3.11物語。 1.
前書き。 (1)最近、3つの御伽噺の、誕生についての、興味深い研究が発表された。地震と津波と、物語の誕生との関係についてだ。かぐや姫は東北、浦島太郎は東海、桃太郎は四国の大地震と津波に関わって生まれたという説だ。それぞれ、津波にさらわれた人々について、思いをはせた物語だ。かぐや姫は、行ったきりになった女の子、桃太郎は帰ってきた男の子、浦島太郎と乙姫は生死を分けた若い夫婦の物語だ。最近の例では、宮沢賢治の銀河鉄道の夜がある。友達と津波で流されて、自分だけ生還した少年の物語だ。 (2)今回の地震でも、失われた命を惜しむ、さまざまな物語が生まれつつある。あの日から十月十日後に生まれた子供達は、幼い女の子、幼い男の子の生まれ変わり、現代のかぐや姫や桃太郎だ。別れ別れになった夫婦は、助けた亀に乗せられて竜宮城に行き、はるかな時間を楽しく暮らし、数百年後の津波とともに、きっと元の浜へ戻ってくるのだ。 (3)あの日から60年。あの津波で父親を失った女の子が、67歳になって、以下の物語を得た。 2.
新・かぐや姫。 (1)序章。 @ 津波が来て、お母さんの、心の腰が抜けてしまった。津波に、心の大切なものをさらわれてしまった。でも何がさらわれたのかわからないまま、毎日、魂が抜けたようになって、お店も再開できなくなってしまった。見かねた末娘が、津波の後を追って、失われたものを見つけて、とりもどせるなら持ち帰るし、取り戻せなくても、言葉に固めてしまおうと考えた。失われたのは、家族なのか、家なのか、これまでの努力なのか、魂の大切な部分なのか。何をなくしたのかが分からなければ、埋めようが無い。心の空洞が、感覚や感情の心の空洞なら、言葉で埋める必要がある。空洞を埋めるための言葉が必要になる。言葉さえあれば、生きようとする力を再び作ることが出来る。 A あの日、津波が引いて、母親と店が在った跡へ戻る。津波に耐えた竹やぶで箱に入った巻物を拾う。父の名前が書かれた布に包まれていた。香木の軸に和紙を巻いた巻子本だった。かすかな香りが父の声に聞こえた。それから12年、大学の国文科に入った。久しぶりに、あの巻物を開いた。日本書紀写本と書いてある。和紙が腐食し、広げることができない。軸を削って香炉で焚いて、父の声に耳を傾けるだけだ。 (2)悲哀の章。 @ 悲哀の克服の仕方。悲哀が感情のままなら、脳は際限なく悲哀の興奮を繰り返すだけになる。感覚や感情の心のまま虚無の宙をさまようのだ。悲哀の感情を言葉に変える。悲哀に輪郭や限界を与える。悲哀の意味や原因や対策が見える。家族が消息不明で、生きているかどうか案じ続けているのと、死がはっきりしているのとどちらが楽なのだろう。子の死を受け入れられずに、生きていると信じ続ける親の話をよく聞く。感覚や感情の心にとってはその方が楽だろうが、それでは言葉の心が働かせず、一歩も前に進めない。前向きに生きようとするためには、はっきり言葉にしたほうがいい。 A 行ってしまったかぐや姫という物語。死者の行方について、言葉にできれば受け入れられる。死者はどこへどうなったのだろう。今、どうしているのだろう。もう会えないのだろうか。死者は生きている間も、自分にとっては言葉だった。言葉だから体と違い、生きたり死んだりしない。これまでのままだ。今も自分の中に居る。そんな物語を自分で作る。銀河鉄道に乗っていった女の子、それがかぐや姫だ。残されたおじいさん、おばあさんの悲しみをどうすればいいのか。銀河鉄道に乗って追いかける。連れ帰る。交信する。帰ってくるのを待つ。行方不明。行方とは何なのだろう。死ぬとは体のことであって、自分がつながっていたその人、言霊のことではない。その人が発した言霊はどうにもなっていない。いままでどおりだ。そう思えるように、これまで感覚や感情の心の対象だったその人を、言葉の心の対象つまり言葉にする作業が必要だ。 B 苦難に出会うと、言葉の心の働きである本当の自分が現れる。本当の自分は、現在の現実を越えて、記憶の過去や願望の未来に行くことが出来る。