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(1)聞香(もんこう)の点前。

@    参席者。

1)客 :感覚や感情の心の働きであるこの世の住人の象徴。

2)香元:言葉の心の働きであるあの世の住人の象徴。

A    着席。

1)香りはあの世からの迎え船だ。感覚や感情の心に映る現在の現実、つまりこの世から、言葉の心が作る記憶の過去や願望の未来、つまりあの世へ、渡る心構えをしよう。

a.    この世とあの世。

ア.            あの世とは。死者が流れ着く死の国、黄泉の国ではない。言葉のDNAの海のことだ。それを説明するためには、この世とあの世、感覚や感情の心と言葉の心、現在の現実と記憶の過去や願望の未来、癒しと救い、生きていることと生きようとすること、動物の心とヒトの心、物と情報、自分の外と自分の中、などについて、言葉にして理解しなければならない。

イ.            この世とは具体的な事物の事。つまり五感に映せる事物のこと。あの世とは、抽象的な事物の事。つまり言葉のこと。この世とは感覚や感情の心が映し出す現在の現実のこと。あの世とは言葉の心が作り出す記憶の過去や願望の未来のことだ。

ウ.            心臓の位置は他人を観察するなら左だ。自分を観察するなら右だ。死も病も、生きていることさえも、他人を観察するのか、自分を観察するのかで違ってくる。世界も時間も、感覚や感情の心を用いるのか、言葉の心を用いるのかで違ってくる。

エ.            暗闇でも、相手の声や匂いや手探りの感触があるのに、インターネットでは、顔や体や声も匂いもない相手と、互いに文字だけで交信している。その言葉がいつ書かれたのか時間も消え、何処で書いているのか空間も消え、何歳で、男か女か、何を生業にしてのるかも、回線の向こうに本当に存在しているかも、消えている。人から体を取り除くと言葉になる。ご先祖様や死者、神や仏、魑魅魍魎、精霊と同じ次元だ。体を持つ者同士の交流はこの世の交流だが、インターネットは、言葉と言葉の交流という意味で、あの世の交流だ。そういえば平安時代の見知らぬ同士の和歌のやり取りもそうだった。そのころの、ヒトがあの世とおなじみだった時代に戻っている。インターネットには沢山の死者が生きていて、生者も死者もごちゃごちゃになって交信している。死者の言葉は時空を超えて、生者の心とともに、同じあの世で楽しく遊んでいる。

オ.            青い鳥の物語もかぐや姫の物語も、この世の現在の現実の中で起きたことだと思うと、子供だましの御伽噺に思える。この世とあの世、異次元との行き来、異次元の存在に気がついた物語だと思えば、大人の物語になる。

カ.出発前夜のかぐや姫の気持ちになる。おじいさん、おばあさんへの愛情や宝物や栄達、月へ持ち帰れるのは、言葉だけだ。おじいさん、おばあさんは、しばらくすれば地上の土に戻る。おじいさん、おばあさんへの愛情は、言葉にして、月へ持ち帰れる。かぐや姫がいる限り、おじいさん、おばあさんは、あり続ける。ヒトが残せるもの、持っていけるもの、持ち続けられるのは、言葉だけだ。かぐや姫が戻る月は、言葉のDNAの海の象徴だ。

キ.感覚や感情の心が映し出す、この時この瞬間しか生じていない、通り過ぎるばかりの現在の現実というこの世と、言葉の心が言葉で作る、自分の一部としていつでも再生が可能な、記憶の過去や願望の未来というあの世がある。体も、感覚や感情の心も、特定のDNAによって作られ、特定の体に属している。しかし発信された言葉は、特定のDNAにも特定の体にも属さず、自分にも属さず、競争差別も無い、自由に混ざり合う海の水のようなものだ。始まりも終わりもない永遠不滅のものだ。自分は、頼りない現在の現実を言葉にすることによって、確固たる記憶の過去や願望の未来へジャンプすることができる。記憶の過去や願望の未来とはそういうものなのだ。言葉なのだ。

ク.満月とじゃんけん。満月にチョキが見える。パーを出す。負けるが勝ち。満月のチョキがウサギになる。ウサギが香炉で香を焚いてくれる。香りが言葉になって聞こえてくる。この話、感覚では感知できないことだから、それ以上に、感覚による観察でなく、言葉による創作だから、虚無だと思うだろう。自分を感覚の心だと思えばそうだ。しかし主役である自分は言葉の心の働きだ。言葉の心の働きである自分にとって、在るのは言葉だ。感覚の心が映し出しても無いのだ。言葉だけが在るのだ。感覚や感情の心が映し出す現在の現実が虚無で、言葉の方が実在なのだ。香りはするが姿は見えないとする。鼻が利くなら在ると思い、利かないなら無いと思うだろう。姿は在るが香りはしないとする。見えたなら在ると思い、見えないなら無いと思う。感覚や感情の心が映し出す現在の現実とは、そんなあやふやな現象なのだ。

ケ.この世の花とあの世の花がある。どちらも死後でなく、生きている間に咲く花だ。この世の花は、感覚や感情の心が現在の現実に咲かせる花だ。あの世の花は、言葉の心が記憶の過去に咲かせた花や願望の未来に咲かせようとする花だ。

コ.今こうしている自分のことを考えてみた。感覚の心が周囲の状況を感知している。そこに物や風景があって、音や匂いや肌触りなどの五感を刺激してくる。感情の心に色々な気分も湧いてくる。こここそ自分がいる本当の世界だと思わせられる。しかし言葉の心の働きである自分にとっては、ここは感覚や感情の心が映し出す、現在の現実という、異次元の幻影なのだ。目や耳や鼻や口や皮膚の神経が映し出しているのだ。自分にとっての世界は、目や耳や鼻や口や皮膚の神経に映ることがない、抽象的な、言葉の心が作り出している言葉なのだ。自分を感覚や感情の心だと錯覚していると、言葉の心が生み出す本来の自分や世界や時間の方が幻想で、感覚や感情の心が映し出す幻影である、現在の現実こそ実在だと思ってしまう。ヒトは言葉の心の働きである自分が成熟するまでは、感覚や感情の心を自分だと思い込んでいる。まだヒトとしては未成熟な、動物と同じ心の段階だ。そして感覚の心が感情の心を刺激して引き起こす、競争差別や喜怒哀楽の情動を制御できないのだ。

サ.何かをしていいのかどうか迷ったら、そのことが癒しの為か救いの為かを考えればいい。感覚や感情の心が求める喜びを癒しとする。言葉の心が求める満足を救いとする。感覚や感情の心は現在の現実の安楽を求め、苦難からの逃避を求めている。言葉の心は願望の未来の実現を求め、苦難の克服を求めている。喉が渇く。コップに手を伸ばす。これは感覚や感情の心の働きだ。飲んだ後、コップを洗って元の場所に戻す。これが言葉の心の働きだ。したいことをする。これは感覚や感情の心の働きだ。しなければならないことのためにしたい事を我慢したり、したくないことを我慢してする。これが言葉の心の働きだ。遊びと仕事の違いもここにある。心を現在の現実に置くか、未来に置いて現在の現実をその手段にするかの違いだ。この世とあの世の違いだ。この世とは、現在の現実だと思い込んでいる感覚や感情の心が映し出している幻影のことだ。あの世とは、言葉の心が言葉で作り出している言葉の世界のことだ。自分は言葉の心の働きだから、自分が住んでいるのはあの世の方だ。

b.    この世からあの世へ出発する心構えをしよう。

ア.これから香(こう)を聞くのだと心の準備をする。感覚や感情の心の興奮を鎮め、言葉の心を研ぎ澄ます。今、この世とあの世の国境にいて、これから一歩踏み出して、あの世へ入るのだと想像しよう。ヤゴがトンボになって、水中から空中に飛び立つように、感覚や感情の心が映し出す現在の現実から離れ、言葉の心が作り出す記憶の過去や願望の未来に移るのだ。感覚や感情の心が映し出している現在の現実から距離をとって、本当の自分を作る、そんな旅の始まりを想像しよう。

イ.香りは香木や香道具や火から生じるが、香木や香道具や火ではないと実感する。その実感を通して、自分も、この体や心から生じるが、体や、感覚や感情の心ではなく、言葉の心の働きなのだと類推する。香りは見えない、所有できない、広がるだけで消えることがないと実感し、その実感を通して、言葉の心の働きである自分も、見えない、所有できない、広がるだけで消えることがないものだと類推する。香りは勝手に感覚や感情の心に浸透してくるが、言葉は言葉の心を働かせて作らなければ生じないと実感する。すぐに消えてしまう香りを言葉にして、香(こう)にする。この自分もそのようにして生じていることを実感する。感覚や感情の心に生じる、所有や競争や差別などの錯覚や苦しみも、香りと同様に、言葉にすれば、感覚や感情の心から離なれて、言葉の心の働きである自分の一部になって、自由に制御できるようになるのだと類推する。

ウ.香りについて考える。無いことと在ることを考える。目で見る限り、香木はあるが香りは無い。鼻で見る限り香りは在るが香木はない。言葉を持つヒトにとって、さっきまで在って消えた香木や香りが今も在る。明日焚かれる香木や香りも今既に在る。

エ.何かが気にいると所有したくなる。物だけでなく、愛情や支配など他者の心までも所有したくなる。その根本には、自分は何かを所有できる存在だという思い込みがある。苦悩の大部分は、自分を、何かを所有できる容器のようなものだと錯覚していることから生じている。自分が体なら、蛙がバッタを飲み込んだり、太陽が惑星を捕らえるように他の何かを捉えて自分の一部にすることもできよう。所有できると思うから、失うのを恐れ、失われた、得られないなどと悲しんだり恨んだりする。所有できると思うから競争や差別の心が湧いてくる。さあ、これから香りを所有してみよう。香木や香道具ならともかく、いったん放たれた香りは誰が何をどうすると所有したことになるのだろうか考えてみよう。結果として、自分は情報で、言葉の心の働きで、言葉を受発信することしかできず、発信した言葉はもう自分のものでも誰のものでもなく、さらに言えば、言葉つまり情報は、特定の所有者がない、みんなのものだということが実感できるだろう。そして情報には所有も、競争も、自他の区別も差別も無く、出会えば混ざり合い融合して大きな一つになるということがわかるだろう。

c.   この世とあの世の距離がとれずにいると、現在の現実に流されるばかりで、過去に得た経験や知識を生かせず、未来へ向かって積極的に生きようとする勇気や気力が損なわれる。

ア.自分は、体という物ではなく、言葉の心の働き、つまり情報だ。見えたり感じている世界も、自分の外にある物ではなく、感覚や感情の心が映し出す情報だ。自分の中に生じている。釈迦が残してくれた暗号「色即是空」とはこのことだったのだ。しかし、情報は見えない。情報である自分の居場所もわからないまま、外の物の虚無をさまよってしまう。すべての不都合は、ここから始まる。

イ.本当の自分は、この体や、感覚や感情の心とは別に、言葉の心にいる。感覚や感情の心が映し出す現在の現実とは別の、過去や未来にいる。

ウ.感覚や感情の心は、競争や差別の錯覚や、癒しへの渇望に囚われ、言葉の心の働きである自分を迷わせる。言葉の心の働きである自分が、何のために生きているのか、どのように生きたら良いのか、わからなくさせる。

