppp.雪の降る町を、雪の降る町を、思い出だけが通り過ぎていく、雪の降る町を、ひとり、心に満ちてくる、この悲しみを、この悲しみを、いつの日かほぐさん。「思い出やこの悲しみ」は感覚や感情の心の象徴、「雪」は言葉の心の象徴だ。感覚や感情が言葉に結晶して、降り積もる。風景が雪で覆われていく。苦痛や苦悩が言葉で覆われていく。言葉で作った未来の目的に向かって、生きようとする力が湧いてくる。

qqqq.この世に同じ物は無い。完全に左右対称な一つの物を二つに切っても、二つは違う物になる。物にはそういう在り方があるというか、感覚や感情の心は、物をそのように認識するようにできている。数字の1がたくさん並んでいる。字体やインクの色や紙の質や書かれている場所が違っていても、どの1も同じ意味だ。この時、私達は物ではなく意味を見ている。言葉として読んでいる。ただ見るだけなら、物はすべてが別々で違うのだ。読むと、形や色や背景が違っていても、意味が同じなら同じなのだ。感覚や感情の心で見ればすべては違っている。違いを見ている。違いを探している。違いしか見えない。言葉の心で読めば、意味が同じなら同じに見える。私やあなたを見かけで見れば別々だが、ヒトだと読めば同じに見える。

rrrr.脳の中に、自分にとっての本当の世界である「あの世」があって、目に見えている外界は虚無の「この世」であることに気づきなさい。自分は言葉の心の働きで、「あの世の住人」であることに気づきなさい。お前は自分がかぐや姫だと気づきなさい。感覚や感情の心に映る現在の現実と、言葉の心の働きである自分が生み出す記憶の過去や願望の未来と、どちらも同じ大切さだ。どちらかが嘘でどちらかが本当というものではない。体や、感覚や感情の心にとっては、生きているために現在の現実が大切だし、言葉の心の働きである自分にとっては、現在の現実の苦難を乗り越えて生きようとするために、記憶の過去や願望の未来が大切だ。

ssss.小学生の頃、家が早稲田大学の近所で、大学生が勉強を教えに来てくれていた。珍しい苗字だった。今日、自転車で母の家へ行く途中の家に、その苗字があった。とても懐かしかった。顔や声は思い出せないが、苗字は自分の一部になったように覚えていた。言葉だけが残るのだ。

tttt.始めに言葉ありき。世界は香りのようだ。この世は香りが広がったもの。香りとは言葉のことだ。

uuuu.自分を、あたかも外界の、物であるかのように錯覚する。そこで、脳の中の無尽蔵の世界と、外の有限の世界との葛藤が生じる。本当はオアシスにいるのに、砂漠の中にいるように錯覚して、渇きに苦しんでいようだ。

vvvv.見えていたり感じている「在る」とか「無い」は、感覚や感情の心が映し出す現在の現実だ。言葉の心の働きである自分にとっては、「在る」とか「無い」は、自分が言葉にできているかいないかだ。

wwww.カップにテイーバッグを入れて、沸かした湯を注ぐ。自分は何を飲んでいるのだろうと思う。紅茶だと思い込んでいる。実際に飲んでいるのは、紅茶の香りがするお湯だ。紅茶を飲んでいると漠然と思っているだけでは世界を言葉にする事はできない。

xxxx.何故、ありのままの外界とは別に、わざわざ、言葉の世界を作らねばならないのか。「ありのままの外界」というのは、感覚や感情の心が感知した一まとめの刺激で、毎回違うし、すぐに消えてしまう。外界の確かな把握には不足だからだ。

yyyy.外界を3つの言葉に分けて考えてみる。心とは無関係に物理的に存在する宇宙の果てのような虚無、世界Aがある。動物としてのヒトには感覚や感情心が備わっている。外界の差異や変化が感覚や感情の心に刺激を与え、現在の現実という世界Bを映し出す。ヒトには言葉の心が備わっている。言葉の心が言葉で記憶の過去や願望の未来という世界Cを作っている。自分は言葉の心の働きなので、世界Cに生じている。一つの心の中で、感覚や感情の心と言葉の心が、争うように出来ている。

zzzz.生物は、細胞とは別に、情報である心を持っている。ヒトはさらに、言葉の心の働きである自分を持っている。言葉の心の働きである自分は、物ではないので、物である世界や体と「自分」との間に、違和感を生じる。動物ならそのまま、情報と物のはざまの世界に安住するが、人間は、「自分」が発達している分、息苦しくなる。物の世界が水中で、言葉の世界が空中のようなものだ。ハイギョのように両方で呼吸ができなければ生きにくい。そのことに気づかないと、世界に自分の居場所がない感じになる。物質である体の中に、脳が作り出す自分という情報が生じ、体や、感覚や感情の心と葛藤している。

aaaaa.科学は、皆が共有する虚無の外界を、皆が共有する言葉にするが、一人ひとり個別な内界のことは言葉にできない。科学は、在る事物を言葉にするが、無い事物から言葉を作ることはできない。例えば目的とか未来とか、意味のことだ。

bbbbb.自分が世界の中にいるのではなく、世界が自分の中にあると知ること。世界が自分を生み出しているのでなく、自分が世界を生み出していると知ることが大切だ。

ccccc.感覚や感情の心に生じる情報を、ただ受けるだけで、言葉にしないと、自分も世界も時間も生じない。動物として虚無の世界の住人となる。

ddddd.世界は時間の川で、自分は魚のように世界を泳いでいると思っている。本当は、自分も世界も時間も同じもので、言葉だ。つまり、夢の中で、自分と世界と時間が渾然一体に感じられるように、ある時は自分だと思ったり、世界だと思ったり、時間だと思っているだけだ。同じ現象についての言葉の使い分けなのだ。

eeeee.世界は外に広がっている何かでなく、自分が自分の中に積み上げている言葉だ。自分は体で、物で、世界はその容器で、あらゆる事物は物の運動だと思っていると、大人になって、言葉の心が成長するにつれて、居心地が悪くなってくる。自分は言葉の心の働きで、自分が自分の中に言葉で世界を作っていることに、うすうす気がついてくるのだ。

fffff.歴史書を読んでいると、時代がさかのぼるにつれて、印象がぼんやりしてくる。文字がない弥生時代になると、急に霞がかかってくる。歴史の黎明期、文字が無いと何も見えない。衣食住などの物の痕跡を辿るしかない。しかし物は体の必要を満たしていた方法を教えてはくれるが、心の必要を満たしていた方法は教えてくれない。楽器が見つかっても、音楽は残っていない。祭壇が見つかっても祭事は見えない。心を求めて物の森をさまようばかりだ。同じように自分の過去を振り返る。思い出はだんだんまばらで粗雑でバラックつくりのようになって、2,3歳の頃に戻るとほとんど何も無い時代に至る。当時の写真や品物を見ても、もう何も思い出せない。その頃が、言葉の黎明期だったのだろう。自分も言葉で残っていくものなのだ。

4)世界は一人に一つずつ、別々にある

a.    生まれて間もない赤ちゃんを抱えた若いお母さんの背中を見ながら、自転車で追い抜いた。赤ちゃんは見えなかったが、背中の向こうに赤ちゃんの生まれたての全世界があるのだと思った。世界は言葉だが、まだ言葉の心が空っぽで、ビッグバンの直後の、これから広がる宇宙の誕生のように思えた。

b.    世界はざくろの実のようだ。一番外の皮はみんなで共有する世界だ。共通の言葉で作った世界だ。政治や経済や科学や学問の世界だ。その皮をめくると、一人ひとりの世界が見える。光り輝く一粒一粒が別々の世界なのだ。

c.    宇宙は一点から広がって、また一点に戻って、また広がって、を繰り返しているという説が在る。この体に宿る言葉の心は、言葉で自分や世界や時間を作っている。この世界もまた、一人一人の誕生や死とともに、一点から広がって、また一点に戻って、DNAの海を出たり入ったり繰り返しているのだ。

d.    宇宙はDNAを作りし、DNAは体を作り、体は言葉の心を作り、言葉の心は言葉を作り、言葉は自分を作り、自分は世界や時間を作っている。一人に一つずつ自分や世界や時間がある。自分の世界では自分が創造主だ。君の世界では君が創造主だ。

e.    唯我独尊とは、「一人ひとりが別々に自分の世界を作り、持っている」という意味だ。

f.    隣に苦痛に耐えている人がいる。隣に不安で苦しんでいる人がいる。でも、私にはわからない。3人は別々の世界にいるのだ。身もだえしたり、言葉を発すると、少し情報が伝わるだけだ。

g.    死病で入院しているとする。隣の誰かの病状が改善したからといって、自分の病状には関係がないことを痛感するだろう。

h.    病院の待合室に座っている。苦痛や不安を抱えた人は孤独を噛締めている。心は互いに通信することを望んでいるが、体は貝のように孤独なのだ。

i.    ヒトだけが世界を持つとしても、この地球には70億個の世界がひしめき、それぞれ別々の時空に生じている。情報なので窮屈ではないが、孤独な雑踏なのだ。

j.    旧約聖書の「始めに言葉があった」とは、一人一人には生まれたながらに、言葉を生み出す力があって、一人一人の中に言葉で自分や世界が作られるという意味だ。だから自分が一人一人にあるように、世界も一人一人にあるということだ。

k.    路地裏の飲食店の店員が表通りで呼び込みをしている。どんなにいいものでも知られなければ、知らない人にとってはこの世に存在していない。すべては知られることによって、知った人の中で生じ、知った人の世界の一部になる。みんなの、普遍的な、唯一の世界というのは、幻想なのだ。

l.    象の尾を触っている盲人には、象は紐のようなものに思える。目明きがそれを見て笑っている。目明きには象の体が反射する光が見える。しかし、目明きには象の尾の感触は分からない。海女がいる。狭い海底の何処がどうなっているのか熟知している。外国航路の船長がいる。海の表面は船長の方が広く見えている。そもそも二人が見ている海が違うのだ。人は、知っていることしか知らない。知っている言葉でしか、対象を把握できない。それがそれぞれの世界の果てだ。世界の果ては一人一人別々にある。一人一人の言葉の心の成長によって、一人一人の世界も成長する。逆に言えば、誰かが、世界はこうだと確信すれば、その誰かにとって、世界はそういうことになる。つまり、世界とは個人的なもので、みんなで共有する外界のものではないのだ。一人一人が世界を作っている。それは当人にしか理解できないが、それでも、当人にとっては唯一の世界なのだ。それを他者にも押し付けようとするから、争いが生じるのだ。

m.    次元が違うということ。幾何学では点は位置だけで質量がないとする。線は長さだけで太さはないとする。幾何学には幾何学、物理学には物理学の次元の定義がある。体と心は違う次元にいる、物と影、物と情報は互いに異次元に生じている。

n.    心を通り過ぎていく感覚や感情の情報を捕まえて、言葉にして、自分や世界や時間を組み立てている。蚕が桑の葉を食べて繭を作るように、感覚や感情の情報を食べては言葉を吐いて世界を紡いでいる。世界一般というものは無く、一人に一つずつ、別々の世界がある。世界は一人一人が別々に作り出している。ある人にとって、それが世界の一部でも、そのことを知らない人にとっては虚無だ。みんなに共通の世界は幻想で、一人ひとり別々なのだ。

o.    カラスが屋上に巣を作り、毎朝、威嚇するような大声で目覚めさせられる。翌週に手術を控え、医師から気をしっかり持って頑張って下さいと言われたことを気にしながらウトウトしていた。突然、耳元で「パワー、パワー」と英語で起こされた。開いている窓から聞こえたカラスの声だった。生き物はそれぞれ別々に一つずつの世界を作っている。世界は外にあるように思えても、実際は脳の中に作っているのだ。私と、あのカラスと、散歩で通っているあの犬の世界が別々にあって、時々重なるのだ。テリトリー、縄張りだ。それぞれ自分の世界しか見えない。私にはカラスも犬も、私の世界の一部、物としてしか見えていない。外界は虚無で、そこに浮かぶ私と、あのカラスと、散歩で通るあの犬が、それぞれの自分の中に、それぞれの世界を作って浮いているのだ。互いに互いは物としてしか見えない。

