1.香心門。 (1)香心門。 @
シンボル。 1)香心門のシンボルは、月のウサギの献香です。満月に黒い影が見えます。子供の頃、ウサギが餅を搗いているのだと教えられました。絵本には、長い棒の先に木の槌がついている杵が描かれていましたが、実際の月の影とは違い、ピンときませんでした。ラオスの山村へ行って、臼と杵を見て、ああこれだったのかと思いました。丸太の胴の中央を、握れるように細くして、垂直に上下して、臼の中を搗くのです。そういえば水車の中もこんな構造です。きっとこの物語が出来た頃の日本でも、同じような臼と杵で、米や雑穀を、脱穀したり粉に挽いたりしていたのでしょう。月のウサギはこの臼と杵で粉を挽いていたのです。ラオスの香木が採れる山奥の集落に、護衛の軍隊と泊まりました。当時はまだ政府軍とゲリラの戦争の残り火がありました。夜中、村を散歩しました。雲ひとつ無い澄んだ夜空から、満月が煌々と、家々や周囲の山や森を照らしていました。寝静まった家々の境は低い竹垣で区切られ、竹の壁に茅葺屋根、屋根の両端に交差した木が突き出し、日本の神社のようです。家族が居る日本とは時差は1時間しかありませんが、昼間、広場で見た人々の生活は、千年前の日本のようでした。男は山の焼畑に出かけて、軒先で犬や鶏や子供が遊び、女は、焚き火に掛けた素焼きの壷で黄金の繭を煮て糸を紡いだり、臼と杵で赤米を搗いていました。かぐや姫が育てられた竹取の翁の家も村も、こんな感じだったのでしょう。そんな思いで満月を見上げたら、ウサギが香炉を何かに捧げているように見えました。その何かは月には無く、その先には月の外の暗い空が広がるばかりでした。ウサギが香炉を捧げている相手は、地上で月を見上げているかぐや姫なのだな、自分が月の住人だということを忘れてはいけないよ、と伝えているのだなと思いました。これがウサギの献香のいわれです。 2)香木を採りに訪れたラオスでは、16世紀に、ランサーンという王国が興りました。隣国のカンボジアにはアンコールワット、タイにはアユタヤの王国があって、覇権を争った時代です。ランサーンとは百万頭の象という意味です。象は最強の兵器でした。この旅は少数の軍隊に守られていましたが、ほんの気休めでした。本当の百万象とは言葉の心、生きようとする心の力、気力や勇気です。百万頭の象の気力、それは言葉から湧いてくる、そしてその象とは自分の言葉の心のことだと思いました。 3)日本書紀。巻二十二 《推古天皇》「三年夏四月。沈水漂著於淡路嶋。其大一囲。嶋人不知沈水。以交薪焼於竈。其煙気遠薫。則異以献之」。 a.
浜辺で香木を拾い、カマドを整え、香木を焚く。燃え尽きるまで見届ける。木が消え、煙が消え、香りが残る。香りに心を澄ませると、体とは、心とは、自分とは何かが聞こえてくる。自分の世界、自分の時間が生まれてくる。生きようとする気力が湧いてくる。香りは苦しみも作り出す。苦しみを言葉にすると、救いが聞こえてくる。香りは残り香や移り香にもなる。移り香とは香りつまり言葉が身につく救いの事だ。残り香とは、発信した言葉が言葉のDNAの海に戻る救いの事だ。香りになれなかった香木は焚きガラになる。言葉になれなかった香りは、感覚や感情のまま、つまり動物の心のまま、癒しを求めて渇きの砂漠つまり現在の現実をさまよい続けることになる。 b.
香道具を整え、香を焚く。香りを言葉にすると、香(こう)になる。香(こう)は残り香や移り香になる。香(こう)つまり言葉になった香りは言葉のDNAの海に戻る。香りになれなかった香木、つまり言葉になれなかった感覚や感情は、灰つまり虚無になる。感覚や感情の心が映し出している現在の現実を言葉にすると、記憶の過去や願望の未来が生まれる。現在の現実を言葉にしないと、過去も未来も知らない動物の心のまま、現在の現実の浮き草となる。 c.
浜辺で=この世に。香木を拾い=体として生まれ。香道具を整え=五感を得て。香を焚く=心が生じる。香りを言葉にすると=感覚や感情を言葉にすると。自分や世界、時間や願望が生まれ、生きようとする力が湧いてくる。残り火を掘り起こし、焚きガラを焼香し、香りつまり言葉を元の言葉のDNAの海に戻す。煙も残り火も尽きたら=心の始末、香道具を片付ける=体の始末。 4)香心門は、感覚や感情の心と言葉の心の境界、この世とあの世の境界です。体や、感覚や感情の心のままでは通れません。言葉の心だけを通してくれる門です。香りには物と情報の両面があり、この世とあの世の架け橋にちょうど良い。だから、言葉の心を導くために香りを用いるのです。 5)香心門は、感覚や感情の心と言葉の心の境界の門です。香りは鼻をくすぐるうちは存在しているように思われます。しかし拡散して感じなくなれば、存在しないように思われます。本当は存在しているのですが、感じないものは存在していないとしか思えません。それが感覚や感情の心の限界です。香りを言葉にするともう消えません。言葉になった香りつまり香(こう)は、言葉の心の働きである自分を救いへ導きます。 A
言霊の香道。 1)問題意識。 a.
香りを言葉にする。言葉で自分や世界や時間を作る。香りは現在の現実だ。感覚や感情が見せている光景や実感も現在の現実だ。香りを言葉にするとは、感覚や感情の心から言葉の心に切り替える訓練だ。現在の現実を、記憶の過去や願望の未来にして、生き方をバージョンアップする訓練だ。きっと、子供や若者には自分の生きるべき道を見せてくれ、熟年には苦難を乗り越える力をくれ、老年には、死を迎える勇気を持たせてくれるだろう。 b.
