銀河鉄道が来た日

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1.久しぶりに、銀河鉄道が東の海からやって来て、海辺の村や町に停車して、沢山の人を乗せていった。君の家族も乗せて行った。あの物語では、救命ボートの席を譲った家庭教師の青年と少年とその姉は、途中のサウザンクロス駅で降りて、溺れた友達を助けたカムパネルラはコールサック星雲の駅で降りて、ジョバンニだけが戻って来た。 君も同じだが、ジョバンニには家で温かい牛乳を待っているお母さんがいるし、いつか帰ってくるお父さんもいる。 君にはいない・・・のだろうか。

(1)「・・・青白く光る銀河の岸に、銀いろの空のすすきが、もうまるでいちめん、風にさらさらさらさら、ゆられてうごいて、波を立てているのでした。」『銀河鉄道の夜』。

(2)地震から1か月、死者は1万2千人以上、行方不明は1万5千人以上。 子供だって、誰かに話す言葉がないと、不安や悲しみをぬぐえない。 家族を亡くした子達が話せる言葉はあるのだろうか。消えた家族を思い、幼いなりに納得できる言葉を探している子達もいるだろう。そんな言葉はあるのだろうか。言葉にできず、感覚や感情のまま悲哀の闇をさまようのはとても辛いだろう。

(3) 子供には時間がある、だから未来や希望があると思ってしまう。 本当は、希望があるから、時間や未来が生まれるのだ。希望は言葉で作るものだ。希望を持てば、病人にだって、老人にだって、時間や未来が生まれる。絶望している子達には、時間や未来は見えない。自分の言葉で築いた希望が無ければ、感覚や感情の心のままでは、時間や未来は持てない。

(4)「ではみなさんは、そういうふうに川だと云われたり、乳の流れたあとだと云われたりしていたこのぼんやりと白いものがほんとうは何かご承知ですか。」先生は、黒板に吊した大きな黒い星座の図の、上から下へ白くけぶった銀河帯のようなところを指しながら、みんなに問をかけました。『銀河鉄道の夜』。

(5)私は63歳。母や兄弟、家族がいて、未だ本当の孤独を知らない。最近、周囲から親しい人がどんどん欠けて、そのたびに孤独が増していく。孤独になることが大人になるということなら、この歳でやっと大人に近づいているのだと思う。ヒトにとって大人とは、体の形というより、心の形なのだ。大人になるとは、孤独に負けない言葉を持つということだ。心の形に年齢は関係ない。君は私より早く大人にならなければならない。

(6)こんな時、感覚や感情の心に溺れていては大人になれない。不安や悲しみは、感覚や感情の水圧に負けて自分を支えきれなくなった言葉の心が、言葉の支えを欲している気持ちのことだ。空想や作り話のように思うだろうが、今悲しんでいる君は、体でなく言葉の心が生み出した自分という言葉だ。例えれば、自分は影法師だ。影法師にとっては、太陽の光が世界のすべてだ。太陽の光が言葉の心で、影法師が自分だ。だから言葉の心の働きである自分にとって、世界のすべては言葉なのだ。分かりにくいと思うけれど、私が言いたいのは次のことだ。君の家族は、本当は、君が生み出した言葉だということだ。体があった時は、目に見え、耳に聞こえ、時には触れたり、喜怒哀楽の感情も起きて、感覚や感情に映った体を家族だと勘違いしていたのだ。本当は、家族は君が生み出した言葉だったのだ。言葉は体と違って死なないし、言葉の心の働きである君の一部になっているので、君が生きている限り、失われたり奪われたりしない。 どこまでもずっと君と一緒だということになる。ジョバンニの特別な切符とは言葉の心のことだったのだ。

(7)「おや、こいつは大したもんですぜ。こいつはもう、ほんとうの天上へさえ行ける切符だ。天上どこじゃない、どこでも勝手にあるける通行券です。こいつをお持ちになれぁ、なるほど、こんな不完全な幻想第四次の銀河鉄道なんか、どこまででも行ける筈でさあ、あなた方大したもんですね。」『銀河鉄道の夜』。小中学生の君へ、宮沢賢治が好きなじいさんより。

2.63歳の私でも、家族をすべて失ったら、心は折れるだろう。生きようという気力は勿論、生きている実感さえ消えるだろう。心の働きには、感覚や感情の心と言葉の心がある。感覚や感情の心に生じる快不快や喜怒哀楽と、言葉の心に生じる苦悩や満足だ。感覚や感情の心に生じる苦しみや悲しみは時間とともに薄れる。 感情はそのようにできている。一時だが、紛らわしたり癒やしたりすることもできる。言葉の心に生じる苦悩は、言葉を必要としているのに言葉にならないことで生じる。目的が必要なのに目的が持てないことで生じる。言葉の心に生じる苦悩は、間隔や感情への刺激では癒やせない。放置すれば苦悩はさらに深くなる。原因となっている感情を言葉にして、目的にすることでしか救われない。一昨日、原発事故収束への工程表が発表され、気持ちが随分楽になった。感情の心の重石が言葉に置き換えられたからだ。不安や恐怖が、希望や目的に置き換わったからだ。63歳の私が、家族をすべて失っても、生きる気力を維持するにはどうすればいいのだろう。感情の苦しみや悲しみを言葉にする。生きる目的を作り工程表を作る。63歳で、愛する者が消えてしまって、何を目的にすればいいのか。年齢や体力、健康を思えば、できることには限りがある。当面、死者とともに生きるというのもいい。とりあえず毎日、仏壇に手を合わせ、暇があれば墓参りして、次の法事を指折り数える。7回忌をするにはあと7年生きなければならない。幼い頃、祖母に連れられていった墓参、タイやラオスの農村で過ごした時の安らぎ、がその原風景だ。そうこうしているうちに、体に力があれば、自ずと、新しい目的や頑張る気力が湧いてくる。湧いてこなければ、13回忌、17回忌、23回忌、33回忌がある。結構充実した人生だ。団塊世代へ。宮沢賢治が好きな団塊世代より。

3.新学期が始まった。教室の席に着いて、友達が本当にいなくなったのだと思い知らされているかもしれない。小学校の時、友達から突然、家の都合で1週間後に引っ越すと聞かされて、悲しかったことを思い出す。学校で教わる勉強は、万物の違いを明らかにして、分類することだ。世界はすべて違うものから構成されていて、その一つ一つをさらに細かく分析、理解していく。しかし最後は一般的な原理にたどり着いて、バラバラな混沌から抜け出せる。でも、若いうちは、知識を増やし深めるのに精一杯で、木は見えるが森が見えない。統一感の無い、バラバラで、孤独で、救いのない心の状態になりがちだ。何故勉強をしなければならないのかも分からなくなってしまう。チンパンジーとゴリラ、ミカンとオレンジ、ブルドッグとシェパード、君と僕、生きていることと死んでいること。どうしても違いを考えてしまう。違いを発見して知識を積み重ねていく一方で、共通点を見つけようとすることも大切だ。 自分と、友達と、人々と、動物や植物と、地球や宇宙と、どう同じなのかを考えてみる。生まれる前もあって、生まれた後もあって、死んだ後もあるものは何だろう。そうすれば、一緒にいる友達も、遠くはなれてしまったが心の中にいる友達も、死んでしまったが心の中にいる友達も、何も違わない不変の友達が見えてくる。統一的な原理にたどり着く。心のバランスを維持できる救い、心の平安が得られる。それが勉強の目的だ。新しい友達と、新しい勉強をして下さい。新学期を迎えた君へ。宮沢賢治が好きなじいさんより。

