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@    香木(体の象徴)を火窓に載せる。香り(心の象徴)が立つ。

1)香りには初香(しょこう)と本香(ほんこう)がある。香りの成分の違いではなく、聞く側で働く心の違いのことだ。

A    初香の鑑賞(1)。感覚の心で聞く。快不快の香りが聞こえる。

1)香りを感覚の心で捉え、感覚にする。五味を感じる。

2)刺激が無ければ、感覚の心は存在しない。刺激を感じて、感覚の心が生じる。感覚の心は、刺激が生み出している心だ。自分はそこにはいない。

B    初香の鑑賞(2)。感覚から感情が生じる。損得、好悪、競争差別の心が湧く。苦しみや迷いの香りが聞こえる。感情の心も、刺激が生み出している心だ。自分はそこにはいない。

1)苦しみとは。

a.    言葉の心の働きである自分にとっては、感覚や感情の心の活動がもたらすのは、本当の喜びではなく、偽の喜びと、本当の苦しみだ。

ア.迷いや錯覚、苦しみの原因について考えた。「所有したい」という感情の心の働きが、すべての苦しみの源だという思いに行き着いた。

イ.自分が体で、外界にいると思っているうちは、自分を含め、見えるもののすべての頼りなさに不安を感じる。言葉の心の働きである自分が、体とともに、地上をさ迷うようになる。感覚や感情の心が映し出す現在の現実では、言葉の心の働きである自分に安らぎは無い。

ウ.渇きと癒やしの繰り返し。感覚や感情の心でいるうちは、救いはない。

b.    苦しみを言葉にして明らかにする。

ア.人は死ねば必ず、苦痛や苦悩つまり苦しみから解放される。苦しみは、生きていることそのものということになる。

イ.ケンタウロスという、ギリシャ神話に登場する半神半獣がいる。獣になったり神になったりするヒトの心を象徴しているのだろう。脳の働きが感覚の心から感情の心、言葉の心へと進化したといっても、古い脳の働きが消えたのでなく、新しい脳の働きが付け加わっただけだ。古い機能も相変わらず働いている。だから相互に葛藤が生じるのだ。

ウ.感覚の心の苦しみは苦痛によって生じる。感情の心の苦しみは苦悩によって生じる。言葉の心の苦しみは、無意味、虚無、未知、言葉の体系の矛盾、によって生じる。

エ.苦痛は感覚の心に、苦悩は感情の心に、苦は言葉の心の働きである自分に生じる。苦痛は「痛い」などだ。苦悩は「死にたくない」などだ。苦は「生老病死は避けがたい」などの言葉だ。

オ.坂道を自転車で登っている。感覚の心には、足が痛い、呼吸が苦しいなどの感覚が生じる。感情の心には、辛い、楽をしたい、こんなことを続けてどうなるのだろうなどの逃避や迷いの感情が湧いてくる。言葉の心には、登ると決めたのだから登りきろう、あの上にたどり着こうという言葉が輝いて見える。

カ.感覚の心に生じる痛みや不快は、苦痛であって、苦悩ではないし苦でもない。感覚の心には苦痛はあるが、苦悩は無い。苦悩は感情の心に生じる、本来言葉にして鎮めるべき感情が、感情のまま言葉になりきれず、しかし消えることも出来ずに、幽霊のようにさまようのが苦悩だ。感覚や感情の心は癒しを求める。言葉の心には、苦痛も苦悩も無く、言葉としての苦がある。苦は生老病死や愛別離苦のような言葉だ。言葉になれば、それが生じて当然な道理だと分かり受け入れることが出来る。苦痛はあっても、苦悩は消える。言葉によって救いを得る心の働きだ。

キ.体には渇きが生じる。癒すには衣食住が必要だ。感覚や感情の心は、渇きを癒やし、苦痛を避けようとする心だ。生きている為の心だ。言葉の心は、未来の渇きや苦痛を無くすために現在の渇きや苦痛を我慢して、苦難に挑戦しようとする、生きようとする心だ。変化する環境に適応して生き延びるために、ヒトに与えられた特別な能力だ。苦は、このままではいけないという言葉の心の疼きだ。苦痛は生物すべてに生じるが、苦は、ヒトの言葉の心にのみ生じるのだ。

ク.苦しみには3つある。感覚の心の苦痛、感情の心の苦悩、言葉の心の苦だ。体つまり感覚の心の苦痛は、癒さねばならない。感情の心の苦悩は、その原因を言葉にして明らかにすれば消える。言葉の心の苦も、例えば生老病死や愛別離苦のように、生物として避けがたい摂理として、言葉で明らかにすれば受け入れられる。その結果得られる平安を救いという。

ケ.同じ香りや音が続くと何も感じなくなる。同じ快感や苦痛、同じ喜びや苦悩が続くと何も感じなくなる。不快感つまり痛みや渇きも、快感も、持続しないようにできている。怒りや悲しみが持続しないように、喜びや楽しみも持続しないようにできている。それが感覚や感情の心のあり方だ。それが、生物として生き延びる感じ方だ。

コ.痛みや苦しみが、苦を生じるとは限らない。登山やマラソンがそうだ。危険や不安や困難な状況が、苦を生じるとは限らない。かえって、生きようとする意欲を掻きたてることもある。どう受け止めるかで、苦になったり、生きようとする力になったりする。癒やしを求める感覚や感情の心と、救いを求める言葉の心の働きの違いだ。

c.    苦しみは何のためにあるのか。

ア.感覚や感情の心に生じる苦痛や苦悩は、生きる上で不都合なことなのだろうか。苦痛や苦悩は、生きるために克服すべき問題の存在を教えてくれる信号なのだ。生きる上で本当に不都合なのは、その苦痛や苦悩を言葉にできないまま、受身の心のまま、感覚や感情の心のまま、現在の現実にうずくまってしまうことだ。