記憶の過去は黄泉の国で、願望の未来が月の国だ。言葉の心は、言葉を得ようとする。生まれてきた意味、生きている意味、死ぬ意味などだ。だから、言葉にできない事物に対しては、恐れや怒り、絶望の反応を起こす。愛する者が死んだとする。死んだ意味が分かると、感情の混乱も治まるが、意味が分からぬまま死なれると、混乱する。意味が分かれば救われる。意味が分からなければ、理不尽に奪われたことになり、怒りや絶望に囚われたままになる。ヒトは、愛する者を失うと、言葉にして取り戻そうとする。消えたのでなく別の世界に生まれ変わったとか、この世にまた生まれてくるとかだ。時間を掛けて、物語を生み出す。大きな災害の後、しばらくすると、あちらこちらに、残された人々が創った物語が、泉になって湧いてきて、大きな一つの物語の川に合流する。かぐや姫も桃太郎も浦島太郎もそうして生まれた物語なのだ。 C 死ぬとは、2つの意味がある。他人の死、つまり感覚や感情の心に映る体の死、そして言葉の心の働きである自分の死だ。愛する人が死ぬ。その人自身は消える。しかし、その人の自分であった言霊は、残された者の心に在り続ける。ずっと木霊を続け、呼べば山彦が返ってくる。 (3)再出発の章。 @ 地上で、恋の鞘当を、逞しくやってのけ、十五夜が近付くにつれ、心の中に、別世界が膨らんできて、月の世界に帰ってしまう。子供の頃、叔母から竹取物語をきいて、かぐや姫の気持ちになって、自分の体と心が分離するような、不思議な気持ちになりました。サンテグジュベリも、偵察機に載って戦争を戦いながら、星の王子様になって、星の世界から地上の自分を見て、不思議な世界を描き出しました。両方に共通する「乾いた、非現実的な感じ、日常では味わえない快い感じ」は、心を遠い世界に置いて、そこから地上の自分を眺めている、哲学の始まりだったような気がします。その頃、NHKのTVで、月面を飛ぶ探査衛星「かぐや」を見ました。月平線から浮かび上がってくる地球を見ることが出来ました。 正面の青い広がりはインド洋、あそこの右のどこかに自分が生きている島が在るのだなと思って、地球というより自分を見ている気持ちになりました。かぐや姫も、サンテグジュベリも、自分を、こんな風に見ていたのだなと思いました。 A 私は二人いて、それぞれ別の世界に居ます。その世界は決して一つにはなれません。一人目の私は、この世界全体を遥か遠くから観察しています。この世界を、自分の中に言葉で作り直しています。世界は自分と共に始まり、成長し、終わる、と思っています。もう一人の私は、地上にいて、他の多くの人々に混ざって、その一人として生きています。一人目の私が言葉の心で、もう一人の私が感覚や感情の心です。言葉の心の働きである私は、感覚や感情の心である私を、遥か上空から「ウォーリーを探せ」のように見ているのです。ほとんどいつも、自分は感覚や感情の心なのだと錯覚していますが、正体は言葉の心なので、その矛盾に苦しんでいます。 B この物語の骨格は、癒しの国に生まれたかぐや姫が、救いの国に生まれ変わる物語です。感覚や感情の心から言葉の心に切り替わる物語です。 C 感覚や感情の心である偽の自分が居るのは、地上つまり現在の現実です。言葉の心の働きである本当の自分、つまりかぐや姫が帰るべき世界は、月つまり記憶の過去や願望の未来なのです。 D かぐや姫とは言葉の心の働きである自分のこと。地上とは、感覚や感情の心が映し出す現在の現実のこと。月とは、言葉の心が作り出す記憶の過去や願望の未来のこと。自分が言葉の心であることを忘れないで、地上の心つまり感覚や感情の心に安住しないで、月を目指す心を育てなさいということなのです。 E かぐや姫は、月、つまり言霊の海から、ヒトの心に流れ込んだ言霊のこと。月に帰るとは、言葉になって発信されて、言霊の海に戻ることです。 F かぐや姫は、人の心の成長を象徴しています。生まれながらの感覚や感情の心が映す、現在の現実という、地上の世界から、言葉の心が作る、記憶の過去や願望の未来という、月の世界へ、心を切り替える物語なのです。 3.
