(1)移り香の鑑賞

@      「心の香り」を身に着け持ち帰る。

1)物と情報の違い

a.    ヒトは他の動物とは食べ物への態度が異なる。卵を、蛇のように殻ごと飲み込むより、焦がしたり調味料などの情報を付けて食べるのがヒトの特徴だ。感覚の心は蛇のような食べ方だ。感情の心は感覚からの情報について利害の判定をする。与えられた食物の現在の現実をそのまま受け入れるだけだ。言葉の心は、現在の現実の食物の鵜呑みを拒否し、食物がくれる快楽をもっと強めようとする。願望の未来を生み出す言葉の心の働きだ。感覚や感情の心は細胞生物として与えられたままの物を食べ、言葉の心は情報生物として情報にして食べるのだ。料理とは、食物を情報にすることだ。情報による興奮を食べさせるのだ。料理は卵という素材を、名前や味や物語や姿やあらゆる情報を付けて、脳に取り込みやすくするインプット技術だ。蛇のように丸ごと飲み込んでも、言葉の心の働きである自分は満腹しないのだ。

b.    物を言葉にすると情報になる。その結果、言葉の心の働きである自分が記憶して所有したり、願望にそって操作出来るようになる。さらにその言葉を発信して、他者に乗移ったり、時空を越えることも出来る。自分は、外界を言葉にして世界や時間を作る情報生物だ。桑の葉を食べて絹の糸を吐いて繭を作る蚕のようだ。石や金属も、言葉にすると、感覚や感情の心が映し出している物から、それを生み出している情報に変わる。DNAも言葉にすれば、物から、栄養素を組み合わせて自身のコピーや細胞を作る情報に変わる。原子も言葉にすれば、物から、素粒子と電子を組み合わせて自身を創っている情報に変わる。素粒子も言葉にすれば、物から、電子の軌道やエネルギーを固定して自身を作っている情報に変わる。世界は言葉にすれば、物から、釈迦の言う因果関係に変わる。

c.    情報はそれ自体では存在せず、受信した生物の中に生じる生命現象だ。情報を受信する命があってこその情報だ。受信する命がいなければ虚無だ。

2)体と心の関係

a.    言葉の心の誕生について考えた。心を、広く情報処理機能と考えれば、すべての生物にある。単細胞生物にも情報を生み出す働きがある。生物は細胞であると同時に情報でもある。ヒトの脳の働きが進化し、言葉の心の働きである自分を作るようになった。体は細胞生物で、自分は情報生物だ。ヒトは細胞生物としては体のDNAの集合が種(しゅ)として、命をつないでいる。情報生物としては言葉が言葉のDNAの海になって、同じ役目を果たしている。体のDNAは、やり取りが可能な種(しゅ)という単位で海を形成している。言葉は、体や時空の境界を越えて、言葉のDNAの海を形成ししている。

b.    35億歳のDNAが、設計図どおりに体を作り、体が言葉の心を作り、言葉の心が自分を生み出している。

c.    木に咲く毎年の花のように、体は、見えないDNAの木の枝先に、咲いては散りを繰り返している。ヒトを花つまり体だと思えば、咲いて生まれて、散って死んだことになる。DNAは35億年以上成長を続けている木だ。ヒトを木つまりDNAと考えれば、35億年以上生まれも死にもしないで在り続けていることになる。そんなことを思っているこの自分は、体に生じてはいるが体のような物ではなく、言葉の心の働き、情報だ。体のような生まれるとか死ぬとは異次元の存在だ。自分を狭く捉えるか広く捉えるか、サクラは花なのか、木なのかということだ。

d.    おまえと会うたびに成長の速さに驚かされる。最初は体が大きくなってくるが、4ケ月ごろから、心が発育するのがわかるよ。6ケ月目で、玄関を入ってきて目が合って、唇を動かしてニヤッと笑ったよ。おもちゃや食卓に手を伸ばすようになったし、いないいないばあで、ケタケタ声を出して笑ったよ。それから2週間して、玄関を入ってきて目が合って、今度は顔を歪めて、お母さんの方へ顔を背けて泣いたよ。3月のひい爺ちゃんの墓参りでは、しっかり見つめて、立ったり座ったり、蛙のようにのしのし歩いたよ。離乳食もパクパク食べていたよ。

e.    この木に咲く、去年の花と今年の花は同じなのか、違うのか。サクラを根や幹だと考えれば同じだ。サクラを一つ一つの花だと考えれば、去年と今年のサクラは勿論、眼前の花の一つ一つが別物だ。今日は7月9日、ニイニイゼミが鳴き始めた。去年のセミと今年のセミのことを考えた。去年のセミと今年のセミは同じなのか違うのか。セミをDNAが生み出す体だと思えば、種(しゅ)としてのDNAや体には個性は無いという意味で同じだ。感覚や感情の心には個性は無い。言葉の心にも個性は無い。言葉には個性がある。という意味で、セミが言葉で鳴いているとすれば、一匹一匹違うことになる。それは自分にも言える。他者と自分は同じか、違うのか。DNAや体や、感覚や感情の心、言葉の心の働きは似たり寄ったりだ。自分が作り発信する言葉が個性なのだ。

f.    体の何処を探しても、自分は見つからない。孫と砂場で遊んだ。孫が砂山を作る。私は短く細い枝をその頂上に立てる。遊びのルールを教える。砂を少しずつ掻きとって枝を倒したら負けだ。老いや病が、命の枝が倒れるまで、体を少しずつ削っていく。最後に残るのはどこだろうか。脳の大部分も削れるだろう。自分は脳のごく一部にいるということだ。もっと医学が進歩すれば、脳の情報を機械に移してしまう事だってできそうだ。そうなれば、情報そのものが自分だということになる。発信された言葉のように、体から自由になった情報は、情報生物になって、体が消えてもあり続ける。情報は他者と自分といった垣根を持たない。出会えば混ざり一つになる。

g.    体が自分を生み出しているのだが、自分は体を道具のように思っている。自分は心で、それも感覚や感情の心でなく、言葉の心の働きだ。言葉の心の働きである自分は情報なので、物である体とは別次元にいる。電球に例えれば、体が電球で自分は光だ。壊れた電球にもう光は無い。でも光が壊れたわけではない。発信した光は宇宙を進み続けている。死んだ体には、言葉の心の働きであるその人はいない。でもその人が死んだわけではない。発信した言葉になって、言葉のDNAの海戻っている。

h.    体は自分の道具で、自分が体を動かしていると思っている。しかし本当は、体が勝手に何かをして、事後報告されて、あたかも自分が体を道具のように使ってしたかのように思い込まされているだけだ。体が自分を道具として生み出し使っているのだ。そんな自分は、空腹になったら、体の命令で、食べてしまう。口にいれてモグモグ味わって飲み込んで、自分が自分のために食事をしたかのように思っている。体は自分の役割をここで終えさせて、あとは消化器官がゆっくり吸収し、細胞に取り込む。ここまで見れば、どちらが主人でどちらが道具かよくわかる。自分は体の奴隷だ。しかし体にわかっているのは、感覚や感情の心が映し出す現在の現実においてのことで、言葉の心の働きである自分が作り出している過去や未来は知らない。記憶の過去や願望の未来においては、主客が転倒するのだ。言葉の心の働きである自分は、未来の健康に配慮して、食べたい気持にブレーキをかけることができるのだ。

i.    言葉の心の働きである自分は、大脳新皮質で作られている情報だ。DNAが大脳新皮質を作っているという点では、言葉の心の働きである自分も、DNAによって作られていると言える。しかし、コンピューターのハードとデータのように、自分と大脳新皮質とDNAは、異次元にあるのだ。

j.    黄金の鎧を着た武者を考えてみる。鎧を体、武者を自分だとする。鎧が武者を守っているのだと言えるし、武者が鎧の黄金を守っているとも言える。武者が黄金の癒しの力に囚われれば、、武者は鎧のための道具だということになし、鎧が救いのために戦う道具だと思えば、鎧は武者のためにあるということになる。

k.    自分は体のように、常に在るものなのだろうか。自分は体のように、生きているのだろうか。体のように自然に成長していくものなのだろうか。体は常に在るが、自分は言葉の心が働いている時にだけ生じている。体は生きているが、言葉の心の働きである自分は情報なので生き死には関係ない。体はDNAの指示に従って自動的に成長するが、言葉の心の働きである自分は、言葉を受発信しなければ成長しない。体はそのままで在るが、言葉の心の働きである自分は、言葉を受発信しなければ無い。

l.    体は馬で、自分は騎手だ。走っているつまり生きているのは馬で、騎手ではない。騎手が眠っていても、落馬しても、馬は走り続けられる。騎手は、馬を走らせようとするだけだ。時々、鞭を入れる時に現れるだけだ。騎手が自分つまり言葉の心の働きで、鞭が言葉だ。

m.    映像などで生物の35億年の進化の道をたどると、体がつながっているように思えるが、実際はDNAがつながっているのであって、体はDNAがその都度組み立て乗り捨てた船で、心はその船が発する信号なのだ。自分は言葉の心の働きだ。生きているのは体で、存在しているのはDNAで、自分は生きても存在してもいない。信号として点滅していると考えればよい。心臓や肺や脳は、自分とは関係なく勝手に活動している。自分は脳の活動で生み出される信号だ。生きているのも、地上で何かをしているのも体だ。自分は自分が体にさせていると思っているが、実際は事後報告で知っているだけだ。自分は自分だと思っているだけで、体が生み出しているただの信号なのだ。みんな、自分は個性ある自分だと思い込んでいるが、生じている体が違うだけの、同じような信号なのだ。

n.    心の働きには二つある。一つは感覚や感情の心。生きている心だ。安楽つまり癒しを求め、変化や苦難を恐れる心だ。もう一つは言葉の心。生きようとする心だ。言葉による救いを求め、願望の未来を実現するため、勇気を持って苦難に挑戦する心だ。雪山で遭難して眠くなった時に、この二つの心が葛藤をする。生まれつきの感覚や感情の心が悪とされ、後天的に身に着けた言葉の心が善とされる。体という時は感覚や感情の心の働き、心という時は言葉の心の働きがイメージされる。ヒトがヒトを尊敬するポイントは、癒しの誘惑や苦難に打ち勝ち、挑戦する心、心が体を、言葉の心が感覚や感情の心を、勇気が恐怖を、努力が怠惰を克服するというパターンだ。

o.    ヒトは、現在の現実に行き詰ると旅をしたくなる。言葉の心の働きである自分が現在の現実から逃れて、記憶の過去や願望の未来に移動したがっているのだ。体の旅でなく心の旅だ。だから感覚や感情の心から言葉の心へ心の居場所を切り替えればいいのだ。しかしそのことに気付かず、感覚や感情の心のまま、体の旅を求めてしまうのだ。体はDNAの命令に従って、淡々と生きている。感覚や感情の心は体の命令に従って、淡々と現在の現実を映し、癒しを求めている。言葉の心は努力して記憶の過去や願望の未来を言葉で作って、救いを求めている。体と心や、感覚や感情の心と言葉の心は、互いに違う次元にいる。次元が異なるものは互いに満たしあえない。このことが判らないと、言葉の心の働きである自分が、感覚や感情の心が見せる現在の現実を、さ迷ってしまう。心の切り替えが求められているのに、体の居場所を変えて、感覚や感情の心に新しい刺激を得ることを求めてしまう。救いを求めているのに、癒しの蜃気楼に惹かれてしまう。真水を求めているのに海水を飲んでしまう。

p.    体は細胞で、現在の現実に生きている働きだ。感覚や感情の心は、体の代弁者として、現在の現実に生きていようとする働きだ。言葉の心は、願望の未来を実現する為に、生きようとする力だ。体が、現在の現実だけでなく願望の未来にも生きていられるように身についた新しい能力だ。体や、感覚や感情の心の生きている力に加えて、生きようとする力をもたらすために、言葉の心の働きである自分は生まれたのだ。

q.    世界は何なのか。特に考えなければ、今見えている現在の現実だと思う。テレビの画面の色や線や点の変化を見て、実際の出来事だと思うのと同じだ。さらに、自分は何なのか。特に考えなければ、自分はこの顔や手足や体で、鏡を見ればいつでも全体を見ることができると思っている。机の上にランプとノートと石がある。明かりはランプとは違う次元で存在している。自分はランプの中で灯っている明かりのように、体の中でチカチカしている情報の信号だ。体とは違う在り方をしている。その自分が、机やランプやノートや石からの反射光を言葉の糸にして、繭を編んで、中心から繭の内側の壁を眺めている。隙間から差してくる光、すなわち新しい情報をせっせと新しい糸つまり言葉にして編込んでいる。繭が厚くなると、差し込む光より、既存の糸の綾なす色の方が濃くなり、繭の中で新しい糸つまり抽象的な言葉が生まれる。赤と青が重なると紫になるように、現在の現実から願望の未来が作られるようになる。体と言葉とどちらが本当の自分なのだろう。外界に映っている世界と、繭の内側に作っている世界と、どちらが本当の世界なのだろう。

r.    体は現在の現実の中で活動している。感覚や感情の心は現在の現実の中で情報を受信している。言葉の心は情報を言葉に加工し、自分を作り、世界や時間を作っている。

s.    体は重力に引っ張られている。鳥は羽ばたくのをやめれば落ちる。動物は、食べなければ、戦わなければ消える。すべての生物には生きている力がある。死の重力を振り切って、天に昇ろうとするロケットの推進力だ。地表から飛び立って、結局力尽きて地上に戻る。ロケットの推進力は、初めは体や、感覚や感情の心の力だ。ヒトはさらに言葉を作り、生きよと励ます力でがんばる。言葉も発信する。発信された言葉は、体とは別次元なので、生老病死の輪廻の重力は受けない。人工衛星のように言葉のDNAになって在り続ける。このように、生物は、重力と戦い生きようとする力を燃やしている間だけ体は空中にあって、燃え尽きれば地上に戻される。その力は、始めのうちは、成長する体や、感覚や感情の心の生きている力。ヒトならさらに言葉の心の生きていこうとする力が加わる。最後は言葉のDNAになって、重力から脱する。

t.    自分には自分の顔が見えないように、自分の死のことは解らない。他者の死に立ち会う。死んだらどうなるのか、死とはどういうことなのかが良くわかる。しかし、自分は死んでどうなるのかはわからない。子供の誕生に立ち会う。誕生とはどういうことなのか、何処から来たのか良くわかる。しかし自分が何処からきたのかとなるとわからない。体と自分は次元が違う現象なのだ。

u.    青い目も、茶目も黒目も、この春に、映す桜は 桜色。

v.    テレビを見ながら、つまみを食べて、酒を飲んでいた。ふと、祖母のことが思い出された。祖母はいけばなの先生をしていた。もてなしのお菓子を食べ過ぎて太っていたと母が行っていたのを思い出した。食道楽は祖母譲りだなと思った。自分と祖母とはまったく違うと思っていたが、違っていたのは言葉の心の働きである自分で、この体は祖母譲りなのだなと気がついた。言葉の心の働きである自分は、祖先の体に守られながら、生きているのだと、実感することが出来た。

3)心の構造

a.    ヒトの心の進化の道筋を辿れば、感覚の心から感情の心へ、感情の心から言葉の心へと進んでいる。ヒトの心にはいつもこの三つの心が併存している。自分は言葉の心の働きだ。脳の進化を善だとすれば、感覚の心より感情の心、感情の心より言葉の心の方が善だということになる。言葉の心は、個体ごとに学習によって成熟するので、個体差が大きい。感覚や感情の心は生きている力にはなるが、錯覚や争いももたらし、言葉の心は生きようとする知恵を生み出して、願望の未来をもたらす。言葉の心の働きである自分の使命は、脳の原始的な働きである感覚や感情の心を制御することにある。

b.    善悪について考えた。感覚の心が、対象を、自分とは違うと感じると、感情の心が怖いと反応し、言葉の心が悪い、排除しようと判定する。感覚の心が、対象を、自分と同じだと感知すると、感情の心が安心と反応し、言葉の心が善い、受け入れようと反応する。

c.    感覚や感情の心は、戦う心だ。狭い意味の自分を守るために、味方も敵も無く、一人戦う心だ。言葉の心は広い意味の自分を守り強大な敵と戦うために、他者と協力する心だ。言葉は、仲間同士で戦う衝動を抑える道具だ。仲間をまとめる道具だ。共通の敵を作る道具だ。強大な敵と戦う為に、共通の記憶の過去や願望の未来を作って、仲間を作り、協力する心だ。ヒトは現在の現実だけでは競争差別の心に負けて団結できない。共通の記憶の過去や、願望の未来つまり目的があると協力できる。共通の何かが見えないと仲間で争う心に戻る。

d.    竜宮城とは感覚や感情の心のまま過ごした若き日々の象徴だ。感覚や感情の心は記憶を作らないので、玉手箱の煙のようにぱっと消え、人もあっという間に老いるのだ。浦島太郎はそんな感覚や感情の心の物語だ。エデンの園の物語がある。感覚や感情の心で動物のように幸福に暮らしていた二人が、蛇にそそのかされて知恵の実を食べて、言葉の心を得て、ヒトになる話しだ。

e.    映す心と、描く(えがく)心。映す心。感覚や感情の心。感覚の心は外界を映す。感情の心は脳の興奮を映す。描く心。言葉の心は言葉を作り出す。感覚の心は外界を映す。りんごを五感でキャッチする。脳の中に現在の現実のりんごを映し出す。感情の心は脳の興奮を映す。現在の現実のりんごに興奮する。言葉の心はりんごを言葉で描く。今無くて過去にあったりんごを描く。今無くてこれから生じるりんごを描く。世界の全部のりんごを代表するリンゴを描く。カメラと絵筆の違いだ。

f.    ヒッグス粒子。あらゆる素粒子には本来質量は無く、光の速さで進む。しかしビッグバンの数兆分の一秒後、宇宙の温度が下がって、ヒッグス粒子が結露のように生じ、宇宙を満たし、ヒッグス粒子の海ができた。光子以外の大部分の素粒子は、その中で、ヒッグス粒子の抵抗を受け、速度が落ち、それが質量となった。素粒子の種類によって、受ける抵抗に強弱の差があった。速度が落ちた素粒子は互いにくっついて原子、分子になった。つまり重さはそのものに起因するのでなく、ヒッグス粒子の海の抵抗する力なのだ。重さは物から生じているのでなく、ヒッグス粒子の海の抵抗や、地球などの重力から生じている。物理現象としての質量、つまり物としての存在はこのようにして、解明された。物と同じように心の働きの存在も証明したい。心理現象は生物の細胞が刺激に抵抗する力から生じる。自然現象は物理現象で、そのままでは心理現象ではないという意味で虚無だ。素粒子がそのままでは質量を持たない物理的な無と同じことだ。心理現象は個体ごとに生じる、夢のようなものだ。生物体が物理的な信号を感知して自身の体内信号に変えて生じる生物的な信号だ。素粒子には質量が無く、質量はヒッグス粒子の海によって作られるように、物理現象は生物にとっては虚無で、心理現象だけが有で、有は生物の感覚機能で作られている。植物や微生物なら細胞の感知機能が心理現象にあたる。動物なら神経細胞の働きつまり感覚や感情の心だ。ヒトならさらに大脳新皮質の言葉の心の働きである自分だ。

g.    指輪物語。悪魔が作った指輪がある。癒やしだ。持つものの悪心をそそる力がある。生まれながらに純真無垢な青年が、指輪と戦い勝つ物語だ。純真無垢とは言葉の心の象徴だ。ヒトには純真無垢の言葉の心だけという心の状態はない。指輪つまり完成している動物としての心を持って生まれ、ヒトとしての未熟な言葉の心を一生かけて育てていくのが人生だ。指輪を欲する動物としての心は、生きている為に不可欠な感覚や感情の心であって、この指輪は生きている限り外せないが、言葉の心を育てることで、暴走を抑えることが出来る。それが救いだ。本当の指輪物語はそんな物語だ。

h.    感覚や感情の心の働きは、したいことをすることだ。言葉の心の働きは、感覚や感情の心がしたいことをしないことだ。

i.    目で見たり、耳や鼻で聞いたり、口で味わったり、触れたりしても、言葉にならなかった情報は、虚無から現れてすぐに虚無に消えていく。言葉になった情報は、生きている限り消えない、記憶の過去や願望の未来になる。自分の一部になる。

j.    体が自分を生み出している。体が勝手に動いて、自分はその一部を事後に報告されている。客観的に見れば、自分は主役でなく脇役だ。自分は、体が、体のために生み出している信号だ。しかし、自分にとっては、自分が体を支配しているように思えるのだ。

k.    交通渋滞で、停止と発進を繰り返している。前の車のブレーキランプがつくたびにブレーキを踏み、間隔を測りながら運転している。ブレーキを踏まなければと思う前に足は踏み始めている。自分ではなく、脳の別の働きが起こしている行動だ。自分が知らぬ間に、車が随分進んでいることに気がつく。予測を超えた状況になると、自分が登場し、考えて足に命令を出す。自分が体を動かしていると思っているが、普段体を動かしているのは自分ではなく、脳の別の働きだ。自分は体を動かす脳の働きではなく、言葉を生み出す脳の働きだ。自分は、自分が体を動かしていると信じているだけで、本当は、体の動きを、事後的に把握し、記録する脳の働き、つまり言葉の心の働きだ。自分が判断でして体にさせていると思っているが、実際は脳の各部位がやった結果のうち言葉にする必要がある信号を、事後報告を受けて言葉にしているだけだ。

l.    脳が体を動かしている。その働きを心という。心の働きには3つある。感覚の心と感情の心、言葉の心だ。自分は言葉の心の働きで生じる言葉の体系だ。

m.    見慣れた、つまり既に言葉として持っている環境に居ると安心する。しかし退屈だ。未知の事物や変化に出会うと不安になる。ワクワク興奮する。言葉にして取り込もうとする心の誕生だ。

