(1)残り火の始末。

@      生老病死を恐れる感覚や感情の心の火種を、火消し壷である言葉の心に入れる。つまり生老病死への恐れを言葉にする。

1)「生」を言葉にする

a.    動物としての「生」とヒトとしての「生」

ア.青年時代に、自分の人生の意味や価値について考えて不安になった。このままでよいのか、何をしたらよいのか、などと考えてしまう。誰の目を気にしていたのか。神仏や世間の人々の評価だと思っていたが実際の評価者は言葉の心の働きである自分自身だった。言葉で目的を持っていなければ評価のしようがない。目的を作れば、この疑問の答えも明らかになる。この不安や迷いは目的を持っていないことが病因で、目的を持つというのが治療法だったのだ。

イ.体には生きている状態と死んでいる状態がある。みんなこのことに気をとられている。感覚や感情の心には、覚めている時と消えている時がある。みんなこのことに気をとられている。本当の自分は言葉の心の働きだ。積み重なった言葉の塔だ。生きも死にもしないし、覚めも消えもしない。生きているのは体や、感覚や感情の心のことで、言葉の心の働きである自分のことではない。生きているといっても、それは感覚や感情の心が映し出している現在の現実のことで、本当の自分がいる言葉の心が作った記憶の過去や願望の未来のことではない。そんな自分が求めるべき救いである未来や目的を持たずに、自分を体だと錯覚して、現在の現実の癒しや体に執着しても、すべてが虚しい、救われないということだ。自分は願望の未来を言葉で作ることで救われる。目的を作る、それが言葉の心の働きである自分の救いだ。

ウ.男性の世界最高齢は京都の113歳だそうだ。一方で、福島の102歳の男性が、原発事故による避難命令を苦にして自殺をした。天寿を全うしたのか、しなかったのか。天寿とは体の問題と思われているが、本当は心の問題なのだ。体は生老病死の輪廻に従っているだけだ。天寿も不慮の死も関係ない。心が死を受け入れる状態が天寿なら、心は体を生かすのが使命だから、死を受け入れることはない。使命を放棄するのでは、天寿ではなく自殺や逃避だ。本当の天寿とは日々の生き方のことで、死の時期とは無関係なのだ。言葉の心の働きである自分が天寿を考え審査しているのだから、本当の天寿は言葉の心の働きに関わることだ。言葉の心の働きである自分は、物ではなく情報だから、生も死もない。物である体と情報である自分は別の次元の現象だから、体の死と自分の満足を結び付けて考えることが誤りだったのだ。自分には生死は無いのだから、天寿も無い。体は、体の事情で崩壊する。自分と体は別次元に生ずる別々の現象だ。天寿とは両立しない条件があたかも両立しているかのように思い込んだ錯覚なのだ。

エ.死ぬことを言葉にして明らかにすると、生きることが言葉になって浮き上がってくる。死を思わないと生きていることも思えない。死を思うことでヒトとして生きようとすることが始まる。死を思わないと動物のように生きているだけ、発生して消滅するだけになる。太陽が照らすから影ができる。影が在るから、そこが日向であることが分かる。生きているから死を思う。死を思うから、今生きていることの意味が見える。

オ.だまし絵がある。黒い部分に意識の焦点を当てると、あの世の自分が見える。白い部分に意識の焦点を当てると、この世の自分が見える。その時々の心理状態で、どちらにも見える。一回どちらかを思い込んでしまうと、反対は見えなくなる。部屋の照明が消える。真っ暗になる。黒も白も見えなくなる。あの世もこの世も消える。死だ。黒のあの世も、白のこの世も、生きている光の中で見ていた色だったのだ。あの世もこの世も、生の一部なのだ。生きていることは大変な努力の結果だ。生きていることが言葉に出来ずに漠然としたままだと、あの世が生とは別にあるように思えてしまうが、あるのは生だけで、あの世もこの世も生きている間に見る夢なのだ。

カ.死とは何だろう。生も死も抽象的な言葉だ。現物のりんごと言葉のりんごは次元が違うように、体が死ぬ生命現象と言葉である死は、別次元の物と情報だ。現実の死は、見聞きした他者の体の死だ。言葉の死は、言葉で作る抽象的な死だ。自分の死は現実には無い。今、起きていないし、起きたとしても自分はもう居ない。病床で思考しても、回復しないのか、どれくらい生きられるのか、諦めるのか否か、すべては、死ぬまでどう生きるか、生き方についてしか思考できない。日常で苦難に面した時と同じ思考だ。死んだら自分はどうなるのか、死後の世界は在るのかなどは、単なる未知への好奇心や恐れなので、宇宙の果てや生命の神秘のように、この世に溢れる未知の一つとして、普段から自由に思い描けばいいのだ。自分の死について作った言葉で、感覚や感情の心の動揺を抑えるのは、実際の死に際してだけでなく、日常の生きるための努力の一つだ。

キ.感覚の心は、今生きている、現在の現実という点にいる。点だから長さつまり時間はない。永遠だ。感情の心は、感覚の心の点を、生きていたいという線にする。線だから終わりは無い。永遠だ。生きていることに終わりはないというのが感覚や感情の心の前提だ。言葉の心は現実の生命活動とは別の情報活動をする。記憶の過去や願望の未来を作る。感覚や感情の心の前提となっている永遠を抽象的に観察する。線の終点、端を考える。死とは何だろうとは、この線の端とは何だろうということだ。端も線の一部だ。死は生の一部だ。死は生の端っこという意味の言葉だ。

ク.言葉の心の働きである自分にとっての生は、体の細胞の働きや、感覚や感情の心の働きのことでなく、言葉の心の働きのことだ。体とDNAが異次元にあるように、体と言葉の心の働きである自分も異次元にある。体のDNAは人類全体の体のDNAの海から汲み上げられ、また同じ海に戻していく。体は個々別々ではなく、同じ体のDNAの海から生まれている。自分を作っている言葉も、人類全体の言葉のDNAの海から汲み上げられ、また同じ海に戻っていく。個々の自分の言葉というのは発信される前までのことで、発信後は自分が消えて、人類全体の言葉になり、言葉のDNAの海戻っていく。生まれたり死んだり、生じたり消えたりしているのは体や自分で、その大元である体のDNAの海や言葉のDNAの海は在り続けている。

ケ.言葉の心の働きである自分は、すべてを言葉のつながり、物語にして、自分や世界や時間を作っている。物語は起承転結で構成されるが、一番大切なのは結末だ。物語の終わり方の予想で、途中の楽しさが決まってしまう。花が散るのを肯定すると、そこまでのプロセスも肯定される。蝶を肯定すると蛹へのプロセスも肯定される。死に対しては、誰もが子供のようだ。大人の顔色を見て自分の評価にしている。人参をおいしそうに食べる大人を見ていると子供は人参が好きになる。大人が恐れおののいている場所には子供は近づかない。誰かが死ぬと、大人が、お悔やみを言う。早すぎた、残念無念だ、死ぬべきではなかったという風に、その死を否定してみせる。否定する方が、感覚や感情の心の働きで簡単だからだ。しかし、故人の死への全否定は、聞いている子供に、人生の物語はアンハッピーエンドなんだと刻みこんでしまう。「終わりよければすべて良し」の反対だ。死にまつわる老病や煩わしさに負けない、肯定的な物語が必要だ。感覚や感情の心に流されない言葉の心の働きが必要だ。チベットの死者の書はそんな物語だ。自分は体でなく心、それも言葉の心の働きなのだ。死を明るい結論とする物語は、自分の中に、言葉でそういう物語を育てることで得られる。勿論その物語は死ぬためでなく、生きようとするための努力だということも分かる。

コ.小学生の頃、自分や両親が死んだらと思うと、何とも言えない恐怖感が湧いた。生や死、体や心を、言葉にして考えられないと、死は感情に止まり、言葉の心の働きである自分は混乱するばかりになる。

サ.猟師に追い詰められた鹿は断崖からジャンプする。生きようとする行為なのだ。動物には自分で死ぬという選択肢は無い。自分の死という状態を想像すら出来ない。考えてみれば、生きている自分が死んだ自分のイメージを探すというのは、太陽が暗闇を探すような、変なことなのだ。

2)老病を言葉にする

a.    他人事としての老病を言葉にする

ア.    老病を言葉にする

  老いや病は体に生じる。感覚や感情の心に惑わされて、自分が老いたり病んだりしていると思い込んでしまう。

  映画で、若い肉体が見る見る老いて干からびて、崩れて風に飛ばされていくのを見て思う。これまでの日々、見ていたのは、スローモーションの魔法の映像だったのかと思う。感覚や感情の心にはスローモーションで見えるが、年をとると、スローモーションの魔法が解けて、過去が、早回しに見える。このままずっと変わらないという感覚や感情の心の魔法が、壊れていくのがわかる。

  始まりを完全な状態とし、時間の経過とともに、変化していく過程を、壊れていくと認識する。宇宙は137億年前に壊れ始め、今も壊れ続けている。生き物は皆、最初の一個の細胞が壊れてできていく。体も生まれた瞬間から壊れ始めている。体は細胞が壊れる過程で作られるもので、心は体が壊れていく過程で作られるものだ。この過程は一方通行で復元はない。老いて感じる時間の経過について生じる悲しみの感情はこんなイメージだ。

  ずっと昔の写真を見ていると、もう生きていないであろう人々が忙しそうに歩く街角風景に、悲しい気分にさせられる。古い写真の、もうこの世にいない祖父母を見ていると、悲しい気分になる。生老病死を目の当たりにする感じがする。

  過去から未来へ一本の道が貫いている。過去は言葉のレンガでできた道だ。前を見れば道はなく靄を照らす光の反射が見える。靄は虚無、光は自分の手にある懐中電灯の明かり、言葉、生きようとする心、願望の未来だ。若い時は、光は強いが靄も濃い。行く先が定まらない。不安も焦燥も大きい。老いて振り返ると、はるばる登ってきた過去の道が、記憶のレンガを敷き詰めて、ここまで続いている。やっと靄が晴れ、近づいた山頂を見上げて一服する。

  年をとるとだんだん時の流れが速まるように感じるのは、感覚や感情の心が弱まって、現在の現実への執着が弱まるからだろう。毎朝、郵便受けに新聞を取りにいく。朝食のテーブルまで持っていく時は幸福な感じがする。新しい出来事が感覚や感情の心を刺激し興奮させてくれる予感がする。しかしさらに歳をとるにつれて、記事のどれもが、かつて出会った似たようなことばかりになる。既に言葉になって記憶されたことばかりになる。新聞を取りに行く気にも、読む気にもならなくなって、曜日や日にちへの関心も薄れていく。新聞も配達されなくなる。

  早春のサクラ吹雪、熟秋のモミジの舞。いさぎよさこそ美しい。秋のサクラ、冬のもみじは浅ましい。

  自動車を考える。使える間は大切にされる。廃車になる。できれば消えて欲しいと思われる。そういう自分も他人に対してそう思うようにできている。自分の癒しにならないものに対しては、癒しを与えないようにできている。他人からの癒しに依存して生きてきたら、それは辛いことだろう。贅沢な衣食住や遊びだって、金と引き換えに与えられた癒しにすぎない。救いの種を持っていなければ、老後は無残だろう。救いの種とは、しないではいられない目的のことだ。

  体は歳をとっても、心は歳をとらないよ。その証拠に、おまえが良く言う「手を繋いで」「こっちを見て」「聞いて」と同じ気持ちを今も持っているよ。

  老いるにつれて、日が暮れて、街灯が燈る。外界は消えて、自分の影がだんだん濃くなって、終には自分の影だけになる。その日までに自分の影を育てておかなければならない。

  若い時は、家族や自分の体の必要を満たすことが優先だ。歳をとるとそれらから自由になる。豆だって鞘がカラカラに枯れなければ熟さない。しかし得た自由を、感覚や感情の心を癒やすつまみ食いに使うだけでは救われない。言葉で自分や世界を広げ充実することで救われる。和歌や俳句にはそんな働きがある。人生の収穫期、癒してくれるものと救ってくれるものを見極めなければならない。絵や音楽は、感覚や感情を癒すものが多い。作者には救いだが、鑑賞者には癒しだ。

  人生の質は、家族や自分の体の必要を満たす問題を乗り越えて、言葉で自分や世界を作ることにある。しかし前半で力尽きてしまうことが多い。

  若い頃は、願望の先に未来があり、未来の果てに幸福があると思っていたが、今は、願望そのものがゴールだったのだとわかる。

  Black is beautiful。黒は美しい色だ。その言葉の由来は知らないが、きっと、黒人よ、誇りを持てということだと思う。白人に対してというより、自分に対して胸を張れということだ。年をとると卑屈になる。それは体の衰えが、肌の色のように心を暗くするからかもしれない。失うことばかりに意識がいくと暗くなる。得るといっても、体と同じものを、同じように得るのではない。別の何かを、別の形で得るのだ。Silver is beauiful。老いに自信を持てということだ。

  生きるために集め磨いた武器を、軍縮のように減らしていく。感覚や感情として生じる欲望は生きている力そのものであって、その炎を絞っていくのだ。できれば、体の炎より先に弱めるのがいい。というか、自然の法則で、否応無くそうなるのだが、それを感謝して受け入れ、逆らわないという事だ。感覚や感情の太陽が沈み、言葉の月が昇る。

  歳をとる。体験や知識が蓄えられて、喜怒哀楽の感情も落ち着き、言葉の材料が豊富になる。年をとることの良い面を伸ばす、悪い面を抑える。

  加齢につれて、体の老病は進み、心は怖れる。いつか来るのは漠然とした幸福でなく確実な死なのだから、救いは未来ではなく今ここになければならない。死なないことを前提とした幸福論は沢山あるが、死ぬことを前提とする幸福論が必要だ。命の終わりを脳に納得させ、受容れさせる、野菊が花をつけ、種をつけ、播き終えて、冬まで少しの水と養分で、晩秋の太陽の暖かさを楽しみながら枯れていくように。

  「俺の人生はたいしたこと無かったな」と、つい口に出しそうになりながら、一人酒を飲んでいる。これまで何千回「こんな生き方でいいのだろうか」と思ったことだろう。人生は呼吸と同じだ。こんな息の吸い方や吐き方で良いのか、自問自答しても無意味だとはわかっている。でもふとした瞬間に思ってしまう。サラリーマンをやめて14年、未だに評価を気にする性が残っているようだ。襟裳岬の歌詞の「飼いならしすぎたので」というフレーズがほろ苦い。

  人生の軌跡を振り返ると、感覚の心に生じた美しいもの、感情の心に生じた温かいものは宝物だが、時間の向こうに置き忘れ、ほんの少ししか残っていない。だからこそ貴重なのだが、それとて、言葉にしたものだけがかろうじて思い出されるだけだ。言葉だけが今もこれからも自分とともにあり続けるのだ。

  父母との家庭は永遠の存在に思えた。自分も家庭を持ち、父母は遠くなった。子供が家庭を持ち、子供も遠くなった。永遠と思えた父も死んだ。競争心を燃やしたライバルも死んだ。この世の周辺が寂しくなるにつれて、あの世の輪郭がはっきりしてくる。外が暗くなって、部屋が明るく見える感じだ。

  夏の昼に街を歩いていると、みんな犬のような影を連れている。体が影を連れて歩いているように見える。秋になると、影が濃く長くなる。影が体を連れて歩いているようだ。影は心のようだなと思う。人生の夏には体が主役だ。秋になると影が主役になるということだ。

  心電図検査の待合室で。自分が失ったものばかりが気になる。20歳の若者は20年を失ったと思っているだろう。それを見ている自分は、彼が自分の今の歳までの時間を持っているように見える。砂漠で水を飲みつくした人が、他人の水筒を羨む様なものだ。過去に持っていて今失っているものは、無いというだけで光り輝いて見える。他人の芝生だ。眼前の花より、散った花の方が美しいと思えるのだ。

  年をとると、現在は殺伐として、美しいものが少なくなった、昔は人情溢れた良い時代だった、と思う。世相や社会がそのように変化したのではなく、子供だった自分が大人になって、社会を見る目がそのように変わったのだ。世の中を、子供だった自分は良い、美しいと思い、大人になった自分は悪い、醜いと思っているということなのだ。変わったのは世の中でなく自分の心なのだ。過去は、自分が子供だったので、子供の目から見えた、保護と依存で支えられた幼い世界とダブっているのだろう。だから暖かく愛情に満ちていたように思われるのだろう。現在は感覚や感情の心が生み出す、競争差別の世界だから、殺伐として、油断ならないように思われるのだろう。

  体や、感覚や感情の心の老いは、自然に訪れる。言葉の心である自分には老いはない。記憶の過去と、果てしない願望の未来だけがある。

  長生きしても生甲斐を見出せない現在の現実の国を捨てて、言葉の国を作ろう。子育ての喜びはもう無く、労働力でもない。体や、感覚や感情の心の衰えは、言葉の心の働きつまり、記憶の過去や願望の未来の力で補える。愛してくれた人は減っていく。風呂の水が冷めるように、周りがどんどん寂しくなっていく。愛されて生まれたのに、疎まれて死ぬことになる。脱皮が必要だ。