新・銀河鉄道の夜。 (1) ずっと昔、あの世に引っ越した父と、その末娘が、列車に乗っている。通過する駅や景色を見ては、QアンドAをする。旅の終わりが近づく頃、川が見えてくる。ずっと向こうには海らしい光の線が薄く広く見える。川はそちらに向かっている。「それがお前がいる川で、あれがわしがいる海だ」。 (2) 現在の現実の列車では、一人一人が孤独に旅をしている。別々に乗って、一時同じボックスに座って、また別々に降りていく。おまえは、そう思っているだろうが、どの川もみんな、あの光る海で一緒になるのさ、と父が言って消える。 (3) 父は消える前にこんなことを話していた。 @
銀河鉄道がやって来るとは、外の現象としては津波のことだが、心の現象としてはその人の言葉の心が働き始めると言う意味だ。言葉の心になれば、いつでも迎えに来るんだよ。現在の現実の群雲から、車窓の明かりが近付いてくる。乗車する。会いたい人に会って話ができる。過去の人も未来の人にも会える。行きたい場所にも行ける。車窓からは見たい景色が見える。 A
親になったら子に、祖父になったら孫に、言葉を残してやりたいと思う。言葉は自分そのものだから、ずっと一緒に見守っている感じがする。しかし子供が育つ時期には、自分も未熟で、感覚や感情が邪魔をしてうまくできなかった。その分孫にしてやろうと思うが、孫が大人の言葉を使えるようになる頃には、もう自分はいないだろう。自分だって祖父母の言葉はほとんど覚えていない。宮沢賢治は、農学校の生徒に、丁寧な言葉で、分かり易く、新しい知識を伝えたのだろう。 1)
先生はまた云いました。「ですからもしもこの天の川がほんとうに川だと考えるなら、その一つ一つの小さな星はみんなその川のそこの砂や砂利の粒にもあたるわけです。またこれを巨きな乳の流れと考えるならもっと天の川とよく似ています。つまりその星はみな、乳のなかにまるで細かにうかんでいる脂油の球にもあたるのです。そんなら何がその川の水にあたるかと云いますと、それは真空という光をある速さで伝えるもので、太陽や地球もやっぱりそのなかに浮んでいるのです。つまりは私どもも天の川の水のなかに棲んでいるわけです。そしてその天の川の水のなかから四方を見ると、ちょうど水が深いほど青く見えるように、天の川の底の深く遠いところほど星がたくさん集って見えしたがって白くぼんやり見えるのです。この模型をごらんなさい。」先生は中にたくさん光る砂のつぶの入った大きな両面の凸レンズを指しました。「天の川の形はちょうどこんななのです。このいちいちの光るつぶがみんな私どもの太陽と同じようにじぶんで光っている星だと考えます。私どもの太陽がこのほぼ中ごろにあって地球がそのすぐ近くにあるとします。みなさんは夜にこのまん中に立ってこのレンズの中を見まわすとしてごらんなさい。こっちの方はレンズが薄いのでわずかの光る粒即ち星しか見えないのでしょう。こっちやこっちの方はガラスが厚いので、光る粒即ち星がたくさん見えその遠いのはぼうっと白く見えるというこれがつまり今日の銀河の説なのです。そんならこのレンズの大きさがどれ位あるかまたその中のさまざまの星についてはもう時間ですからこの次の理科の時間にお話します。では今日はその銀河のお祭なのですからみなさんは外へでてよくそらをごらんなさい。ではここまでです。本やノートをおしまいなさい。」そして教室中はしばらく机の蓋をあけたりしめたり本を重ねたりする音がいっぱいでしたがまもなくみんなはきちんと立って礼をすると教室を出ました。(銀河鉄道の夜)。 B
私にも、こんな風に丁寧に分かり易く、娘に伝えたい言葉がある。天の川のことでなく、心の川のことだ。と父は思いました。 1)
体の在り方を考えてみよう。 a 体の使命は、DNAに記されたとおりの形に成長し、成熟し枯れていくことです。草花で言えば、DNAに記されたとおりに花を咲かせたり、枯れたりすることです。人の体も同じです。生老病死は、DNAに書かれた使命の成就です。言葉の心の出る幕ではないという意味で、善悪、良非はありません。DNAには、生き方や死に方は記されていません。生き方や死に方はどうでも良いということなのです。途中で風に吹かれたり、暖かい日差しを浴びたりすることなど、どうでも良いということなのです。 2)