イ.苦痛や苦悩を言葉にしたものが苦だ。現在の現実の苦しみを、言葉にして、願望に変え、目的を作って乗り越えようとする、脳の働きだ。苦痛や苦悩は救いの素なのだ。

ウ.苦は言葉だから、苦しみの毒は抜けている。我慢できる。理解できる。克服する為の工夫ができる。

エ.釈迦の「この世は苦だ」という言葉について考えた。苦とは生老病死のように、どうしようもない摂理を表す言葉だ。「この世はヒトの努力ではどうにもならい摂理でできた世界だ」。しかし敢えて次のように考えたい。「苦は救いを求める心を生み出す泉だ。だからこの世は救いを求めて生きようとする世界だ」。苦痛や苦悩は、生きようとする心を生み、目的をくれる、救いの素だ。虫が必死でもがいている様を見て、これは苦だと思い込み、自分も苦の中でもがいていると思い込むのは誤りだ。虫のその姿は、救いを求めて生きようとしている、輝かしい姿なのだ。苦が本当は救いの素であることが見えず、苦しか見えないことが苦界なのだ。

オ.苦痛や苦悩は救いへの入り口だ。痛みや悲しみや苦しみは、生きようとする力の源泉だ。痛みや悲しみや苦しみが無ければ、ヒトは生きようとする力を失ってしまう。ヒトはそのように出来ている。痛みや悲しみや苦しみを晴らそうとすることが生きようとすること、つまり救いを求めることだ。痛みや悲しみや苦しみがなければこの力は涌かない。ヒトだけに与えられた能力だ。不自由がなければ自由を求める心は涌かない。砂糖がただ甘いようには救いは生じない。必ず先に塩つまり痛みや悲しみや苦しみがあって初めて救いが生じる。何不自由ない生活では、救いを求めないから、救いは見えない。不自由や苦痛があって初めて救いが味わえる。スポーツでも、勉強でも、仕事でも、途中の苦痛や不自由が大きいほど喜びが大きいのはそのためだ。簡単に手に入れられる物や簡単に達成できる目標がつまらないのはそういうことだ。という意味で、苦痛や不自由がない状態は、満腹の動物のような、眠るか死んでいる心の状態だということになる。人は満腹の動物のような眠りを求めるけれど眠ってはいけないのだ。ヒトは楽を求めるけれど楽ではいけないのだ。

カ.母親は、子を持つと、子にとっての仏になる。自分自身にとっての仏にはなれないが、子にとっての仏にはなれる。人は自分より大きな苦しみを負う人を見ると、自分の苦しみが減る感じがする。自分より大きな悲しみを負う人を見ると、自分の悲しみが減る感じがする。仏は美しいだけではだめだ。正しいだけでもだめだ。慈悲深いだけでもだめだ。あらゆる人よりたくさんの苦悩と悲しみを我が身に負って、見る人の苦悩を軽くさせる力が必要だ。釈迦が、この世は苦だと言ったのは、この世の苦を理解してきちんと負えば、自分のみならず他人も救うことができるという意味だ。苦とは、克服したり回避するものでなく、我が身に引き受けることで、自分も他者も皆が救われるものだ。我が身に引き受けるとは、言葉にして受け入れるということだ。

キ.孫に「仏様ってなあに」と聞かれたら、「自分が負った苦しみを自分以外の人が見ることによって、見る人の苦しみが軽くなるような人の行いのことを言うのだよ。釈迦やキリストの行いということであって、釈迦やキリストの体とは違うよ。」と答えよう。

ク.辛い出来事や状況を言葉にする。現在の現実の苦痛や苦悩が言葉になって、客観的に観察できるようになる。生きようとする知恵や工夫の方向が見える。生きようとする気力が湧くことが救われるということだ。敗戦や苦難に会った人々が結果として繁栄することが多い。失敗は成功の素、苦は楽の種ということだ。つまり、言葉の心を持ち、生きようとする気力を持つヒトにとっては、失うという状況は存在しない。すべて何が起ころうと、常に言葉を得続けている、救いに向かって歩み続けているということになる。

ケ.将来に対する漠然とした不安は誰にでもある。病的な状態でなく、将来を言葉で描けないだけだ。ただの言葉の心のビタミン不足だ。言葉を補充すれば治る。感覚や感情のまま垂れ流してきた過去や漠然と望んでいた未来を言葉のレンガに固めて、自分や世界の基礎を言葉で補強するのだ。

d.    自分についての錯覚がもたらす苦しみ。

ア.自分は言葉の心の働きが生み出している言葉なのに、細胞で出来た体だと錯覚して、体と一体である感覚や感情の心を自分だと錯覚してしまう。

    体は、ほとんどの活動を、言葉の心の働きである自分に知らせずにやっている。報告は時々だ。それも事後報告だ。自分はすべてが自分の指示でなされていると思っている。自分がやっているのは、記憶することと、考えること、つまり言葉を操ることだけなのだ。

    老病死を恐れてしまう。老病死は体の細胞に生じることで、言葉の心の働きという情報である自分とは異次元の現象なのに、自分に生じる現象だと錯覚する。言葉の心の働きである自分は病まないし、歳をとらないし、生れたり死んだりしない。自分は、言葉のDNAの海から受信した言葉によって育てられ、成熟し、タンポポの種のような言葉になって、風で新天地へ飛ぶように発信して、言葉のDNAの海に戻るだけなのだ。

    20年ほど前に住んでいた町を、車で通り抜けた。息子が生まれ育ち、家族一緒に若い時代を楽しんだ町だ。私たちはもうこの街にいないし、息子も独立したし、妻も自分も当時のままではない。交際をしていたKさん家族も、奥さんが早く死んで、夫も子供達もこの町にはいない。店や道など町はそのまま、人ばかりが変わる、諸行無常の感じがする。何かを失ってしまったような気分に囚われる。本当は何かを失ったのでなく、逆に、沢山の言葉、つまり記憶の過去や願望の未来を得ているのだ。自分を体だと思うと、体が老いたり、家族がバラバラになったり、暮らしが変ることが、何かを失うように思えるが、本当は、自分は言葉の心の働きだから、記憶や願望の言葉を得るばかりで失うということは無いのだ。