p.    誰も見ていない風景は、世界ではない、虚無なのだ。人工衛星の自動シャッターが撮った、感動的な月面写真がある。月面自体に世界はない。虚無だ。写真にも世界は無い。虚無だ。写真は見た人の脳の中で言葉になって、初めて世界の一部として生じるのだ。

q.    この国には、みんなの時間は無い。あるのは一人一人の自感だけだ。この国には、みんなの距離が無い。一人一人の歩幅や体力で、一人一人の距離が決まる。この国には、みんなの秤が無い。一人一人の必要な量で、重さが決まる。すべての基準は、一人一人の心の中で生じている。基準は一人一人が自分の言葉で作っている。

r.    脳は観察する対象について、必要な情報が欠けていても、空想で補っている。完全な情報は存在しないのだから、つまるところは、各人勝手な空想の産物を世界だと思っている。その意味で、それぞれ自分の脳が生み出した別々の世界に、生きている。

s.    今朝は、いつもと違う道を歩いた。いつもは見えない風景が見える。逆にいつも見ていた風景は見えない。自分がいないいつもの道は、今、虚無になっているのだ。すぐ前を歩く人がいる。考え事をして、わき目をふらずに歩いていく。同じ道でも違う世界が見えている。手術で、麻酔で眠っている時、意識が消えて、自分も世界も時間も消えていた。枕元にいた医師達には、世界は在り続けていた。時計の針は動いて、点滴の液体がぽたぽたと注がれている。どれが本当の世界なのか。やはり、世界は一人一人別々に、一つずつあるのだ。

t.    世界は各自にある。変えられるのは、各々自分の世界だけだ。他者の世界は他者自身が変えるものだ。互いに、何かできるとすれば、言葉を発信して相手のポストに投函することだ。

u.    心は全ての人に別々にある。世界も全ての人に別々にある。すべての人は別々に生まれ、変化し、消えていく。世界もすべての人に別々に生まれ、変化し、消えていく。

v.    土浦の通り魔事件の犯人が、世界は自分の中に自分が作っているもので、何をしようと自分の勝手だというようなことを言っていた。彼は引きこもってゲームに救いを求めていたそうだ。自分が作っている世界は、言葉で、自分の脳の中にあり、外界とは異次元なのだ。異次元の中と外が混線してしまっている。中の世界は言葉、外界は自分にとっては虚無で、そこにバラバラに他者の世界が散らばっている。自分がそうであるように、他者の中にも自分と同じようにそれぞれの世界が広がっている。みんな異次元にあって、自分も自分の世界を尊重するなら、他者の世界も尊重しなくてはいけないのだ。

w.    ヒトに見える世界と、犬が見ている世界を比べると、ヒトは視覚で、鮮やかな色、鮮明な映像を見ている。犬は、視覚はヒトより弱いが、鮮やかな臭いの軌跡が見えている。数日前にここを通った犬が見えている。それぞれ違う世界が見えている。言葉の心の働きである自分には、過去や未来が見えていて、今が夏だとすれば、もうすぐ秋が来て、木の葉が色づく姿も見えている。今年の春咲いた桜も見ようとすれば見えるのだ。

x.    外界は、通りかかった生物が眺める鏡で、生物は自身の願望を照射して、その反射を世界として受入れるのだ。生物の願望があって初めて、その生物の中に、情報としての世界が生じるのだ。勿論、生物は無数にいるので、無数の異なった世界が、別々に生じるのだ。ドームのように、みんなを包んでいる、共通の一個の、勝手に存在している世界なぞは幻想で、感覚や感情の心にそう思い込まされているだけだ。世界は一つ一つの命とともに生まれ、育ち、体が消えたら一緒に消えるのだ。

y.    子供の頃は家庭や押入れ、秘密の隠れ家など、具体的に自分を包んでいるものが世界だった。地図や地球儀、天体を知ると、抽象的な地球や宇宙も自分の世界になる。学校へ行くと、世界はさらに抽象化されて、空間から人間関係へ、つまり自分を包む他人からの視線のようなものも加わっていく。級友、隣人、親類、学校、世間、我々、人類一般なども世界になる。マスコミ情報が読めるようになると、さらに抽象化が進んで、現代社会、国家、国民、国連、インターネットも世界になる。世界が抽象的になるにつれて、だんだんみんなと世界を共有している感じになってくる。しかしそれでも、世界は一人一人の脳の中に作られているので、皆が完全に共有できる世界というものはない。誰かと誰かの世界の寄せ集めなのだ。

z.    私はモグラとネコを見ている。見えているのは彼らの体で、モグラの地下生活も、ネコの秘密の通路も見えていない。私達の互いの世界は別々だということだ。私がネコを、ネコがモグラを破壊したら、世界はどうなるのか。各々の世界が各々破壊されるだけだ。私とネコとモグラの世界は、物理的には関係のない、別々の情報として存在している。

aa.生き物がいない世界を想像する。感じる生物がいない限り、そこは虚無だ。人類発生前の草原に草食動物がいる。草食動物はそれなりの世界を脳内に作っているだろう。植物も同じだ。世界は生き物が生み出す生命現象で、物質ではない。今あるのは、私の命とともに生じ、命とともにいつか消える私の世界だ。自分には、自分以外の個体が生み出している世界は虚無だ。

bb.マスコミなどが取り上げる世界は、本来一人一人別々である世界の公約数を集めて、不特定多数に発信するために作られる、仮想の世界だ。

cc.一人一人別々の世界に住んでいる。世界は一つの命に一つずつある。

dd.プライバシーを隠すのは、世界は一人一人にある、自分だけのものだという証明だ。互いの心の国境線を越えてはならないということだ。

ee.世界は一人に一つずつある。自分で作っている。だから、他者から言われた言葉は、その場では役に立つかもしれないが、感覚や感情と同様に、すぐに消えてしまう。誰かが生み出した言葉は、その誰かの世界のもので、自分にとっては、虚無だからだ。

ff.みんな一人に一つずつ、頭の辺りに見えない風船をゆらゆら浮かべている。雑踏で体は触れ合うがこの風船は決して触れ合わない。風船の内側には言葉が詰まっていて、各人の自分はその中心にいて、風船の内壁を眺めてはそれが世界だと思っている。体は35億年続くDNAが咲かせているが、風船は、数百万年蓄積された、人類の言葉のDNAの海から流れ込んで、今回のこの体限り溜まっている言葉の空気が詰まっているのだ。

gg.心臓の手術から1年経ち、プールでのリハビリも順調だ。流れるプールに逆らって10周、1000m歩くのが目標だ。最後の方は苦しい。今が何周目か、必死で数えながら歩いている。そんな自分の気持ちに周囲の人は無関心だ。みんな別々の世界にいる。体は物として同じ場所にいても、心は島宇宙のようにまったく別の次元に個別の世界を作っている。もし自分が空腹や寒さで行き倒れていて、みんなが無視して通り過ぎても、それはそういうことなのだ。心である自分にとって、島宇宙を超えて、相手の宇宙に旅をするのは、並大抵のことではないのだ。体になったつもりで、物として競争やけんかをする方が楽なのだ。

hh.カラスのカーという声で、カラスの世界の一片が私の世界に落ちてくる。微生物から動植物まで皆35億歳のDNAの分身だ。生物の体の一つずつにそれぞれの世界がある。みんなが共有する世界が外にあるのではなく、たくさんの世界が生き物の数だけあり、無数の命の一つ一つにできた世界が地上にバラバラに散らばっているのだ。無限曼荼羅なのだ。

ii.宇宙の果ての、いるかいないかわからない知的生命体に向けて、電波を発信するプロジェクトがある。本当は探しているのでなく、居ないことを確認して安心したいのだ。いたら、それも向こうの力が勝って居たらと思うと恐怖なのだろう。向こうの方が劣っていたら、攻撃や征服などの劣情が湧く。孤独が正解なのだ。

jj.世界は各自の脳の中に組み立てた言葉だから、他者と共有することはできない。あらゆる生き物が自分の世界を築いてきた。おおむね同じでも、共有はできない。各々、自分が見ている世界こそが唯一の世界だと信じている。

kk.地球の表面でチカチカしている70億個の光が一人一人の世界だ。世界は、それぞれの体が置かれた環境の影響で内容が違っている。70億個の世界、70億個の自分だ。宇宙に散らばった星の光のように、世界はみな、孤立している。だれも境界を越えて行き来できない。

ll.世界とは、中で70億人がうごめいている一つの大きな容器ではない。勿論地形や地図や国や場所でもない。70億人の一人一人の脳の中に、一人一人が作り上げている世界が70億個あって、バラバラに独立している。これが世界の銀河だ。宇宙の星のように、相互に音信不通なのだが、時々、言語や身振りなどで交信をしている。しかし、あくまで70億個の世界がバラバラにあるということを見失ってはいけない。

mm.一人一人、別々に、自分の世界を作っている。絶対に出会わない宇宙の果ての星同士が、細々と光だけ交信しているようなものだ。もしもお腹が空かなかったら。寂しくならなかったら、退屈しなかったら、怒ること、ねたむこと、喜ぶこと、争うこと、他人を必要とすることがなかったら、その交信すらも起こらない。

nn.世界とは、生命体がいて、その生命体に生じている自身や時間や空間の意識を言う。世界は一つの生命体に一つずつある。その生命体の意識が届いているところまでが、その生命体の世界だ。カタツムリの世界は人と共通な部分もあれば、人にはうかがい知れない深い部分もあるだろう。。

oo.みんなで一つの同じ世界に生きていると思っているだろう。本当はそうではない。

pp.この世は大きな箱のようなもので、その中を、自分や他人がウロウロしていると思っている。みんなで一つの世界を作っていると思い込んでいる。実際は、微生物から人間まで、一つずつの命が一つずつの世界を持ち、自分なりのやり方で情報の繭を作って、シャボン玉のように浮かんでは消え、互いに干渉したり観察したりしている。この繭以外には何もなく、一つの世界と見えるのは自分の繭の内側のことで、全体はバラバラに孤立した繭の銀河なのだ。

qq.去年1本だった花が、今年は野原一面に咲いている。その1本1本に、別べつの新しい世界がある。

rr.外に唯一つの共通の世界があるのではなく、心が70億個あるだけ。その70億の心の中に言葉で作られている世界が、それぞれ一つずつある。

ss.群盲、象を撫でる。みんな違う言葉を生み出す。このように、一人一人別々の世界を作っている。どちらが正しいかなど無意味だ。共通の基準はない。

tt.春は、一人に一つずつ、別々の顔でやってくる。

uu.画家ときこりと猟師が旅をしている。森を見渡す展望台で休息をする。その時、見えている世界は三者三様だ。画家には描くべき絵が見える。きこりには森の木の一本一本の生育状態が見える。猟師には獣の住処や獣道が見えるだろう。3つの世界が別々にあるのだ。世界はみんなにそれぞれ別々にあるのだ。

vv.世界とは、誰かがいて、感知して言葉で作り出した時間や空間を言う。誰かとは、別々の一人一人のことだ。世界は一人一人が別々に作っているのだ。

ww.一人に一つずつ世界がある。衝突することがあるが、それは一つの世界の中で二人がぶつかったのでなく、二つの世界がぶつかったのだ。言葉を交わして一つの世界にいるように思える時があるが、やはり別々の世界まま、信号で交信しているだけなのだ。

xx.世界は一人に一つずつあって、私の死は私の世界の終わりで、私が既に発信した言葉が他者に乗り移ったりすることはあるが、それはもう、他者の世界の出来事だ。世界は、一匹ずつの蛍の点滅のそれぞれの中に生じている。

