(1)薫香の点前=伝統薫香。 @
香道具物語。 1)考え方。 a.
香道具や作法に宇宙を見る。香道具や作法のそれぞれを、宇宙のそれぞれと重ねてみる。 b.
竹や木片、陶器やガラス、小石、雑貨を工夫して用いる。自分ならではの香道具の宇宙を作る。そのことで、世界は自分が生み出しているということが実感できる。曼荼羅になる。 c.
焚き方は、安全で合理的な方法を工夫する。聞き方も自分ならではの作法を工夫する。そのことで、この世のすべては自分が作りだしている言葉であることが実感できる。曼荼羅になる。 d.
鑑賞の邪魔にならぬよう、平易が良い。 2)香道具。(伝統薫香に必要な香道具一式。例) a.
電熱器など。炭団に点火する。 b.
折敷(おしき)。机に敷き香道具を並べる。 c.
香炉敷き。香炉を置いたり、作業をする敷物。 d.
銀葉(ぎんよう)又はアルミ箔。香木を炙る台。 e.
箸立て又は箸置き。箸、銀葉つまみ、灰ならしを置く。 f.
火箸又はピンセット。火の点いた炭団を電熱器などから香炉に移し、位置などを調節する。炭団に灰を掻き揚げ、灰に穴をあけたり、筋をつける。香木片をつまむ。 g.
銀葉はさみ又はピンセット。香木を載せた銀葉を置き換える。 h.
灰ならし。香炉の灰を平らにならす。 i.
銀葉台。香木を載せた銀葉を香炉の外に仮置きする台。 j.
香包み。香材を包む。 k.
香合(こうごう)。上記の小物を収納する。 l.
火消し壷。炭団は30分で燃え尽きる。その前に終了した炭団を移す。残った香材を焼香する。 A
炭団に点火する。 1)言葉の心の働きである自分を、実感する。 2)感覚の心が知ることができるのはその場限りつまり現在の現実だけで、場面が変わればすぐに虚無に戻ってしまう。感じるとか興奮するということだ。めらめら燃える乾いた藁のようだ。言葉の心の使命は、感覚や感情の心が受信した刺激つまり現在の現実を、言葉にして、記憶の過去や願望の未来に固めることだ。炭団の熾き火のようだ。 3)火は、万物を生み出す言葉の心の象徴だ。 4)火力が上がると、香木はどれも皆同じ香りになる。差別が消えて、救われるとはこういうことか、という感じがする。 B
香炉の灰を整える。 1)灰物語。 a.
香炉の灰は虚無つまりこの世の象徴だ。虚無を言葉にして明らかにしよう。言葉の心の働きである自分と、感覚や感情の心が映し出す虚無との戦いを始めよう。幽霊は言葉にして、明るい場所に引き出せば消える。幽霊退治の武器は言葉なのだ。 b.
灰は虚無の象徴だ。すべては灰から生まれ、灰に戻る。香りだけが残る。 2)虚無を言葉にして明らかにしよう。 a.
無尽蔵とは、必要以上にある状態、欲望が湧かない状態、つまり虚無の事だ。一切れのパンでも小鳥にとっては無尽蔵だ。小鳥にとって余分は虚無だ。ヒトだけが余分、無尽蔵を求める。ヒトだけが虚無を求めてしまうのだ。これは未熟な言葉の心の働きだ。 b.
言葉の心の働きである自分が、世界や時間を作っている。自分にとっての虚無は、言葉にできていないすべての事物のことだ。 c.