    感覚の心が外界を感知して感情を作り、感情の一部が言葉になり、言葉は自分になり、自分は世界や時間を生み出している。自分は生まれてからずっと同じ自分だと思っている。自分は、他者とは別だと思っている。それは自分を体だと勘違いした結果だ。言葉つまり情報には自他の差別は無い。会えば溶け合い一つになるだけだ。体はDNAが生み出しているがDNAではない。同様に自分は体が生み出しているが体ではない。それなのに、自分を体だと勘違いしてしまう。体が外界にいるように、自分も外界にいると思ってしまう。本当は、外界は、感覚や感情の心が映し出している幻想だ。自分にとっての本当の世界は、自分が外界を言葉にして、自分の中に、世界として作り直しているのだ。そして自分はその世界の中に居るのだ。

    自分は言葉の心の働きつまり情報で、物である体とは別次元にいる。体と違い、情報には、自他の区別がない。物に執着する気持ちは、自分を体つまり物だと誤解して生じる錯覚なのだ。

    先祖の写真を見る。先祖は子孫にとっては神のようなものだからそんな目で見る。赤子、幼児、少年、青年、晩年たくさんの写真を見る。幼い頃しか付き合えなかった祖父や、知識で知っているだけの曽祖父の写真を見てもどれがその人だかわからない。本当のその人とは、その人が作った言葉のことなのだが、体だと錯覚しているのだ。写真には、本当のその人である言葉になったその人は写っていない。写真は、どれもその人ではないというのが正解だ。

    川の水は1m流れると混ざって、個性はなくなる。体も同じだ。個人が遺伝子の特定の組み合わせだとすれば、1回他者と混ざってシャッフルされれば、川の水のように個性は消える。言葉だって同じだ。一度口から出てしまえば、出なくとも文字になってしまえば、川の水のように個性は消える。それなのに、自分の証を残したいという思いがある。人は何故こんな望みを抱くのだろう。自分は言葉の心の働きなのに体だと勘違いしている。体は残せないが、言葉は残るのに。

    自分も世界も時間も、一人に一つずつ別々に在るのに、一つの大きな、みんなの共有物として在るのだと錯覚してしまう。

    言葉の心の働きである自分が、感覚や感情の心に映る、現在の現実しかない、目的もない、渇きと癒しが波打つ海を漂流している。北極星が輝いて方向を示しているのに、感覚や感情の心が求める渇きと癒しの波の誘いに心を奪われてしまう。快不快や喜怒哀楽に囚われてしまう。

    競争差別の心、つまり感覚や感情の心が地獄を作り出している。感覚や感情の心が映し出す現在の現実はすべて地獄だ。そして言葉の心の働きである自分にとっては、それらのすべては幻想だ。感覚や感情の心が映し出す現在の現実のこの世には癒ししか無く、渇きを癒せば癒すほど、渇きはさらに深まり、癒し難くなる。これも自分を感覚や感情の心だと錯覚していることから起こる苦しみだ。

    心の渇きを、本当は言葉で満たすべきところ、感覚や感情の心への刺激でみたそうとしてしまう。感覚や感情の心の喜びは刺激や変化に反応しているだけだから、じきに消えてしまう。ザルに水を注ぐように無限に渇きを繰り返すことになる。子供の頃、切手や蝶や石を集めたが、際限がなくなって止めたことを思い出す。

    自分は、言葉の心が生み出している、生きようとする意志だ。自分を、体や、感覚や感情の心だと錯覚している限り、生きようとすることを忘れ、癒しや安楽を求める感覚や感情の心に抵抗できない。言葉の心の未熟は、自殺の原因でもある。

    感覚や感情の心が見せる現在の現実は、言葉の心の働きである自分にとっては虚無だ。

    無性に旅に出たくなる。着いてみれば、来たかったのはここではなかったことに気づく。実は、行きたかったのは、感覚や感情の心を癒やす場所ではなく、言葉の心を救う場所だったのだが、気が付かず、また別の感覚や感情の心を癒やす場所へ向かう。無性にご馳走を食べたくなる。腹が満たされてみれば、満たしたかったのは食欲ではなかったことに気づく。実は心の中にしかない空腹、言葉の心が救いを求める空腹だったのだが、気が付かず、別の珍味のことを思う。

    感覚や感情の心、つまり、快楽を求めたり、苦難を避けたり、つまり癒しを求める心は、現在の現実に生きている為の、動物としての心だ。苦難や苦悩に勇気を奮って挑戦し、現在の現実を乗り越えて、未来に生きようとする心は、ヒトに特有な言葉の心だ。言葉の心が未発達だと願望の未来や目指すべき目的が見えず、作れず、感覚や感情の心が求める渇きと癒しをいたずらに繰り返すだけになる。つまり現在の現実に生きているだけ、渇きと癒し、興奮と沈静の波間を漂うことになる。言葉の心の働きである自分にとっては、喉が渇いても、海水しかなく、海水を飲み続けている感じになる。

    脳は、感覚や感情の心を癒すと、快感が生じるようにできている。癒しは体を生かしておくための脳の仕掛けだ。自分が感覚や感情の心だと錯覚していると、手段である癒しが、目的に思えてしまう。手段である癒しに支配されてしまう。快感を求め、安楽を失うことや、乗り越える必要がある苦難や苦悩を恐れて、逃げてしまう。結果、かえって未来の命を損なってしまう。

    本当は言葉の心の働きである自分が救いを求めているのに、得られるのは、感覚や感情の心の癒しばかり。生きていることが虚しく感じられる。

    言葉の心の働きである自分は袋のようなものだ。言葉を入れる袋だ。言葉を受発信するだけでなく、蓄積もしている。しかし感覚や感情の心に惑わされて、自分をパイプのように思ってしまう。何かが通り抜けていく感触を楽しみ、求めてしまう。癒しを求めているのだ。いつまでたっても何も貯まらない。自分に何も身につかない。ただただ何かが通り抜けていく感触を楽しんでいる。何かが通り抜ける瞬間、感覚や感情が生じ、生きている感じがする。何も通らないと、退屈してしまう。いつまでも満たされず、ゴールもない。だから自転車のように、流れが止まる死が恐ろしい。