4.震災から1か月以上たった今も、行方不明が1万2千2百人以上。昨日、海辺の小学校で卒業証書授与式が行われ、卒業予定者21人中16人が死亡か行方不明で、若い両親が受け取っていた。別の町では50人の合同葬儀。妻が行方不明の年配者もいた。みんな心の整理をするきっかけにしたいと言っていた。家族は「冷たい海の中、瓦礫の中で、一人さびしく、可哀そう」という気持ちで、とても辛いと思う。悲哀の感情を、少しでも軽くできないだろうかと思う。お葬式が出来ず、お経が上げられず、火葬も埋葬も出来ないということが、極楽へいけないとか、成仏できないで迷ってしまうとか、理屈を超えて不安な気持ちを掻き立てられるかもしれない。「死んだらどうなるとか。地獄極楽の話など心の迷いだ。葬式は残された家族の心の整理のための儀式だ。お経は死者をどうにかする為の御まじないや呪文や魔術ではなく、生きている間の生きる為のノウハウだ」。お釈迦さまならこう助言すると思う。エベレストの山頂付近には、たくさんの勇者達の遺体が、岩かげや残雪の中にあるという。 山頂を征服した帰路なのか途上なのかは、もう誰にも分からない。平地に降ろしたくても降ろせないのだろうが、本人には一番いい場所なのだろう。「太陽と月に看取られながら、大地や海の棺に眠る、星が墓石だ」。荘子。「体は、借りていた獣や鳥や魚、野菜や果樹、土や水や空気に返せばよい」。思えばこの体は、DNAが、地上の動植物の体やミネラルや水を借りて、組み立てたものだ。死ぬとは、体が借りていたものを元に戻す現象のことだ。

5.先週、男性の世界最高齢者だった米国人が亡くなって、京都の114歳の男性が世界最高齢者となったというニュースがあって、ほぼ同じ日、原発事故で避難していた102歳の男性が自殺したというニュースがあった。死に方に、幸不幸や善悪があるのだろうか。私の祖父も父も、酒の飲みすぎや食べすぎで、平均寿命にも届かないで死んでいる。私は酒の飲みすぎと食べすぎのダブルパンチで、一昨年、祖父や父の短命記録を更新するところだったが、医術の進歩で、心臓の修理をして、持ちこたえた。今は、もうすぐ4歳になる孫と、手術の直前に生まれた孫と、二人の孫を見ながら、あの時死ななくて良かったと思っている。しかし、あの時死んだとしても、死後のことは、もう何も分からないのだから、幸も不幸も無いのだとも思う。昨日の朝刊に、殉職した警察官の話が載っていた。部下に退避を命じて、自分は海辺の道路に向かい、最後まで避難の誘導に勤めたそうだ。役場の女性職員が、避難のアナウンスをし続けたまま殉職した話もあった。妻に避難を指示して、自分は足が不自由なお婆さんの様子を見に行って還ってこなかった人もいた。人助けは人の天職だから、これも殉職だ。ニュースでは見えない数知れない殉職者がいるのだろう。どんな死に方が良い死に方で、どんな死に方が悪い死に方か。死に方まで、値踏みや格付けをしてしまうのは悪い性だ。恐怖や苦痛を伴うのが悪い死に方で、安楽なのが良い死に方なのか。死ぬ直前はみんな脳内麻薬が働いて、朦朧として細かいことなど気にならず、一生で一番いい気持ちになっているはずだ。長命の果ての死が良い死に方で、短命が悪い死に方か。死にたいと思って死ぬのが悪い死に方で、死にたくないと思いながら死ぬのが良い死に方か。皆に惜しまれるのが良い死に方で、喜ばれるのが悪い死に方か、それとも逆か。病死や事故死や自殺は悪い死で、老衰だけがいい死なのか。死には、自分の死と自分以外の死がある。自分の死は言葉だから、太陽にとっての夜のように、決して立ち会えない想像の産物だ。結局、実際にあるのは生きていた時間の最後の一瞬だ。死とは点で、中身は無い。 死を評価するというのは、死に方の評価ではなく、命の終わりに当たって、生きてきたこれまでを評価することだ。良い死に方とは良い生き方のこと、悪い死に方とは悪い生き方のことだ。良い生き方とは、何か良いことをするというのではなく、良い生き方を目指すという生き方のことだ。何かを目指さず、感覚や感情のまま成り行きで生きるのは、人としては良い生き方とはいえない。なぜなら、人の脳には、言葉の働きが備わっているので、何かを目指すように出来ているからだ。

6.被災者でありながら、支援活動している高校生達をTVで見て、この詩の意味が少し分かった気がした。 雨ニモマケズ(雨に負けても) 風ニモマケズ(風に負けても) 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ(受験や恋愛やいじめの争いに敗れても) 丈夫ナカラダヲモチ(勝ち負けに動じない丈夫な言葉を持ち) ・・・ ジブンヲカンジヨウニ入レズニ(自分の苦しみや悲しみなど放っといて) ・・・ 東ニ病気ノコドモアレバ(他人の苦しみや悲しみに) ・・・ ナミダヲナガシ(涙を流し) ・ ・・ オロオロアルキ(おろおろ歩く) ・・・ サウイフモノニ(そうすることで) ワタシハ(私は) ナリタイ(救われるのだ)。

7.「雨ニモマケズ」 今朝のニュースで、被災地では、「雨ニモマケズ」が読まれているそうだ。小学校の頃は、二宮金次郎とかエジソンとか、偉い人を見習って「頑張れ」と言っているのだと思った。自分は偉い人にはなれないとも思わされた。 中学生の頃は、受験とか社会の有様を見て、脱落者だなと思った。今は、飢饉で苦しむ農民を救う、冷害や日照りや台風に強い稲のイメージと、作者の願いが重なって見える。人間である限り決して到達できない、しかし目指すべき境地だと思う。励ますでもなく、脱落を勧めるのでもなく、苦しむ心に届くのは、こういう不思議な詩だと思う。雨ニモマケズ(体が雨に折れても)風ニモマケズ(体が風に折れても)雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ(決して折れない)丈夫ナカラダヲモチ(丈夫な心を持ち)・・・。