口の中の食物を飲み込む。この世から消えてしまう。体の中にも、宇宙の果てと同様に、見えない虚無があるのだろう。学校で習った体内の絵が浮かび、胃袋へ行ったのだろうなと思う。絵を知らなければ、食物は本当にこの世から消えてしまうのだ。感覚や感情の心で感知していても、言葉にできていなければ虚無なのだ。言葉に出来ている敵とは戦えるが、言葉になっていない感覚や感情の心に映るままの敵とは戦えない。虚無に対しては、ただ怖れ、ひれ伏し、祈ることしか出来ない。感覚や感情の心で反応するばかりだ。たった数頭の馬に乗った数人のスペイン人が、数百万人のインカ帝国を負かしたのも、馬という未知の存在があったからなのだろう。寺社で祈る対象は、言葉に出来ていない虚無なのだ。言葉になっていないから自力では戦えず、寺社に委ねるのだ。虚無とは、感覚や感情の心が感知できるかどうかとは関係なく、言葉の心の働きである自分が言葉にできていないすべてのことだ。果てしない地平線や夜空、見えない放射能や微生物など、言葉にし難い虚無は、畏怖や恐怖や好奇の感情を引き起こす。見知らぬ人、珍奇な品や見知らぬ風景に興奮するのもそうなのだろう。生き延びるためには危険の存在を察知して、逃げるか戦うか選択しなければならない。何が起きているのか分からないうちは、何をどうしたらよいか分からない。ただ怖れ、ひれ伏し、祈ることしか出来ない。だからヒトは、虚無と戦い、言葉にしようとするのだろう。 d.
何かが在るとは、誰にとって、何が、どのような状態にあることなのだろう。感覚の心にとって在るとは、感覚の心に触れたものだけだ。感情の心にとって在るとは、感情の心に触れたものだけだ。言葉の心にとって在るとは、言葉だけだ。私の感覚の心にとって在っても、私の感情の心や言葉の心に在るとは限らない。さらに言えば、私にとって在っても、君にとって在るとは限らない。それぞれ異次元に生じている現象で、一人の中ですら、感覚や感情の心の心にとって在っても、言葉の心には無いことは多い。私と君の双方に在ると思えるのは、同じ言葉を共有する場合のみだ。それぞれの心に同じ感覚や感情が生じていたとしても、それは互いには分からない。言葉にして始めて共有できる。言葉の心の働きである自分にとって、在るというのは、言葉になっている事物のことだ。感覚や感情の心が感知していても、言葉になっていなければ無いのだ。 e.
宇宙は虚無なのか。虚無か虚無でないかは、一人一人の言葉の心の問題だ。みなに共通する虚無というものはない。そのことについての言葉を持っていないヒトにとってのみ、そのことは虚無となる。誰も見たことがない宇宙の果てでも、そのことに関心を持つヒトにとっては虚無ではない。誰もが毎日目にすることでも、興味を持たないヒトにとっては虚無だ。言葉にしていない事物がその人にとっての虚無で、言葉にしている事物はその人にとっては、世界の一部なのだ。 f.
パソコンにとってインプットされていない情報は虚無だ。同じように、自分は言葉の心の働きなので、自分の言葉になっていないものは、虚無だ。言葉にすることで虚無がこの世のものに変わる。自分は虚無に不安や恐怖を感じる。言葉は、身を守ってくれる繭のように、安心をくれる。現代は、感覚や感情の心を快く刺激してくれる癒しの手段が簡単に手に入るので、わざわざ言葉に代えずに、感覚や感情の心のまま暮らしている。一皮剥けば、虚無の劇場の観客なのだ。 g.
かなしきは小樽の町よ、歌ふことなき人人の、声の荒さよ。啄木は小樽の町に虚無を見たのだろう。 h.
昼下がり、広場にはのどかな光が満ち溢れている。老人がベンチに散らばり、子供達が子犬を囲んで遊んでいる。ラオスやタイの田舎で味わった何ともいえない穏やかな心地良さがここにある。虚無の中を、感覚や感情の心のまま、プカプカ浮かんでいる感じだ。 i.
暗闇に蛍がたくさん飛び交ったり、草の葉にとまったりしている。私もその一つ。光っているのは私の世界だ。そんな私や君の世界が暗闇のあちこちにある。私にとって、自分の光が届く範囲が世界なのだが、暗闇全体が世界であるように錯覚してしまう。暗闇の世界の中に自分が投げ出されていると思ってしまう。暗闇は虚無だ。世界は一つ一つ別々に輝いているのだ。闇を世界と思い、自分をその一部と見ると、虚無の中をさ迷うことになる。 j.
言葉の心の働きである自分が言葉にしていない事物が虚無だ。言葉の心の働きである自分の使命は、虚無を言葉にして、自分や世界に取り込んで、生きようとする気力に変える事だ。 k.