    救いが得られる生き方はアメニモマケズの詩に書いてある通りだ。しかし子供は、そんな人にはなりたくないと思う。子供は未だ言葉の心による救いを求めず、癒やしを求めるだけだからだ。

    見えたり、触ったり、聞こえたり、食べたり飲んだり、嗅いだりしているのは、本当の世界ではなく、感覚の心の興奮だ。喜怒哀楽は感情の心の興奮だ。言葉の心の働きである自分には異次元の出来事だ。

    孫と散歩の途中、ソフトクリームを買ってやる。美味しそうに、目や舌で味わっている。見ている自分までいい気分になる。しかし、ソフトクリームがくれる喜びは、お前にとって、この一瞬だけのことで、すぐに跡形もなく消えて、お前を後々まで幸福にしてはくれない。お前の将来に何の役にも立たないよと思いながら見ている。本当のお前は言葉の心の働きだから、感覚や感情の心の癒しはその場限り、通り過ぎて消えていくだけなのだ。心は感覚の心、感情の心、言葉の心へとメニューを増やしてきたのだ。感覚や感情に溺れるとは、より良くなる為に生きようとするのでなく、生きているために生きることになり、花のまま咲いていたくて、散って実になることを恐れることになる。本末転倒だ。若いままでいたい、老いても死にたくない気持ちもそこから生まれる。

    言葉の心の働きである自分が、自分を感覚や感情の心の働きだと錯覚する。言葉のように永続する感覚や感情の喜びを求める。感覚や感情の心だから、何を感知しても持続も記憶もできない。感覚や感情の心に映る幸福は、蜃気楼。果てしなくゆらゆらするだけ、掴んだと思っても一瞬で消える。

    感覚や感情の心は、現在の現実を映す鏡で、次の瞬間、外界の変化で変化して、違う心になっている。言葉で作った自分だけが一貫性を維持している。感覚や感情の心を自分だと錯覚していると、自分がコロコロ変わってしまい、言葉の心の働きである本当の自分を見失ってしまう。

    電車の座席に並んで、小説を読んでいる2人の人がいる。それぞれの物語の中で、勝手に生きている。脳の中で何をしようと互いに争いにはならない。体や、感覚や感情の心は、癒しを奪い合い、競争差別に囚われる。見知らぬ人同士が平和に暮らせる場所は言葉の心になれる場所だ。体や、感覚や感情の心の癒しを得る為の競争は最小にして、言葉で救いを作ればいい。それなのに、実際は逆に、癒しの競争が大切で、救いの活動はどうでもいいように思ってしまう。主客が転倒するのは、自分を、体や、感覚や感情の心だと錯覚しているからだ。言葉の心の働きである自分が、逃げ水のような偽の救いをつまり癒やしに惑わされてさ迷うことになるのに。

    自分を感覚や感情の心だと思っているうちは、見えるのは世界ではなく、瞬間瞬間に浮かんでは消える現在の現実、つまり虚無なのだ。

    ウンチを汚いと思っているね。どうしてだろう。お肉や魚や卵や野菜や果物やお菓子やご飯を食べて、喉の奥に消えて、おまえが眠っている間に、体に栄養を与えてくれて、朝になって、久しぶりに再会したのに、どうしてなのだろう。お肉や魚や卵や野菜や果物やお菓子やご飯に失礼だ。美味の快感を得る、空腹を満たす、癒しの道具としてしか思っていないからだ。自分の命を救ってくれている他の命だと思っていないからだ。もし何日も食べ物が無くて、死にそうなくらい空腹な時に、お肉や魚や卵や野菜や果物やお菓子やご飯が現れて、自分たちを食べていいよと言ってくれたとしたら、翌朝再会した時に感謝の気持で挨拶できるはずだ。

    久しぶりに郊外へドライブした。山の中腹で休憩していた。山鳥の鳴き交わす声が響く。鶯の歌もする。日当たりの良い草原で蝶が飛び回り、かすかに花の香りを含む気流が寄せてくる。青空も白い雲も、穏やかな日差しも快い。自分は今、永遠の中に居るという感じがする。しかし、山鳥が鳴くのもこの一瞬だけだし、この快い感じを生み出しているあらゆるものはみなこの瞬間だけの現象の組み合わせだ。何故永遠を感じたのだろう。感覚や感情の心に浸っていたからだ。感覚や感情の心には時間がない。永遠とはずっと続くという意味でなく、時間が消えているという意味だ。感覚や感情の心が映し出す永遠に身を任せることができないのは、言葉の心の働きである自分にとっての時間としての永遠でなく、感覚や感情の心が映し出す、時間の無いその場限りの永遠だからだ。

    感覚や感情の心は鏡のようだ。鏡が映った対象になりきってしまうように、感覚や感情の心も映った対象になりきってしまう。言葉の心は、対象にとりつかれないように、対象を言葉に消化して取り込むのだ。

    呆け気味の母と一緒に過ごしていると、心の本質が見える気がする。美味しいものを食べたり、すばらしい景色を見ると、その時は大変喜ぶが、すぐに忘れてしまう。思えば、自分だって、色々なことに熱中して、喜怒哀楽を燃やしてきたが、今となってはその熱は完全に消えて、記憶もほとんどない。感覚や感情の心の興奮は短期間で消えるということを教えてくれる。感覚や感情はつかの間楽しめば十分で、何度も楽しもうという方が誤りなのだ。苦痛や苦悩を忘れられるという利点でもある。ずっと持ち続けたければ、言葉で記憶や願望にしておけばよい。

    苦痛は感覚の心に、苦悩は感情の心に生じる。言葉の心の働きである自分が、自分を感覚や感情の心だと錯覚すると、苦痛や苦悩を言葉にできず、苦痛や苦悩の海に溺れて、対処法も考えられなくなる。

