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ノンちゃん雲に乗る。

1.     小学3年の男の子。両親と5年生の姉がいる。田舎から、おじいちゃんが一人で住む東京の家に引っ越して来たばかり。おじいちゃんは入院中。

2.     雨の日曜日。ノンちゃんは風邪を引いて、一人で寝ている。うとうとしている。目が覚めたら、隣家のおばちゃんがいて、「眠っている間にみんな病院へ行った」と聞かされる。火鉢でヤカンが沸く音がする。炭のにおいもする。甘い黒い液体の小瓶と粉薬の袋とミカンが枕元にある。その頃は未だテレビは無かった。

3.     僕だけ置いて、おじいちゃんのところへ行くなんて、僕の風邪が悪くなって死んで、みんな後悔すればいいなどと思う。庭の柿の木に登る。いつの間にか晴れて、青い空に、白い雲が浮かんでいる。寒くない。垣根の向こうは一面、蓮華の田。耳元で、おじいちゃんの声がした。「タニハナヲ マイテタビダツ サクラカナ」。振り向くとミツバチがウンウン唸っている。昔、握り締めて刺されてから恐怖だ。手で払う。鉄棒選手のように回って、落っこちる。

4.     どこまでも落ちていく。ふわっとした網の上に落ちる。木下大サーカスのネットのようだ。おじいちゃんが、頭のそばに立って笑っている。「おじいちゃんはクモになったの」と聞く。「おまえが痛くないようにね」という。

5.     「おじいちゃん遊ぼうよ」。「何をして遊ぼうか。はさみ将棋と五目並べとどっちがいい」。「勝てないからどっちも嫌だ」。「じゃあ、じいちゃんが大好きな映画とお経の話をしよう」と言う。本当は嫌だったけど、おじいちゃんがどうしても話したそうだったので、「いいよ」と答える。

6.     ミツバチの羽ばたきがウンウンお経の合唱のようだ。それにかぶせて、おじいちゃんの声がする。

7.     ブッセツ マカ ハンニャハラミタシンギョウ。カンジザイボサツ ギョウジン ハンニャハラミツタジ ショウケン ゴウンカイクウ ド イッサイクヤク。仏説・摩訶・般若波羅蜜多心経。観自在菩薩 行深・般若波羅蜜多時 照見・五蘊皆空 度・一切苦厄。インドに、心のやさしい男の子がいました。皆が幸せになるには、どうすればいいのか、真剣に考えました。そして答えを見つけました。それは、「見たり感じているのは、自分の心が映している映画の世界で、苦しいとか悲しいというのも、映画の登場人物の気持ちで、自分は登場人物ではあるが、本当は観客なのだと考えるようにすると、自由な気持になれる」というものでした。

8.     シャリシ シキフイクウ クウフイシキ。シキソクゼクウ クウソクゼシキ ジュウソウギョウシキ ヤクブニョゼ。舎利子 色不異空 空不異色。色即是空 空即是色 受想行識・亦復如是。ノンちゃん。見えていても、現実には無いものがあるし、見えなくてもあるものもある。見えても、感じても、考えても、しても、知っても、それは、自分の心が映している映画の世界のことなんだ。と考えるようにすると、いいんだよ。これから、おじいちゃんは、おまえには見えなくなる。感じられなくなる。でも、おじいちゃんは何も変わらず、おまえの心の映画の中にずっといる。と考えるようにすると、いいんだよ。

9.     シャリシ ゼ ショホウクウソウ フショウフメツ フクフジョウ フゾウフゲン。舎利子 是・諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減。ノンちゃん。そんな風に見えたり感じたりするだけで、実際には、生まれたり死んだりしていない、汚れたりきれいになったりしていない、増えたり減ったりしていない。映画がそう思わせているだけなんだ。自分が映している映画に、自分がだまされているだけなんだ。と考えるようにすると、いいんだよ。

10.  ゼコクウチュウ ムシキ ムジュソウギョウシキ。ムゲンニビゼツシンイ ムシキショウコウミソクホウ ムゲンカイ ナイシムイシキカイ。是故・空中 無色 無・受想行識。無・眼耳鼻舌身意 無・色声香味触法 無・眼界 乃至無・意識界。見えても、感じても、考えても、しても、知っても、感覚のすべて、意識のすべては、自分で映している映画の世界なんだ。それを本当の世界だと思ってはいけないんだ。と考えるようにすると、いいんだよ。

11.  ムムミョウ ヤクムムミョウジン ナイシムロウシ ヤクムロウシジン。無・無明 亦無・無明尽 乃至無・老死 亦無・老死尽。絶望するのも映画の中、絶望を克服するのも映画の中、老いたり死ぬのも映画の中、不老不死も映画の中の出来事だ。と考えるようにすると、いいんだよ。

12.  ムクシュウメツドウ ムチヤクムトクコ イムショトクコ。無・苦集滅道 無・智亦無得 以無・所得故。迷うのも映画の中、迷わないための智慧も映画の中、迷わないための智慧を身に着けたと思うのも映画の中の出来事だ。と考えるようにすると、いいんだよ。

13.  ボダイサッタ エハンニャハラミツタコ。シンムケイゲ ムケイゲコ ムウクフ オンリイッサイテンドウムソウ クウギョウネハン。菩提薩 依・般若波羅蜜多故。心無・礙 無・礙故 無有・恐怖 遠離一切・顛倒夢想 究竟・涅槃。このすばらしい考え方を身に着ければ、すっきり、さっぱり、楽しい人生が送れるよ。

14.  サンゼショブツ エハンニャハラミツタコ トクアノクタラサンミャクサンボダイ。コチハンニャハラミツタ ゼダイジンシュ ゼダイミョウシュ ゼムジョウシュ ゼムトウドウシュ ノウジョイッサイク シンジツフコ。三世諸仏 依・般若波羅蜜多故 得阿耨多羅・三藐三菩提。故知・般若波羅蜜多 是・大神呪 是・大明呪 是・無上呪 是・無等等呪 能除一切苦 真実不虚。本当だよ。

15.  コセツ ハンニャハラミツタシュ ソクセツシュワッ。ギャアテイ ギャアテイ ハラギャアテイ ハラソウガアテイ ボジソワカ。ハンニャシンギョウ。故説・般若波羅蜜多呪 即説呪日。羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶。般若心経。さあ、じいちゃんを信じて、楽しい人生を歩むんだよ。

16.  聞いているうちに眠ってしまう。目が覚めると、布団の中。お父さんも、お母さんも、お姉さんも、いつの間にか帰っていた。みんな静かにしているので、文句を言えずに、寝たふりをして、耳を澄ます。お姉ちゃんとお母さんの話が聞こえる。今日病院から呼ばれて、みんなでお別れに行ったことがわかった。

17.  あれから50年、僕は同じ家で還暦を迎えた。一人息子は結婚して、遠くの社宅に住んでいる。去年、男の孫が生まれた。自分が木から落ちたのは9歳の冬だった。同じ流れなら、まだ8年ある。この子の心にカニのような殻ができて、自分や他人と喧嘩をし始めるのはいつごろだろう。父母にも先生にも見えない、人生の闇が見えた時、役に立つように、般若心経をどんな風に説明しようか考える。とても楽しい。