8.「お母さんは何処へ行ったの」と聞かれた、口下手なお父さんへ。今日は震災から2か月目の日。母親と妹を失った小学生の男の子のニュースを見た。3日前に母親が見つかり、今日が葬儀だった。形見の写真をもらって御礼を述べたり、励ましの言葉にしっかり受け答えしていた。時には笑顔も見せていた。癒しと救い。本当に欲しいのは「救い」だろう。しかし実際に与えられるのは「癒やし」ばかりだ。子供心にも、癒やしには笑顔で礼を言うしかない。喉が渇いているのにチョコを貰った気分だろう。救いはどうしたら得られるのだろう。「諦める」とは、苦しい感情をそのままタンスの奥にしまいこむことだ。だんだん腐敗して、生きようとする力を萎えさせる。「癒やし」とは、臭いものに蓋をする芳香剤のようなものだ。「明らめる」とは、感情のもやもやを言葉にして食べてしまうことだ。生きる力を奮い起こす「救い」だ。子供から「お母さんは何処へ行ったの」と聞かれても、答えられる父親は少ないだろう。「お星様になった」などと、癒しの言葉ではぐらかすのはよくない。高熱の子供にアイスクリームを与えて放っておくようなものだ。私ならどう答えるか、恥ずかしながら敢えて書いてしまおう。「人は、体と心が別々で、心も感覚や感情と言葉の心が別々にあって、生きている間は重なっているのでよく分からないが、体が死ぬとはっきり分かる。お母さんは体ではなく、感覚や感情の心でもなく、言葉の心だったことがよく分かる。お母さんはお母さんの中にあったのではなく、お母さんがお前の心の中に作ってくれていた言葉だということが分かる。お母さんの体は消えて地球に戻るが、言葉であるお母さんはお前の心にそのまま在り続けている。何も変らない。お前が生きている限りお母さんも生きているということだ」。幼い子供は、親の言うことを信じたいと思っている。言葉の内容ではなく、親が言ってくれた言葉ということだけで救いなのだ。「お父さんはお母さんの行き場所を知っている」と思えるだけで安心できるのだ。

9.震災後、有名人がTVで「一人ではない、一緒にいる、頑張ろう、いつも皆さんのことを思っている」などと語りかけている。どうすれば、被災者の心は癒やされ、救われるのだろうか、と思う。癒やされるとは、感覚や感情の心を快く刺激されて、すでに生じている苦しみの感覚や感情を、一時覆い隠すこと。悪臭の発生源はそのままなので、時が経てば覆いきれなくなる。救われるとは、心の悪臭の発生源を処理すること。苦しみの感覚や感情を言葉にして、生きる妨げにならないようにしたり、かえって生きる力に変えたりする。衣食住や医療、金の支援は、体に対する癒やしだ。声援は、感覚や感情の心に対する癒やしだ。感覚や感情を言葉にすることは、言葉の心に対する救いだ。感覚や感情を言葉に変えるのは、果てしなく時間がかかる個人的な作業だ。でもしなければならない。困難を放棄して、宗教団体や政治団体がくれる言葉を鵜呑みにするのは、良いとは思えない。仕事に励むのは、体と心に対する最も有効な救いだ。職業としてだけでなく、役割が与えられるといいと思う。この百年、自由競争で、地域の絆も心の絆も破壊してきた。共通の脅威が見つかると団結できる。日本では敗戦復興の後、共通の脅威はしばらくお休みだった。それが今、震災復興、原発事故という形で復活した。社会に溢れ出てきた絆という言葉が、日本人の団結の兆しであれば良いと思う。団結すべき部分と、団結すべきでない部分を峻別しながら、新しい絆再生への道の出発点になれば良いと思う。

10.    今朝のTVで、避難所にいるおばあさんの話があった。息子と二人きりだったのに、息子は行方不明のままだ。津波の一週間後に、飼い主を失った泥だらけの犬が来て、お婆さんが避難所の庭で世話をしている。本当は規則違反なのだが、みんな黙って見守っている。ここまではTVで見た話だ。おばあさんには、犬が息子の生まれ代わりのように思えるのだろう。いつか、その犬も来なくなるだろう。代わりに雀が来るようになるだろう。おばあさんは息子の生まれ代わりだと思うだろう。花になったり、風になったり、月になったり、おばあさんが死ぬまで、息子は色々な姿になって、慰めに来るだろう。生まれ代わると言うのは、生き返るという意味で、それは死者の体が生き返るのではなく、おばあさんの心の中の言葉が、体を得て黄泉帰るという事だ。言葉になった息子が、犬や鳥や木や花や海や月の体を借りて、生きていた時のように語りかけてくるということだ。

11.    近所に八百屋がある。爺さんが一人で、季節も天気も関係なくやっている。地元で取れた野菜と、一、二種しかない果物を、ザルに盛って並べている。道を隔ててスーパーがあって、若い人はみなそちらへ行く。店先が光るのは、春のたけのこ、晩夏の夏野菜、秋の柿くらいだ。近所に開発漏れの竹やぶや畑が残っていて、その辺から集めてくるらしい。冬の白菜漬けと夏の糠漬けも売っているが、取り立てて美味しくはない。彼岸には、どこの庭にも咲いている水仙やコスモスの仏花の束も並ぶ。近所の老人が来て、昔話のついでに、小鳥の餌程度を買っていく。全部売れてもたいしたことはなさそうだ。春先にツバメが来て、店内に巣を作る。毎年来て、子育てを終えると知らぬ間にいなくなる。忙しく出入りして、野菜や床が、糞で汚れていることもある。爺さんは気にしない。年寄りの客も気にしない。鳥インフルエンザで日本中が大騒ぎしても、誰も気にしない。あの震災の後、店が開かなくなった。爺さんは消えた。ツバメも消えた。年寄りの客たちも消えた。時代の津波にかろうじて残っていた瓦礫のような八百屋も、寄る年波という津波に、とうとう呑まれて消えたのだろう。

12.    今朝、子供達への震災被害を知った。「大震災で死亡・行方不明となった児童・生徒らは岩手、宮城、福島の3県で計654人(5月27日現在)」。「東日本大震災で親が亡くなったり行方不明になった遺児が、1101人・・・今後も増える見通し」。日本列島に住む限り、否応なく天災に襲われる。日本人のアイデンティティーは天災に育てられた。生老病死は誰にも避けがたい。宗教家でなくても日本人にはよく分かる。きっと今頃どこかの避難先で、日本の明日のリーダーが育っていることだろう。被災地のニュースのたびに、画面に映るビルの残骸がある。原爆ドームのようだ。その周囲に広がる瓦礫の連なりは、津波がそのまま凍りついたようだ。被災者が、悲しみや苦しみの感情をどうにか記憶の過去に押し込んでも、この光景を見るたびに、津波の悲しみや苦しみがよみがえってしまうだろう。心の瓦礫の片付けと、実際の瓦礫の片付けは、同じことなのだろう。