    何かをすべきだとか、すべきでないと思っているのは言葉の心の働きである自分だ。すべきだと思ってもさぼってしまう、すべきでないと思ってもしてしまうのは、自分ではなく感覚や感情の心だ。自分がしたと思うと、悔恨や自己否定、自己嫌悪しか湧かない。感覚や感情の心の暴走を抑えられなかった自分の言葉の心の力不足だと思えば、反省もでき、対策つまり救いも見えてくる。

    感覚や感情の心を癒す何をしても、言葉の心の働きである自分は救われない。つまらない。どうしてよいかわからない。目的が持てず、情熱が湧かない気持ちになる。

    他者と意思疎通をしているのは、感覚や感情の心ではなく、言葉の心だ。感覚や感情の心で意思疎通をしようとしても、競争差別の心が働き、刹那的、表面的になって、うまくいかない。

    癒しは感覚や感情の心に生じるので、感覚や感情と同様に、その場限りの心理現象だ。言葉の心の働きである自分は、自分に救いをくれる言葉が欲しい。しかし外界は感覚や感情の心によって感知されるので、外界から得られるのは感覚や感情の興奮ばかりだ。雪の結晶が欲しいのに、みぞれ雪が手に触れては溶けていく感じだ。

イ.感覚や感情の心に生じている苦痛や苦悩が、言葉の心の働きである自分に生じていると錯覚してしまう。癒したくなる。逃避や自殺をしたくなる。

    苦痛や苦悩や不満は悪いことではない。苦痛や苦悩や不満は心を刺激して、生きている力、生きようとする力を奮い立たせるという意味で良い事だ。満足や安逸の癒しは、言葉の心を眠りや死に誘うという意味で悪いことだ。感覚や感情の心には、苦痛や苦悩や不満の持つ意味はわからない。ただ痛い、苦しい、不快なだけなのだ。

ウ.体や、感覚や感情の心が、競争や差別を必要としているのに、言葉の心の働きである自分が競争や差別を必要としていると錯覚してしまう。競争や差別の錯覚に翻弄されてしまう。

    動物には、感覚や感情の心が映し出す現在の現実しかない。感覚や感情の心が映し出す現在の現実は、みんなと同居している空間だ。だから競争や差別が生じている。ヒトには言葉の心が在る。言葉で記憶の過去や願望の未来を作っている。過去や未来は一人に一つずつある。一人一人別々の過去や未来を生きている。そこには競争や差別は無い。

    体や、感覚や感情の心は、他者と競争や差別をするように出来ている。言葉の心は、自身の感覚や感情の心と戦うように出来ている。

    色即是空。すべては空(くう)だ。空(くう)であるからこそ繋がっている。人も世界も、自分も他人も、動物も植物も虫も、空(くう)という全体の一部だ。色(しき)は、自分という意識が、すべてを区別し差別してバラバラに見せているだけだ。色(しき)として見えるのは、自分という意識がそうさせているだけ。人も物も景色も、この世のすべては空だ。空とは無ではなく、たとえれば、私達が水滴なら、海のようなものだ。自分は特別な一滴だと思っているが、海の一部だということ。この世のすべてが別々に在ると思っているのは、自分という意識がそう見させているだけということ。自分も他人も、死者も生者も無いということ。

    幼稚園の頃、真夏の昼間に、裏の家の兄弟が、氷の塊をおいしそうに舐めていた。父にせがんで、ハンケチに包んだ氷を貰った時は、どんなに美味しいのかと思い天にも昇る気持ちだった。一口舐めてがっかりした。口の中で水になるだけで無味だった。氷と水は同じものだと初めて知った。中学に入り、昆虫採集で、仲間と山に登った。稜線で足元から霧が上がってきた。包まれると、ぽたぽた水滴がふってきた。霧と雨は同じものだと知った。水蒸気も水も氷も違うといえば違うし、同じといえば同じだ。川と池と海も、ヒトとサルも、ヒトとあらゆる生き物も違うといえば違うし、同じといえば同じだ。小石と地球も、太陽も、宇宙も違うといえば違うし、同じといえば同じだ。しかし私とあなたとなると、私の中に差別する気持ちが抑えられない。感覚や感情の心は、私と他者を差別し、区別し、違いを見分けようとする心の働きだ。言葉の心は、私抜きで、みんなを一緒にしようとする心の働きだ。

    桃太郎が鬼を退治したというお話について考えた。感覚や感情の心は、自分と違う相手を鬼だと思ってしまう。感覚や感情の心による侵略と征服の物語ではなく、桃太郎が自分の心の中の悪つまり感覚や感情の心の暴発や逃避を我慢したという言葉の心の物語がいい。

    生物はすべて、争い、勝とうとする。そうすると生きている喜びを生じるようにできている。

    自分を感覚や感情の心だと錯覚しているうちは、競争差別の心に囚われる。物事を本質つまり言葉でなく差異や変化で評価してしまう。自分についても他者との差異で評価してしまう。他者との差異が自分の価値だと思ってしまう。競技やコンテスト、クイズやテストに一喜一憂してしまう。他者と同じでは自分が存在しない感じがする。自分が他とは違う自分であるのは、自分の中に築いたユニークな言葉の体系による。言葉が固有なのだ。体つきや感覚や感情は固有ではないから自分ではないのだ。

    競争の勝利による快感つまり癒しを救いだと思い込

    競争や差別は、相手の未知の部分に対して生じる感情だ。未知は恐怖を引き起こす。競争、差別は未知への恐怖に対する防衛の感情だ。他者を支配するには自分を他者に対して未知にする。しかし、こんな小手先のトリックで人生を過ごしていいはずがない。他者に受け入れてもらうには、自分を言葉にして開示するといい。