感覚や感情の心に映っていても、言葉になっていなければ、言葉の心の働きである自分にとってそのことは虚無だ。感覚や感情の心のまま過ごしている日常、つまり現在の現実は、言葉の心の働きである自分にとっては虚無なのだ。感覚や感情の心のまま過ごしている日常、つまり現在の現実は、犬にとっては当たり前だが、言葉の心の働きである自分にとっては、苦しい虚無なのだ。 l.
言葉が生まれる前はどういう状態だったのか。虚無だ。感覚や感情の心が感知していても、言葉になっていなければそれは虚無だ。物理的な有無や、他者が知っているとかに関係なく、言葉の心である自分にとって存在していないという意味で虚無だ。「虚無というものは」などと使っているが、虚無一般というものはなく、各人の自分にとってのそれぞれの虚無しかない。 m.
虚無を数字のゼロや漢字の無だと思っている。しかし、数字のゼロや漢字の無は言葉なので存在しているのだ。虚無は、言葉が無い、つまり言葉の心の働きである自分の手が届かない状態のことだ。 n.
虚無には色々ある。物の有無のことだったり、現在の現実に対する幻や空想のことだったりする。仏教では、この世の全部の在り方のこと。香心門では、言葉以外のすべてをいう。感覚や感情の心が映し出す現在の現実も虚無だ。自分が生み出した言葉だけが実在なのだ。記憶の過去や願望の未来が実在で、現在の現実が虚無なのだ。普段思っているのと反対なのだ。 o.
言葉の心の働きである自分には、自分の言葉だけが実在だ。その他は虚無だ。つまり、自分の言葉になっていない事物のすべては虚無だ。感覚や感情の心に映し出された事物の方が、言葉より、実際に在るように思える。しかし言葉の心の働きである自分にとってそれは虚無で、言葉の方が実際に在るのだ。 p.
大草原の一本道をドライブしている。草の海で草を食んでいる牛しか見えない。場所が特定できる何物もない。船で沖に出る。陸地は見えなくなり、周りは波ばかりになる。波はそれぞれ個性があっても瞬間ごとに崩れて消えてしまう。飛行機の窓から外を見る。下に雲海、上に青空と太陽しかない。自分が今何処に居るのか、これまでの道中はどうだったのか、この先の行く手はどうなのか分からなくなる。きっと砂漠でも同じだろう。目印に溢れた街中だったらどうだろう。感覚や感情の心は生き生き活動するだろう。しかし、感覚や感情の心のままで通り過ぎれば、やはり自分が今何処に居るのか、これまでの道中はどうだったのか、この先の行く手はどうなのか分からなくなるだろう。言葉を積み重ねないと、人生は砂漠を歩いているのと同じになる。地図のようなもの、名前のようなものつまり言葉が必要なのだ。 q.
言葉の心は、自分や世界や時間を、言葉で作る脳の働きだ。しかしすべてが言葉で言い尽くせるわけではない。だが、言葉の心の働きである自分には言葉しかない。言葉に出来ない事物は虚無なのだ。初めに言葉の心ありき。言葉の心があって、自分が生まれ、自分が世界や時間を生み出す。言葉の心の働きである自分が生じる前は虚無だ。自分が感覚や感情の心の陰に隠れている間も虚無だ。自分が言葉に出来ないすべては虚無だ。 r.
世界は、自分の外にあると思っている。本当は自分の中に言葉で出来ているのだが、フィルムが映写機の中にあるのに、スクリーンの上にあるように思えてしまうのと同じだ。世界は、自分が言葉で作っている。虚無とは、物理的に何もないということではなく、自分の言葉になっていないという意味だ。 s.
感覚や感情の心が映し出す現在の現実は、偽の世界つまり虚無だ。言葉の心の働きである自分が、言葉で作った記憶の過去や願望の未来が本当の世界だ。虚実は次元の違いで、見ている自分と異次元のものが虚で、同次元のものが実だ。外界は感覚や感情の心が映し出す現在の現実だ。自分は言葉の心の働きだ。自分は言葉の心に、現在の現実は感覚や感情の心に、別々に生じている。だから見えて、聞こえて、香って、触れても、言葉になっていない事物は、自分にとっては虚無だ。言葉にすると、自分と同次元となり、実になる。虚実があるのでなく、言葉の有無が虚実なのだ。 t.