yy.世界は自分の体を包んでいる環境のことか。それなら一つの世界の中にみんながいることになる。自分を体だと思うならそうなのだろう。世界は外に広がっているように見えているが、自分は情報で、世界も情報で、情報は受発信した者の心の中に宿るものだ。世界は、人によって、また同じ人でもその時々によって千差万別だ。蚕が繭を編んで自分を包む世界を作るように、人の世界も感覚や感情の葉を食べて、言葉の糸で編んだ繭のようなものだ。世界だと思い込んでいるすべては、この繭の内壁に描かれた壁画だ。感覚や感情の心に映る現在の現実は、繭の外に透けて見える虚無で、言葉の心の働きである自分の世界ではない。世界と自分は同じことで、言葉の体系のことだ。

zz.自然の景観を見る。自然の創造力に感動する。しかし感動する人間が居なければただの虚無だ。感動する人間がこの景観を創造しているのだ。自然は虚無でしかない。人の脳の働き、言葉の心だけが、世界を創造できるのだ。世界は言葉でできている、それも一人一人別々にだ。みんなで一緒に一つの世界の中にいるというのも錯覚だ。

aaa.神はいるのか居ないのか、いるならどんな神かなどと言い争うのは、夕べ見た夢を互いに競いあうようなものだ。神も夢も、一人一人の心理現象で、比較は出来ない。

bbb.暗闇に、蛍がたくさん飛び交ったり、とまったりしている。私もその一つ、光っているのは私の世界だ。そんな私や君の世界が暗闇のあちこちにある。私にとって、自分の光が届く範囲が世界なのだが、暗闇全体が世界であるように思えてしまう。暗闇の世界の中に自分が投げ出されているように思えてしまう。暗闇は虚無だ。世界は一つ一つ別々に輝いているのだ。闇を世界と思い、自分をその一部と見ると、虚無の中を迷いさ迷うことになる。

ccc.世界は命の一つずつに別々にある。世界とは生物が各々のセンサーで感知し、体や脳の中に組み立てた仮想の外界、外界の模型のことだ。渡り鳥は体内磁石、サケは水のにおい、蝶は紫外線、ミツバチは太陽との位置、犬はにおいを手がかりに世界を作っている。ヒトは言葉で世界を作っている。

ddd.昨夜、夜明け前に目が覚めて、カーテンを開けたら、満月が見えた。うす雲がかかり、地味な姿だった。こんな時間に、この月を見ているのは、世界で自分ひとりだろうなと思った。そうは言っても、夜勤の人も、公園のベンチで野宿する人もいて、同じことを考えているかもしれないとも思う。

eee.聖書の「始めに言葉があった」とは、「言葉が無ければ何も無い、言葉からすべては始まる、人が知りえるすべては言葉だ」という意味だ。聖書の神とは言葉のことだ。すべてとは、自分、世界、時間のことだ。言葉とは、その場限りの感覚や感情を超えた、記憶や思考が可能な形式にデータ化された信号のことだ。月を映して取り込んだ水面のように、外界(月)を脳の中(水面)に取り込んで再現している(水面の働き)信号(言葉)のことだ。この信号を生み出す働きや生み出された信号が言葉の心や言葉であり、さらに自分や世界や時間を生み出すのだ。脳の働きが月を生み出しているということは、本当の月というものはなく、脳の中で作った言葉が月なのだ。宇宙空間に浮かぶ天体としての月は、誰かの脳で言葉にされない限り、無いということだ。そしてその誰かにだけ月は生じるのだ。月は言葉のとおりの姿かたちをしており、実体がどんな凸凹があって、裏面や内部構造はどうかなどは、言葉にならない限り、虚無なのだ。367億年前にビッグバンで宇宙が誕生したとしても、宇宙を言葉にする人が現れる前までは、宇宙はどこにも無かった。今も、宇宙を言葉にしない人にとっては、宇宙は無い。一人の人が宇宙という言葉を作り出して初めて、その人の脳の中に宇宙が誕生する。その言葉としての宇宙は他の人にも伝えられ共有される。個人個人が作り出す言葉はそれぞれ違っているので、個人個人の宇宙も違っている。風景も花も、出来事も、つまり世界は、すべて一人一人別々にあって、違っている。一人一人は別々の水面なのだ。この世のすべては、一人一人が、別々に、言葉で映し、作り出している、水面の月なのだ。天体望遠鏡の発達で、宇宙の奥行きが広がり、新しく言葉になった新しい宇宙が、観察者から発信されると、受信者の世界にも新しい宇宙が生じる。半球状の天井から、太陽系、銀河系、ビッグバンの果てにまで拡大していく。

fff.手術から3カ月ぶりの外出だ。体の回復の喜びを噛締めながら、公園の林の道を自転車で走っている。秋の気配に満ちた草木や虫の声を楽しんでいる。同じ虫の声がずっとついて来るように感じるのが不思議だ。遠くから、救急車の音がする。ああ、誰かの世界が一つ壊れかけているのだなと思う。この世は宇宙空間のように虚無で、一人一人の世界が星のように散らばり、家族が島宇宙になっているが、それでも互いにあまりにも遠いので、光も電波も届きにくいが、かすかに信号をやりとりしている。SF映画で、故郷の星に着いたら、あるべき場所に破片が散らばっていたという話があった。父の死の床で、何も出来ず、気持ちの共有も出来なかったことを思い出す。星の誕生や消滅は、その星だけの孤独な現象なのだ。

ggg.家族が死ぬと、残された子供達は、罪の意識に囚われる。もっと深く愛してあげるべきだったと。しかし、子供の側から見た関係ではそうでも、親から見れば、親は充分深く、子供に愛情を注いでいた。親は自分の心の愛情で充分満足していたのだ。残された子は、これからゆっくり愛情を深めていけばいいが、それはもう親には関係がないことだ。

5)世界はどのように見えているのだろう

a.    レストランのガラス窓に雨粒がぶつかってくる。春の嵐に揺れる桜並木越に車道を眺めている。満開の桜の向こうを自動車が現れては消えていく。この瞬間に見えている車が現在の現実で、去って行った車の記憶が過去で、これから見えてくるかもしれないと思っている車は未来なのだ。感覚や感情の心は現在の現実を見ている。言葉の心は過去や未来を作っている。向こうの車道を流れる車の一台一台に運転手がいて、彼らもそれぞれ自分の世界を走っている。

b.    今朝、インド洋のアンダマン諸島でマグニチュード6.4の大地震があったというニュースがあった。アンダマン諸島が地球儀の上の点のように浮かんできた。世界の中心は何処なのだろう。日本でもアンダマン諸島でも、パリやロンドンやニューヨークでもない。今そのことを思っている自分の中に世界があって、自分が世界の中心なのだ。

c.    写真が世界そのものだとは誰も思わない。印画紙に転写された色素だ。実際に見えている世界も、感覚や感情の心が映し出している現在の現実という写真なのだ。言葉の心の働きである自分にとっては、それは虚無なのだ。

d.    この世とは、感覚や感情の心が感知している現在の現実のことだ。みんなを包んでいる一つの大きな箱のようなものだ。あの世とは言葉で作り出している世界だ。一人一人が別々に持っているプラネタリウムのようなものだ。

e.    感覚や感情の心は、今泳いでいる現在の現実の海を世界だと思っている。自分は言葉の心の働きで、自分は地形の海とは別の、言葉の海を泳ぐように作られている。言葉の心の働きである自分にとっては、感覚や感情の心が映し出す現在の現実の海は、虚無なのだ。

f.    世界は自分が作り出している物語の舞台で、自分はその主役だ。

g.    体の外には虚無の宇宙。脳の中には言葉の宇宙が広がっている。さらに、言葉の宇宙の中に、言葉で作った外の宇宙の模型が作られている。小さいものの中に大きいものが、内側に外側が包まれている。潜水艦ののぞき窓から見る深海のようだ。

h.    電車に乗って目を開いていると、風景が見える。目を閉じても、まぶたの中に風景が浮かぶ。読書も同じだ。文字を読むと、頭の奥に風景が浮かぶ。網膜の刺激を経ないで脳が生み出す風景だ。違うのは、原因が感覚か言葉かということだ。よく考えれば、どちらも頭の奥に映っているという点で、同じことだ。これは現実、これは幻と、簡単に分けられないことがわかる。

i.    体や、感覚や感情の心が映し出す、みんな、共通の世界に一緒に暮らしていると思うならプライバシーは不要だ。言葉の心で、一人ひとり別々に世界を作っていると思うなら、プライバシーが欲しくなる。プライバシーとは、自分だけの世界を他人に侵害されたくないという感情だ。下町には、体や、感覚や感情の心が映し出す共通の世界に、みんなで一緒に暮らしていると思うヒトが多く、山の手には自分だけの世界を守り、みんなの侵入を拒否するヒトが多いのだろう。世界を感覚や感情の心で見るか、言葉の心で見るかの違いだ。

j.    渡り鳥を見て感じる。星の王子様やかぐや姫のお話でも感じる。自分は、こことは別に、いるべき場所を持っているという感じだ。旅先の町を歩いている感じだ。言葉の心の働きである自分が、感覚や感情の心が映し出す現在の現実の中で感じている違和感だ。

k.    虫眼鏡を持つ人が見れば、一滴の露に、たくさんの微生物がいるのが見える。持っていない人には何も見えない。見えなければ無いと思う。心に宇宙のイメージを持つ人には、小石の凹凸にも宇宙が見える。そうでない人には、何も見えない。文字が読めない人には、本は紙にすぎない。読めれば、過去の事物や他人の脳の中が見える。この世は図書館だ。他人も物もすべては図書館の本だ。

l.    子供の頃見ていた世界と、大人になって見える世界は違う。健康な時と病気の時でも違う。空腹の時と満腹の時でも違う。どういうことだろう。つまり、世界は場面でなく、見ている者の心の中に作られている言葉なのだ。ちょっとした風でゆがんでしまう薄い鏡が感覚や感情の心で、頑丈な鏡が言葉の心の鏡で、しかしどちらも実物ではなく、鏡像を見せているのだ。

m.    感覚や感情の心が映し出す現在の現実が本物で、言葉の心が作っている記憶の過去や願望の未来が偽物のように思いがちだ。しかし、言葉の心の働きである自分にとっては、言葉で作っている世界が本物なのだ。

n.    暗闇で一人で見る。白日に皆と見る。正体を知っていると思って見る。見知らぬ物だと思って見る。幽霊だと思って見る。獲物だと思って見る。見え方が違う。

o.    この世は、この世から見ればこの世に見えるが、あの世から見ればあの世に見える。中は中から見れば中だが、外から見れば、外に見える。感覚や感情の心が映し出す世界と、言葉の心が作り出す世界のことだ。自分をどちらの心だと思うかで、行ったり来たりする。

p.    木の幹が3股に別れ、中の1本がちょっと太いと、人間が両手を挙げた姿に見える。点が2つあると、目がこちらを見つめているように見える。

q.    脳は必要な情報が欠けていると、空想で補う。ノッペラ坊も、見つめているうちに、目や鼻や口が浮かんで、誰かの顔になってくる。年輪や壁の染みや雲の姿に親しい人の顔が見える。満月にウサギや男の顔が見える。晩秋の夜、台所の片隅からコオロギの声がする。弦が1本しかない。コオロギにとっては♀を呼ぶ力強い「望み」の響きなのだが、人には物悲しい、哀れな嘆き声に聞こえる。人は望むように見、聞き、味わっている。この世を自分の都合に合わせて変形して見ている。

r.    尊敬していた人に夢の中で出会い話を聞いてもらう。涙が出るほどうれしい。目が覚める。ああ夢だったのかと思う。でも、まだ、心はうれしさが残っている。満ち足りている。枕にも涙の跡がついている。これは、現実に起こったことではないのか。その人に本当に出会って話をしたのと同じではないか。その人が、脳の中で合成された人であっても、自分にとっては本物と話したのと同じことなのだ。

s.    去年あれだけ輝いて心をときめかせた事物が、なぜ今は、色あせて、くすんで見えるのだろう。物が変化したのではない。目が変化したのでもない。心が変化したのだ。ご馳走があっても、食べる人がいなかったり、食欲が無かったら無だ。外界に何があっても、照らす願望が無ければ無だ。世界は願望が生み出しているのだ。