竹取物語のかぐや姫は、自分が霊であることを知らずに育ち、成長してその事に気かついて、霊の国に帰る物語だ。霊とは誰もが持つ言葉の心の事だ。源氏物語の葵上は、感覚や感情の心に乗っ取られ、生きたまま悪霊になるという物語だ。悪霊とは誰もが持つ感覚や感情の心の事だ。霊とは生きているヒトの心の在り方だ、という古代人のメッセージだ。言葉の心の働きはヒトとしての霊で、感覚や感情の心の働きは動物としての霊で、体は霊の容器だ。自分はかぐや姫つまりヒトとしての霊で、月つまり言葉のDNAの海から来た言葉の心の働きなのに、感覚や感情の心が映し出す現在の現実の地上をさまよっている。世捨て人は、自分がヒトとしての霊つまり言葉の心の働きであると知って、感覚や感情の心が映し出す現在の現実に惑わされず、ヒトとしての霊の国つまり言葉で作る記憶の過去や願望の未来に生きるのだ。 c.
この体は動物だ。動物は子作りと子育てを終えたら、この世に用は無い。この体はもうとっくにその段階を過ぎている。動物を超えて化け物のレベルにいる。自分は何のために生きているのだろう。答えは世捨て人だ。自分を世捨て人だと思うと、この先の生きる道が見えてくる。言葉の心の成熟を目指すのだ。今、若い世代の自殺が増えている。若い人々よ、命を捨てる前に、世を捨てよう。船を捨てる前に荷物を捨てるのだ。そうすれば船は軽くなって、浮かぶ瀬も見えてくる。ここで言う世とは、感覚や感情の心が映し出す競争差別の錯覚が見せる現在の現実のことだ。香木を惜しまず燃やして、捨てて、香りを立てよう。自分にとっては香木よりも香りのほうが大切だということに気がつこう。いつの世も住み難くできている。生まれた時から競争、差別、不平等や格差の社会だ。怒りでは救われない。中東の春のように行動でも救われない。感覚や感情の心のまま、現在の現実のこの世で、奪い合い、競い合っても、同じ容器の中の液体をかき回すばかりで埒が明かない。場面を転換しよう。離れて観察しよう。カテゴリーを変換しよう。次元を変えよう。コンセプトから変えよう。 d.
鬱病も増えている。鬱とは、言葉の心が自信を失った状態のことだ。言葉の心が、感覚や感情の心が映し出す現在の現実の圧力に負けて、願望の未来つまり生きようとする気力を作り出せない状況のことだ。老人の自殺は相変わらずだ。不安とは感覚や感情の心が作る偽の未来だ。未来とは言葉の心が作り出す、生きようとする気力のことだ。本当の未来が偽の未来に勝てないのだ。不安を克服する言葉の心を育てよう。 e.
大人や老年への入り口で、無性に旅がしたくなった。ここから離れたい。どこかへ行きたい。遠い、知らない、こことは違った場所へだ。異界へ行きたいのだ。感覚や感情の心が映し出す現在の現実に飽き飽きしたのだ。さあ、どこへ行けばいいのだろう。旅行会社が用意した乗り物に乗って、地表や宇宙の離れた場所、見慣れない景色や習俗が異なる人々が住む街や村に身を置くのがそうなのか。レストランやショッピングセンターで普段とは違った衣食住を体験したり、新しい物を手に入れるのがそうなのか。遊園地や映画館で、非日常的な刺激に興奮するのがそうなのか。サッカーや野球場、集会や祭事でみなと興奮を共有することがそうなのか。本や美術館やコンサートで、他者が作った心の世界に遊ぶのがそうなのか。感覚や感情の心が映し出す現在の現実を、言葉にするのが救いになると思う。 f.
震災後の津波で生死を分けたのは何だったのだろう。心の持ち方がある。感覚や感情の心のまま、現在の現実に居続けてしまったのだろう。未来の津波は言葉の心にしか見えない。現在の現実の片付けや、移動の苦労を避けるなどしてしまったのだろう。言葉の心を働かせた人は、未だ来ぬ津波を予測して、現在の現実を捨てて、未来に逃げることができたのだろう。 g.
なぜ捨てるのか。種としての人類は人口を増やし、消費や環境破壊が、地球環境の再生能力を越えた。個人で言えば、栄養や医療の充実で、DNAの想定より長生きになり、欲望も肥大した。自然やDNAの摂理で制御されていた限界から自由になった。その自由を制御する何かが必要だ。世捨てとは個人が自発的に自分を制御する方法の一つだ。 h.
米寿を迎える哲学者が、孔子の、七十にして則を越えずという言葉について書いていた。一般には、心が成熟して完成したという意味に解釈されているが、桑原武夫は、気力が衰え、常識を越えたり冒険が出来なくなったのだという解釈をしたとの事。DNAの想定では30歳くらいが寿命なのだ。それ以上生きて、性欲や権力欲や生命欲を持ち続けたがるとは、DNAは想定していないのだ。さらに、人工的な刺激を作り、欲望を掻き立て合い、救いではなく癒やしをくれるものに支配されてしまう。天の摂理はもう越えてしまった。自己制御が必要だ。ヒトは自身で摂理を作らねばならない。言葉の心の出番だ。 i.