  犬猫はゾウや鯨より寿命が短い。犬猫はゾウや鯨より不幸か。樹木の中には樹齢数千年というのもある。人より幸福か。一年草は多年草より不幸か。父は75歳で死んだ。母は89歳で未だ元気だ。父は母より不幸か。幸不幸は何かと比較する物差しでなく、ただの感情の浮き沈みだ。

  チベット人には突然死が多い。突然死は「心がけがよかったから」と受け止められている。高塩分、低蛋白、高脂肪の食事が原因だ。食事の指導で、顕著に改善する。しかし寿命を延ばすことは、安楽死の物語を壊すことになる。新しい物語が必要になる。

  寿命とは、生きている時間だと思っている。生きている時間の長さが幸不幸に関係あるのだろうか。生きているのは、体か心か、心ならば、感覚や感情の心か言葉の心か。生きている時間には、感覚や感情の心になっていたり、眠っている時間も入るのだろうか。時間は、長さや重さのようなものだろうか。それが分からないと、答えも分かるはずが無い。自分とは何なのだろうと考えてみる。自分は言葉の心の働きだ。細胞が生きていても、体が生きていても、感覚や感情の心が生きていても、言葉の心の働きである自分が生きているとは限らないと考えてみる。それ以前に、言葉の心の働きである自分は情報だから、体のような生死とは異次元に生じていると考えてみる。情報は発信された星の光のように、体や自分から自由になってどこまでも進み続けるのだと考えてみる。

  歳をとれば必ず死ぬと分かっていても、自分への愛という流木から手が離せないまま漂っている。震災で飲み水が不足すると聞けば、心細さゆえに、真っ先に行って買いだめをしてしまう。どうすることもできない。幼い頃は、自分と家族は一体だった。成長につれて、自分だけを愛するようになる。死が身近になっても、自分だけを愛しているが故に、自分の死をどう迎えたらよいか分からず、ただ死を避け、生き続けようとする。命の法則に任せて、安らかで自然な死を迎えることができない。そもそも他者を愛さなければ、自分という流木から手を離せないのだ。自分の為という果ての無い暗闇を、永遠にさまよう魑魅魍魎になる。本当は、ヒトは自分のために生きる者でなく、愛する者のために生きる者なのだ。考えれば、昆虫や動物や植物、すべての生き物は自分の為でなく子孫のために生きている。自分以外の為に生きる者には安らかで自然な老いや死が与えられる。

  若い頃は、自分とこの世は一体だった。この世の額縁に自分がピッタリはまっていた。この世が列車のように走っていて、自分もぴったり寄り添って、同じ速度で走っていた。年をとって、自分の速度が落ちると、去り行く列車の後姿しか見えなくなって、見送っているような気分になる。

  ボストンの夕暮れの町をカメラが散歩するTVを見た。日没間近の海にヨットで漕ぎ出す若夫婦。老人は公園のベンチで読書だ。子供を公園や野球場で遊ばせる若い親もいた。私は老齢なので、公園のベンチがいい。若夫婦のように、景色を楽しむのにはもう飽きた。本も読みたくない。外界からの情報に飽きると、脳の神経細胞は新しいニューロンを伸ばすより、既に在る近隣のニューロンとからみつき、記憶の言葉の世界を深めることができるように思う。ニューロンは感覚や感情の心に支配されているうちは外に向き、内側には伸びないのだろう。

  今の自分のまま、現在の現実のままでいたいというのは、感覚や感情の心の働きで、生きている力だ。今の自分を乗り越えよう、未来に向かって努力しようというのは、言葉の心の働きで、生きようとする力だ。どちらも大切だ。午前中は、感覚や感情の心で、景色や旅を楽しむのがいい。午後になったら、言葉の心になって、目的地までの距離を稼ぐのがいい。日暮れが迫り、疲れたら、さらに言葉の心を深めて、宿を見つけるために心を用いるのがいい。

  子育ても終った。いつか誰も居なくなる予感がする。結局残るのは自分しかない。自分の心の世界を育てよう。老人の孤独。追っかけていた背中、前のランナーは皆、どこか彼方に消え、前には茫漠とした霧がかかるだけ。一緒に競って走っていた友人も消えた。前方に目を凝らせば、若い頃の自分の背中が見える。知らぬ間に追い抜かれた感じだ。ゴールは目標で、到達したり、越えることが出来ないように出来ている。

  実家がある分譲地は40年前に山を削って開発されたものだ。歳月を経て、家々の庭の植木が育って、花も咲き乱れている。庭で子供を遊ばせれば喜ぶだろうが、住んでいるのは老人ばかりだ。大きな家の一つ一つに一人か二人の老人が入っていて、お迎えを待っている、大きな棺おけのようだ。庭木だってそんなに寿命が長いわけではないが、ヒトの命は本当に短い。物は癒してはくれても救ってはくれない。物は自然の法則から逃れられない。物の浮き輪に掴まっていると、自分まで自然の法則の渦に引き込まれてしまう。自分は情報生物で、情報しか自分のものにできない。自分は、本そのものを自分のものに出来ないが、読めば、本の内容は自分のものにできる。しかし、そういう自分すら自然の法則から逃れられない。自分という浮き輪に掴まっていると、自然の法則の渦に引き込まれて、苦しみが増してしまう。自分は情報で、情報には物のような自他の区別がないということに気がついて、自分は自分だというこだわりも、早めに手放したほうが良い。

  毛虫が蝶になる。ヤゴがトンボになる。卵が小鳥になる。それを羽化という。子供から大人になるのは、特定器官の成熟ではなく、言葉の心の成長のことだ。元服は名前という言葉を与えることで、言葉の心の成長を促す儀式だったのだろう。老醜とは、言葉の心になりきれず、感覚や感情の心のまま、自然の法則から逃げそこなった姿だ。

イ.    老いを言葉にする

  手術直後に、病室の鏡を見る。脂っ気が抜けた髪、血の気が失せた皮膚が青白い。ヒゲだけが元気だ。目も光を失って暗い洞窟のようだ。祖父の晩年の写真を思い出す。どんな紅顔も、老いて病めば、このとおりだと思う。老いは避けたいものでなく、実りのように迎えたいものでありたい。ただ、若さの輝きのような、花や果実のような、他者をひきつけようという意図はもう不要なので、他者には美しく見えないだけなのだ。自分にだけ来る収穫の秋なのだ。

  歳をとる。感覚や感情の心の残り火を掻き立てても、もう体を温めるだけの熱は得られない。沈香は、この世で最高の香りだと思うが、それでも、感覚や感情の心を一時癒すに過ぎない。感覚や感情の心の温もりは、何も残さず消えていく。日暮れの旅人が宿の明かりを求めるように、言葉の力にすがる時だ。日記の後半は、前半でしてしまったことへの反省、懺悔、悔恨で十分だ。過去を振り返れば、その時その時に言葉に作りそこなった感覚や感情が落ちている。落穂ひろいのようにそれらを拾い集めて、言葉にするだけで十分だ。それも、恥や悔いることばかりだった気がする。ふくろうのように体を人目にさらさず、声だけの存在になってしまいたいと思う。

  歳をとると、諸行無常とか、自然の移り変わりの中にいる自分が気にかかるようになる。年をとったからではない。心の世界が広がって、それまで見えなかったものに気がつくようになったのだ。特に時間の経過や自然の一部としての自分が、謙虚に客観的に見えるようになる。老化でなく脳の働きが成熟したせいだ。

  幼い頃、近所に昼なお暗い大きな屋敷があって、ワクワクしながら庭に忍び込んで、太い庭木の間で遊んだ。暗い窓から誰かが覗いていても叱ったりされなかった。今思えば蜘蛛の巣のようだった。中心に黒い蜘蛛がじっとしている。もう動く気はないようだ。子蜘蛛が巣立って、老いた蜘蛛だけが残っていたのだろう。老いた体に秋風は冷たく、巣はたるんで風に震えている。心は蜘蛛で体は蜘蛛の巣のようだ。

  日が高いうち、つまり若くて時間がたっぷりあるうちは、日差しの青に負けて夕焼けは生じない。光と足元の真っ黒い影がこの世のすべてだ。夕方になると、自分の影は周囲に溶けて消え、目前の山並みに美しい夕焼けが見えるようになる。

  年長者が、どれほど知恵や能力に優れていても、年若い者には譲らなければならない。今年の花がどれほど美しくても、来年の花の芽には、譲らなければならない。DNAがつなぐ命の鎖はそのように出来ている。

  夏の間、大きな顔をしていた幸福感や高揚感は、秋になって、洗いざらしのTシャツのように、色あせ縮んでしまう。感覚や感情の心も萎れてしまう。老いとともに、夕日のように光を失っていく。刺激を避け、ドーパミンやアドレナリンの分泌を増やさず、禁断症状を弱め、感覚や感情の心でなく言葉の心に燈を点す時だ。

  呆けるということの定義。感覚や感情の心は呆けない。呆けるのは言葉の心の言葉を作る能力だ。感覚や感情を言葉にして記憶の過去や願望の未来を作る能力が衰える。もう記憶を貯めても備えるべき未来が無いのだから当然だ。冬の蟻のように漁り回る必要も無い。現在の現実を把握する感覚や感情の心は呆けない。既に言葉になっている記憶も呆けない。新たな言葉つまり記憶の過去や願望の未来を作れなくなるだけだ。

  体や、感覚や感情の心からの脱皮。自分が着ている体が、キシキシいったり、くすんだり、色褪せて、古びてきた。周囲にいたはずの親しい顔も減って寂しくなってきた。町に出ても居場所がない感じ、テレビをつけてもぜんぜん面白くない。目に映る風景も、食事を前にしても、本を開いても、ぼやけて、茶色の靄で霞んでいる。そもそも眺めたり、食べたり、読む気が薄れてきた。順調に成熟しているのだ。言葉の心の働きである自分が、体や、感覚や感情の心を脱ぎ捨てる準備が進んでいるのだ。これを最後とか終点と思うのは、自分を、体や、感覚や感情の心だと錯覚しているのだ。自分は最初から、言葉の心の働きで、体の蛹からの脱皮が近づいているのだ。月への帰り支度をするかぐや姫なのだ。

  還暦になって、来し方から漂う香りに振り返る。古い自分が新しい自分を見送っている。還暦とは、心が体から脱皮する、言葉の世界に移住する、旅立ちの時だ。

  60歳を越えたら、夕暮れを迎えた旅人のように、歩み方を変えなければならない。旅程を稼いだり、所用を足したり、道草を楽しむことから、今夜の宿探しに切り替えなければならない。過程を楽しむことから、ゴールに到着することに切り替えねばならない。感覚や感情の心から言葉の心へ重心を移さなければならない。

  夕映えの影法師。日が傾くにつれ、影は体を超えて、大きく濃くなっていく。昔のたそがれ時は、夕餉の支度の買い物や、帰宅する人、遊びから帰る子供達でにぎやかだが、町に明かりが少なく、皆、顔がない。前を行く後姿が死んだ人にそっくりで、追いかけても角で消えたりする。時には前を行く自分の後姿に出会うこともある。犬や猫がすり抜けていく時、人のように笑いかけることもある。逢う魔が時といわれ、天狗や人攫いがいた。月が出て、体が薄くなって影が濃くなる。体は感覚や感情の心、影は言葉の心の象徴だ。

ウ.    老いて得られるものを言葉にする

  ヒトの真価は、目的を作り、追求する場面で発揮される。言葉の心の力のことだ。若い頃は言葉の心は未熟だし、体力に自信があり、感覚や感情の心に従ってしまうことが多い。ヒトが本当に強くなるのは、言葉の心が成熟する人生の後半だ。ヒトの強さは老いとともにやってくる。皮肉なことに、体の強さと心の強さはすれ違いなのだ。老いたら、病んだら、気兼ねなく目的を作り、追求しよう。もう健康も家族も世間も気にしなくていいのだから。勇気を阻むものは無い。未来とは、時間のことではなく、目的のことだ。老いて時間が少なくなって初めて未来が持てるのだ。そんな老後を、安楽の癒しを求めて過ごすのは、蝶にならずに終わることだ。ヒトはそのようにはできていない。自己犠牲とは、嫌なことを引き受けることだ。姥捨て山の話は、進んで、自分を捨てた老母の話だ。世捨て人の話だ。捨てるのは自分へのこだわりだ。そして得られるのは、言葉の心の働きである自分の満足だ。救いだ。老いから死への輝かしい道中は、言葉の心で、目的を追求する果てにあるのだ。

  秋らしいさわやかな光に満ちた住宅街を、車で抜けた。古い分譲地らしく、住民も年配のようだ。庭の手入れが行き届いて、ゆとりのある生活が垣間見える。みんな、この平安を目指して働き、それを手に入れて楽しんでいるのだろう。老後に必要なことは何だろう。快適な衣食住、病気や死のための介護や医療や供養のためのお金だ。お金は癒しを蓄える道具だから、お金で買えるのは癒しだけだ。老いて、救いはますます必要になる。救いは買えないのだろうか。蓄えておけないのだろうか。救いとは言葉の心の満足だ。記憶の過去と願望の未来から湧いてくる。記憶の過去は、それまで生きてきた日々にどれだけ言葉を蓄えたかだ。願望の未来は、これからの生き方のことだ。目的を持っているか、求めているかだ。言葉の心の成熟のことだ。満足とは、快適で苦痛や苦悩が無いことではない。生きていると常に苦痛や苦悩と併走している。本当の満足つまり救いは、現在の現実の苦難に挑戦して、願望の実現に向けて生きようとする言葉の心だ。救いには苦難が必要なのだ。苦痛や苦悩が無ければ救いは無いのだ。癒しは、言葉の心の働きである自分を眠らせる。ヂ蜂の麻酔に掛けられて穴倉に引き込まれ、生きながら幼虫の餌にされる蜘蛛のようだ。体は生きていながら自分は死んでいる。残念ながら救いは苦難とセットでしか得られない。歳をとったら、もう怖れるものも、失うものも無い。勇気を妨げるものも無い。思い切り苦難に取り組んで、願望の未来を目指すのがいい。それがヒトとして生まれて得た、言葉の心の成熟の果てだ。歳をとって、癒ししか見えないと、お金を頼り、頼れないと究極の癒やしである自殺を求めることになる。癒しと救い、安心と満足は別だと知っておかなくてはならない。

  言葉の心の力が増す生き方をすれば、歳をとることが価値を増すことになる。香心門はそれを目指したい。青年期は言葉の心の成長の道を、熟年期は言葉の心の成熟の道を歩みたい。

  60歳になった。ここまでは、花や実のようなもの、つまり癒しを求めていた。今は種のようなもの、つまり救いを求める気持ちだ。感覚や感情の心の癒しでなく言葉の心のを求めるようになった。

  ヒトを蝶に例える。若い時は葉を食べて成長する毛虫だ。葉への食欲や体の成長の喜びがある。老人は蝶だ。もう葉は食べられない。体はもう成長しない。食べ物は蜜つまり言葉に変わる。若い時代にしかできない生き方と喜びがある。老いてしかできない生き方と満足がある。喜びには終わりつまり救いは無いが、満足は終わりを受け入れる気持ちにさせてくれる。救いをくれる。

  老いると、寂しさや虚しさが増すのは何故だろう。季節が変わったことに気がつかないで、眼前の変化を嘆いているのだ。本当は、老いは喜ばしい事なのだ。感覚や感情の心は競争差別の利己的な癒しを求めるように出来ている。若いうちは癒しを求める感覚や感情の心の力が、救いを求める言葉の心の働きである自分より圧倒的に強い。若い世代は、自分も他者も傷つけることを厭わずに生きようとする。それが若い世代としての役割だ。人類として見れば、種(しゅ)として生き延びるために、言葉の心の世代も必要とする。ある年齢になると成熟して言葉の心に比重が移るようにできている。体や、感覚や感情の心が弱まって、言葉の心が存在感を増してくる。老いは言葉の心が成熟する過程だ。癒しの葉を貪る幼虫から、救いの蜜を求める蝶への脱皮現象だ。

  本当に必要なのは言葉による救いだ。老人には若者への役目がある。子や孫に救いの言葉を伝えることだ。自分が癒しばかり求めていては、手本を示せないままとなる。癒しばかりでは、かえって、辻褄が合わなくなる人生の、悪い手本になる。

  歳をとると、体力が弱まる。どうすればよいか。進むべき方角や方法が分かっている時には体力は有効だ。しかし、どうしたらよいかわからない時、必要なのは言葉の力だ。若い頃より過去についての言葉の力は増している。現在の現実から癒しを得る力、願望の未来を見通しす力は衰えるが、記憶の過去に救いを求める力は増しているのだ。

  アンチエイジング。体の経年劣化対策のこと。脳も体の一部で、新しい情報の吸収力や演算速度は劣化していく。しかしこれまでに蓄えた言葉の体系だけでも、既に無限の力を持っている。

  川原で石拾いを楽しむ。つい宝石を捜してしまう。自分にとっての価値でなく、みんなにとっての交換価値を求めてしまう。歳をとるにつれて、欲が薄れて、石に刻み込まれた時間が見えてくる。すべての石が美しく見える。彫刻や絵画より、力強く、深い意味を湛えているように見える。