13.    震災から100日経った。ニュースで伝わってくるのは、被災地の人々の深く重い苦しみ、悲しみだ。津波が心に居座って、さらに水かさを増している感じがする。いつになれば、どうすれば、引いていくのだろう。心には、感覚と感情と言葉の働きがある。脳の働く部位が違うのだ。震災に遭ってしばらくは、感覚の心が主役だった。感覚の心は興奮するだけだ。興奮している間は、感情の心も、言葉の心も隠れている。苦しむのは、感情の心だ。苦しみから救うのが言葉の心だ。時が経ち、遺影や瓦礫の山も見慣れて、興奮が治まると、感情の心が膨れてくる。家族が死んで、葬式の間は夢中で、一段落して初めて深い悲しみに襲われるのと同じだ。感情の心は濃霧のようだ。ただただ迷い苦しむだけだ。被災地ではアルコール依存が増えているとか。感情の心は癒ししか求められない。癒しは得てもすぐに消えてしまう。ますます苦しみが深まってしまう。本当に必要なのは言葉の心による感情の心からの脱出だ。聖書に「始めに言葉があった」という言葉がある。言葉は光だ。感情に囚われていると、願望がもてない。気力が湧かない。先が考えられないから不安や絶望が居座ってしまう。願望や気力、つまり苦難にめげずに生きようとするのは、言葉の心から生まれる言葉の力なのだ。言葉の心を働かせなければ、感情の濃霧から出られない。一部の人々はすでに言葉の心を働かせている。TVもそんな人々を取り上げて、そうでない人達を励まそうとしている。しかし大部分の人達は、今やっと、葬式の興奮から覚め、感情の心が主役になって、深い悲しみや喪失感に迷う、長い喪の時間を迎えている。感情の濃霧に迷って、道を探し歩むための気力も萎え、苦しんでいる。しかこれは心の病ではなく、心の傷の回復に必要な自然治癒の過程なのだ。傍から見れば長すぎるといっても、個人差は大きい。助力で必要なのは、感情の心への励ましではなく、言葉の心への見守りだ。どうすれば普通の人でも、病人や老人でも、言葉を取り戻し、生きる目的、生きる力を持てるようになれるのだろう。言葉でフックを作り、ロープを結んで、濃霧の向こうへ投げて、引っかかったら、ロープを引いて自分を引き上げる。フックが目的、ロープは計画、引っ張り出すのが生きようとする心の力、行動力だ。感覚や感情の心に逆らう苦行だ。言葉は他者の為なら作れる。自分のためには湧いてこない。自分を頼る妻子や孫がいて、そのために生きねばならないとなれば生きられる。故郷の村や町の再建でもいい。時間はかかっても、言葉の心は自分を救うように出来ている。言葉が見つかるように出来ている。言葉の心は自然治癒するようにできている。自分が病人、老人で、寝たきりで、身寄りも故郷もないとする。自分以外の誰もいないと言葉が持てず、救われない。どうすればいいのだろう。看護士や介護士の仕事は宗教家のようだ。自分は自分のためには仏になれないが、他者のためには仏になれる。仏の振りでも嘘でもなく、仏はそうして作られる。母と子の関係に似ている。

14.    東日本大震災が直接の原因となった自殺者が6月だけで16人と発表された。キリスト教の教学の三位一体を借りれば、ヒトは四身一体だなと思う。1つに見えているものが実は4つのものの集合であるという意味だ。体と心の集合体で、さらに心は、感覚の心と、感情の心と、言葉の心の、三つの心の集合体だ。そのうちの言葉の心の働きが自分の正体だ。自分とはずっと継続し発達する心だから、記憶や思考ができない感覚や感情の心は自分ではない。つまりヒトは、体、感覚の心、感情の心、言葉の心の4つの集合体だ。この4つのそれぞれが癒しや救いを求めている。体や感覚や感情の心は、癒ししか求めることができない。 雪山で遭難して眠ろうとする心の働きだ。言葉の心は救いを求める。眠りに誘惑されても抵抗する心だ。体を物で、感覚の心を快感で、感情の心を励ましで、いくら癒しても、自殺は止められない。自殺の原因は、癒しの不足ではなく、言葉の不足、生きようとする力の不足だからだ。自殺はビタミンW(word)の欠乏症だ。癒しの栄養ドリンクでは治せない。自殺は究極の癒しだと思う。お酒でアルコール中毒が治せないように、癒しでは癒しである自殺を止めることはできない。震災の後しばらくは、失った家族や家や町が感覚や感情にくっきりと残っていて、言葉の心の代わりに自分を支えてくれていた。葬式や後片付けなどで、喪失の実感が湧かないまま、あわただしく過ごしていて、落ち着いた時に、どっと喪失感に襲われるのと同じだ。感覚や感情の心は記憶を維持できない。家族も、家や町ももう無いことを受け容れた上で、自分を形作り、支え、生きようとさせる、新しい言葉を持たななければならない。震災の後しばらくは、被災者のみんなの一員で、自分のことを忘れていられた。みんなの一員でいる間は、自分が消えていて、癒しでも心は維持できた。でも、自分とみんなとは次元が違う。言葉の心である自分が必要とする言葉による救いは、感覚や感情の心の癒やしとは違う。みんなの一員として応援されても、同情されても、感覚や感情の心が癒されるだけで、言葉の心である自分は救われない。自殺者の内訳は、20歳未満1人、20代2人、30〜40代0人、50代5人、60代6人、70代1人、80代以上1人。どんな気持ちだったのだろう。若い人は言葉の心が未熟で、生きようとする言葉を作れなかったのだろうか。30〜40代が0人。自分を必要とする妻子のために頑張れたのだろう。自分の為より他者の為の方が、生きる力が湧くのだろう。50代が5人。自分を必要としていた子供も自立して、この世に引き止めてくれる力が弱かったのか。60以上が8人。子や孫の負担になることに忍びなくて、自殺というより自己犠牲だったのかとも思う。

15.    昨日、NHKのTVで、宮古市田老地区を襲った巨大津波について、津波の解析や被災した住民の証言を伝えていた。こんな証言があった。10mの堤防を二重に築き、津波安全都市の宣言をした結果、市民にここは安全だという思いが定着、避難をしなかった人が多かった。安全都市宣言が仇になった。NHKラジオの津波の予報が6mと言っていたので大丈夫だと思った。家族がいないなんて、今でも信じられない。 もうこんな土地に住みたくない。証言について考えた。死の原因を憎み怒る証言。死者を悼む証言。死を恐れる証言などがある。津波にさらわれたのは、物や体だ。原因究明、再発防止を考えても、失われた物や体は戻っては来ない。家族や友人など愛情の対象であった人については、言葉の心で言葉にすれば取り戻せるのだから、今はそちらに注力したほうがよいと思った。愛情の対象であった人の心は、津波にさらわれたのでなく、死にさらわれたと考えた方が楽だ。そうしないと、原因究明、再発防止を考えるほど、やり場の無い怒りや憎しみ、悔いや罪悪感を背負い込むことになる。年間120万人の老若男女が死んでいる。月10万人、一日3千人という計算になる。どの町の病院も、霊安室も満員で、火葬場の火は友引の日以外、絶えることが無い。あの日から7か月、70万人の老若男女が死んでいる勘定になる。あの日津波で死んだ2万人の心も、同じ日、オートバイの事故で一人ひっそり死んだ若者の心も、みんな同じ死にさらわれたのだ。自殺の悪い点は、残された者の心に、悔いや罪悪感を生じさせ苦しめ続けることだ。残された者は、愛する死者が苦悩にさらわれたと考えるのでなく、死にさらわれたと考えるといい。本当に考えなくてはならない死は、自分の死だ。死は体に生じる現象で、言葉の心である自分とは異次元のことだ。震災から学ぶべきこと。家族や親しい人の死によって生じた、苦痛の感情、つまり、恐れ、憎み、怒りを、言葉にすれば、自分を感情から開放できる。生きようとする言葉つまり力が湧いてくる。生老病死を恐れず、受け入れ、全うできる言葉を作る。自分や家族の死を、優しい気持ちで受け入れられる言葉を作る。