エ.感覚や感情の心は、現在の現実を受け容れるだけだ。目先の癒しや安逸だけが気になって、ここまでどう生きてきたのかという過去や、これからどう生きていこうかという未来には無頓着だ。感覚や感情の心は、現在の現実の中で、渇きと癒やしを繰り返すばかりだ。

オ.感覚や感情の心に囚われると、現在の現実しか見えなくなり、癒しを求めて日々を生きているだけになる。生きようとする言葉、つまり未来や目的が作れなくなる。一方で、言葉の心の働きである自分は、そんな錯覚に囚われた状態に違和を感じる。結果、生きようとする力も減退する。困難に立ち向かう力も弱まる。究極の癒やしとしての自殺にも至る。

カ.自分は言葉の心の働きなのに、自分を感覚や感情の心だと錯覚してしまう。感覚や感情の心に支配され、感覚や感情の心が映し出す偽の自分を、本当の自分だと思い込んでしまう。自分を、現在の現実の中で癒しを求めてさまよっている旅人だと思い込んでしまう。

キ.感覚や感情の心が欲することだけをしていては、つまりサルのままでは、この体のDNAは、この数百万年間を生きぬいてくる事は出来なかったのだ。

ク.自分を感覚や感情の心だと錯覚していると、ゴールが癒しの延長線上に在る様に思える。癒しの先に見えるゴールは、渇きの沙漠の果てに見える蜃気楼のアオシスだ。

2)           感覚や感情の心が映し出す現在の現実、つまりこの世を離れて眺めてみよう。自分の足場を、この世から離れて、あの世に置いてみよう。感覚や感情の心と、言葉の心の働きである自分との隔たりに気づこう。

a.   自分の視点を、物から情報に移す。

ア.トンボの目。去年の秋、気持ちよい晴天の日に、駐車場へ行くと、アキアカネの大群が飛びまわっていた。フロントガラスや光沢のあるボンネットに体当たりを繰り返すのが不思議だった。今年、梅雨の晴れ間に、黒いトンボが、ビルのガラスの扉に体当たりを繰り返していた。今日、田舎道を通っていたら、水田の水面に産卵中のトンボを見た。ああこれだなと思った。トンボは水溜りに産卵する。しかし水を察知しているのでなく、光の反射を察知しているのだ。だからこのような錯覚を起こすのだ。人も同じような錯覚で世界を見ている。色即是空とはこういうことだと思った。

イ.この世とは、感覚や感情の心が映し出す、見えている、感じている、世界のことだ。あの世もこの世も、別のどこかにあるのではない。同じ脳内に、心として生じている。この世は、感覚や感情の心が現在の現実として映し出している。あの世は、言葉の心が、言葉で、記憶の過去や願望の未来として作っている。

ウ.この体も外界も、確かに存在しているように思える。しかし見えているのは、五感を通じて、情報になって、脳の中に生じている信号なのだ。普遍なのは脳の中に生じている情報としての自分や世界であって、外界は自分とは異次元の虚無なのだ。感覚や感情の心が映し出す外界は、勝手に毎日変化して、川の流れのように、一寸も同じ状態に留まらない。砂漠の風景の高速撮影を見れば、よく分かる。

エ.香りには、言葉の心の働きである自分を、見えている世界の呪縛から解き放ち、視点を本当の居場所に転じさせる働きがある。

オ.見えていてもいなくても、必ずしも、在るとか無いとか断定できないことに気がついてくる。今畑にまいている種と、心の中で目指している収穫物と、つまり現在の現実と願望の未来と、自分にとってはどちらが本当に存在しているのか考えてみる。

カ.ウィルスがパソコンに侵入するのを防いだり、感染してしまったウィルスを駆除することが困難なように、若者の心にカルト宗教が入り込むのを防いだり覚まさせるのは困難を極める。物の侵入を防ぐことは簡単だが、情報の侵入の阻止は困難だ。自分も情報だからだ。情報は自他を持たず、出会えば合流するからだ。自分の一部なので免疫の対象にならないがん細胞のようだ。

キ.代々伝わる天下の名香がある。焚けば減ってしまう。増やすことはできない。物しか見えない、減ることしか見えない者には焚くことができない。香りを得るとはそういうことだ。ヒトもそのように生きなければ、香らない。香りは願望の未来のことだ。焚くとは、言葉の力で、勇気と気力を奮い起こすことだ。

ク.白や灰色は黒が薄まってできたように、宇宙のすべてのものは、生物も物も気体もエネルギーも暗黒物質もダークエネルギーもすべてが、ビッグバンの一点から、広がっているという意味で、同じものだと意識する。

ケ.外界も人も、時の風に吹かれて、情け容赦なく形が変わり、いつか砂山のように崩れて消えるように思われる。未練は湧くが、形とは脳の中で揺れている感覚や感情の心に映し出された蜃気楼だと知れば、受け入れられる。自分を体と思い、外界の住民だと思うなら、親しかった人や風物が無くなるように思え、辛いが、本当の自分は自分の中の情報で、見えているのも自分の中の情報なのだから、自分がいる限り、自分とともに在り続け、変わることも、失われることも、消えることもないのだ。この世は変わり、失われ、消えるが、一度生じたあの世は変わりも、失われも、消えもしないのだ。

コ.今、食べているリンゴと、今、見知らぬ村の果樹園に生っているリンゴとどう違うのだろう。星の王子様の星に咲く花と、全宇宙の花とどう違うのだろう。読んだ本と、読んでいない本とどう違うのだろう。本は自分に読まれて、情報を発信してこそ本だ。本は紙やインクのような物でなく情報なのだ。読まれなければ虚無だ。地上の全ての物も同じだ。世界の創造主である自分が、本のように読んで、言葉に消化して初めて、この世は生まれているのだ。世界は物でなく情報なのだ。自分は本を物として見る者でなく、言葉として読む者なのだ。自分は本から読み取った言葉や外界から受信した情報を、自分の心の紙に書き写して、自分や世界や時間を描いている者なのだ。

サ.動物は感じなければ無いと思ってしまう。人は感じのほかに言葉を持っている。感じなくても言葉があればあると思ってしまう。例えば幽霊だ。二つの世界に生きていると思っている。体の世界と、言葉の世界だ。実は体も言葉で出来ている。すべて言葉でできている。それが言葉の心である自分にとっての世界の在り方だ。言葉には自分も他者もない。敵も味方もない。水のように出会えば溶け合うだけだ。他者の体を傷つけるのはどうしていけないかと言えば、血が出たり怪我をするからでなく、言葉の心を傷つけるからだ。相手の言葉の心の存在を知ると、戦争をしにくくなる。動物なら食用にしにくくなる。これは仲間同士の殺し合いを回避するために備わった本能なのだ。見える体より、見えない言葉の方が仲間のサインなのだ。いじめや差別など、どうしていけないかと言えば、本能への冒涜だからだ。

シ.自分は情報で、世界も自分が作り出している情報だということを理解しよう。香木はそのままでは虚無だ。加熱して香りという情報にしなければ存在していない。つまり自分と香木は異次元だ。自分と香りは同次元だ。体は香木、自分は香りなのだ。

ス.自分を体だと思いこんでいると、自分も周囲と同じ、物の生生流転の一部だと思え、言葉の心の働きである自分の、本来の情報としての在り方と矛盾することになる。自分が体で、感覚や感情の心に映る現在の現実にいると思っているうちは、自分を含め世界のすべてが、頼りなく、不安に思える。自分が体とともに、地上つまり現在の現実をさ迷っているように思える。地上の世界は物なので、情報である自分の居場所はないからだ。自分は、脳の中で点滅している言葉の信号で、自分にとっての世界のすべても言葉の信号で、自分は現在の現実とは異なる在り方をしているのだと気づくことが大切だ。

セ.自分は心で、情報世界にいるのに、自分を体で、物の世界にいると勘違いしがちだ。若くて元気な時は、心も体も一体な感じがして、体にも不安が無いので、自分は体だと思って、物質世界にいるような気になっている。人跡未踏の地に行けば、そこに自分の世界が広がったように喜んだりする。他人の死を見たり、色々な体験を経て、体としての自分はいつか必ず消えることに気がつく。それを観察している自分が別にいるように思われる。自分は、体とは別の、言葉の心だったのだと気がつく。今まで疑いなく信じていたこの世が急に色あせて見える。代わりに、言葉の世界であるあの世こそが、自分の本来の居場所であることに気がつく。本当の世界であるあの世は、遊園地のような、外に探して入る異界ではなく、自分の力で、自分の脳細胞の宇宙に、言葉で作るものだと気がつく。

b.   自分の視点を、体から体のDNAに移す。

c.   自分の視点を、体から心に移す。

ア.香木は物、香りは情報だ。人に例えれば、香木は体、香木のままの香りは感覚や感情の心が映し出す現在の現実、つまりこの世だ。薫いて出る香りは言葉の心が生み出す言葉、記憶の過去や願望の未来、つまりあの世だ。

イ.脳の中に、二つの宇宙が、画面の切り替わりのように共存していることに気がつく。感覚や感情の心が映し出す現在の現実つまりこの世と、言葉の心が作り出す記憶の過去や願望の未来つまりあの世だ。

ウ.夕映えの影法師。日が傾くにつれ、影は体を超えて、大きく濃くなっていく。夕映えも朝日も同じ太陽の光だが、違う景色を見せてくれる。昔のたそがれ時は、夕餉の支度の買い物や、帰宅する人、遊びから帰る子供達でにぎやかだが、町に明かりが少なく、皆、顔がない。前を行く姿が死んだ肉親にそっくりで、追いかけても少し先の角で消えたりする。犬や猫がすり抜けていく時、人のように笑いかけることもある。逢う魔が時といわれ、天狗や人攫いがいた。月が出て、体が薄くなって影が濃くなる。体は目に見える世界、影は脳で考える世界の象徴のようだ。

エ.蟻が、炎天下の乾いた地表をせっせと歩き、餌を探し、巣穴に運んでいる。巣穴の入り口は小さいが、とてつもない深さと広がりの、複雑な空間になっている。地表の寒さや洪水、山火事にもびくともしない。アルゼンチン蟻という外来の蟻が、岐阜県の貯木場に上陸、東西に広がって、一つの県に相当するほど大きな巣を建設しているそうだ。人についていえば、地表はこの世で、感覚や感情が映す現在の現実で、地下帝国はあの世で、言葉の心が作っている自分や世界や時間つまり記憶の過去や願望の未来だ。人は、地表では、感覚や感情の心が生み出す癒しへの渇望や、競争差別の錯覚による迷いや、生老病死の恐怖に明け暮れする。地下帝国では、言葉の心になって、感覚や感情の心から自由になる。さらに、発信された言葉は、自他の区別や、時空の隔たりの無い、言葉のDNAになる。

オ.体と心は別々で、自分は心、それも言葉の心の働きだと考えてみる。

カ.外界で、体として生きていると思っている。自分が信号だとはわからず、自分を体だと錯覚している。自分は、脳の中で点滅する電気信号であると、意識する。この体は、自分を作り出しているが、自分そのものではないと意識する。