  細胞生物としては、繁殖が究極の目的だ。繁殖のための婚姻色や筋力を備えている。繁殖年齢を越えると、婚姻色や筋力は色褪せ、衰えていく。それを老いと呼んでいる。言葉の心の働き、つまり情報生物である自分にとっては、老いではなく、蝶に羽化するために、蛹の中で、身軽になるために成熟する季節なのだ。

  毛虫の時は地上で、葉をむしゃむしゃ食べていた。今さなぎになって、空を飛べる体に作り変えている。蝶になったら空を縦横無尽に飛び回って、食べ物も草の露とか花の蜜になる。人で言えば、言葉の心の働きになって言葉を食べるようになる。

  自分が願望の未来の中で生きてきたこと。命とともに願望の未来も薄れていくこと。食欲がないまま、食卓のご馳走を眺めている気持ち。もう、知っている人は誰もいないのに、人恋しい気分。

  必死に遊んでいる中高年の世代とすれ違うことが増えた。自動車やバイク、自転車や徒歩、様々だが、子供の頃より真剣に遊んでいる。すべきことが他にあって、余暇でしている大人の遊びと違って、子供の遊びは、それしかない聖なる行為だ。きっと子供の頃に探していて、ずっと忘れていた何か大切なものがあったことを思い出して、今また探し始めているようだ。しかしそれを喜こべる子供心はもう無いのだ。

  還暦を過ぎた頃から、街を歩いていると、同世代らしき人が、リュックを背負って、徒歩や自転車で、街をさ迷っているのに出会う。物見遊山のヤジキタ道中のような一行もいれば、苦行僧や巡礼のような表情の人もいる。少年のように自転車を一心に漕いでいる人もいる。老年を受け入れられずに、抵抗中なのだろうか。慣れ親しんだこの世界との別れを惜しんでいるのだろうか。年とともに迫る脱皮の季節。得るものでなく、失ったものに気をとられてしまう。何かを失うのを淡々と受入れる事は難しい。人は脱皮する。感覚や感情の心から言葉の心への脱皮だ。大脳新皮質が成熟して、感覚や感情の心を制御し始める。自分の死を意識しする。自分は、本当の自分である前に、男女や敵味方だったことに気づく。すべてを願望で見ていたことに気づく。願望が変われば見方も変わることに気づく。自分はプラスもマイナスもある磁石だったのに、プラス極だと思い込んで、自分を見失っていたことに気がつく。

  12月も最後の週だ。寒気が本格的になって来た。空気も乾燥して青空もキリッとした感じだ。昨日、桜並木を車で通った。40年ほど前に新興住宅地として開発された時に植えられた若木だ。どの木も40歳ちょっとか、程よいところで幹が3本ほどに分かれ、人が手を上げて万歳をしている姿に見える。枝先が毛細血管のように分かれて、先端は針のようになって、天に向いて開いている。どんな老木でも、木の芽は若い。合掌した手のひらのような蕾で、天を指差している。桜の木の寿命はたった60年だそうだ。人より短命じゃないか。若い桜の幹は、白樺のようで、ツヤツヤ輝いているが、花はまばらでみすぼらしい。寿命が近い老木の幹は、火事場の焼けボックイのように、黒くただれ、ゴツゴツ、ザラザラして、醜いが、花が咲き誇っている姿は、この世で最も美しいものの一つだ。惜しげもなく花びらを散らしながら、泰然自若として立っている。そんな桜の木の下で、人々は、桜が永遠の命を謳歌しているように錯覚して、わが身のはかなさを嘆いたりしている。ヒトより短い60歳の寿命を生きている生物だとは知らせずに、そう思わせる桜の在り方は立派だ。

  心には3つある。感覚の心、感情の心、言葉の心。若いうちは、感覚や感情の心の興奮を求める。年をとるにつれて、言葉にしておかなければ空しく思うようになる。自分の寿命に限りがあることに気づくからだ。言葉の心の働きである自分の本質がめざめるのだ。すぐに消えてしまう感覚や感情の心では、納得出来ないのだ。

  感覚や感情の心は、さっきと今、今日と昨日では、別の心になってしまう。言葉の心の働きである自分だけが、昨日と今日と明日をつなげて、同じ自分を保っている。

  芋虫には芋虫の生き方があり、蝶になったら蝶の生き方がある。今日の自分には今日の自分の生き方があり、老いた自分には老いた自分の生き方がある。芋虫が蝶になった時のために、葉を蓄えても、無意味だ。かといって、芋虫には蜜を蓄えることは不可能だ。今の自分にとって慰めになるものであっても、老いた自分を慰めてくれるというものでもない。

  もうすぐお盆だ。自分ももう63歳だ。父が死んだのが75歳。し残したことを考えると焦る気持が湧いてくる。今年初めてのミンミンゼミだ。暑苦しい声が、窓から流れ込んでくる。このセミがくると、今年の夏も峠を越えたのだなとも思う。あの声は地上の♀ゼミに聞かせているのかと思っていたが、この時期になると、地中の孫たちに語りかける老人の声に聞こえる。

  母と一緒にいると、かつて自分より優れていた人が歳をとるとどうなるのか、自分がどうなるのか見せてくれる。自分を愛してくれた人が、つまり自分の愛がどうなるのか見せてくれる。自分の感情がどうなるのか見せてくれる。

  頂上に着くと、初めて人生の全貌が見渡せる。ふもとの様子も、裾野の広がりも、歩いた道筋の意味も、川の源も見える。しかしそれは上りきった後の話だ。

  歳をとったつつじの古株が蕾を沢山つけるように、ヒトの古株にも言葉の記憶が沢山できる。言葉の畑を耕し、言葉の種を播いて、花園を作ることができるようになる。

  思考は脳細胞の自動的な活動で行われる。疑問が投じられると、関係する情報を持つ脳細胞が伴侶を求めて自動的に検索を続けて、いつか出会い、答えに達する。過去に放置したままのおびただしい数の疑問は、その後もずっと自動検索を続け、年を経るに従い、結論に達してくる。歳をとって得られる精神的な安定の正体はこれだ。

  初老の男性が、竹やぶに座り込んで、今が盛りの彼岸花の写真を撮っていた。若い頃、風景や家族の写真を撮りたくて仕方がなかったこと、その後、写真を撮ることに意欲がもてなくなったこと、どうしてだろうと考えたことを思い出した。心の働きには、感覚、感情、言葉と3つあって、若い頃は、自分を、体や、感覚や感情の心だと思い違いをしていた。写真は、感覚や感情の心に映る現在の現実の世界を残そうとする道具だ。歳とともに記憶の過去や願望の未来に興味が移り、感覚や感情の心が映し出す現在の現実への執着が薄れ、それとともに写真への興味も薄れた。自分は言葉の心の働きだという意味で、言葉は自分が居る限り一緒だし、死んでも残る感じがする。写真より言葉で残す方が良い方法に思われたのだ。

  朝食を作る。子供なら、試行錯誤や寄り道を楽しみながら作るだろう。大人は、お茶の作法のように、いつものとおりに、なるべく同じように、簡潔で能率よくやりたいと思う。つまり試行錯誤を省いてしたいのだ。言葉に置き換えるとマニュアルになって、それができる。もう学ぶべき新しいことがない行動はマニュアル化して、極力思考を省きたいのだ。目的達成以外に無駄なエネルギーを使わないようにできているのだ。そうしているうちに、日常生活全般に、思考停止が広がり、いつか、新しいことにも反応が鈍くなるのだ。

エ.    病を言葉にする

  行き付けの病院の壁に、偉人や有名人の名前と死因が掲示されている。あなただけではないとも書いてある。同じ病の人を慰めるためだ。感覚や感情の心のまま、情動を抑えようとするとガンになりやすい。競争差別の心が強すぎると心臓疾患になりやすい、とも書いてあった。

  義父が臨終の床に居る。もう3か月も点滴で、食事をしていない。うつらうつらして時々目を覚まし、家内に「ずっと何も食べていないはずだが、どうなっているのだろう」としきりにたずねると話していた。何も気になることがなく、心配も不安も無い、欲しいものも無いということだ。時間も無いので、このまま続いて欲しいとか、早く終りにしたいという気持も無い。人生の一大事だと思われている臨終の安らぎとはこんなものなのだろう。

b.    わが身の老病を、言葉にする

ア.我ら醜い体の老人たちよ

  目を閉じて、心を開いて、生きるべし。失われたものが見えないように。得たものが見えるように。

  年をとっても、愛されたい気持に変わりはない。それでは幼い頃、若い頃に愛されたのだろうか。愛される期待が大きいかどうかだけの違いだ。自分の心の持ち方だけの違いだ。

  デイサービスから電話があった。今朝母を迎えに行ったら化粧水を飲もうとしていたので、身の回りの品にご注意下さいということだった。とても嫌な気持ちになった。幼児がするのと、老人がするのでは、同じことが違う意味になる。幼児がするのは成長に伴う自然なことだと受止められるが、老人がすると、何かが壊れた感じがする。能力の発達過程と、崩壊過程の違いだ。しかし、皆そうなるのだ。何かを失った、得たという変化でなく、今何を持っているのかというありのままの姿を見なければならない。誰でも歳をとると幼児のようになるのだ。違うのは得る過程か、失う過程かの違いで、それは価値判断という別次元のことなのだ。

イ.「ああ、俺の人生ももう終りだな」

  老いも病も体に生じる。感覚や感情の心に惑わされて、言葉の心の働きである自分が、老いたり病んだりするのだと思い込む

    晩秋の中津川渓谷をドライブした。道端の酒屋に、おとり鮎ありますという、ひと夏の風に晒されて色褪せたノボリが、風に吹かれていた。冷えて白く見える川原の石や清流が見えた。落ち鮎の季節だなと思う。一年しか生きないこの小魚は、成長を終えて、産卵のため川を流れ下って河口に向かう。鮭のように行き止まりの上流で産卵を終えてむくろのようになって押し流されるのとは、現象は同じでも意味が違う。鮭のむくろは海にはたどり着けない。たどりつけてもそこは無意味な虚無だ。落ち鮎は、河口にたどり着き、それから最後の仕事に取り組むのだ。

    最近「ああ、俺の人生ももう終りだな」というのが口癖になっている。そんな時「俺の人生」とは何をイメージしているのだろう。過去のできなかったこと、今していることが中途半端になる予感。本当は、後悔や慙愧の念に首を絞められてあげている悲鳴なのだ。ろうそくはどんなに小さくなっても、燃えている間は熱と光を発し続けるのだと思い、耐えている。

    人生という山があって、頂上を目指していて、道半ばに、「君はここで終わり」という看板を見つけた感じ。

  老への恐れを言葉にする。

    老後のリスクに備えようという、金融商品の広告があった。リスクとは何か。大切な事物を失うことだ。老後に在る大切なものとは何なのだろう。この広告の目的は不安をあおり、保険の加入意欲を掻き立てることだけだ。だから、避けられない自然の法則である老いや死を、事故や病気のような、避けられるリスクとしている。これは、ずるいすり替えだが、誰も気付けない。

    老人の役目。祖父母がしてくれたように、子や孫にしてやる。人は老いるものだ、死ぬものだという現実を見せてやる。人は老いれば、弱く、醜く、不潔になり、思考力が衰え、吝嗇で、意地悪く、ひがみっぽくなる。そして誰もが病になり、死ぬ。赤の他人がそうなるのを見ても、まさに他人事にしか思えないが、自分の祖父母なら、自分もそういう存在であることが受け容れられるだろう。そうすれば、自分にも、他人にも完全を求めることの虚しさを知り、優しくなれるだろう。生きようとする道も、穏やかになるだろう。

    老いて容色の衰えを嘆く人が居る。同じ春に孵化して旅をしてきた鮭は、みんな一緒に生老病死の川を流れていく。自分の若い頃を知っている人の容色も一緒に衰えていく。あなただけでなく、世界も一緒に衰えていく。そう思えば諦めもつくだろう。嘆きも少しは軽くなるだろう。

    年をとったら、山小屋に独りで住んで、体を人目にさらさないようにして、時々、麓の若い人に、山彦の振りをして、役に立つことを語り掛けたい。

    年老いたら、冬眠中の動物のように、大木の洞で、秋に貯めた木の実、つまり体験を、リスのように齧ったり、牛のように反芻しながら、ウツラウツラと夢、つまり言葉を、紡ぎ続けて、春のことなど忘れてしまえばよい。

    人生を退く。強制退場でなく、自主退場。感覚や感情の心にとっては体から、言葉の心の働きである自分にとっては感覚や感情の心から、究極は、言葉の心の働きである自分が自分という殻からの退場だ。すべて言葉を発信することだ。それは生まれた時から今日まで絶え間なくしてきたことだ。

    成功体験が忘れられない。2匹目のドジョウを狙う心の働きだ。環境や季節が変ったり、体調や年齢が変れば、その時々で成功の内容や方法も変らなければならない。しかし快楽体験は、同じパターンから抜け出せない。感覚や感情の心に囚われたままの老害とはそういうことだ。

    秋の山の紅葉も美しいが、心の山の言葉の紅葉はもっと美しい。長生きしてよかったと思う。言葉が無ければ、老いは荒涼とした枯れ木の山だ。

    植物は、秋が来ると、冬の到来を予知して、タネを飛ばし続ける。ヒトも、冬の到来を予知して、言葉を飛ばし続ける。

    今はもう冬、花粉を運んでくれる虫も、花粉を受けてくれる花もいない。体としての使命は終わったのだ。心としての使命はこれからだ。

    感覚や感情の心は35億年の間に磨き上げた活動パターンを持っている。言葉の心は一代限り、ゼロから築くものだ。その言葉の心が一代限りのノウハウで35億歳の心を制御しなければならないのだ。老いて誇れるのはそのノウハウだ。

    自分は運転手だ。体は自動車だ。自動車は交換や買い替えが出来るが、体は、気に入らなくても、故障しても、老朽化しても、持って生まれた一台限りだ。

    死を迎えるにあたり、感覚や感情の心のままでは、死を敗北、挫折としか受け止められない。言葉の心になれば、体と自分は別次元の存在だとわかる。死は体に生じる自然現象で、言葉の心の働きである自分には生死はないと分かる。

    老後は孤独との戦いだ。その役に立つ武器は、思い出だ。記憶の過去だ。作り、蓄えてきた言葉の質と量だ。

    老いの道では言葉の杖が役に立つ。老いは誰にも避け難く、自然に訪れる季節の変化のようなものだ。大切なのは心の持ち方を感覚や感情の心から言葉の心へ切り替えることだ。

c.    老いの支度

ア.    感覚や感情の心から言葉の心へ、現在の現実から記憶の過去や願望の未来へ、癒しから救いへ、心の重心を移すことが必要だ。

イ.    言葉の心の働きである自分にとって、老いた日々に、本当に必要な事は何なのかを見極め、体や心に力があるうちに助走する。

ウ.    他人から見える自分は本当の自分ではなく、この体や、感覚や感情の心だ。自分を、他者に伝えたくなることがある。言葉を発信する必要がある。押し付けるようにでなく、老木が、蓄えた養分を落葉にして、若木に分け与えるようにだ。

エ.    年をとって、気力、体力が衰えてくる。生きることへの執着心が消えていく。草が枯れて養分を種に移すように、蛹が干からびて、蝶が破りやすくなるように。

オ.    母はボケが進んでいる。最近は、千円札と一万円札の違いが曖昧になった。呆けは何のために起こるのか。呆けも人類の生存に有益だから起こるのだ。命の終末が近付くと、この世への執着を弱めて、言葉の心の働きである自分に体からの脱皮を誘っているのだろう。

カ.    老後とは何なのだろう。老後とは、生きるための癒しに必要な物を得る活動に従事できなくなるが、生き続けなければならない現在の現実のことだ。思えば人生、いつも、未来は、言葉の心の働きである自分が言葉で作った願望の実現を求めて生きようとする場所だった。体や、感覚や感情の心のまま、癒しに眠る墓場のような場所ではなかった。若者だって老人だって、基本的な、明日をも知れぬ身、いつ途切れるかわからない時間という点は同じなのだ。未来とは時間でなく願望だ。若者も老人も、持っているのは時間でなく願望だ。未来を持ち続ける、それが心の救いだ。言葉の心の働きである自分が、目的を言葉で作って、実現すべく生きようとする。若者であろうと老人であろうとそれが救いだ。

キ.    体が衰えていくことや、死が迫ることを受け容れることができるのは、感覚や感情の心ではなく、言葉の心だ。

ク.    消費や蓄えによって感覚や感情の心は癒される。しかし癒しと救いは無関係だ。悠々自適な老後でも、得られるのは不自由な体の癒しだけだ。日々救いの水を掛けていれば大樹に育っていたであろう救いは、もはや育てる時間はない。老いてから、悠々自適に好きなことをしたいというのは、癒しのことで、救いのことではない。勿論、手厚い医療や介護も、癒しのことで、救いのことではない。体が不自由になって死が近づいてくる老後を過ごすのに必要なのは、体の癒しではなく心の救いだ。老いて必要なのは、老いや死を生きる心の在り方、救いなのだ。救いを求める心は、老いや死とセットで生じるものでなく、今も老後も無い。若いうちから育てる言葉の心なのだ。