    今、日常のあらゆる場面が、競争の相を呈している。競争とは癒しの手段を奪い合うことだ。競争心が奨励され、満ち溢れるている。若い人も、生きようとする力、つまり救いの言葉の心の鍛錬の大切さを見失い、心地良く生きていること、快楽や安楽、つまり感覚や感情の癒しを人生の目的と思い込み、癒しの手段の獲得競争に心を奪われている。この世が癒しを求める競争だけで出来ているように錯覚している。結果、競争の勝敗に囚われ、引きこもりや自殺、いじめや児童虐待が増えている。動物でも分かち合えることが、できなくなっている。感覚や感情の心は、競争心から逃れられない。そのことを受け入れよう。競争は仲間同士の戦いだから、特に教育の場面において、競争心を煽るのは限定しよう。救いに関わる事物は競争の対象からはずそう。競争心は感情だから、感覚や感情の心を言葉の心でコントロールできるようになろう。物やサービスによる癒しを救いだと錯覚して過剰に求めず、言葉による救いを求めるようにしよう。競争せずにすむ個性を各人が持てるような教育をしよう。若者たちは、既製の会社にもぐりこんで、苦労を少なく、癒しを多く得るための競争に囚われている。影を動かすには、物を動かせばいい。社会は、一人一人の心の影だ。まず、一人一人の心を動かせばいい。若木の生きるべき姿は、すでに茂って太陽をさえぎっている前世代の木々を超えることなのだ。前世代の木々がくれる日陰の癒しに憩うより、救いを求める方が、人生も豊かだ。

    勝ちによって得られるもの、負けによって失うもの。勝ち負けに意味がないもの。ゴールがあるから勝ち負けが生じる。ゴールがないこともたくさんある。というか、どうでもよいことにはゴールはあるが、大切なことにはゴールがないのだ。

    競争は、他者を敵とみなさせ、この世を戦場とみなさせる。他者こそ自分の救いの源であることを見失わせる。人は独り占めを喜ぶようにはできていない。ヒトの進化の方向は、感覚や感情の心より言葉の心、癒しより救いを求める心に向かっている。競争は、逆に言葉の心を感覚や感情の心に退化させ、癒しへの渇望を助長する。競争の敗者でなく脱出者が増えている。競争には救いが無いと見破った元兵士だ。

    勝負とは癒やしを奪い合うこと。勝っても一時の癒しを得るだけ。負けても一時の癒やしを失うだけ。どちらにしても救いには関係がない。

    感覚や感情の心は仮想の敵を作り出す。仮想の敵に応じて自分も変わってしまう。敵が○党なら自分は△党、敵が○社なら自分は△社、敵が○国なら自分は△国民、敵が他種生物なら自分は人類、敵が宇宙人なら自分は地球人となる。

    差別するとは、対象を感覚や感情の心に囚われた未熟な言葉にしてしまうことだ。差別すると快感つまり癒しが生じる。癒しを救いだと思い込

    差別の対象は差異だ。差異は自分と比較することから生じる。

    貧富や寿命は、他者との比較から生じる競争差別の錯覚だ。

    病を得て病院に行く。自分より、老いて、弱って、病んで、苦しそうな人を見る。自分の苦痛や苦悩が軽くなった感じになる。病院を出て、健康そうな人々の雑踏に混ざる。自分の苦痛や苦悩が重くなった感じになる。感覚の心は違いを見ている。他者と自分を比較すると、感情の心が生じる。言葉の心の働きである自分は、他人との比較とは関係なく生じているが、油断をすると、感覚や感情の心にだまされてしまう。

    博物学など昔の学問は、表面的な違いを調べることに熱心だった。物理学など現代の学問は、本質的な類似性を調べるようになった。ヒトの物の見方も、感覚や感情の心による競争差別から、言葉の心による共生へと進化している。生物の種(しゅ)とはDNAの構造の違いだ。生物は元々同じものから生じたのだから、違いといっても枝葉末節のことだ。ヒトとヒトの顔や見かけの違いも、同じものであるDNAの些細な違いだ。言葉としての自分は、すべてのヒトに一つずつあって、出会えば一つに合流してしまう、自他の区別の無い、同じものなのだ。

    感覚の心は、環境の変化から、危険を察知するために、感情の心は、仲間との関係の変化を察知するために進化したのだろう。逆に言えば、感覚や感情の心は変化や差異しか感知できない。そのものを観察したり評価できるのは言葉の心だ。感覚や感情の心に囚われると、他者との比較でしか自分が見えなくなってしまう。

    雲や地平線がない大空に目をやっても、空は見えない。額縁が無いと絵に見えない。物差しがないと大きさが分からない。感覚や感情の心には、そのような欠陥がある。

    水素と酸素を比べれば違いがあって、それが個性だ。水素同士では違いはなく、個性は見えない。個性とは違いにつけた未熟な言葉のことだ。感情の心は対象の些細な違いを取り上げ、未熟な言葉にした偽の個性で分類している。未熟な言葉は物を途中までは分類でき、偽の個性を見せる。川だって陸を流れているうちは名前も特徴もあって個性豊かに見える。しかし、水源をさかのぼって雨に至ったり、海に注いでしまうと、もう個性は消えて、分類不可能、ただひとつのもの、水に戻るのだ。興味があれば言葉で細かく分類して、個性豊かな世界を作ることができる。昆虫を数十万種類に分類できる人もいるし、虫一種にしている人もいる。自分が所属する人種に属する人々の特徴は細分できるが、他人種に属する人々は十羽一絡げだ。そもそも、DNAとして見るなら、微生物も植物も動物も人も、君も僕も、同じものだ。DNAの中身の遺伝子で見れば少しだけ違いがある。素粒子として考えれば、物も生き物もすべて同じだ。見えている物や体についての個性は感覚や感情の心が映し出す幻なのだ。

    自分とは浸透膜のようなものだ。自分と同じものを内側に取り込み、自分と違うものを排斥する。空中のシャボン玉が、中の空気と外の空気を分けている。割れれば、中も外も消え、DNAや言葉の大海に戻る。

    体と自分の関係は、言葉と意味の関係に似ている。日本人は「りんご」という音や文字に刺激されて、あの果物の形や色、肌触りや香り、味という意味を生じる。アメリカ人なら、appleという音や文字に刺激されて、あの果物の意味を生じる。太郎君とベテイーさんに生じる、あの果物の形や色、肌触りや香り、味という意味はほとんど同じだろう。同様に、太郎君とベテイーさんに生じている自分は、第三者から見ればほとんど同じなのだ。でも太郎君もベテイーさんも、自分の自分は、特別で唯一のユニークな存在だと思い込んでいる。自分を他者から差別し、特別視するように出来ている。