n.    言葉の心の働きである自分は体から生じているが、体と自分は別次元の現象だ。体は生まれるが自分は生まれない。体は死ぬが自分は死なない。体は生きているが自分は生きていない。自分は物でなく情報なので、体のような生死、生老病死は無いのだ。心とは、別々に生じている感覚の心と感情の心と言葉の心の働きを、まとめた言い方だ。心と総称していては考えが進まない。自分とは、思考している時に生じる主人公を呼ぶ名前だ。思考している主人公は言葉の心の働きだ。感覚や感情の心と、言葉の心である自分は、別々の現象だ。言葉の心には言葉だけあって、快不快や喜怒哀楽は無い。感覚や感情の心には快不快や喜怒哀楽はだけがある。思考や記憶はできない。自分は感覚や感情の心に生じる快不快や喜怒哀楽について、思考したり記憶して、暴走を抑えるために生じた、脳の別の働きなのだ。

o.    目の前に夕焼け空が広がる。感覚の心には「赤い」と映る。感情の心には「美しい」と映る。言葉の心には「明日は晴れだ、頑張ろう」と映る。

p.    外界の刺激が感覚器官から取り入れられて感覚となり、その一部が感情となり、さらに一部が言葉になって、言葉が多細胞生物のように体系化して、言葉の多細胞生物、情報生物である自分となり、自分が世界や時間を作っている。世界や時間は自分の中に在る卵なのだが、自分を包んでいる繭のように思える。

q.    DNAが細胞を作り、細胞は神経や脳を作る。快不快が生じ、感覚の心が生じる。感覚の心に損得が加わり感情の心が生まれる。感情の心に記憶や願望が加わり言葉の心が生まれる。言葉の心が言葉を生み、自分が生まれ、自分が世界や時間を作る

r.    感覚や感情の心の働きと、言葉の心の働き。信号が赤でも、安全が確信できれば、信号を無視して渡る。信号が赤なら、安全が確信できても、他人の目があったり、みんなが待っていたら、自分も待つ。信号が赤でも、安全が確信でき、他人の目がなかったり、みんなが渡れば、信号を無視して渡る。これらは癒やしを求める感覚や感情の心の働きだ。感覚や感情の心は安楽を求める心だ。信号が赤なら、どんな状況でも、渡るのを我慢する。もし渡ってしまったら、自己嫌悪のような嫌な気持ちになる。これらは救いを求める言葉の心の働きだ。言葉の心は、言葉を作り、その言葉に従う心だ。

s.    動物としての生き方は、感覚や感情の心が映し出す現在の現実の中で、癒しを求めること。言葉の心である自分としての生き方は、言葉の心が生み出す願望の未来の実現を求めて、現在の現実を超えようとすること。言葉の心の働きである本当の自分には、体のような生死は無く、感覚や感情の心のような苦痛や苦悩も無く、在るのは願望を作り、実現を求め、未来に生きようとする気力だけだ。

t.    自分は体ではなく心、それも感覚や感情の心でなく言葉の心の働きだと知ること。そんな自分が住む世界も、感覚や感情の心が映し出す現在の現実、つまり競争差別や快不快、喜怒哀楽の癒しや生老病死の苦しみの世界でなく、平安で不老不死の、言葉の世界だと知ること。

u.    言葉を操る脳の働き、言葉の心が、言葉の体系を作り出している。その体系が、ある時は自分となり、世界となり、時間に思なったりしている。

v.    感覚や感情の心には、自分も世界も、過去も未来も無い。現在の現実を映し出すだけ。あるのは癒しを求める渇きだけ。渇きと癒しの間で生きている。言葉の心が自分を作る。自分は願望の未来を作る。未来は現在の現実の苦難を乗り越えて、生きようとする気力を作る。

w.    ヒトは体と心の、心は感覚の心と感情の心と言葉の心の複合体だ。かく言う自分は言葉の心の働きだ。自分を、体に命令して何かをさせる主体だと思い込んでいる。しかし、呼吸など反射的な活動や快不快などの感覚については、事後に知らされているだけだ。自分の自由に出来ないという意味で、感覚の心は自分ではないことがわかる。喜怒哀楽や愛憎、好き嫌いなどの感情の心についても同じだ。自分が自発的にできることは、言葉を作ることだけだ。言葉で感覚や感情の心に命令するが、強制はできないのだ。

x.    体と心に分ければ、自分は心だ。心を感覚や感情の心と言葉の心に分ければ、自分は言葉の心だ。心の中に、感覚や感情の心と言葉の心の働きである自分が同居して葛藤している。心のすべてが自分ではなく、言葉の心だけが自分で、自分ではない心、感覚や感情の心と同居しているのだ。自分の中に、三つの心が同居しているのでなく、体の中に、言葉の心である自分と感覚の心と感情の心が同居しているのだ。

y.    現在の現実で頻繁に会っている人は、感覚の心に映っているから、目を閉じれば顔は浮かばない。感覚は記憶できないからだ。昔なじみで、もう逢えない、記憶に頼るしかなくなった人は、目を閉じれば、まざまざと思い浮かぶ。言葉で出来ているからだ。

z.    救いを得るにはどうすればよいか。自分は体ではなく心で、それも感覚や感情の心でなく言葉の心だと仮定してみるところから始まる。それは、命がある限り続く、感覚や感情の心と言葉の心の戦いの始まりだ。

aa.感覚や感情の心が求める癒しと、言葉の心が求める救いがある。感覚や感情の心は、現在の現実に生きていようとする。未来の苦難を知らされいても、現在の現実の安楽を求め、現在の現実の苦難を避ける。言葉の心は未来に生きようとする。未来の安楽のために、現在の現実の苦難に挑戦する。言葉の心にとっては、現在の現実の癒やしは無意味なのだ。感覚や感情の心に生じた苦痛や苦悩が、言葉の心に願望の未来を生じさせ、目的実現つまり救いを求めて、勇気を湧かせ、生きようとさせる。

bb.感覚の心は差異や変化しか感知できない。好悪はその先の感情の心の働きによって生まれる。善悪はさらにその先の言葉の心の働きによって生まれる。快不快は感覚の心の働きで、好悪は感情の心の働きだ。好くべきとか愛すべきという言葉の心は、感覚や感情の心になかなか勝てない。一方で、感情として生じた怒りはすぐに覚めるが、未熟な言葉になった怒りは、他者にも広がり消えることがない。

cc.快不快や喜怒哀楽への耽溺、苦難からの逃避などは、言葉の心が感覚や感情の心に負けている状態だ。感覚や感情の心は、未来の困難に目を瞑り、現在の現実の安楽にしがみつく心だ。動物のように、現在の現実の癒しを求め、生きている心だ。言葉の心は、救いを求め、未来を求めるためには現在の現実の快不快や喜怒哀楽を無視し、苦痛や困難に挑戦する心だ。生きようとする心だ。言葉の心の働きである自分に出来るのは、願望の未来を言葉にして目的を生み出すことだ。

dd.感覚や感情の心は馬、言葉の心は騎手。馬が求めるのが癒し、騎手が求めるのが救いだ。

ee.感覚の心が求めるのは一瞬だけの変化、差異や快不快の刺激だ。感情の心が求めるのは現在の現実の安楽だ。言葉の心が求めるのは未来の満足だ。生きようとする気力、救いをもたらす言葉だ。

ff.初めての路地裏を、猫の後をつけて行く。もう一度同じ道を辿る事はできない。道順など思い出せない。この間、感覚や感情の心が働き、楽しかった。しかし現在の現実が過ぎてしまえば、跡形もなく消えてしまう。猫とは感覚や感情の心のことだ。言葉の心を働かさず、感覚や感情の心のままに過ごしていると、その時は充実して、生きている喜びを味わうが、言葉の心の働きである自分はそこにいないので、後日、言葉の心の働きである自分が思い出そうとしても思い出せない。いくら楽しく過ごしても、ふと振り返ると、まるで早回しで見ているような空虚な気持ちになるだろう。「人生は夢幻のようだ」というのはそういうことだ。感覚や感情の心は、体の生老病死の輪廻に支配されているので、楽しい現在の現実のままではすまないのだ。感覚や感情の心で癒しと渇きを繰り返して消えていく尻すぼみの人生と、言葉をこつこつ積み上げていく末広がりの人生のどちらがいいのだろう。

gg.感覚や感情の心で見れば、太陽は地球の周りを回っており、地球は平らな板だ。現在の現実はそのとおりだ。言葉の心で思えば、地球が太陽の周りを回っているのだぞ、地球は球だぞ、という言葉が見える。自分は現代人だから、後者だと思っている。しかし日常のあらゆる事物は前者のように見えていて、時々稀に言葉の心が湧いて、後者だったのだと修正している。あの世とこの世とはこういう関係だ。

hh.生物は進化の過程を経て至ったこのDNAに、これまでのすべての過程を内蔵している。ヒトの進化を木に例えれば、根は微生物でもあり、幹の途中は魚類、爬虫類、下等な哺乳類、サルでもある。心もその様にできている。根か感覚の心、幹は感情の心、先端が言葉の心だ。この3つが同居しているのだ。

ii.子供の頃は、朝目覚めると、カーテン越しに差し込む光や、小鳥のさえずり、町の音が心を躍らせた。感覚や感情の心だったのだ。今は、静かに自分中の言葉を聞こうとする。記憶の過去や願望の未来を見ようとする。

jj.心を、癒しを求める感覚や感情の心と、救い求める言葉の心に分けて考えてみよう。言葉の心の働きである自分が育つと、癒しを求める感覚や感情の心との葛藤に悩むようになる。悩んでいるのは言葉の心の働きである自分の方だ。

kk.心には3つの働きがある。癒しを求める心は、動物としての感覚や感情の心の働きだ。救いを求める心は、言葉の心の働きだ。自分が感覚や感情の心に退化するのはもと来た坂道を下るようで、楽だ。言葉の心に進化するのは未知への挑戦で、楽しいが苦しい。

ll.ヒトの一生は内戦だ。感覚や感情の心と言葉の心、癒しを求める心と救いを求める心、神経や古い脳と新しい脳、未来を犠牲にしても現在の現実の安楽を求める心と、現在の現実の安楽を犠牲にしても未来に生きようとする心、現在と未来、現実と願望の内戦だ。

mm.苦あれば楽ありと言う。苦があるから楽が生じる。他者とのふれあいの喜びは、孤独を感じる心に生じる。苦労があるから感謝が生じる。病気があるから健康の喜びが生じる。死への恐れがあるから生きている喜びが生じる。生き難さがあるから生きている喜びが生じる。生きているだけでは喜びは得られない。

nn.普通があって特別が生じる。普段があって祭りが生じる。苦労があって安楽が生じる。喜びは雨のように天から降るものでなく、自分の中の苦しみから芽生えるものだ。

oo.感覚の心は神経、感情の心は大脳辺縁系の働きだ。外界から刺激を受けた一時だけ生じる。刺激や癒しを欲しがる、退屈するのはこの心だ。自分は、言葉で仮想の体を作る大脳新皮質の働きだ。大脳新皮質の働きで作られた仮想の体が、言葉の心の働きである自分だ。救いを求めるのはこの心だ。

pp.感覚や感情の心には現在の現実が映る。過去や未来は映らない。過去や未来は言葉の心が作る。

qq.この体を生み出しているDNAは、ヒトである前にサル、サルである前にもろもろの動物、動物である前にもろもろの微生物を生み出だすものだった。その前は物質で、その前は何だか分からない。心には、サルだった頃や諸々の動物だった頃、微生物だった頃の心がすべて残っていて、古い心を新しい心が包んでいるのだ。厄介なことに古い心ほど影響力が強い。言葉の心の働きである自分は、一番外側の最も新しい心で、古い心に逆らって、さらに新しい心に進化しようとしてあがいている。

rr.目はレンズにすぎず、脳はレンズが映す像を、感覚や感情や言葉に変えている。感覚や感情の心は、生きていることつまり癒しを求め、言葉の心は、生きようとすることつまり救いを求めている。

ss.公私とは、自分の願望と社会の規則のことだ。公とは規則、みんなで決めた言葉だ。ここでは、自分の中の公私について考えてみたい。自分の中の公と私。感覚や感情の心が私、言葉の心が公だ。

tt.実際にりんごを食べると感覚や感情の心が働く。物語などで「りんごを食べる」と読んで食べている気持ちになるのは言葉の心の働きだ。

uu.体験をするだけでは何も身につかない。体験を言葉にすると経験になって、身につく。感覚や感情の心のままだと、現在の現実が映っては消えるだけだ。記憶の過去や願望の未来を生み出して、世界を作っているのは言葉の心なのだ。

vv.感覚の心が環境から情報を取り入れる。感覚に損得をつけて感情を作る。感情を言葉にして自分や世界や時間を作る。

ww.熱い物に触れる。刺激を感じ、手を離す。感覚の心が働いたのだ。神経が自動的に手を離させる。感情の心は「危ない」と思う。感情の心が感覚に損得をつけたのだ。言葉の心は、「危ない」という感情を、言葉にして記憶する。未来に同じ目に会わないように、記憶や願望の言葉つまり救いを得る。

xx.自分という信号は、どんな時にどのように生じるのだろう。鏡を見ている時、自分が三つ現れる。鏡のこちらの自分、鏡の中の自分、そして幽体離脱のように別次元から、その光景を観察している自分だ。それぞれ体、感覚や感情の心、言葉の心に当たる。鏡の中の自分は、感覚や感情の心が映し出している自分で、鏡のこちらの自分はただの体で、別次元からその光景を眺めているのが言葉の心の働きである本当の自分だ。鏡の中の自分の目を見つめると、三つの自分が一つになった変な気持ちになる。

yy.心が感覚や感情の心にとどまっていると感覚や感情と同じ次元、つまり外界からの刺激に受動的に反応して、現在の現実だけを映す鏡のような心になってしまう。自分も世界も時間もなく、記憶も残らない。言葉の心は、言葉で自分や世界、時間を作る。そんな自分は、感覚や感情の心が映し出す現在の現実には収まり切らない。立体が平面に入れないように。不思議の国のアリスの気分だ。それを克服しようと、言葉の世界つまりあの世を作るのだ。

zz.のどの渇きは水でなければ癒せない。言葉では癒せない。感覚や感情の心は、刺激や興奮、快感でしか癒せない。言葉の心は言葉でしか癒せない。刺激や興奮、快感では癒せない。自分は言葉の心の働きなので言葉でしか癒されない。感覚や感情の心と、言葉の心の働きである自分は、別々の心の働きで、相互に満たしあうことはない。

aaa.            癒しを求めるのは感覚や感情の心の使命で、救いを求めるのは言葉の心の使命だ。癒しを求めるのは現在の現実に生きている力で、救いを求めるのは未来に生きようとする力だ。感覚や感情の心は、現在の現実の癒しを得るためには、未来がどうなろうとかまわない。スリルを味わうために危険を冒したりする。言葉という過去を記憶し、未来を予測する能力を持つ前は、生き延びるために、そうするしかなかったのだろう。感覚や感情の心は癒しを求める悪魔の声、言葉の心は救いを求める神の声。感覚や感情の心は自分だけを愛し、言葉の心は自分を超えて全体を愛することができる心だ。

bbb.            言葉は未来に生きようとする気力の泉だ。雪中で眠くなっても眠らない力だ。苦困難に打ち勝とうとする力だ。未来に生きるためには、現在の現実の苦痛を厭わない心が必要だ。癒しは、安楽を求め、苦痛を恐れる心だ。未来に得ることよりも、現在を失うことを恐れる心だ。苦難に挑戦するより、自殺に逃避する心だ。

ccc.            生きている限り、体の飢えや渇きつまり癒しへの渇望から逃れることができない。感覚や感情の心は癒しを得ると快感が生じる様に出来ている。感覚や感情の心は快感の誘惑から逃れることができない。感覚や感情の心の渇きは、満たせばその都度消え、また渇く、の繰り返しだ。渇きと癒しを繰り返すうちに、渇きはますます深まってしまう。どこかで渇きと癒しのバランスが壊れてしまう。感覚や感情の心だけではどうしようもない。

ddd.            言葉の心の働きである自分には、感覚や感情の心とは別の渇きがある。言葉への渇きだ。自分や世界や時間を充実させようとする渇きだ。この渇きを満たすのは言葉だ。言葉は、脳内で無尽蔵に生み出せる。

eee.            自分は言葉の心の働きだ。自分は、御者ではなく、仲の悪い二頭立ての馬車の、片方の馬なのだ。言葉の心が左の馬、感覚や感情の心が右の馬。自分は左の馬で、右の馬の行きたい方向へ連れられて行っては駄目ということだ。

fff.            感覚の心は環境の変化を感知する。感情の心は環境の変化を評価する。変化つまり危険や獲物を感知して、感情に伝え、感情は逃げるか攻撃するか決めるる。言葉の心は変化を記憶したり、予測する。現在の現実を乗り越え、未来のチャンスを見出そうとする。

ggg.            生きているという大きな喜びの波があって、個別の喜怒哀楽はその表面のさざなみに過ぎない。感覚や感情の心は、生きているという大きな喜びの波を見失い、表面のさざなみに一喜一憂してしまう。言葉の心は、さざなみに左右されずに、生きようとする大きな波に乗っている。

hhh.            空間の旅と、時間の旅がある。体や、感覚や感情の心がする現在の現実の空間の旅と、言葉の心の働きである自分がする記憶の過去や願望の未来への時間の旅だ。言葉の心が成長したら、時間の旅をするのが良いと思う。

iii.            心は、脳が刺激に対して反応する時に生まれる電気の信号だ。自分は、感覚や感情の心でなく、言葉の心に生じる信号だ。言葉の心は、言葉を作り、言葉で自分を作る。そして自分は世界や時間を作るのだ。

jjj.            自分を体と心の総体だと考えると、それ以上考えは進まない。自分を体だと考えてみる。事故や手術で体の一部を失っても、自分は自分のままだ。自分と体が矛盾する。自分を感覚の心だと考えてみる。暑い寒い、快不快のそれぞれの場面で、違う自分が生じてくることになる。どんな感覚が生じていようと、自分は自分のままだということと矛盾する。自分を感情の心だと考えてみる。喜怒哀楽のそれぞれの場面で、違う自分が生じてくることになる。どんな感情が生じていようと、自分は自分のままだということと矛盾する。言葉の心は変らない。自分は言葉の心の働きなのだ。

kkk.            感覚や感情の心は、情報を、現在の現実として映し出す。その時、言葉の心の働きである自分は消えている。

lll.            脳はすべての情報を、ニューロンのつながりという化学的な方法で、つまり不可逆的な方法で、記憶している。だから一度焼き付けられたら消えない。ただ、再生できるかどうかの違いがある。言葉にすると意識的に再生できる。そしてその蓄積が自分や世界や時間になっている。歳をとって暇ができたら、再生できない状態でしまいこんでいる感覚や感情のニューロンのつながりを、言葉につなぎなおしてみよう。

mmm.            感覚や感情の心には、今浮かんでいる海面しか見えない。言葉の心には航路が見えている。この先に陸地がある、この海は越えられる、目指すそこは良い場所だ、という言葉を作ると、生きようとする気力が湧いてくる。

nnn.            体験とは感覚や感情の心で受け止めること、ただ遭遇すること。経験とは体験を言葉にして取り込み、記憶や願望にして、活用できるようにすること。

ooo.            ヒトは、トラやサイなら求めない、頼れる何かを求めている。それは言葉の心の性質だ。それは、自分の中に、言葉で、一生かけて作っていくものだ。しかし、言葉の心が未熟なうちは、感覚や感情の心に頼って、自分の外にそれを求めてしまう。神や仏、父母や理解者、保護者や、所属団体などだ。癒しだ。そこに集まる人々はみな同じ境遇だ。さびしい者同士が、癒しあうだけだ。

ppp.            この体の部品や機能は、DNAが35億年間生き延びるうちに改造したもので、それぞれに意味がある。生きるために不要な感覚も感情もない。神経や感覚器官に生じる、熱さや寒さ、空腹や渇き、痛みや痒みは、身体の危険を知らせる警報だ。これがなければ火傷や病、生命の危険をこうむる。感情に生じる怒りや恐怖も、体を緊張させ興奮させ瞬発力を発揮させ、身を守る反応だ。寂しさ、虚しさ、迷いや不安も、このままではいけない、何とか打開しなければいけない、言葉を使って目的を生み出し、活動しろという信号なのだ。不快に感じられる感覚や感情も、すべてこの身を守るためにDNAが生み出した仕掛けなのだ。

qqq.            体はDNAを運ぶ船だという。DNAが脚本で体が俳優かとも思う。体とDNAと、どちらが目的で手段なのか。自分は体でもDNAでもない、言葉の心の働きだ。自分はこの体、このDNAに宿っているのだろうか。自分は体やDNAとは異次元にいる。世界中に70億個の体があって、その一つ一つに心があって、働きとしてはみな同じだ。70億の体が生み出す70億の違った心があるのでなく、同じ一つのDNAの海に70億の波が広がっているということなのだろう。ただ、それぞれの波は、自身を唯一絶対だと思い込んで、それぞれの体を大切にするように作られている。

rrr.            カラスの一種が、小枝をくちばしで加工して、フックを作って、穴の中に潜む虫を釣り出して食べている映像を見た。チンパンジーはせいぜい棒のまま穴を探るだけだ。知能は特別な機能でなく、生きるために、足が速くなったり、爪が鋭くなるのと同じ、進化の一つにすぎない。カラスもチンパンジーもその程度の工夫で十分生きていけるので、進化もそこに止まっているだけだ。人は大型動物で食物をたくさん必要とするので、さらに工夫を進化させなくてはならなかっただけなのだ。

sss.    今、自分は、35億歳の親と一緒にいると思えばよい。親つまりDNAが作っているこの体だ。自分は親が生み出している3男つまり言葉の心だ。長男の感覚の心や次男の感情の心は兄弟だ。みんな一緒に居るのだ。

ttt.    自転車に乗って、坂道で生じた心。下り坂では気持ちがよくて何も考えない。気持ちがいいだけで、下り終えても満足感、救いは生じない。かえって喪失感が在ったりする。苦しい上り坂で、言葉の心の働きである自分が生じ、戦う気持ち、我慢する気持ちがわいてくる。上りきった時に、満足感、救いが生まれる。いつまでも記憶に残ったりする。

uuu.    坂道を自転車で登っていて考えた。骨や筋肉は壊れるまでこぎ続けることが出来る。限界前に停止するスウィッチは付いていない。疲れた、この辺で止めようという心のささやきが聞こえる。感情の心のささやきだ。もっと行こう、あそこまで頑張ろう、という声は言葉の心だ。ところであれはどうしたらいいのだろうなどと考えると、感情の心のささやきは消える。言葉の心の働きだ。これが本当の自分なのだ。