ケ.    感覚や感情の心で日々を過ごしていると、冬が迫っても、冬を言葉にできていない。心は言葉にできていないものを恐れ、立ち向かえない。花や葉では冬を迎えられないように、感覚や感情の心では、蟷螂の斧のように、死に立向かえない。根に言葉の養分蓄えができていない。秋になる前に、花や葉の色香を養分に変えて、地中の言葉の球根を肥やすことが大切だ。

コ.    ヒトの社会は癒しの与え合いでできている。癒しを与えると癒しがもらえる仕組みだ。老いると体力が減退する。体力が必要な、他者への癒しの提供はし難くなる。結果、他者からも癒しを受け難くなる。体を用いる癒しから、心を用いる癒しへと技術革新をしなければならない。それでも癒しを与える能力は減退せざるを得ない。だから、癒しへの依存の量を減らすこと、やむをえない癒しなら、自給できる癒しへ質を変えることが必要だ。癒しから救いへ心の重心を移すことが必要だ。

3)死を言葉にする

a.    他人事としての死を言葉にする

ア.死んだサイン。心臓の鼓動や脈拍や脳波の停止、瞳孔の拡大などがある。みんな間接的な方法だ。死んだのはどこの何かが分からないから、直接確認できないのだ。一般論としての死とはそんなものだ。

イ.数百年に一度の津波で2万人あまりの死者が出た。一方毎年3万人の自殺者が出る。皆、自分は自殺しないと思っている。だから毎年の自殺より、数百年に一度の津波の方が重大だと思っている。死者にとって、死に方として、どちらが楽だったろう。色々だ。遺族にとって、死なれ方として、どちらが楽だったろう。やはり色々だ。しかしどちらかといえば、津波に関わる死の方が楽なように思われる。震災で家族や家や職を失った人々の再起と、自殺で家族を失った人々の再起と、どちらが困難だろう。色々だろう。しかし、自殺者の家族の方が困難は大きい感じがする。

ウ.誰かが死んだ時、自分の世界にいるその人は、いなくなるのだろうか。他人なら元々いなかった。歌手なら生死に関わらず残した歌を同じ気持ちで聴くだろう。小説家なら生死に関わらず同じ気持ちで残した小説を読むだろう。家族、肉親、親友、恩人なら、大切な物を失ったという感情に一時的に苦しめられるだろうが、言葉として残したその人の在り方には変化はない。その人に関する記憶も今までどおりだろう。死んで、会えなくなったのは、その人の体で、本当のその人、つまり言葉になって記憶しているその人ではない。しかし、言葉になって記憶しているその人が死んだように勘違いしてしまう。しばらくすると、その勘違いに気がつく。悲しい感情が収まれば、その人は、これまでと何も変わらず、居る。今までどおり、夢や空想の中で、会ったり、見かけたり、言葉を交わしたりする。いったん言葉に刻まれれば、何があっても失われない。赤ちゃんやペットとはスキンシップだが、一人前のヒトとヒトの付き合いはスキンシップではないのだ。

エ.死ぬのは何か。他人の死、体の死、感覚の心の死、感情の心の死、言葉の心の働きである自分の死、みんな別次元の話だから別々の出来事として考えよう。

オ.ペット専用の墓地の前を通った。体が死んだ後、心はどうなるのだろうと思った。体は死ぬと消える。心は体が死ぬと消える。心を感覚や感情の心と言葉の心に分けて考えてみた。感覚や感情の心は体とともに消える。何も残らない。言葉の心は体とは別のあり方で生じている。言葉の心には、言葉を受信して成長する部分と、発信して他者に感染していく部分がある。受信して成長する部分は体とともに消える。発信して他者に感染していく部分は、既に発信された言葉が、他者の記憶になって他者から再発信されたり、文字になって発信を続ける。つまり、体とは関係なくあり続ける。死者の供養をするとは、記憶になった死者の言葉を再発信することで、死者の言葉の発信力を生前のように活動させることなのだろう。死者を話題にすることが供養になるということだ。死者の言葉の心の発信力を生き返らせることだからだ。

カ.死ぬとは、体のことか、心のことか、自分のことか。生きているとは、体のことか、心のことか、自分のことか。死ぬとは何がどうなることなのか。死を考える時、死一般のこと、体の死のこと、自分の死のことがある。死一般とは医学的なことや、哲学的なことだ。体の死は、他人の死を目の当たりにして生じるイメージだ。自分の死は、観察不能なので、空想だ。どちらにしても死は言葉だ。言葉に出来ずに、ただただ不気味で恐ろしいという感情のままのこともある。死についての考えは「自分とは何か」から始めなくてはならない。自分は大脳新皮質の働きで、言葉で作った世界の中心のことだ。自分と体は同じ一つなのか、別々なのか。体は物だ。自分は情報だ。池の水面と映っている月のように、次元が違うから別々だ。体とは何か。自分は体から生じているが、自分から見れば、体は自分の為の道具だ。体の死とは何だろう。体がどうなると死んだ体になるのか。脳の働きが停止した状態だということになっている。自分の死とは何だろう。自分がどうなると死んだ自分になるのか。大脳新皮質が言葉の心の働きである自分を生み出さなくなった状態、言葉の心の働きである自分が、言葉を受発信しなくなった状態だ。自分にとっての死は、体のことでなく言葉の心のことだ。体の死と自分の死はセットで生じる同じ一つのことなのか、別々に生じる別のことなのか。自分の死は情報の受発信の途絶のことで、体の死は物の崩壊ことだ。次元が違うから別々だ。体や、感覚や感情の心は、現在の現実をひたすら生き続けるように出来ている。未来に生じるであろう自身の死は見えないから、自身の死を受け容れることは出来ない。生き続ける以外に選択の余地はないし、死が来てもその瞬間を生きている現在の現実としてしか受けとれない。言葉の心の働きである自分にだけ、これから起こる死を言葉にして観察することができる。

キ.先月、高校の同級生が死んだ。顔や声が浮ぶ。彼がした美食や快楽の累計は、私がこれからも積み重ねるそれより、ずっと多かったろう。私が彼をしのぐことができるとすれば、この瞬間、どんな小さなことでも、望んで、言葉で目的を生み出し、活動することだ。

ク.老人病棟の前のバス停に、二人の老婦人がベンチにすわっている。陽だまりなので気持ちよさそうだ。何を待っているのだろう。体を乗せてくれるバスの到着だ。心を迎えに来てくれる飛行機もだ。体の老婦人は、停留所を見下ろすホームの個室のカーテンの内側で寝ているのだろう。

ケ.命に限りがあることを、人はどのように認識するのか。死者の生前の写真。死者の死に顔。心の成熟度は、心の中に、何人の死者が言葉になって住んでいるかにより決まる。死は欲望を適正な範囲に囲い込んでくれる。

コ.死を言葉にすることは、言葉の心の働きである自分を強める。死を言葉にすることは、感覚や感情の心が求める癒やしの虚しさを教えてくれる。死についての言葉が感覚や感情の心の暴走を鎮めてくれる。

サ.生と死という時、違った二つがあると思ってしまう。実際は生しかない。死は、生の端をさす言葉だ。生は現在の現実だ。死は言葉で作った未来だ。生と死は、水面と月影のように、生じている次元が違うので比べられない。

シ.死つまりDNAによる個体の乗り換えは、遺伝子の進化を促すばかりでなく、癒しへの欲望の膨張を、個体の単位で消去し、種(しゅ)が自滅しないようにする安全装置でもある。個体の死は種としての救いだ。救いは、種が生き延びるための仕掛で、癒しは、個体が生きているための仕掛けだ。しかし、DNAに乗り換えられた電車に残された自分には別の役目がある。乗客を降ろした後の電車の始末だ。

ス.風船のゴムが内側の空気と外側の大気を分けているように、体が、個別のDNAと人類という種(しゅ)のDNAの海を隔てている。自分が、言葉と、人類という種(しゅ)の言葉のDNAの海を隔てている。細胞が二つに割れて生殖細胞となって、タンポポの綿毛のように、体を飛び立って人類のDNAの海に流れ込む。言葉の心の働きである自分も、言葉になって発信されて、自分という殻から飛び立って人類という種(しゅ)の言葉のDNAの海に流れ込む。風船が割れて、中の空気が大気に戻るようだ。生死について考えてみる。体の生滅と、言葉の心の働きである自分の生滅について考える。視点を体や自分から転じて、体のDNAの海や言葉のDNAの海に移せば、生滅はない。体や自分を生み出した海は体や自分の生滅とは関わりなく在り続けている。体や自分は海の飛沫だったのだ。

セ.感覚や感情の心にとって、死は究極の癒しなのだ。しかし言葉の心の働きである自分は、癒しを拒否し、苦痛を厭わず、生きようとするように出来ている。

ソ.焚き火をしている。あらかた燃え尽きたが、白い灰の中に、まだ小さな火が残っている。少しでも燃やし尽くしたい。どこで水を掛けたらいいのか迷う。少しでも残り火がある間は、水を掛け難い。苦痛が臨界で、治る見込みが無い時、どうするか。焚き火が人で、灰が体で、残り火が心だ。心には3つある。感覚の心、感情の心、言葉の心だ。言葉の心の死が自分の死だ。体は死んでもDNAに死はないように、言葉の心の働きである自分は消えても、発信した言葉は言葉のDNAになって、消えない。

タ.今年の梅雨は長かったね。「雨にぬれるとママに叱られるので、外で遊べなかった。さっきから耳鳴りのような音がするよ」。今年最初のセミの声だ。最初のセミの声は分かるけど、最後のセミの声はいつも記憶にない。聞く時にこれが最後だとわからないから、覚えられないんだ。きっと死ぬ時も、そんな感じで、わからないまま死んじゃうんだ。おまえが生まれてきた時はどうだった。「よくわからなかったよ」。

チ.DNAの信号が消えると、体は水や養分に戻る。心とか自分は信号で、切れた電球の中に光を探すように、体の中を探しても見つからない。

ツ.世界のすべての物や現象は、自分が名前をつけるまでは存在していない。それ以前に、世界そのものが、言葉の心の働きである自分によって言葉で作られている。だから、自分が消えれば世界も消える。自分が死ぬというのは自分が世界から消えることでなく、世界そのものが消えることだ。しかし、すでに発信した言葉は、言葉のDNAの海に在り続けるのだ。

テ.すべての事物は、自分が言葉の心の光を照射して、名前を付けなければ存在しないように、自身の言葉の心も、名前を付けられて自分になる。世界の一部分である自分でなく、世界を作る自分になる。つまり世界そのものである自分になる。言葉の心として生じ、名前をつけられて自分になり、世界や時間を作り、体の死によって名前を返上し、体は奪った相手に返し、自分はこの世に埋め、発信した言葉だけを言葉のDNAの海に残していくのだ。

ト.ある人は、自身を体も心も一体の、分けがたいものだと思っている。またある人は、体と心、それぞれ別々の働きの組み合わせだと思っている。さらにある人は、死ぬと心が消えて体だけになり、体は土に変わると思っている。いつか体と心がセットで復活すると信じる人は、死後も体を残そうとする。私は、体が死ぬと、心は消えるが、発信した言葉はウィルスのように残ると思うので、言葉を発信して残そうと思う。それは死後の自分の為でなく、死後の他者の為でもなく、生きている今の自分の救いの為だ。

ナ.死は、みんなの問題でなく、自分だけの問題だ。だから死の事を考える時にだけ、人は孤独になれる。死は、時には、みんなの問題にもなる。だから死の事を考える時にだけ、人は仲良くなれる。死は、具体的な問題でなく、抽象的な問題だ。見えない、感じられないことを言葉にして考える必要がある。だから死の事を考える時にだけ、人は賢くなれる。死を思うと競争や差別の感情は消えてしまう。だから死の事を考える時にだけ、人は共生できる。死は、答えが出る問題でなく、永遠に解けない問題だ。だから死の事を考える時にだけ、人は謙虚になれる。

ニ.ある人の死は、残された者にとっては、この世の中での一つの出来事にすぎない。本人にとっては、TVが真っ白になるように、自分も世界もすべてが真っ白になる。

ヌ.他人の死に立ち会う。死んだら体がどうなるのか、体が死ぬとはどういうことなのかが、感覚や感情としてよくわかる。他人の死は体のことだからよく見える。しかし死者の心は見えていない。自分は死ぬとどうなるのか考える。他人の死から受けた体の死のイメージで自分の死を考えようとしてしまう。しかし、自分の死は心のことだから抽象的な言葉で、体の死のイメージは具体的な感覚や感情だ。言葉と感覚や感情は異次元だ。心と体、情報と物、あの世とこの世を重ね合わせようとしているのだ。水面に映っている月を水と一緒に掬おうとするようなものだ。

ネ.死んだらどうなるの。心はどうなるの。世界と自分の関係はどうなるの。自分は有で、世界も有で、自分が死ぬと、自分だけが無になってしまう感じもする。それは錯覚だ。自分を言葉の心の働きだと考えよう。この世界を自分が言葉で作っていると考えよう。暗闇があって、体が電球で、言葉が光で、光が届く範囲が世界だ。体である電球が消えれば、光も消え、世界もまた暗闇に戻るだけだ。電球が点いていた間に発した光は、宇宙を駆け続けるのだ。

ノ.1個なら、それがミカンかリンゴか地球かわかる。ここにゼロ個の何かがあると言われても、困る。何も無いということなのか、そこにあるはずの何かが無いということなのか。情報世界では、ゼロというレンガでも世界を作ることができる。ゼロとは、無いものが、無いものとしてあるということだ。死は数字のゼロのようなものだ。何も無いのだが、死という何かがあるように思える。言葉なのだ。死は、数字のゼロのようなものとして、自分の脳内の情報世界に言葉としてあるのだ。それを感覚や感情の心が映し出す外界にあると思い込んでしまう。外界にあるのは他者の死体なのだ。「ここには何があるのか」なら分かるが、「ここには何が無いのか」となると困る。「生きるとはどういうことなのか」は分かるが、「死ぬとはどういうことなのか」となるとわからない。ゼロを持たない古代人は、死が他者の死体そのものに見えたに違いない。

ハ.家族の臨終に付き添う。あたかも病人の体に、自分の心が乗り移っているように思えてしまう。死を意識しているのは観察者であって、当人ではない。客観的に観察する死は、惨めで、悲しくて、敗北のように思えてしまう。実際の病人は、体ではなく、心の世界にいる。体とは異次元の場所にいる。欲望が消えて、人生で最高の、安らかな時間を過ごしている。死ぬ直前には、言葉である死についてなど、何も思っていない。

ヒ.金子みすずの詩に、イワシの大漁に喜ぶ浜辺の村人と、海底で親類の弔いをするイワシが出てくる。小スズメを捉えた子供を見て微笑む母親と、それを見ている母スズメも出てくる。死は見方によって色々に見える。自分の死、愛する者の死、見知らぬ人の死、遠くの人の見えない死。3月11日は、2万人が死んだ。一つの大きな特別な死が生じたのではなく、2万人の一人一人に一つずつ、いつかは避けられない普通の死が一斉に生じたのだ。愛する者に死なれた人にとっては、死因が大震災や戦争でも、日常の死であっても、納得の行く自然死などは一つも無く、すべてが寿命に至らない無念の死、理不尽で無残な不慮の死なのだ。毎年、日本中で百万人以上が死を迎えている。災害死や事故死、病死も多い。最近孤独死という特別枠も作られたが死は元々孤独だ。孤独でない死など幻想だ。どの街でも、毎夜遺体安置所の冷蔵庫は満員だし、毎週一度の友引の日以外、火葬場の火は絶える事が無い。死の悲しみや恐れを、特定の戦争や震災、病気、つまり原因の糾弾に発散するのでなく、一人一人いつかは避けられない死を安らかに受け入れるため、死の意味を考える機会にするといいと思う。都知事が震災は自己利益に目がくらんだ日本国民への天罰だと言って謝罪させられた。他人の災難について用いるなら悪い言葉の使い方だが、日本国民つまり自分自身に生じた災難を天の啓示だと受止め反省すべきだと言ったのは正しい言葉の使い方だ。

フ.睡眠は死と同じだ。言葉の心の働きである自分の電源が切れた状態になる。世界も時間も消えてしまう。タイマーで、ONに戻るかどうかの違いだ。

ヘ.死は生の糸の右端のことだが、「死」という言葉を発明すると、生とは別のものとして存在するようになる。生の糸の端っこだと思っていい。

ホ.死の間際といっても、それは結果論で、この傷病で死に至るのか至らないのか、誰にも分からない。分からない方がいいのだ。そんな状況で、病気や怪我の熱や痛みに耐えているとする。いままでがそうだったように、しばらくすれば、この苦痛は、なくなると願っている。自分は幸福だったかなどと考えるはずがない。死の予告をするならもっと早く、生き直せる段階つまり救いを求めることができる段階でなければならない。死の床では苦痛からの解放、癒しだけが求められる。本人も苦痛から解放されるためなら死などどうでもいいと思うだろう。