16.    今年の総括として、清水寺の僧侶が「絆」という文字を書いていた。マスコミも取り上げていた。被災者への声援の意味もあるのだろう。春以来、マスコミや広告に溢れる声援に、違和を感じる自分がひねくれているのか考えた。「絆」の元々の意味は、家畜や奴隷や犯罪者をつないでおく紐や綱や鎖のことだ。それが転じて、心をつなぎとめるものという意味になったのだろう。国家や団体、企業など、「絆」を用いる側から見れば、構成員の忠誠心をつなぎとめるための、給与や福祉、理想やカリスマ、脅迫や強制などの手練手管のことだ。さらに都合がいいことに、「絆」には母子の情愛のような美しい錯覚を引き起こす力がある。一方、「絆」につながれる側から見れば、得られるのは救いではなく癒しだ。野生の自由ではなく、家畜の安心だ。ヒトは一人で生まれ、一人で生きて、一人で死ぬように出来ている。一人で生きていくための道具が言葉だ。「絆」など情愛に訴えられると、言葉で考える事をやめ、従順な羊のようにムードで集団に取り込まれてしまう。絆は、感覚や感情の心を一時癒してくれはするが、救いはもたらさない。ボランテイアをする人々は、被災者と同じ、「絆」につながれる側として活動するのだろう。広告宣伝で垂れ流される「絆」は、「絆」を用いる側の手練手管だ。善意に便乗する冒涜だ。声援についても考えた。被災者への声援は、葬式での遺族への接し方と同じで、とても難しいことだ。サッカーのような声援は、古代ローマの闘技場で、奴隷や猛獣を戦わせ、観客の興奮を高める行為だ。闘士と違い、遺族や被災者にとって、興奮は苦痛だろう。被災者に必要なのは、興奮よりも、生きようとする言葉の再構築だ。災害に壊された言葉の穴を、新しい言葉で補修することだ。ひたすら聞くというのはいい補助だ。聞いてくれる人がいれば話そうとする意欲が湧いてくる。話せば言葉が生まれ、心の穴が埋まるからだ。死者との絆についても考えた。乳飲み子は、母親の懐から離されると泣く。懐に戻るまで泣き続ける。幼児は母親が見えないと泣く。見えるまで泣き続ける。感覚の心でつながっているからなのだろう。少年は、母親が家にいると思えば、安心して外で遊べるようになる。大人になっても、相手がこの世の何処かにいればいいが、あの世へ行くと悲しむ。感情の心でつながっているからなのだろう。会わないまま、言葉のやり取りだけの関係なら、例えば読者は作者が死んでも何も変わったとは思わない。本を開けばいつでもそこにいると思える。人と人は何処でつながっているか。感覚や感情や言葉の心でつながっている。感覚の心なら、相手に触れ、見ることでつながっている。感情の心なら、相手との感情の行き来でつながっている。言葉の心なら、相手が遠く離れても、地球の裏に移住しても、あの世に引っ越しても、自分の中の言葉なのだから、つながりっぱなしだ。

17.    妻や子や孫を失ったおじいさんの立場に身を置いてみる。生きようとする力は、自身のためというより、誰かのため、何かのために湧いてくる。妻や子や孫、家や仕事を失ったおじいさんは、この先何のために生きようとすればいいのだろう。何かを考える時、必ず「誰にとって」という前提が必要だ。「誰にとって」妻や子や孫が失われたのか。妻や子や孫自身は自分を失ったとは思っていない。おじいさんが妻や子や孫を失ったと思っている。死者の感覚や感情は体とともに消えている。残っているのは言葉になった死者で、生きているおじいさんの中にいる。そう考えると、どうしようもない悲しさが半分になる気がする。死者は言葉なので、おじいさんの中にしかない。言葉になった家族はおじいさんの中だけに存在するし、対話もする。言葉は情報で、情報の本質は、誰かの中に在り続けることだ。言葉になった家族は、朝夕仏壇を拝んだり、時々思い出してもらえば存在していられる。おじいさんが生きている限り、言葉になった妻や子や孫も存在し続ける。妻や子や孫が生きている時も、実は同じことをしていたのだ。正月が来ない街にも年の暮れ。

18.    形見。津波で、アルバムや家など、死者の思い出の品をすべてさらわれた人は、死者のすべてが失われた気持ちだろう。「もみぢ葉は散りはするとも谷川に影だに残せ秋のかたみに。良寛」。紅葉は散って消える。虚しい。色くらいは残ってほしい。残るはずもない。そんなことを望む人の心は、もっと虚しい。形見を求めてしまう人の心こそ、散って消える紅葉よりもっと虚しい。形見とは、愛する対象が失われても、失われていないように思うための手段だ。感覚や感情の心には記憶する働きは無い。影像や刺激が通り過ぎていくだけだ。感覚や感情の心に映し出されていた人も、死とともに消えてしまう。忘れることが出来ず、物としての形見が欲しくなる。遺品や写真や遺骨や墓にしがみつくことになる。そして遺品や写真や遺骨や墓が邪魔をして、いつまでも感覚や感情の心のまま死者を引きずることになる。感覚や感情の心は、衝撃や混乱や怒りや拒否などで、答えもゴールもない地獄に置き去りになる。かえって物の形見など無い方が、死者は言葉になりやすい。言葉の心は、悔恨や疑問や喪失感などの感情の苦悩から自由だ。言葉だから思考もでき、答えやゴールも、救いも得やすい。言葉になった死者とは対話もできる。本当の形見は、残された者が心の中に作る、言葉になった死者だ。いつでも、いつまでもいる。成仏は死者がするのでなく、残された者の心の中で死者が言葉になること、残された者の心がすることだ。

19.    孤独死。年末、元の住宅公団が、団地の居住者についての孤独死の定義を発表した。発見時に死後1週間以上経過しているという基準だ。NHKの特集や震災の影響もあり、一人暮らしの人々が孤独死を恐れて共同生活をする話や、さらに、合祀墓(ごうしばか)というのがあって、お骨になっても一人は嫌だという、子供がいない人に人気があるそうだ。