キ.自分は体とは別にいると理解するところから、自分つまり言葉の心の働きの成長が始まる。それを死ぬまで続ける。体と言葉の心の働きである自分との戦いの始まりだ。瞑想はそのために役に立つ。目を閉じる。何も見えなくなる。外界が消える。でも自分はこうしている。自分の存在感が大きくなってくる。息を吐く。吐き続ける。苦しくなる。息を吸いたくなる。息を吸うためなら体が壊れてもいいと思うほど苦しむ。足が痛くなる。居たたまれなくなる。この痛みから逃れられるなら、足を切り落としてもいいと思うほど苦しむ。自分は体とは別にあって、自分は肺でも足でも目でも、脳ですらもない、何かだと分かる。

ク.言葉の心の働きである自分は、体のDNAが、生き延びるために進化して身に着けた武器であるが、そんな自分にとっては、体こそ、自分を守る武器であるように思える。

ケ.手術後の入院を終え、ふらふらしながら帰る道、久々の直射日光と、騒音とにおいの混ざった空気を吸う。立ち食いそばのにおいにつられて入る。冷やしきつねそばを頼む。ずいぶん少ないなと思い、何かを追加しようかと思いながら食べる。薬味としょうゆと出し汁の味や香りが懐かしい。娑婆に戻ったとはこういう感じかと思う。しかし半分も食べないうちに満腹している自分、縮んだ胃袋を発見する。発見とは、そのものと自分の境界を知ることだ。この時初めて、自分を発見したのだ。自分を無限に広がる大気のように思っていたのが、小さな風船の中の空気だと気がついたのだ。

コ.蜘蛛と自分を較べてみた。ヒトは言葉という糸を操る蜘蛛だ。蜘蛛は糸で網を張りその中心に居て、網の振動で、獲物がかかるのを察知している。蜘蛛にとって網は、自分でであり、世界そのものだ。獲物がかかるとそれを食べて、栄養にして糸を吐き出し、網を繕ったり、広げたり、補強したりしている。ヒトに喩えれば、糸が言葉で、網が自分や世界や時間なのだ。蜘蛛の本体は蜘蛛の体のように思えるが、本当は糸と網なのだ。ヒトの本体も体のように思見えるが、本当は言葉なのだ。

サ.感覚や感情の心から言葉の心が生まれ、言葉の心の働きが自分になる。自分は脳細胞の宇宙に世界を作っている。体の大元であるDNAは情報であると同時に物質でもあるので、物質世界つまり細胞の中でしか存在できない。言葉の心の働きである自分も体によって生み出されているので、物質世界の体に抱えられたまま情報世界を生み出している。しかし言葉になって発信されれば、つまり言葉のDNAになれば、体つまり物質世界を離れて、自他を超えて、みんなで共有する言葉つまり言葉のDNAの海になる。言葉の心は、そんな言葉のDNAの海の保育を受けて、物質世界を深く広く観察し、体の活動を助けられるように成長する。人は、細胞生物としての、百万年単位の、それも試行錯誤の、体のDNAの進化を待たずに、情報生物として、経験や学習により瞬間で進化し、その進化を個体や時空を超えて共有できる情報生物になった。情報の特性として、時空の制約を超え、交信され、転写され、共有され、変化する、情報生物になったのだ。

d.   自分の視点を、感覚や感情の心から、言葉の心に移す

ア.自分は言葉の心の働きで、感覚や感情の心とは別に生じていることに気づく。感覚や感情の心には見えない、感じられない、言葉の世界を意識する。

    景色や音や風や匂いや味のように、感覚の心が感知し、感情の心を震わせては消えていく現在の現実がこの世だ。それらが言葉になって記憶され、目を閉じても浮かぶ景色、よみがえる音や風や匂いや味があの世だ。科学がつくるあの世は、感覚の心に映るこの世を、言葉で固定しようとする試みで、芸術がつくるあの世は、感情の心に映るこの世を、さまざまな手法で固定しようとする試みだ。学問や芸術などヒトとして特有な活動は、あの世を生み出す活動だ。日常でも、言葉の心の働きである自分は、一人ひとり別々に、大切な事物を言葉にして、それぞれのあの世に保管している。

    あの世もこの世も、今、この脳の中に生じている。感覚や感情の心のまま、現在の現実にボーっと受身でいる時は、感覚や感情の心が映し出すこの世にいる。言葉の心で考え始めると、言葉の心の働きである自分が生じ、あの世に切り替わる。ヒトの特徴は、あの世がこの世より広く大きいことだ。あの世にはこの世に無い過去や未来がある。だから死んだ家族や友達にも会えるし会話もできる。勿論、自分の願望に沿ってこの世を変えようとすることもできる。人生の豊かさは、あの世の広さと深さで決まる。自分の中に、祖先や相談相手が住む部屋を持っていると、自分が安定して、苦難にも強くなれるし、寂しくもない。

    正月の5日、妻が今日は父の誕生日だと言った。義父は去年の3月に亡くなったばかりだ。誕生祝でもするかと冗談を言って、ふと思った。今年からは命日が誕生日の代わりになる。生まれてくる前の世界で死んでこの世に来る。その日は、生まれてくる前の世界から見れば命日だし、こちらから見れば誕生日だ。同じように、義父はこちらの世界の命日に、別の世界で生まれて、その日は別の世界では誕生日なのだろう。これはいいかげんな空想物語ではない。ヒトは目や耳などの五感の情報でその人の存在としているが、この世ですら、五感では感知できない、それでいて存在するものの方が多い。生まれる前や死んだ後、何がどうなるのやらは、今のこの次元とは別の次元のことだ。役者が楽屋から舞台に上り、演技を終えて、次の会場に向かって消えていく。観客には今までの舞台しか見えていないということだ。

    実家の2階の窓から山を眺める。昔から見慣れた風景だ。子供の頃、同じように眺めていた記憶が甦る。懐かしい、安らかな気持になる。現在の現実から、記憶の過去へワープしたのだ。

    言葉の心の働きである自分は、感覚や感情の心が映し出す現在の現実つまり「この世」とは異次元の、過去や未来つまりあの世にいる。みんな「この世」に自分がいると思ってしまうが、「この世」にいるのは、体と、感覚や感情の心で、言葉の心の働きである自分は「あの世」の住人、かぐや姫なのだ。

    釈迦は、世界の正体が見えているままではないということに気がついた。水中で水の存在に気がつく、地上で重力の存在に気がつくのは困難だ。自分の置かれた次元を越えてさらに上の次元から自分を見る力だ。箱で育てられた蟻が、箱の存在に気がつくようなものだ。私達も、生きている間に、自分が死んだ状態を知ることができる。死ぬことは意識が消えることだ。毎晩の就寝は、死んで、日中に背負い込んだ重荷や穢れや疲れを、あの世という異次元に捨てて戻る、死と再生の儀式なのだ。

    物を食べる。喉から奥に入れば美味は消える。小さな胃袋が満ちればおしまいだ。体は小さな杯だ。それ以上は入らない。言葉の胃袋である脳細胞は宇宙のように無限に広がる。言葉は、いくら食べても満ちない。ブラックホールのように永遠に食べ続けることができる。体と心は重なっているが別々で、つまり異次元に生じている現象だ。心も、感覚と感情の心と言葉の心が、別々に生じていると考えると、わかりやすい。

    子供の頃、祖父が死んだ。はさみ将棋と回り将棋を教えてくれたことが記憶に焼きついている。将棋を見ると、いつでも、祖父に会える気がする。地上には、今生きている70億人の何百万倍もの死者の言葉の足跡が覆っている。これをあの世という。京都の古い四つ角にも、高速道路の真ん中にも、1年に一人も通わない山道にも、氷河や太平洋の底にもある。本当は今生きている一人一人の脳の中にある。日記を開くと何が聞こえる。アルバム開くと何が匂う。目を閉じれば何が見える。記憶の過去はアルバムのようだ。いい場面だけが、ポツリポツリと見えてくる。そしてみんな、こちらを向いて笑っている。自分もこちらからカメラをのぞいているように思う。見えているのがあの世だ。

    自分は、細胞とは異次元の存在である情報だと気が付く。DNAが細胞を、細胞が器官を、器官が体を生み出している。体は物と情報の中間の次元に生じている。言葉の心の働きである自分は、情報の次元に生じている。体には生死があるが、情報には生死はない。言葉の心の働きである自分にも生死はない。体には自他の差別があるが、体のDNAには自他の差別が無いように、この言葉の心の働きである自分には自他の差別はあるが、発信された言葉には、自他の差別はない。

    この世のつまり現在の現実の自分は、本当は、自分に擬態した感覚や感情の心の働きなのだ。

    感覚や感情の心は、物そのものを見ているのでなく、反射する光の差異や変化を感知している。外界は、感覚や感情の心が映し出している現在の現実にすぎない。感覚や感情の心には現在の現実しか映らない。感覚や感情の心が映し出す現在の現実を言葉にして、記憶の過去や願望の未来作ろう。言葉の心の働きである自分を、感覚や感情の心が映し出す、見えるまま、感じるままの現在の現実から解放する事が自分の使命だと知ろう。

    感覚の心には苦しんだり悩んだりする働きはない。刺激を受けてピカピカするだけだ。言葉の心にも苦しんだり悩んだりする働きはない。考えるだけだ。苦しんだり悩んだりするのは感情の心だ。自分を感情の心だと思っている間は、苦しみや悩みから脱出できない。苦しみや悩みを言葉にしてしまえば一件落着だ。

    自分は言葉の心の働きだから「自分とは何だろう」「どのように生きればいいのだろう」とは「言葉の心とは何だろう」「どのように言葉にすればいいのだろう」ということになる。

    2万年前、体も筋肉もがっしりして、脳も大きく、死者に墓を作って花を手向ける心を持っていたネアンデルタール人が、我々の祖先のホモサピエンスとの競争に敗れ、絶滅した理由を考えた。感覚や感情の心が、言葉の心に破れたのだろう。生きている力が、生きようとする力に敗れたのだろう。現在の現実に生きる者が、未来に生きる者に敗れたのだろう。つまり、感覚や感情の心が言葉の心に破れたのだろう。

    言葉の心は、感覚や感情の心の情動をチェックする働きだ。感覚や感情の心の情動は、35億年間、この命をつないできた力だ。その働きを、その後に備わった言葉の心で制御しようとするのは、無理な話だ。言葉で他者に善を勧めることはできても、自分の悪心は抑えられない。感覚や感情の悪心を抑制するには、言葉の心は非力だが、それしかない。

    体は進化の過程で変化する。魚やサンショウウオ、トカゲやねずみや類人猿だった祖先や、蛸の宇宙人のような子孫を、自分の分身だと思えるだろうか。姿かたちでは困難だが、もし言葉を共有できれば、身内に思えるだろう。自分はやはり言葉の心の働きなのだ。

    心は、脳の各部位が作り出す信号だ。脳が進化して言葉の心の働きが生じた結果、感覚や感情の心が映し出す、はかない現在の現実や、平安の無い競争や差別の世界に飽き足らず、言葉で自分や世界や時間を作るようになった。自分とは、感覚や感情の心の働きを制御するための、言葉の心の働きのことだ。自分は、言葉で世界や時間を生み出している。自分は、感覚や感情が生み出す情動を超えて、言葉が生み出す自己抑制の心となり、言葉の糸で世界や時間を編み上げている。自分は、蚕が繭を紡ぐように、言葉の心の働きである自分が安住できる言葉の世界を構築したいのだ。それが感覚や感情の心とは異次元の存在である自分の在り方だ。言葉の心の働きである自分の成熟は、生殖細胞には反映されない。一代限りだ。しかし自分が発信した言葉は、世代を超えて伝わる、言葉のDNAになる。