マ.死ぬ事は、プライベートな、一人ぽっちのお祭りだ。しかし、坊さんや医師など他人に頼ってしまう。思えば、これまでだって、すべてを他人と分かち合ってきたのではない。死ぬ時、看取って欲しいと思うのは人間だけだろう。他の動物なら、仲間から離れたい、本来の一人の状態に戻りたいと思うだろう。

ミ.蟻とキリギリス。キリギリスは夏を楽しんだので、冬に不幸になる。蟻は夏に楽しまなかったので、冬を幸福に過ごせるという日本人好みの話。夏冬を自然の季節に仮想している。季節では冬の後には春が来ることになる。しかし、老いの後には何も来ないのにと思う。冬は老いのこと、終点のことだ。蟻は本当に冬を幸福に迎えるのか。夏に蓄え、冬に消費するのが理にかなっているのか。キリギリスだけでなく、蟻にも春は二度と来ないのに。蓄えをすれば、老いの苦が少しでも軽くなるという切ない幻想なのだ。老いはどちらにも不本意にやってくる。蟻にも、キリギリスにも平等にやって来るのだ。冬の穴倉に何を蓄えても無駄だ。その穴倉を暖めるのは、食物のような癒しの手段ではない。それまでに自分や家族や他者の心を温め手元に貯まった言葉の輻射熱だ。老いへの準備は、癒しは何の救いにもならないと理解することから始まる。

ム.富士山はマグマの活動の跡だ。活動が消え、噴火口が残り、美しく見える。貝は死んで貝殻を残す。砂浜に打ち上げられた貝殻は星のように見える。活動していた物と、残された物。死ねば活動は消えて残骸しか見えない。蚕は繭をつむぎ、絹を残して消える。人も、言葉で自分や世界や時間という繭をつむいで、仲間へ絹つまり言葉のDNAを残して消える。

メ.今日、墓参に行った。管理事務所で、花と線香のセットを2300円で購入、10枚貯めたら1回タダの券をくれた。なるほどねと感心した。家族連れは明るく楽しそうで、一人で来ている人は、孤影という感じだ。 彼岸花が咲いていた。田舎とは、生きている祖先の住むところ。お墓とは、死んだ祖先の住むところ。自分を、昔のご先祖様の子孫と考えるより、未来の子孫のご先祖さまだと考える方が好きだ。

モ.お盆は、言葉の世界つまりあの世に居る死者が、感覚や感情の世界つまりこの世に戻る儀式だ。葬式は、感覚や感情の心が映し出していた故人のこの世の姿を、言葉の心が認識できる言葉つまりあの世の姿に変える儀式だ。赤ちゃんが生まれても儀式はしない。赤ちゃんの誕生は、あの世とこの世の行き来でなく、感覚や感情の心の心つまりこの世の中での出来事だからだ。儀式は、あの世とこの世の行き来のために行われるのだ。

ヤ.墓参りに行く。ふと、時間や自分のことを思う。40年前、大学1年生の春、クラブで、新入生同士で親しくなって、翌年病死した友人のことを思った。ずっと、名前は思い出せないが声や笑顔はまざまざと浮かんでいた。たくさん並ぶ墓石に、加藤という名が刻まれていて、そうだ加藤君だったと思う。うれしかった。秋の彼岸で、虫が鳴いたり、真紅の彼岸花が咲いている。墓石がたくさん並んでいる。死んだ歳と名前が刻まれているのもあれば、家名だけのもある。明治も大正も昭和も平成も、数十年前に死んだ人も先月死んだ人も、時間は消えて、みんな同じ昔だ。享年3ヶ月も八十余歳も、歳の差は消えている。自分だ他人だという主張も消えている。みんな同じ、虫の声の中にひっそりとたたずんでいる。

ユ.「家族とは相互を記憶する者」和辻哲郎。ヒトは言葉なのだ。言葉になって、他者に伝わると、新しい命を得たことになる。ヒトは言葉になると、体を超えてずっと在り続けることができる。家族の死に出会うと、そのことがよく分かる。

ヨ.洞窟の暗闇を蝋燭で照らすと無数の木彫りの仏像が影を揺らしながら並んでいた。湿気と歳月で、金箔は剥げ、朽ちているものもある。何度も燈された蝋の滴りがあちこちの岩の頂に盛り上がっている。出口はメコン川の断崖だ。熱帯の明るい日差しが入り口まで照らし、中の暗さを際立たせている。ラオスでの体験だ。仏像は死者の心の象徴なのだろう。お盆が近づく。ふと恩人、恩師を思い出す。空想が湧く。老人が、裏山の防空壕の壁の棚に、故人の名を書いた小石を並べている。最初は身内、それから知人、最近は新聞などで見聞きした死者の名前を、選択も差別もせず、小石に書いて並べている。

ラ.死ぬと、体の生気が失せて、木が枯れていくように干乾びていく。木彫りの仏像のような感じだ。あらゆる欲が消えている。仏像と死体の違いは、立っているか、寝かせられているかの違いぐらいだ。両方とも、生きている人間の形をしているところは同じだ。

リ.多くの細胞は毎日死んで、新しい細胞と入れ代わっている。Aという細胞は死んだが、細胞としては入れ代わってあり続けている。Aという細胞の中のDNAは消えたが、DNAとしては入れ代わってあり続けている。今地上に溢れている70億人の体は、毎日死んで新しい体と入れ代わっている。Aという体は死んだが、人類つまり体としては入れ代わってあり続けている。樹齢50歳のサクラの木がある。去年の花は散ったし、去年の葉も散ったが、木はあり続けて、今年の春も、花を咲かせ、葉が芽吹くだろう。いったい、何がどうなることを死というのかわからない。僕が、私がという言葉が、入れ代わりを認めたくないだけなのだろう。

b.    わが身の死を言葉にする。

ア.体と心の行方

  DNAが、肉や野菜や米で作った体は、来た場所に帰る。つまり宇宙の一部に戻る。DNAの海は在り続ける。自分という言葉の心の働きは消える。既に発信した言葉は、言葉のDNAの海に在り続ける。電灯に例えれば、電球が体、電流が言葉の心の働きである自分、光が言葉だ。電球が壊れたり、電流が止まったら、光も消えるが、既に発信された光は宇宙を巡り続ける。言葉も光のように、受け取られる可能性が在っても無くても、在り続ける。自分や世界のすべては、自分とともに生まれ、自分とともに育ち、自分とともに消える。自分は言葉の心の働きであり、世界であり、言葉でもある。体が死んで、言葉の心の働きが消えても、発信された言葉は消えない。自分が発信した言葉は自分の生死や体の有無とは異次元の存在だ。発信された言葉は、自分から脱皮して在り続ける。それを言葉のDNAと言う。

  水と砂糖は、砂糖水として味わうならひとつだが、色々考えようとすると、それぞれ別々にその性質を吟味することが必要だ。日常生活では、心と体は一つだが、死を考えることが触媒になって、心と体が言葉として分離してくる。死についても、体それも他人の体の具体的な死ではなく、自分の心の抽象的な死について考えられるようになる。死を「孤独死」のように善悪や幸不幸など感情の心で捉えると、元々孤独である自分の死が、他人それも体の死となってしまう。心の死とするなら厳粛で崇高で神聖な出来事であるのに、他人それも体の死と思ってしまうと、惨めで、悲惨な事件で、何とかしなければということになってしまうのだ。死を心の死と体の死、自分の死と他者の死に分けて、冷静に観察することは難しいことだと思う。しかしそうしなければならない。

  生死は体に起こる現象だ。死にたくないとは、感情の心に起こる現象だ。子供が注射をしたくないというのと同じだ。死の恐怖を乗り越えて、生きようとする意欲は、言葉の心の働きである自分が起こす心理だ。

  2009年7月24日、8時30分、手術室へ。眠くなりますよの声で意識が消える。17時、終わりましたよの声で、意識が戻る。医師の向こうに家族がいる。消えていた自分が、電灯のようにパッと点いて、体に戻った感じだ。俗話に、誕生や死の瞬間が出てくる。死についてよくあるのは、自分が体を離れてその光景を見下ろしていたり、野原を歩いていく先の川の向こうで、死者たちが手を振って迎えている光景だ。私の手術の体験で言うなら、自分はTVの画面に映っていた番組で、コンセントが抜けた感じだ。周囲が暗くなるというより、自分が消えたのだ。夢と違って、自分がないから、川もお迎えも何も無い。死の瞬間とはこんな感じだろう。脳が停止しているのに、心が在るはずもない。勿論トンネルの出口やお迎えの人々などわかるはずもない。

  自分は言葉の心の働き、つまり情報だが、体つまり物だと錯覚している。水面と映った月のように、自分と体は別の次元に居るということに気づかない。死は、体に生じるのに、言葉の心の働きである自分に生じるように錯覚する。死は、言葉の心の働きである自分が、宇宙船の窓から、体が離れていくのを、見送っているような、空想の言葉だ。

  富士山は不死山とも、不二山とも書く。死なない山ということだ。山は死なない。なぜなら元々生きていないから。人も、死ぬのは体だ。死ぬとは、細胞の活動が連携しなくなること。自分は言葉の心の働きで、細胞ではない。元々生きていないから死にもしない。体が死ぬと言葉の心の働きである自分は消えてしまうが、それまでに発信した言葉は、言葉のDNAになって、言葉のDNAの海に在り続ける。

  坪内逍遥は、死期を悟って、医師に睡眠薬を沢山もらい、目覚めるたびに一粒ずつ飲んで死んでいったそうだ。ラフカデイオ・ハーンは妻に、死んだら骨は小さなビンに入れて、田舎の小さな寺の片隅の草むらに埋めてもらいたい、悲しんだり、知らせたりは不要だといったそうだ。二人とも、自分は心で、体とは別次元の存在だと知っていたのだろう。

  死は人生のゴールだから、自分も満足、周囲も祝福する、めでたいことでありたい。みんなそう願っている。しかし実際は、みんな反対の出来事だと思っている。感覚や感情の心には、これでおしまい、すべてよしというゴールはない。渇きがあって、癒しが在って、満たしても間もなく新たな渇きが始まっての、波の繰り返しだ。感覚や感情の心で居る限り、永続的な安心は無い、満足も無い、ゴールも無いのだ。心の持ち方を言葉の心に変えれば良いだけの話だ。「死は人生のゴールだ。自分も満足だ。周囲も祝福しよう。めでたしめでたし」という物語を持てば良いだけの話だ。

  死とは、体の活動停止のことか。神経や大脳辺縁系の活動である感覚や感情の心の消滅のことか。大脳新皮質の活動である言葉の心の消滅のことか。言葉の心の働きである自分の消滅は、言葉を受発信できなくなった時のことだ。

  どれ位生きたら満足なのだろうかと思う。みんなと同じくらいとか、平均寿命とか、望みが尽きてしまうまでとか。そう思っているのは心で、体ではない。体が死んでも、心は残るのだろうか。残るとすれば、どのように残せばいいのだろう。体が電球で、言葉の心の働きである自分は電流で、発信する光が言葉だ。電球が切れても、それまでに発した光は、宇宙が在る限り何処までも進んでいく。発した言葉も、人類の言葉のDNAとなっていつまでも在り続ける。

  細胞生物としての体の死と、情報生物としての自分の行方は、別次元に生じる別々の現象だと言葉にして明らかにすればいい。

  「死んだら自分はどうなるのか」。自分を漠然と体と心のセットだと思っていると、訳が分からない。訳がわかるというのは、対象を言葉にして、分けたり組み合わせて、整合性がついた状態を言うのだ。だから、「死んだら自分はどうなるのか」という疑問への答えも、言葉の組み合わせを作ることから始まる。「死ぬとは」「自分とは」「どうなるとは」という3つの疑問に分けてみる。「死ぬとは」体の働きの消滅のこと、「自分とは」言葉の心の働きのこと、「どうなるとは」自分は言葉の心の働きだから体の生死とは関係がないということになる。自分は死とは関係ない、自分が発信した言葉も死とは関係ない、ということだ。体のDNAと同様に、言葉のDNAも体を乗物にして数百万年も流れ続けている水なのだ。言葉が体の中に在る時は自分や世界や時間となり、体から発信されると言葉のDNAに戻る。ウィルスのように、他の体に写ったり、文字に刻まれて、冬眠し、いつか別の個体に流れ込む日を待ったりする。

  自分を体だと錯覚していると、体の死が自分の死のように思えるが、本当の自分は言葉の心の働きで、自分や発信された言葉は、体とは別の在り方をしている。電球は壊れるが、光は壊れない。情報である自分や言葉には、体のような生死は無い。

  残るということ。体は見たり触れたりできる代わりに、一代限りで残らない。そもそも残るとはどういうことなのだろう。自分を体だと思うか心だと思うかで異なる。体は一人一人別々に存在する。情報には自他の区別は無い。自由で平等だ。無所有だ。無個性だ。全体で一つだ。個人はなく人類全体に溶け込んでしまう。始まりも終わりもない。世代を超えて限りなく伝わるものになる。思えば体だって、本当はDNAだ。DNAは情報だ。つまり体も情報なのだ。残る残らないの以前に35億年間残って、これからも残っていくのだ。

  体が心を奴隷にする方法には、快楽や安楽で目をくらませる、現在の現実しか見せない、死を恐れさせるなどがある。心が、そんな体の支配から解放されたいと、言葉の心の働きである自分を生み出したのだ。心を感覚や感情の心のままにしていると、体の奴隷になってしまう。感覚や感情の心の癒しに囚われ、現在の現実に閉じ込められてしまう。

  鳥は卵から出れば、巣立ち、やがていつかどこかで落ちる。卵には戻らない。同じ巣から出発した兄弟も、やがてバラバラ、互いに見えなくなる。生物は、出発点は定まっているがゴールは定まっていない。しかしそれは体のことで、言葉の心の働きである自分にはどうでも良いことだ。自分は言葉の心の働きで、体が生まれた時には生じていない。生まれたのはただの体だ。自分はそこから育った言葉の心の働きなのだ。

  鹿にとって、ライオンに食われるのはもっとも望ましい死に方だ。苦痛も短く、恐怖という快感が存分に味わえる。言葉を持たない動物には、死は知らぬが仏だが、言葉を持つヒトには、死は未知で恐怖だ。未知への恐怖は言葉にすることで克服できる。

  自分は言葉の心の働きだ。体から生じる信号だ。自分は言葉になって、日々、発信されて、体から離れていく。体の死は、逆に体が自分から離れていく現象だ。体も自分もごちゃごちゃだと、自分も体も団子になって、一緒に生老病死の下り坂を転がっていると錯覚してしまう。

  昨日、母の卒寿の祝いをした。古い卒の字が九十と書くだけの意味だが、卒業を連想させてしまうので、長寿の祝いとしては感じが良くない。卒業について考えた。生き物は何かになっても必ず卒業をしなければならない。物のようにそのままで留まることは出来ない。体として生まれても、いつか体を卒業しなければならない。男や女に生まれても、いつか性別を卒業しなくてはならない。学校も仕事もそうだ。親子や夫婦になっても、いつか親子や夫婦を卒業しなければならない。卒業を繰り返して最後は何になるのだろう。マトリョーシカのように抜け殻だけでは虚しすぎる。自分を自分だと思うと体と同様に卒業がある。自分を体のDNAだと思うと、卒業は無くなる。自分を言葉のDNAだと思うと、卒業は無い。言葉のDNAの海から自分に流れ込んで自分を育てていた言葉のDNAが、発信されて戻っていく言葉のDNAの海が見える。

イ.体の行方

  体は食べた動植物でできている。その動植物も、食べたり吸収した動植物や地球の水やミネラルや太陽のエネルギーでできている。体は死ぬとそれらを放出してバラバラになり、放出されたそれらは、それぞれの場所に戻っていく。

  体は、他の生物を食べて身に着けた借り物だから、全部土に返す。心も体から生じているので、体とともに消える。体のDNAは個々の体を超えた存在で、DNAの海として在り続ける。自分が発信した言葉は、自分を離れ、言葉のDNAとなり、言葉のDNAの海として在り続ける。

  心臓が一生に打てる心拍数は決まっている。人間の場合は20億〜25億回。体の部品にもそれぞれの寿命がある。体の部品の寿命の話は冷静に受け止められる。しかし心についてはそうはいかない。何故だろう。心は情報で、寿命は無いからだ。それなのに体の死に引きずられて消えてしまうのは理不尽だと思えるからだ。心には体とは異なる寿命が在って欲しいと思うからだ。

  落ち葉は死んだのか。そのように見えるけれどそうではない。本当の命は木にあって、葉や花は新陳代謝の道具、見せ掛けの命に過ぎない。ヒトも命はDNAにあって、個々の体は見せ掛けの命に過ぎない。個々の体は、秋の木の葉のように、使命を終えたら落ちてよいものだ。だから、木が枯れるのは死だが、葉や花が散るのは死ではない。しかし自分は葉や花なのでそうは思えない。一つ一つの細胞を命として見れば、毎日たくさんの誕生祝いと葬式をしなければならないように、体の生死も、DNAが指揮するドライなマスゲームなのだ。しかし自分にはそうは見えない。来年の春、同じ枝から生える葉は、去年の葉の子供なのか。その様に見えるけれどそうではなく、木全体の子供なのだ。しかし自分にはそうは見えない。