(1)孤独とは何だろう。

@    孤独は、感覚や感情の心が表す、不満の表明だ。

A    感覚の心の孤独は、寒い、空腹、暗いなど、衣食住の不足を訴える信号だ。

B    感情の心の孤独は、他者に助けを求め、満たされない時の不満な感情だ。孤独だから悲しいのではなく、悲しいから孤独なのだ。孤独という独立した感情があるのでなく、得られない、失った、迷った、失敗した、裏切られた、仲間はずれにされたなどの感情をまとめて一括りにしてつけた不満の総称なのだ。

C    うれしいことがあれば一人でいても孤独を感じない。悲しいことがあるとみんなに囲まれていても孤独を感じる。同じ環境にいても、心の在り方で、孤独が生じたり、生じなかったりする。

D    生物には磁石のようにS極とN極がある。近づけば引力や反発が生じ、遠ざけたりくっつければ引力や反発は消える。もっと強い磁石が現われればそちらに引かれる。集団本能とか、恋愛における孤独とは、その生物磁石の引力のことだ。

(2)どうすれば良いのか。

@    どうしようもない。我慢すればよい。

A    癒しを求める感覚や感情の心を野放しにしたままでは、いくら環境を整えても、心は孤独を主張し続けることになる。子供が孤独に弱く、大人になるにつれて孤独に強くなるのは、言葉の心が発達して、感覚や感情の心を抑制でき、我慢強くなるからだ。

B    そもそも感覚や感情の心が求める癒しは、外から与えられる刺激に依存するから、ままにならないし、得ては消えるを繰り返す波のようなものなので際限が無い。衣食住の癒しはどうしても必要だ。そんなこんなで、孤独は生きている限りゼロにはならないが、言葉の心を強くして、感覚や感情の心を抑制して、孤独を我慢し易くすることはできる。

C    世界は外にあるのでなく、自分の中に作っている言葉の体系だ。そのことがわかれば、孤独は、世界から見捨てられたからではなく、自分の言葉の体系がバラックで、言葉の隙間から吹き込んでくる、感覚や感情の心の風にすぎないとわかる。言葉の心を強くすれば防げることがわかる。

D    去年のお盆を思い出す。「今日はお盆の入りだ。母を連れて、墓参りをして、夕方玄関で迎え火を焚いた。仏壇にお供えをして、父や祖父母の写真を並べた。心が安らいだ」。人は二つの時間に生きている。感覚や感情の心が映し出す現在の現実と、言葉の心が作り出す過去や未来だ。過去を思い出すだけ、未来を思い浮かべるだけでも、孤独は消える。

(3)孤独死とは死に方なのか。生き方だ。体には孤独を感知する働きは無い。孤独は感情の心に生じる。死者には感情はない。死者には孤独は無い。孤独死は、生きている時に見る夢それも悪夢だ。もしくは、残された者にとって都合が悪い死なれ方のことだ。

(4)死に方なんてあるのか。

@    良い死に方か悪い死に方かは、死者本人が決めることだ。本当の死者になったら決める事ができないから、本人が生きている時に空想して考えることだ。つまり空想だ。

A    感情の心なら、死ぬまで苦痛や苦悩が無いこと、できるだけ快楽を楽しみ続け、あとは野となれ山となれ、できれば安楽死がいいと思うだろう。感情の心は死を拒否するだけで、死後や他者を思いやる働きは無い。

B    言葉の心なら、自分が築いてきた言葉の塔を壊さぬように、できれば積み上げるようにして死にたいと思うだろう。他者や家族に苦痛や苦悩を残さない、死後も役に立ちたい、そのためなら死の苦痛も厭わない。目的の達成を優先する死に方、つまり生き方だ。

(5)孤独死について。

@    死ぬ直前や死ぬ瞬間の孤独とはどういう状態のことを言うのか。死ぬ直前や死ぬ瞬間に孤独でないとはどういう状態のことを言うのか。死ぬ直前の孤独は悪いことなのか。悪いなら、何がどう悪いのか。考えれば考えるほど、バカバカしくなる。

A    孤独死とは孤独な生き方のことだ。孤独は感情で、善悪の評価はできない。孤立という言葉について考えた。孤立は状況のことだ。孤立死は、社会から孤立した結果死に至った、つまり遭難と同じ死に方だ。孤独より孤立の方が問題だろう。冬山登山のように、望んで孤立する者もいれば、やむなく孤立する者もいる。

B    社会正義として問題にされている孤独死というのは、本当は孤立死のことで、それも、やむなく孤立してしまった人の、孤立ゆえにした遭難死のことだ。

20.    復興

(1)松の木の言葉。

@    岩手県陸前高田市の松原が津波に流されて、一本だけ残った松が、復興のシンボルとして、見る者に勇気と希望を与えていた。しかし1年を待たずに、先月枯れてしまった。地上の幹や枝や葉は元気に見えたが、根が海水に痛めつけられていたのだ。実生から育てて4年くらい先に植樹するという。ジュラシックパークのような感じもする。

A    松の木が本当に語っていること、それは、見える地上の幹や枝や葉の見かけの元気より、見えない地下の根の方が大切だということだ。植物の本当の元気は、目に見えない地下の根から湧いているということだ。根さえ元気なら、幹や枝や葉は又生えてくる。ヒトも、一たん、地上の部分を切り払ってでも、根の負担を軽くして、根から復活したらいいですよということだ。

(2)復活とは何か。

@    復興には、一人一人の復活と、町や産業の復興がある。

A    一人一人の復活について言えば、心の復活が優先だ。

B    物は元に戻せるが、心は情報なので、元に戻ることはない。体験したことは死ぬまで消えない。暴れ馬のような感覚や感情の心の苦痛や苦悩を、自己制御できる言葉にすれば、生きようとする心の妨げにならなくなる。心の瓦礫の片付けだ。

C    震災直後の避難所で、中学生がコーラスをしていた。明日がある限り生きる希望を持とうというような歌詞だった。明日とはなんだろう。明日とは、今のこの心の中にある、この先も生きていこうという心の働きのことだ。感覚や感情の心が現在の現実の中で打ちのめされていても、今同じ心の中に居る言葉の心には、未来に生きようとする働きがある。明日とは24時間先のことではなく、今のこと。生きようとする言葉の心の働きのことだ。

D    言葉の心が生み出す、この生きようとする力が、松の木に例えれば、根が、もう一度幹や枝や葉を生やそうとする力、復活のことだ。

(3)復活するには。

@    心も、地上に見える感覚や感情の心と、地下で見えない言葉の心からできている。10ヶ月経って、衣食住も、感覚や感情の心も日常に戻ってきたが、言葉の心は傷ついたままのように思える。津波に流された人や町は、外界に物としてあったのではなく、一人一人が心の中に言葉で作っていたのだ。物だけでなく言葉も流されていたのだ。現実を言葉にして片付けないと、感覚や感情の心から再生される残像に苦しめられ、生きようとする力である言葉の心が、前に進めないことになる。