恐れは、予測ができない、原因がわからないもの、つまり言葉に出来ない事物に対する言葉の心の緊張だ。正体がわかる、つまり言葉に出来れば、恐れは消える。 u.
言葉になっていない事物が虚無で、言葉になった事物が自分や世界や時間、つまり実だ。土中に埋もれて忘れ去られた昔の記録や遺物も、発掘されて、解読されて言葉になると、世界に戻ってくる。この体も感覚や感情も、言葉ではないという意味で虚無だ。言葉の心の働きである自分は、言葉で世界を作る。感覚や感情の心は現在の現実つまり虚無の世界の住人で、言葉の心の働きである自分は、本当の世界即ち記憶の過去や願望の未来の住人なのだ。 v.
実家の庭の草むしりをした。母が一人暮らしだし、私もさぼって、茂り放題だ。無心になってむしっていると、自分は、今、自然という虚無と戦っているのだなという気分になった。むしってもむしっても、時期がくれば限りなく生えてくる。見えない軍勢の先兵と戦う感じだ。この夏は暑さが続き、南日本では台風の来襲が相次いでいる。これも自然という虚無との闘いだ。 3)虚無を克服しよう。 a.
虚無を克服する、つまり言葉を作り、自分や世界を大きく、広く、強くする。これが人生の目的だ。人を臆病にし、卑屈にし、受身にし、困難を避けさせ、安楽を求めさせるのはこの虚無だ。虚無とは言葉の心が働かない状態つまり動物としての感覚や感情の心に囚われた心の状態のことだ。虚無を言葉にすると、勇敢で、誇り高く、積極的で、苦難に挑戦し、目的達成つまり救いを求める、ヒトの心になる。 b.
輝かしい人生とは、どんな生き方のことを言うのだろう。過去の記憶を思い出した時に、満足できることを言うのだろう。それは発信されれば家族にも、記録されれば子孫にも、勇気を与えることだろう。言葉しか残せない。感覚や感情は残らない。だから、輝かしい人生とは、虚無を言葉にする、言葉の心を育てることだ。 c.
虚無という言葉は、虚無ではない。代数で、ゼロやXやYを仮定したり、ミカンとリンゴを同じ1個と仮定したり、幾何学で世界を点や面や線で表すように、言葉にすれば虚無すら虚無でなくなる。虚無すら思考の対象にすることができる。虚無を、思考の対象になるようにデータの形にフォーマットして、世界の中に取り込むのだ。 d.
言葉の心は、感知できないものに、無やゼロという名前をつけて存在させることができる。 e.
虚無の反対を実(じつ)とする。感覚や感情の心にとっての実は、感覚や感情の心に映る現在の現実だ。言葉の心の働きである自分にとって、それらは虚無だ。自分にとっての実は言葉だ。 f.
子供の頃の、感覚や感情の心に映っては消えてしまった日常のさざなみや、今、漠然と眼前を流れていく現在の現実は、世界ではなく虚無なのだ。感覚や感情の心に映る事物は、その時は世界の一部のように思えても、次の瞬間消えてしまう。虚無が一瞬世界になって又虚無に戻っていったのだ。感覚や感情と言葉の違いは、食べ物で言えば、水のように体にならずに通り過ぎていくものと、牛乳のように細胞の一部になって残るものの違いだ。夕暮れの道を車で帰る。雨に霞んで、小山や林が見える。空も少し明るく見える。しかしこれらは自分にとっては虚無なのだ。通り過ぎて視覚に映って、次の瞬間消えていく。ただ、今書いているこの言葉だけが記憶や願望になって、自分の一部、世界の一部になって残るのだ。 g.