この夏も、働き盛りや大人になりたての男性の、性的な事件が取り上げられた。妻子の苦しみのことを思うと、いたたまれない気持ちになる。動物には発情期がある。発情期の♂と♂は♀をめぐって激しい闘争をする。事件を起こすのだ。動物の繁殖には競争差別の闘争は不可欠だが、短い期間に限られている。集団生活をする動物はそれによって被害を最小にしている。一方ヒトの♂は常に発情している。♀も♂への影響力を高めようとそれをそそるように振舞うように出来ている。経済は性的活動への余力を生み出し、政治は心の解放を進める。商業はそのための手段を開発して提供する。悲劇はますます増えるだろう。性的な事件の予防のために、警察の監視など社会的な対策が強められる。誰も反対しない。動物としての性的な自由を行使するため、つまり感覚や感情の心の自由を謳歌するために、ヒトとしての言葉の心の自由を放棄することになる。イスラムのブルカやキリスト教の司祭や仏教の出家者の衣装や振る舞いは、そういう感覚や感情の心の暴走を抑えるための知恵だったのだ。感覚や感情の心の自由を制限しなければ、ヒトとしてもっと大切な、言葉の心の働きである自分の自由を失うのだ。 j.
香心門の目的は、調香師のように嗅覚を鍛えることではない。新しい香りを調合することでもない。感覚や感情の心と言葉の心の違いを体感し、言葉の心を鍛えることだ。脳の働きを、動物からヒトへ成熟させることだ。現代は、マルチメデイアの発達で、感覚や感情の心を刺激する技術が発達した。読書など、言葉の心の訓練の機会が減っている。 k.
理解できない対象や環境の変化に出会うと、心は恐怖という感情に占拠されてしまう。言葉の心の働きである自分は仮死状態になって、パソコンのようにフリーズしてしまう。フリーズを解消するには、勇気という信号をインプットして、言葉の心の回線を復活してやる必要がある。中世の人々にとって世界は理解できないことで満ちており、戦乱や病、飢餓など苦難も多かった。人々には勇気をくれる宗教が必要だった。現代の多くの人々は、宗教を信じなくなった。宗教を持たなくても、生きていけるようになったからだ。宗教に昔日の輝きは無い。しかし、ヒトの本質は変わらない。戦乱や飢餓など外界の苦難は減ったが、心の苦悩、つまり癒やしを求める心の渇きも、競争差別の争いも、生老病死も相変わらずだ。宗教に代わる、生きようとする勇気の泉が必要だ。香心門では、生きようとする勇気の泉である言葉の心について考えてみたい。 l.
足利義政は、感覚や感情の心に映っては、はかなく消えてしまう現在の現実を、銀閣寺や庭園にして、過去や未来に固定したかったのだろう。竜安寺の石庭は、植物の季節の変化などのはかない癒しを拒否し、石と砂だけの枯山水に救いを求めたのだろう。私がこれから作る庭は、癒しと救い、感覚や感情の心と言葉の心、現在の現実と記憶の過去や願望の未来、生きている力と生きようとする力の違いを言葉にして明らかにする言葉の庭だ。矛盾に満ちたヒトの心の構造を表す言葉の庭だ。 m.
私が中学生の頃、所得の倍増が社会的な目標となり、癒しつまり欲望充足のやり取りである経済活動が盛んになり、癒しつまり消費が美徳とされ、我慢より競争や安楽が重んじられるようになった。結果、私たちの世代以降、清く正しく美しくという伝統の道が失われてしまった。私の世代が置き忘れてきた、我慢の心を思い出せるうちに書き残し、孫に伝えたいと思う。 n.
沈香の香りを言葉にして、救いつまり香(こう)を得る。沈香の香りは感覚や感情の心を癒してくれる。しかし、どんなにすばらしい香りでも、言葉の心の働きである自分を救うことはできない。言葉の心の働きである自分は、香りでは救えない。言葉でしか救えない。沈香の香りは癒しの極限まで連れて行ってくれる。そして救いの入り口まで見せてくれる。その先は言葉の世界だと教えてくれる。ということで、この話は、言葉から始めなければならない。始めに言葉がある。言葉が自分を作る。自分が世界や時間を言葉で作る。感覚や感情の心が、渇きと癒しを繰り返している苦の日々から、言葉の心の働きである自分を救う物語だ。感覚や感情の心の「現在の現実に生きている力」を、言葉の心が生み出す「未来に生きようとする力」にバージョンアップする物語だ。 2)定義。 a.
生物は体と心でできている。自分は心だ。体は心である自分の道具だ。心は感覚の心と感情の心と言葉の心からできていて、自分は言葉の心の働きだ。感覚や感情の心の癒しは安楽や逃避で得られる。言葉の心の救いは言葉つまり気力や勇気で得られる。香心門は言葉の心の成長を目指す門だ。 b.
世捨て人の定義。捨てるということの意味。持っているということの意味。何を捨てるのか。何のために捨てるのか。拾うということの意味。何を拾うのか。何のために拾うのか。世を捨てたヒト。世とは感覚や感情の心が映す現在の現実のこと。感覚や感情の心が映す現在の現実の虚無を見切った人。自分は言葉の心の働きで、言葉が作る記憶の過去や願望の未来にいるのだと気づいた人。世捨て人の反対語は世迷人(よまいびと)。自分を体や、感覚や感情の心だと思い込んでいる人。現在の現実が唯一の世界だと信じている人。本当の自分、本当の世界が見えていない人。 c.
外界からの刺激に反応して生じる感覚の心と、感覚に損得がついて生じる感情の心と、感覚や感情を記憶したり思考できるようにフォーマットする言葉の心がある。香心門の目的は言葉の心の成長だ。 d.
言葉の心の働きである自分が、感覚や感情の心の誘惑を、どれだけ我慢できたかが、人生の価値だ。香心門はそれを求める。感覚や感情の心に負けない、言葉の心の働きである自分作る。 e.
自分は、今この言葉を反芻している心の働きだ。他者の自分をその体だと思ってしまうが、本当は体の奥に居る言葉の心の働きだ。だから、互いの自分は、見た目や声や握手など感覚の心では、知ることは出来ない。自身の自分と他者の自分の間には、埋められない虚無がある。言葉で橋を架けることは出来る。星が瞬くように、かすかな光をやり取りすることはできる。それとて、互いの引力圏に引き寄せようとする作意だったりする。本当の話し相手は自身の中の自分しかいない。この香心門はそんな人間が自分の中の自分と対話する入り口の門だ。 f.