    自分は、言葉の心の頂に立たねば見えない。感覚や感情の心の裾野にいては、地上から地上絵が見えないように、言葉の心の働きである自分は見えない。

    悟りは言葉ではないとか、悟りには言葉は不要だとか、体で理解せよなどとと言う。自分が言葉の心の働きであることを見失っているのだ。自分も世界も言葉だ。体は、体のDNAが咲かせている花で、自分ではない。感覚や感情の心は体の瞬間の興奮で、自分ではない。言葉の心の働きが自分だ。自分は、言葉として存在している。言葉を否定する事は自分を否定することだ。苦しみの元になっている自分とは、感覚や感情の心を自分だと錯覚している偽の自分だ。本当の悟りとは、自分は言葉の心で、自分や世界は自分が言葉で生み出しているのだと理解することだ。

    父に愛されて過ごした日々を思い出す。はかないという言葉が思い浮かぶ。はかないとは、貯めることができず、どんどんこぼれて何も残らないという感じだ。過ぎてしまった事物がはかないのでなく、感覚や感情の心のまま記憶せずに消えるままにしてしまった自分の心の在り方がはかないのだ。言葉にした事は自分の一部となって、いつまでも一緒だから、はかなくないのだ。対象がはかないのでなく、感覚や感情の心でいた自身の在り方がはかないのだ。孫には日記をつけることを勧めてやろうと思う。日記は体験を記録する為というより、体験を言葉にして身につけ、自分や世界や時間を作る作業だ。言葉になった事物だけがはかなくないのだ。父が死んで早15年が経った。父がくれた気持ちがやっと理解できるようになった。恩を受けてから50年以上かかったなと思う。言葉の心が成熟するのに50年以上かかったのだなとも思った。

    言葉の心の働きである自分は、言葉の力で、体や、感覚や感情の心の限界を乗り越えようとしている。言葉で自分を作り、世界や時間を作り、感覚や感情に囚われた泥沼のような現在の現実から脱出しようとしている。

    植物が太陽に向って伸びるように、言葉の心の働きである自分は、虚無や苦難を、言葉にして克服しようとする。

    釈迦はこう言っているのだと思う。ヒトは生きているために癒しを求める。癒しを求めるように出来ている。しかし癒しでは、言葉の心の働きである自分は救われない。言葉の心を育てよう。旧約聖書には、初めに言葉があったと書いてある。自分や世界の始まりは言葉の心が生み出す言葉だという意味だ。新約聖書には、人はパンのみに生きるにあらずと書いてある。体はパンで癒される。しかし自分は体ではない。感覚や感情の心は休息や喜びで癒される。しかし自分は感覚や感情の心でもない。言葉の心の働きである自分は、外からの刺激で救われる事はない。自分が生み出す言葉でしか救いを得ることが出来ない。コーランには、アラーの言葉を自分の言葉にせよと書いてある。私は、言葉の心を育てて、自分や世界や時間を言葉のはしごにして、感覚や感情の心が映し出す現在の現実から脱出しようと思う。感覚や感情の心が映し出す癒しや錯覚への囚われから脱出しようと思う。言葉の心の働きである自分を、感覚や感情の心が映し出す現在の現実の迷いや苦しみから救おうと思う。願望を言葉にする力、未来を描く力、生きようとする力、つまり救いを生み出す力を鍛えようと思う。

    現在の現実と戦おうとするなら、感覚や感情の心で右往左往するのでなく、言葉の心で考えることが必要になる。

    体と心に分けて、自分は心、それも言葉の心だと考える。自分はどのように生じているのだろう。何気なく過ごしている間は、自分はどこにもいない。「自分は何をすればいいのだろう」など、自分という言葉を思うと、そこに自分がいるような気持ちになる。自分は自分という言葉なのだ。自分という言葉があって生じる心理現象なのだ。自分は言葉であって、心理現象だから、外界からの刺激に反応するだけの感覚や感情の心ではキャッチできない。敵を言葉で生み出すと、言葉で自分が生じる。みんなの共通の敵を言葉で作り出せば、みんなの共通の自分が生じ、まとまるようになる。自分とは言葉で、その言葉は自分でないものの反対概念として生じる。まず日向があって、日向でない部分が日影になるように。

    自分は何をしているのだろう。言葉の心が言葉を作り、言葉が自分を作り、自分は言葉で世界や時間を作っている。

    思い出せるのは言葉で、感覚や感情の興奮はその都度消えて跡形もない。言葉は自分を作り、その自分を持続する。だから、生まれて以来意識している一貫した自分は、言葉なのだ。感覚や感情は、神経や大脳辺縁系の興奮で、その時限りの火花なのだ。

    感覚の心から感情の心が、感情の心から言葉の心が進化した。言葉の心が記憶したり思考して自分を作り、外界の事物に言葉で名前をつけて世界を作り、記憶した言葉で過去をつくり、願望を言葉にして未来を作り出している。言葉の心とは、大脳新皮質の、前頭葉の、言語野の働きだ。自分や世界とは、一人ひとりの脳の中で組み立てられる、一代限りの、言葉の塔のことだ。

    高校生の頃、昆虫採集や山登りが好きで、山小屋の灯という歌が好きだった。胸が締め付けられるように山への憧れの気持ちが湧いた。今見ると、老人が、山小屋で、青春の思い出を振り返っている歌詞だ。振り返る過去も、思い出の君も無かった高校時代の自分は何に惹かれたのだろうと不思議に思った。白馬岳や穂高の名前、黄昏の灯火の山小屋という言葉に惹かれたのだ。現在の現実とは異次元の言葉の世界に惹かれていたのだ。

    富士山は、遠く離れなければ見えない。森も、森を出なければ見えない。間近で見えるのは、火山岩の山肌や、木ばかりだ。現在の現実も、現在の現実から離れなければ見えない。群盲象を見る。視覚だけ、聴覚だけ、嗅覚だけ、感触だけで対象を知ろうとしても、おかしな象を想像してしまう。五感の全部を動員しても大差は無い。象の体の中、心、生い立ち、暮らし方は分からない。分からなまますべてが分かったように思えてしまう。それが、感覚や感情の心が映し出す現在の現実だ。

    物は、いつでも、誰にでも、同じように見えていると思っている。しかし同じ自分でも、環境や体調の変化で見え方も変化する。同じ物を見ていても、君と私では、見え方が違う。同じ人を見ても、その人を知る前と知った後では違って見える。環境や、体調や、対象との関係や、見る人によって、違って見えてしまう。物が物としてあることと、それが見えていることは、生じている次元が違う別の現象なのだ。見ている人の心に関係なく勝手に存在している物、それは言葉としての物なのだ。感覚や感情の心が映し出す、現在の現実の物、一人ひとりが別々に、その場その場の状況で見ている具体的な物でなく、抽象的な、言葉としての物なのだ。自分は言葉の心の働きだから、この言葉の物が見えている。今、何も考えずに、リンゴを食べているとする。そのリンゴは、感覚や感情の心が映し出している現在の現実限りの、つまりこの唯一のリンゴなのだ。しかしリンゴについて考え始めると、言葉のリンゴになる。地球の裏のリンゴ、ニュートンが見ていたリンゴ、来年のリンゴ、自分が知っているすべてのリンゴを一括して表すリンゴになる。言葉のリンゴは食べられない。その代わり、永遠に無くならない、色褪せない、みんなと共有できる。物とは、対象に内在する性質のことではなく、見ている側の心に生じる心理現象だ。感覚の心で見れば、現在の現実つまり物だ。物があるのでなく、物として見ている感覚の心が在るのだ。言葉の心で見れば、すべては言葉だ。無縁の人は感覚の心で見るから物だが、知人なら言葉の心で見るから特別な人つまり言葉だ。無縁の犬は物だが、愛犬は言葉だ。石も鑑賞すれば物から言葉になる。鳴く虫の声も、感覚の心では音だが、鑑賞すると言葉になる。地表の凹凸も、鑑賞すれば風景つまり言葉になる。物の典型だと思っている石や金属だって、細かく見ていけば分子や粒子、そしてエネルギーという光や熱に至り、これが物だと信じるべき塊のようなものはどこにも無い。言葉になってしまう。

イ.感覚や感情の心が映し出す、競争や差別、所有などの錯覚や、生老病死への恐れを言葉にする。

    あの世から見れば、この世はあの世で、あの世はこの世に見えるだろう。あっちからこっちを見れば、あっちがこっちで、こっちがあっちだ。右に寄れば今まで右だと思っていた物が左に見える。前後も同じことが言える。普段、何気なく、自分は体と思い込んでいるが、自分を言葉の心の働きだと思えば、言葉がこの世で、体や、他人や、物や、社会や外界はあの世だということになる。

    ふと、自分がこの体から離れている感じになる。死後に異次元のふるさとに戻って報告している感じだ。「こんな風に体があって、欲や錯覚が湧いてきて、生きるのが大変だったんだよ」などと、旅行の報告のような感じで話している。

    感覚や感情の心でいると、心は見える景色、食べる味、聞こえる音、香り、愛する者たちがくれる癒しなどの現在の現実から離れられなくなる。言葉の心になると、過去や未来が見え、現在の現実がくれる癒しのはかなさに気づく。癒しを求める感覚や感情の渇望から離れることができる。

    今朝は久しぶりに気温も湿度も快適で、そよ風さえあった。新しい袋を開けて取り出した食パンで、レタスとツナ缶とマヨネーズを巻いて食べた。紅茶も飲んだ。大量の薬も飲んだ。小鳥が大きな鋭い声で囀っているのが快い。いつもこんな感じで朝が迎えられたらと思う。でも、とも思う。体は歳とともに衰えるだろうし、肝心の心も、暮らしに飽きてしまうだろう。体は、刻一刻変化していく。高齢になれば衰えていく。言葉だけが変わらないのだ。この朝もこの体や、感覚や感情の心も、言葉にすれば変わらないのだ。

ウ.感覚や感情の心が求める癒しと、言葉の心が求める救いの違いを言葉にする。

    三つの心の働きがある。感覚の心と感情の心と、言葉の心だ。感覚の心は、外界の刺激に快不快を生じ、感情の心は、快の癒しを求め苦を避けようとする。癒しは淡雪のように溶けて、積もることは無い。降っては消えを繰り返すばかりだ。言葉の心が生み出す言葉は、心に根雪のように降り積もり、自分や世界を形成していく。

    自分の利害を考える時は感情の心が働いている。怒りや悲しみ、不幸な気持ちにもなる。自分の利害を超えて、他人を思いやる時は言葉の心が働いている。安らかな気持ちになる。

    感覚や感情の心は癒しを求める。空腹から寂しさまで、感覚や感情の心のすべては癒しを得るために生じる。動物は癒しを得たら眠るだけだ。ヒトの脳には、癒しを得ても続く活動がある。それが言葉の心の働きである自分だ。癒しでは得られない、救いを求める心だ。癒しとは安楽や喜びのこと、救いは満足の事だ。感覚の心が求める癒しと、感情の心が求める癒しと、言葉の心が求める救いがある。感覚や感情の心は癒しをくれる刺激を求める。言葉の心は救いをくれる言葉を求める。すべての事物を言葉にして、因果関係や、意味や目的を明らかにすることを求める。感覚や感情の心は、意味も目的も求めないから、満足も救いもない。救いは、感覚や感情を言葉にすると、言葉の心に生じる。