空(くう)とか虚とか無はよくわからない。それは抽象的な言葉で、感覚や感情の心に見える具体的な現在の現実ではないからだ。自分は体でなく心で、それも言葉の心の働きだ。自分で作った言葉の世界の住人だ。本当の世界は自分の外でなく中にある。一見外にあるように見える世界つまり現在の現実を、空(くう)とか虚とか無と言う。外は空虚で無なのだ。感覚や感情の心への刺激だけがあるのだ。自分を体や、感覚や感情の心だと誤ると、虚無の外界をさ迷うことになる。それでガイド役の神仏が必要になるのだろう。自分は言葉の心の働きだし、世界は、外界ではなく、自分が自分の中に作っている言葉なのだ。 h.
感覚や感情の心が映し出す現在の現実は虚無だ。他者との比較も差別も競争も虚無だ。感覚や感情の心には、実は映らない。ただ流れ去る虚無を映し出す鏡なのだ。虚無には癒ししかない。虚無の世界で手に入るものはすべて癒しなのだ。救いは無いのだ。 i.
熱いものに触れると反射的に手を引くように、虚無に出会うと反射的に恐怖心や競争差別心など、感情に緊張が生じる。危険や侵入者に対する心の免疫反応だ。未知は恐怖心を生み、恐怖心は興奮を、興奮は言葉の心の活動を促す。言葉の心の働きである自分が虚無を言葉にすると、虚無への恐怖心も消える。 j.
麻雀に凝った事がある。損を恐れるスリル、得を求める快感。損も得も生じない退屈よりは、時間の過ごし方に意味あるように思えた。勝負の結果より、過程の興奮がうれしかった。そのうち、こんなことをしていては、人生の無駄遣いだという声が、自分の中から聞こえてくるようになった。興奮できなくなって、つまらなくなってやめた。生きていられる時間には限りがあるよ。興奮は虚無で、興奮のために時間をつぶしてはいけないよ。限りある命にとって、興奮でつぶすような暇は無いよ。言葉の心が囁いていたのだ。 k.
泳ぎを体得するには、まず体を水に投げ込まなければならない。自分の世界を作るには、自分を虚無に投げ込まなければならない。逃れるべき対象が見えなければ、逃れることは出来ない。出来合いの世界観を捨てて、虚無に戻ることが始まりだ。 l.
物陰や暗闇で視覚が利かないと恐怖心が生じる。子供の頃、目を閉じたり布団にもぐるのが恐ろしかった。暗い場所で一人になるのは恐怖だった。今でも見知らぬ人や景色や情報や状態に出会うと、緊張してしまう。恐怖と緊張は同じだ。海で泳いでいると下が見えないので気味が悪い。映画の主人公が、何かが潜んでいるかもしれない物陰や暗闇に進むのを見るとドキドキする。同時に、潜んでいる何かを知りたいという好奇心が湧く。恐怖と好奇心は同じ感情だ。虚無から逃れようとするか、虚無を克服しようとするか、心構えの違いだ。感覚や感情の心は虚無を恐れ、現在の現実の安楽を手放したくない、虚無から逃避したいという癒しを求める心だ。言葉の心は虚無を見極めて克服しようとする。虚無に気がつく。逃れようとすると相手は暗黒のまま膨れ上がり巨大な感じになる。恐怖が湧く。ライオンに追われる鹿のような気持ちになる。興味を持つと、ライオンを獲物として追いかける狩人の気持ちになる。わくわくする。その境は感情の心から言葉の心へ切り替えられるか否かだ。 m.
目が見えないヒトは見えるヒトより賢いと思う。それは、見えなくても在るものは在るのだと知っているからだ。見えるから在るのだと信じてしまう心より奥が一段深いからだ。見えない世界を言葉で作っているからだ。動物にはできないヒトとしての能力を用いているからだ。そして見えない虚無への恐れを克服しているからだ。 n.