  ミツバチの♂は、他の巣から旅立つ来年の女王に精子をあたえるためにいる。役目が終われば、カマキリの餌になったり、地面に転がっている。

  死とは漠然とした言葉だ。実際は、細胞、器官、個体、DNAのそれぞれに、別々の次元で生じている活動の停止、上の次元から見れば新陳代謝のことだ。DNAは、35億年間一度も途切れずに活動を続けている。この体は、そのDNAの活動の表現だ。木でいえば毎年咲き変わる花だ。この体は、DNAという木の枝先に咲く、今年の花だ。花が、風に散ったり実になって、枝から離れても、木の枯死とは言わない。新陳代謝だ。死は現実の現象ではなく、言葉の表現で、要は観察者が現象の何処を見て表現するかの問題だ。体の本当の死とは、その体を生み出す種(しゅ)としてのDNAの海が枯れることだ。DNAは、体とは異次元の存在で、体とともには消滅しない。感覚や感情の心は体とともに何も残さずに消える。言葉の心の働きである自分は言葉を残して消える。体や心は今年だけの花で、幹ではない。西行の体を生み出していたDNAは、今も体を生み出し続けているし、西行が発信した言葉のサクラは、読む人の心によみがえり続けている。その前に、西行が発信した言葉も、元をただせばもっと昔の言葉つまり言葉のDNAが、ウィルスのように西行の言葉の心に移り、西行の自分を作っていたのだ。

  体を生じさせているのはDNAで、体の死はその体を生み出す種(しゅ)としてのDNAの海が枯れることだ。生物の絶滅とは35億年続いてきたDNAの海の消滅のことだ。本当に生きているのはDNAで、体はDNAの枝先の、葉の一枚だ。葉が落ちるのが死ではなく、根が枯れるのが死なら、体の死は落葉のような現象で、本当の死ではない。葉には本当の誕生や死が無いように、体にも本当の誕生や死は無いことになる。

  DNAは体を死なせることを取り入れて進化をする能力を手にした。体をわざと死なせる目的は、体のためにでなく、DNAのためにある。老化したり傷ついたDNAを体ごと捨てて、新しい体の新しいDNAに乗り換えている。新陳代謝だ。

  病名が分かると、その死は、その病気に負けた結果、死ぬべきでない挫折、悪い死に方ということになる。病名がないと、その死は、寿命、老衰、自然な死、ゴールインの死となり当然の事として受け容れられる。病名がつくと死は敵、崇り神、死神となり、死ぬことそのものも不自然、挫折、敗北に思え、拒否してジタバタしたくなる。この体は生まれるために35億年以上を準備して、生まれた時点でめでたくゴールインだったのだ。すでに花として咲いてしまったのだ。花には開花と落花はセットなのだ。体には生と死はセットなのだ。感覚や感情の心は、生だけ持って生まれてきたのだと錯覚してジタバタしする。言葉の心も錯覚に巻き込まれて、言葉で悲劇を作文してジタバタを後押しする。

  死を体の死と考えると、死は惨めで汚らわしく思えてしまう。心の消えた体、つまり命の消えた体、つまり死体は、DNAが作った道具で、食べた鳥や動物、植物の死体が材料だ。それが元に戻るのだから、見れば、無残で、おどろおどろしいのは当然だ。

  カブト虫の♂が死んじゃったと、3歳の孫に告げられた。3日ほど前に、つがいで買って土産にしたものだ。早すぎて落胆を感じた。本で調べてみると、♂は交尾するとすぐ死ぬ、メスは産卵したら死ぬということだった。クワガタは何年も生き続けるのにカブト虫はそうなっているのだ。死んだカブト虫の♂は目出度く交尾したのだと分かった。セミも同じだ。地下で快適に生きている。地上は厳しく、子孫を残すのがやっとなのだろう。瞬発力で仕事を終えたら力尽きるのだろう。

  ヒトは体と心で出来ている。死は体に起こる現象だ。自分は情報だから、消えることはあっても死ぬことはない。映写機が壊れて画面が映らなくなっても、フィルムまで駄目になったわけではない。電球は光らない。電気の熱が光る。つまり電球と光は別々だ。電球つまり体を作っているのはDNAで、35億年作り続けている。電球がガラスや鉄にリサイクルされるように、体は寿命がくると材料になっていた植物や動物やミネラルに戻って、地球に返される。桜の木も葉も花も、元々地面から吸った栄養と太陽の光から出来ている。地面で分解されて土に返るのと同じだ。

  ベルトコンベアに載って、物や仕事がどんどん運ばれてくる。老いを感じる頃、ベルトコンベアは2段式で、自分も足元の床の大きなベルトコンベアに載せられていたことに気がつく。ベルトコンベアのゴールは奈落の底だ。宇宙のベルトコンベアが数百億年周期で回っている。その上に太陽や地球のベルトコンベアが百億年周期、さらにその上で生物のDNAのベルトコンベアが50億年周期、もう五分の四過ぎている。最後に自分のベルトコンベアが80年周期で回っていて、もう奈落まで八分の六過ぎている。

ウ.心の行方

  桜は、12月がもっとも美しい。葉が落ちて、枝と蕾だけだ。どの蕾も、すべて鋭く天を向いて、祈りの手の形をしている。救いを求める言葉のようだ。落花や落葉を死に例えるが、花や葉は爪や髪や皮膚と同じ、本体が生きるための新陳代謝だ。桜は12月に蕾をつけて、3月に開花、蕾は目的を果たして消える。言葉の心の働きである自分は、体のような生死はなく、蕾のような願望の言葉としてその都度生じ、成就してその都度消滅する情報なのだ。

  自分が死ぬというのは錯覚だ。他者の体の死を感覚や感情の心で見れば、自分が死ぬというのが在るように思える。それは他者の体の事だ。問題は言葉の心の働きである自分の事だ。自分には生死は無い。生きる、死ぬというのは、言葉の心の働きである自分が、感覚や感情の心に囚われ、自分を感覚や感情の心に映る体だと思った時に生じる錯覚なのだ。

  ヒトは体として命を保ち、感覚や感情の心として生きている為の力を生み出し、言葉の心として生きようとする為の力を生み出している。死とは、体の働きの停止のことだが、自分を体だと錯覚していると、体の死が自分の死のように思われる。自分が言葉の心の働きだと分かれば、そんな情報である自分には死は無いと分かる。発信した言葉を自分の分身だと思えれば、発信した言葉になって時空を超えて伝わり続けると思えるだろう。ヒトが作品や名前を残そうとするのはその為だろう。さらにその言葉が、実は自分が自力で生み出したものでなく、先人からもらったものだと気がつけば、つまり言葉のDNAのような人類共通の情報だと思えば、体のDNAと同様に、自分が言葉のDNAから生まれ、言葉のDNAになって発信され、言葉のDNAの海へ戻っていくことに気が付くだろう。

  「自分は死なない」のだと思う。逆に死んだり消えたり失われてしまうものは自分ではないのだと思う。伸びては切る爪や髪の毛、日々新陳代謝する全身の細胞、手術で交換した心臓の弁、つまり体は自分ではないのだ。今、熱いと感じている感覚の心が、次の瞬間消えたのが分かる自分がいる。孫が来てうれしいと思う感情の心か、帰れば消えるのが分かる自分がいる。感覚や感情の心も自分ではないのだ。幼い日々、父母に慈しまれ、兄弟と遊び、これまで出会った沢山の人々や出来事は、言葉だけが記憶になって残っている。自分は言葉を作り蓄える心の働きなのだ。

  死を迎えるにあたり、感覚や感情の心のままでは、死を敗北、挫折としか受け止められない。自分が言葉の心の働きだと分かれば、体と自分は別次元の現象で、死は体に生じる現象で、言葉の心の働きである自分には生死はないのだと分かり、死への怖れや敗北感、挫折感は消える。

  体はいつか死ぬ。死とは体の世代交代のことだ。人類という種(しゅ)の新陳代謝だ。言葉の心の働きである自分は体ではない。情報だ。だから自分には、生も死もない。感覚や感情の心は体とともにある。だから自分を感覚や感情の心だと錯覚していると、体の死が自分に生じるような錯覚に囚われることになる。

  自分の死を言葉にして明らかにしておく。何のためか。死に際にジタバタしないためではなく、生きている間、死への恐怖に邪魔されないためだ。つまり勇気を持って未来に積極的に生きる邪魔にならないためだ。言葉にしてしまえば生きる邪魔にならない、かえって生きようとする力になる。

  冬山で凍死寸前だったり、テスト前夜で睡魔と闘ったりして、癒しを求める感覚や感情の心と、救いを求める言葉の心が矛盾した時、どうすればいいのか。救いの言葉を持つ。その言葉を唱えて、心を言葉の心に切り替える。眠気という癒しを我慢して、努力を続けられるようになる。言葉の心の働きである自分は、体や、感覚や感情の心の苦痛や苦悩を我慢して、目的を実現しようとする心だ。

  アポトーシスとは、傷ついたり老いた細胞が自殺する仕組みだ。人の場合はDNAの3番目の遺伝子にアポトーシスの命令が備わっている。この体では、1日3千億個の細胞が死んで、新しい細胞が生まれている。生まれたり死んだりしているのは体ではなく細胞だということがわかる。体は細胞が集合して描いているマスゲームの絵のようなものだ。生死を体に起こる現象のように考えてしまうが、本当は細胞に生じる現象だ。

  自分の生死を悩んだりするが、情報、信号には生死はなく、ONOFFがあるだけだ。自分は、情報、信号、言葉で、元々生れたり死んだりしないものなのだ。その意味で「生死とは無関係なもの」なのだ。

  ジンギスカンの子孫は、千年後の現在、男だけで数千万人いる。自分の体につながる、40億年の無数の命の鎖。現生の70億人の一人一人に、そんな鎖が連なっているのだ。体の死に際して、「体」自身には死ぬ恐れや無念は無い。一方で、言葉の心の働きである「自分」は死なないのに、死を恐れたり無念に思ったりする。

エ.感覚や感情の心の行方

  死は、生きている状態の一部として生じる。現在の現実しか見えない感覚や感情の心には、死つまり現在の現実の消滅は実感できないし、勿論、受け入れることなど困難だ。火に火が消えた状態を見ろというようなものだ。

オ.言葉の心の働きである自分の行方

  言葉の心の働きである自分にとって、体の死はどういう意味を持つのかを考える。孫が遊びに来ていると聞いて、夜道を車で帰る。買ったケーキが助手席にある。ライトに照らされた暗闇に何かが立ちはだかり、スローモーションで近づいてくる。一瞬意識が途切れたような感じだが、何事も無く車は走り続ける。事故でなくてよかった。胸をなでおろしながら、早く皆が待つ家へ行かなくてはと思い、運転を続ける。家についてドアを開けて入る。孫たちの靴が無い。飛び出してくるはずなのに出てこない。シンとして、今朝出たままの状態だ。みんなこの部屋のどこかに居るはずだが、見えない、聞こえない、触れない。自分はどこにどんな状態で紛れ込んでしまったのだろう。ここは感覚や感情が生み出しているいつもの外界ではないようだ。自分が作り上げている、言葉の世界のようだ。自分は言葉になって、自分の中の言葉でできた世界に、仮想の3次元の世界を見ているのだ。「体は死んだが、言葉の心の働きである自分はうまく体から脱皮出来た」。死を、体の視点から見れば、終わりにしか思えないが、視点を言葉の心の働きである自分に移せば、蝶やトンボが殻を捨てて、まったく異次元の空中に飛び立つようなことだ。体にとって、死は終わりだが、言葉の心の働きである自分にとって、体の死は無関係だ。体には死はあるが、言葉の心の働きである自分は別の次元の存在なのだ。

  「死」をよくわかっているつもりになっている。そして、死を恐れている。実はその死は、ドラマやお話、時には肉親などの死を見て作り上げた空想だ。全て他者の死だ。体の死だ。自分の死とは、体の死でなく、言葉の心の働きの消滅のことだ。自分である言葉の心の働きの消滅については全く想像も出来ない。思考するパソコンがあるとする。電源が切れたら、パソコンはどうなるのだろうとパソコン自身が考えたとする。瞬間で、パソコンの自分は消えてしまう。電源が切れた後などないのだ。

  自分は言葉の心の働きで、体とは別の次元の現象なのだが、自分を体だと思い込むと、体に生じる現象である生老病死があたかも自分に生じると思い、怖れることになる。

  夜が来て眠る。何かを完了すると満足する。空腹は食事のたびに収まる。浜辺に打ち寄せる波のように、その繰り返しがあるだけだ。生物の活動には波があって、渇きと癒し、高まりと静まりを繰り返している。死は、本人にとっては、日常の静まりの一つに過ぎない。再び高まりが訪れないだけだ。

  蝉が落ちている。狸が轢かれている。新聞に毎日、人が死んだ話が載っている。手術後に目覚め、あなたは長時間仮死状態だったと知らされる。みんな他者の体の死のことだ。それこそ他人事、抽象的な感じだ。自分が死ぬことを考える。言葉の心の死だ。逆のようだがこちらの方が具体的で、現実的な感じがする。心の交流があった人の死は、他者の体というより自分の心の死として感じられる。人はそれぞれ、自分だけの心の宇宙に住んでいる。他者の体の死は、宇宙の果ての星の消滅にすぎない。

  生きているのは自分ではなく体だ。情報である自分には生も死もない。あるのはONとOFFだ。光には暗闇を見ることが出来ないように、有やONである自分には無やOFFは見えない。言葉で作るだけだ。

  自分の死は、自分には生じないから、ただの空想だ。自分にとっての他人の死は、体のことだから、町角を曲がってそれまで見えていた光景が視界から消えたのと同じだ。言葉になっている他者は、体がどうなろうと消えることは無い。言葉になってしまえば、もう死とは無縁なのだ。父母や家族は、自分が生きている限り、不滅なのだ。

  本人の死は、本人にはわからない。本人には自分の死は存在しない。なぜなら、すべては、言葉で本人が生じさせているからだ。本人が居なければ本人の言葉の心の働きもなく、生じたとか消えたという言葉も無いからだ。

  ゴールは終わり。そこについたらただの終わりで、そこがどんな場所で、そこで何がどうなるか、そこから何が始まるかは、まったく無意味だ。生きている間、そこを思い描いて、目指し、道を選んだり、心を励ましたり、行いを戒めるための目印の星なのだ。

  自分の死とは何なのだろう。自分を体だと思えば、自分の死も他人の体の死も、コップが壊れるのも、同じ現象のように思える。しかし、家族の死には特別な感情が生じる。それは家族が体を超えて言葉になって、自分の一部になっているからだ。さらに、自分の死については、世界は残っているのに、その世界から自分が追放される、自分から世界が奪われる、被害妄想のような感情が起きる。本当はその時、自分はいないから、何も起きないのと同じだ。失われる、奪われると思い込んでいる世界も、自分が生み出していたので、自分とともに全部消えているのだから、無いものは失われないし、奪われもしないのだ。

  感覚や感情の心には、現在の現実しか見えないので、未来の死を想像することはできない。感覚や感情の心は、現在の現実に生きているために、外界の現在の現実を感知するために発達したもので、未来を観察するためのものではない。未来を観察する脳の働きは別にある。言葉の心だ。現在の現実の中に未来の不安の種を見つけたり、記憶の過去や願望の未来に視野を広げて、未来の生存に役立てようとする心だ。現在の現実の苦難を乗り越えて、未来に生きようとする脳の働きで、自分の死や死後について考えることもその一つだ。抽象化したり、類推したり、論理を組み立てる脳の働きだ。より深く死を考えることは、より良く生きるための役に立つのだ。

  死んだらどうなるのだろう。漠然と死について考えても、考えは前に進めない。体と心に分けてみる。心を感覚や感情の心と言葉の心に分けてみる。自分はそのどちらにいるのかを考えてみる。結論は、自分は言葉の心の働きで、情報である自分には体のような生死は無いということになるが、以下そこまでの過程を辿ってみる。で、体はどうなるのだろう。体はDNAが水や野菜や肉や穀物から作ったものだから、それらの元である地球の空気や水や土に戻る。勿論それは自分ではなく、ただの物質で、元の地球に戻ったのだ。春が来て氷が解けて、キラキラ輝いていた光はともかく、氷は水に戻ったというイメージだ。キラキラ輝いていた心はどうなるのだろう。感覚や感情の心は、電球の明かりと同じで、体のスウィッチが切れるのと同時に消える。明かりだから、何も壊れないし残らない。快不快や喜怒哀楽は興奮で、生きている上では「すぐに消える」方がよいのだ。本当の自分がいるのは言葉の心だ。言葉の心はどうなるのか。やはり体のスウィッチが切れるのと同時に消える。しかしそれまでの日々に発信した言葉は、狭い自分を脱皮して、言葉のDNAになって、ウィルスのような別の情報生命体になっている。誰かの言葉の心の入り込んでその人の一部になったり、その人から他の人に写ったり、その日が来るまで、文字や絵などになって冬眠したりしている。言葉はみんなに乗り移る情報のウィルスだ。みんなの一部になってさらに別のみんなに発信されて広がり続ける。自分にもそうやって写ってきたのだ。言葉のDNAの海の話だ。繰り返しになるが、体は物で、感覚や感情の心は体という物の働きで、言葉の心は物とは異次元の情報なのだ。