A    松の木も根さえ無事なら、木は後から生えてきただろう。言葉の心さえ復活できれば、人の復活もうまくいくだろう。

B    心の復活というと、慰めや励ましなどの感覚や感情の心の癒しに注意が向いてしまうが、本当に必要なのは言葉による救いなのだ。言葉による救いを得るにはどうすればいいのだろう。木なら根を、人なら言葉の心を復活することだ。言葉の心の復活は、どのようにすればいいのだろう。失った家族や隣人、職場や仕事を、失ったものとして言葉にする。現在の現実を言葉にして、記憶の過去や願望の未来に片付ける。記憶の過去は諦めをくれ、願望の未来は生きようとする力をくれる。

C    心の復活のために、地上の部分を切り払うとは、感覚や感情の心に残っている、あの日の現実の蜃気楼を、言葉にして過去や未来に片付けてしまうことだ。

D    心の瓦礫とは、失われた事実を受け容れられないまま、感覚や感情の心の苦痛や苦悩を言葉に整理できないまま、放置している心の状態のことだ。

E    失われたという事実を、感覚や感情の蜃気楼から言葉にする。それが心の瓦礫を片付けだ。どうすればいいのだろう。言葉は誰かと話すと生まれる。話すには聞いてくれる相手が必要だ。ロビンソンクルーソーも、日記帳やオウムがいなければ話せなかったろう。できれば、同じ体験をした人同士で思い出を語り合うのがいいと思う。

F    震災の翌日のTVで、「みんな津波に流されてしまった。これまで積み上げてきたものがみんな消えてしまった。自分のこれまでの人生は何だったのだろう」と嘆く女の人が映されていた。

1)この世のすべては時間という津波に流されていくようにできている。しかし言葉だけは流されない。かえって厚みを増したのだと考えてみる。

2)失うとはどういうことなのか、本当に失ったのかと考えてみる。

3)失うとは、自分と対象との関係が壊れることだと考えてみる。

4)自分は、その対象とどういう関係にあったのか。その対象は、自分が心の中に作っていた言葉なのだと考えてみる。

5)体とは、DNAが動植物や鉱物から材料を借りて作っていた道具で、心とは、その道具が生み出す信号だと考えてみる。自分も家族も、心、それも言葉の心の働きだと考えてみる。自分にとって家族は、言葉なのだと考えてみる。自分は、家族を自分の心の中に言葉にして記録し、対話や再生をしていたのだと考えてみる。

6)何を失ったのかは、その前に、何を持っていたのかによって決まる。

7)自分が持っていたのは、自分の心の中に作っていた言葉だと考えてみる。

8)自分は感覚や感情の心が映し出す家族の体や物を失ったと思い込んでいるが、自分が所有しているのは、家族の体や物でなく、自分の言葉なのだから、自分がある限り、失われてはいないのだと考えてみる。

9)大切なのは、感覚や感情の心に溜まっているあの日の心の瓦礫を言葉にすることだ。家族は、体は津波で流されたが、言葉は今も一緒だと考えてみる。生きていた時でも、感覚や感情の心で実際に見たり聞いたり触れていたのはほんのわずかな時間で、大部分は今と同じように言葉の心の中にいたのだと考えてみる。

21.    震災から10カ月たった。各地で慰霊の行事が行われたその日、警察庁が昨年の自殺のデータを発表した。自殺者は2年連続の減少で、男性は減り、女性は増えた。震災で甚大な被害を受けた岩手県、宮城県、福島県とも前年を下回った。何はともあれ、良かったと思う。しかし、自殺率が下がって、誰が良かったのかわからなくなる。その年の自殺率が下がろうが上がろうが、自殺したヒトにとっては、致死率100%だからだ。ジンギスカンが死んで千年、男系の子孫だけで1千万人いるそうだ。女系を入れれば大変な数だ。この千年間に、生まれて死んでいった人々も加えたら数億人になるだろう。もしジンギスカンか自殺していたら、この人たちは生まれてこなかったことになる。ジンギスカンほどではないにしろ、一人一人が大変な責任を負っているなと思う。疑問が湧いた。こんな年だったのに、自殺者が減少したのは何故だろう。ことに直接被災した3県で、自殺者が減少したのは何故だろう。男性の自殺は減ったのに、女性の自殺は増えているのは何故だろう。30代の自殺が増えて、50代の自殺が減ったのはなぜだろう。日本は、平均寿命は世界一なのに、自殺率が世界8位なのは何故だろう。日本は、鬱病など自殺につながる精神的な障害率は世界最低なのに、自殺率が世界8位なのは何故だろう。日本では、失業率と自殺率が、ピッタリ、リンクしているのは何故だろう。自殺の定義を考えた。自殺とは、死に方のことでなく、生き方のことだ。生まれながらに持っている「生きようとする心」に反してしまった生き方のことだ。「生きようとする心」は、一人一人が生まれながらに持つ命の源だ。「生きようとする心」がある限り死なない。「生きようとする心」を見失っていたら、取り戻すように、力添えをしなければならない。結果の死のことではない。自殺は自分の使命である「生きようとする心」を挫く生き方のこと。殺人は他者の「生きようとする心」を挫く生き方のこと。自殺と殺人は同じことだ。自殺か自殺でないかをどう決めればよいのか考えた。その生き方が「生きようとする心」に反しているかいないかで分けてみた。食べたいのに食べる物が無くて餓死する。「生きようとする心」に反していないから自殺ではない。毒だとわかっているのに食べる。「生きようとする心」に反しているから自殺だ。食べたくないから食べない。「生きようとする心」に反しているから自殺だ。他人の気を引いたり抗議するために、食べない。「生きようとする心」に反するから、自殺だ。家族や他者を助けるために自分を犠牲にする。自分を生かそうとすることと他者を生かそうとする事は同じだ。自分や他者を生かそうとしているから、自殺ではない。自殺について、自分は、どんな立場から考えればいいのか考えた。自殺率となると、個人の問題でなく、社会の問題にすりかわってしまう。しかし自殺は一人一人の心の現象だ。一人一人の自殺の原因は千差万別だ。しかし心の現象は一つだ。ある精神状態に追い込まれると、多くのヒトは耐え、あるヒトは自殺するということだ。自殺を、心の病気だと考えれば、医学や医療の問題になってしまう。自殺を災難や事故のように考えれば、政治や経済の運営の問題になってしまう。自殺を生き方の問題だと思えば、どのように生きればいいか、わが身になぞらえて考えることになる。自分が自殺をしないためにどうすればよいか、だ。高齢だから、病気だから、失業したから、誰もが自殺するわけではない。大部分のヒトは耐えている。少数のヒトが耐えられなくて自殺する。問題は高齢、病気、失業ではなく、耐えることができない心の在り方だ。どうすれば高齢、病気、失業を避けられるかでなく、どうすれば高齢、病気、失業に耐えられるかの問題だ。