t.    鮭が母川にもどる、渡り鳥が北へ帰る、♀の蛾が遠くの♂を呼び寄せる、蜜蜂が仲間に花畑の場所を教える、天候や季節の変化を予感する。生き物はそれぞれの得意技で世界を作っている。逆に言えば、世界は作り手の得意技だ。世界は作り手の得意技が把握している限りの情報だ。ヒトは可視光線で、蜜蜂は赤外線で、渡り鳥は体内磁石で、イルカやコウモリは超音波で、犬は嗅覚で世界を作っている。

u.    死者はどこにいる。墓ではなくその人を思う人の脳の中にいる。思い出はどこにある。アルバムではなく、アルバムを見る人の脳にある。

v.    「このスイカ、甘いね」。朝からずっと蝉取りで、喉が渇いていたからね。「スイカはどうして甘いの」。先にこのアイスクリームを食べてごらん。「おいしいね。口が冷たくて、もう食べられない」。さあ、もう一度、スイカを食べてごらん。「生ぬるいし、甘くないし、きゅうりを食べてるみたいだ。」この塩をちょっとなめてごらん。「しょっぱいよ」。もう一度、スイカを食べてごらん。「さっきより、甘くなった」。スイカが甘いのでなく、舌が甘みを作り出しているんだよ。だから、アイスクリームや塩や暑さ寒さで、味は変わってしまうんだよ。そんなどうでもいいことで、おいしい、まずいと好き嫌いを言う人は、まだ子供なんだよ。お昼寝をしたら、プールへ行って、今夜はカレーだ。・・・「プール楽しかった。クタクタに疲れて、お腹がペコペコで死んじゃうよ」。あと1階だ。もう少し頑張って、よいしょ、よいしょ。あ、玄関からカレーの匂いがしてきた。「いい匂い、今日は、水をあんまり飲まないで、カレーを全部食べるんだ。僕、カレーの匂い大好きだ」。「おなかがいっぱいで、匂いがしなくなった。スイカと同じだね。匂いも味も、カレーライスにあるのでなく、僕の舌や鼻が作り出しているんでしょ」。よくできました。・・・さあ、お風呂に入って、歯を磨いたら、一緒に寝よう。お部屋の電気を消してね。真っ暗だ。真っ黒だ。「じいちゃん、何にも見えないよ」。じっとしていてごらん。「机が見える。布団が見える。だんだん、明るくなってきた」。部屋が明るくなったのでなく、目が明るく見えるように変わったのさ。スイカの甘さと同じ、机や布団が光っているのでなく、目がそのように見ているのさ。

w.    ヘリコプターがラオスとヴェトナム国境の山岳地帯の少数民族の村の中央の広場に、舐めるように旋回して降りる。上から見ると、赤茶色の地肌に森が点々として、畑が村を囲んでいる。村や家はバラバラだが、細い道が蛇行する白けた線で村と村、家と家を繋いでいる。家は内臓や器官で、道が血管で、行き交う人が血液に思える。

x.    今、牡蠣フライを食べていると思っている。本当は、牡蠣という装置を使って集めた海の栄養分を食べている。さらに言えば、海という装置を使って集めた太陽のエネルギーを食べている。つまり牡蠣フライというのは、ただの言葉で、本当は、この世を食べているということになる。

y.    その物が実際に在っても無くても、言葉で「在る」と言われたり、姿かたちを説明されると、在るように思える。つまり在るというのは、外界に物として在るのでなく、自分の心の中に言葉として在るのだ。君の後ろにご先祖様の霊が見えるよと言われて、だんだんいるように思えてくるのはそのためだ。

z.    犬はヒトの2000倍の嗅覚で、3日前に通った鹿が見える。同じ景色でも見る人によって違って見える。同じ人でも気分によって違って見える。つまり、外にあるものが見えているのでなく、脳が作り出す情報を見ているのだ。

aa.父方の祖父は、釧路の市場で洋品店を経営していた。母の死後、再婚し弟が出来たので、父は東京に出た。父の方に距離が出来ていたようだ。毎年、冬には、シシャモ、カレイ、スルメ、昆布などが、大きな包みで送られてきた。火鉢てあぶって毎日食べた。父の気持を察して、自分も祖父に距離を感じたまま今日に至っていた。孫ができ、ちょっとした、お土産を探している時に、ふと祖父の淋しさと楽しみが、体感できた。母方の祖父は近所に住んでいた。金持ちのボンボンで苦労知らずだったとか。酒問屋の商売も衰退、健康を害し、失意の日々に、自分が生まれた。はさみ将棋や周り将棋を教えてくれた。やさしかったが、母が祖父のわがままと、ふがいなさを強調するので、自分もそれに同調した感じだった。祖父と孫について、二つのことを感じる。いつか孫が祖父の歳になるまで、孫の祖父への印象は両親の言葉によって作られる。孫が祖父の歳になると、祖父の本当の心が分かるようになる。

bb.冬には春を思う。未だ来ぬ旬に美味を思う。現実の春になれば言葉の春は消え、旬の美味も消える。言葉の働きである自分にとって春や美味は現在の現実ではなく、願望の未来なのだ。自分は未来に居るのだ。

6)世界の楽しみ方

a.    川原で、石を探して鑑賞する探石という趣味がある。宝石のような質や希少性としての評価ではない。自然の模型としてだ。あらゆる石の姿形は独特で、同じものはない。その点、人間に似ている。石の美は石にあるのでなく、それを鑑賞している人の心に生じる。宝石のように、いつでも誰にでも美しい必要はない。流通させる必要も無い。市場価値とは無縁だ。まず何でも良いから石を手に持って、じっと眺めたり、感触を楽しんだりしているうちに、石に何かが見えてくる。実際は自分の脳の中に何かが生じてくるのだ。美は作るもので、転がっているものでもないし、宝石のように物から押し付けてくるものでもない。

b.    父に感謝することがある。父は勤めが多忙な中で、いつも何かに打ち込んでいた。趣味を超えた深さで楽しんでいた。昆虫、ラン、切手、熱帯魚、カメラ、水石、陶芸、骨董、万年青、座禅。父の姉から聞いたところでは、4歳で母が死に、継母になり、寂しい思いをしたのだろう。少年時代はギターが好きだったと聞いた。この経緯は、弟たちに書き残してやろうと思う。わが血統には、これ以上の趣味人は当分輩出しないだろうからだ。父に感謝することがある。美や喜びは外にあるのでなく、自分の中に作り出すものだということだ。おかげで、植物を見ても、生き物を見ても、石を見ても、美しいなと思える心が持てた。なんでもない石が、じっと見つめていると何かに見えてくる。だんだん大きくなって、宇宙そのもののように見えてくる。

c.    この世界は自分が脳の中に言葉で作っている。自分はこの世界を照らす太陽で、自分の具合で、季節のように、住みやすくも、住みにくくも変化する。

d.    見えている外界は錯覚だ。本当の世界は、自分が脳の中に作っている言葉だ。言葉の世界を育てるにはどうすればよいか。自分が感覚や感情の心とは別の、言葉の心の働きだと理解するところから始まる。

7)自分は世界の視座だ

a.    自分の正体は、言葉を積んで築いた塔つまり世界や時間の中心だ。

b.    体のDNAから自分のコピーを作るというSFがある。自分の記憶を他者の脳にコピーするというのもある。同じ体や記憶が作れたからといって、自分が二つ出来た事にはならない。体は物で、自分は情報だ。生じている次元が違う。自分とはこの世で唯一の視座ということだ。一方で、自分とは視座のことだから、私と君の自分を入れ替えても、違和感も何もなく、入れ代わった先の体の視座としての自分になるだけだ。与えられた自分という視座に、言葉を積み上げて世界や時間や願望を作り続けるのだ。

c.    自分が生まれる前は、世界はどうなっていたのだろう。自分がいなくなった後、世界はどうなるのだろう。自分と世界はどういう関係なのだろう。

d.    あなたの友人だ、知人だと自称する沢山の人と出会った。羽振りが良いと集まっている。暗くなると、明るいところに移って行く。悪気など無い。天真爛漫だ。自分の視座を外界に置くと、ハエのようになるのだ。

e.    汽車に乗って景色を見ている。景色が走っていくように見える。本当は自分が走っているのに。自分が世界の中心で、動かなくて、世界が自分を中心に存在しているように思う。天動説だ。死を想像する。汽車が終点に着くことを想像する。汽車から下りなければならないことを想像する。自分は汽車でも世界の中心でもないことに気がつく。地動説だ。

f.    自分は自分だというこの信号は、何なのだろう。私にもあなたにも、すべての人々にも、すべての動物たちにも、植物や微生物にも、それぞれに、家の灯りのように灯っている。自分が大切、この自分は自分だけの自分、未だかって無く、未来にも無く、地上の他の誰とも違う。この体が死んだら、永遠に失われる、唯一絶対の何かのように思っている。でも、言葉の心の働きは同じだ。私にもあなたにも、見知らぬすべての人々にも、同じ自分として生じている。外から観察すれば、どの人の自分も全く同じ自分だ。だから、私とあなた、犬や魚、木やバクテリアのそれぞれに宿っている自分を入れ替えても自分は自分、何も変らない。という意味で、自分は全生物に生じている同じ信号だということになる。本人にとってのみ、自分は唯一絶対の自分なのだ。自他の違いは視座の違いに過ぎない。

A      「時間の香り」を身に着け持ち帰る

1)時間の構造

a.    体にとっての時間は、細胞の変化のことだ。感覚の心にとっての時間は、刺激の変化だ。感情の心にとっての時間は、渇きの変化だ。求めている時には時間は長く、他の何かに熱中して忘れている時には時間は短い。言葉の心にとっての時間は、つまり、言葉の心の働きである自分にとっての時間は、言葉の心に切り替わって、言葉の心の状態で過ごしている状態の長さのことだ。受発信した言葉の質と量に比例する。自分の人生は何だったのだろうと思う時、振り返って見える人生は、記憶や、願望の言葉だ。言葉だけが思い出せる人生なのだ。

b.    健康のため、寿命を延ばすため、自転車で4時間かけて母の住む家を往復している。これで寿命が4時間以上延びなければ、人生を浪費したことになるのだろうか。もし10時間延びたとしたら、その増えた6時間を何に使えばいいのだろう。きっとさらに寿命を延ばそうと使うに違いない。時間は、時間を在り続けさせるためにある。時間とは自分のことだったのだ。何かの手段ではなく目的だったのだ。生まれて以来ずっとしてきた事は、時間を伸ばすことだったように思う。時間を伸ばしてどうするつもりだったのだろう。その隙間に何かを納めるためでも、何かを造ったり得るためでもなく、時間は自分の生きようとする心そのものだったのだ。

c.    今年もお盆が近づいた。草木の葉が茂った庭で油蝉が鳴いている。子供の頃は、写真のように、現在の現実という永遠がずっと続いていた。昨日も今日もなく、いつも同じセミが鳴いていた感じだ。言葉の心が成長して、去年のセミは去年で消えて、今年は今年のセミが鳴いている、この庭がある限り来年もまた来年のセミが鳴くだろうと思えるようになった。

d.    妻の父が死んで2度目のお盆だ。妻が、時間がたつのが早いと言った。老人ホームで暮らしている時に、仕事で忙しくしていた頃と、何もない今と、時間の過ぎていく速さが同じなのが不思議だと話していたと言った。過ごしてきた時間が短いとか長いと言う。一方で、今実際に過ごしている時間の経ち方が早いとか遅いと言う。過ごしてきた時間とは、言葉の心が生み出した記憶の過去のことだろう。実際に過ごしている時間の長さとは、感覚や感情の心には時間はないから、言葉の心が働いている間のことだろう。過去が短いとか長いと思われるのは、言葉の心が生み出した記憶、その間に積み上げた言葉のレンガの高さ、つまり思い出せる言葉の量に比例して長短を感じるのだろう。現在の現実の流れる速度が速いとか遅いというのは、時間は言葉の心が生み出すのだから、言葉の心が消えている間は時間も消えている。感覚や感情の心が主流で時々言葉の心が顔を出すような場面では、時が経つのを忘れるとか、あっと言う間だと思われるのだろう。何かの到着や実現を今か今かと待っている時は、言葉の心が支配していて、願望の未来が作られるので長く思われるのだろう。