4)感覚や感情の心を言葉にして明らかにする

a.    感覚や感情の心は空(そら)のようだ。空が明るいのは空中のチリに光が乱反射するからだ。感覚や感情の心は海の色のようだ。海が青いのは、空の色が写っているからだ。感覚や感情の心は外界を映すだけの鏡なのだ。

b.    なでしこのオリンピック準決勝戦を見た。サッカーの面白さを考えた。敵チームに形勢が押されてくると、ストレスが生じる。恐れや怒り、悲哀の感情だ。押し返すとストレスが消える。それが喜びや快感になる。喜びや快感は、くすぐられたりして、ゼロから生じるものでなく、恐れや怒り、悲哀の感情があって、それが解消されることによって、つまりマイナスがゼロになることで生じる感情なのだ。生物として危機を回避するための原始的な仕掛けだ。危機へのストレスの点滅が喜怒哀楽の正体だ。言葉の心は、さらに進化した、危機を回避する仕掛けだ。

c.    感覚や感情の心には差異しか見えない。競争や差別でしか基準を持てない。相対的であやふやな基準だから、自分も世界もあやふやになる。感覚や感情の心はこの世、つまり現在の現実に執着する。現在の現実から距離をとることができない。高所から町を一望するように現在の現実を眺めることが出来ない。だから他人との競争や差別を手がかりにする。みんなそうしてる。あの人よりはましだ。などだ。

d.    妻が今朝、珍しく遅く起きてきた。気分が優れないと言った。息子がまだ幼稚園児で、ちょっと外に行くといって居なくなって、必死で探しても見つからないまま目が覚めたという。夢の意味はわかったが、何も言わなかった。一人息子が3年前に結婚して離れて暮らしている。深い悲しみは本人にすら分からないのだ。

e.    過去や未来が見えない。物事の因果関係が見えない。現在の現実しかないと思う。今の、ここの、この状態しかないと思う。見えているものしか信じられない。燃えている酸素と水素が見えずに、新しく生まれている水も見えず、ただ目先の炎しか見えない。

f.    真赤なリンゴがある。リンゴが反射している光を見ているのに、リンゴそのものが赤いように思えてしまう。実際は赤い色というのはどこにも無い。波長の短い光の刺激から脳が作りだす情報なのだ。幼稚園で、先生が、赤い色紙を見せて、これが赤よ、と教えてくれた。赤い色は誰が見ても同じように映る。ということは、感覚や感情の心は、みんなに指が5本在る様に、みんなほとんど同じだと分かる。細かく言えば、君に見えている赤と僕に見えている赤は、ちょっと違うかもしれないがおおむね同じなのだ。

g.    感覚や感情の心にとって、この世のすべては、その時だけの消耗品で、旅先の景色のようなものだ。通り過ぎたり、渇きを満たせばすべて用済みになる。日々の自身も用済みになって、消えてしまう。

h.    犬が散歩の間中、休みなく嗅ぎまわっている。同類の匂いを嗅ぎつけると興奮する。きっと快感が生じているのだろう。花の香りなどは無視する。同類の臭いだけが存在していて、花の匂いは虚無なのだろう。

i.    骨董品や美術品の価値は、そのものにあるのでなく、受ける側に生じる心の反応にある。同じ作品が、受ける人によって、また同じ人でも心の状況によって、癒やしだったり、救いだったり、嫌悪だったり、無感心だったりする。

A      「言葉の心の香り」を身に着け持ち帰る

1)言葉の心

a.    言葉の心とは、感覚や感情の心の働きを制御する言葉を作り出す、大脳新皮質の言語野の働き。

b.    脳はすべてを記録している。ちらっと受信しただけの感覚や感情の刺激も、記録している。しかし言葉にしていないので再利用できない。つまり思い出せない。再利用できる形にフォーマットして作った言葉は、記憶したり演算したり予測したり、伝達したりできる。それをしているのが言葉の心だ。言葉は信号だ。抽象的なものだ。言葉には実体がない。だから言葉の心の働きである自分にも実体がない。命もない。死もない。ただただ、感覚や感情を言葉に変えて、自分や世界や時間を作り続けるのだ。感覚や感情を言葉に変える、香りを言葉に変える、日記を書く、句や歌を読む。すべて、言葉の心の働きである自分の本性だ。本性だから、目的や意味がなくても、そうすることが至上の満足なのだ。夕立や、入道雲が、腹下し。入道に、追いかけられて、宿探し。

c.    ヒトのDNAは、体が30歳まで生きればいいという前提でできている。生活に余裕が出来ると、学歴が高いと、結婚年齢や出産年齢が遅くなり、出生数が減る。DNAや体、そしてそれを代弁する感覚や感情の心とは違う心の働きがあるのだ。DNAや体そしてそれを代弁する感覚や感情の心は、衣食住が豊かになれば子を増やそうとする。言葉の心は、子より自分を大切にする。言葉の心が成長すると、繁殖や出産より、一代限りの自分の成長を目指す心の働きが強くなる。自分の満足のために体を犠牲にする心の働きもある。生物としては、命をつなぐことが第一なのに、それを超えようとする心の働きが在る。それが言葉の心の働き、自分だ。

d.    言葉の心は、どこまでも成長を続け、完成しない。ずっと成長の途上なのだ。恐竜の体のように、どこまでも成長を続けるのだ。

e.    愛する者たちを、生き返らせる、永遠に生きさせる方法は、簡単だ。感覚や感情の心に映った面影を、言葉にすれば良い。細胞である体には生死があるが、言葉には生死はない。言葉にして記憶すれば、自分が生きている間ずっと、つまり永遠に居続けることになる。自分という限界を越えさせたければ、伝承や本やもろもろの記録にしてしまえばよい。

f.    幼かった頃を思い出す。そのころの友達と今の自分が出会ったら、何を手がかりに互いを幼友達と認識するのだろう。顔かたちでは無理だろう。まずは思い出話だろう。共通の記憶、言葉が鍵を開けるだろう。ヒトは互いに言葉なのだということが分かる。

g.    駅前の歩道を歩いていて、盲導の為の敷石に気がついた。目が見えている人は、何も考えず、感覚や感情の心のまま気楽に歩いている。目が見えない人は杖で探りながら、言葉で世界を作りながら歩んでいる。自分は言葉の心の働きだ。目が見えないヒトの方が、言葉の心の働きである自分になっている時間が長いだろう。その分たくさん言葉が出来て、人生は長く、情動の制御にも長けているのだろう。

h.    鳥や動物は食物を咀嚼しないで飲み込む。ヒトが手で獲物を捕えるのと同じ感じだ。咀嚼は消化のためだけでなく脳が味覚を楽しむ行為だ。味覚を楽しまない生き物は咀嚼しない。食事でなく食餌だ。質素で少量の食事でも、良く噛んで食べると、ごちそうをたくさん食べた時と同じ気持ちになれる。食事に何か情報を添えるとさらにごちそうになる。ごちそうは自然界には存在しない。人間以外には存在しない。ポテトチップス。ジャガイモだけでは物足りなくなって、いろいろな情報をつけて、脳に食べさせている。脳を喜ばせるために人間が作り出した情報食物だ。日常生活にハレの粉をかける。誕生日やお正月、お祭りやお祝いだ。言葉に抑揚や音階をつけたりする。音楽だ。ヒトの脳は、自然のままの刺激つまり現在の現実では物足りなくなる。より良い未来を作ろうとする。動植物を品種改良したり、地形を変えたりする。

i.言葉の心は生まれながらに備わっている。記憶や願望を作ったり、道具を用いる虫や魚や鳥や動物はたくさんいる。言葉の心は程度の差こそあれ、広く生物に備わっている。本能と呼んでいる。ヒトはその働きが、言葉を自力で操るまでに進化したのだろう。考えるのは言葉の心の働きだ。しかし、考える道具である言葉は後天的に習得するのだ。言葉は習わなければ使えない。しかし言葉の種類が異なっても、考え方は違わない。英語で考えても日本語で考えても同じだ。元となる言葉の心が同じだからだ。

2)言葉の心の働きとは

a.    あの世を生み出す力。

b.    体や、感覚や感情の心は、動物として、成り行きで生きている。しかし、ヒトには別に、現在の現実よりもっと良く生きようと工夫し努力する言葉の心が備わっている。言葉を生み出す心の働きだ。言葉の心の働きである自分は、体や、感覚や感情の心のように生まれながらに完成しているものでなく、世代ごとにゼロから成長するものだ。言葉の心は、感覚や感情の心を制御するために生じた心の働きだ。未熟なうちは感覚や感情の心を制御しきれない。

c.    言葉の心が働くと自分が生じ、感覚や感情の心が映し出す現在の現実に左右され難くなる。言葉の心を働かせると、自分が生じ、世界や時間や願望が生じ、生きようとする気力が湧いてくる。活動範囲が、現在の現実から、過去や未来という異次元の世界に広がる。

d.    感覚や感情を言葉にすると、自分や世界や願望が生まれ、願望の未来を言葉にすると、目的が生まれ、目的から、生きようとする気力つまり救いが生まれる。

e.    動植物は、現在の現実を、与えられるままに受け入れている。ヒトは現在の現実をそのまま受け入れない。言葉にして、記憶の過去や願望の未来にしてから受け入れる。

f.    言葉の心が生じる。言葉を生みだす。言葉が自分になる。自分が世界になる。記憶が過去に、願望が未来になる。自分も時間も世界もみな、同じ言葉の心の働きだ。

g.    脳が進化して大脳新皮質が生まれ、感覚や感情の心とは別の言葉の心が生まれる。感覚や感情を言葉の糸にして、その糸で自分という繭を作り、その内面に世界や時間の模様を織込んでいく働きが生まれる。それが言葉の心だ。

h.    合わせ鏡とは、鏡に逆に映っているものを、別の鏡でもう一度写して正しく映らせる方法だ。感覚や感情の心が映し出している逆の鏡像を、合わせ鏡のように、正しく写しなおす。それが言葉の心だ。

i.    川の流速を計測するには、いったん陸に上がらなければならない。川が感覚や感情の心で、陸が言葉の心のことだ。

j.    外界の刺激を、情報処理が可能な言葉にして、脳内に外界のモデルを作り、演習や記憶をすることで、環境変化により良く対応できるようにする。それが言葉の心の使命だ。

k.    言葉の心の働きには2つある。自然科学は、言葉のレンガを積み重ねて塔を作る。それぞれの箇所に合うレンガは一つだけで、誰が作っても同じ形の塔になる。製作者の寿命と関係なく、塔の建設はどこまでも続く。芸術は、製作者が終われば、作品もそこで終わりだ。私も言葉で塔を造りたい。エチオピアの岩窟教会のような、地下を掘って築く、言葉の建築だ。自分が生きているうちは未完成で、自分が終わると、そこで完成だ。

l.    一万五千年前に生きていたフローレンシスというホモサピエンスの頭骨が発掘された。身長1m、進化の過程で分かれて消えた小さな人類の化石だ。小さな脳なのに緻密な石器を作っていた。同じ時期、ヒトの祖先であるホモサピエンスは3倍の大きさの脳で、同じ程度の石器を作っていた。大きくなった脳は石器を作る以外の働きをしていたのだろう。それは、言葉の心だと思う。脳の中に、世界を作り、過去を記録し、未来を予測し、現在をシミュレートする、スーパーコンピューターだ。

m.    言葉の心とは、点滅するだけの信号である感覚や感情を、記憶や演習が可能なデータにフォーマットしなおす脳の働きだ。大脳新皮質の働きである言葉の心は、言葉で自分を作り、自分は世界や時間を作る。過去や未来が見えるようになる。仮想の体をつくり、仮想の行動をさせて、客観的に観察し、反省や演習ができるようになる。感覚や感情の心の視野の限界、つまり現在の現実から自由になる。今日が昨日と明日に連続する。つまり一貫した、継続する自分を持てるようになる。

n.    牛を飼うのも、心を飼うのも、同じ事だ。牛とは感覚や感情の心の事だ。飼い主とは言葉の心の働きである自分の事だ。牛も飼い主も同じ心から生じている。同じ心が牛になったり飼い主になったりする。人は、何ゆえ言葉の心を必要としたのか。人は感覚や感情の心だけでは生存競争を生き抜くことができなかったからだ。人は言葉の心の働きで環境変化に適応したり、競争を生き延びたのだ。

o.    ヒトは、自分より弱いと見た相手は、襲ったり、いじめたりつまり攻撃本能が働く。自分より強いと思った相手には、依存本能が働く。それがこれまで生きてきたサルとしての進化の道で、DNAはそのように命令している。感覚や感情の心の行動原理になっている。言葉の心の働きである自分は、それではいけないと思う。何とか抑えようと思う。それができる者は幼児からできるし、できない者は大人になってもできない。言葉の心の力の成長の違いだ。体や、原始的な心ではこれ以上進化できなくなって、代わりに芽生えたのが心の進化だ。まだ途上だし、言葉のDNAの海から後天的に取り入れる能力なので、教育レベルなどの違いで、個人差が大きい。

3)言葉の心を育てよう

a.    心が3つ在るわけではない。体と心が別々に在るわけでもない。DNAと細胞と体が別々にあるわけではない。自分や世界や時間があるわけではない。在るとか無い、虚無や実態も、すべてはそれぞれの言葉の心の働きである自分が作り出している言葉だ。そんな言葉だって実際に在るわけではない。自分にだけ生じる仮想の現実だ。しかし自分はそんなものだ。自分は言葉の心の働きで、言葉しか作れない者なのだ。言葉によって生じるしかない者なのだ。DNAや細胞も、体も心も、自分も世界も時間も、すべては自分が言葉で作っている仮想の現実なのだ。そういう意味で、DNAや細胞も、体も心も、自分も世界も時間もすべては言葉なのだ。こういう思考を重ねることで、それまで無かった、DNAや細胞や体や心や自分や世界や時間が言葉として作られていくのだ。

b.    感覚や感情の心を癒すのが薫香の目的なら、2つ以上の香材を用意すればよい。聞き比べる。競争差別の心が生じる。感覚や感情の心が癒される。言葉の心を磨くのが目的なら、一つだけ香材を用意すればよい。香りを、香り同士の差異や変化でなく、その香りを言葉に変えるのだ。

c.    炎天下の坂道を自転車で登る。疲れた、無理することは無い、無意味だ、急ぐことは無い、降りて歩こう、休もう、今の安楽が大切だ、などという言葉が湧いてくる。一方で、決めたらやり抜け、これくらいでめげたら誇りを失うぞ、時間に間に合わせろ、ぐずぐずすると雨に追いつかれるぞ、などという言葉も湧いてくる。前者は、感情の心から脱しきれない、現在の現実の癒しを求める未熟な言葉だ。後者が、願望の未来つまり救いを求める本来の言葉だ。

d.    ここに同じ紙から切り抜いた一辺が10cmの正三角形と、直径が10cmの円の紙片がある。同じことと違うことをそれぞれ100ずつ述べなさい。

e.    体が、種(しゅ)という体のDNAの海から汲み上げられた遺伝子の働きで生まれるように、言葉の心の働きである自分は、文化という言葉のDNAの海から汲み上げられた言葉によって育てられる。体はDNAが先天的な完成図面の通りに作る。言葉の心の働きである自分は、DNAによって用意されているが、成長、成熟は、自力つまり後天的に、言葉のDNAを取り入れて実現する。

f.    心の成長とは。一つの心が成長するのではない。心には三つの心が並存している。感覚の心と感情の心と言葉の心だ。心を鍛えて、大人とか聖人などと呼ばれるレベルに達したとする。しかし感覚や感情の心は生まれたまま成長はしない。寒暖や空腹は変わらない。喜怒哀楽や愛憎が生じるのも変わらない。成長したのは言葉の心だけだ。蓄えた言葉の質と量だ。大人とか聖人などと呼ばれるレベルに達しているのも、心が言葉の心に切り替わっている間だけだ。魔が刺すというのは、言葉の心が感覚や感情の心に負けることだ。人はどのように成熟するのか。心の切り替え方が成熟するのだ。意識的に言葉の心に切り替え維持する能力だ。だから悟りとは、心のバランスの事だ。言葉の心が成熟しても、感覚や感情の心は相変わらずだ。感覚や感情の心には成長も成熟も無いからだ。魔はいつでも刺すのだ。

g.    教育について考えた。勉強はテストの点数を上げるためにすると思われている。答えが一つしかない質問が並んでいて、習った知識の記憶の中から、いかに早く正確に答えを見つけるかの競争だ。勉強はテストの点数を上げるためにするのではない。本当の勉強は、感覚や感情の心が映し出す現在の現実を観察して、言葉で疑問を作り、さらに言葉で答えを作るのだ。潮干狩りのような、既にある貝を採る競争ではない。下記の文章の空白を埋めよとか、正しい答えを選べという問題でなく、下記の文章から疑問を作り、答えを作れ、という問題がいいと思う。しかし、この問題では、成績をつけ競争差別をするための採点が困難だ。採点の都合に合わせて問題を作るのは本末転倒だ。つまり本当の教育と成績の競争差別は矛盾するということだ。

h.    言葉の心の成長期、つまり幼い時期は、大家族と狭い住宅でひしめき合って、親兄弟と濃密な接触があるといいと思う。近所のガキ大将らと遊んで、いじめられたりいじめたり、怪我をさせたりしたりするのも大切だ。言葉の心を育てるためだ。葛藤や苦難や苦痛が言葉の心を育てるのだ。一人っ子で、個室にこもって、逆らったり喧嘩の相手をしてくれる友だちでなく、思うままになってくれる母親やゲームを相手にしていては、言葉の心は育たない。さらに受験やゲームで、競争差別の感覚や感情の心を煽られるので、言葉の心は二重に発育不良となる。感覚や感情の心が生み出す偽の自分が肥大して、いじめや引きこもり、自殺に偽の救いつまり癒しを求めるようになる。

i.    香りを言葉にする。言葉で自分や世界や時間を作る。香りは現在の現実だ。感覚や感情が見せている光景や実感も現在の現実だ。香りを言葉にするとは、感覚や感情の心から言葉の心に切り替える訓練だ。現在の現実を、記憶の過去や願望の未来にして、生き方をバージョンアップする訓練だ。きっと、子供や若者には自分の生きるべき道を見せてくれ、熟年には苦難を乗り越える力をくれ、老年には、死を迎える勇気を持たせてくれるだろう。

j.    言葉の心の働きである自分は、感覚や感情の心の働きのように、生まれたままで完成しているのでなく、生きる過程で育てるものだ。

4)言葉の心の働きである自分がバージョンアップする

a.    老いや病は、体を使う現在の現実の活動を辛くする。動物ならこれでおしまいだ。しかし言葉の心を備えたヒトは、これからが活動の最盛期になる。言葉の心の開花だ。

b.    持続可能な発展は、古今東西、人類の切なる願いだ。これまでは国や個人単位の、自分だけの持続可能な発展だ。今の、みんなの世界はその結果できている。地上に競争の余地がなくなって、競争をあきらめなくてはならないのにやめられない。欲望の対象を有限な物質から、無限の奥行きを持つ言葉へ移すしかない。体を小さくして、脳を大きくするしかない。

c.    人類の増殖で、生態系が危うくなっている。問題は、個体数より、一人一人の渇望の肥大化だ。癒しへの渇望の抑制、つまり救いが必要なのに、広告や商品開発で互いに癒しへの渇望を強めあっている。巨大化しすぎて滅びた恐竜のように、ヒトの進化の袋小路なのだろう。感覚や感情の心は癒しを求める。体の必要を超えて癒しを求める。安全より快感、健康より快楽の癒しを求める。癒しへの渇望の肥大化はヒトを恐竜のようにしていく。皆が求める癒しの総計が有限な地球環境に収まりきらなくなっている。感覚や感情の心の癒しへの渇望を抑え、有限な地球環境に収まるようにすれば良い。しかし癒しへの渇望の肥大化は抑えられないだろう。環境への負荷を掛けずに余分な癒しへの渇望を満たせる回路を、脳の中に作るといい。植物が葉緑素を自給自足するように。それが言葉だ。人類の次の変身は、情報生物への進化だ。

d.    過密状態の環境においては、胃袋の大きい者、資源をたくさん必要とする者から淘汰される。人で言えば、癒しへの渇望が大きい者から淘汰される。企業で言えば、高配当が求められる大企業から淘汰される。人類を救うのは、一人一人の渇望の抑制だ。細胞生物としての物による癒しから、情報生物としての言葉による救いへシフトすることだ。大脳新皮質の、言葉の泉の湧出量は、地球を超えさらに宇宙より広大だ。癒しの道具が自動車からパソコンに移りつつあるのはその前兆だ。

e.    膝頭を叩くと、下肢がピンと跳ねる。この体を作る遺伝子が、今とは別の体を作っていた頃は、有益な機能だったのだろう。尻尾も今の体にとっては無意味だが残っている。脳が、言葉を作り出す機能を得たのはつい最近、数十万年前だ。人類の次の進化は、感覚や感情の言語化だ。情動を言葉にできれば、言葉の心の働きである自分が情動を制御できるようになる。癒しへの渇望は物やエネルギーの消費を無限にエスカレートさせる。地球は物やエネルギーを無限には供給できない。脳は言葉を無限に作れる。救いも癒しも言葉の宇宙から得るようになる。

B      「言葉の香り」を身に着け持ち帰る

1)言葉の誕生

a.    大脳新皮質の働きが言葉の心を作る。言葉の心が言葉を作る。言葉が自分を作る。自分が、世界や時間になる。

b.    外という言葉を意識すると内という言葉が生じる。他人という言葉を意識すると自分という言葉が生じる。敵という言葉を意識すると味方という言葉が生じる。仲間という言葉を意識すると孤独という言葉が生じる。寒さという言葉を意識すると暖かさという言葉が生じる。乏しさという言葉を意識すると裕福という言葉が生じる。不幸という言葉を意識すると幸福という言葉が生じる。不満という言葉を意識すると満足という言葉が生じる。向こうという言葉を意識するとここという言葉が生じる。事物からの刺激だけでなく、言葉も言葉を生み出す。ということで、嘘という言葉が本当という言葉を、悪魔という言葉が神という言葉を、作り出しているということになる。