    昨夜TVで、自分に見えている色と、あなたに見えている色は同じなのかという、英国の学者の実験の話をしていた。ああ、そういう問題意識そのものが文化の違いだなと思った。結論は、進化の過程で大切だった色は同じだが、その他は別々だということだった。色は脳で作られるという点は、色即是空と一緒だ。しかし、人と人には違いがあるべきだという立場と、違いはなく、あってもどうでも良いことだという立場の違いだ。ギリシャ哲学と東洋思想の源流の違いを感じた。本当の言葉の心には自分や他者の差別はない。みんな一緒ということだ。自分というものが生じるのは、感覚や感情の心が生み出す未熟な言葉の働きで、結局競争差別とセットになるのだ。

    幸不幸は、他者との比較から生じる。比較する相手次第で変化してしまう。生きる目的にはならない。

    自他の区別は、感覚や感情の心の働きだ。言葉の心になると、自他の区別は消えてしまう。情報は元々普遍的なのだ。体を生み出すDNAにも、僕とか君とか他者という区別は無い。大きな海があって、しぶきが飛び散って潮溜まりを作って、さらにそれが干上がっても、元の海は元のままだ。この体が死んでも、この体の元になったDNAのオリジナルは、これまでも、これからも、元の海にあり続ける。言葉の心である自分に流れ込んで、この体に宿っていた自分を作っていた言葉も、発信されれば、言葉のDNAの海に在り続ける。

    細胞は、体の内と外を差別しなければ死んでしまう。動植物も、自他や敵味方、毒と食物を差別しなければ生きられない。感覚や感情の心にはそのような働きなのだ。

    ゲームでは、勝ち続けて勝ちを積み重ねると、最後に優勝にゴールインする。人生はゲームと同じなのだろうか。勝つ、得をするという癒しと、生きる目的という救いは別次元のことだ。勝ちや得ばかりを求めると人生は最終的にはどうなるのだろう。勝ち負けは、癒し、競争差別の錯覚だ。言葉の心の働きである自分の目的は、救いだ。救いは外から与えられるものではないし、他者から奪ったり共有できるものでもない。自分の人生のルールや規則を作らず、みんなのルールや規則に寄りかかり、自分が審判にならず、みんなの判定を頼りにし、勝った負けたというのは癒しだ。救いではない。

    脳の中に生じている自分は、皆同じだが、「自分は自分で、他人は他人」と刷り込まれているから、自分は他人の自分とは違うと思い込んでいる。A君の自分がBさんの自分と入れ替わった瞬間、互いになりきって、何も変わらない。言葉の心の働きである自分は、脳が発する電気の信号で、発し方はDNAで決められた働きだ。この並木の桜たち全員は、同じ木から挿し木で増えたクローンだ。DNAはまったく同じだ。でも似ているようで似ていない。幹を見ると、地上から好きな高さで、好きな数に枝分かれしている。葉や花も細かく見れば好き勝手についている。しかし、本質的には皆同じだ。人もおおむね同じだ。動物もおおむね同じだ。生き物もおおむね同じだ。おおむねとは本質の部分でという意味だ。枝葉の差異にこだわらず、おおむね同じで納得するほうが、大きく理解できる。同じ枝に咲いているこの花と隣の花は違うところもあるがおおむね同じだ。自分は言葉の心の働きだから、個人個人が違わねば気がすまない。それは、自分を他者と区別するためだ。考えたり、話したり、記憶したり、望んだりしている言葉は一人ひとり別だ。しかし単語のレベルで見れば全く同じだ。文章にすると単語の組み合わせが違う。しかしやはりおおむね同じだ。おおむね同じと救いとは同じ意味だ。旧約聖書、創世記、「神はこの塔を見て、・・・人々に違う言葉を話させるようにした。このため、彼らは混乱し、世界各地へ散っていった。」

    生物は他者つまり自分以外を殺す者だ。植物だって、日照や水分や栄養を奪い合っている。人以外の生物は、自身は殺さない。仲間も殺さない。人は言葉の心があって、言葉の心にとって自身の体は自分ではない。だから自身の体を殺すことがある。仲間も言葉が通じなければ仲間ではなくなる。だから仲間を殺すこともある。

    今日、街を車で走っている間、FENを聞いていた。16時から17時まで[This is an American Christmas]という番組だった。疲れを知らない子供のように、息もつかせぬ「美味しいクリスマスメニューの洪水」だった。懐かしいクリスマスソングやデッケンズ、ルーシーショーのクリスマスの場面、スーパーマンなどの話の途中で、アナウンサーのsuicide という言葉が飛び込んできた。「no problem bigger than our lives」と続いた。そういえば、ちょっと昔、アメリカでも、クリスマスに自殺件数が増えるというデータがあると聞いた。こんな番組の中でも、こういうことを入れるのだと、感心した。それから、昨日TVで見た、サーシャ チューダー「日常生活に魔法の粉を掛ける話」、筑紫哲也の「生活に苦しむ人々の話」など、いくつか、思いが湧いてきた。クリスマスというキャンドルは、明るい気分も、暗い気分も、照らして、際立たせるのだなと思った。

e.    世界についての錯覚がもたらす苦しみ。

ア.世界は言葉の心の働きである自分が生み出している言葉なのに、感覚や感情の心が映し出す外界のことだと錯覚してしまう。自分も体と同じように外界に投げ出されているように思えてしまう。世界は自分を超えるものとして既に在って、自分を支配しているように思え、受身になってしまい、自分で作るべき未来を作れなくなってしまう。