    自分を体だと錯覚している時は、感覚や感情の心に生じる快感や興奮こそが生きる目的だと思ってしまう。外から受ける刺激、安楽や喜び、つまり癒しを求めてしまう。現在の現実しか見えなくなる。自分を言葉の心の働きだと思うと、満足つまり内部から湧いてくる生きようとする願望の実現の方が大切になる。記憶の過去や願望の未来が見えるようになる。現在の現実の癒しの誘惑に距離を置けるようになる。

    成仏するとは、亡霊が納得して消えていく様。亡霊とは、感覚や感情の心の興奮のこと。成仏とは言葉の心に切り替わること。

    雨の川は、町の汚れを、海に運んでいる。言葉の川は、感覚や感情の土砂を、海に運んでいる。天の川は、見上げる者の、自分にこだわる心を、海に運んでいる。古い記録映画や写真は、現在の現実が、記憶の過去の海に運ばれた跡を見せてくれる。

    自身を、体と心の二つに分けて考えてみる。体は生きていることを使命とし、心とは別に勝手に活動している。心を、感覚や感情の心と言葉の心の二つに分けて考えてみる。感覚や感情の心は、現在の現実を映し出している。癒しを求め、苦難を避け、安逸や快楽にしがみつく心だ。言葉の心の働きである自分は、感覚や感情の心に、癒しを我慢させ、苦難に挑戦させようとする、ヒトに特有な脳の働きだ。感覚や感情の心に映る現在の現実を、願望の未来に作り変えようとする。現在の現実から記憶の過去や願望の未来へ飛び出そうとする。生きている心から進化した、生きようとする心だ。それがサルをヒトへ進化させたし、今も更なる進化への道を歩んでいる。感覚や感情の心は体に依拠するが、言葉の心の働きである自分は、体から独立している。体に生かされるのでなく、体を生かそうとしている。

エ.自分の視点を、癒しを求める心から、救いを求める心に移す。

    苦難に出会ったら、現在の現実しか見えない感覚や感情の心を、記憶の過去や願望の未来を見ることが出来る言葉の心に切り替えて、現在の現実の苦難を言葉にして、さらに、乗り越える言葉に作り変え、目的とすれば、現在の現実の苦難に挑戦し克服しようとする、生きようとする力が湧いてくるはずだ。

    TVで米国の大学の熱血授業を見た。若者のための人生の選択についてだった。こういう選択をしたら業績が上がった、投資に成功した、面接や結婚や昇進や競争や戦争に勝ったという事例を羅列して、生徒を興奮させていた。競争差別や、戦いの話に感覚や感情の心は興奮させられる。プロレスやTVドラマの常套手段だ。教育は、本来、感覚や感情の心を抑える言葉の心の成長を助けるものなのにと思った。競争心を鼓舞して、現在の現実の生きている力、戦術を強化するのと、競争心を抑えて、長期的な生きようとする戦略を組み立てるのとの違いだ。

    DNAに書き込まれているのは、現在の現実に生きているための体や、感覚や感情の心の設計図だ。体や、感覚や感情の心の原理は、癒しや逃避だ。しかし体や、感覚や感情の心だけでは、現在の現実に生きていることしかできない。ネアンデルタール人のように、言葉の心で未来に生きようとする新人類に滅ぼされてしまう。自分は言葉の心の働きだ。成長すると、体や、感覚や感情の心から独立して、自分や世界や時間を育てるようになる。癒しを求めて現在の現実の中で在るがままに生きている心を感覚や感情の心だとしたら、現在の現実の困難を乗り越えて、未来へと生きようとするのが言葉の心だ。言葉の心は記憶や演習、予測、伝達などが出来る。他の情報と融合し、瞬時に進化することができる。発信された言葉は、言葉のDNAとなって、自分や体や世代や時空を超えて、ウィルスのように人類全体に広がることができる。

    言葉の心の働きである自分は、言葉の体系である目的を持つと、勇気や気力が湧いてくる。

    動物は、感覚や感情の心のまま、現在の現実を与えられたものとして受け容れる。ヒトは言葉の心を用いて、自分や世界、時間を作り出し、現在の現実から記憶の過去や願望の未来へジャンプする。

    言葉の心の働きである自分は、感覚や感情の心を自己評価し制御する為に進化した脳の働きだ。言葉の心の力で、現在の現実の環境変化や、感覚や感情の心の暴走から救うのだ。

    自分は生まれつきこのように出来ている、こうするように出来ている、というように、自分を捉えている法則のようなものを言葉にして明らかにする。次に、言葉の心を働かせて、生まれつきの性質の支配を小さくしようとする。つまり宿命から自由になろうとする。感覚や感情の心に身を委ねてしまい、理解も努力も放棄するような生活態度にならぬように努める。すべきでないことをしてしまうリスクを小さくする。そうすれば、生きていることを超えた、生きようとする力が湧いて、生きるべき生き方が見えてくる。生まれつきだと諦めれば、言葉の心としての自分が衰え、感覚や感情の心に流され、癒しを求める感覚や感情の心に、言葉の心の働きである自分が引き込まれてしまう。

    癒しとは、感覚や感情の心の快楽のことだが、感覚や感情の心の常で、喜びは刹那で消え、継続しない。もちろん保存も再生も思考も出来ない。言葉の心の働きである自分の救いとは、感覚や感情の心が映し出す現在の現実を言葉にして、記憶したり、思い出したり、思考ができる、記憶の過去や願望の未来に固定することだ。

    言葉の心を持たない、感覚や感情の心のままの動物なら、迷いや苦悩は生じない。感覚や感情の心と争う自分はいない。あるがままの現在の現実を受入れるだけだ。迷いを生み出すのは言葉の心だ。現在の現実と未来の葛藤だ。救いを求めているのは言葉の心の働きである自分だ。迷いから救うのも言葉の心の働きである自分だ。迷いがあっても、感覚や感情の心のままに癒しを求めるばかりでは、現在の現実に翻弄され迷いから逃れられない。言葉の心の働きである自分がいる意味が無い。

3)見えたり感じている現在の現実は、感覚の心が聞いている外界の香りで、言葉の心の働きである自分はそこにはいない。喜んだり怒ったりしているのは、感情の心の興奮で、言葉の心の働きである自分ではない。自分は、言葉で世界や時間を作り、その中にいる。

a.    言葉の心の働きである自分は、感覚や感情の心が映し出す現在の現実を言葉にして、自分や世界や、時間つまり記憶の過去や願望の未来を作っている。喜びでなく満足を求めている。癒しでなく救いを求めている。

ア.暑い昼下がりの路上で、インターネットからプリントしたらしいこの付近の地図が落ちていた。真ん中に赤ペンで丸印が点けられていた。その場所を目指す人が落としたのだろう。その人から離れたらただの紙屑だ。地図とは何だろう、今見て感じているこの風景とどう違うのだろう。今見て感じているこの風景、ざわざわと騒がしくうごめいているこの町と、この地図はどういう関係にあるのだろう。風景は見ている人の感覚や感情の心が映し出す現在の現実だ。他者には伝えられない、記憶も出来ない、個人的な夢のようなものだ。見ている人が、興味を持ったこの風景の一部分に、名前をつけ、意味をつけて言葉で再構築すると、地図になるのだ。他者に伝えたり、記憶したり、願望を照射して目的にすることが出来る。言葉の心の働きである自分にとっては、地図の方が本当の世界なのだ。

イ.感覚や感情の心でいると、喜びはその瞬間だけで、もっと、もっとという不満や未練が尽きない。満足という救いはない。感覚や感情の心には、現在の現実しかなく、記憶の蔵に貯めたり、願望の未来に広げたりできないからだ。線香花火に似ている。感覚や感情を言葉にすると、抽象化され、固定され、観察できる。日記を書くと感情が整理されるのはこのためだ。感覚や感情の心が映す現在の現実を言葉にすると、自分の一部になって、満足が生じる。これが救いだ。

ウ.自分は何か。信号だ。信号は物ではない、エネルギーでもない。物理的に表現できるものではない。たとえば、狼煙で信号を送っているとする。野火や農家の炊事の煙は、ただの現在の現実だ。信号である狼煙とは異次元のものだ。信号は受け手の脳の中で解釈されて生じる。点滅などの変化が受け手の感覚器官に知覚されてもまだ生じない。感情の心を通り、言葉の心で言葉になって解釈されて初めて生じる。

エ.言葉の心は、暗い深海を、願望の光を照射しながら進む潜水艦のようだ。暗闇に明かりを当てて、対象を探し、言葉にして、自分の海図に取り込むのだ。

オ.人は脳に言葉の心、つまり自分や世界や時間を作る能力を得た時、感覚や感情の心が映し出す現在の現実に支配される立場から抜け出した。逆に世界を飲み込み、支配する力を得た。物はそのままでは自由にならないが、言葉にして、自分の世界に取り込めば、自由自在にできるのだ。

カ.冬の寒い日、犬が外に繋がれていたので、飼い主に犬小屋はないのか尋ねた。小屋を作っても入らないで、外にいるとのこと。野良犬だから、小屋に入ると周囲が見渡せず心配なのだろうとのこと。大型の犬には四方が見渡せる、吹曝しの鉄格子の犬小屋があった。犬の気持ちになるとこちらのほうがまだ安心だとのこと。犬には内が無く、すべて外なのかもしれない。ヒトには、内と外がある。内の方が安心だ。内と外とは何だろう。外とは体つまり感覚や感情の心に映っている世界つまり現在の現実だ。内とは、言葉の心、自分が作り出している言葉で出来た過去や未来だ。自分だけに見える。言葉の心である自分は、他者から見られないと何故安心なのだろう。見られるとなぜ不安なのだろう。言葉である自分にとって、見られたというのは誰かの世界に補足されたということだ。名前を知られると不安になる。名前が知られたというのは、相手の脳の世界に取り込まれたということだ。匿名の時、安心を覚える。旅先ではそのような開放感を味わう。旅の恥は掻き捨て、欲望のブレーキも無くなる。安心とは、自分の名前や顔が、他人の世界に取り込まれていない状態、自分だけの自分になっているということだ。忍者や透明人間、旅人への憧れもその類なのだろう。

キ.体の外に世界という大きな部屋があって、その中に星や地面や海があって、生物や人類が生きていて、その一人が自分なのだと思っていた。本当は、そんな部屋は無くて、何も無いところに脳細胞があって、言葉のレンガを積み重ねて自分や世界を作っているのだ。

ク.初めに言葉ありき。世界は自分の中に出来る。自分は言葉で世界を作っているということだ。

ケ.自分を言葉の心の働きだと考える。世界のすべては自分が作っている言葉だと考える。他人や敵や競争相手は自分が作っている言葉だと考える。この世は物のぶつかり合いの場でなく、言葉の合流の場だと考える。