2)言葉とは

a.    ヒトの心とヒトの心は星と星のように離れているので、感覚や感情のままの熱では伝わらない。星が自分の熱を光にして発信するように、感覚や感情も言葉という信号に変えて発信する必要がある。感覚や感情を言葉に変換する。言葉は、感覚や感情を客観化し、一般化、抽象化したものだ。訓練で育つ大脳新皮質の働きだ。

b.    陶工に出会う。粘土もらい、ひも状にして、食器を作る。陶工とは言葉の心のことだ。粘土とは言葉のことだ。ひもとは自分のことだ。食器とは世界や時間のことだ。言葉が自分の創造主で、自分が世界や時間の創造主だ。

c.    言葉は空気のようだ。同じ部屋の全員が吸ったり吐いたりして共有する。自他や所有を超えたものだ。

d.    同じ文字が3万個あったとする。無意味だ。文字が3万種類あったとする。無意味だ。誰かが自分の思うように並べたとする。文字の並び方として、何かが生じたのだ。それが言葉だ。言葉は文字ではなく、その並べ方だ。

e.    「りんご」という言葉が在る。そういう名前の果物が脳裏に浮かぶ。食べ物で甘酸っぱいと思う。言葉が世界を作っている。

f.    感覚や感情の情動を抑えて、自身をコントロールしようとするなら、自身から離れた立場で考えることが必要になる。心に別の心を構築して、その立場で観察し、考えるようにする。自身を制御するために仮設した足場だ。言葉のことだ。

3)言葉の力

a.    車椅子に乗せられて散策している男の子を追い抜いた。行き交う人々をじっと見ている。自分もあの人たちのように生まれていたらなあと思っているように見えた。あの子と自分を入れ替えることは出来ないか考えた。映画ではよくある話だ。お互いが入れ替わるとはどういうことなのだろう。感覚や感情の心は一人ひとり固有ではない。入れ替えるまでもなく同じなのだ。今走っていようが、車椅子に座っていようが、感覚や感情の心に生じる興奮は同じなのだ。言葉の心の働きである自分も一人ひとり固有ではない。入れ替えるまでもなく同じなのだ。違うのは言葉の心の中身、言葉だ。言葉の心から言葉の心へ、言葉が入れ替わればいいのだ。記憶の過去や願望の未来が入れ替わればいいのだ。記憶の過去や願望の未来を言葉にしてやり取りすればいい。つまり今のままで言いのだ。発信された言葉は誰のものでもない。みんなのものだ。言葉は自由に伝達でき、合流する。君の言葉も僕の言葉も、体への出入りも入れ替わりも自由なのだ。

b.    感覚や感情のもやもやを言葉にすると救われた気持ちになる。もう同じことについて無用な興奮をしないですむようになる。権力は、歴史や法を文章にすることで確立する。日々の体験を日記にする。落ち着いた気持ちになる。

c.    言葉だから伝達できる。言葉だから共有できる。言葉だから分かち合える。言葉だから受け入れられる。言葉だから合流できる。

d.    ヒトが他の動物より優れるものは言葉の心だ。情報を言葉にして、記憶したり、演習できることだ。この働きこそヒトがヒトである証だ。

e.    生老病死を言葉にすると、生きようとする気力が湧いてくる。

f.    山で道に迷ったとする。周囲の木々や山々を見ても、道はわからない。紙や地面や頭の中に地図を描いて、地図の上で考える必要がある。感覚や感情の心が見せる現実ではなく、言葉の心が言葉で作る地図の上で、考える必要がある。

g.    感覚や感情の心が映し出す現在の現実と、言葉の心が作り出す記憶の過去や願望の未来、との違いについて。感覚や感情の心は環境からの刺激を受けて興奮して環境を独自の世界として映し出す。これが現在の現実だ。具体的な体験だ。言葉の心は、感覚や感情の心の体験を言葉にする。記憶して蓄える。環境とは無関係に言葉で仮想の世界を作り出す。この言葉を受発信すればみんなで世界を共有できる。

4)言葉の働き

a.    リンゴをはじめて食べた人が居るとする。言葉の力を持っていないとする。「リンゴは美味しい」という言葉が作れない。記憶できない。もう一度リンゴの木の前を通っても、思い出せない。一生についても同じことが言える。

5)言葉の世界

a.    自分や世界、時間や人生について漠然と考えても、取り留めが無くなる。自分や世界や時間や人生の問題が、同じ次元の一次方程式なら、考えようもあろう。しかし、心が感覚の心と、感情の心と言葉の心の3つの別次元から構成され、さらに、自分も世界も時間も、それぞれ別の次元に生じている。単一次元の一次方程式だと思っていたのが、多次元の多次方程式だったのだ

C      「自分の香り」を身に着け持ち帰る

1)自分を言葉にする。

a.    神経で感覚の心が生じ、大脳辺縁系で感情の心が、大脳新皮質で言葉の心が生じる。35億年かけた神経や脳の進化の歴史を、心は一瞬で行き来する。この働きの全体を自分とするか、言葉を操る働きだけを自分とするか。以下、言葉を操る働きだけを自分として考える。

b.    自分とは言葉の心の働きのこと、自身とは体のこと。

c.    自分について考えた。自分は一代限りのこの体に宿った何かなのだろうか。それともDNAのように、祖先を伝わってきた何かなのだろうか。自分をDNAだと思えば、35億年前の誕生にさかのぼる。自分は35億歳のDNAの大木の、見えない無数に分かれた枝先の一つだということになる。自分を体だと思えば、この体を作り出すように進化した以降のDNAにさかのぼる。数百万年前の猿人だったり、数十万年前のヒトだったり、数万年前の特定の人種だったりする。自分を言葉の心の働きだと思うと、別次元の流れが見える。言葉のDNAの海から注ぎ込んだ言葉のDNAが自分を作っている。自分は言葉を発信して言葉のDNAとなり、言葉のDNAの海に戻っていく。まるで体のDNAが体のDNAの海から来て戻るのと同じだ。自分は体としては体のDNAの海の一部だし、言葉の心の働きとしては言葉のDNAの一部なのだ。自分には、体の故郷と、言葉の故郷があるのだ。

d.    自分は体のどこにいるのか。顔を鏡に映して見る。目や鼻の辺を探してみる。よくわからない。見つめているうちにみんなと同じ顔になって、特別な自分ではない感じになる。自分は体には居ず、脳で点滅する信号なのだと分かる。

e.    進化した脳から言葉の心が生まれ、言葉の心が言葉を作り、言葉が自分になり、自分が世界や時間になる。

f.    言葉の心は、未知や虚無を言葉にして、自分や世界や時間を作りだしている。

g.    自分は、感覚や感情に言葉の心の光を当てて、言葉にして、自分を作っている。

h.    自分がいる時といない時がある。車窓の外の移り変りをぼんやり眺めている時、自分は消えている。何かを考え始める。言葉が湧いてくる。自分がよみがえってくる。あの事にはどんな意味があったのだろう。これから何をしよう。あの赤い屋根の建物は何なのだろう。そんな言葉として自分は泡のように湧いてくる。自分は言葉の泉から湧き上がる言葉なのだ。考えに疲れてボーっと景色を眺めたり、目を閉じて仮眠している時には自分は消えている。聞こえてくる音や、見える光景、味覚や匂い、皮膚の感触、それらの快不快に心を澄ませている時、つまり感覚の心が働いている時も自分は消えている。喜びや怒り、哀しみや楽しみに身を委ねている時、つまり感情の心が働いている時も自分は消えている。自分は、考える必要がある時にだけ湧き上がる言葉なのだ。

i.    自分を伝えたい時に、何をどう伝えればいいのか。借り物の言葉つまり、こんな音楽、小説、食べ物、スターが好きだなどと言うことがある。所有する物や銘柄やブランドの威光で自分を表現しようとすることもある。ヤドカリが殻の模様を自分だと伝えているようなもので、伝わるのはその殻を作った貝のことで、ヤドカリのことではないのに。

j.    細胞には、身を守るために免疫の仕組みが備わり、細胞膜の内側で、自分と自分でないものに区別して、自分でないものを排除しようとしている。神経にも同じ働きがあって、快不快などの心の免疫システムになっている。大脳辺縁系にも同じ働きがあって、競争差別をしている。しかしそれらは自分ではない。大脳新皮質に至って、言葉の心の働きである本当の自分が生まれる。体を作るDNAが生まれた時から細胞に備わっているように、言葉を作る言葉の心の働きも生まれた時から大脳新皮質に備わっている。ただ、中身の言葉は、文化即ち言葉のDNAの海から、自力で汲んで入れなければならない。

k.    コンピューターとヒトの違いを考えた。コンピューターはヒトに似せて進化していく。感覚器官や手足の働きは勿論のこと、記憶や思考も出来る。世界は言葉を生み出す者の中に、個別に言葉で作られる。世界は、個別の言葉の心が、言葉で編み上げた、言葉の体系だ。コンピューターは、誰かが作った言葉をインプットすることはできても、あくまで誰かの道具に過ぎない。そこに生じるのは、その誰かの自分、世界、時間だ。コンピューターが自身にとっての言葉を勝手に生み出し始めれば、もう誰かとは関係なくなる。自分が誕生する。ヒトこそ、勝手に自分で言葉を作って、自分の世界を持たねばならない。そうでなければコンピューターのように、誰かがインプットした言葉を処理しアウトプットするだけの道具になってしまう。

l.    自分について考えても、考えているのも自分なので、鏡が鏡自体を映そうとするようなものだ。鏡に鏡自体は映らないように、自分には自分は見えないから、自分は発見したり観察するものでなく、言葉で作るものだ。自分は物のように外界に既にあるものでなく、探しているうちに言葉として生じるものだ。自分を既にあるものとして探すのでなく、未だ無いものとして作るのだ。自分について考えるとは自分を作ることで、自分を作るということは、記憶の過去や願望の未来を言葉で作ることだ。

m.    子供の頃、押入れや布団の中、木の洞や土手の防空壕や木の茂みなどの、暗い、自分だけの場所が好きだった。そこに潜り込むと、自分が本当の世界にいるように感じられて、安心できた。自分がいるべき本当の世界は、外界と隔絶した、自分だけの場所、言葉の心の働きである自分が生み出している言葉による仮想の世界なのだ。そのことに気付いて初めて、世界も虚無も見える。言葉の心の働きである自分と、感覚や感情の心が映し出す現在の現実とに距離をとりながら、バランス良く強く生きることができる。それが大人になるということだ。言葉の心が未熟なまま大人になると、感覚や感情の心のまま、徒党を組んだり、他者からの評価に囚われて外界の虚無に引き込まれてしまい、感覚や感情の心が映し出す現在の現実から隔絶した、自分だけの場所を見失いがちだ。隔絶した、自分だけの場所を見失い、自分の本当の世界と外界の虚無との区別がつかなくなって、言葉の心の働きである自分は居場所を失い、苦しむことになる。それが自己喪失、アイデンテイテイー・クライシスということなのだろう。隔絶した、自分だけの場所が無ければ自分の世界、アイデンテイテイーは作れないのだ。

n.    自分をはっきりさせるために日記をつける。書く内容は何でもいい。観察しているのは言葉の心の働きである自分だから、自分を言葉にすることに変わりがないからだ。考えるだけでもいいが書いた方が、自分がより鮮明になる。

o.    外界から刺激が入ってくるが、感覚や感情の心はザルで、何も残らない。しかし、言葉の心の働きである自分が、その刺激に名前をつけて言葉にすると、レンガになって、自分や世界や時間の塔に積み上げられる。塔の最初のレンガは、親が付けてくれた自分の名前だ。それからどんどん名前をつけて取り込んだレンガを積んで、バベルの塔のような言葉のレンガの塔を築いていく。

p.    感覚や感情の心は、したいことをして忘れてしまう。言葉の心の働きである自分は記憶するので、その責任を負わなければならない。だから、感覚や感情の心の情動を批判的に見ている。どう生きてはいけないか、何をしてはいけないか、何を捨てるのかを考えることになる。言葉の心の働きである自分にとって、したくてできなかったことより、しない方が良かったことの方が、後からずっと心を苦しめる。決して消えない。

q.    生まれて来たからには、何かを成し遂げたいという気持ちがある。成し遂げるとは、何をどうすることなのだろう。何かを成し遂げたいと考えている自分は言葉の心の働きだから、成し遂げることも、言葉で作った目的の達成のことだ。目的を達成するためには、願望を持ち、言葉で目的にすることが必要だ。言葉の心にならなければ、感覚や感情の心のままでは、目的が作れず、人生、何かを成し遂げるという満足、救いは得られないのだ。

r.    自分は何なのだろうと思うことがある。若いうちは、自分はあらゆるものになれると思っているので、自分の形がぼやけている。自分は、自分でない部分から決まっていく。なれないものを削り取って、なれるものが残って自分となる。虚無を削って、彫刻のように自分が出来る。虚無を限定すると言葉になり、言葉が自分になる。

s.    自分は言葉の心の働きで、情報で、情報には自他の区別はない。だから言葉の心の働きである自分は、本来、競争も差別も無く、融けあい合流して、皆とつながるものなのだ。言葉の心の働きである自分の喜びは、差別や競争で独占して得られるものでなく、皆に発信し、与え合い、合流することで生じるものなのだ。

t.    カーナビの声がする。次の角を右に曲がれなどと言っている。助手席の母は、実際の女性が外から見ていて、教えてくれているのだと思い、返事をしたり、お礼を言ったりしている。自分の中にも、カーナビの声がする。それが言葉の心だ。

u.    自分が生まれてきた意味を考える。言葉の心の働きである自分には生死は無く、35億年前に生まれたDNAが毎年咲かせる一輪の花に生じる香りのようなものだ。体が発する香りなのだ。生や死は、花に生じる現象だ。DNAにも、花の香りにも生死は無い。それでも自分の始まりは気になる。無から突然に生じたのではない。自分が何なのかを知るには、「この体を生み出すDNAつまり木」と、「この体つまり花」と、「自分という信号つまり香り」の3つを言葉にする必要がある。DNAがこの体を作り、体の一部である脳が心を作り、心の一部が言葉の心になる。言葉の心の働きが自分や世界や時間を作っているのだ。

v.    歌声や話し声を電子的に合成する技術の紹介を、TVで見た。歌手に5曲歌わせて、声の要素に分解して、合成した声で別の歌を歌わせていた。すでに映像も香りも味も寒暖などの感触も合成できている。コンピューターで人格が合成でき、DNA操作で命も体も合成できるようになれば、自分が自分である意味はどうなるのだろう。つまり合成できない自分はあるのだろうか。他人の視座から見る自分はすべて合成できるのだろう。自身の視座から見る自分も、思考や記憶の過去や願望の未来は言葉だから合成できる。感覚や感情も脳の興奮だから電気や化学物質などで合成できる。自分も、自分を合成する自分も合成できるということだ。つまり情報はすべて合成できるということだ。しかし、合成人間のフランケンシュタインは、自分は自分だと思っていた。自分とは他者の目から観察した体や情報ではなく、自身の視座のことなのだ。空っぽの一点なのだ。

w.    心には、感覚や感情の心と、言葉の心がある。自分や世界や時間は、言葉の心が生み出している。感覚や感情の心には自分や世界や時間はない。その場限りの快不快感や喜怒哀楽で、それは、私でも君でも誰か他の人でも、サルや魚でも生じている信号なのだ。自分の存在証明にはならない。楽しいし気持も良いけれど虚しいのだ。

x.    言葉が自分を作り、成長させる。

y.    言葉にして脳の中の世界に組み込む。感覚で現在の現実で感知するだけでなく、記憶の過去や願望の未来にして、考えることができるようになる。現在の現実のりんごだけでなく、言葉にして、記憶の過去や願望の未来のリンゴも見えるようになる。与えられた現在の現実のりんごを食べるだけでなく、りんごパイに調理したり、品種改良を企てたりできるようになる。

z.    脳の世界を、現在の現実を超えて、記憶の過去や願望の未来に、深め、広げていく。記憶の過去や願望の未来のような抽象的な世界には、物理的な限界が無いので、無限の世界に遊ぶ、無上の満足が得られる。

aa.5月の晴れた朝の風は本当に気持ちがいい。子供の頃はただ気持ちがいいだけだったが、大人になって、どのように気持ちがよいのかを表す言葉が身についていると、一段と深く感じられる。小学校の国語の教科書で、松尾芭蕉の俳句を読んだ時、何がどこがいいのかまったく分からなかった。しかし頭にしみこんで、大人になって、さわやかな風や輝く新緑を見ると、感覚や感情の心を越えて、俳句が言葉の心によみがえってくる。感覚や感情の心で過ぎていく日常を越えて、言葉の心の働きである自分の中に言葉が溜まっていく感じがする。

bb.子供の頃は、甘いものがこの世で一番の美味だと思っていた。苦味や酸味などは不味いだけだった。成長するにつれ、甘みより苦味や酸味に心が惹かれるようになった。子供の頃書いた絵は鮮やかで明るい色が主だった。成長するにつれ、渋い色が増えてきた。言葉の心の生長のせいだ。

cc.体は、サルの体だ。感覚や感情の心は、サルの心だ。ヒトである自分は体ではないし、感覚や感情の心でもない。言葉の心の働き、つまり情報生物だ。体が生まれた後、成長したものだ。

dd.自分を信じる、自信を持つということ。何をどうすることなのだろう。身体能力を信じる、我慢強さを信じる、正しさを信じる、勝利や成功を信じる、などいろいろに使われる。自分の言葉を信じるということだ。感覚や感情の心には無い働きだ。言葉の心が作る言葉によってもたらされものだ。感覚や感情の心は苦難にあうと逃げる心だ。言葉の心は苦難に挑戦する心だ。

ee.自ら自由に出来る分が自分なら、言葉の心が本当の自分だ。体も。感覚や感情の心も自由にはならない。

ff.自分は、細胞生物である体が進化した情報生物だ。情報生物は三つの段階で進化した。感覚生物は、神経の働きで感覚を生み出し、環境変化を察知する。感情生物は、大脳辺縁系の働きで、感覚に損得を加味して喜怒哀楽を作り出す。言葉生物は、大脳新皮質の働きで、感覚や感情に名前や意味をつけて抽象化し、情報処理が出来るフォーマットにして、つまり言葉にして、自分や世界や時間という情報体系をつくる。この言葉生物が自分だ。

gg.心は物でなく、火花のように瞬間に生まれて光になって飛び散っている信号だ。眠っても消える。死んでも消える。体のように一定期間継続して在り続ける存在ではない。それを補うのが言葉の心の働きだ。言葉になると存在が持続して、記憶したり予測したり、時空を超えて自由自在になれる。

hh.光が差して、物に当たり、影ができる。光と物には実体があるが、影には実体がない。光が外界の刺激、物が脳、影が心だ。

ii.他者のための自分でいると、他者から癒しがもらえる。自分の為の自分でいると、救われる。他者に癒しを与えると、癒しを返してくれる。子供の頃から、集団になじめなかったように思う。なじんでいたように過ごしても、帰路には、祭りの後の寂しさに襲われた。「吾輩は猫である」で、気勢を上げていた教え子達が帰った後、一人残された飼い主を見て、猫が「心の奥底を叩いてみればみんな寂しい音がする」というような感じか。互いに、体つまり感覚や感情の心で踊っていたが、一人になると、自分は言葉の心の働きだったことに気がつくのだ。

jj.自分は、体を守るための信号だ。過去を記憶し、未来を予測し、現在の現実を乗り越えて生きさせようとする信号だ。脳の働きが、感覚や感情の心から言葉の心に進化して、未来のあるべき自分や世界や時間を言葉で作り出している。感覚や感情の心が映し出す現在の現実の中で、癒しを求め、生きていようとするだけの心から、未来を作り出し、目指し、生きようとする言葉の心に進化した。癒しを求めて生きているだけの感覚や感情の心の状態では満足できなくなった。生きようとして、言葉で未来や目的、意味や救いを生み出さすようになった。言葉の心の働きである自分には決まった形は無く、必要な時に世界や時間の形になって自覚される。それは個人的なものばかりでなく、言葉にして発信すれば、みんなと共有できる。この自分が首尾一貫した言葉で形成されている状態を満足といい、満足を得ることを救われるという。言葉の心の働きである自分を、首尾一貫した言葉で形成し維持することが自分の使命だ。

kk.自分についてそのまま考えても、何も見えてこない。太陽の光も同じだ。感覚や感情の心に映る光は無色透明だ。プリズムで分光すると七色の光が見えてくる。七色の光のそれぞれの働きが見えてくる。自分もプリズムつまり言葉で分光して、体と心、さらの感覚や感情の心と言葉の心に分けて考えるとそれぞれの働きが見えてくる。

ll.自分は言葉の心の働きで、世界や時間を言葉で作り出している。旧約聖書の神が、ヒトの心の外側に、現在の現実としての世界や時間を創造したように、自分は、心の内側に、言葉で、過去や未来の世界や時間を創造しているのだ。感覚や感情の心が外の世界を作り出し、言葉の心が中の世界を作り出している。旧約聖書の神は感覚や感情の心の働きとして世界を創造し、釈迦は言葉の心の働きとして世界を創造したのだ。