死について考えてみよう。 a 体は、DNAが動植物や水や鉱物を組み合わせて作った、地球からの借り物です。DNAは水や太陽、空気や土、他の生物の体を用いて、自分の体を作ります。体は洋服のようなもの、それも借り物なのです。 b 自分の死を思う時、実際は親しい誰かに死なれた時の気持ちになっています。本当は、自分が死ぬのは、悲しくも恐ろしくもありません。なぜなら、自分の終わりだから、感覚も感情も、もちろん感想も存在しないのです。愛する者に死なれると、悲しみや恐れをたっぷりと味わうことになります。自分の死を思うなら言葉の心ですべきで、感覚や感情の心では、根も葉もない悪夢を見るだけです。 c 体が死んでも、DNAは40億年以上在り続け、これからも在り続けます。この体が子供を作っても作らなくても、この体を作ったDNAは元々のDNAの海にあり続けるのです。 3)
心の正体を考えてみよう。 a 電球(脳や神経)に電流(刺激)が流れると、明かり(感覚)と熱(感情)が生じ、点滅して信号(言葉)が生じ、自分や世界や時間が生まれます。 b 自分は心です。自分は、感覚や感情の心が映し出す現在の現実に居るのではなく、言葉の心が作り出す記憶の過去や願望の未来に居るのです。体を生み出すのは、体のDNAの海です。言葉の心の働きである自分を生み出すのは、言葉のDNA、つまり言霊の海なのです。 4)
自分とか世界、時間の正体を考えてみよう。 a 1cmほどの小さなクモが、直径1mほどの網を張っているとするとします。クモは目が見えないので、網の振動で獲物を感知しています。日が暮れると網を畳んで食べて眠ってしまいます。網はたんぱく質なので体の一部に戻ります。網は、クモにとって、昼間は世界や時間で、夜は自分だということになります。自分も世界も時間もクモという働きの一部なのだと分かります。ヒトについて言いかえれば、自分も世界も時間も、ヒトの言葉の心という働きの一部なのです。 b 「それは自分のものだ」と思うことがあります。好きになった友達とか、おもちゃ、早い者勝ちで手にいれた公園のブランコです。道端の草花や天の星、犬や猫に名前をつけると、自分のものになった気がします。鉛筆や教科書に名前を書くのもそのためです。物には自分の物と誰かの物、みんなの物、誰のものでもない物があります。自分の物という時の自分とは、何処の誰なのでしょう。みなさん、鏡を見てください。みなさんの自分は何処にいるのでしょう。体全部のようにも思えますし、顔のようにも、目や額の辺りにいるようにも思えます。髪の毛を一本抜いてください。髪の毛や爪は切れてしまえばもう自分ではありません。戦争で手足が千切れたら、もうその手足は自分ではなくなります。私の体験を申しますと、8時間全身麻酔をして心臓の手術を受けました。その間、体はいたのでしょうが自分は消えていました。体がそのまま自分であるとは言えないことが分かります。心は脳の働きで、古い順に感覚の心、感情の心、言葉の心があります。信号機のように、赤、黄、青という風に点滅しています。青が一番新しくできた言葉の心です。目を閉じたり、鼻をつまんだり、耳をふさいで下さい。それでも自分はいます。自分は感覚の心ではないことがわかります。怒っていても悲しんでいても変わらない自分がいます。自分は感情の心ではないことがわかります。ですから自分は体でなく心それも言葉の心だと思います。 c 自分とは何なのかを考えますと、思いついた何かは、それを含むもっと大きな何かの一部で、果てしなく広がる同心円の重なりのようです。DNAから考えをはじめてみましょう。人類という体のDNAの海があります。大きさは現在65億個です。そのうちの2個の体のDNAが出会って、一個の体が生まれます。でも、この体は自分ではありません。体をテレビ、心をドラマだとすると分かりやすいかもしれません。自分は心、つまりドラマです。でも、ドラマには3種あります。現在の現実だけのドラマ、興奮させるだけのドラマ、そして、記憶の過去や願望の未来を見せてくれるドラマがあります。自分はどのドラマだと思いますか。 d 世界がどこにどうあるのか考えてください。見えている範囲や見たことのある範囲かもしれません。見えていなくても、見たことが無くても、知っていたり、知らなくても想像できる範囲かもしれません。名前さえ知っていれば自分の世界の一部になります。見えていても名前を知らないと、恐ろしいと思ったり、あたかも何も無いように思えたりします。 5)