コ.自分は何かによって作られ、何かが作っている世界にいて、何かのための道具だと思い込んでいる。自分を作った者、自分がいる世界、自分の成すべき事が、自分とは別にあると思っている。犬のように飼い主を求めてしまう。その結果、自分を孤独で、無力な存在だと思い込む。すべてに消極的に、受動的になる。自分は体から生まれた言葉の心の働きであるが、体ではないことを理解する。言葉の心の働きである自分は、体の生老病死とは存在している次元が異なっていることを理解する。世界は自分が作り出している言葉で、世界は自分とともに生まれ、消える自分そのものだと理解する。自分は、自分を超えた何かが、何かをするために生み出した道具ではないことを理解する。自分は、完成途上の未完成な何かではないことを理解する。自分は今の自分のままで自分なのだと理解する。これらを言葉にして理解すれば救われる。

サ.子供の時は、知らないことを知ったり、見たり、食べたり、聴いたり、触ったり、したりすることで、新しい世界に自分を広げる快感があった。壮年期は、願望を言葉にして未来を作り目指すことが楽しかった。今は、これまでの人生で、言葉にしきれて居なかった感覚や感情の残渣を落穂拾いのように拾い集めて、言葉にして、あの世を充実させる作業が楽しい。

b.    現在の現実は、自分が言葉で作っている本当の世界とは別の、感覚や感情の心が聞いている香りのような偽の世界だ。

ア.色即是空。世界のすべては言葉だよ。言葉が世界のすべてだよ。なぜ世界のすべてが言葉なのか。それは自分が言葉の心の働きだからだ。自分と関わりなく自然がしていたり、自分と関わりなくDNAがさせている世界がある。自分が存在している世界はそれらとは別にある。それが本当の世界だ。

イ.今朝未明、河口湖を震源とした大きな地震があって目が覚めた。このような目覚めだと、直前に見ていた夢が思い出せる。これは夢だと思いながら夢を見ている自分がいた感じが残っている。言葉の心の働きである自分は、夢の中で、ああ今、自分は眠って夢を見ているのだなと自覚している。夢の中で主人公となっている感覚や感情のを観察している自分がいる。その自分の役割は、うなされたり、喜んだりしている感覚や感情の心を落ち着かせることだ。恐れすぎたり、喜び過ぎて、我を失わないように、一時の夢に過ぎないよと教えることだ。子供ならオネショをしたり、夢遊病のように歩いて怪我をさせないためだ。起きている間も、いつも二つの心があることに気が付いた。感覚や感情の心が現在の現実の中で活動している。言葉の心の働きである自分はそれを観察し、必要なら制御している。現在の現実は、言葉の心の働きである自分にとっては、感覚や感情の心が見ている夢なのだ。夢を見ている心と、それを観察する心が共存している。現在の現実の苦難は悪夢のようだ。夢の中でいくら頑張っても夢からは出られない。あがいても夢が続くだけだ。救われる方法は、悪夢から逃れる方法と同じだ。これは夢だと気がつけば良い。夢だから覚めれば解決だ。どんなに辛く苦しくても、これは夢なのだと思い、取り乱すことなく、目を覚ます努力をすれば良い。つまり悪夢を感覚や感情から言葉にすればよい。自分は今、夢の中に居ると気がつけば良い。見えている現在の現実は夢なのだと気がつけば良い。

ウ.カメラは本物をコピーして偽物をつくる道具だ。言葉の心は、感覚や感情の心が映し出す現在の現実という偽物を、言葉の心の働きである自分にとっての本物、記憶の過去や願望の未来にする。つまり、偽物を本物にするカメラなのだ。

エ.悔しかった、恥ずかしかった、悲しかった記憶が湧いてくる。感情の心が働き始める。心の湖面のざわめきは最高潮に達する。何がどうして悔しかった、恥ずかしかった、悲しかったのだろうと考えてみる。答えの言葉が見つかると、急に客観的で冷静な気持ちになる。言葉の心が働き始めたのだ。さらに、悔しかった、恥ずかしかった、悲しかった自分はそれで良かったのか、と反省する。自分へのこだわりや思い込みが見えてくる。言葉の心から自分中心の気持ちが消えていく。何度も繰り返しているうちに、外界の刺激に反応して生じる感覚や感情の心は、本当の自分ではないことに気がつく。刺激が無い時には、感覚や感情の心も無くなっている。心のさざ波は自分ではないと分かる。本当の自分は、感覚や感情の心のさざ波でなく言葉の心の働きだということが見えてくる。

オ.嫉妬や恨みの感情に苛まれることがある。他人を傷つけ、後日そのことに気がついて後悔に苛まれることもある。気をつけよう、心がけようと思っても、同じ地上にいる限り、つまり、感覚や感情の心が映し出す現在の現実に囚われている限り、救われない。小学生の頃学校で見た「ノンちゃん雲に乗る」という映画を思い出す。雲に乗るとは、言葉の心になって、自分や世界や、過去や未来を見渡すことだと分かった。

カ.苦痛や苦悩、老病死への不安、それらは感覚や感情の心に生じる現象で、言葉の心の働きである自分にとっては異次元のことだ。言葉の心は、体でも、感覚や感情の心でもないから、生老病死も、現在の現実の苦痛や苦悩や恐怖も無い。小説やドラマの事件を鑑賞するように、離れた立場から観察している。そのことを知って余裕を持てば、苦痛や苦悩を乗り越えられる。そのことを知らないと、登場人物になりきってしまい、事件に巻き込まれてしまうのだ。だから「苦痛や苦悩から解放されたい。不安や不満、老病死から逃れたい」という気持ちから自由になるには、自分を、体や、感覚や感情の心だと思っているうちは無理だ。自分が言葉の心だと分かれば勝手に消える錯覚だ。

キ.体と心は別で、自分は心それも言葉の心だ。信じているような感覚や感情の心ではない。見えている世界も、見えているままではない。言葉にしなければ見えたことにならない。感覚や感情の心が映し出している幻だ。

ク.普通に考えれば、自分が、感覚や感情の心が現に映し出している現在の現実の中にいるのだと思うだろう。現在の現実が本物で、記憶の過去や願望の未来は幻想だと思うだろう。現在の現実こそ事実だと信じているだろう。しかし本当の自分は言葉の心の働きだ。自分にとっての事実とは、自分が言葉にして明らかにしたことだ。感覚や感情の心に映る、錯覚や差別に満ちた現在の現実は、事実とは反対のものだ。本当の自分がいるのは言葉で作った過去や未来だ。本当の自分は感覚や感情の心が映し出している現在の現実にはいないのだ。

ケ.自分は体でなく心、それも言葉の心だ。自分が作る世界も物でなく言葉だ。料理も、器や素材ではなく言葉だ。世界のすべても言葉だ。環境や衣食住も家族も自分自身もすべて言葉だ。世界を言葉と見ることができれば、器を欲しがったり、惑わされることもなく、大切なのは器でも素材でも料理でもなく、言葉であることが分かって、虚無から救われるのだ。

コ.感覚や感情の心でいる時には、癒しを求めて、現在の現実の快不快や利害しか見えなくなっている。そんなさまよえる自分を観察している目がある。誰かに外から見られ恥ずかしさを感じる。世間とかお天道様、良心とされる。それらは突き詰めれば言葉の心の働きである自分なのだ。

サ.画家は円熟してくると、描く絵の輪郭や背景が曖昧になって、光の塊のようになってくる。老眼や呆けのせいかと思っていたが、きっと、感覚や感情の心が映し出す形や色は虚無だと気付き、ぼやけてくるのだろう。

シ.今ここに、実際に見たり触れたりできる世界があるではないか。一人一人が心の中に作る言葉の世界など、架空のものではないか、ということについて考える。「実際に見たり触れたりできる世界」とは何なのか。目や鼻や耳や手の神経が映し出している感覚の信号だ。つまり現在の現実だ。そもそも見えているのは物そのものでなく光の反射なのだ。さらに言えば光の反射そのものでもなく、脳に引き起こされた興奮なのだ。聞こえてくる音も、指で触れた感触も、同じく、脳に引き起こされた興奮なのだ。一方、この自分は言葉の心の働きで、感覚や感情の心が映し出すこのような信号とは別の次元に居る。言葉で作った記憶の過去や願望の未来に居る。感覚や感情の心に見える現在の現実では、言葉の心の働きである自分は飽き足らない。記憶の過去や願望の未来を作り、そこを住処にしている。まるで、自分が月の世界の者だと気が付いてからのかぐや姫のようだ。

ス.見えているのは、外界ではなく、脳の中に生じた電気の信号だ。場合によっては脳内麻薬が分泌されて快感を生じたり、喜怒哀楽が生じたりするが、どちらにしてもすぐに消えてしまう興奮だ。しかしその信号の一部は言葉に変換され固定され、自分の一部になる。そこは、記憶のシナプスが無限に増殖し、願望つまり生きようとする力が無限に湧き出す泉なのだ。

セ.日ごろ信じている現在の現実は、感覚や感情の心が映し出す偽の自分や世界や時間で、言葉の心の働きである自分にとっては異次元の幻なのだと気がつく。

ソ.今朝は一段と寒かった。起きて着替え、パソコンの椅子に触れたら冷たさが身にしみた。あわてて毛布を敷いて座った。夏はひんやりしてうれしい椅子と、夏には暑苦しい毛布のことを考えた。何時でも良い、何時でも悪いという事物はないということだ。自分次第なのだ。自分のおかれた状況で、良かったり悪かったりするだけなのだ。

c.    言葉の心になって、感覚や感情の心が聞いている香りのような現在の現実の苦難や苦痛や苦悩を言葉にして、距離を置いて客観的に観察し、苦難や苦痛や苦悩を乗り越える言葉、つまり勇気を生み出そう。言葉の力で、感覚や感情の心の暴走を抑えよう。

ア.悩んでいる人がいる。悩みを何とかしたいと言われる。こう答える。何かを何とかするためには、別の何かが必要になる。この場合は、悩んでいる心の他に、もう一つ別の心を作り出して、そこを支えにするということになる。悩んでいる心は感情の心だ。もう一つの心は言葉の心だ。言葉で感情を制御するのだ。その為には悩んでいる感情を、制御し易いように言葉にしなければならない。言葉にできればそれだけで、悩みは消えるはずだ。何故なら、言葉には喜怒哀楽も苦痛も苦悩も無いからだ。さらに、対処法について思考もできるからだ。

イ.対象と自分を比較して、差異を感知する。差異があれば心身の免疫機能によって、攻撃や防御や差別などをする。これが体や、感覚や感情の心の働きだ。言葉にすれば自分の一部になって、心の免疫機能の対象から外れる。感覚や感情の心で知ったことを言葉にして、すでに基準として持っている言葉の体系つまり自分や世界や時間に組み込む。この働きが言葉の心だ。何かを知るということは、感覚で感知し、感情で評価し、言葉で自分や世界や時間にすることだ。感覚や感情の心が映し出しているものが何なのかを知るためには、あらかじめ言葉の心の働きである自分に、基準となる自分や世界や時間がないと、物差しが無いことになる。さらに、海を知るには海から出る必要がある。地球を知るには地球外に、太陽系を知るには太陽系外に、身を置かねばならない。感覚や感情の心の限界を知るためには、感覚や感情の心から離れなければならない。感覚や感情の心に映ったことを言葉にして、言葉の物差しを当ててみる。言葉の心の働きである自分の限界を知るためには、自分から離れなければならない。言葉のDNAの海から先人の言葉の物差しを持ってきて当ててみる。