人を惹き付けるには、見せるより隠すこと。料理なら振舞うより出し惜しみすることだ。もっとも強力な化粧は、ベールだ。もっとも強力な調味料は、その食材の入手の困難さ、正体の不明さだ。言葉になっていない存在に対して強い関心と恐怖を抱く。どうしても知って言葉にして、安心したいと思う。くだらない広告でも、あれば目を通したくなる。未来が気になる。恐れる。自分の影に怯えて吠えるイヌのように。イヌには、おまえ、それは自分の影だよ、馬鹿だなと笑えるが、そういう自分も、感覚や感情の心に映る、影も形も無い偽の未来に怯えてしまう。言葉にすれば恐れは無くなる。苦痛や苦悩も、自ずと解決法や対処方法が見えてくる。言葉の心の働きとはそういうものだ。 o.
子供の頃。公園で弟達とブランコの取り合いをしていた。年長の私が勝って、誇らしい気持ちで乗っていた。気がつくと弟達はいなくなっていた。何とも虚しい気持ちが襲ってきた。高校入試の前、深夜まで受験勉強に励んでいた。ある日、昼寝から覚めると誰もいない。畳の目が間近に迫って、心が空っぽになった気がして、自分は何でここにいるのか分からなくなって、地下に埋められたような気分になった。世界から色が落ちて灰色になった気分がした。気持ちの支えだった試験の意味が崩れ落ちた感じがした。言葉の心が未熟だったから、言葉で作って支えていた世界が崩れたのだろう。大人になるというのは、他からの光で光る感覚や感情の月でなく、自分の内部の燃焼で光を放つ太陽のように、自分で意味や目的を作り出す言葉の力を身につけることなのだ。 p.
藤沢修平の時代小説では、登場人物が、演劇の配役のように、使命をはっきり与えられている。職業、性格、運命、つまり、固有の言葉を与えられている。町や社会や人間関係も、舞台の書割のように明確な言葉が与えられている。あるがままの、つまり感覚や感情の心に映るままの、現在の現実、つまり日常は、言葉になる前の、無意味でのっぺりとした虚無だ。作家は、日常の無意味な虚無を、舞台や配役、事件という、読者と共有できる言葉に料理して、読者の言葉の心にとって居心地の良い言葉の世界を作り出す。つまり虚無に言葉を与えて、読者を包み込む言葉の世界を提供するのだ。無意味な日常の虚無を意味ある世界にするのだ。虚無を言葉の世界に変えるのだ。 q.
現在の現実とは、この世を照らす懐中電灯、つまり言葉を持っていない、感覚や感情の心が映し出す、鏡像のようなものだ。虚無だ。言葉の心が未発達な動物が見る、感覚と感情だけの、つまり現在の現実だけの世界だ。現在の現実に閉じ込められて、過去や未来が見えない。自分の明かりを持たないので、他人の明かりに照らされてしか、自分を確認できない。他人は砂のように無数にいて、顔もなく、入れ替わり、そのたびに自分も変わってしまう。言葉の心の働きである自分の使命は、言葉で自分や世界や時間を生み出し、固定させることだ。そのために、感覚や感情の心に映った虚無を言葉にすることだ。 4)般若心経。 a.
空(くう)には、空(そら)のように何も無いという意味と、その空(そら)すらもないという意味がある。空(そら)が在るのか無いのか、どの視点から見るかの違いだ。眺めれば青や灰色の天井のようなものが見える。自然科学なら、天井のようなものは無い。空(そら)は物ではなく光の屈折という物とは別次元の情報として在ることになる。感覚や感情の心は、パイプのように通すだけで貯められない。何も残せない。自身すら残せない。空(くう)には、感覚や感情の心の働きは、その場限りで空しいという意味もある。 b.
雄大な景色に感動している。そこには丘や森や家や海が広がっている。でも視界の大部分は青い空だ。青い空が在るように見える。空には何も無いのに、山と同じように空も在るように見えてしまう。無いものが在るように見えるのだから、在るものが違う風に見えたり、在るのに見えなかったりはよくあるはずだ。というより、見えているつもりのすべてが、本当は別のものだったり、無かったりしているのかもしれない。色即是空。空の青い色は、物の色でなく、光の反射で、物ではない。リンゴの赤い色も同じだ。反射光なのに、色や物だと思ってしまう。在るように見えているだけで、本当は何も無い信号なのだ。信号は受信した神経の中で生じる。空(くう)とは、青い空(そら)のことでなく、空(そら)のように何も無いという意味だ。 c.