e.    感覚や感情の心は街灯だ。ぼんやりと周囲の現在の現実を照らしている。言葉の心はサーチライトだ。目標を捕らえようと、光を過去や未来に向けて照射している。暗闇は虚無だ。

f.    感覚や感情の心が働くと、現在の現実が映る。言葉の心が働くと、記憶の過去や願望の未来が生まれる。

g.    感覚や感情の心は、現在の現実にいる。現在の現実の体を守ろうとしている。現在の現実の癒やしを求めている。言葉の心である自分は、より良い未来を求めている。現在の苦難を乗り越えて、未来の体を守ろうとしている。

h.    時間とは、世界が液体になって流れている川のようなものだと思っている。過去の源流から現在の中流、未来の下流へと向って流れているように思っている。そしてさらに、みんな同じ時間の流れの中にいると思っている。時間には物差しのように均一で正確な目盛りがついているように思っている。暦や時計が時間を吐き出していると思っている。しかしそれらはすべて錯覚だ。

i.    時間には2つ有る。感覚や感情の心が生み出す現在の現実と、言葉の心の働きである自分が言葉で作り出している記憶の過去と願望の未来だ。本当の自分はここにいる。言葉の心はもうひとつ、みんなで共有して用いる道具としての時間を作っている。地球の自転や公転を真似て作った時計や暦は、自分の時間ではなく、道具としての時間だ。これはただの道具だ。

j.    これから起こって欲しいことを言葉にした目的を未来と言う。過ぎ去って消えた事物を言葉にした記憶を過去と言う。感覚や感情の心が映し出す刺激への反応を現在の現実という。過去を参考にして、未来への願望を目的にして、現在の現実の活動に反映させるというのが、ヒトの生き方だ。

k.    時間は言葉だ。言葉の心が働いているのが過去や未来だ。過去は記憶、未来は願望だ。何も考えていない時、つまり感覚や感情の心で居る時は時間の無い現在で、現在には始まりも終わりもなく、ただボーっと、生じたり消えたりしている永遠なのだ。言葉の心が働いて言葉を作ると時間が生まれる。それが記憶の過去と願望の未来だ。

l.    秒や分といった短い時間は、感覚や感情の心が生み出す現在だ。日や年などの長い時間は、言葉の心が生み出す、記憶や願望だ。去年の桜は見事だったとか、来年もまた同じようにサクラが咲くだろうというように、言葉の心は記憶の過去や願望の未来にいる。

m.    時間には2つある。感覚や感情の心が映し出す現在と、言葉の心が生み出す願望の未来や記憶の過去だ。感覚や感情の心が働いている時は現在で、言葉が無いので時間が無いという意味で永遠だ。言葉の心が働いている時は過去や未来だ。

n.    休日になると、川沿いの遊歩道で、時計を気にしながら、後ろ向きにウォーキングをしている人がいる。ゴールの未来ばかり気にすると息が切れる。足元の現在ばかり見ていては方向を失う。過去ばかり見ていては大怪我をする。過去の経験を頼りに、足元は気にしながら、見えない前方に向かって歩んでいるのだ。言葉の心はこのように後ろを向きながら、足元を気にしながら、前を予測して歩いているのだ。

o.    左から右に伸びている直線がある。目の前の1点が現在、左側が過去、右側が未来だ。現在は点なので長さは無い。この線は、一人に一本ずつある。過去や未来の時間の目盛りは、言葉の質と量に比例する。苦しい時は言葉がたくさん生まれるので広く、楽な時は感覚や感情のままなので狭い。時間は、言葉の心でいる間、生じ、感覚や感情の心でいる間、消えている。つまり時間は現在の現実には無く、記憶の過去や願望の未来にだけ生じている。現在の現実には時間がないという意味で、永遠だ。永遠とは時間が続くことでなく、時間が無いということだ。

p.    雪が降っている。空は塗り重ねた白い絵の具のように暗く、丸い太陽の光が明るい井戸のようだ。雪の向こうを見ようとしても焦点が届かない。目は、眼前の雪の舞を追うようにできている。慣れてくる。眼前の現象を無視できるようになる。奥の雪の舞いが見える。眼前の雪が現在、奥の雪が未来、足元の言葉になって積もった雪が過去、遠くから全体を照らしている太陽が言葉の心の働きである自分だ。

q.    感覚や感情の心は現在を生じ、言葉の心が生み出す記憶は過去を、願望は未来を生じる。生きている力は現在に生じる。生きようとする力は未来に生じる。感覚や感情の心は保守派で、言葉の心が生み出す過去は傍観派で、言葉の心が生み出す願望は革新派だ。

r.    感覚や感情の心は現在を映し出す。あらゆる生物は、外界の情報を感知して、現在の現実を映し出している。ヒトには言葉の心があって、記憶の過去と、願望の未来も作り出している。

s.    現在の現実は、感覚や感情の心が映し出している、外界からの刺激への反応だ。変化や差異を感知している。過去や未来は言葉の心の働きである自分が作る言葉だ。現在と過去や未来は、異なる脳の働きで生じている。

t.    時間は、川のように流れる何かのように思える。しかし本当は、時間は流れる何かでなく、心が生み出す言葉だ。過去は記憶された言葉、未来は願望の言葉だ。現在の現実は言葉の無い、時間のない、永遠つまり虚無だ。

u.    肉眼で見える最も遠い星は、最も近くにある銀河、アンドロメダ星雲だ。それでも230万年前の姿だ。月も見えている。1秒ちょっと前の姿だ。既にアンドロメダ星雲も月も消えているかもしれない。振り返れば足跡が見える。これが過去だ。足が地面に付いている。これが現在だ。次の一歩が着地する場所を見る。これが未来だ。過去と現在と未来を同時に見ることが出来る。過去や未来が現在に登場するというのも不思議だ。誰かが塗りたての壁に手形を付けていったとする。自分は、誰かが手をついた過去と、ピカピカの壁の現在を同時に見ている。明日ペンキを塗りなおそうと思えば未来も見えることになる。仕事のことで頭が一杯の人が通り過ぎて行く。彼には壁も手形も見えない。現在の虚無を通り抜けていく。壁も手形も見る人の心の在り方で、過去にも現在にも未来にも虚無にもなる。物としてどうであるかは関係が無いのだ。

v.    過去に閉じこもって、現在や未来から逃避するということがある。同じように、現在に閉じこもる、未来に閉じこもることもある。過去は記憶した言葉のこと、現在は感覚や感情のこと、未来は願望が生み出した言葉のことだ。花を巡る蝶のように、自分は瞬間ごとに、3つの時間をワープしている。

w.    自分は時間の流れの中にいるのでなく、自分が時間を流している。

x.    時間つまり過去や未来は、この自分と別に在るのではなく、脳の中の言葉として在るのだ。未来は言葉の心が生み出す願望の言葉だ。現在の現実は感覚や感情の心が映し出している変化や差異の刺激による興奮だ。過去は言葉の心が蓄える記憶の言葉だ。言葉の心の働きである自分にとっては、現在の現実は虚無で、過去と未来だけがある。言葉の心が船で、感覚や感情の心は現在の現実という海を漂っている漂流者だ。船の使命は漂流者を、救い上げて言葉にすることだ。

y.    写真が古くなるほど、映っている自分の体は新しくなり、写真が新しくなるほど、映っている自分の体は古くなる。写真がアルバムに並んでいる時間と、体が流れている時間が、逆向きだ。時間は不思議だ。 今日の昼間、母と兄弟で墓参りの帰路、帝釈天で、団子屋の壁一面に貼られている寅さんのポスターを見て、発見した。

z.    宇宙の果ては137億光年先にあるという。宇宙の果ての辺りに見えているのは137億年前の姿だ。そこに光る星達が今どうなっているかは知りようが無い。距離が離れている分、昔の姿しか見えないということだ。1m先についても、1cm先についても同じことが言える。見えているすべては、距離に比例した昔の姿だということになる。現在の現実の姿は分かり得ないのだ。北の空に輝く10億光年彼方の星を見ている。10億年前の光だ。その星が今どうなっているかは知りようが無い。見る者が作る現在と対象が物理的に生じる現在は決して一致しない。異次元の出来事なのだ。

aa.感覚や感情の心は、現在の現実しか感知できないが、言葉の心の働きである自分は、記憶の過去や、願望の未来を感知できる。一方で、言葉の心の働きである自分は、現在の現実は把握できない。把握した時には既に過去になっている。

bb.時間という一つのものはない。世界と同様に、心の活動をひっくるめた表現だ。脳の3つの働きを一つにまとめた表現だ。記憶が過去、願望が未来、感覚や感情が現在だ。

cc.感覚や感情の心が現在を映し出している。言葉の心の働きである自分が言葉を生み出し、言葉が過去や未来を生み出している。

dd.過去とは、現在の現実として在ったけれど今はないもの、未来とは現在の現実として在ってほしいけれど今はないもの、現在とは今感じられるもの、のこと。蘭奢待の香りは現在。蘭奢待の物語は過去。蘭奢待の香りを味わいたい気持ちは未来。

ee.過去、現在、未来は、脳の中に生じている信号だ。過去は、言葉の心に記憶された言葉が映し出す信号だ。未来は、言葉の心が生み出す願望の言葉が映し出す信号だ。現在の現実は、感覚や感情の心が映し出す信号だ。

ff.現在、過去、未来は外界にはない。脳の中に生じる情報だ。過去や未来についてなら情報であることを納得できても、現在の現実は外界としか思えない。現在の現実は感覚や感情の心が映し出す情報なのに、外界の実在の事物だと思い込んでしまう。しかし現在の現実も、外界がその人の五感を刺激して生じさせている脳内信号、情報なのだ。外界に感じる物や現象とは何なのかを知り、感覚や感情の心の不完全さを知り、不完全な感覚や感情の心が映し出す現在の現実の不完全さを知ることが大切だ。そしてその不完全さを補うために脳が進化して、言葉の心の働きである自分が生まれ、自分が世界や時間を言葉で作り出して補完していることに気がつくことが大切だ。そうやって補正して生まれたのが記憶の過去や願望の未来だ。

gg.言葉の心の日記帳は、明日のページに願望を書き込むと、今日のページに絵が浮き出て、昨日のページに文字が浮き出るようにできている。明日が今日を生み、今日の結果が昨日のページに書き残される。つまり、未来の願望が今日の行動を生み、記憶の過去を作る。

hh.感覚や感情の心のままに生きていると、昨日までのすべては消え去り、明日も見えない。感覚や感情の心には時間は映らない。昨日も明日も映らない。瞬間だけを捕らえる写真だ。言葉の心が働くと、時間が生じる。動画になる。言葉の心が消えると、時間も消える。時間とは、言葉の心の働きだ。

ii.時間には二つある。変化の刺激を受けて生じた感覚や感情の興奮という現在の現実と、言葉の心が作り出す、過去や未来だ。

jj.時間は実在する何かではない。心の働きを言葉にしたものだ。

kk.春と秋は、感覚や感情の心で捉えるなら、つまり現在だけで捉えるなら、気温も湿度も似たような環境だ。でも、言葉で捉えると、つまり過去や未来とセットで捉えると、死から生への過程である春、生から死への過程である秋は、まったく違うように見えてしまう。言葉の心になれば、現在の現実が、過去や未来とセットされて、より深く鮮やかに見えるのだ。

ll.時間は言葉の心が作り出している。感覚や感情の心には時間がないので、言葉の心が未熟な子供の頃は、すべては永遠に続く現在の現実だった。しかし今思い出せることは少ない。言葉の心が発達するにつれて、過去や未来ができて、現在が有限な時間になる。現在の現実から記憶の過去や願望の未来に視野を広げることができる。

mm.時間は過去と未来にある。現在には時間は無い。感覚や感情の心の興奮として生じている、永遠という異次元だ。

2)自分と世界と時間は大きく見れば同じものだ。つまり言葉だ

a.    現在の現実とは感覚や感情の心が映し出す世界。過去とは言葉の心が生み出す記憶が映し出す世界。未来とは言葉の心が生み出す願望の世界。時間と世界は同じ意味だ。