ウ.人里離れた見知らぬ場所で、方角を見失ったとする。心の持ちようで、遭難をしているように思えたり、新天地に思えたりする。地図にしてしまえば、自分のものとなり、安住の地となる。

B    開席の辞。

1)この世からあの世へ、心の旅の開始を宣言する。あの世からの迎え船に乗る。

C    香木を体の象徴として鑑賞する。

1)香木物語。

a.    1300年前、巨大な香木が渡来、大仏の開眼式に供えられ、正倉院に保存されている。宮内庁所管の御物だ。聖武天皇から始まり、足利義政、織田信長、明治天皇の名が連なる沈香だ。保管文書には、品名は「黄熟香(おうじゅくこう)」、雅号は「蘭奢待(らんじゃたい)」と記載されている。雅号には東大寺の3文字が隠されている。近年の調査で、ラオス東部山稜地帯に産した沈香と判明した。

b.    沈香には神経の鎮静作用がある。香を焚く。香りを聞く。感覚や感情の心を生じる神経や大脳辺縁系の働きが鎮まる。興奮も鎮まる。相対的に言葉の心の働きが強まる。結果、気が散らなくなる。集中する。言葉の心の働きが活発になる。

c.    人生には、あたかも、密林に芽生えた沈香樹が大木になり、その過程で、虫やカビの攻撃から身を守ろうと分泌した樹脂、つまり香木になるまでのような、紆余曲折がある。心の苦しみ、悲しみ、痛みは、体のそれと違って、治す必要は無い。そのまま受入れてしまえば、樹脂となり、いつか香木になって、よい香りの言葉となる。

d.    日本書紀。「推古天皇3年(595年)4月に淡路島の砂浜に流木が打ち上がり、漁師が拾ってかまどで焚いたところ、えもいわれぬ良い香りがしたので、朝廷に献上した」。砂浜は香炉、かまどは炭団、香木から香りが生じるように、体から言葉の心が生じる。

e.    巻十九 《欽明天皇》 四年夏四月。百済紀臣奈率弥麻沙等罷之。秋九月百済聖明王遣前部奈率真牟貴文護徳己州己婁与物部施徳麻奇牟等来献扶南(メコン川下流にあったクメール族の国)財物与奴二口。

f.    沈香樹がそのまま香木というわけではない。沈香樹は真珠貝にあたる。香木はその中に稀に出来る真珠にあたる。森で沈香樹を探す。沈香樹が見つかっても、めったに香木は入っていない。香木は化石ではない。生きている木の中にできる樹脂の塊だ。あの世も、悟りも、救いも、生きている体に生じる香木だ。

g.    ラオスとヴェトナムの国境の山稜で、ラオス軍の護衛を受けながら、香木を探していた時に、兵隊からピーという精霊の話を聞いた。森を守る精霊で、いい人が来ると香木のありかを教えてくれる、悪い人が香木を盗もうとすると虎になって食べに来る、という話だ。

h.    日本の秋に、ラオスから採れたばかりの香木が詰まった箱が届いた。半年後、箱から、白い蝶が飛び立った。これは実話だ。

i.    冬の夜中、狭い部屋を締め切って、大量の香木を砕いていた時に、朦朧とした気分になった。これも実話だ。

2)香木の薀蓄。

3)生物。

a.    生物は自身を複写する。自身を広げ、増やそうとする。生物は、癒しを必要とする。

b.    大きな沼が広がっている。点々と白い花が散らばる黒い水面が、どこまでも続いている。自分は鳥のように飛びながら見下ろしている。今、眼前に広がる風景は、空中の鳥である自分が、自分の中に作り出している言葉なのだ。花の一つ一つが独立しているように見えている。水底に大きな一株の根があって、すべての花はそこから伸びた茎の先端に咲いている。無数の花は、姿かたちに関わらず、水面下の見えない一つの根から生えている一つのものなのだ。生物は、同種なら繁殖するし、異種なら食べたり共生したりしている一つのものなのだ。

c.    男という性を決めるY染色体は、単体複写で子孫に伝わるので、コピーミスや突然変異は補修されることなく堆積していく。そのためどんどん劣化しつつあり、5百万年以内に崩壊消滅する。人類はその時点で消えるか人為的な無性生殖の段階に入る。

d.    自分の体は35億年間生き続け、競争に勝ち続けてきた。負けた者たちは消えている。ここにいるということはそういうことだ。

e.    オーストラリア大陸に放たれた24匹のウサギが、100年後、1億匹に増えた。5万年前に数百人でアフリカを出発した人類が、今は70億人に増えて、地上を席巻している。生き物は、1つ1つの体という水滴ではなく、溢れ出る泉のようなものなのだ。

4)DNA。

a.    生物は自身を複写する。自身を広げ、増やそうとする。生物は、癒しを必要とする。

b.    大きな沼が広がっている。点々と白い花が散らばる黒い水面が、どこまでも続いている。自分は鳥のように飛びながら見下ろしている。今、眼前に広がる風景は、空中の鳥である自分が、自分の中に作り出している言葉なのだ。花の一つ一つが独立しているように見えている。水底に大きな一株の根があって、すべての花はそこから伸びた茎の先端に咲いている。無数の花は、姿かたちに関わらず、水面下の見えない一つの根から生えている一つのものなのだ。生物は、同種なら繁殖するし、異種なら食べたり共生したりしている一つのものなのだ。

c.    男という性を決めるY染色体は、単体複写で子孫に伝わるので、コピーミスや突然変異は補修されることなく堆積していく。そのためどんどん劣化しつつあり、5百万年以内に崩壊消滅する。人類はその時点で消えるか人為的な無性生殖の段階に入る。

d.    自分の体は35億年間生き続け、競争に勝ち続けてきた。負けた者たちは消えている。ここにいるということはそういうことだ。

e.    オーストラリア大陸に放たれた24匹のウサギが、100年後、1億匹に増えた。5万年前に数百人でアフリカを出発した人類が、今は70億人に増えて、地上を席巻している。生き物は、1つ1つの体という水滴ではなく、溢れ出る泉のようなものなのだ。

2)DNA。

a.    人も動物も植物も、DNAが作り出す命の季節に導かれて生じては消えている。成長や成熟、繁殖や老いや死も、この流れに乗って生じている。生老病死の輪廻だ。言葉の心の働きである自分は、体に引っ張られてこの流れに流されていくのには納得できない。体には体の、言葉には言葉のDNAがあるのだ。

b.    この世界は何処にどう生じているのか。私やあなた、すべての人々の一人一人、動植物や微生物、ウィルスの一個一個に、それぞれに一つずつ、世界は生じているのだ。この世界を生み出している、根本のものは何だろう。それはDNAだ。世界とは宇宙や物ではなく、それを感じている生物の中に、信号としてあるのだ。その信号が心でもあるのだ。つまり世界は心でもあるのだ。その心を生み出しているのがDNAだ。DNAは小さいけれど巨大なのだ。バラバラだけれど大きな一つなのだ。どんどん死んで消えていくようだけれど、不滅なのだ。DNAの正体は、姿かたちはないけれど、一つの大きな海で、実際に見えるDNAはその海面でキラキラしている無数の波なのだ。波の一つ一つが別々に見えるが、実際は大きな一つの海なのだ。

c.    今日、フライドチキンを食べながら思った。私に食べられているチキンは肉食恐竜の子孫だ。私の祖先は小さな小型の哺乳類で、肉食恐竜の餌だった。今、その小型の哺乳類の子孫が肉食恐竜の子孫を食べている。進化の樹の、肉食恐竜の枝の葉が、哺乳類の枝の葉から養分を吸収していたのが、枝が伸びていくうちに役割が交代したのだ。どちらにしても一本の樹の、茂みの中の出来事だ。

d.    体がそこに埋められていたとしても、死者はそこにいない。何処にも行っていない。いつも近くに居る。35億年前に生まれたたった一つのDNAが、自身を複写して、時々ミスもして、地上のあらゆるところにそのコピーが様々な形で満ち溢れている。みんなそのコピーの一つに過ぎない。幸運であれば、最初の一個のDNAが地上の何処かで35億年の歳月を生き延びているかもしれないし、消えたかもしれないが、オリジナルもコピーも全く同じなのでどうでも良いこと。体はDNAの木に咲く花の一輪で、その幹はいつまでも在り続ける。その幹から分かれた一枝に花が咲く。その一輪は独立したものでなく、木の一部にすぎない。花は、ウィルスになって成層圏にも咲く。バクテリアになって一掴みの土の中に数十億個咲いている。全宇宙の星の数より沢山咲き乱れている。

e.    DNAは、35億年以上の間、自身の複製を作り続けている。この体もDNAが作り出している。体は心を作り、ヒトに進化した脳は言葉の心を作り、言葉の心は言葉を作り、言葉は自分となり、自分は世界や時間を作っている。35億歳のDNAと数十歳の体と、つかの間だけの感覚や感情の心と、そもそも時間を持たない存在である言葉の心の働きである自分が、次元を異にして共存している。

f.    植物は、細胞に仕込まれたDNAの命令に従い、芽吹いて、葉を伸ばし、花を咲かせ、実をつけて、種を飛ばして、枯れる。同様に、ヒトの体でもDNAが働いている。DNAが生老病死の輪廻の動力だ。自分を体だと思うかDNAだと思うかで、生老病死の輪廻の受け止め方が違ってくる。

g.    深海底の火山のガスの噴出孔に群がるチューブワームを見た。硫黄を食物にしているバクテリアを食べていた。元々、生物には本来の形というものは無く、環境という鋳型で作られる、環境を映す鏡だ。生物の本質は、体ではなく、環境を複写するDNAの力なのだ。

5)           体。

a.    1個の星から枝分かれしたり合流したり、暗闇に消えたりしながら今に続く、70億本の光ファイバーの束の断面のように、無数の点がチカチカしている。この体はその一つだ。よく見れば、一編成ずつの列車になっている。列車は40億年間乗り継いで来た車両の連結だ。本当は広がっているのだろうけれど、本人に見えるのは、はるか彼方までらせん状に延びる連結列車だ。この体は先頭の機関車だ。いつか、子や孫の機関車が前につながれて、後ろの客車の一両になる仕掛けだ。

b.    夢の中で、僕はハレー彗星になっていた。76年ぶりに近づいてきた地上を眺めている。前に来た時に見たあの人々はどこだろうと思う。一人もいないことに気がつく。それにしてもこの前来た時より随分増えている。何処に隠れていたのだろう、何処から出てきたのだろうと思う。よく見れば、体は入れ代わったり数が増えたりしているけれど、人類としては何も変わっていないことに気がつく。人類全体で一つの体なのだ。というより生物界全体でひとつの体なのだ。

c.    体はどのように生まれ変わり続けるのか。DNAは35億年以上在り続けている。体は生まれ代わり続けている。自分はそれぞれの体に生じている信号だ。自分を狭く捉えるか大きく捉えるかだ。サクラの正体は花なのか、幹なのか、根なのか、ということだ。

d.    震災の奇跡の一本松が枯れた。影像で、吹雪の中のその松の木を見ている。私たちは同じもののコピーなのに、複写を重ねるうちに、ずいぶん違った姿になったものだと思いながら。

e.    生物は、進化の図式の先端の方が、元の方より良いのだと思っている。それは、自分の体が先端に位置するからだけの根拠だ。ハチドリはスズメから進化した。ハチドリはエネルギー多消費なので、限られた場所にしか生存できない。生息する密林のお花畑が消えれば、生存できない。原種と変種どちらに生きる力が沢山在るのだろう。進化とは、特定の狭い環境に、鋭く適応することだ。個体としては環境変化に弱くなるし、種としても、環境変化に適応する新たな進化の選択肢が狭くなることだ。こうやって、35億年前に誕生した生物のDNAは、盛衰の果てに、ヒト一色になって、消えていくのだろう。