聖書は、初めに言葉ありきという言葉で始まる。感覚や感情の心が映し出す現在の現実に囚われている人々の目を覚ますために、感覚や感情の心を超えた言葉つまり神の存在を説いたのだろう。香心門では、一人ひとりの言葉の心の働きが、一人ひとりの自分を作り、自分にとって自分は外に広がる世界つまり記憶の過去や願望の未来のように見えているのだと考える。一方で、同時に働いている感覚や感情の心が映し出す現在の現実も世界のように思えるが、これは、言葉の心の働きである自分にとっては幻想で、偽の世界なのだと考える。 3)目的。 a.
香心門の目的は、かぐや姫の心境を得ることだ。自分は月の者で、この地球の者ではない。自分は言葉の心の働きで、言葉の世界の者で、感覚や感情の心が映し出す現在の現実の者ではない。現在の現実は鏡の中の世界で、自分は鏡のこちら側の世界の者だ。この鏡に映っているすべてを与えようと言われても、それがただの鏡像だと分かる者だ。 b.
見知らぬものや理解できないことは心を乱す。安心を得る唯一の方法は言葉にすることだ。言葉にして自分がいるこの世のものにしてしまうことだ。言葉にしてしまえば幽霊も「正体見たり枯れ尾花」だ。あの世とは、見知らぬものや理解できないこと、つまり言葉で作るこの世の外のことだ。幽霊や死はその最たるものだ。あの世のものを言葉にしてこの世のものにする。それが、言葉の心の働きである自分の使命だ。それが香心門の目的だ。その使命が果たすべき時に恐怖や迷いが生じるのだ。 c.
渇きに追われ、癒しを求めて、生きているだけの日常、つまり感覚や感情の心が映し出す現在の現実のこの世から離れ、記憶の過去に学び、願望の未来を実現しようとする気力を得る為に、あの世に言葉のはしごを立て架けること、それが香心門の目的だ。 d.
自分は言葉の心の畑を耕し、言葉を育て、救いを収穫している。畑は一人に一つずつ別々にあって、互いに異次元にある。みんな、それぞれの畑で、同じ事をしている。私も自分の心を耕し、言葉を育て、救いを収穫したい。癒しは他者とやり取りできるが、救いは自分の言葉の心の畑を耕して作るしかない。 e.
香心門では、「言葉にして明らかにする」という生き方を身に付けたい。感覚や感情を言葉にして、感覚や感情の心が映し出している現在の現実に距離を置いて、客観的に観察する力を鍛えると、感覚や感情の心の衝動を自制する力が身につく。無いから食べないのは「諦める」だ。食べられるし食べたいけれど、食べると体に毒だから、我慢して食べないのが「明らめる」だ。それでも食べるのが「癒しに負ける」だ。感覚や感情の心の衝動を我慢すると得られるのが、言葉の心の働きである自分の満足、つまり「救い」だ。 f.
自分を虫だと信じれば、卵の時も、毛虫の時も、蝶の時も自分だが、自分を蝶だと信じれば、蝶に羽化した後が自分だということになる。体や、感覚や感情の心でいる時は、動物の心がいるのであって、自分はいない。言葉の心でいる時に自分は生じている。言葉の心の働きである自分が心の主役になって、言葉を受発信している時に自分は生じている。この香心門の目的は言葉の心の働きを鍛え、生きようとする気力を強めることにある。感覚や感情の心の癒しでなく、言葉の心の満足つまり救いを求める。香りから香(こう)つまり言葉に至る門だ。 g.
ヒト以外の動物には言葉の心がなく、自分も世界も時間も無い。ヒトには言葉の心がある。自分や世界や時間は、本能のような生まれつき完成しているものではなく、言葉の訓練で成長させるものだ。それが未熟なら、心を感覚や感情の心に乗っ取られ、自分や世界や時間が作れないまま、現在の現実をさまようことになる。香心門の目的は、言葉の心の働きである自分を、感覚や感情の心が映し出す現在の現実から「救う」ことだ。 h.
香心門の目的は、自分で自分を褒めたり励ましたりする、言葉の心の働きを強くすることだ。 i.
救い、つまり生きようとする言葉を得る。香席の始まりは競争や差別の楽しみ、癒し、つまり感覚や感情の心を慰めるための遊びだったのだと思う。私にとっては、救いを得るための、言葉の心のトレーニングだ。香りを言葉に変える訓練だ。香木は体の象徴だ。香りは感覚や感情の心の象徴だ。香心門は感覚や感情の心を言葉の心にして、迷いの道草から、救いの在る目的地へ導く門だ。 j.
香心門は言葉の心を鍛える。人生で本当に大切なのは言葉の心を磨くことだ。感覚や感情の心に生じる、形のない、頼りない、香りのような心を言葉にする、つまりちょっとした感動を俳句や短歌に作るのと同じだ。 k.
香心門の目的は、言葉の心を鍛え、言葉の心の働きである自分を、感覚や感情の心が映し出す現在の現実や競争差別の錯覚から解放しようとするものだ。言葉の心の働きである自分がさ迷っている、感覚や感情の心が映し出す現在の現実、つまり競争差別や錯覚の海や、癒しへの渇きの砂漠から脱して、言葉の港やオアシスを目指すことだ。何故香りなのか。嗅覚は視覚や聴覚より先に生まれた、言葉の心から最も遠い、原始的な働きだ。香りを言葉にするのは、見えたり聞こえるものを言葉にするより難しい。だから言葉の心の訓練にふさわしい。何故門なのか。感覚や感情の心のぬかるみから、言葉のレンガを敷き詰めた舗装道路への入り口だからだ。 l.