  生は見えても死は見えない。人は見えないものに、恐れや憧れを抱く。それが死という未熟な言葉の正体だ。

  私の体のDNAは、45億年前に出来た地球で、38億年前に生物のDNAとして生じ、数百万年前に原人のDNAとなり、10万年ほど前のアフリカで人類のDNAとなり、5万年程前に、飢えや恐怖や希望に導かれ、百人程で東へ移動を始めたグループのDNAの、末裔のDNAだ。この最果ての地にいる我等の祖先は、生きるためには危険に跳び込む、恐れに負けない若者だったのだろう。蝶が風に乗って、先が見えないビルの谷間を飛んでいくように。

  吾等の祖先が、アフリカ、ユーラシア、そして一時期の気候変動でできたベーリング海や日本海の氷の橋を越えてきたことを思う。家族を養うために獲物の群れを追ってきたり、その獲物たちと同じように、敵に追われて逃げてきたりしたのだろう。

  歩くとか、食べるという自由に選択できることと同じ使い方で、生きるという言葉を用いるのは誤りで、自由意志が入る余地のない、自身の本質的な在り方を表す言葉なのだ。火に燃える、燃えないという選択肢が無いように。

  他者の死は感覚や感情の心で感知出来るが、自分の死は未だ生じていないことだから、感覚や感情の心では感知出来ない。感覚や感情の心を揺さぶる死は他者に起きる現象で、自分の死は言葉の心で作り出す空想の言葉なのだ。

  死を思うと、辛い、怖い、悲しいという感情が湧いてくるのは、死という出来事についてではなく、それまでに実現できそうも無い願望についてなのだ。

  言葉の心の働きである自分を生み出していた体が消えても、自分が発信した言葉は在り続ける。他の個体に伝えられた言葉は、ウィルスのように入り込んで、その一部になり、さらに伝えられ、感染して広がっていく。壁画や文字になった言葉は、冬眠中のウィルスのように、見たり読んだりする人を時空を超えて待ち続け、その都度黄泉帰って広がっていく。

  「体が生まれる前、自分はどうだったのか」については気にならない。生まれてくる前や、生まれてしばらくは、言葉の心の働きである自分は何処にも居ないからだ。だからどうでもいいのだ。「体が死ぬと、言葉の心の働きである自分はどうなるのか」となると、真剣な気分になる。言葉の心の働きである自分は消えるが、発信された言葉は、言葉のDNAになって、体のDNAと同じように伝わり続けていくのだ。

  自分が生まれてきた時のことがわからないように、死ぬ時も何が何だか分からない。生きている間も何が何だか分からないまま、当分生き続けると思っている。手帳に予定を書きこんで10年後まで埋め尽くそうとしたり、家族を毎朝送り出すのに何の不安も感じなかったり、死は当面100%無いと思っている。感覚や感情の心は、変化するもの、動くものにしか反応しない。近くの叢でじっとしている虎やライオン、つまり死には注目しないが、少しでも動くと感知してひどく怯えることになる。

  感覚や感情の心も、言葉の心も、まとめて心という一つの言葉にしていては考えようがないので、自分はそのうちの言葉の心の働きなのだと仮定して話を始める。仮説を立てる。五感では感知できない抽象的な物事を考えるための方法だ。幾何の問題を解くのと同じ方法だ。

  死を思うとさびしい、悲しい、怖いという感情が生じる。生きている自分が、死んだ自分を想像しているので、死んでも自分に感情の心があることを前提にするからだ。死んだらそんな感情の心も消えているのに。

  死のことを考えてしまうのは、そのことが、どこかで、生きようとする力にプラスに働く、進化の過程で身につけた仕掛けだからだ。

  脳の働きが停止した時「体が死んだ」という。自分は脳の働きだから脳の働きとともに消える。自分が発信した言葉は残る。元々、自分が発信した言葉は、先祖代々の言葉の海から受け継いだものであって、体のDNAと同様に、言葉のDNAの海から来て、戻ったのだ。独立した存在だと思っていた自分は、体や、感覚や感情の心がそう思わせていただけで、言葉のDNAの海の一滴だったのだ。

  言葉の心の働きである自分は、眠ったり、意識を失ったり、体が死ぬと消える。体も脳もDNAの樹が咲かせる毎年の花だから、70億人の体も脳も、この枝とあの枝、今年の花と去年の花の違い位しか違わない。来年の花は今年の花と同じDNAで命を開始する。それが感情的に、自分の生まれ変わりかどうかは、今年の花の幻想にすぎなくて、来年の春にはもうどうでも良いことだ。

  誕生の時には、まだ言葉の心の働きである自分がないので、花が咲くように、静かに起こる。死も同じように起こるのだが、言葉の心の働きである自分がジタバタする分、大騒ぎになる。

  氷は緑色のメロンソーダに溶けて、消えてしまう。水になって溶け込んだのだ。氷は水に戻ったのだ。氷とは自分のことだ。

  親しい人が死んだらなんでみんな悲しむのかな。死ぬのも生まれるのも同じ現象だと思えないのかな。小学校を卒業するとすぐ中学校へ入学する。卒業が悲しくて、入学がうれしいのと同じだ。中学校が見えないので心細いだけだ。この世で死ぬということは、未知の別の世界に生まれるということだ。そうでないとは言えないし、悲しみは所詮幻なのだから、そう思えばいいだけだ。死を恐れる気分は、子供の頃、親の都合で引っ越すことになった時の気分に似ている。友達と別れなければならない。行き先がどんな学校かわからない。しかし引っ越してしまえばすぐに新しい世界が始まるのだ。悲しみは所詮幻なのだから、そう思えばいいだけだ。

  かぐや姫は、地上を去るにあたり、これから行く月の世界が見えて、そこでの生活も見えていたのだから、怖くも、悲しくもなかった。どこに行ってどんな状態になるのか分からないままなら、行く先よりも、住み慣れた地上の生活を失うことに心が囚われて、悲しかっただろう。感覚や感情の心は現在の現実という幻を見ている。未来は見えない。だから現在の現実を越えた未来を見せられると恐れや悲しみ、怒りを生じるのだ。そんな時は、言葉の心に切り替えればいいのだ。未来が見える。死も極楽地獄説話のように、行き先や、そこがどんな場所で何をするかが分かっていれば、恐ろしくないのだ。卒業で親しい人々と離れ離れになるのは悲しい。どんな行き先か分からないとさらに寂しい。しかし次が見えてくると、悲しみも寂しさも消える。新しい友と、新しいことをすることが楽しみになる。死には出来合いの次のステージは用意されていない。生きている間に、自分で作るしかない。自分は言葉の心の働きだから、世界のすべては自分が言葉で作っている。死んだら自分はどうなるのかを言葉にしておけば恐れは消える。

  死んだら自分はどうなるのか。体が死んだら自分は消える。自分だけが、さびしく、どこか遠くに行くのでなく、この世と一緒に消える。つまり、どこかに行くのでなく、世界とともに消える。もう、光の信号だった自分や自分の世界がどこへどうなったのかは、誰にもわからない。この世で一番速いものである光の後姿は、誰にも見えないということだ。

  まず自分という視点があって、この世のすべては、そこに言葉として映って初めて生じる、という意味で、この世は自分の中にある。この世は、すべての生き物の自分に、一つずつある。一つの自分が消えるたびに、一つの「この世」が消える。一つの自分が生まれるたびに、一つの「この世」が生まれる。「自分が死ぬ」と考える時、どの視点で考えているのだろう。自分の意識は残したまま、自分が死ぬのを、他人の目になって眺めているつもりなのだろう。自分が消えると、自分が言葉でつけているすべての意味も消える。自分の死を意味付けようとしても、所詮他人の視点を仮想する無意味なことだ。生きて身につけた願望や、借りていた体もすべてが消える。自分の死の瞬間を想像しても、突然電球が切れる以外のことはありえない。

  自分について考える。自分は体でなく、脳でもなく、脳の働きだということに気がつく。脳の死は、感覚や感情の心にとっては、直接的な終りだが、自分は言葉の心の働きなので、言葉の心の働きが消えても、それまでに発信した言葉は在り続ける。その言葉を聞いたり、見たり、読んだりした人々の言葉になって在り続ける。体は魚や肉や米で作った部品の塊だから土に戻る。体が失われても、人類のDNAの海は在り続けるように、自分だった言葉も言葉のDNAの海に在り続ける。

  言葉の心は、言葉で、自分や世界や時間を生み出している。言葉の心の働きである自分にだけ、自分や世界や時間がある。言葉の心の働きが止まると、自分や世界や時間が消え、発信済みの言葉は言葉のDNAの海に漂い続ける。言葉のDNAの海から自分が生まれ、自分が消えて、元の言葉のDNAの海に戻る。体は死んでも体のDNAの海は在り続ける。同じように、自分は消えても、言葉のDNAの海は在り続ける。

  パソコンの働きはスィッチが入って始まり、スィッチが切れて消える。パソコンが壊れることもある。消えるのと壊れるのとは違う。体が死ぬのは壊れるというイメージだ。心は点いたり消えたりというイメージだ。自分は言葉の心の働きだ。体が生きている間も、眠ったり、我を忘れたりして、点いたり消えたりしている。言葉の心の働きである自分にとって、死の持つ壊れるというイメージは、錯覚だ。

  体が死んだら、感覚や感情の心は消える。言葉の心も消える。すでに発信された言葉には生死はない。宿主から飛び散ったウィルスのように広がって、体のDNAと同じように在り続ける。

  DNAの信号が水や養分から細胞を作る。DNAの信号が細胞の集合のマスゲームで体という絵を作る。DNAの信号が、全身を制御するための信号を受発信する機能を作る。この信号の一部が自分になる。自分が、虚無に言葉で名前をつけると世界に加わる。そのように世界が生まれる。脳の信号が消えると、体というマスゲームも消え、DNAの信号も消え、細胞は水や物質に戻る。働きが止まった脳の中を探しても、切れた電球の中に光を探すように、言葉の心の働きであった自分は見つからない。死んだら自分はどうなるのだろう。信号だった自分は脳とともに消える。発信された言葉は、ウィルスのように他者の言葉の心に写る。埋もれても、古代の遺物が掘り出され解読されて生き返るように、生き返ることもある。

  中学の頃の古い写真を見て、自分が写っていると思う。今の自分と同一人物だと思う。自分が体だとすれば新陳代謝で、物質的には完全に別物だ。自分が心だとすれば、ほんの一部が同じだけだ。自分が姿かたちだとすれば、ほとんど別人だ。自分だけが同じだと分かっている。言葉の心だけが頼りだ。言葉の心は言葉を作り記憶に残していく。心の主人公は切り替わる。言葉の心は、感覚や感情の心に切り替わるたびに消えしまう。感覚や感情の心は痕跡を残さない。言葉の心に戻ると、空白を言葉にしてつなげる。言葉の心は、バラバラの言葉を、自分として一つなぎにする働きを持っている。自分が自分であることを証明し続けている。

  自分を残したい。言葉のDNAの海は数百万年続いている。その前の35億年間にも、それなりの言葉のDNAの海があるかもしれない。自分を体だと思うと、物として何かを残したくなる。しかし残ったためしはない。死後に群がる他者に分捕られておしまいだ。自分という形容詞が付いたものはすべて消える。自分をそぎ落としたものだけが残る。文化や知恵の一部になって引き継がれる。みな、この世を信じて、そこに何かを残そうとする。自分を消しさえすれば簡単に残せる。逆に言えば、自分は残らない。星は消えても、発した光は宇宙を走り続けるように。

  知人が死んだとする。感覚や感情の心は、居た者が居なくなったように受け止める。言葉の心は、元々その人は自分が生み出した言葉で、体は消えても、何も変わらず、今もこの世にいると思う。

  老いを感じると、自分の何かを残しておきたいと思う。卒業を間近にして、校庭に思い出の品を埋めておく感じかな。でも、この場合、何を、どこに、どのように、誰に残したいのかは、考えていない。幸福になりたいというのと同じ心理だ。外に広がるみんなの世界があって、自分はその中で生まれ消えていくものだという思い込みがあって、消えていく自分が、消えない世界に、何かを残したいと思っている。本当は、世界は自分が作っていて、自分が消えたら世界も消えてしまうもので、残すべき場所も一緒に消えてしまうのだ。残すべき物も残すべき場所も存在しないのだ。

  仏とは言葉の心のこと。言葉の心になれば、感覚や感情の心のような恐れや不満、不安の無い心の状態になる。成仏とは、自分が言葉の心になって、言葉が発信されて、自分がとれて言葉のDNAになって、言葉のDNAの海に戻ること。体が死んでも生きていても、言葉のDNAになれば、すべて仏だ。

カ.世界の行方

キ.時間の行方

ク.発信した言葉の行方。

  体が死んでもDNAは在り続けるように、言葉の心の働きである自分は消滅しても、発信した言葉は消えない。

  体には寿命がある。感覚や感情の心は体の寿命を越えられない。DNAには寿命は無い。言葉の心の働きである自分にも寿命は無い。

  体の死は、自分の与り知らない、勝手に生じる自然現象だ。そしてその時には自分はいない。だから自分の死について心配するのは無意味だ。何故死ぬのか、死んだらどうなるのかを悩むのは、宇宙の果てで起きていることを心配するのと同じことだ。

  自分は体でなく脳の働きだということ。死は体の終りだが、自分の消滅は、体の死によって引き起こされる二次的な現象だということ。パソコンが壊されても、発信されたデータは消えない。自分をパソコンだと思うか、データだと思うかだ。自分はデータだから執着する対象にはならない、信号だと気付けば、死は恐ろしくない。

c.    死への恐れを言葉にする

ア.言葉にする意味

  感覚の心に映る死と、感情の心に映る死と、言葉心のである自分が言葉で作り出す死について考えてみる。死の意味を言葉にして、生きようとすることの意味を言葉にすれば、生きているだけの心を生きようとする心に切り替えることができる。

  癒しを求める心を肥大させないように、癒しを求める心を暴走させないように、自分でコントロールする必要がある。感覚や感情の心には、ブレーキがついていない。言葉の心で制御する必要がある。「自分の死を言葉にして明らかにすること」はその特効薬だ。

  夜空をライトで照らす。反射するホコリで、夜空が明るく浮き上がる。生も死に反射させると明るく浮き上がる。死はソースのように、それだけでは不味いが、生という料理にかけると生の美味を増す。

イ.死への恐れを言葉にする

  恐れとは

    恐れとは、事物を感知したのに、言葉にできない時に湧く、感情の興奮だ。未知に警戒する本能がそうさせている。岩登りやスカイダイビングは危険だが、言葉にできるので恐ろしくない。楽しい。怪談や、暗闇で揺れる白いもの、理解できない事物は、実際に危険はなくても、恐ろしい。夜中、鏡に映る自分の顔が、見知らぬ他人のように見えたらぞっとする。得体の知れないものが、自分に何かしようとしているのではないかという感じが怖い。相手の武器や力より、相手の心の分からなさの方が、自分を怯えさせる。

    医師は、死についての知識や経験があるのに、かえって自分の死を恐れる。なぜだろう。それは知識や体験が自分の死でなく、他人の死についてだからだ。他人の死は体の死。自分の死は心の死。自分は体でなく心なのだ。体が死んでいくプロセスはよくわかるのに、本当の自分である心が消えるプロセスがまったくわからない。そのギャップが、普通の人よりたくさん、恐ろしさを感じさせるのだ。

    自分は言葉の心の働きだ。言葉の心の使命は未知を言葉にすることだ。言葉にする対象が見当たらないと退屈し、感知しても言葉に出来ないと恐怖心が湧いてくる。自分は言葉にするつまり知るために生じている言葉の心の働きだ。自分にとっての救いは知ることだ。自分の死は言葉にし切れないから恐ろしいのだ。

    人は、理解不能なものを恐れ、あこがれる。この湖は底無しで、どこまで深いか、どこまで続いているかわからないと言われると、恐れとあこがれを生じる。死についても同じことが言える。

    死と生は同じこと。生の終点を表す言葉が死だ。死には生の終わり以上の意味は無い。それでも死を特別なものとして意識せざるを得ない。死という言葉が生み出す錯覚だ。

    「心のない体」つまり死体を見て、その人の在りし日の心のことや、いつか来る自分の死を思い浮かべる。その人の体と心が未分化で眼前の死体に重なって見えることもあれば、その人の心は相変わらず自分の脳の奥の方に在り続けている感じがする時もある。心の交流のなかった他者の死は、現実として受け止められるが、心の交流があった他者の死は、言葉になって、自分の一部に溶け込んでしまっているので、非現実的な夢のような感じだ。そんな時、自分自身の死はどんなイメージで浮かぶのだろう。体の死は眼前の死者から類推するだろう。しかし心の死となるとまったく見当もつかない。未知だから恐ろしい。死への恐怖は色々あるが、未知ゆえの恐怖が最も大きい。見えないものは恐ろしい。心のない体つまり死体より、体のない心つまり霊魂の方が恐ろしい。