6)           体とDNAの関係。

a.    体とは何だろう。種(しゅ)のDNAとして考えるか、個体として考えるか。感覚や感情の心で考えると、自分は現在の現実のこの体であるように思える。言葉の心で考えると、自分はDNAのように思え、みんな同じ木に咲いている今年の花で、ただこの枝とあの枝に咲く花の違いにすぎないように思える。

b.    この体はDNAの池だ。他の池から流れ込もうと、地下水が湧き出そうと、どちらにしても、元は同じ天水だ。この池も蒸発して元の天水に戻る。池は天で繋がっているということだ。始まりは一つの雲。無数の雨粒が海に注ぎ、又雲に戻る。

c.    卵、幼虫、さなぎ、成虫。どの段階が本当の蝶なのかと思う。全部が蝶なのだ。生物は流れる川の水のような在り方をしている。静止している石のようなものでなく流れている川のようなものなのだ。どこか一部分を切り取っても無意味なのだ。私の写真を並べる。乳飲み子から老人の今まで無数にある。他人には、すべてが同一人物だとはわからないだろう。これまで出会った人々にとって、このうちのたった一枚が、その人にとっての私なのだ。DNAで考えれば、乳飲み子から老の今までどころか、35億年以上前からの全部が私だ。そして地表に広がった生物の全てが私だ。自分とか他者とかに分けられない、DNA全体で一つなのだ。

d.    人が人を生んでいる。体が体を生んでいる。そのように見えるが、実際は、DNAが自身のコピーを作っている。ヒトは有性生殖だから、異性との組合わせで、DNAのコピーを作る。コピーされるのはDNAであって、体やヒトはコピーされない。今年の花が、去年の花のコピーではなく、DNAのコピーなのと同じだ。

e.    世界一のさんご礁、グレートバリアリーフには、1000種類の魚が住んでいるのでなく、1000に分かれた1つの命が生きていると考えてみる。

f.    ヒトのDNAは数百万年前に生じた、同じ一つの変種のDNAで、個々の体を区別する物差しにはならない。1本のサクラの木の無数の花のように、木つまり人類のDNAにおいては、花つまりは、同じ一つのものの一部なのだ。自分と他者の体は、別のものでなく、数百万年前からつながっている同じものの一部なのだ。ヒトと限定せず、もっと大きく生物と考えれば、35億年前に生じた同じものの一部だということになる。

g.    この体のあらゆる部分は、DNAが手近な材料で作っている作り物なのだ。だから体の正体は、手近な材料で作られた見せ掛けの肉や骨などではなく、DNAなのだ。この体を作っているのは、父母や祖父母の体ではなく、35億歳のDNAなのだ。

h.    DNAは情報だ。環境も情報だ。言葉もDNAのように伝わる情報だ。

i.    DNAは、情報を記憶する高分子化合物だ。二重螺旋構造を用いて自身を複写する情報だ。一方で物だから、物質世界に存在する為の物理的な手段つまり核膜や細胞を必要とする。体は物としてのDNAを保護する為に作っている装置だ。DNAは情報でもあるので転写を繰り返すが、体は物なので転写できない、1代限りの使い捨てだ。

j.    体はDNAの紐が咲かせる花だ。DNAの紐は物質としての長さは2mだが、情報としての長さは35億年以上だ。その紐には、父母や祖父母、その又父母や祖父母だった遺伝子の一部も情報になって編みこまれている。自分を体だと錯覚すると、孤立している一本松のように思える。枝先と枝先が互いに別々だと思っていても、元を辿れば、1株の木の一部なのだ。見えないだけなのだ。

k.    DNAを知ると、人類は皆兄弟、生き物すべてが皆兄弟ということがわかる。祖先を辿れば共通の祖先にたどり着くということだ。

l.    320万年前のアファール原人の化石が発見され、440万年前の原人には無い土踏まずがあることが確認された。別に、ニワトリの孵化の過程で、小指が中指に吸収されることが確認され、鳥と肉食恐竜は同じ系列にあることが分かった。世代交代前のDNAと世代交代後のDNA、DNAと体、世代交代前の体と世代交代後の体、体と言葉である自分との関係は、それぞれ次元が違う。世代交代前のDNAと世代交代後のDNAは、二組のトランプから抜き出して混ぜて作った一組のトランプのようなものだ。違うとか新しいという分類はできない。

m.    体は生まれたり消えたりしながらつながっていく。消えるのは毎年の花だけで、幹は35億年間以上続いているし、この後も続く。

n.    アフリカで176万年前の精巧な最古の石器が発掘された。私の体につながる原人それもホモエレクトスの、言葉の心の化石だ。体の化石について考える。原人の最古の体としての化石は2百万年前。サル、哺乳類、爬虫類、両生類と遡って魚類と共通の祖先としては12億年前。単細胞生物としては35億年前。地球の物質としては40億年前。素粒子としては137億年前に生じたということだ。今こうしているこの体は、長い歴史を背負っているのだなと思う。始めに思ったのは、この体は一体いくつの体の鎖なのだろうということだ。石器を作った人から数えても、一世代20年として、2の9万乗(176万割る20)、とてつもない人数で、宇宙の星より多い。一方、この体の細胞が60兆個あってそれが毎日1兆2千億個ずつ入れ代わっていることを考えれば、体の鎖も細胞の連鎖も、宇宙と同じように無限の奥行きがあると分かる。さらに考える。単細胞生物だった長い期間は、同じ二つに分裂を繰り返していた。つまり一つが数だけ増えて、どれも同じ一つだった。有性生殖になっても、同じ一つが二股に分かれて同じ一つを作るという意味で同じことだ。そうなら自分のこの体は35億年間、ずっと同じ一つだったことになる。今地上にいるあらゆる生物は、同じ一つのDNAの木に茂っている葉の一枚一枚ということになる。自分もその葉の一枚だということになる。

o.    人類の先祖は、5億2千万年前、ナメクジウオになり、魚類、両生類、爬虫類、哺乳類と変化してきた。その間、DNAのうちのたった10%が変化してこんな姿になったのだ。「人類の先祖がナメクジウオ」という発想でなく「ナメクジウオの子孫が人類」と考えると、ナメクジウオが神のような尊い存在に思えてくる。自分も、先祖に守られているようで、安らかな気持ちになる。

p.    体は、DNAの水甕。一人一人が持ち運びしている水甕だ。みんな違う水が入っていると想いがちだが、汲み上げてきたのは、見えないけれど地下深く広がる同じ地底湖の水だ。DNAの湖だ。

q.    体は、35億年以上前の原始の海に、彗星が運んできた高分子化合物から生まれたDNAが、その時々に咲かせる花の一輪だ。別々に見えるが同じ一つなのだ。

r.    35億年前に生じた一個のDNAが、刻まれた情報を変化させながら、数を増やして、地上に広がっている。一個一個が別々に生滅をしているように見えるが、本当は一つで、右手と左手が競争したり食い合ったりしているだけだし、一連の電球の一つ一つが点滅しているだけなのだ。DNAは体の中に居るのだが、見えない。体を作り、操っている神のようなものだ。

s.    仲間とは、同じ何かを共有している関係のことでもある。視点を体に置くなら、同じDNAを共有している関係のことだ。DNAの違いは、ヒトとヒトの場合は1%未満、ヒトとチンパンジーは1.23%、ヒトとネズミは20%。程度の差こそあれ、35億年前の最初の生命誕生から今日、未来に至るあらゆる生命は皆仲間だ。血縁とはDNAが通過してきたパイプのことで、DNAのことではない。DNAは親から子へバトンリレーで渡されるように見えるが、実際には全人類共通のDNAの海からその都度汲み上げられるのだ。一滴の海水に海全体の成分が含まれているように、親は人類全部のDNAの海の一部だ。独立した水溜りではない。この体はパイプの子孫でなく海の子孫なので、親よりDNAが似ている他人だってたくさんいる。

t.    人はすべてX染色体をもつ♀であって、その半分がY染色体の作用で♂の形をしている。♀♂は人類存続の方便に過ぎない。

u.    サクラの花を見る。子供なら花の一輪一輪に命が在る様に見え、小枝に群れ咲く花の固まりが家族のように思えるだろう。この花がお父さん、これがお母さん、これが自分で、兄弟だと思うだろう。そして花の一輪一輪が、毎年短い命を繰り返しているように思うだろう。大人なら、毎年開く花だけでなく葉や幹や根も含めてサクラの木で、全部で一つの命のように思うだろう。一本の木が枯れて初めて命の終わりだと思うだろう。植物学者なら、見えないDNAを共有する種(しゅ)全体で一つの命のように思うだろう。もう死は無くなる。形を変えて生き続けていると思うだろう。本当は、35億年前に生じたDNAから進化し、広がったDNA全体を一つの命のように思えるといい。地上には35億歳の、唯一の命が広がっているように思えるといい。

v.    鳥や魚を見ればわかるように、生まれるというのは、死出の旅路の始まりだ。つまり死出の旅路が生きるということなのだ。決して後戻りできない、宇宙のビッグバンと同じ現象なのだ。老人は若者に、大人は子供に、子供は母胎に戻らない。覆水盆に返らず。高校の英語の老教師が、くどくど繰り返して、英作文のテストにも出した。意味は教えてくれなかった。失敗はやり直せないという程度で考えていた。今なら、この死出の旅だとわかる。芭蕉の「奥の細道」も同じ意味だ。見送りの人々は、野辺送りの気持ちだっただろう。

w.    体は戻れない道を歩んでいる。花は蕾に戻れない。蕾は木の芽に戻れない。木の芽は枝に戻れない。枝は幹に戻れない。幹は根に戻れない。根は種(たね)に戻れない。種は花に戻れない。蝶は蛹に戻れない。小鳥も卵に戻れない。大人は子供にもどれない。子供は母体に戻れない。じいちゃんのじいちゃんは、もういない。骨のかけらがお墓にあるだけ。膨らんだ風船は、ゴムが伸びて、もう戻れない。体には、戻れる母胎はない。戻れる故郷もない。戻れる昔も、昨日も、ちょっと前すらもない。自分を体だと錯覚していると、戻りたいと思う。夕日が地平の向こうで朝日に戻るのを信じたい。ヒトだけが何故、来たところに戻りたいと思うのだろう。35億年前に始まった命が、戻れない分岐点を越えてバラバラに別れ、食い合いながら、戻れないリレーを続けている。命のバトンは戻れない。宇宙も戻れない道を歩んでいる。

x.    沼がある。底に泥が溜まっている。泥の中に気体が生じる。時々プクリと泡になって水中に飛び出す。丸い膜で包まれている。他の泡と競争したりぶつかったり、小さな泡を取り合ったりしている。その間もどんどん上昇していく。やがて水面に出ると割れて、中の気体は大気になって混ざり合う。沼の底の泥が体のDNAの海で、泡が言葉の心の働きである自分で、大気が言葉のDNA海だ。