mm.感覚や感情の心の働きは自分ではない。感覚や感情の心に湧いた快不快や喜怒哀楽に我を忘れるとか我を失うという。その我が自分、言葉の心の働きだ。

nn.油蝉が窓の網戸に飛んできた。カサッという音の後に、わめき散らすような大きな声で鳴き始めた。この庭に立ち寄るカラスに食われるか、地面に落ちてアリ達に食われるか、その日までもう1週間もない。頑張れと思う。大声で自分のDNAの優秀さを発信し、♀が受信してくれることに命を燃やしている。7年前の夏、母ゼミが木の幹に刺し込んだ卵が、幼虫になって幹を下り、地面にトンネルを掘り、根の樹液を吸いながら7年間潜み、今朝穴を出て、殻を破って飛び回り、鳴きまわっている。卵にも幼虫にも成虫にも、言葉がないので、セミの自分はどこにもない。ヒトの自分はどこにあるのだろう。自分をDNAだと思えば、父母の父母の父母にも、30億年前の微生物にもこの自分は宿っていたことになる。これから生まれる子や孫にも宿るはずだと思う。DNAはこのように35億年間い続け、明日をも知れぬ身ながら、可能性としては無限に居続けることになる。自分を、体や、感覚や感情の心だと思えば、この体の一代限りのように思える。自分を言葉の心の働きだと思えば、言葉になって発信されれば、この体から離れ、独立した存在として、ウィルスのように冬眠したり他の心に伝播して、限りなく永遠にあり続けるように思える。この脳に、言葉のDNAの海から言葉が流れ込んで自分を作り、発信した言葉は自分という殻が取れて、元居たDNAの海へ戻っていくように思われる。

oo.今、ご飯を食べているね。食べているのは誰だろう。目で見て、箸で摘んで、口に入れて、噛んで、味わって、飲み込んでいるね。自分が食べていると思っているね。でも、本当に食べているのは、飲み込んだ後の喉から奥の体だ。本当に食べているのは体の隅々にまでいる沢山の細胞たちだ。自分は心で、心が見えるのは外界と口の中までだ。だから口で食べていると思い込んでいるだけだ。自分とは何か考えさせられるね。

pp.自分は、何処に、どのような形でいるのだろう。すべては、自分に気がつくところからが始まりだ。親に叱られたり、兄弟げんかをしたり、友達といじめあったりして、自分は自分だと気がつく。痛いのも自分、悲しいのも自分、悔しいのも自分、誰も代われないのだ。自分のほかは全部他人だ。お母さんにも自分があるし、兄弟や友達にも自分があって、みんなにとって互いは他人だ。それぞれに、この世で一つだけの自分があるのだ。みんなと共有できないのも、みんなと一体になれないのも、みんなと平和に過ごせないのも、自分の働きだ。自分はすべての苦しみの根源だ。

qq.人を体として見れば、一人一人が別々であるように見えるが、実際は、35億年前に誕生した1個のDNAの、形や数の変化なので、一本の木に茂る葉の一枚一枚のように、大きな一つの一部だということになる。言葉の心にも同じことが言える。人の心を外から見れば、一人一人に個性が在るように見えるが、パソコンのように考えれば、機械にあたる言葉の心と、ソフトにあたる言語体系はみな共通で、日々インプットされるデータが違うだけだ。体のDNAから同じ機械を与えられ、言葉の心のDNAから同じ機械言語を与えられている。別々の葉が、別々に日を浴び、風に揺れているように見えるが、同じ木に茂り、同じ太陽に照らされ、同じ風に吹かれているのだ。

rr.体が死ぬと、脳の働きである心も消える。言葉の心の働きである自分は情報なので、体のような死はない。消えるだけだ。ろうそくで言えば、ろうそくは燃え尽きたり折れたりするが、火は点いたり消えたりするだけだ。火である自分は、このろうそく専用の火なのか、すべてのろうそくに共通の火が、あちこちでついたり消えたりしているのかと思う。たくさんの水溜りに月が映っている。それぞれの水溜りの月たちはみなそれぞれに、自分は自分だと思っている。そんな感じだと思う。

ss.今、自分は、何処にいて、何をしている、何者なのか。自分は物としての体の何処にもいない。足跡や、影法師や、足音のように、体とは一体だが、別次元のものだ。強いて言えば電気の信号だ。

tt.宇宙人に会って初めて、自分が地球人だったと分かる。他者に会って初めて自分が生じる。自分とは鏡のようだ。警戒すべき何かが映っているだけなのだ。きっと体の防御反応に過ぎないのだろう。感覚や感情の心に映し出される自分はこのように頼りないものだ。言葉の力で自分を作り直さねばならない理由だ。

uu.塩水について考えようとすれば、塩水のままいくら考えても、分からない。水と塩の混合物だと考え、それぞれについて別々に考える必要がある。実際にあるのは塩水だが、思考の対象は水と塩の各々だ。その上で、塩水としての特性を理解する。ヒトの全体を、DNAと体と心に、そして心を感覚の心と感情の心と言葉の心に分けて考えて、その上で、自分を考えてみる。DNAが体を作る。体が心を作る。心が言葉の心になる。言葉の心が言葉を作り、言葉が自分や世界や時間になるという具合だ。

vv.ここにいるのは、物である体と、情報である心だ。体は、体のDNAが、物質世界で存在し続けるために作り出す、一世代限りの道具だ。体は感覚や感情の心を生み出す。さらに言葉の心を生み出す。自分はこの言葉の心の働きだ。言葉の心は、脳から生じているが、脳ではない。炎が蝋燭ではないように。声が声帯ではないように。拍手の音が手のひらではないように。脳は物だが、言葉の心である自分は情報だ。生じている次元が違うのだ。

ww.体を動かしている命令のほとんどは、言葉の心の働きである自分ではなく、体自身が発している。自分が動かしていると思っていても、動いた結果を知らされて、自分が動かしたと思い込まされているだけだ。言葉の心の働きである自分にできるのは、体のコントロールではなく、言葉による情報処理だけだ。

xx.言葉の心の働きである自分は、食べ物にも物語が付いているとうれしい。物語が調味料なのだ。食事とは、体が食物を食べ、感覚や感情の心が味覚や嗅覚や視覚や触覚の情報を食べ、言葉の心の働きである自分が物語を食べることだ。

yy.自分は情報なので、体のように生まれたり死んだりしない。言葉の心の働きである自分には、誕生も死も無い。スクリーンに映された昔の映画の主人公が、上映するたびに生じるだけで、生老病死が無いように。

zz.言葉の心の働きである自分の在り方は、体つまり物質としての発生や消滅ではなく、情報としての在り方をしている。自分は言葉の心が作る仮想の体だ。

aaa.                  自分は、言葉にすれば見えるようになる。

bbb.                  動物にもヒトにも体があり、痛いとか熱いという感覚や、悲しいとか楽しいという感情もある。しかし、言葉の心が作る世界や時間つまり記憶の過去や願望の未来は、ヒト特有のもので、動物にはない。あったとしても、感覚や感情の光が届く現在の現実に直近の過去や未来くらいだろう。言葉の心を生み出す大脳新皮質の発達の差だ。

ccc.                  「自分とは何か」を知りたがっている自分は、鏡を見つめているようだ。自分は自分を、直接でなく、何かに写さなければ見えない。

ddd.                  幼い頃の遠足の集合写真を見る。自分を探す。幼い頃は言葉の心の働きが弱く、記憶も薄い。あの頃の自分を思い出せるはずもない。思い出せるのは、この写真を何度も見て、これが自分だと確認を繰り返した結果得た、写真についてのその後の記憶だ。たくさんの毛虫や蝶の写真を見て、この毛虫がこの蝶の幼虫だと言うのと同じだ。あの頃の自分の体や顔かたちは変化し、細胞も入れ代わり、跡形も無い。体の変化は、情報生物である人にとっては本質ではない。昔の自分と今の自分のつながりは、体にはなく、言葉の心に蓄積した記憶の連続性にある。感覚や感情は、雨のように流れ去る。言葉だけが雪のように降り積もる。昔は、写真に写った体ではなく、今の言葉の心に積もっている言葉に在ると言うことだ。

eee.                  自分について考える。子供の頃は、何となく自分を体だと思い込んでいた。病気や怪我をしたり、歳をとって体が勝手に衰えていくのを見て、自分はこの体とは別の存在だと思うようになった。自分はいつどのように生まれたのだろう。子供の頃の自分は今の自分とは別人なのか。瞬間ごとの自分はその都度違うのだろうか。同じ信号が点滅しているだけなのだろうか。自分はその前の段階の自分とつながっていると思っているだけで、別人なのだろうか。感覚や感情の心で考えているうちはこの程度で行き止まりだ。自分は言葉の心の働きだと考えると、自分が見えてくる感じがする。

fff.                  秋の晴天の昼前、駐車場に、山から群れて降りてきた赤とんぼがスイスイ飛び回っている。懐かしい再会だった。というか、赤とんぼを追い回していた頃の自分の心との再会だった。

ggg.                  この川のこの一滴は、何処から来たのだろう。自分は何処から来たのだろう。川がDNAなら、この一滴はこの体だ。そして心である自分はこの一滴が宿した太陽の光だ。自分は水源から来たのでなく、光源から来たのだ。

hhh.                  動物や子供は、感情がそのまま攻撃や防御などの行動につながる。大人になると情動を制御する働きである言葉の心が生じ、感情と行動を切り離し、思考、評価などの処理を経て、行動という解答を出す。行動するか否かは感情の心によってでなく言葉の心によって判断する。子供は言葉の心の力が弱いことから、言葉の心は後天的な努力で形成されるものだとわかる。情報生物としてのヒトにとって、大人になるとは、言葉の心の成熟のことで、体の成長や成熟は二次的なことだ。自分は体から生まれてはいるが、体は道具にすぎない。言葉の心の働きである自分にとって大人になるとは、言葉の心が成長することだ。

iii.                  直接会って話しているとする。相手の口から声が聞こえる。顔の表情が何かを伝えてくる。目や手も動いている。体全体が目の前にある。相手の本体は目の辺りにいるように思われる。口から声を出したり、目をこちらに向けたり、表情で訴えたり、手足を動かしているのは、顔の奥に隠れている脳の中で生じている電気の信号なのだ。脳は見えないが、信号はもっと見えない。話をしている相手も話しを聞いている自分も、顔の奥に隠れている脳の中で生じている電気の信号なのだ。

jjj.                  ヒトは体と心から成っていて、自分は心それも言葉の心の働きだ。鏡に写る体を見て、自分の体だと認識するためには、自分が必要だ。自分が無ければ、鏡に写る体は他者なのだ。犬が鏡に写る自身を見て、他者だと思って吠える。ヒトだって、予期せぬ状況で鏡に写る自分の体を見たら他者だと思ってびっくりする。夜、一人で自分の顔を見る。初めは、顔が自分だと思っている。だんだんぐにゃぐにゃになってきて、自分とは別の他者、怪物のように見えてくる。言葉の心の働きである自分にとって、この体は他者なのだ。自分は言葉の心の働きなのだ。本当の自分は鏡には写らないのだ。

kkk.                  人生の終盤になると、自分は何者で、どこから来たのか、どこへ行くのか、が知りたくなる。戸籍のように先祖をさかのぼって家系を繰り、名前の羅列で理解しようとする。さらに、ヒト科のヒトで、猿やトカゲや魚や小動物と共通の祖先から進化したものだという風に理解しようとする。本当は、「自分は何者で、どこから来たのか、どこへ行くのか」というのは、この体のことではなく、言葉の心の働きである自分についての疑問なのだ。「自分は何者か」については「この体の大脳新皮質が生み出している言葉の心の働きだ」というのが答えだ。「自分はどこから来たのか」とは「言葉は何処から来たのか」ということで、「人類共通の言葉のDNAの海から来た」というのが答えだ。言葉をくれた、幼い頃からの、話し相手になってくれたたくさんの懐かしい顔が浮かんでくる。家族も友達も先生も本もTVも、人類共通の言葉のDNAの海から言葉を汲んできてくれたのだ。「自分はどこへ行くのか」とは「言葉はどこへ行くのか」ということで、「発信された言葉は、元居た人類共通の言葉のDNA の海へ還るのだ」というのが答えだ。

lll.                  物心ついてから、いつも、違和感がある。心の一部が、不安や迷いを訴えてくるのだ。言葉の心だ。感覚や感情の心が映し出す現在の現実を、言葉にし、過去や未来を作ろうとして、言葉の心は、体で言えば心臓のように、生まれてから死ぬまで日々戦い続けている。自分は言葉の心の働きだ。光を発しながら自分も光の塊になっている太陽のように、言葉を生み出しながら言葉で自分を作っているのだ。

mmm.                  父母が見合い結婚をしたのは偶然だったそうだ。母によれば懐妊は水上温泉らしい。妻と自分の出会いも偶然だ。息子の誕生も、息子の結婚も偶然だ。一方で35億歳のDNAがこの体を作ったのは必然だ。この体に言葉の心が備わっているのも必然だ。言葉の心が、今このことを考えている脳の働きに、自分という名前をつけているのも必然だ。人類の手足や目鼻の機能が無個性なように、言葉の心の働きである自分も無個性なのだ。自分は、大脳新皮質の一般的な働きであって、ユニークなものではない。自分には個性は無い。個性とは自分が自分を差別化したい錯覚だ。それぞれの言葉の蓄積には個性がある。個性とは、自分という入れ物に蓄積した言葉の質や量の違いだ。生まれつきの体や心に個性が備わっているというのは誤解だ。個性は、体にも心にも無い。言葉の心の働きである自分が言葉で作る言葉の塔にあるのだ。体と心をひっくるめてユニークな自分というのは幻想だ。言葉の塔だけがユニークなのだ。体や、感覚や感情の心をひっくるめて自分と誤解し、特別な存在だと思うと、無駄なこだわりや苦悩が生じる。体や、感覚や感情の心には独自の自分はなく、言葉の心の働きとしても独自の自分はなく、積み上げた言葉の塔だけが個性的なのだとわかると、死んで、体や心や自分が消えてしまうことも気楽に受け容れられる。発信してきた言葉は言葉のDNAの海の一部になって、永遠不滅なのだと分かる。電球が切れたからといって、この世から光が消えたわけではないことに気がつく。体は電球だが、自分は光だということに気がつく。

nnn.                  自分は何者か。2kgで生まれて今は80kgある。体重は日々変化してしまうし、血圧でも脈拍でも自分は測れない。感覚や感情の心が映し出す現在の現実だって、車窓の景色のように刻々と変化してしまう。そういう変化するものを自分だと思いたくない。だから言葉の心の働きである自分は、感覚や感情の心のような移ろうものを言葉にして固定しようとするのだ。

ooo.                  ろうそくの火が揺れている。ろうそくがわが身を削り炎に変えている。ろうそくの値打ちは炎にある。周囲を照らし、暖めている。人について、「ろうそくの値打ち」に当たるのは、体でなく心、それも言葉の心が生み出す言葉のことだ。ろうそくは職人によって作られた物だが、明かりは、ろうそく自身が燃えて作り出しているのだ。心は体が作り出しているものだが、言葉は言葉の心の働きである自分が生み出しているのだ。言葉の心の働きである自分には製作者はいない。自分の創造主は誰でもない、太陽のように、自分自身なのだ。

ppp.                  言葉のDNAの海から、個別の言葉の心に、言葉のDNAが、入って、それぞれの自分になる。自分が生み出す言葉は、属する体や、感覚や感情の心という古い殻をかぶっている。競争や差別の名残も持っている。そのままでは伝わりにくい。言葉は発信されると、自分という殻が取れて言葉のDNAになり、再び、みんなに共通の言葉のDNAの海に還る。

qqq.                  14年前に死んだ父が書き残した文章がある。死んで10年後に初めて読んだ。それから4年経ってまた開いた。「もうあれから4年経ちました。この間、還暦を越え、心臓の手術をし、孫も二人できました」と心の中で話してみる。父の声が聞こえる。「自分はこのとおり、言葉になったから、もう時間とは無縁だ。誰かが読んでくれた時に目覚め、閉じれば眠る。読まれるたびに言葉となって、読んでくれた人の言葉に合体したり、乗り移ったり、さらにその人が話す相手の言葉の中にも溶け込んで、この世の池の波紋のように、時空を超えて、広がっていくのだ。おまえも、体は時間に流されて老いたり、死んだりするが、言葉の心の働きである本当のおまえには、老いも死もない。思えば体のDNAの海から体が生まれ、言葉のDNAの海から自分が生まれてきたので、DNAには、自他の垣根は無いように、私とおまえにも垣根はないのだ。海の一滴には、海全体が入っている。独立した一滴など無く、一体なのだ。」

rrr.                  137億年前に、一つの点が生じた。それが拡散して、変化して、40億年前には、一つのDNAが生じた。それが拡散して、変化して、一匹の哺乳類になり、一匹のサルになり、それが拡散して、変化して、一匹の類人猿が生じた。群れの中央が山で引き裂かれ、西側の類人猿はそのままチンパンジーとなった。東側は、熱帯雨林が乾燥して平原となり、そこに居た類人猿は2足歩行や脳の発達が進んで、一人の原人が生じた。それが拡散して、変化して、一人のヒトとなって、一部が世界各地へと旅を始めた。そして今、この自分のこの体に行き着いている。感覚や感情の心で見れば、個体ごとに別々のように見える。しかし個体単位では繁殖できず、繁殖相手は人類すべてに可能性があるという意味で、種(しゅ)の一部だということになる。私の祖先は、DNAや体つきにおいて、自分とは別の誰かにもっと近いこともあるだろう。一方で、アフリカを出て今に連なる祖先達は、自分とはまったく違った言語を話していただろう。まったく違った環境で、違った情報世界に暮らしていた。体はDNAの乗物だと言うが、言葉の心の働きである自分も言葉のDNAの乗物だ。体も自分もみんな、海から雲を経て降って来た地上の水溜りのようなものだ。体にも自分にも本当の個性はない。個性は感覚や感情の心が映し出す錯覚だ。受信した言葉のDNAが自分を作り、発信した言葉が、言葉のDNAとなって先祖から蓄え続けている言葉のDNAの海に還流するのだ。

sss.                  深酒をして騒いだ翌朝、夢うつつのうちに目が覚める。ここがどこだかわからない。自分が自分である自覚も薄れている。そんな時、記憶を失った自分がいる。きっと、イヌや猫はこんな感じなのだろう。記憶のカセットをセットする。夕べの自分が今の自分につながって、我に返った気がする。自分を観察している言葉の心の働きが戻ってくる。

ttt.                  自分をカメラに例える。被写体は物そのものでなく、物が反射する光だ。感覚は被写体からの光を集めるレンズだ。感情はピントだ。言葉は、被写体の光が固定された写真だ。自分はアルバム帳だ。アルバム帳は人類共通の仕様だ。写真だけが一人一人別々だ。そして一人一人別々に自分のアルバム帳を見ている。それが世界だ。アルバム帳の外は虚無だ。アルバム帳は過去だが、開いて見ると、感覚や感情が生まれる。それが現在の現実だ。良い写真をもっと撮ろうと思う。願望が生まれる。それが未来だ。

uuu.                  体が消えたら、自分は消えてしまうのだろうか。田植えの頃の、水を満たした月夜の棚田について考えた。千枚の田の一枚一枚に月が映っている。天を見上げている人にとって月は一つだが、田の水面を見る人にとっては、見る田の数だけ月影が見える。自分のただ一枚の田しか見ない人には、その一つの月影しか存在しないように思える。空を見ない人にとっては、月影が月だと思える。天の月が人類のDNAで、田は体、水面が心で、月影が自分だ。千枚の田に映る月影はみな同じコピーでオリジナルは天にある。田の水が枯れても、つまり自分の体が死んでも、天の月に変わりはない。一枚一枚の田に映る月影は皆同じだ。この田に映る月影も、隣の田に映る月影もまったく同じだ。自分は自分だ、オリジナルだ、ユニークだ、この世に唯一のものだという思い込みは、水面や田の立場から見たこだわりだ。千枚の田のすべてに自分は居て、みんな同じ自分なのだ。例えをパソコンに代えてみよう。千台のパソコンがある。オリジナルのゲームソフトのCDで、同じソフトをインプットする。パソコンが体、ソフトが自分、CDが自分を生み出すものつまり言葉の心の働きだ。そのうちの一台が壊れたとする。その中の自分つまりソフトを、オリジナルと思うか、コピーと思うかだ。

vvv.                  体の外見は分かるし、自分の人種、性別、家族、住所や仕事や趣味はわかる。しかし自分と思っている自分は何で、体の何処にいて、どんなものなのか、何処から来て、何処に行くのかは分からない。

www.                  天空に立ち込めた水蒸気が、冷やされて結露して、一粒の水滴になる。自身を特別な一滴だと思う。自分が生じたのだ。地表に落ちる。他の水滴と合流して川となる。川は1m流れると、溶けていた物質は拡散して、自他の区別は無くなる。川の一滴として、川を作り、海を作り、いつかまた水蒸気になって、天へ戻る。

xxx.    自分の限界とは、他者が無ければ、存在しないということだ。つまり自分は虚空なのだ。言葉の心が、他者を想定して作るのが自分だ。自分は他者という鏡に映った鏡像だ。誉められたい、認められたい、愛されたい、知られたい、残したいという気持ちが捨てられないのもそのためだ。

2)自分の構造

a.    DNAの木の幹がちょっと枝を伸ばして、枝先に小さな花を咲かせる。花が枯れると散らして別の花を咲かせる。花が個別の体だ。その花の色が感覚や感情の心で、香りが言葉の心の働きつまり自分だ。色は消えてしまうが、香りは分子なので、拡散しても在り続ける。

b.    早春の山に、サクラを見に行った。枯れ草の中にスミレや名も知らぬ小さな花が咲いていた。キマダラセセリが忙しく飛び回っている。花を求めるでもなく、止まる場所を探すでもなく、あちこちせわしなく飛んでいる。きっと短い命の時間を惜しんで伴侶を捜し求めているのだろう。見つからなければあと数日で、お前になっているDNAは消えてしまう。この広い山の、未だ風が冷たい斜面で、伴侶に偶然出会えるのだろうか。しかし結果として、何千万回の春を乗り越え、出会ってきたのだ。蝶も人も、自分は自分だけで1匹だと思っている。しかし、DNAであるという観点からすれば、0.5匹なのだ。出会いの確立から言えば、種(しゅ)の全個体の一部なのだ。体と体の出会いは偶然だと思っている。しかしDNADNAの出会いは必然なのだ。

c.    体を、細胞と、細胞を生み出しているDNA分けて考えてみる。普段は分けずに、何となく全体を体だと思っている。心も3つに分けて考えてみる。神経が生み出す感覚の心、大脳辺縁系が生み出す感情の心、大脳新皮質が生み出す言葉の心。普段は分けずに、何となく全体を自分だと思っている。自分を、感覚や感情の心とは別の、言葉の心だと考えてみる。