アイザック・ヲルトンの釣魚大全では、道具や魚や釣りの技術のことより、釣り人の心に湧きあがる感覚や感情の癒しについて多く書いている。この香心門は、香りがくれる感覚や感情の心の癒しではなく、香りを言葉にして得られる言葉の心の救いを求める。残らない、深まらない感覚や感情の心の癒やしでなく、自分や世界を深めてくれる言葉を求める。 m.
香心門人は香りの使い手だ。そして言葉の使い手だ。香りと言葉を用いて、心を癒しから救いへ導く案内人だ。 n.
香心門の主題は救いだ。あらゆることについて、それが癒しなのか救いなのかを見極める第3の目を身につける。癒しの香りを言葉にして、救いの香(こう)を得る。 o.
言葉は人格そのもので、いかなる時も、他者の自由にされてはならない。自分の中に泉のように湧くものだ。他者から移植できないものだ。 p.
香心門の主題は、香りの鑑賞ではなく、香(こう)つまり香りを言葉にすることだ。自分は言葉の心の働きだ。感覚や感情の心が映し出す香りに言葉の心を働かせ、言葉にする。言葉の心を育てる訓練だ。ヒトの脳には生まれつき言葉を生み出し操る働きがある。それが言葉の心だ。対象から受動的に作られる感覚や感情とは違い、言葉は自ら生み出すものだ。壁のしみやカーテンの皺をじっと見つめていると、さまざまな表情が見えて、語りかけてくる。この現象は感覚や感情の反応でも、夢や幻でもなく、世界を生み出す言葉の心の働きなのだ。聞香は香りの中に言葉を探すことで、虚無の中に言葉で自分や世界や時間を構築する力を養う訓練なのだ。 q.
自転車で、急な坂を上りながら考えた。「これがバーチャルな世界だったら苦痛は無いのに」。貸しビルの前を通ると空室アリの紙が張られている。電脳空間にバーチャルなオフィスが増えて、物理的なオフィスの需要が減っているのだろう。仕事や戦争も、計画や作戦を立てて、他者や武器に指示するだけの、バーチャルなものになっている。ヒトとヒトの関係もバーチャル化して、奴隷や軍隊、宗教や終身雇用、村落共同体や大家族のような、固定的、強制的な関係は壊れ、バラバラな個人が、自由な情報として、電脳空間で星のように光つまり言葉を交信している。今年は、フェイスブックで呼びかけられた沢山の若者が、中東では独裁国家を倒し、ロンドンでは暴徒化し、昨日からはニューヨークのウォール街でデモをしている。軍隊も警察も無力だ。人も世界もバーチャル化して、電脳空間では物理的な力は無意味なのだ。言葉の心には、バーチャルな自分や世界を構築しようとする本性がある。ヒトが持つ自分は、言葉の心の働きなので、体や、感覚や感情の心が映し出す現在の現実とは一線を画して存在している。願望を実現するためには、現在の現実とは異次元の、自分や世界や時間という手がかりが必要なのだ。この香心門の目的はそこにある。自分や世界や時間を言葉で育てることだ。自己実現でもあるし、不死の自分を作ることでもある。 r.
一代限りの能力の開花を成熟という。世代を超える能力の開花を進化という。言葉の心の働きである自分は、一代限りの成熟をする。世代を超えることはできない。体に世代を超えさせるのが体のDNAで、言葉の心にそれをさせるのが、言葉のDNAだ。香心門の目的は、言葉の心の働きである自分に言葉を発信させ、言葉のDNAの海に戻すことだ。香心門の目的は、感覚や感情の心を制御できる言葉の心の成熟だ。 s.
香心門の目的は、現在の現実がどうであろうと、望ましい未来を作り出そうと頑張れる、そんな自分を育てることだ。心の働きには3つある。感覚の心、感情の心、言葉の心だ。感覚や感情の心は刺激によって生じる受身の心だ。刺激が無ければ退屈というさざ波が立つ。刺激があれば興奮や緊張が生じ、快不快や癒しが生じ、別のさざ波を生じる。同じ刺激が続くと飽きて、退屈という渇きのさざ波が立つ。感覚や感情の心は、興奮と退屈、渇きと癒しを繰り返すだけの受身の心なのだ。感覚や感情の心には救いはない。救いとは、感覚や感情の心が波立たない、つまり死んだり熟睡している時のような感覚や感情の心が起こらない状態のことでもない。救いとは、願望の未来を目的にして、生きようとする心の働きのことだ。快感なら自分をくすぐり続ければいい。癒しならお金で手に入れればよい。しかしそれでは動物のように生きているだけで、生きようとする気力は湧いてこない。つまり救いは無い。言葉の心の働きである自分は、自分が生み出す言葉でしか、生きようとする気力、救いは得られない。 4)方法。 a.
世捨て人は、盲人に似ている。感覚の心の一番の働き手は目だ。感覚や感情の心は、主に目によって現在の現実を映し出す。目は過去や未来を作ろうとする言葉の心の働きを妨げがちだ。目が見えなければ、感覚の半分以上が遮断される。感覚によって引き起こされる感情の乱れも遮断される。目が見えない分、自分の周囲を言葉で見なければならなくなる。事物を感覚や感情の心ではなく言葉の心で捕らえなければならなくなる。世界を言葉で作らなければならなくなる。世界が、目明きが見ている現在の現実を超えて、記憶の過去や願望の未来に広がることになる。鼻以外を閉じて、言葉の世界を得ようとするのが香心門の方法だ。 b.
感覚や感情の心が映し出す錯覚、現在の現実、競争差別、未熟な言葉への信仰を捨てる。癒しへの信仰を捨てる。 c.