この短いお経には、聖書一冊、お経が万巻、その他人類の叡智のすべてが詰まっている。それが絵や風景のように、一瞬で、心に転写されてくる。自分の脳が巨大なスーパーコンピュターとつながったように。釈迦が得た言葉を、絵のようにして、全体を一瞬で転写してくれる。 d.
外界の物音や風や香りに心を奪われるなということ。感覚や感情の心が映し出す現在の現実のことより、言葉の心の働きである自分が生み出す記憶の過去や願望の未来を大切にしなさいということ。 e.
仏説・摩訶・般若波羅蜜多心経。明るく生きるための知恵。 ア.観自在菩薩 行深・般若波羅蜜多時。ある人が、一生懸命生きて、 イ.照見・五蘊皆空 度・一切苦厄。苦しみの原因は、自分の心のせいだということに気が付いた。 ウ.舎利子 色不異空 空不異色。見えるからあると信じたり、見えないから無いと信じてはいけないよ。 エ.色即是空 空即是色 受想行識・亦復如是。見えても無かったり、見えなくても在ったりするのだから、感じたり、思ったり、したり、知ったことをそのまま信じてはいけないよ。 オ.舎利子 是・諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減。生まれたり死んだり、汚れたりきれいになったり、増えたり減ったりすることにこだわってはいけないよ。 カ.是故・空中 無色 無・受想行識。見たり、感じたり、思ったり、したり、知ったことにこだわってはいけないよ。 キ.無・眼耳鼻舌身意 無・色声香味触法。眼や耳や鼻や舌や体や心はあやふやなのだから、姿形や声や香り、味や手触りや心の動きにこだわってはいけないよ。 ク.無・眼界 乃至無・意識界 無・無明 亦無・無明尽 乃至無・老死 亦無・老死尽・・・。見えたり考えたりしている世界もあやふやなのだから、悩んだり、苦しんだりすることにこだわってはいけないよ。 C
炭団を香炉の灰に埋める。灰の表面を整える。虚無の宇宙に自分がポツンと燈っているイメージ。 1)虚無に、言葉の心の働きが生まれ、自分となり、世界を作り、現在の向こうに過去や未来が、現実の向こうに記憶や願望が見えるようになる。 D
火窓を開ける。これから乗るこの世とあの世の渡し舟の航路のイメージ。 E
香炉を手で包む。火加減を確かめ、調整する。自分の心をのぞくイメージ。 1)香炉物語。 a.
香心門のシンボルの香りは「蘭奢待(らんじゃたい)」と同じラオス東部山稜地帯に産した沈香だ。熟した果実のように甘く暖かい香りが特徴だ。 b. 望廬山瀑布 日照香炉生紫煙、遥看瀑布挂前川、飛流直下三千尺、疑是銀河落九天。李白。 c.
徒然草。「つれづれなるままに、日くらし硯にむかひて、心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ」。日々の暮らしが香炉で、湧き上がる感覚や感情が香りだ。香りは、生じたと思えば、跡形も無く消えてしまう。そんな歳月のことを振り返ると、自分が生きてきたという事まで、怪しくなって、居たたまれない気分になる。言葉にすれば、少しは気が紛れるだろうと思い、香を焚き、香りを書き付けておくことにする。日くらしの香炉だ。 d.
ビッグバンで宇宙が生まれ、素粒子が生まれ、光速で動く。宇宙が冷えてヒッグス粒子の海になる。素粒子の一部はヒッグス粒子の抵抗を受けて速度を落とし、互いに結合して原子に、原子の一部が分子に、分子の一部は結合して物質になる。香炉の中で、そういうことが起こっているとイメージしてみる。 e.
言葉の心という香炉があって、感覚や感情という香木を温める。そこから言葉になった自分や世界や時間や願望が立ち昇る。心のビッグバンだ。光が生まれ、空間や時間や星が生まれたように。 f.
仕事は、生きようとする力を生み出す香炉だ。 g.
香炉にはなぜ3本の脚がついているのだろう。香炉は心の象徴だ。3本の脚は感覚の心と感情の心と言葉の心の象徴だ。 |