時間はどう在るのかを考えてみよう。 a 過去を見る時は、感情の興奮に邪魔をされずに、その時の状況が、より正しくわかります。そして自分へのこだわりから自由になれます。神の目を得るのだと思います。現在の現実を見る時は、生きるための欲望である、快楽や安楽を求めます。動物としての心になります。未来を見る時は、神の心と、動物としての心が融合します。場合によっては、悪魔になります。 b 感覚の心は何を求めるのか考えてみましょう。快楽を求めます。感情の心は何を求めるのか考えてみましょう。安楽を求めます。これを癒しといいます。良くも悪くも、そう出来ているのです。 c 言葉の心は、何を求めるのか考えてみましょう。目的、我慢、努力、幸福を求めています。これを救いといいます。しかし感情の心に逆戻りして、正義や真理という言葉を創り出し、自分へのこだわりを強め、相手を、正義の反対の悪や、真理の反対の偽という言葉にして、敵に見立て、攻撃や差別をしてしまいます。良くも悪くも、そう出来ているのです。 d どうすれば本当の救いが得られるのか考えてみましょう。 e 言葉は発信されると、自分や感情の心の殻が消えて、言霊になります。そんな言霊が、先祖代々積み重ねられて、大きな言霊の海になっています。言霊には自分へのこだわりや、動物としての感情の心の働きが残っている悪い言霊と、それらから解放された良い言霊が在って、良い言霊を自分の中に引き込めばいいのです。具体的には、本を読んだり話を聞いたりして、自分で善悪を判定して選別するのです。鵜呑みにすると、悪い言霊に汚されてしまいますよ。 f
体のDNAと言葉のDNAの海が在って、体のDNAの海で体を得ると、上陸して暮らします。言霊のDNAの海から言霊を引き入れて自分を作ります。体は一方通行ですが、自分は言霊を生みだして言霊のDNAの海と言葉の心を、行ったり来たりします。 6)
幸福について考えてみよう。 a 幸福とは何でしょう。感覚や感情の心に生じる快楽や安楽とは別次元の、言葉の心の状態のことです。幸福は、言葉の心が作る言葉です。ですから言葉とは無縁の、体や、感覚や感情の心には幸福はありません。幸福とは、言葉の心が、困難に挑戦し、目的を定め、我慢と努力をしている時の心の状態です。不幸とは、挑戦する困難が無かったり、困難に挑戦せず逃避したりして、目的が持てない状態、我慢も努力もしていない時の心の状態です。退屈や虚しさとして現れます。 4.
新・家なき子。 (1)
昨日のニュースで、最新の数値は、震災で親を失った子供が1500人、うち両親を失った子供が200人。 (2)
この物語と初めてであったのは、まだ字が読めない幼稚園の頃だった。ストーリーとして理解できないまま、一人で放り出されるということだけが、何とも恐ろしい話だった。イエナキコという発音がずっと大人になるまで、忌まわしい音として耳に残っていた。家が無い子供という意味ではなく、父母がいない子供という意味だ。父母の代わりは、祖父母でもつとまらない。しかし少し前の時代まで、人はちょっとしたことで死んだから、私の父もそうだが、イエナキコは普通にいた。 (3)
幼くして親を失うのは、手足を失うのと同じで、埋めようの無い傷なのだろう。周囲ができることは、親の代わりを与えることではなく、言葉にして受け入れさせることだろう。親を体として感じ、感覚や感情の心で受け止めていた心の状態から、親を言葉にして、言葉の心で受け入れることを助けることだ。昔はそれが宗教だった。現代の子供は、非科学的な言葉では救われない。納得できる科学的な言葉が必要だ。 (4)
子供は言葉の心が未発達なので、感覚や感情の心のまま、正月や誕生日やクリスマスは、自分のために誰かが何かをしてくれる日だと思っている。子供にとって、してくれる人を失うのはとても辛いことだ。大人になると、自分が誰かを楽しませ、その結果、自分が幸福になれる日だということが自然に分かる。 (5) アップルの創業者、ステイーブ・ジョブズのTVを見た。成長してから養子と知らされ、誰が親かも教えてもらえなかった彼が、自分は親に捨てられたという気持ちをバネにして、世界を変えて、世界の自分への評価を回復しようとしたと解説していた。人類の現状を見れば、感覚や感情の心の興奮はほどほどにして、言葉の心に比重を移す段階なのに、病んだ心の癒しための道具を作り出した彼は、進化の袋小路に皆を導いたのだと思う。 |