世捨てとは、動物としての心、つまり感覚や感情の心から自由になるために、現在の現実から手を放すことだ。言葉の心に切り替えることだ。 d.
問題は、心の切り替えだ。感覚や感情の心でいる間は、癒しを求め苦難を回避しようとしてしまう。言葉の心に切り替わると、自分や世界や時間が生じる。感覚や感情の心が映し出す現在の現実から自由になる。世捨て人になる。願望の未来に生きようとする勇気や気力が湧いてくる。一生を振り返った時の満足感は、世捨て人になって生み出した、願望と勇気と気力の言葉に比例する。 e.
『求めよ、さらば与えられん。尋ねよ、さらば見出さん。門を叩け、さらば開かれん』新訳聖書「マタイによる福音書」。求めれば得られるものとは何だろう。物や幸運は状況次第でままならない。自分の心の状態のことなら、求めれば必ず実現する。そういうことだろう。世捨て人について考えた。この世とあの世のことだ。感覚や感情の心のまま、満足していれば、言葉の心の働きである本当の自分は手に入らない。捨てよ、されば得られん。癒しを捨てよ、されば救いが得られん。感覚や感情の心が映すこの世つまり現在の現実を捨てよ、されば、言葉の心の働きである自分の本当の世界、あの世つまり願望の未来が得られん。 f.
世界を言葉にして明らかにする。見えている世界と本当の世界は別なのだ。見えている、感じている、生きているのは、現在の現実だ。本当の世界ではない、偽の世界なのだ。自分が言葉で作っている、記憶の過去と願望の未来、生きようとして向かっている世界が本当の世界なのだ。自分は体でも、感覚や感情の心でもない言葉の心の働きだから、自分にとっての本当の世界は言葉で作られた世界なのだ。 g.
幼い頃、雨の朝など、父が玄関を開けて仕事に出かける姿を不安な気持ちで見送った。窓の外を見れば、土砂降りの雨の中、泥濘の道を駅に向かう人々の群れが見えた。ドアや窓の向こうは虚無だった。家の中だけがこの世だった。今でも基本は同じだ。見えている、感じている、生きている現在の現実だけが世界だと信じている。顔の周辺の感覚器官が映し出す像が世界のすべてだと思っている。見えているのは実物でなく鏡像だとは気がつかないのだ。鏡は感覚や感情の心で、鏡像は感覚や感情の興奮で、それを観察している自分は鏡のこちらの別の鏡つまり言葉の心の鏡を見ている。映っている言葉を見ている。しかし感覚や感情の心の鏡を見ているのだと錯覚している。鏡のこちらの世界の存在に気がつかない。自分がこちらの世界にいることにも気がつかない。冬の後に来るであろう春、夜の後に来るであろう朝は、現在の現実としては見えない、感じられない、実感できないけれど、あるのだ。この世のほかにあの世があること、現在の現実の他に記憶の過去や願望の未来があること、体の他に心が、感覚や感情の心の他に言葉の心があることに気がつかねばならない。 h.
動物としての視界から離れる。ヒトとしての視点を構築する。現在の現実へのこだわりを捨て、願望の未来を言葉で作り、実現しようとする。マンモスと、現在の現実しか見えない狩人が戦えば、マンモスが勝つ。言葉の心を持つ狩人には過去や未来が見える。過去や未来から攻撃することが出来る。マンモスには過去や未来から攻撃を受けていることは分からない。マンモスの過去の行動を言葉にして思考し、未来のいつ、どこを通るかという言葉を作り、そこにわなを仕掛ける。過去のマンモスの弱点を思考し、予めそこを攻める武器を用意する。そうやって人類は生き延びてきたのだ。現代の競争は勝敗が速くなった。現在の現実で短期決戦をしているように見えるが、深い過去、遠い未来からの攻撃なのだ。個人も企業も国も、感覚や感情の心が映し出す競争差別の錯覚に囚われて、現在の現実の勝利にこだわると、未来にいる者に負ける。より遠くの未来にいる者が勝つ。現在の現実や近い未来への執着はほどほどにして、遠い未来を作る言葉の心を鍛えることが大切だ。 i.
目に見える現在の現実への信仰から目覚める。偶像崇拝から醒める。そのために、目以外の感覚を用いてみる。例えば嗅覚。それがこの香心門だ。 j.
教育は、感覚や感情の心が映し出す、競争差別の錯覚や、癒しへの誘惑、苦難からの逃避を抑える言葉の心を育てることだ。 k.
自分は体でなく心、それも感覚や感情の心でなく言葉の心だと知ろう。自分が求めるのは香木ではなく、香りでもなく、香(こう)だと知ろう。 l.
自転車で坂を上っている時、ギブアップしたくなる自分について考えた。体はブレーキが無いから壊れるまで活動を続けられる。感覚の心には苦痛が生じるが、やはりブレーキが無いから気を失うまで活動を続けられる。感情の心には恐怖や苦痛から逃れ、安楽を求めようとする癒しを求める働きが在る。音を上げるのはこの心だ。感情の心のギブアップは言葉の心の働きで抑えることができる。ヒトの価値はここで決まる。言葉を掲げることで、つまり目的を持つことで、言葉の心の働きを強めることが出来る。ヒトの強さは、持っている言葉の強さで決まる。 m.
偽薬効果とは、偽薬を処方しても、薬だと信じる事によって症状の改善がみられる事を言う。心は情報なので、病はない。あるのは未熟さだけだ。心に回復はない。成長だけだ。心の薬は、心の栄養剤、勇気と気力を湧かせる言葉だ。○○香というのは、そんな心の栄養剤のことだ。香りではなく言葉だ。心の薬は体にとっては偽薬かもしれないが、心にとっては真実の薬なのだ。 n.
言葉で、自分を作ろう。世界を作ろう。時間を作ろう。 o.