3)自分は、言葉で記憶の過去や願望の未来を作っている

a.    時間がたつということ。ぼやっとしている間にまた日が暮れてしまう。過ごしている間は退屈をもてあまし、時間がたつのが遅すぎ、一日が長すぎるように思われる。そんな一日の日暮れに夕日を見ながら一日を振り返る。思い出せる何も無く、あっという間の一日だった様に思われる。過ぎ去った昔を思う。巣立った子や、両親や兄弟や友人を思う。感覚や感情の心で思うと、過ぎ去ったすべてが何も残さずに消えてしまった様に思える。考え事に集中してあっという間に日が暮れる。しかし何かが増えた充実感がある。過ごしている間は駆け足で過ぎたように思われるが、振り返ってみれば長い一日だったように思われる。体験を重ねたこと、子を育てたこと、活動をしたことが言葉になって、記憶になって、積み上がって見える。一日が、消えずに、過去になって残っているように思われる。

b.    未来を語り合う時、話は弾むが、無意識に、競い合う心、批判しあう心も湧いてくる。過去や死を語り合う時、競い合いや批判は生じない。穏やかに、心を開くことが出来る。未来は願望、生きようとする力で、過去は変える事の出来ない化石になった時間だからだ。

c.    子供の頃、あるのは現在の現実だけだと思っていた。しかし、そう思っている自分は実は言葉の心なので、中途半端な心境だった。言葉の心が未熟だったのだ。言葉の心が成長して願望が強まる青年期には、現在の現実など無視して、未来だけに意味あるように思えた。言葉の心が成熟すると、記憶が増えて、過去の世界も見えるようになってくる。過去や未来は一人一人の脳の中に生まれる言葉なのだ。

d.    広大なトウモロコシ畑の奥に、異次元の広場があって、昔のままの父や友だちが野球をしている。主人公が、そこと現在の現実を行き来するというアメリカ映画を見た。東京タワーの時代を再現して、観客がそれを見て、懐かしむ日本の映画もある。過去に戻る物語は、快適で、優しい気持ちにさせる。未来へ行く物語もある。手塚治虫の科学漫画では、科学技術の進歩だけが取り上げられ、便利、快適という点ばかりが強調され、消毒済みのタオルのように、虚しく澄み切った秋の空のような世界が描かれている。人間味のような温かさはあまり登場しなくて、戦争や犯罪や冒険などがあるばかりだ。

e.    願望を作ると未来が生じ、記憶を探すと過去が生じるようにできている。

f.    現在は感覚や感情の心が映し出している。瞬間瞬間に点滅する感覚や感情は、何も残さない。先も見えない。言葉の心の働きである自分はそれでは不安だ。補う為に言葉で記憶の過去や願望の未来を作っている。

g.    外界つまり現在の現実は、神経が外界の刺激を受けて生みだす興奮だ。記憶するというのは、興奮を、ニューロンつまり神経細胞のつながりで固定することだ。つまり記憶は物であるニューロンの、物ではない働きとして蓄えられるのだ。ニューロンの、物ではない働きで外界の模型を作って、外界の刺激がなくても、外界を再現できるようにしている。それが言葉だ。記憶の過去と願望の未来は言葉で生じる。記憶をそのまま再生すると過去に思え、願望をからませると未来に思えるのだ。

h.    マンモスと狩人の戦い。現在の現実の中で戦えば、マンモスの勝ちだが、戦場を過去や未来に広げれば、人が勝てる。過去にマンモスが通った道筋を記憶し、未来の通過地点を予測して、そこに罠を仕掛ければよい。感覚や感情の心では、過去や未来が見えない。マンモスには過去や未来は見えない。罠にかけられたマンモスは、まさか過去や未来から攻撃されたとは思わない。感覚や感情の心のままの人間は、言葉の心に進化した人間に勝てないということだ。未来が見えないとどうなるのか。今のままがずっと続く。辛い状況には絶望し、良い状況では楽観するだけだ。癒しに安住する支配者は、救いを求める挑戦者に勝てないという歴史的事実だ。

i.    タイムマシンの原理。現在から過去や未来へ移動するとは、何がどうなることなのか考えた。現在や過去や未来は何処にどう在るのだろう。世界が、自分が作っている言葉の塔つまり情報で、地球や宇宙のような物の広がりではないように、時間も川や風のような物の流れではない。過去は記憶で、現在は感覚や感情で、未来は願望だ。つまり一人一人の心に別々に生じている情報だ。過去や現在や未来という時間の川が、みんなで共有する外界にあって、みんなと一緒に流されているというのは錯覚だ。共有している暦や時計、太陽や星の運行は、時間を計る道具で、時間そのものではない。今、自分が目の当たりにしている現在の現実も、そのままではみんなで共有する事はできない。言葉にして発信すると、受信された分だけ共有される。みんなに共通の過去や現在や未来があるというのは錯覚だ。だからタイムマシンに出来ることは、特定の一人の心に働きかけるだけだ。その人の記憶の過去や願望の未来を、あたかも感覚や感情に生じている信号のように再現すれば良いことになる。SFとしてのタイムマシンは、現在の現実の中で、体があちこち移動するように、体を時間の中で移動させようとする。錯覚だ。過去や未来も、現在の現実と同じ次元に、同じ在り方で存在しているという思い込みだ。現在の現実は感覚や感情の心の働きで、過去や未来は言葉の心の働きで、違う次元の脳の働きだということだ。他者も、自分と同じ時間の中にいるという思い込みがある。時間も、世界と同様に、みんなで一つの時間というのは錯覚だ。一人一人別々に生じているのだ。

j.    夕暮れに仕事の手を休めて、西の空を見る。こんなに美しい空は見たことがないと思う。この程度の夕焼け空は、長い人生で、いくつもあったろうに。思い出せないとは、無かったということだ。思い出は自分がその時に言葉にした部分だけで出来ている。

k.    言葉の心の働きである自分は、現在だけでは物足りない。済んだこと、これからのことを言葉にして、自由に操作したいと思う。今見えている現在の現実の向こうに、記憶の過去や願望の未来を生み出してみる。

l.    時間は言葉の心に言葉として生じる。感覚や感情の心が働いている時、時間は消えている。過去はアルバムのように固定し静止した姿をしている。言葉の心に現在はない。未来は、願望や目的という言葉として生じる。のどが渇く。感覚の心に不快が生じる。感情の心に不満が生じる。言葉の心は、昔の水場を思い出し、そのオアシスへ行こうと思う。苦難や苦痛をこらえて進む。泉に着いて言葉の心が消える。感覚や感情の心に切り替わる。水を口に含み飲み込む。快い。渇きが癒える。感覚や感情の心も消える。心が空になる。退屈という感情が生じる。感覚や感情の心は新しい変化という刺激が欲しくなる。言葉の心は新しい未来という言葉が欲しくなる。出発する。

m.    過去や未来は、感知できない、実現していない、空虚な何かのように思えるが、実際は、自分の言葉の心の中に言葉として実現している。記憶の過去や願望の未来は、感覚や感情の心に映る現在の現実より大切なのだ。

n.    時間は、言葉の心が言葉で生み出す記憶の過去や願望の未来のことだ。感覚や感情の心が優勢で言葉の心が消えている場面では、現在の現実という永遠ばかりで、時間は生じない。強い快不快感や喜怒哀楽に囚われていると、時が経つのを忘れる。勿論、眠ったり、気を失ったり、死ねば、時間は消える。

o.    人は未知の事物を恐れる。自分はどこから来た何なのか。自分は何を目指して、どこへ行くのか。過去や未来が見えないと不安になる。現在の現実を言葉にして、過去や未来を作れば、恐怖や不安から救われる。

p.    幼い頃、秋が深まると、どこからともなくりんごの木箱が届いた。木箱の香りがするもみ殻の中に、赤くて大きい、香ばしいりんごが埋まっていた。トロイの遺跡を掘り当てたシュリーマンの気分だ。洗ってもらって、皮ごとかじる。三分の一位で満腹になる。それを日に何回も繰り返した。今朝、りんごをむいて食べた。カロリー制限のためだ。喜びは湧かない。あの時と同じ自分が今に継続していると思っているが、体の細胞は日々入れ替わっている。昨日の体と今日の体は、同じではない。感覚や感情の心に至っては、瞬間ごとに生じる別々の信号だ。言葉になって蓄積した自分だけが、数十年前の自分と今の自分をつなぎ合わせているのだ。

q.    神話の世界。願望は、生きようとする力をくれるが、一方で奪い合いや、争いの素にもなる。未来を語り合うと話は弾むが、競い合う心も湧いてくる。未来は願望そのものだからだ。仲良くしたいなら、未来には触れない方がよい。過去を語り合う時、和やかに、心を開くことが出来る。過去はもう変える事の出来ない、奪い合えない願望の化石だからだ。

r.    言葉の心の働きである自分は、感覚や感情の心が映し出すこの世つまり現在の現実だけでは安心できない。満足できない。あの世つまり過去や未来を作ると安心できる。あの世は言葉で作るしかない。安心できる世界は、言葉で作るしかない。

s.    日の出や朝焼けの空を見ていると、地平線の向こうに未来が見える様な気分になる。日没や夕焼けを見ていると、地平線の向こうに過去が見える様な気分になる。夜行性の動物なら、逆に感じるのだろう。日の出を見る。何かを待望む感情の高まり。生きようとする力、願望が湧く。日没を見る。太陽が地平線の下に吸い込まれていく。願望が消えて、心が鎮まり安らぐ感じだ。

t.    感覚や感情の心には時間はない。外界からの刺激で現在の現実を映し出しているだけだ。自分は何で、これまでどうで、この後どうなるのか、全然分からない。言葉の心は、わからないことに不安や恐怖を抱くようにできている。だからわからないことを言葉にして明らかにしたり、言葉で自分や世界や時間を作る。

u.    感覚や感情の心は苦痛や苦悩に流されるばかりだ。言葉の心は、苦痛や苦悩に立ち向かい、乗り越えようとする。言葉の心が生み出す記憶の過去や願望の未来が時間の正体だ。古代エジプトの王達は、体の死後には願望はない、つまり時間も無いのに、死後の長い時間をどう過ごすか悩んでピラミッドを作った。懲役囚は願望があるので、時間が重い。死刑囚は、願望が消えているので、時間も消えている。未来とは言葉になった願望のこと。感覚や感情の心には現在の現実だけがあって、過去も未来もない。過去や未来は言葉の心にしか作れない。

v.    タイムマシンで、過去の世界に行って、懐かしい人々に会ったり、昔の失敗をやり直して現在に反映させる物語がある。未来の世界に行って、宝くじの当選番号を調べてきて、現在に戻って儲ける物語も有る。映画では話を面白くするために体ごと時間を移動するように描くが、実際には、言葉を使って、体は現在においたまま、心だけ過去や未来に行って帰ってくる、誰もがいつでもやっている、言葉の心の働きなのだ。

w.    高速度撮影で撮った、雲の流れや、季節の変化、花の一生を見る。現実だと思っていた現在が変わる。現在が過去に流れ去り、未来が現在に流れ込んで来る。見えなかった時の流れが見える。感覚や感情の心は瞬間しか写せないカメラなので、このような過去や未来は見えていない。自分は言葉の心の働きなので、全体を見渡し、時間や空間を広く捉えることが出来る。動画が撮れるカメラだ。言葉の心の働きである自分は、感情や感覚の心が映し出す現在を超えて、過去や未来を含め時間のすべてが見渡せるのだ。

x.    人は目が向いている方向に未来を感じる。目が願望の窓だからだ。未来は前方からくるのだ。

y.    空腹になると世界が鮮やかに見える。何かを探そうとして、はっきり見えるのだろう。敵や危険を意識すると、生きようとする心が湧いてくる。現在の現実の身を守る感覚や感情の心を補うために、未来の身を守る言葉の心の働きである自分が生じるのだろう。自分は未来を見ている。