22.    座敷ワラシ。2009年10月、座敷ワラシがいたという旅館や火事で失われたままになっている。遠い昔、その地で間引きされた子供達の精霊。居ついた家の守り神になる。何も分からずに死んだ子供の霊は、恨みや憎しみを持たず、ただ福をもたらす精霊になる。大川小学校の○人の生徒達も、座敷ワラシになって、親兄弟のいるの家々の暗がりで、見守っていることだろう。

23.    家族を亡くした人々に。

(1)幼い子供なら。

(2)思春期なら。

(3)成人なら。

(4)老人なら。

(5)人は何を失ったのだろう。

(6)どうすれば補えるのだろう。

(7)五感による存在感か。

(8)言葉による、温もりか。

(9)死や孤独への恐怖か。

24.    死んだらどうなる。

(1)本人にとっては無意味だが、残された家族、特に幼い心にとっては大問題だ。釈迦は、悟りによる救いを求める弟子には、死後や宇宙の話は悟りとは関係が無いと言った。幼子を失って正気を失った母親には、死者を出したことない家のかまどの灰を取りに行かせた。言葉の心には言葉の救いがあり、感情の心には感情の癒やしがある。

(2)「死んだらどうなるの」という疑問について考えた。死ぬとは何がどうなるのか。傍から見れば死ぬのは体だが、本人にしてみれば死ぬのは心、それも言葉の心の働きである自分だ。体はDNAの生まれ変わりのために作られる道具だ。サクラに言えば、DNAは木で、体はその年の花の一輪だ。花が散っても木は枯れない。DNAという木はそうやって40億年在り続けてきた。つまり体は死んでも、体の本質であるDNAは死なないということだ。一方、言葉の心の働きである自分は、DNAの生まれ変わりのための道具である体から生じてはいるが、言葉のDNAの存続のための道具だ。言葉の心には、自分は自分だという働きがあり、死んだら自分はどうなるのだろうという疑問も、ここで作り出している。「死んだらどうなるの」という疑問を丁寧に表現すれば、「体が死んだら、言葉の心の働きである自分はどうなるの」ということになる。体が死ぬと、言葉の心の働きである自分は消える。しかし体の死と自分の消滅は別次元の現象だ。自分が消えることを、自分の死と考えるなら、言葉から自分という枠が消えることが自分の死で、それは体の死とは関係なく日々、言葉を発するたびに生じている。言葉は発信すると自分が消えて万人のための情報、つまり言葉のDNAになる。そのことが自分の死だ。体についても同じことが言える。DNAから自分という枠が消えることが自分の死で、それは体の死とは関係なく、生殖活動のたびに生じている。DNAは生殖活動のたびに自分が消えて万人のためのDNAになる。そのことが体の死だ。死というのは、新しい存在になることで、古い何かが消えるのはそのための脱皮に過ぎない。死の正体は、何かが失われることでなく、新しい何かへの飛躍のことだとわかる。

25.    心の復活。

(1)復活は、心の構造の原始的な部分から。徐々に進む。感覚の心。感情の心。そして言葉の心の順だ。

(2)震災は物理的に感覚や感情の心を傷つける。体の傷と違い感覚や感情の心の傷はなかなか消えない。それでも時間の経過と伴に、忘却という形で自然に治癒していく。治癒を早めるには感覚や感情の心の傷を言葉にするといい。言葉は記憶として残り、永久に消えない。しかし苦悩は消える。救われる。

(3)釈迦やキリストが天上から地上の被災者を見守っていると思ってしまう。本当は、被災者に混じって避難所など地上にいる。そこで、自分が受けている苦悩を言葉にして皆に示し、皆の心を救いに導くのだろう。

(4)感情の心の苦悩を言葉にする。災害で家族や家を流され、仕事も失ったら、悲哀の感情の心が膨張して、生きている力だけでなく、生きようとする力も消え失せる。感情は興奮なので、時間とともに薄れていく。ただ、ショックが大きいと、興奮は消えても瓦礫のような何かが心に残って、生きようとする力をさまたげてしまう。心の瓦礫の撤去はどうすれば出来るのだろう。生きようとする力はどうすれば生まれるのだろう。人が動物のように感覚や感情の心だけなら瓦礫は残らないはずだ。残るのは言葉の心をもつからだ。言葉にならない言葉、未熟な言葉が、瓦礫のように、言葉の心の生きようとする働きを妨げているのだ。言葉の心の瓦礫は言葉にして片付けるしかない。生きようとする力も言葉で生み出すしかない。自分は今どんな気持ちなのだろう。その原因は何だろう。○○を失ったからだ。○○が哀れだからだ。本当に哀れなのは○○だろうか。本当に哀れなのは、○○から見える自分の今の姿なのだろう。○○を悲しませないためにも自分の今の状態を何とかしなければならない。何がしたいのだろう。何ができるのだろう。どうすればいいのだろう。他者を救う為の言葉を重ねていけば、道が開ける。

26.    今日、夜の7時から、NHKで、セルフネグレクトという番組があった。母の家で夕食をしながら見た。自己放棄という意味だそうだ。症状は、必要な世間との関係を絶つ。必要な薬を飲まない。必要な食事をしない、などだ。伴侶との死別や、体力の衰えがきっかけだそうだ。絆について考えた。家族や隣人や社会とのつながりのことだ。言いたいのは世捨て人のことだ。飼い犬なら飼い主との絆を欲しがる。野生の犬なら絆を嫌う。人も同じだ。絆を欲しがる人が絆が得られないのを、孤独とか、孤立、無縁などと言う。下に死がつくこともある。悲惨とされる。一方で、絆を嫌う人もいる。同じように孤独とか、孤立、無縁に陥る。同じように下に死がつくこともある。同じように悲惨とされる。しかし元々体が死ぬのは、死に方に関係なく、未熟な観察者から見ればすべて悲惨に見えるのだ。悲惨だから何とかしたいというのは、観察者の心の持ち方の未熟さなのだ。本人にとっては、体の死に方は、孤独であろうが医師や家族が見守ろうが関係ないことだ。死の迎え方は即ちそこまでの生き方のことだ。どう生きるかが問題で、どう死ぬかは自由にはならないどうしようもない事だ。首輪を嫌って、望んで孤独、孤立、無縁つまり独立、自立して生きて、結果悲惨に見える死に方をしてもいいじゃないかというのが、成熟した大人の生き方だ。死について感覚や感情の心に囚われ、忌み嫌い、憎み、本人の生き方より死に方に重心を置いてしまう。日本人が宗教を置き忘れ、代わりの死生観を持っていないことで起こる社会的な幼児性なのだろう。絆を嫌い孤立するのは自由だ。そんな本人にとっては、孤独死も病院での死も、同じだ。一方で、絆を望むのに得られない人、絆があればもっと生きられる人もいる。動物の死期は厳しい自然の掟が決めてくれる。人は、医療などで死を少しだけ先延ばしできる、少しだけの自由がある。少しだけの癒しを永遠に求めてしまうサガがある。人にも自然の掟のように、死に時の覚悟を与えてくれる何かが必要だ。それが、言葉の心の働きである自分の成熟だ。絆よりもっと高次の心の働きだ。