香を点てる。点香。心を点てる。点心。言葉を点てる。点言。言葉は、感覚や感情の心が映し出す現在の現実の癒しや苦しみや迷いからの出口だ。記憶の過去や願望の未来つまり救いへの入口だ。 p.
外界に開かれた感覚や感情の心の窓を閉じ、嗅覚だけを澄まし、香りに集中する。言うのは簡単だが、目を閉じても闇が見えるし、耳は閉じることができない。皮膚も風や気温を感じ続けている。感覚や感情の心のざわめきを静めるには、言葉の心になるしかない。香りはそんな言葉の心の入り口だ。 q.
香りを、感覚や感情の心のまま、漫然と楽しむ。香りを好き嫌いや好悪で済ます。組み香は複数の香りを聞き比べる。複数の何かを比較して差異を認識しようとするのは、競争差別という、未熟な言葉の心の働きだ。鑑賞香は香りを言葉にする。この香心門は鑑賞香だ。目的は、生きようとする勇気や気力、つまり救いの言葉を得ることだ。 r.
自然界には、感覚や感情の心に働いて、興奮や鎮静をさせる植物がある。興奮作用によって、感覚や感情の心の働きが強まれば、相対的に言葉の心の働きは弱くなる。沈静作用によって感覚や感情の心の働きが弱まれば、相対的に言葉の心の働きは強くなる。沈香には鎮静作用がある。言葉の心の働きを助ける働きがある。 s.
動物としての心つまり感覚や感情の心は、癒やしを求めるばかりだ。癒やしをくれるものに盲従するばかりだ。ヒトとしての心つまり言葉の心は、救いを求める。癒やしを我慢することが救いだ。救いとは動物の心を押さえ、ヒトの心に切り替わることだ。貧しいことは幸いだ。幼い頃から癒やしを我慢させられ、救いへの道に自然に導かれる。サルからヒトに進化させられる。 t.
今日は、入梅前の晴天で、母を乗せて、相模湖へドライブに行った。新緑が山並みの陰影を増し、湖水も岸辺にあふれんばかりだった。ベンチの横に花壇があって、パンジーが咲いていた。二羽の鳩が餌をもらえると思ってか、足元に寄ってきた。パンジーも鳩も、それぞれ自分のために生きている。争い、競い、押しのけあって生きている。花も自分の都合で咲いている。見ている自分は癒されている。この瞬間、鳩は生きようとしているから救われている。自分は生きているだけで、癒されているだけだから、救われていない。癒しは対象から与えられるが、救いは自分が作り出す言葉だ。癒やしと違い、救いは与えられたり見つけるものではなく、自分で作る言葉だ。香りを外界から漂う芳香だと思っている間は、伽羅も所詮笑気ガスだ。芳香による癒しで心をくらまされている間は、感覚や感情に囚われた動物になっている。香りを言葉にしよう。香(こう)に高めよう。癒やしではなく、救いにしよう。癒やしへの道ではなく、救いへの道を求めよう。 u.
ヒトは感覚や感情の心を働かせて得た情報を言葉にして、自分や世界や時間を成長させていくようにできている。香心門は、香りを感覚や感情のまま素通りさせずに言葉に固定する技を磨く事が目的とする。 v.
香心門の目的は、香りの鑑賞を通して、感覚や感情の心の頼りなさを知り、感覚や感情の心が映し出す現在の現実の頼りなさを知り、香りつまり感覚や感情を、言葉の心で言葉にして、確かな自分や世界を作ることだ。自分は言葉の心の働きなので、言葉は自分のあらゆる傷病に効く万能薬だ。どんなに苦しいこと、悲しいこと、恐ろしいことでも、言葉にしてしまうと、感覚や感情の心のざわめきは消える。自分は言葉の心の働きだから、感覚や感情の心である喜怒哀楽とは異次元の現象なのだ。自分を言葉で成長させることが、香心門の目的だ。 w.
香木と香り、つまり体と心は別々だと考えることからスタートする。体と心は、水に砂糖と塩が溶け込んだ液体のように、本当は一つなのだ。一つなのだが、一つで表す適切な言葉がないので、思考が出来ない。水と砂糖と塩に分けて考える必要がある。水と砂糖と塩それぞれを言葉にして、その上で一体となった状態の「塩砂糖水」という言葉を作る。人も体と心に分けて考えてみるといい。さらに心も感覚の心と感情の心と言葉の心に分けて考えてみる。そしてすべての始まりは言葉の心の誕生で、言葉の心が言葉で自分や世界や時間を生み出していると考えてみる。言葉で要素に分解して、それぞれについて考察する。影は体から生じているが、影と体は互いに異次元の現象だ。影は面の世界、体は立体の世界に生じている。自分と体の関係に似ている。自分は体から生じているが、自分と体は異次元の存在だ。自分は情報、体は物だ。自分には終わりはセットされていないが体には終わりがセットされている。体はDNAと細胞に分けて考えるといい。細胞はDNAから生じているが、DNAと細胞は異次元の存在だ。DNAは情報、細胞は物だ。DNAには終わりはセットされていないが細胞には終わりがセットされている。自分と言葉のDNAに分けて考えるといい。自分は言葉のDNAの海から生じているが、自分と言葉のDNAは異次元の存在だ。言葉のDNAには終わりはセットされていないが体から生じている自分には終わりがセットされている。 x.
香りには心を和ませる力がある。和むとは感覚や感情の心の興奮を鎮めることだ。相対的に、言葉の心の働きを助けることだ。 y.