4)錯覚の時間

a.    過去には時計が刻むような時間は無く、記憶の父母も遠い祖先も一緒に見える。時計が刻むような時間は、未来にも無く、明日も10年後も同じように思える。時計が刻むような時間は、感覚や感情の心が映し出す現在にもない。つまり時計が刻むような時間は、作り物の偽物なのだ。

5)言葉の心の働きである自分にとって、本当の時間は、感覚や感情の心が映し出すこの世の時間つまり現在の現実ではなく、言葉の心が作り出すあの世の時間つまり記憶の過去や願望の未来だと理解する

a.    蝶の飛翔をスローモーションで見る。空中に浮いているのでなく、一瞬一瞬の羽ばたきの力が、体を支えていることが分かる。命も、生きようとする一瞬一瞬の努力が、支えているのだ。現在の現実に浮かんいるのではなく、願望の言葉の羽ばたきの結果、未来に浮かんでいるのだ。

b.    見えているのは、外界そのものでなく、感覚や感情の心に映っている現在の現実という外界の鏡像だ。そのうちの大切な部分を、言葉の心が、記憶や情報処理が可能な言葉にフォーマットしている。記憶の過去や願望の未来が生まれる。言葉の心の働きである自分は、この過去や未来にいる。

c.    無限の命や若さを求める物語は昔からたくさんある。問題は、命や若さを、体と捉えるか心と捉えるかだ。心と捉えるなら、心の持ちようで、誰でも挑戦できるし、手に入いる。体と捉えると、やっかいだ。いろいろな悪あがきや、医学や物理学のマジックを使わなければならないし、生老病死の苦の輪廻に捕まるのだ。。

d.    自分がいる時間とは何なのだろう。時計や暦が刻む時間や歴史として描かれる時間は作り物だ。現在とは、感覚や感情の心が映し出す興奮だ。その場限りで、何も残らない虚無から立ち昇る泡だ。言葉の心が、感覚や感情の泡を言葉に変え、言葉の心の働きである自分を作り、自分が言葉で過去や未来を作り出す。記憶の過去や願望の未来が本当の時間だ。

e.    手術の後の通院やらで日々が虚しく過ぎていく。寿命を予め決められた長さのようなものだと思うと、命の蝋燭のように、失われていくイメージになる。寿命を容器ではなく中身で、それも生きた結果として溜まる言葉だと思うと、言葉が降り積もって、過去や未来が厚くなって、命が増えていく感じがする。

f.    最近は、朝目覚めて、ああ、こうしてうかうかしているうちに、どんどん人生の時間は過ぎていくのだな、大切な命の時間が、砂時計の上の部屋の砂のように減っていくのだなと思う。一方で、若くして死んだ友人たちを思って、自分はよくここまで生きてこれたなと、逆の思いも湧いてくる。砂時計の上の部分ばかり見てしまうが、下にどんどん溜まっているのも人生だ。欲深い気持ちになると、上にばかり注意が向いて、下に降り積もった、生きてこれた長い時間の存在を忘れてしまうのだろう。下に溜まった砂山は言葉の塔だ。

g.    感覚や感情の心が、外界の刺激を受けて、現在の現実を映し出している。それは、言葉の心の働きである自分にとっては、異次元の世界だ。過去や未来は言葉の心が作っている世界、現在は感覚や感情の心が映し出している虚無なのだ。過去は言葉の心が作る記憶の世界、未来は言葉の心が作る願望の世界、現在は感覚や感情の心が外界に反応している現実だ。自分は言葉の心の働きなので、言葉でできた過去や未来にいる。現在の現実にはいない。現在の現実にいるのは感覚や感情の心で、自分ではない。自分は過去に記憶として、未来に願望として生じる者で、現在の現実にはいない。

h.    言葉の心の働きである自分には現在は無く、過去と未来しかない。自分が現在の現実の体に指令を出して操縦しているように思っているが、ほとんどの活動は体が勝手に動いて事後報告している、つまり自分は現在だと思っているが既に過去なのだ。自分が関与できるのは、言葉である過去と未来だけだ。言葉の記憶をよみがえらせて仮想の現在を作る。これが過去だ。言葉で願望を作り、仮想の現在にする。これが未来だ。過去や未来は言葉だ。現在は感覚や感情だ。

i.    川の流れは時間を連想させる。時間は目に見えない川のようだ。世界が変化していく刺激だ。感覚や感情の心が映し出す現在は、流れる水面で動かない光のきらめきだ。川上を見る。流れが通り過ぎてきた山や野原が見える。川下を見る。流れを待ち受ける海が見える。水面のきらめきは動かないが、水は川下の未来へ流れ去り、とどまらない。感覚や感情の心には眼前のきらめきしか見えない。永遠にそこにあってきらめいているようにしか見えない。言葉の心は水を見ている。水は一瞬たりとも止まっていないのが見える。

j.    時間は心の動きで、外界を流れている何かではない。心の動きを過去、現在、未来に分けて考えてみる。過去はすでになく、未来はいまだない。現在は感覚や感情の心が映し出すこの瞬間という現実で、時間がないという意味で永遠だ。自分は誕生以前には何をしていたのか。この問いは無意味だ。なぜなら、世界も時間も、言葉の心の働きである自分が、自分の誕生以降に作っているのだからだ。

k.    人生が短いとか長いと思うことがある。どんな時短いと思い、どんな時長い感いと思うのだろう。感覚や感情の心のまま過ごしていると時間が消えて、永遠の中を漂っている感じがする。しかし振り返って見ると、思い出せる何も残っていない、とても短かったような気持ちになる。したいことやしなければならないことを考えて、言葉の心で過ごしていると、時間が矢のように過ぎていく感じがする。言葉で作った未来の願望や過去の記憶がたくさん生まれ、振り返って見ると、思い出すことがゴロゴロあって、とても長かったような気持ちになる。

l.    時間が足りないとか、時間をもてあますという時の時間とは何なのだろう。時間というものがあるのではなく、言葉の心があるのだ。

m.    時間を読み取る人間がいなくなった時計は、いたずらにクルクル廻るだけ。時間は消えている。

n.    今の自分の時間と、未来の自分の時間。心身ともに活発で、短い時間で沢山の活動が出来る今の1日と、加齢で衰えて、何もせずに過ごす未来の1日と、同じ価値だろうか。生きているだけで満足な感覚や感情の心では同じ価値のように思えるだろう。言葉の心でみれば明らかに違う。アリとキリギリスの寓意は、夏のアリも冬のアリも、命の重みは変らないという前提だ。命は永遠、単位時間当たりの命の価値も不変だという前提だ。

o.    生きてきた時間の長さを、振り返って測る。時間は言葉でよみがえる。言葉を沢山思い出せると長かったように感じる。人生が充実していた感じがして、満足感が湧いてくる。つまり、沢山言葉を作ることが人生を作ることだ。言葉はどんな時に出来るのか。喜怒哀楽で言えば、喜や楽の時は感覚や感情の心のまま満足するので言葉は生まれず、怒哀の時、試練を乗り越えようとして言葉の心に切り替わる。人生、幸福で順風満帆の時は虚しく過ぎ、不遇で困難な時が充実しているとは、普段考えている人生観とは逆なのだ。

p.    時間は外に在る何かでなく、心の働きだ。現在、過去、未来が、時計や暦、歴史の年表のように、外界に在るというのは錯覚だ。感覚や感情の心が現在を、言葉の心が過去や未来を生み出しているのだ。蜃気楼の説話に、大きなハマグリがいて遠くの景色を空中に吐き出しているというのがある。ハマグリは言葉の心のことだ。ハマグリは、過去や未来という時間の蜃気楼も吐き出しているのだ。

q.    自分が時間の川を流しているのに、自分が時間の川に流されているように思ってしまう。自分が血管の中を流れていると思うのと同じだ。

r.    感覚や感情の心は体に操られ、現在の現実しかもたない、受身の心だ。言葉の心は、言葉で自分や世界や時間を作り出している。世界は外にあるように見えて、実際は一人一人の脳の中に作られている言葉だ。時間が、暦や年表のように自分の外にあるように思っているが、本当は、自分の中に言葉でできている記憶の過去と願望の未来なのだ。

s.    時間とは何なのか考えた。感覚や感情の心が映し出す現在の現実を、前後に引き伸ばしたものではない。時間は感覚や感情の心が映し出す現在の現実とは異次元に生じている言葉だ。ゼロを何倍してもゼロであるように、感覚や感情はいくら重ねても言葉である過去や未来にはならない。記憶の過去や願望の未来は、言葉の心の働きである自分が作った言葉だ。自分は言葉の心が働いている時だけ生じている。言葉の心が受発信した言葉の質や量が時間なのだ。感覚や感情の心でいる時は、時間は生じない。そんな人生を過ごしてふと振り返ると、行く末も来し方もつまり時間が、煙のように消えてしまった気持ちになる。

t.    今が満足だと、感覚や感情の心のまま過ごしている。時間は消えている。今が不満足だと言葉の心が働く。言葉が出来る。時間が生まれる。

u.    子供の頃、テレポーションとかテレパシー、忍術などの超能力で、瞬時に時空を飛び越えて移動したり通信する遊びをした。しかし昔から、ヒトは超能力に頼らなくても、自在に現在過去未来を行き来しているのだ。現在の現実の中でなら、馬や駕籠、自動車や飛行機や新幹線がテレポーションを実現している。手紙や携帯電話やインターネットがテレパシーを実現している。過去や未来となら、記憶や壁画や本、墓などがタイムマシンを実現している。過去や未来を現在の現実にするのはマルチメデイアの進歩だが未だ稚拙だ。去年の花を今年また咲かせる。過去や未来の花は言葉の心の中の言葉で、現在の現実の花は感覚や感情の心への刺激だ。マルチメデイアというタイムマシンは過去や未来という言葉を、現在の現実という感覚や感情に変換する装置のことだ。サルからヒトへの脳の進化を逆回しにして、サルへの退化を楽しむ遊びだ。現在の現実の不完全さに気がつかずに、現在の現実の方が記憶の過去や願望の未来より確かだと信じ込んで、逆に過去や未来を現在の現実に焼き直そうとする心の働きが誤りなのだ。素直に、感覚や感情に映った現在の現実を言葉にして、過去や未来に変換すれば良いのだ。短歌や俳句こそ、それをしている、正しいタイムマシンなのだ。

v.    「人生」とは何のことを言っているのだろう。生きている現在の現実ではなく、生きてきた過去、生きていく未来の時間のことだ。過去を振り返って言っている時の人生とは、記憶のことだ。記憶は言葉だから、自分が築いてきた言葉の質や量のことを言っているのだ。未来を思って言っている時の人生とは、願望のことだ。願望も言葉だ。ここから先に見える言葉の質や量のことを言っているのだ。

w.    月は38万Km離れているので、光速の毎秒30万Kmで割って、1秒ちょっと昔の姿を見せていることになる。アンドロメダ星雲は230万光年離れているので、230万年前の姿を見ていることになる。月は自転しながら公転しているし、宇宙は光速で膨張しているので、見えている星は現在はその場所に無い。このことは感覚や感情の心にはわからない。現在の現実としてその星は確かにそこに在るとしか思えない。錯覚だ。嗅覚はどうだろう。においの微粒子と接触した現在の瞬間だけしかわからない。においの発生源は見えない。皮膚の触覚はどうだろう。触れた現在の現実しかわからない。このように感覚の心は現在の現実しかわからない。