    死の恐怖は、自分が生み出した死という言葉による自家中毒だ。

    死への恐怖は、感覚や感情の心に生じる苦痛への恐怖と、言葉の心の働きである自分に生じる未知への恐怖がある。

    死が恐ろしいという感情はどこから湧いてくるのか。脳は、過去の経験では説明できない現象に出会うと、警戒して、恐怖や怒りの感情が生じるようにできている。

    感覚や感情の心には現在の現実しかない。過去や未来は無い。自分を感覚や感情の心だと錯覚すると、現在の現実しか見えなくなる。自分の死は未来についての言葉だから理解不能になる。恐れの感情が生まれる。

    死は、病気や怪我、災害を連想させる。死は苦痛を連想させる。死は道端の動物の死体を連想させる。死は幽霊を連想させる。それらは、自分を体だと思いこんでいることで生じる錯覚だ。

    死は抽象的な概念だから理解しにくい。見たことのない怪物を、話を聞いただけで、色々空想している感じだ。自分は言葉の心の働きで、死とは自分の死のことなのだが、他者の体の死や動植物の死しか思い浮かばない。自分の死は、よほど真剣に考えて、言葉で作らないと見えない。どうしても感覚や感情の心に映る他者の体の死が自分の死のように思えてしまう。

    自分が何なのか、自分が死ぬとはどういうことなのか、死んだら自分はどうなるのか、分からない。分からなければならないのに分かっていないということが不安なのだ。警戒すべき未知の何かが迫ってくる感じ。分からないとは、言葉に出来ないということ。

    昨日の朝、NHKで「今、お葬式が危ない」という番組をやっていた。社会のタブーに挑戦する番組だ。でも、アナウンサーが「もしあなたに万一のことがあったら」と言って始まった。人間だけが、自分が死ぬことは万一ではないと知っている。お葬式の番組の中ですら口にするのも憚られる、縁起が悪い無念な事だというタブーが見えている。死はタブーとなり、死を怖れて見ぬ振りをするしかなくなる。草原に1頭だけライオンがいる。私はカモシカで、安心できるのはライオンが見えている時。不安なのはライオンを見失っている時。ライオンとは、もちろん死のことだ。

    見えない、言葉に出来ないものは恐ろしい。死も同じだ。

    昔の京の人々は鳥辺山に立つ煙を見て、今日も誰かが死んだのだな、このところ煙の立たない日は無いななどと、いつか来る我が身の死に思いを馳せたことだろう。その時浮かぶ死は恐怖というより哲学や宗教的な感慨だったろう。最近の火葬場では、煙は一旦地下に引き込まれ、水洗脱色して出されるようになっている。死が見えないように遠ざける工夫だ。見えなくなって死は恐怖になった。一方で、ほとんど毎日、鉄道の人身事故の報が、駅頭の電光掲示板に流されたり、TVやラジオやインターネットを駆け巡る。誰かの死だと知りながら、ただの列車の不通や遅延として心の処理をしている。鳥辺山の煙の主と違い、人身事故の主は自殺なので、知らぬふりしかできないことが、さらに恐怖を大きくしているのだろう。

    自分を、感覚や感情の心だと錯覚していると、体の死を自分の死のように思ってしまう。心である自分は、今燈っている明かりだ。明かりである自分にとって、明かりが消えた状態は想像もつかない暗闇だ。見ないまま、逃れようとすることしかできない。

  何故恐ろしいのか

    セミやトンボや蝶は、脱皮して翅が生えると、片道切符で、二度と戻らぬ旅に出る。生きる旅は死出の旅でもある。ヒトだけが戻る場所にこだわる。絶対に戻れない死出の旅は嫌なのだ。

    死は誕生や成長と同じ、生の一部分だ。誕生は嬉しいが、死は悲しい。それだけならよいが、やっかいなことに、人は未知のことを怖れる。未開人が日食を恐れたように、現代人も言葉に出来ないことを怖れる。自分の死は未知の典型だ。死はその意味で、悲しいだけでなく、子供が暗闇を怖がるように、不気味で恐ろしい。病気のように汚かったり、伝染したり、悪霊のように不気味に思える。死を恐れ、嫌い、遠ざけたい気分が、穢れの正体だ。

    死は何故言葉にしにくいのだろう。死が抽象的で未熟な言葉だからだ。抽象的な概念を言葉で操作するのには、訓練が必要だ。そういう作業の是非はともかく、住み着いてしまった未熟な言葉を片付ける為には必要なのだ。

    動物としての死に方。死ぬ瞬間まで、何か特別なことが起きるとは思っていない。苦痛があれば、苦痛を癒したいと思うだけで、死にたくない、死が恐ろしいとは思いもしない。死という言葉がないからだ。何故、ヒトにとってのみ、死ぬのが苦痛以上の恐ろしい忌まわしい「特別なこと」に思えるのだろう。体つまり苦痛を癒すだけでは不足で、死からの救いを求めるのだろう。死という言葉があるからだ。言葉を恐れるのだ。自分は言葉の心なのに、感覚や感情の心に囚われて、自分が作り出した未熟な言葉を、感覚や感情の心に映し出される現在の現実と錯覚してしまうのだ。体や、感覚や感情の心の苦痛は安楽で癒せるが、死の恐れは言葉なので言葉でしか救えない。感覚や感情の苦痛を癒しても、死の恐れからの救いにならないのは、苦痛と死の恐れが発生している次元が異なるからだ。死の恐れを克服できる言葉が必要だ。

    自分の死を考えると、恐れの感情が湧く。未知の暗闇に引きこまれるような不安が湧く。2年前に心臓の手術を受けた。全身麻酔の瞬間に心はすべて消えた。苦痛も孤独も暗闇もなかった。何もない事にこだわる気持ちも無かった。死という言葉そのものが消えていた。

    自分を感覚や感情の心だと錯覚している時の死を恐れる気持ちは、独りの夜道の前方に、得体の知れない白いものがひらひらしている感じだ。翌朝明るくなって言葉の心を取り戻したら、正体を確かめに行こう。夜道の幽霊の正体を言葉にできれば、もう恐ろしくない。

    人はいつ頃から死を恐れるようになるのだろう。それはどうしてなのだろう。小学生の頃、祖父が死んだ。自分のことのように思えて、ひどく恐ろしかった。感情としての恐怖は時が経つと消えた。しかし一部が言葉になって残った。書き言葉を習う小学3年生頃か。言葉の心が発達して、自分の死を考えられるようになる。人が簡単には死ななくなった時代、生きているのが快適になった時代、それは死を恐れる時代でもあるのだろう。

    言葉の心の働きである自分は、言葉に出来ないことを恐れる。自分の死は、経験出来ない。言葉にできない。だから恐ろしい。

    去年生まれた孫に手を振りながら、この間までこの世に居なかったのだなと思った。居なかった者が生じる。居た者が居なくなる。

    命に物差し無し。何処までが不慮の死で、何処からが寿命なのか。何処までが自然死で、何処からが病死なのか。何処までが避けられた死で、何処からが避けられない死なのか。納得できる死と出来ない死。受け入れ易い死と受け入れがたい死。感覚や感情の心には現在の現実しかない。感覚や感情の心にとって、すべての死は、現在の現実の崩壊なので、予想外の、理不尽な、忌むべきものと映る。

    言葉の心は、よりよく生きるための道具として発達したものだ。死について考え、恐れてしまう。そのことも、よりよく生きるために役立っているのだろう。すべてはよりよく生きるための手段なのだ。

    言葉の心が働かないと目的はもてない。目的がないと不安になる。

    自分では死んだ自分の体の始末ができない。そのことも死への恐れの原因になる。

    自分が死ぬことを言葉にできない。理解できない。理解できないことは恐ろしい。生きることの意味を理解できないと死ぬことの意味も理解できない。本当は生きることだけに意味があって、死ぬことはただの無意味な言葉なのだ。死ぬことを恐れたままでは、受身で生きているだけで、能動的に生きようとする力が湧かない。死ぬことを理解できれば、生きようとする力が湧いてくる。

    何故ヒトだけが死を恐れるか。ヒトだけが言葉を持ち、実際には生じていない出来事を想像できるからだ。

    動物に死は無い。体が死なないという意味ではなく、認識という意味で死は無い。つまり死という言葉が無い。死はヒトにのみ生じる。ヒトは言葉で世界や時間を作り出す。記憶の過去や願望の未来を作り出す。死や幸福という未熟な言葉も作りだす。あの世やこの世も作りだす。神や仏も作りだす。

  何が恐ろしいのか

    やっと夏が終わって、気温が下がり、さわやかな秋晴れの昼下がりだった。公園の木に囲まれた空き地の上を、大きなトンボが、日光浴をするように、透明な翅に太陽の光をキラキラ反射しながら浮かんでいた。見ている間もなく近くの枝から大きな影が飛び出し、くわえて戻っていった。カラスだ。

    家の向かいに、小さな保育園がある。朝、泣き叫ぶ声が聞こえてくる。仕事を持つ母親が子供を預けて立ち去る修羅場だ。子供にとっては、身も世もない悲劇の場面だ。聞いている私も自分の昔を思い出して辛い気持ちになる。母親はもっと辛い気持ちだろうが、しかしそうは言っていられない。保母さんが間に入って、何とかしている。葬式に似ている。母親が死者で、保母さんが僧侶で、子供が遺族なのだろう。

    子供の頃、母に、家にいるとうるさいから外で遊んできなさいといわれる。外に友達がいない時には途方にくれる。死ぬと、永遠にさまよわなければならないという感じも、死の恐ろしさなのだろう。

    言葉の心の働きである自分は情報なので、本来、生きてもいないし、死にもしない。点滅するだけなのだ。死という言葉を恐れるのは、言葉の心の働きだが、そんな時は、自分を、体や、感覚や感情の心だと錯覚しているのだ。体の死を、言葉の心の働きである自分に生じる現象だと錯覚しているのだ。

    体や心の平安が脅かされた時に生じるのが恐怖感だ。興奮という快感だ。断崖絶壁や猛獣より、正体不明の何かの方か怖い。怖さと快感は比例する。子供の頃はトイレでも押入れでも何でも怖かった。その分楽しかった。

    自分の死について考える。この世から自分が消えてしまうことについて考える。紅葉した街路樹の下を通りながら、舞い散り、降り積もる赤や黄色の葉を見ていると、この世がいとおしく思える。この光景を見ることができなくなると思うと、残念に思われる。死への恐れは、現在の現実を失うことへの感覚や感情の心の未練から生まれる。感覚や感情の心が映し出している現在の現実は虚無なのだと知ることが必要だ。

    感覚や感情の心に映る現在の現実。いつまでも在り続けると信じている現在の現実が突然無くなってしまうことが怖い。どうすればいいか、どう考えたらいいか、どのように受け止めたらいいかわからない。言葉の心に切り替えて、言葉の心の働きである本当の自分にとっては、感覚や感情の心が映し出す現在の現実は虚無であることを、言葉にして明らかにすればよい。

    未知や虚無に引き込まれるのが怖い。心を言葉の心に切り替えて、死を言葉にして明らかにすれば、未知や虚無の暗闇は消えてしまう。

    名前が無いものは存在していないことになる。名前が付くと存在することになる。細菌や放射線や幽霊やたたりや死も同じだ。名前だけあって、感知したり理解できない未熟な言葉が心を惑わすのだ。

d.    死を恐れる感情の心から、自由になる

ア.死を恐れるのは、現在の現実の癒しを失いたくない、苦難や苦痛や苦悩を避けたいという感覚や感情の心の働きだ。言葉の心に切り替えれば、逃げるだけでなく、戦うことも出来る。死への恐れを言葉にして、明らかにしてしまおう。

イ.感覚や感情の心は、外界の変化を感じるだけ。現在の現実を映すだけ。鏡のような心だ。だから、まだ現在の現実になっていない自分の死を想像も受け入れも出来ない。恐れるだけだ。言葉の心は自分の死という言葉を作り、自分の未来に組み込むことが出来る。

ウ.自分の死に方について考えた。生きていることが快適で安楽だと思えば、それを失うように思えるだろう。生きていることが苦痛や苦悩だと思えば、それから逃れられるように思えるだろう。どうしてもし遂げたいことがあれば、それが挫折するように思えるだろう。

エ.高僧は、本当に自分の死期を察知できるのだろうか。この瞬間に自分は死ぬということを自覚できるはずが無い。脳波が止まる瞬間を、脳波がキャッチできるはずがない。予知が、数分後でも数時間後でも、数日後でも数年後でも数十年後でも、みな不特定の未来の話だ。いつか死ぬだろうくらいは誰でも自覚できる。本人には、臨終という特別な状況はなく、普通に生きている状態の、予期せぬ終わりなのだ。その時を迎え、苦痛に喘いでいるのがいいか、生きていることを楽しんでいるのが良いのか、望みの達成を求めているのが良いのか。苦痛に喘いでいれば、生きていることへの執着が消えているという意味で、救われている。生きている喜びや願望の未来があれば、そのことで既に救われている。どちらにしても、死は救いとともにやってくるのだ。

オ.実家で仏壇を見る。父の位牌がある。ヒトは本当に居なくなってしまうのだなと思う。宇宙は光速で膨張している。遠い星は光速で光を注いでくるが、光速で遠ざかってもいるので、地球からは同じ光が見え続けている。実際にはもう消えている星も多いことだろうが、今あるように見えている。星が体で、光が言葉だ。

カ.木に例えれば体は花であって、幹や根ではない。家系や家族制度へのこだわりは、自分を幹や根と思って生じる幻想だ。

キ.死とは何だろう。何がどうなることだろう。体の働きが停止して、2度と動かなくなってしまうこと。体が燃やされ墓に埋められてしまうこと。食べたり飲んだり、見たり聞いたり、話したり遊んだり出来なくなること。いなくなってしまうこと。会えなくなること。自分がなくなってしまうこと。

ク.その人は何だったのだろう。会った時に受けていた感覚や感情の刺激が言葉になったものだろう。

ケ.死ぬ夢。毎朝5時に目が覚める。カーテンを開ける。暗い東の空を見ながら、いろいろなことを思い出す。もう会えない人や悔いの多い日々を思い出して、慙愧の念が湧いてくる。窓に日が昇るまで、また、夢を見ながらウトウト、浅く眠る。孫の声がする。じいちゃん、具合どう、苦しい?見たり話したりできない自分に気がつく。背中がふんわり暖かく、眠いだけだ。じいちゃん、満足だった?そういうおまえは孫ではないな。誰だ、と心の中で言う。ずっと孫だったよ。正確に言えば、孫の姿になって、おじいちゃんの脳の中で遊んでいたよ。それで、心で話ができるのだな。もっと生きていたかった?やりたいことはあるけれど、もういいや。したいことが無くなれば、生きるとか死ぬとかも、からっぽと同じだよ。孫とは何だろう。子供のうちは生きる力をくれる仏だ。成長するにしたがって鬼になって、歳とともにお地蔵様になっていく。鬼は欲望を鼓舞、生きろと命じる力だ。お地蔵様は欲望を吸い取り、安らかに命を手放させる力だ。おまえは孫に化けたお地蔵様だな。ひどく眠くなってきた。「ひとしきり眠って覚めると、きっと光になって、何億年も前に消えた恒星の光と並んで、宇宙の果てに向かって進んでいるのだろう」と思いながら背中に感じるベッドのやわらかい感触が、まるで雲の中に沈みこんでいくようだ。今度目を開けたら、初めて見るものばかり、白い部屋、白い壁、白いカーテン、すべてが白い光に包まれて、母と思しき人の横に置かれていたらいいな。

コ.人生の喜怒哀楽の原因の大部分を占める、自分や家族の生老病死を、言葉にして明らかにし、かえって生きようとする意欲につなげたい。生老病死を言葉にしておけば、言葉の心の働きである自分も感覚や感情の心から自由になり、活発に働き、生きようとする力も強くなる。自分や他者の生老病死を穏やかな気持ちで受け入れられるようになる。

サ.生老病死の全体を一つの生の流れとして言葉で明らかにする。生老病死が自分と一体となり、近しいものになる。

シ.死を言葉にしておかないと、感覚や感情の心のまま恐れ、逃げ回るばかりになる。死を言葉にしておかなければ生きようとする力が湧かない。

ス.釈迦は、子供を亡くして悲しむ母親に、ヒトは例外なく死ぬということを理解させた。つまり子供の死を言葉で明らかにさせた。感覚や感情の心は怒りや悲しみで、死の事実を拒否するばかりで、受け容れることが出来ない。言葉にすれば、事実として受け容れられ、生きようとする新たな力を湧かせられる。

セ.恐れずに、生老病死を言葉にしよう。生きようとする力のバネにしよう。

ソ.どのように生き、歳をとり、病み、死ねばいいのか言葉で明らかにして、確信にしよう

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