香の会で、香炉が順番に廻される。香りを聞き比べる。感覚の心のままでは、次の香炉、その次ぎの香炉と回ってくる間に、それまでの香りの感覚は消えてしまう。そのうち、○○のような香りなどと、言葉にすると覚え易いことに気がつく。母と一日一緒に過ごす。美味しいものを食べたり、墓参りや美しい景色を楽しむ。喜んでいるのがこちらもうれしい。帰宅する。もうすっかり、今日一日のことを忘れている。自分だって、程度の差で、基本は同じだ。感覚や感情の心は体験を覚えられない、というか思い出せない。快感や喜びを覚えられないのは不都合だが、不快や苦痛をすぐに忘れられるのは良い事だ。必要ならその都度言葉にしておけば良い。50年以上前、父につれられて新宿のうなぎやで、生まれて初めてウナギを食べた。香りや味は思い出せないが、父からの話や自分の中にある記憶の言葉はいつでも再現することができる。 z.
香木を体に見立てる。焚いて、立ち上る香りを心に見立て、心の香りを聞いてみる。香りには3種ある。感覚の心の香りと感情の心の香りと言葉の心の香りだ。本当の香りつまり本当の自分を探してみる。自分は、香木つまり体ではなく、香りつまり心、それも言葉の心の香りだったと気がつく。 aa.自分を「言葉にして明らかにする」ことができないことが、迷いや渇き、つまり苦しみの原因だ。自分を分かる、つまり自分を言葉にして明らかにすることが出来れば、苦しみは消える。自分を言葉にする第一歩は、自分を具体的にイメージにすることだ。体ではない自分、鏡に映らない心である自分をどのようにイメージすればいいのだろう。焚き火のことを思った。マキが消え、触ることができない煙になって、さらに見ることができない香りになる。何となく、自分や心のイメージが湧いてくる。焚き火を室内で出来るようにしたのが薫香だ。それを鑑賞して言葉の心を鍛えるのが香心門だ。 bb.香りは感覚や感情の心に癒しを与える。癒しは束の間生じてすぐに消え、次の渇きとなる。感覚や感情の心は渇きと癒しを行き来するばかりだ。言葉の心の働きである自分はその虚しさに気がつく。癒しを言葉にして明らかにすると、そんな自分が、感覚や感情の心が生み出す渇きと癒しの波の翻弄から救われる。 cc.見えない物を見る、聞こえない音を聞く、幻覚なのだろうか。香心門では、自分の香りを聞くのだ。香木の種類とか、香りの快不快や薬効はどうでもよい。香りは、結局、自分の心から生じる言葉を聞くための道具に過ぎない。 dd.言葉の心の働きである自分にとって、本当の居場所は、感覚や感情の心が映し出す現在の現実ではなく、自分が作り出す言葉つまり記憶の過去や願望の未来だ。目を閉じると本当の世界が見えるという話の意味を考える。目を閉じても、まぶたを通して光が入ってくるし、光が無くても暗闇が見えてしまう。目を閉じる、瞑想するというのは、心を、感覚や感情の心から、言葉の心に切り替えるという意味だ。感覚や感情の心の働きが全く無いという状態は、生きている限りありえない。香心門は、香りに感覚を集中し、感覚つまり癒しの限界を知り、香りを言葉にすることで言葉の心に切り替え、香(こう)つまり救いの言葉を得るということだ。 5)道(どう)。 a.
自宅の窓から、駅へ続く道を眺めていた。大人は黙々とまっすぐ歩いている。母親に手を引かれている子供は、一歩ごとに何かを見つけて、左右に寄っていく。大人は目的をめざし、子供は癒しを求めているのだ。目的を持つと、この世はここと目的のある未来を結ぶ線になる。 b.
山を越える道(みち)がある。馬で旅をする人が居る。馬は道(みち)を歩んでいる。人は道(どう)を進んでいる。道(どう)とは何だろう。言葉の心が歩む道(みち)のことだ。体や、感覚や感情の心が歩む道(みち)には目的地は無い。花があれば足を止め、疲れれば休み、水や食べ物つまり癒しを求めて成り行き任せで歩むだけだ。道(どう)は、感覚や感情の心を制御する言葉の心の働きのことだ。道(どう)とは感覚や感情の心の安楽を求める働きに打ち勝ち、目的地を目指そうとする言葉の心の働きのことだ。 c.
感覚や感情の心に生じる、癒しへの渇望や、苦難からの逃避や、競争や差別の苦の香りを言葉にして明らかにして、救いの香(こう)を得る。香りは道(みち)だ。香(こう)が道(どう)だ。 d.
人は、すべての営みに、道(どう)を求める。敗戦の焼け野原に生まれた私たちに、父母や祖父母は、ことあるごとに、我慢の大切さを説いてくれた。戦後の貧しい経済もまた、子供であった私たちに我慢を教えてくれた。清く正しく美しくという言葉も、生きる規範として光っていた。年末は、一家総出で一年の汚れを清める大掃除、修行のような気分だった。正月は、新しい一年のための祈りの儀式であって、癒しを楽しむだけの祭日ではなかった。禁欲的で神聖な祭礼だった。道(どう)とはこういう、禁欲、我慢、浄化を求める言葉の心の働きの事を言う。快楽や安楽つまり癒しを我慢して、新しい年にも来るであろう苦難に挑戦する勇気や気力、つまり救いを求める心を養うことを言う。思えば言葉の心の働きである自分は、癒しと安楽を求めて現在の現実の苦難から逃げようとする、感覚や感情の心を叱咤するために生まれた脳の働きなのだ。道(どう)とはそのような脳の働きを鍛える修行の方法だったのだ。 e.
宗教のように既成の言葉を移植するものでなく、言葉作りの大切さを伝えるものだ。他力でなく自力を目指す道だ。 f.
香りは、心を、感覚や感情の心から言葉の心へ切り替えさせ、癒やしの道草から救いの目的地へ心を向けさせる。香りは、感覚や感情の心に癒しや快不快、錯覚や差別を引き起こさせる。香りを言葉にした香(こう)は言葉の心に救いをもたらす。 |