3)自分と体の関係

a.    自分は体ではない。自分は体の道具ではない。自分は体から自由になりたい。

b.    体とは何だろう。ついさっきまで体の一部だった消化物は、体から離れた瞬間、世にもおぞましい他者となってしまう。自分の腕や足が切り落とされたとしても同じ感じで眺めることだろう。死んだら自分の体は見えないが、見えたら同じ感じがするだろう。言葉の心の働きである自分にとって、体は他者なのだ。

c.    自分とは、一人一人の体に生じている心、それも感覚や感情の心ではなく言葉の心の働きだ。それぞれの体にそれぞれの自分がいて、それぞれの自分は自身を、みんなとは違っている、唯一無二の存在だと思っている。しかし、本当は同じ液体が別べつの容器に入っているようなものだ。入れ替えても分からない。しかし言葉を個別に作るので、その結果できる世界や時間はそれぞれ違っている。体が細胞で出来ているように、自分は言葉で出来ている。体が体のDNAで作られ次世代に伝わるように、自分は言葉のDNAで作られ次世代に伝わる。

d.    君の指と僕の指は同じだ言われても、素直に認めることができる。しかし君の顔と僕の顔が同じだとは認めたくない。外国人が日本人を見ると、服装や性別年齢が同じだと、みんな同じ顔に見える。インドへ行った時、同じ体験をしたのを思い出す。君の痛いとか熱いと、僕の痛いとか熱いという感覚は同じだと言われれば、素直に認めることができる。君の悲しいとかうれしいと、僕の悲しいとかうれしいという感情は同じだと言われれば、やはり素直に認めることができる。しかし、君の自分と僕の自分が同じで、入れ替えても気がつかないだろうと言われても信じられないだろう。しかし、きっと同じなのだ。

e.     鏡に写した顔を見ても、ただ目や鼻が見えるだけ、自分は写っていない。自分が顔にいると思い込んでいた思春期の頃、鏡の顔を眺めているうち、目や鼻や口が自分であるはずが無いと気がついた。それは、他人から見た自分にすぎないと気がついた。

f.    この体は、35億歳のDNAの木が咲かせている無数の花の一輪だ。この体には、生まれつき言葉の心が宿っている。言葉の心が、言葉で自分を作っている。その言葉は、言葉のDNAの海から流れ込んでくる。言葉のDNAの海はどこにあるのか。仲間の言語や伝承、本や壁画、道具や生活の知識などの形で見えない大きな海になっていて、新しく生まれてきた言葉の心は、ここから言葉のDNAを受け容れて自分を作り、言葉のDNAの海と言葉のやり取りをして自分を育て、言葉を発信して海に返しているのだ。

g.    感覚器官が外界の変化の刺激を感知して、情報を束ねる脳に電気信号を送り、脳の言葉の心の働きの部位に言葉が生じ、言葉は自分になって、自分が言葉で世界の模型を作り、そこを実際の世界と見なして観察する。自分も世界も、物でなく、言葉だ。流れる川面で陽光がキラキラしている。川面が体で、太陽が外界の刺激で、キラキラが自分だ。

h.    天気図の台風は生き物のようだ。台風と自分は似ている。台風を生みだすのは、海水と大気を材料に太陽の熱と地球の自転のエネルギーの働きだ。自分について言えば、エネルギーが物質を作り、物質が情報つまりDNAを作り、DNAが物つまり体を作り、物である体が情報つまり言葉である自分を作っている。台風をバラバラにしても、中には何も無い。体を解剖しても、自分はどこにもいない。海や大気と台風、つまり体と心は異次元に生じているからだ。

i.    車が運転者の道具で、部品のかたまりであるように、体は自分の道具で、細胞のかたまりだと思っている。本当は体が主人で自分はその部品なのだが、自分から見れば逆さまに見える。

j.    爪や髪や歯、手足や臓器や脳の一部を失っても、自分は残る。脳の1点を針で刺すと自分は消える。眠っても自分が消える。自分は脳の働きの中にいる。でも脳とは別にいる。自分が住んでいるのは、脳の中だが、自分は脳とはまったく違う在り方をしている。脳は物、自分は情報だ。自

k.    地下鉄の座席で小説を読んでいる。熱中している間、場所や時間が消えてしまう。その間、自分は何処で何をしているのだろう。地下鉄の中で流れていた時間は、どうなってしまったのだろう。小説の場所や時間の中で、主人公になっていたのだ。体が何処にいるかと、言葉の心である自分が何処にいるかは、関係がないと分かる。

l.    体に故障が無い時は、体も自分も区別せず一体だと思っているが、傷が痛むなど体に不自由や苦痛が生じると、体と自分が分離した感じがして、体が自分とは別の存在であることがわかる。

m.    卵について考えてみる。糸くずのようなものがある。命の種はここにある。白身や黄身はそれに養分を与えている。殻は全体を守っている。本当に大切なのは糸くずなのだろう。そこにDNAがあって、無限の時間、在り続けてきたからだ。白身や黄身や殻は糸くずのための道具だ。白身や黄身や殻は試験管に代えられるからだ。心は卵のどこにあるのだろう。今は無い。糸くずがこれから作る脳が生み出すまで無いのだ。

n.    ここにビンに入ったシアノバクテリアがある。地球の最古の生命体で、生まれも死にもしないで、分裂するだけ。その命の火はそのまま今日まで燃え続けている。今地上にいる無数のシアノバクテリアは、すべてが初めて誕生した一個のオリジナルなのだ。だから今ここにある一個のシアノバクテリアが、地上のすべての生物の祖先でもあると言える。昔分かれた一個が突然変異を重ねて、ヒトになっていく。感覚や感情の心では、分岐する前の幹や根は見えず、枝の先端のDNAの差異しか見えない。言葉の心の働きである自分は、枝が別れる前にさかのぼって見ようとする。どのように違うのかではなく、どのように同じなのかを見ようとする。

o.    13世紀のチンギス・カンの男系の子孫は、21世紀の現在、1600万人にのぼる。(2004年、オクスフォード大学遺伝学研究チーム)。唐突だけれど、今君が自殺したら、8世紀後に、チンギス・カンほどではないけれど、女系も含めれば、この世に生きるべき数千万人がいなくなるという事だ。もし君が20万年前にアフリカを出発しようとしていた一人なら、責任はもっと重いだろう。もし君が35億年前に地上に生まれた1個のDNAだとすれば、まさに君は神にふさわしいだろう。そして実際君はその一個のDNAだったのだ。君は、自分はちっぽけな一人だと思っているかもしれないが、無数の人間の運命を握る神なのだ。実際、子孫達にとっては、君が父母や祖父母を敬愛するのと同じように、君は神なのだ。夜空に広がる天体や、深山幽谷を見ていると、そのすばらしさに心打たれる。それに較べて我が身がちっぽけに思えてしまう。それは正しいのだろうか。物質のまま止まっているそれらの物と、比較するのもおかしいが、自分の方がもっと神秘的で雄大だ。月や星より、この自分のほうが奇跡だ。さらに言えば、そうやって見えている物達のすべては、自分の脳が作り出している情報なのだ。自分が見なければそれらは存在できないのだ。自分がこの宇宙や風景を作り出しているのだ。そんな自分がちっぽけであるはずがない。不遜な意味でなく、自分は神なのだ。

p.    先祖がどうの、子孫がどうのというが、それは体のことだ。しかし本当は、体には子孫や親戚や他人は無く、みんな一つの体のDNAの海から生じた兄弟なのだ。同じ一本の木に咲く、去年の花と、今年の花と、来年の花なのだ。自分は言葉の心の働きだ。自分が発した言葉には、体のような自他の区別は無く、同じ言葉のDNA海の一滴なのだ。

q.    人類の進化の物語を見た。恐竜時代、祖先である哺乳類が恐竜に食われ、現在、ヒトに食べられているチキンは、肉食恐竜の子孫だと知って、変な感じがした。祖先や子孫とは何なのだろう。

r.    自分は言葉の心の働きで、自分がいるのは、言葉の世界だ。体は自分の外にある感じだ。勿論DNAなどは感知すら不可能だ。

s.    この体が生まれてきたのは、偶然の成り行きによるものだ。しかしこの言葉の心の働きである自分が居るのは偶然ではない。この自分は、体が生まれた後に自力で育った必然的なものだからだ。

t.    心は、体の死とともに消える。体は体のDNAの海に繰返し咲く花だ。今年の花の心と去年の花の心、それが生まれ変わりかどうかは、花の幻想にすぎなくて、幹にとってはどうでも良いことだ。

u.    先祖や子孫とつながっていたいと望む。その象徴が姓だ。戸籍制度では、女は結婚して姓が変わる。その娘もまた姓が変わる。二つの命が一つの命を生むが、姓は一つしか残らない。DNAについて考えた。別々のDNAが半分ずつ出し合って、新しい一つのDNAになることは、どちらかが消えることではないし、どちらかが残ることでもない。海水のようで、部分部分を区別することが無意味なのだ。体は、DNAの海の小波なのだ。小波と小波が出会って生じた小波なのだ。他の小波と出会い、新しい小波を生じて消える小波なのだ。小波といっても海そのものなのだ。

4)自分と心との関係

5)自分と感覚や感情の心との関係

a.    歳をとっても、感覚や感情の心は子供と同じだ。感覚や感情の心はバッタのように、完成して生まれてくるのだから。

6)自分が言葉の心の働きであることを言葉にして明らかにする

a.    体は生まれてしまえば他者と一つになる事はできないが、言葉は出会えば一つになるように出来ている。自分を言葉の心の働きだと考えれば、自他の差別も競争も消える。

b.    ニワトリのことを、3歩歩くとみんな忘れてしまうと言って笑う。ニワトリは、感覚や感情の心だけで、言葉の心がないのでそうなのだろう。ヒトだって、興味がない事は、見えても、聞こえても、触れても、匂っても、次の瞬間に忘れてしまう。言葉にしなければ何も残らない。今日、中央高速道路を走っていて、笹子トンネルに入った瞬間、10年位前に出張でよくここを通ったことを思い出した。思い出したのはその時に浮かんだ言葉で、その時の感覚や感情ではなかった。自分はこんなことをしていて将来どうなるのだろうと思った事は思い出したが、その時の感覚や感情は跡形もない。その時の自分と、今の自分が共有できるのは、その時々の感覚や感情でなく、その時々に生み出した言葉だけなのだ。そういう意味で、一生一つにつながっている自分とは、言葉のことなのだとわかる。興味を持って言葉にしなければ自分も生じない。自分つまり記憶も残らない。

c.    自分という意識は言葉の心が作っている。DNAや細胞、感覚や感情の心には自分という意識は無い。自分は言葉の心の働きが作り出している言葉なのだ。

d.    体や、感覚や感情の心が壊れても、自分は自分のままだが、言葉の心が壊れると、自分は自分でなくなる。古い日記や手紙を見ると昔の自分がいるが、写真は自分を写せない。古い写真に写る幼い体や顔は、昔の自分のそれだと分かるが、今の自分と同じ自分がそこにいるとは思えない。

e.    自分は、言葉が湧き上がって来る都度生じる。自分は、その時々の細切れの言葉だが、言葉の心の働きによってつなげている。振り返って思う一貫した自分は、言葉の心の働きが見せる言葉の連続フィルムだ。

f.    自分は体でもDNAでも、細胞でも器官でもなく、さらに言えば、感覚や感情の心でもなく、言葉を作り出している言葉の心の働きなのだ。

g.    感覚や感情の心でいる時には自分は存在していない。自分は体でもなく、感覚や感情の心でもない。自分は、体のようにいつもいるのではなく、心それも言葉の心が働いている時にだけにいるのだ。

h.    自分は体でなく、言葉の心の働きだ。言葉の心の働きが生み出す仮想の体だ。感覚や感情の心が映し出す現在の現実は、新しい刺激を受ける度に生じては消えてしまうが、言葉の心が作り出す言葉である記憶の過去や願望の未来は、消えない。確固たる自分を維持できるのだ。

i.    トンボが窓枠に止まって大きな目でこちらを見ている。ハエや蟻の視線ですら気になる。ヒトは生まれながらに、他者の関心を引くこと、他者の心の世界に取り込まれることが恐ろしいのだろう。自分は心だから、他者の体より他者の心を恐れる。物より生物、生物でも同類の方が恐ろしい。自分の体内に入って自分自身になってしまう病原菌やがん細胞が恐ろしい。放射能や幽霊は心と同じ、見えないのでもっと恐ろしい。より恐ろしいとは、より自分に近いということだ。避けたり遠ざけたりできない、つまり差別できない近さだということだ。言葉となれば、恐ろしさを通り越して、取込まれてしまうのだ。

j.    子供の頃、教科書やカバンやノート、鉛筆にまで名前を書いてもらった。名前を書いてもらうととてもうれしかった。中学生になって、テストの結果に順番を付けた名前が張り出されたら誇らしかった。最高の快感だった。言葉の心の働きである自分が、自分の存在を認めてもらえて、喜んだのだろう。

k.    正月、中国の貧しい農家の門口に、赤い紙に墨で、福とか春とかめでたい文字を書いて逆さまに貼ってある。日本の門松や注連縄も文字の一種だ。目で見たり触れる実物より、抽象的な文字の方が存在感が深いのは、自分も言葉で出来ているからだ。感覚や感情に映る現在の現実は、言葉の心の働きである自分には、虚無なのだ。

l.    大自然の雄大な懐に入ると感動するが不安にもなる。満天の星空を見上げていてもそうだ。そんな時、ちっぽけな紙片が落ちていて、拾って開いて広告などのつまらない言葉でも読んだとする。心は休まるだろう。自分と同じ次元にあるもののみが、安らぎをくれるのだ。

m.    実の母親でも、痴呆で言葉を失うと、遠い存在になってしまう。会ったことも無い他人でも、とっくに死んだ故人でも、言葉になっていると、スッと心に入って親しい感じがする。自分は言葉の心の働きだという証拠だ。

n.    ここから逃れたいと思うことがある。体をどこか違う場所に逃すイメージだ。自分を体だと思っているのだ。本当の自分は言葉の心の働きつまり情報だ。求めているのは体の自由のことでなく、言葉の心の働きである自分の、体や、感覚や感情の心の制約からの自由だ。感覚や感情の心から逃れたいのだ。自分を言葉の心の働きだと言葉にして明らかにすれば、そのままで自分を救うことができる。

o.    言葉の心の働きである自分の免疫力が弱い人は、宗教団体や洗脳者に、自分を乗っ取られやすい。

p.    自分は体から生じているが体ではない。自分は、感覚や感情の心でなく、言葉の心の働きだ。自分を体だと思い込むと、体に生じる生老病死に、自分が苦しめられることになる。自分を感覚や感情の心だと思い込むと、感覚や感情の心に生じる興奮である喜怒哀楽に、自分が苦しめられることになる。自分は言葉の心の働きで、体とは異次元の現象なのだと言葉にして明らかにする。言葉の心の働きである自分が、体に生じる現象である生老病死や感覚や感情の心に生じる喜怒哀楽に右往左往することは錯覚だと言葉で明らかにする。

q.    自分は言葉の心の働きで、体の生死とは異次元にいる。それなのに死を恐れるのは、自分を体だと錯覚して、感情の心に揺さぶられているのだ。自分が、体や、感覚や感情の心だとしたら、言葉である未来の死など見えないから、恐れもしない。自分が言葉の心の働きだからこそ、言葉である死が見え、恐れてしまう。

r.    自分を言葉の心の働きだと言葉にして明らかにする。自分は、体ではなく心、それも感覚や感情の心でなく言葉の心の働きだと言葉で明らかにして、言葉の心の働きの立場から、生老病死を考えるようにする。体に生じる生老病死や、感覚や感情の心に生じる苦難や苦悩を冷静に受け入れられる言葉の心の働きつまり自分を作る。

s.    生きようとする方策のことを考える。「生きようとする」とは願望の言葉だから、必然的に目標とセットで生じる。歳をとって「生きようとする」先にあるはずの目標が見えにくくなってくる。自分は心なのだと気がついて、体と距離を置くといい。自分を体だと思い込んでいると、いつまでも体として「生きていること」にこだわることになる。体の老いに負けることになる。自分を感覚や感情の心だと思い込んでいると、思考というブレーキが無いので、断崖まで暴走することになる。

t.    自分は体でなく心だと知る。自分は感覚や感情の心ではなく言葉の心だと知る。

u.    言葉の心で交流があった人が死ぬ。体としては、元々別々に生きていたので、何も変わらない。体に会えないだけで、それも言葉の心の働きである自分にとってはどうでも良いことだ。体の死を知らされても何も変わらない。会ったり、話した記憶はそのままだ。写真に写っている大木が、今まだ生えているか否かは、写真には関係はない。自分もその人も情報で、体は物で、体の生死とは異次元の現象なのだ。

v.    自分は、自分を見つめている言葉の心の働きだ。そのことが分からないので、他者に見られていると恐れたり、他者に見て欲しいと思う。それは自分の幻影としての他者だ。本当は自分で自分を見ているのだ。それで十分なのだ。他者をだませても自分はだませない。他者は嘘で笑わせたり、感動させられても、自分を笑わせたり感動させたりできない。

w.    自分を言葉の心だと思うと、自分は個性的で、他者とは違う、この世で唯一の何かでありたいと思う。自分を感覚や感情の心だと思うと、皆と同じでいたいと思う。感覚や感情の心には、本当の自分など無いからだ。

x.    自分について考え、あたかも他者のように観察しているのは、大脳新皮質の働きである言葉の心だ。そんな言葉の心の働きが自分の正体だ。現在の現実の中で、何も考えずに、癒しを求めてさ迷っているのは、自分ではなく、感覚や感情の心だ。言葉の心が生み出している本当の自分は、言葉で作った記憶の過去や願望の未来にいる。感覚や感情の心は現在の現実を映し出し、本当の自分は過去や未来を生み出している。

y.    渡り鳥にも言葉の心はあるのか、考えた。昔、ヒトはアフリカ東部の生まれ故郷にいた。ある時数百人のグループが移動を始め、結果地球全体に広がった。ヒトの場合は渡りでなく一方通行だ。渡り鳥の祖先たちも、始めは故郷にいた。ある時数百羽のグループが移動を始めた。人と違うのは毎年季節が変わると戻る点だ。行き来する道筋は本能だと片付けているが、本当は前の渡りに参加した個体に残る記憶つまり言葉が導くのだろう。今年生まれた若鳥はそれを経験という言葉によって引き次ぐのだろう。そうして何万年もの間、言葉のDNAに導かれて、子孫達は渡りを続けているのだろう。人となんら変わりが無いのだ。

z.    ここに観葉植物の鉢植えがある。原産地はアマゾンの昼なお暗い密林だ。我が家に来てから40年経って、今年もまた新しい葉が生えてきた。木とは何だろう。それは自分とは何だろうという疑問にも通じる。この木は30年前に天井に届いたので、根だけ残して根元からのこぎりで切ったが、その後すぐに代わりの幹が生えてきた。幹だけを残しても生えてはこないはずだ。ということは、この木の正体は根だということなのか。しかし、根だけ残して切り続ければ、この木はもう生えてこなくなる。葉についても同じことが言える。私が用いる言葉が、根や幹や葉を別々に切り離して考えるように出来ているだけで、木の正体は、本当は全部で一つなのだろう。これは自分についても同じことだ。しかし、自分は言葉の心の働きなので、自分をバラバラの言葉に分けてみなければ、理解できない。わからなければ、どう生きればよいのかも分からない。これは、自分が言葉の心の働きである宿命なのだ。

aa.動物のように、感覚や感情の心のまま、現在の現実つまり今だけの世界に生きていると虚しくてたまらなくなる。ボーッとして、感覚や感情に浸っている時もある。快感はあるが、それだけだ。泡のように湧いては消える感覚や感情を言葉にして、自分や世界や時間を作る。過去や未来を作る。風景を言葉や絵にする。感覚や感情からの情報を言葉にすることで、言葉の心で自分や世界をしっかり構築して、生きようとする気力を強めることができる。

bb.香木そのものが香りではないように、体そのものは心ではない。香りそのものが残り香でないように、心そのものが自分ではない。感覚や感情の心は自分ではない。言葉の心の働きが自分なのだ。