x.    車で母の家に向っていつもの道を走っていた。慣れた道を他のことを考えながら走っていた。途中、ケヤキの並木が紅葉して茶色い雪のように降ってくる場所で、一瞬我に返った。家の近くまで来て、はていつの間にどうやってここまで来たのだろうと思った。途中が消えて、瞬間ワープした感じだ。かろうじて、ケヤキの紅葉が目に浮かんだ。感覚や感情の心で、うかうか暮らすと、人生はこんな風に瞬間ワープになってしまうのだろう。

y.    プールサイドで感覚や感情の心になりきっていると、時間が生じないので、現在の現実がこのまま永遠に続く感じで、恍惚を感じる。しかし、言葉の心の働きである自分にとってそれは虚無に惑わされて生じる永遠という錯覚だ。自分にとっての時間は、言葉の心が働いて、現在の現実を乗り越えて未来へと生きようとして生み出した、言葉の質や量のことだ。

z.    人生の長短とは何なのか。体の生存期間のことだと思いがちだが、本当は心のことだ。心だから、量や長さではなく質のことだ。自分は心それも言葉の心だから、受発信した言葉の質のことだ。体の活動期間の長短ではないし、体や、感覚や感情の心を通過しては消えていった刺激や興奮の量でもなく、言葉の心が生み出した言葉の質だ。人生は、細胞が活動していた時間から眠っていた時間、感覚や感情の心でいた時間を除いて残った、言葉の心でいた時間だけのことを言う。少なくとも本人が振り返る時には、そこしか見えない。登山で振り返れば登ってきた道が見える。立ち止まったり迷っていた痕跡は残っていない。

aa.言葉の心の働きである自分が生じている時は、時間が早足に過ぎる感じがする。しかし後で振り返れば、通ってきた道にたくさんの言葉が敷き詰められていて、たくさんの時間を過ごしていたように思う。感覚や感情の心で居る時は、時間は生じない。永遠の中にどっぷり使っている感じだ。後で思い出すと、思い出せる何物も無い。過去が消えてしまった感じだ。「今、この時に、永遠を感じる」などとナレーション付きで、感動的な場面を説明することがある。永遠とは、無限の時間が流れることを言うのではなく、時間が無いこと、言葉がないこと、つまり虚無の霧に迷っていることを言うのだ。

bb.動物には感覚や感情の心しかないとする。動物は現在の現実に支配されていることになる。勿論、記憶の過去や、願望の未来は知らない。人は過去を維持したい、未来を良くしたい、現在の現実の支配から逃れて、逆に変えたいと思う。それが拡張して、歴史家は過去を、事業家や技術者は現在の現実を、政治家や思想家や科学者は未来を、哲学者や宗教家はあの世を、言葉で支配しようとしている。

cc.自分のこれまでを振り返って、生きてきた時間が長かった、短かった、充実して満足だ、虚しくて不満足だ、というのは何によるのだろう。生きている実感は言葉になると残る、感覚や感情のままだと消える。山中の食堂で、母と昼食を食べた時の事。夏だったので、近くを流れる中津川で獲れたての鮎を食べた。母はしきりに美味いといい、孫を連れて又来たいと言っていた。しばらくして、車中でさっきの昼食のことをたずねたら、食事をした記憶はないという。感覚や感情の心が映し出す現在の現実はこのようにして消えていくのだ。

dd.感覚や感情の心のまま、変化のない日々を、危機感や不安を持たずに、漫然とした気持ちで過ごし、言葉を作ることを怠っていると、ふと振り返って、過去を見ようとしても過去がないことに気がつく。過去は言葉で作るものなのだ。自分は何をしたいのか考える。やはり何も浮かばない。未来がないことに気がつく。その未来も言葉で作るものなのだ。平和で安泰で穏やかな人生はいいことだ。しかし、一長一短があるのだ。平和でなく安泰でなく穏やかでない人生もいいことなのだ。

ee.一人一人の脳の中に時計があって、ゼンマイの代わりに、言葉の心を動力にして時を刻んでいる。眠ったり、他に気を取られていると、時計は止まる。言葉例えば目的が見えると、動き始める。

ff.時間は外界でなく自分の中を流れている。感覚や感情の心には、現在の現実しか無く、時間は流れない。言葉の心に時間は流れる。浦島太郎。竜宮城の生活では、感覚や感情を癒され続けて、現在の現実を過ごしていたので、その間の時間は消えていた。帰国し、玉手箱という言葉の心を取り戻して、明けてみれば、過去も未来も煙となって何も残っていなかった。

gg.健康だと思っていたのにあと1年しか生きられないといわれる。短すぎて、とても辛いだろう。もうだめだと思っていたのに、まだ1年は大丈夫だと言われる。とてもうれしいだろう。

6)時間は一人に一つずつ、別々にある。別々の時間を過ごしている

a.    世界と同様に、時間も一人一人別々に生じている。

b.    感覚や感情の心で居る時は、時間は生じない。虚無の沼からプックリ湧いてきた泡が浮いている、永遠に続く現在だ。言葉の心が働くと、さっき消えた泡が見え、これから出てくる泡が見える。時間が生まれる。過去から未来へ、泡の動きが動画で見える。すべてが流れていくように感じる。このように作られた動画が、人の数だけあって、一人一人の命とともに積み上げられているのだ。

c.    自分も世界も時間も、一人一人が、別々に作り出している言葉の体系だ。心の持ち方によって自分になったり世界になったり時間になったりする同じひとつの言葉の塔だ。みんな別々の自分や世界や時間に暮らしている。ラオスの山奥で、夜寝る前に村の中央の広場を散歩した。満月だった。日本との時差は1時間だが、昼間の人々の生活ぶりを思い出して、実感としての時差は1千年のように感じた。それなのに、同じ満月を、今の日本で見上げている人もいるのだと不思議に思った。

d.    時間は一人一人が別々に脳の中に作っている。だから伸びたり縮んだり、消えたり、現れたりする。その場に3人いたら3様の時間が生じている。

e.    一人に一つずつ別々の自分がある。一人に一つずつ別々の記憶の過去がある。一人に一つずつ別々の願望の未来がある。一人に一つずつ別々の現実の現在がある。つまり一人に一つずつ別々の自分や世界や時間がある。

f.    20歳の時の自分の世界は、今の自分の世界と全く異なる。時間が流れる早さも別だ。クモが巣を張っている。クモの世界はどうだろう。自分から見れば、たった数か月の命と思うが、クモにはクモの世界があって、クモの時間が流れている。

7)現在とは何なのだろう

a.    現在の現実は感覚や感情の心の興奮だ。だから現在は、言葉にしない限り、残らない、後で思い出せない、これから何をどうすれば良いか教えてくれない。動物のようにその場限りの世界をウロウロするだけになる。

b.    現在の現実は、感覚や感情の心の、外界からの刺激への反応だ。

c.    感覚や感情の心が映し出す現在の現実には時間が無い。現在の現実は、点滅する瞬間のこと、つまり永遠だ。

d.    現在の現実は、本人だけに生じる感覚や感情の心の興奮で、それもすぐに消える泡のようなものだ。

e.    現在の現実は外界の変化を感知して生じる感覚や感情の心の興奮だ。DNAに書かれたとおりの反応だ。

f.    現在の現実は感覚や感情の心が映し出している。感覚や感情の心が働いていればあるし、眠れば消える。電車の中で、読書に熱中して、言葉の心でいる時は、感覚や感情の心の働きがおろそかになって、現在の現実は消えている。

8)現在の現実はこの世の時間だ。感覚や感情の心が映し出す幻影で、言葉が無いから記憶の過去も願望の未来も無い、ただの永遠だ

a.    今、薄曇り、母と昼食のため、神代植物園の茶店の木影のテーブルにいる。サクラの老木に囲まれ、足元の地面は腐葉土でフワフワしている。カラスが鳴いている。母が茶を買いに行っている間一人だ。離れた小道を幼稚園の子供達の行列が通り過ぎていく。ふと子供達と自分が重なる。何だかここから人生が始まって、ここに至り、ここで終わるような、ずっとここに居続けていて、夢を見続けていたような安らかな気分になる。

b.    永遠とは、言葉の心が消え、時間も消え、感覚や感情の心だけが働いている時に見える、現在の現実のこと。

c.    永遠とは未来のことではなく、時間が消えた現在の現実のこと。動物としての感覚や感情の心に映るもの。

d.    子供の頃、見るもの聞くもののすべてが永遠の一部だったような気がする。夏の午後、セミ時雨が止まり、にわか雨が降り始め、乾いた地面に大粒の雨が、隕石のように落下して、黒い跡をつける。アリ達がジグザグな歩みを速めて逃げ惑う。乾いた土の匂いが強くなる。永遠の中に居たのだなと思う。感情や感覚の心で生きていた幼い頃には、過去や未来はない。永遠の現在にいたのだ。大人になるとは、言葉の心の働きである自分が成長して、過去や未来を生み出し、永遠から脱皮する。永遠とは過去や未来が無いことだ。大人にとっての永遠は、音楽など感覚や感情の心に浸ることだ。大人になると、永遠は一時しか続かないのだ。

e.    目を閉じる。心臓の鼓動が伝わってくる。風や気温や香りや音の変化を感じている。体の中を命のようなものが通り抜けていく感じがする。感覚や感情の心に没頭して、言葉の心の働きである自分が消えている。今、心は永遠の現在にいる。

f.    花を写す。写真にはその瞬間つまり現在の現実しか映っていない。その写真を見ていると、花はずっと花であり続け、咲き続け、その美しさが固定しているかのように思ってしまう。写真に写っている花には、過去も未来もなくずっと現在のまま、永遠にあるように思えてしまう。感覚や感情の心はカメラのようだ。永遠とは現在のままということだ。過去も未来もないということだ。言葉を持たない赤ちゃんや動植物の心の世界だ。動画は過去、現在、未来を映す。その瞬間の前から始まり、終わるまでが映されている、タネがこぼれて、芽が生え、葉が茂り、花や実ができて又そのタネが枯れて、こぼれる。その間、背景は昼夜を繰り返し、天候や季節が移っていく。地形も地球も宇宙も変わっていく。言葉は動画を撮るフィルムだ。子供の頃はカメラしか持っていないので、世界は写真のようで、例えば父母はいつまでも若いまま居るものと思っている。大人になって、動画が写せるようになると、物心ついてから今までの動画が再生できるようになって、世界は動画のように、過去に生じて、現在在って、未来に消えるものだとわかってくる。

g.    時間には、言葉の心が作る過去や未来と、感覚や感情の心が映し出す現在つまり永遠がある。

h.    現在の現実とは、外界の変化や差異を感知して生じる感覚や感情の心の興奮だ。現在の現実は感覚や感情の心の興奮として生じる。感覚や感情の心には時間は無い。あるのは現在の現実という永遠だ。言葉の心は動画を作り、感覚や感情の心は写真を写す。動画には時間があるが写真には永遠の一瞬しかないように。言葉の心の力で、感覚や感情の心の興奮を言葉にすれば写真が動画になるように、時間つまり記憶の過去や願望の未来が生まれる。感覚や感情の心のまま過ごす時、時間はなく、永遠の中に居るような気持ちになる。感覚や感情の心のまま過ごした時間は、振り返っても何も思い出せない。虚しく感じる。目的に向かって挑戦や努力、思考など言葉の心で過ごしていると、時間が短く早く経ち、惜しいように思える。目的が見えると、そこまでの距離や時間の短さが意識されるのだ。言葉の心を働かせて過ごした時間は、言葉の記憶がたくさんできるので、振り返ると、思い出せることが多く、長く、充実していたように思われる。生きようとしている時間つまり未来は、目的との関係で生じ、生きてきた時間は、蓄積した言葉として生じる。子供の頃は、感覚や感情の心で過ごしているので、一日は長く、遅く、永遠に続くように感じる。大人になって思い出すと、思い出せる言葉が無いので、子供時代はどこかに消えたように感じる。ここまでは自分にとっての時間、つまり自感のことだ。天体の運行、水の流れや、時計の針の回転、暦の数字など、みんなで作るみんなの時間もある。これは一人一人の命とは関係が無い道具のことだ。