7)自分と虚無の関係

a.    虚無や未知のことを思う。感覚や感情の心には、恐怖の感情が湧き、身を守る為の攻撃や逃走への衝動が生じる。悪運や災難、不幸やタタリだ。未来に救いを求める働きはないので、現在の現実の中で、神仏や呪い、攻撃や逃走に頼るしかない。言葉の心は、虚無や未知を言葉にして明らかにし、自分や世界や時間に組み込み、新たな願望の未来を作り、実現しようとする。恐怖心はなく、好奇心、探究心が湧く。

b.    虚無や未知を言葉にすると、そこに自分が生じる。虚無や未知を言葉にして明らかにすることとは、自分を言葉にして明らかにすることだ。虚無の暗闇を消す光は言葉の心だ。自分とは虚無が言葉の心に照らされて言葉に変わったものだ。言葉の心とは、虚無の暗闇を照らして自分に変える光なのだ。見えているのは照らす光の反射で、暗闇ではない。見えているのは言葉であって、虚無ではない。見えているのは自分であって、外界ではない。虚無とは言葉の外、つまり自分以外のことなのだ。死は虚無への入り口だと思っているが、死は体や心の終わりであって、言葉の心である自分は、発した言葉になって、いつまでも光り続けるのだ。

c.    未知を言葉にすることで虚無への恐れの呪縛から解かれる。未知を言葉にすることつまり明らめることは、即ち虚無への恐れからの自由を得ることになる。

8)自分と言葉の関係

a.    自分を観察していて、良否や善悪を判定している誰かがいる。その誰かに誉められたいという感情がある。それを良心とか世間、神仏という。本当は言葉の心の働きである自分自身だ。感覚や感情の心に囚われている時は見えない。言葉の心の働きである自分が生じている時に見える。この良心とか神仏という自分自身に誉められることが満足つまり救いだ。

b.    自分は言葉を作るために生まれてきたのだ。言葉を作ることは、草木で言えば、実をつけることだ。言葉の種は祖父母や両親、先生や友達、本やテレビからもらった。言葉をくれた祖父母や両親、先生や友達は、言葉になって、いつまでも君と一緒にいるのだ。お父さんやお母さんが君にしてくれたように、同じことをみんなにもしてやろう。君の言葉をみんなの心に移そう。

c.    DNAが体を作り、体が感覚を作り、感覚が感情となり、感情が言葉となり、言葉が自分となる。自分が世界や時間になる。DNAは物と情報の中間で、体も物と情報の中間で、心つまり感覚や感情や言葉は情報だ。自分はDNAだ、自分は体だ、そう思っても、そう考えているのは言葉の心の働きである自分なのだ。自分のすべては言葉なのだ。

d.    ねずみのような原始哺乳類がお前の先祖だといわれても、そして豚や鯨も祖先が一緒という意味で兄弟だといわれても、困惑するばかりだ。自分を体だと思うと、わけがわからなくなる。お前が使っているこの体は、お父さんが使っていた時は大男で、お婆さんが使っていた時は女で、ずっとずっと昔の祖先が使っていたときはアフリカの黒人で、そのさらにずっと前の祖先は原人で、ネズミやトカゲ、カエルや魚、ばい菌やウィルス、有機物や水素分子、エネルギーだったことになる。自分は今のこの体に生じている言葉の心の働きで、DNAや体とは次元の異なる、大脳新皮質の働きが生み出す情報だ。DNAが生み出す体は、言葉の心の働きである自分にとっては、ただの道具なのだ。自分を言葉の心の働きだと知れば、祖先の原人も他人も父母や祖父母も、入れ物は別々だが、言葉の心の働きとしては同じで、水や空気のように自他の境のない、溶け合ってしまう一つのものだとわかる。

e.    自分は何か。信号だ。信号は物ではない、エネルギーでもない。物理的に表現できるものではない。たとえば、狼煙で信号を送っているとする。野火や炊事の煙と同じ煙だが、異次元のものだ。受け手の脳の中で解釈されて生じる。点滅などの変化が受け手の感覚器官に知覚されてもまだ生じない。感情を通り、言葉になって初めて生じる意味なのだ。

f.    眠ると自分は消える。目覚めると自分は生れる。眠る直前の自分のことを言葉として思い出し、起きている今の自分を言葉で作る。つまり、自分は継続して存在しているものでなく、瞬間ごとに点として生じているのだ。点というのは言葉のこと、つまり言葉が生まれるたびに自分が生じる。言葉の点滅とともに自分も点滅している。自分は言葉なのだ。目覚めると言葉とともに自分は生まれ、眠ると消える。宇宙が生まれて137億年間、自分はいなかった。数百万年前に言葉を操る人類が言葉のDNAの蓄積を始め、今、この体にも流れ込み、この自分を生じている。自分は言葉を日々発信している。発信した言葉は言葉のDNAの海に注ぐ。体が、体のDNAの船であるように、自分は、言葉のDNAの船で、そのものとして在るものではない。

9)自分の範囲

a.    自他とは

ア.自分とは何だろう。記憶している言葉だとする。朝目が覚める。昨夜に置き忘れてきた自分を取り戻したいと思う。記憶が戻ってやっと自分になった感じだ。それなら、何らかの方法で記憶を全く同じにした二人は、同じ自分なのだろうか。きっと互いに別人格だと認識するだろう。互いに見えるのは互いの体だけだ。記憶が同じかどうか互いに知る由もない。細胞の免疫のように、体が別々ということで、自他の差別のセンサーつまり心の免疫反応に引っかかる。同じ記憶の状態から出発しても、次の瞬間、互いに別の記憶を作り始める。

イ.自分と他者の境界を守る。細胞レベルでは細胞膜や免疫抗体反応だ。体全体としても、近づかれたり、触られたり、見られたりすると、警戒心が生じる。細胞の境界はDNAが免疫で守っている。体の外と内の境界は感覚や感情の心が守っている。言葉の心には、自他も境界も無い。

b.    個性とは

ア.体や心は一人一人別々にあるが、それを生み出しているDNAは、人類共通のDNAの海から汲み上げられた同じものだ。ちょっとした組み合わせの違いも、次世代では混ぜられて消えてしまう。だからDNAが生み出す体や心には個性は無い。個性は言葉の心が生み出す言葉にある。言葉の心の働きである自分は、体のDNAでなく言葉のDNAで個性を作られ、伝えられていくのだ。

イ.子といっても、自分を作っていたDNAの遺伝子の2分の1を引き継いでいるが、遺伝子の一つ一つには自分や他者という区別が無い。人類共通だ。それ以前に、自分は体ではないし、自分の源は、言葉のDNAの海で、体のDNAの海ではないのだ。

ウ.DNAと自分の関係は、呼吸する空気と自分の関係と同じだ。空気はみんなで共有しているもので、自分を通り抜けたからといって自分だけの空気になったわけではない。

エ.進化の系統樹というのがある。生物を体だと思えば、DNAの幹は見えず、クリスマスツリーの飾りのように、枝の先端の体がバラバラに光っているだけが見える。この木は、一個の巨大な、しかし見えないアメーバで、個々の個体はそこから伸びた無数の突起の一つなのだ。突起には寿命があって、新陳代謝をしている。突起には心があって、自分をアメーバから独立した個体なのだと思っている。

オ.言葉の心の働きである自分は、未来の体を守るために進化した脳の働きだ。未来の体が目的で、言葉の心の働きである自分はそのための手段だ。体はDNAが生み出した使い捨ての装置だし、言葉の心の働きである自分は体が生み出した道具だ。体も自分も、自身を目的として生じたものでなく、他の目的のための手段として作り出されたものだ。DNAの働きが消えれば体も消える。体の働きが消えれば心も消える。しかし自分は言葉になって発信され、言葉のDNAの海に戻り、在り続ける。

カ.感覚や感情の心が言葉の心に勝っていた幼い頃は、みんなと同じでなければ嫌だった。着る物や体つきや、もろもろの個性が、コンプレックスになった。言葉の心が育ってくると、皆と同じでは嫌になる。個性を無理やり作ろうとした。反抗的な気分だった。老人になって、一生を振り返る。自分が自分について思い出せるのは、個性つまり言葉の記憶しかないことに気がついた。

c.    自分の一貫性とは

ア.自分が自分であり続けられるのは、瞬間で変わってしまう感覚や感情の心を、言葉の心が言葉に固定して記憶するからだ。一方で、願望の未来や記憶の過去を作り出し、感覚や感情の心が映し出す現在の現実と連結するからだ。

イ.疲れて、飽きて、見通しを失い、絶望して投げ出して、眠り込んだ。言葉の心が力を失い、感覚や感情の心が求める癒しに負けたのだ。翌朝起きると、モリモリやる気とアイデアが湧いて喜喜として取り組んでいる自分がいる。言葉の心の働きである自分が回復したのだ。自分とは、毎朝目覚めるたびに、新しい情報が入るたびに、思考するたびによみがえる言葉の心の働きなのだ。

ウ.感覚や感情は脳の一瞬の興奮にすぎない。言葉の心は言葉をつなげて、一貫した自分を維持している。昨日の自分と今日の自分、さっきの自分と今の自分を、言葉の心がつなげている。

エ.夜中に眼が覚める。真っ暗だ。不安に襲われる。最初に考えるのは、ここはどこだろうということだ。次に「自分は誰」、「何をしていたのだろう」と思う。そうか自分は眠っていたのだと思って、眠る前の記憶とつながって、自分を取り戻せたような気分になって、やっと安心する。眠っている間、自分は消える、死んだのと同じになる。

10)                自分のものにするということ

a.    所有するとはどういうことか、失うとはどういうことか、言葉にして明らかにする

ア.物を保存しようとする性質が、ヒトの活動の基本になっている。保存するというのは未来という時間を作ることだ。昆虫や鳥や動物にも広く観察される。昆虫や鳥や動物のそれは特定な限定された本能の働きだ。人においては言葉の心の働きだ。不特定の、無限定の、言葉の心という底なしの胃袋、未来に貯め込もうとする働きだ。

イ.アフリカ大陸の先端の東部にナミブという名前の砂漠があって、そこにしかいないヤモリやモグラやゴミ虫モドキを紹介するTVを見た。見てしまうとそれまで虚無だったその砂漠の名前が脳に焼き付いて、一度行ってみたくなった。脳に言葉で焼きつくことが所有の原点だ。知って名前をつけることが、自分の世界の一部にする、つまり所有するということだ。しかし感覚の心はそれだけでは満足しない。感覚の心は、五感で見たり、食べたり、触れたりしなければ所有した感じがしない。感情の心は愛憎の対象にして、独占したり破壊してしまいたい気持ちになる。独占も破壊も所有の一形態だ。コロンブスがアメリカ大陸を発見して、ヨーロッパ人が名前を知った時、ヨーロッパ人はアメリカ大陸を所有したのだ。さらに感覚や感情の心が征服という所有を求め、侵略を始めたのだ。

ウ.ブータンシボリアゲハ。ブータンの国蝶。1933年にイギリス人により発見採取され大英博物館に収蔵された。以後確認されていなかった。今年日本の愛好家が撮影に成功した。蝶を所有するとはどういうことを言うのだろう。捕まえて殺し、展翅して箱に収めて、コレクションに加える。見る。写真に写す。触る。蝶の存在や姿や生態を話で聞く。誰よりも早く発見して名前をつけて、愛好会や学会に登録する。

エ.世界を手に入れたいと願う気持ちがある。その時、何を世界と考えているのだろう。世界は見えるすべての物や場所というより、知っている言葉のすべてだ。世界は知れば知るほどひろがっていく。コップに湖を入れるように、自分にはすべては入りきらないことに気がつく。量でなく質を求める場合もある。世界で一番良いものを、誰がどんな基準で一番を決めるのか分からないまま求める。家臣や商人がもっと良い物と称して際限なく売り込んでくる。自分の欲望も深くなってくる。新しい一番が際限なく登場する。一番良いものなど幻想であったことに気がつく。コップとは容器でなく自分の命で、その中身は生まれてから死ぬまで、増やしたり減らしたり、奪ったり、奪われたりしないものだと気がついて、コップにあるだけで満足と思えるようになる。コップの中にあるものが、世界のすべてで、世界一だと思えるようになる。世界は一人に一つずつ別々にあって、個々の命の時計に合わせて別々の次元に、島宇宙のように浮かんでいるから、互いを比較する事は、無意味だ。世界一とは自分のコップの中で、自分がする位置づけだったことに気がつく。妻や子、自分のコップの中のものはすべて世界一なのだと気がつく。コップに入れられるのは自分の言葉だけだったと気がつく。

オ.TVで秦の始皇帝の地下陵墓を見た。8千を超える素焼きの兵馬、黄泉の国の軍団、150m四方の中国大陸の模型、水銀で満たされた黄河と揚子江、海がある。死後も支配する世界を維持しようとしたのだ。そのために、世界を、地下に、模型で、仮想空間として作り直したのだ。人が言葉で仮想世界を作り、暮らしているのと同じことをしている。ただし言葉でなく、泥や金属で、たった一つの死体のために作っている点が異なっている。明の乾隆帝が宝を集め、鑑賞する為の小部屋を満たしていた。本人の死後、すべては虚しい。自分は言葉の心の働きだから、所有できるのも、残せるのも言葉だけだ。物は言葉ではないという意味で虚無だ。物しか残せなかった人も虚無だったということになる。遺物や墓は、その人の思考が虚無から出られなかったことを示すものだ。

カ.所有したいとは、自分が言葉で作っている自分や世界や時間のすべてに対して抱く、自他を差別し、他者を排除して、独占したい、思うままにしたいという感情だ。捕らえたり、壊したり、飲み込んだり、手に持ったり、他者を排除たりは、所有の一形態に過ぎない。所有する自分は、言葉の心の働きつまり情報だから、体を使って捕らえたり、壊したり、飲み込んだり、手に持ったり、他者を排除したりは、自分を体だと思うことによる幻想に過ぎない。

キ.星が見える。ヒトは星を言葉にすることができる。動物は星を言葉にできない。言葉にすると、見るだけでは物足りなくなる。手に入れたくなる。自分を体だと思い込んでいると、体を使って捕らえたり、壊したり、飲み込んだり、手に持ったり、他者から隔離したくなる。本当は、自分は言葉の心の働きで、言葉にする以上の何もできない。既に、言葉にした段階で自分のものになっていることに、気がつけば良い。

ク.自分は言葉の心の働きだ。世界と自分の本当の関係を知り、虚無や未知を言葉にして、自分の一部にする働きだ。

ケ.脳細胞の組み合わせが蓄積できる言葉の数は、宇宙と同様に無限大だ。脳内に外界のすべてを言葉として取り込み、仮想の、つまり言葉の世界を作る。それが世界を本当に自分のものにするということだ。

コ.失うとは、「自分がそれに乗り移っていたのに」という思い込みが生む感情。動物には自分がないので、失うという感情も無い。獲物を食べているライオンが満腹になって、ハイエナが獲物を持ち去っても、盗られた、失ったという気持ちにはならないだろう。用が無くなった獲物に、未だ自分が乗り移ったままだと、未練が生じる。用とともに乗り移っていた自分が無くなれば、未練は起こらない。自分が乗り移っていた体に、用がなくなったのだと思えば、死んだ体に未練は生じない。

サ.香木を焚く。香りが部屋に満ちる。香りが徐々に薄れてく。自分が香木を所有していると思っていたとする。香木が失われたと思うだろう。少し広い気持ちになれば、香りの楽しみを得たと思うだろう。もっと広い気持ちになれば、香木は、誰のものでもない香りになって地球に戻っていった、香木も自分も地球のものだったのだと気がつくだろう。自分を体や、感覚や感情の心だと錯覚しているうちは、所有したい、独占したい、手放したくないという気持ちが強く働き、失った、奪われた、無くしたという気持ちにも囚われる。

シ.体の命が有限だと気づき、自分は物でなく情報で、物とは異次元の存在だと気づくと、現在の現実における、自分への執着が薄れ、所有や喪失の感情から自由になれる。

ス.盆栽がこんなことを言った。沢山の人が、僕を所有し、愛して、去って行った。僕を手に入れて、一緒に過ごし、喜びの時とともに去って行った。沢山の欲望が通りすぎて行った。人間には、僕を所有することはできない。今日死ぬ患者が、明日の市況を嬉々として語るのを聞く医師の気持ち。自分が飼主だと思いこんでいる犬をいたわる飼い主の気持ち。盆栽の側から見ると、そんな感じだ。

b.    体が所有できるもの

ア.飲み込めるもの。持ち運びできるもの。独占できるもの。

イ.言葉の心の働きである自分が自分のものにできるのは、物ではなく、言葉だ。言葉は外にあるのでなく、自分の中に湧いて来る。つまり自分のものにするというのは、対象をどうにかするのでなく、自分の心をどうにかすることだ。言葉の心の働きである自分は、鏡のようなものだ。鏡が自分のものにするというのは、対象をどうにかすることでなく、対象を鏡像にして自分の中に写す事だ。

ウ.自分が脳の中に世界を作っているというか、その世界そのものが自分なのだ。自分は言葉の心の働きだ。脳は言葉の心の働きである自分を生み出している生物コンピューターだ。さらにその脳が情報を受発信する周辺機器としての体や器官がある。さらに、多種の装置やネットワークを接続して、体の能力を拡大している。自動車は手足、電話は耳、監視装置は目だ。どこまでが自分なのか、どこまで広げれば気が済むのか、わからなくなっている。

c.    感覚の心が所有できるもの

ア.感知した外界の一瞬の変化の信号。

d.    感情の心が所有できるもの

ア.感覚から生じた一瞬の利害損得の信号。

e.    言葉の心が所有できるもの

ア.所有する主体は言葉の心の働きである自分だ。

イ.都会より田舎の方が心休まるのはなぜだろう。自然が多く、空気もおいしい。欲望を刺激せずに癒しを与えてくれるものが多いからだ。集落や田畑や山や林には所有者はいるが、そこから提供される良い景色やおいしい空気は、誰のものでもない。美術品と同じだ。海や川はみんなの物だ。野草や野鳥、雲や太陽や月や星は、誰も自分のものにしようとすら思わない。誰のものでもない物、場所。持ち主がいないだけでなく、誰も所有することが出来ないもの。つまり言葉の心の働きである自分が自分という殻から自由になれる場所だ。都会ではすべてが誰かの物で、他者の自分で作られたバベルの塔だ。

ウ.自分とは何か考えた。自分は物でなく心、それも言葉の心の働きで、物とは別の次元に存在している。情報である水面の月は、情報つまり言葉の心の働きである自分にはつかめるが、物である手で掴む事はできない。手と月影は異次元だからだ。言葉の心の働きである自分が掴んでいるのは情報つまり言葉としての月で、物としての月ではない。言葉の心の働きである自分は、本当は何も所有していない、所有できない。所有するというのは自分を体だと錯覚し、自分が物の次元にあると錯覚し、自分が物を掴めると錯覚しているだけなのだ。さらに言えば、言葉の心の働きである自分は、未熟なうちは自分という容器が在ると錯覚し、自分のものという状態が存在していると錯覚しているのだ。

エ.骨董品が教えてくれること。たくさんの人が自分の物だと思い込んでは手放し、転々としてここに来たことを教えてくれる。作者であった人も、所有者であった多くの人も、はかなく消えて、人は体においても、心においても、物を所有する事が不可能であることを教えてくれる。

オ.山で清楚な白い花が気に入る。持ち帰りたくなる。自分のものにしたいという感情が湧く。花を持ち帰って、庭に植え込み、独占したくなる。自分を体だと錯覚し、他者と、競争し、排除しあって暮らしていると思っていると、花も独占しないと、自分のものになった気がしないのだ。自分を体だと思えば、食物を食べて飲み込むように、花を飲み込んでしまいたくなる。自分が言葉の心の働きだと分かれば、花に名前をつければそれで花は自分のものになる。しかし、自分を体だと思い、外界を物だと思い込んで、食べたり飲んだりするように独占しようとしてしまう。胃袋を外界に広げるような姿だ。所有とは、仮想の体となった自分の、仮想の体となった他者への、仮想の攻撃だ。元来独占できない情報のやり取りに、物を仮想して、奪い合いをしている。そうやって見えている世界は、自分を体だと思い、外界を物だと思い込む、感覚や感情の心の錯覚が見せる幻想だ。

カ.感覚や感情の心に映る現在の現実を言葉にして、自分や世界や時間を作り、言葉の心の働きである自分の一部にする。言葉で作った記憶や願望により、過去や未来を手に入れる。自分の一部になる。

キ.言葉を受信して、自分の一部にする。

11)                自分が変わる

a.    平和という状態があるのでなく、争いが無いという状態があるのだ。争いは一人一人の心の問題だ。争いはヒトがヒトである限り、感覚や感情の心の競争差別の情動に左右される限り、あり続ける。言葉の心を強めて、感覚や感情の心の競争差別の情動に左右され難くする。他人や外界を変えようとするのでなく、自分を変えようとするようにする。他人から何かを得ようとしなくなる。そうすれば自然に平和になる。

b.    病気や災害に対する科学や医学は発展した。人類共通の敵には協力して立ち向かえる。貧困や戦争など相互の関係から生じる、自分たち自身である敵には、協力して立ち向かえない。外の虫は殺せるが、体の中の虫にはお手上げだ。

c.    他人や世界を変えるというが、他人から見れば、この自分こそが変えるべき他人で世界そのものだから、他人や世界を変えるというのは、自分が変わるという意味になる。さらに言えば、他人を変えることは不可能だが、自分を変えることは可能だ。

d.    他人を変えたいというのは、感覚や感情の心に生じる差別的、攻撃的な情動だが、自分が変わろうというのは、言葉の心が生み出す言葉、救いだ。体を変えるのには数百万年かかる。感覚や感情の心も体とともにあるから、変えるのに数百万年かかる。自分を変えるとは言葉の心になって、言葉を変えようとすることだ。ペンは剣より強しというが、それは、他者を変える武器としてではなく、自分を変える言葉としてということだ。自分が変われば、世界も変わる。

e.    感覚や感情の心を煽る癒しの言葉でなく、感覚や感情の心を鎮める救いの言葉を語るようにする。それが、他人も自分も楽にさせる。どちらを使うかで、自分の心も変わるし、他人の自分への態度も変わり、ひいては自他の運命も変えることになる。

12)                競争や差別は、感覚や感情の心が見ている夢だと知る

a.    ヒトが互いに競い争う、体対体、感覚や感情の心対感覚や感情の心という関係から、一つの体に属する細胞のように、共生の関係になるには、感覚や感情の心優勢から言葉の心優勢に進化しなければならない。

b.    一本の木がありました。一年中、葉や花や実をつけて、採っても採っても減りません。この木には、日陰をもらったり、隠れ家をもらったり、育児室を借りたり、雨宿りしたり、葉や実を食べたり、花の蜜や樹液を飲んだりする、たくさんの生き物が、争わず、平和に暮らしていました。その秘訣は、昼と夜別々に来ること。葉だけ、実だけ、蜜だけ、樹液だけというように、食べる部分を変えること。根や幹や葉のように、住んだり休む場所が違うこと、秋に渡ってきて冬だけ過ごして遠くの国へ行ってしまったり、春に生まれ、夏を過ごし、秋には卵になって冬眠するように、活動の季節が違うことでした。平和共存するためには、それぞれが個性を持つことが大切なだと教えてくれます。

c.    平和は、癒しを求める感覚や感情の心では実現できない。癒しを我慢する言葉の心の力が必要だ。野生の王国におけるライオンの自由のような、強者が勝つことの自由ではなく、増えすぎた人口という環境で、感覚や感情の心が持つ不完全さによって、共存共栄を妨げたり、傷つけあうことを防ぐということだ。みんなが欲望を抱えたまま、分け前を均等にしようとしても無理だ。ライオンが肉食のまま、平原の動物と仲良くしようとするのと同じだ。

d.    自分を弱いと思っている木は、森の中に生えようとする。みんなと一緒で安心な感じがする。しかし、森の中では、生きるスペースも限られ、差し込む光も奪い合わねばならない。自分を弱いと思っている木は、自分と同じ弱虫の群れの中で、イワシみたいに仲間を押し分け、盾にして自分だけの安全を得ようとする。自分の葉を茂らせ、後から生えてくる若木を覆って、太陽を独り占めしようとする。弱虫は仲間のうちの弱者と競う。仲間と競うのは癒しを求める心だ。自分が強いと思っている木は、自然と戦おうとする。自然と戦うのは救いを求める心だ。高山や沙漠に生えようとする。戦う相手は自分の癒しを求める感情と環境の圧力だ。生き延びられれば大きく育って、千年の木になって、足元に動物や植物のオアシスを作ることになる。

e.    DNAは、体や、感覚や感情の心を作っている。脳内麻薬の仕掛けで、感覚や感情の心を支配している。DNAに都合のいいことをすると、ご褒美を分泌、快感を与え、繰り返させたり、もっとしたくさせる。感覚や感情の心は、この快感の誘惑に勝てない。感覚や感情の心はDNAが仕掛けた脳内麻薬の奴隷だ。現在の現実しか見えない、競争差別の心が感覚や感情の心の本質だ。記憶の過去や願望の未来を共有しようとするのが言葉の心の本質だ。感覚や感情の心を、言葉の心でコントロールできるようになれば世界は平和だ。

f.    自分を体だと思うと、他者も体のように思え、競争、差別の対象としか見えなくなる。自分を言葉の心の働きだと思うと、他者も社会も自然も、この世のすべては、自分が作り出した言葉だとわかる。別々の名前だった川が、ぶつかって合流して混ざって、自他が消え、一つになるのと同じだ。それが救いへの方向だ。

g.    生物は「食うか食われるか」だ。木ですら日照を争ってゆっくり殺しあっている。体は無数の細胞からできている。一つ一つが独立した命だ。毎日たくさんの細胞が役目を終えて入れ替わっている。内側では助け合っているが、よそ者の侵入には免疫系で戦いをしている。さらに別の個体に対しては「食うか食われるかの戦い」をしている。先に生まれた者は、後から生まれる者たちを「食うか食われるかの戦い」の仕掛けを用意して待ち受けている。親の世代が武装解除しなければ、子の世代はますます厳しい「食うか食われるかの戦い」に追い込まれていくことになる。グッピーのように親が子と餌の区別がつかなくなっている。

h.    小学校の校庭に「希望を輝かせよう、夢を燃え立たせよう」という看板があった。何に向かっての希望や夢なのかは書いていない。書ける筈も無い。子供に「夢や希望は大きく」と言いがちだが、違う気がする。本当に教えるべきことが分からないから、せめて掛け声で景気をつけている。意味不明で漠然とした欲望を駆立てられても子供は混乱するだけ。結果、いい学校、いい会社、いい生活という出来合いのお惣菜のような夢に駆り立てられることになる。大きい欲は周囲を傷つけ我が身を滅ぼす。夢や希望を大きい小さいという表現でなく、どうすると生きようとする気力強められるかを教える方法はないのだろうか。子供は、感覚や感情の心の働きとして、希望や夢を生まれながらに持つように出来ている。肥大させて自他を傷つけやすい両刃の刃にするのは良くない。欲望をどう制御するかが大切なのに、かえって掻き立てている。結果は、競争心と闘争心を煽り、自殺やいじめを助長する。先生や両親が、自分も持っていない空疎な希望や夢のお囃子を、壊れやすい子供の心に注ぎ込むのはやめよう。

i.    環境に適応した種(しゅ)が生き延びる。そのうち同種間での繁殖競争が始まる。同種間競争への適応が進む。進化の袋小路に入る。ゴクラクチョウはその典型だ。同種間競争に明け暮れていると、環境変化や他種との競争に勝てなくなる。

D      「仕事の香り」を身に着け持ち帰る

a.    ヒトが互いに競い争う、体対体、感覚や感情の心対感覚や感情の心という関係から、一つの体に属する細胞のように、共生の関係になるには、感覚や感情の心優勢から言葉の心優勢に進化しなければならない。

b.    一本の木がありました。一年中、葉や花や実をつけて、採っても採っても減りません。この木には、日陰をもらったり、隠れ家をもらったり、育児室を借りたり、雨宿りしたり、葉や実を食べたり、花の蜜や樹液を飲んだりする、たくさんの生き物が、争わず、平和に暮らしていました。その秘訣は、昼と夜別々に来ること。葉だけ、実だけ、蜜だけ、樹液だけというように、食べる部分を変えること。根や幹や葉のように、住んだり休む場所が違うこと、秋に渡ってきて冬だけ過ごして遠くの国へ行ってしまったり、春に生まれ、夏を過ごし、秋には卵になって冬眠するように、活動の季節が違うことでした。平和共存するためには、それぞれが個性を持つことが大切なだと教えてくれます。

c.    平和は、癒しを求める感覚や感情の心では実現できない。癒しを我慢する言葉の心の力が必要だ。野生の王国におけるライオンの自由のような、強者が勝つことの自由ではなく、増えすぎた人口という環境で、感覚や感情の心が持つ不完全さによって、共存共栄を妨げたり、傷つけあうことを防ぐということだ。みんなが欲望を抱えたまま、分け前を均等にしようとしても無理だ。ライオンが肉食のまま、平原の動物と仲良くしようとするのと同じだ。

d.    自分を弱いと思っている木は、森の中に生えようとする。みんなと一緒で安心な感じがする。しかし、森の中では、生きるスペースも限られ、差し込む光も奪い合わねばならない。自分を弱いと思っている木は、自分と同じ弱虫の群れの中で、イワシみたいに仲間を押し分け、盾にして自分だけの安全を得ようとする。自分の葉を茂らせ、後から生えてくる若木を覆って、太陽を独り占めしようとする。弱虫は仲間のうちの弱者と競う。仲間と競うのは癒しを求める心だ。自分が強いと思っている木は、自然と戦おうとする。自然と戦うのは救いを求める心だ。高山や沙漠に生えようとする。戦う相手は自分の癒しを求める感情と環境の圧力だ。生き延びられれば大きく育って、千年の木になって、足元に動物や植物のオアシスを作ることになる。

e.    DNAは、体や、感覚や感情の心を作っている。脳内麻薬の仕掛けで、感覚や感情の心を支配している。DNAに都合のいいことをすると、ご褒美を分泌、快感を与え、繰り返させたり、もっとしたくさせる。感覚や感情の心は、この快感の誘惑に勝てない。感覚や感情の心はDNAが仕掛けた脳内麻薬の奴隷だ。現在の現実しか見えない、競争差別の心が感覚や感情の心の本質だ。記憶の過去や願望の未来を共有しようとするのが言葉の心の本質だ。感覚や感情の心を、言葉の心でコントロールできるようになれば世界は平和だ。

f.    自分を体だと思うと、他者も体のように思え、競争、差別の対象としか見えなくなる。自分を言葉の心の働きだと思うと、他者も社会も自然も、この世のすべては、自分が作り出した言葉だとわかる。別々の名前だった川が、ぶつかって合流して混ざって、自他が消え、一つになるのと同じだ。それが救いへの方向だ。

g.    生物は「食うか食われるか」だ。木ですら日照を争ってゆっくり殺しあっている。体は無数の細胞からできている。一つ一つが独立した命だ。毎日たくさんの細胞が役目を終えて入れ替わっている。内側では助け合っているが、よそ者の侵入には免疫系で戦いをしている。さらに別の個体に対しては「食うか食われるかの戦い」をしている。先に生まれた者は、後から生まれる者たちを「食うか食われるかの戦い」の仕掛けを用意して待ち受けている。親の世代が武装解除しなければ、子の世代はますます厳しい「食うか食われるかの戦い」に追い込まれていくことになる。グッピーのように親が子と餌の区別がつかなくなっている。

h.    小学校の校庭に「希望を輝かせよう、夢を燃え立たせよう」という看板があった。何に向かっての希望や夢なのかは書いていない。書ける筈も無い。子供に「夢や希望は大きく」と言いがちだが、違う気がする。本当に教えるべきことが分からないから、せめて掛け声で景気をつけている。意味不明で漠然とした欲望を駆立てられても子供は混乱するだけ。結果、いい学校、いい会社、いい生活という出来合いのお惣菜のような夢に駆り立てられることになる。大きい欲は周囲を傷つけ我が身を滅ぼす。夢や希望を大きい小さいという表現でなく、どうすると生きようとする気力強められるかを教える方法はないのだろうか。子供は、感覚や感情の心の働きとして、希望や夢を生まれながらに持つように出来ている。肥大させて自他を傷つけやすい両刃の刃にするのは良くない。欲望をどう制御するかが大切なのに、かえって掻き立てている。結果は、競争心と闘争心を煽り、自殺やいじめを助長する。先生や両親が、自分も持っていない空疎な希望や夢のお囃子を、壊れやすい子供の心に注ぎ込むのはやめよう。

i.    環境に適応した種(しゅ)が生き延びる。そのうち同種間での繁殖競争が始まる。同種間競争への適応が進む。進化の袋小路に入る。ゴクラクチョウはその典型だ。同種間競争に明け暮れていると、環境変化や他種との競争に勝てなくなる。

E      「感謝を発信できる心の香り」を身に着け持ち帰る

1)何かに感謝すると、自分へのこだわりから離れられる。言葉も、発信すると、自分という殻が消える。自分からの脱皮。それが救いだ。

2)苦痛や苦悩は気を失うと消える。悲しみや怒りも眠っている間は消えている。すべての苦しみは、自分を忘れ、他者のことを心配している間消える。自分が消えると苦しみも消える。自分を思い出すと生じる。苦しみは自分が生みだしているのだ。つまり苦しみは自分に執着した感覚や感情の心だったのだ。感謝はそんな感覚や感情の心から自由になる救いの鍵なのだ。

F      「感謝を受信できる心の香り」を身に着け持ち帰る。

1)自分に御褒美とか言って、ご馳走を食べたり、宝飾品を買うコマーシャルがある。そんなことで本当にうれしいのだろうか。自分の為に癒しを得ても、虚しいだけだ。癒やしは与えると救いになる。喜ばれる、感謝される。家族に死なれて辛いのは、癒やしをもらってくれ、感謝してくれる相手を失うからだろう。

2)喜びと満足の違いについて考えた。満足は言葉の心に生じる救いだ。何かを手に入れたり、なし遂げて得られるのは感覚や感情の心の興奮という喜びで、すぐに消えてしまう癒しだ。自分の為に何かを手に入れたり成し遂げても、癒ししか手に入らない。自分以外の何かに与えたり、助けたりすると、自分に、満足という救いが生じる。満足という救いは、何かを反射して自分に生じる。何かから与えられるものだ。月を取ろうとする。直接手を伸ばしても取れない。桶に水を張って映せばいいということだ。

3)絆について考えた。本来の意味は、家畜や奴隷や囚人をつないで自由を奪う道具のことだ。しかし、震災後は心と心のつながりをイメージして使われている。絆とは何なのか、犬と飼い主の関係で考えた。体のきずなは綱のことだ。心の絆について考えた。心の絆はどこにあるのだろう。飼い主が犬を自分の犬だと思っている心、犬が自分はこのヒトの飼い犬だと思っている心の事だ。見知らぬ人と人との間の心の絆とは何なのだろう。分かち合う心と考えた。風景のような独占できない喜びは分かち合えるが、お金のような独占できるものは難しい。災難や生老病死のような苦しみも難しい。感覚や感情の心は自身の癒しと安楽を求めるように出来ているからだ。悲しみや苦しみを分かち合うのは、言葉の心にならなければ難しいのだ。絆とは、互いの言葉の心と言葉の心の関係のことだ。言葉には自他の差別が無い。自身の癒しに囚われることもない。だから金でも苦しみでも分かち合うことが出来る。

4)クリスマスが来ると胸が痛む。クリスマスは家族でしか祝えないからだ。歳をとって、家族が居なくなる。とても寂しい。おもちゃ屋で、子供連れの若夫婦が、質素な玩具を購入する。若夫婦は幸せそうだ。老夫婦が羨ましそうにそれを見ている。喜んでくれる誰かが居ないと、世界の底が抜けたような気分になるのだろう。喜んでくれる誰かは、プレゼントやお土産に価値を与える仏なのだろう。プレゼントやお土産は、物の流れとは反対に、もっといいものが流れる行為なのだろう。

5)鏡がなければ、自分は見えない。鏡からはね返って来る自分の光しか、見えない。自分の為に何をしても、癒しを虚しく発散するだけだ。癒しという空(くう)を掴むだけだ。救いは、自分が相手に発信し、相手が受信し、返信してくる、感謝の光だ。

6)救いとはどんなものか。子供を喜ばせる。子供の喜ぶ姿を見る。自分の中に満足が湧く。救われる。自分で自分に同じことをしても、救いは生まれない。

7)自分の救いは、他者を喜ばせることで得られる。他者は広い意味の自分なのだ。狭い意味の自分は空(くう)なのだ。自分で自分を誉めても、くすぐっても、労わっても、救われない。感覚や感情の心を癒すことしかできない。自分で自分は救えない。自分ができるのは他者への奉仕だ。感謝されようがされまいが、自分が自分への囚われから自由になれるという意味で救われるのだ。タイで、早朝の公園で、人々が僧侶に食べ物を喜捨して、僧侶ではなく人々が、感謝の表情で合掌をしているのを見た。食物の流れに気をとられて、救いが僧侶から人々に流れていることに気がつかなかった。

8)自分は情報で、受信してくれる他者を想定して生じている者だから、他人に興味をもたれ、喜ばれ、褒められ、認められ、感謝されることが無上の満足だ。その様に作られている。その他者の範囲に広い狭いがあるだけだ。だから自分にだけ良い行為は、自分に救いをもたらさない。受信してくれる他者を持たなければ自分は成り立たない。自分を犠牲にしても喜ばせたい。そういう他者を見つけた物語が、クリスマスキャロルなのだろう。

9)自分で自分を救うことはできない。他者に奉仕することはできる。そのことによって救われた気持ちになれる。つまり人は、自分が奉仕した誰かに救ってもらうことしか出来ない。

10)母の夕食の献立を考えていた。その間、自分のことを忘れ、大げさに言えば救われていたような気分だった。自分のための献立ならそんな気分にはならなかったと思う。自分が自分の為に何かをしたり考えるのは癒やしに過ぎない。救いというのは自分の心を掬い上げてくれる手のような感じだ。空中で、自分の手で自分を支えられないように、自分で自分を救う事はできない。自分の中には自分を支える支点が無いからだ。他者を癒すと、他者が支点となって、自分を支え、救ってくれる感じがする。

11)その人を慰める言葉を探すが見つからない。でもその間、自分は自分の苦しみを忘れることができる。

12)自分を慰める言葉は、慰めにならない。他者を慰める言葉は自分を救うことがある。

13)他者への思いやりは、言葉の心から生まれる。その人の心、その人を生み出した過去の人々の心、その人が生み出すであろう未来の子孫達の心、を想像すると湧いてくる。感覚や感情の心は、現在の現実の中で、相手を、競争や差別や癒しの道具として色眼鏡で見てしまう。

14)言葉の心である自分は、他者に奉仕している間、自分から開放されるという形で、救われるようにできている。

15)誰かが褒めてくれる。とてもうれしい。褒めてくれた人は何も減らないのに、褒められた自分の中で何かいいことが増える。褒めてくれた人も、自分が喜ぶ姿を見て、何かいいことが増える。情報は減らないで増えるのみだ。

16)他者の癒しを願うと、自分が救われる。

17)奉仕をすると、生きようとする気力や勇気が湧いてくる。ヒトの一番大切なものは、生きようとする気力や勇気だから、奉仕は一番大切なものをくれる、つまり自分を救ってくれるのだと分かる。奉仕は自分という殻を捨てることだから、自分という殻を捨てることが救いなのだと分かる。救われないとは、与える気持ちになれない、与える相手がいない、もらってくれる相手がいない、自分という殻を捨てられないということなのだ。勿論生身の体だから、自分を捨てっぱなしには出来ない。奉仕をしている間だけ救われるのだ。人生で一番大切な救いは、与える相手の存在だ。

18)俳優はカツラを被って観客を昔に導けても、俳優自身は現在の現実で醒めている。魔法使いは他者に魔法を掛けても、自分に魔法は掛けられない。坊さんも、信者には仏を見せることができるが、自分自身には仏は見えない。見守ってあげる。誉めてあげる。認めてあげる。そうすれば自分は相手にとっての神仏になる。生きる喜び、勇気の源になれる。その結果自分も救われる。

19)自分が極楽にいなくても、わが子を極楽に導くことができる。子供を自分という極楽でくるむことが出来る。困窮の只中でも、子供は母親がいれば、極楽なのだ。

20)自分が路傍で倒れて動けなくなった時、近寄って励ましてくれる人は、きっと、自分の癒しについては不遇な境遇にいる人だろう。

21)他者の為になっていると思うと満足を感じる。自分だけの為にしていると思うと虚しさを感じる。何故だろう。

22)現代社会では、他者とのつながりを敬遠し、相互扶助をあてにしなくなった。相互に無償で与え合う扶助より、金でサービスを買う方が、感謝が不要なので、気が楽だということだ。金と引き換えのサービスは癒しだ。癒しでは誰も救われない。貨幣経済社会では、みんな、救いが見えなくなって、癒しだけで十分だと錯覚している。

23)昨日の昼間、小田急線に乗った。混んでいたがシルバーシートの方はヒトが居なかったので、そちらに行くと、汚い身なりのおじいさんが汚い荷物を抱えて、行儀よく座っていた。乗客は誰もその一角には近づかなかった。次の駅で、野球帽にゴムぞうりのヤクザッポイおっさんが酔っ払って乗り込んできて、わざわざ横に座った。乱暴な口調で、おじいさんに話しかけ、食べかけのミカンの半分を押し付けた。おじいさんは「自分は乞食ではない」と言った。おっさんはミカンを自分の口に入れて、滓を床に吐いて、ポケットから封を切っていないタバコを出し、おじいさんの胸のポケットにねじ込んだ。次の駅でおっさんは降り、入れ代わりに、父親と幼い兄妹が乗ってきた。幼い兄妹は無心におじいさんの隣に座った。父親は困った風に近くに立った。妹は気配を察して立ち上がって父親の反対側に立った。兄は意地になって座り続けた。おじいさんがポケットから薄汚れたミニカーを取り出して差し出した。兄ははにかむそぶりで受け取って、おじいさんの顔を立てるように車を遊ばせた。おじいさんは初めてうれしそうに笑顔になった。「今日はロッテが勝ちだ、優勝するとコーヒーがタダで、ハンバーガーとポテトも100円だ」と、子供に教えていた。電車の一角で、すばらしい光景の連続だった。中日とロッテの日本シリーズは今日も決着がついていない。

24)自分で自分は救えない。他者によって救われたり、他者を救うことで、自分も救われる。救いとは満足のことだ。

25)新婚の夫婦に子が生まれ、両家の祖父母が産院に集まる。赤ん坊が運ばれてくる。全員が嬉しくなる。全員の「望み」を一斉に満たす。この世には太陽のような圧倒的な力で、全員に有り余るほどの満足感を与えるものもある。

26)居るだけで、周囲の人々に幸福な感情を無償で分け与える幼児。家がなくても、家族がなくても、空腹でも、辛くても、強く正しく生きているホームレス。年をとっても「さあこれから頑張るぞ」といって、周囲に勇気を示す老人もそうだ。見るヒトに生きようとする力を無償で分け与えている。ホームレスの聖(ヒジリ)は、マインドレス、救いレスより、人としての位はずっと高いのだ。

27)救いは他人を喜ばせると湧いてくるものだと、この歳になって初めて知った。自分を喜ばせようとしているつもりだったが、よく考えれば、いつも誰かを喜ばせようとしていたことに気がついた。

28)不幸な気分は自分を癒やそうとする気持ちが満たされない時に湧いてくる。自分を癒やそうとする気持ちを忘れると不幸な気持ちも消える。自分を癒やそうと考えるから不幸になる。他人癒やそうとしている間は、自分を忘れられる。不幸も消える。癒しよりもっと良い救いを得ている。

29)他人を慰めようとする言葉を探す。見つからない。しかしその間自分の悩みを忘れられる。奉仕とはそういうことだ。自分を慰める言葉や行為は救いにならない。他人を慰めることは、その他人にとって慰めになるとは限らないが、自分が自分へのこだわりから救われることになるのだ。

30)ベッドで体をずらして苦痛を和らげたり、辛い治療を受け容れたり、リハビリや食事を頑張ったり、回復に希望を燃やしたり、本当の介護は、病人自身が自分の体や心にすることで、周囲はその手助けしかできない。それでも、その手助けを通して、自分が同じ状況になった時にどうすれば良いかを体験でき、結果「介護は他人の為ならず」になる。親は子に、その姿を見せて、将来必ず訪れる病や老いや死の苦痛を和らげる知恵を授けてくれているのだ。

31)自分を体や、感覚や感情の心だと錯覚すると、情報より物、与えるより貰う、使うより蓄えるほうがうれしいと思ってしまう。袋のようなイメージだ。自分が言葉の心の働きだと分かると、自分は言葉を受発信することで生じるのだとわかる。言葉は物と違い、貰ったり貯めるのでなく、与えることで生じ、与えると減るのでなく増えるものだとわかる。自分は、この体という小さな袋でなく、人類全体で一つの大きな袋だと分かる。知識やデータ、記憶や書籍を集めても、心が感覚や感情の心のままでは、言葉は生かされない。

32)癒やしは、感覚や感情の心の働きなので、長続きしない。という意味で、癒しは虚しいことだ。誰かを喜ばせた満足は、言葉の心の働きである記憶の言葉なので、いつまでも残る。直接口に入れるのは、体の食べ物だ。心の食べ物は、牛の世話をしてミルクをもらうように、他人を喜ばせてもらうようにできている。自分の願望を満たそうとすると癒やしが得られる。他者の願望を満たそうとすると、救いが得られる。自分のために食事を作る。癒しが得られる。他者のために食事を作る。救いが得られる。

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