    自分と世界はどのような関係なのだろう。普通の人なら、まず世界が在って、自分はその世界の一隅に一時だけいるのだと思っているだろう。冬の夕焼けの空に、一番星や三日月が光り、木枯らしが吹く街や、骸骨のようになった街路樹が黒いシルエットになっているのを眺めている時など、ついそんな気持ちになって心細くなる。でもそれは本当だろうか。自分を体だと思ったり、外界の風景の一部だと思ってしまう。自分を物だと思ってしまうのだ。自分を他人の体のように見れば、確かに自分はこの風景の一部だ。体は木枯らしに転がされる枯葉のように、寄る辺ない漂流物のようだ。心細くなるのも当り前だ。でも、本当は、自分は言葉の心の働きで、自分がこの風景や木枯らしを作り出しているのだ。自分が言葉でこの世界作り出しているということを言葉にして明らかにできれば、言葉こそ世界で、感覚や感情の心に見えたり感じている現在の現実の方が虚無だと分かるだろう。虚無とは、自分とは次元が異なるということだ。自分は生きている限り在り続けるが、この風景は自分が立ち去れば消えてしまう虚無なのだ。主客転倒に気が付こう。列車の窓から見ると、風景は過ぎ去って消えていく。同じ速度で同じ方向に飛んでいる小鳥は、いつまでも視界にあり続ける。自分といつまでも一緒にあるものが普遍で、自分から消えてしまうものがはかないのだ。満月を鑑賞している。雲がかかって見えなくなってしまう。満月がはかなくなったのだ。見えなくなった寂しさで、自分をはかないとは考えるのは勘違いだ。自分は常に普遍な一点で、そこから離れていくもの、消えていくものがはかないのだ。自分は唯一はかなくないものだ。自分が自分から消えてしまう事は自分にとってはありえない。自分がいなくなっても残る世界とは、他人の目を想定した錯覚だ。渡り鳥が北を目指しているとする。一緒に旅をしている仲間は普遍だ、通り過ぎる海原や大地がはかないものだ。しかし、言葉にして言葉の心に記憶した風景は自分の一部だという意味で普遍だ。言葉は、はかないものを普遍なものに変える道具だ。ということで、普遍は自分の外にあるのでなく、自分が自分の中に言葉として作っている事物なのだ。それがわからないと、自分を体だと思って、自分はいつか消えるが世界はいつまでも在り続けるのだと錯覚してしまうのだ。

    初めて異国の地を踏む。感激する。しかししばらく居ると、元居た場所と同じではないかと思う。

    死後の世界を考えてみる。世界は言葉の心の働きである自分が言葉で作っている。地獄も天国も、自分とともに生まれ、自分とともに消える、自分の中にあるものだ。だから自分の死後は、世界は存在しない。もう地獄も天国もあの世も無いのだ。自分が体で、世界が自分を生み出していると思うと、世界は、自分の生死と関係なく、死後も在り続ける様に思えてしまう。死後の地獄や天国やあの世が在るように思えてしまうのだ。

    四国のお遍路の映像を見た。自分の目的や意味を保証してくれる何かが、仏像や建物や境内にあるかのように、あちこちの寺をグルグル廻って、そこに行ったことを、天国の役場に登記するかのように、記帳したり朱印を集めている。探し物は外界には無く、自分の力で、自分の脳の中に、言葉で作るものなのに。休日ともなると、この町の寺にも、それらしい人々が、何かご利益のようなものを求めて、一つでも多くの寺社を参ろうと、足早に駆け抜けていく。本当は、それは、地上のどこにも、勿論この町のどの寺社にもあるものでなく、いくら駆けずり回っても、足や目で見つけられるものではない。自分の頭の中に、言葉で作るものなのだ。

    世界を知るには、昔の博物学者のように、外ばかり調べても際限が無いだけだ。世界は自分の脳の中に言葉で組み立てているものなのだ。

    子供の頃、みんなが一緒に何かをしているのを一人離れて見ている時、みんなが作っている一つの大きな世界が在って、世界から自分がはずされてしまったような孤独感を感じた。本当は、自分は自分が作っている世界にいて、みんなはみんなのそれぞれ別々の世界にいたのだが、わからなかった。

    世界は、自分の中に自分だけのものとして作るものなのだが、世界の中にみんなで一緒に居るのだと思ってしまう。写真に撮らなければ見た気がしない、皆と一緒でなければ体験した気になれない、鏡がないと自分が見えない、他者の評価を知らねば不安だ。自分以外の力で自分の存在を確かめるのが感覚や感情の心の宿命なのだ。

    物である体と、情報つまり言葉の心の働きである自分とは異次元の存在だ。世界は、自分の中に言葉で作った言葉の集合だ。自分を体だと思うと、自分が外界で何かをしているように思えてしまう。自分の使命は、感覚や感情を言葉に変換することだ。自分を体だと思っていると、外界で体として癒やしを求めて物や勝敗を争い競い合って、破壊や苦痛をもたらすことにもなる。自分は言葉の心の働きだと明らめて、それぞれの世界を尊重し、互いに体で邪魔をしないように自制すればいいのだ。

    母と箱根の十国峠に行った。展望台で、若夫婦が写真を撮っている。風景と自分達を一緒に写している。ピースをしている。見えている世界と自分達が一緒に在ると思っているのだろう。帰路、あちこちにススキが咲いている。摘んで持ち帰りたいと思う。しかし家に着く頃には枯れているだろうと気が付く。考えてみれば、美しい景色も花も、小鳥の囀り、旅の気分、どれも持ち帰れない。一瞬一瞬の感覚は、持ち帰ることが出来ないもの、つまり持ち続けることができないのだと気がつく。「青白く光る銀河の岸に、銀色の空のすゝきが、もうまるでいちめん、風にさらさらさらさら、ゆられてうごいて、波を立ててゐるのでした」『銀河鉄道の夜』。「すすきは幾むらも幾むらも、はては野原いつぱいのやうに、まつ白に光つて波を立てました」『鹿踊りのはじまり』。「崖やほりには、まばゆい銀のすすきの穂が、いちめん風に波立ってゐる」『マリヴロンと少女』。言葉にすれば、持ち帰りも可能だ。

    自分は心だ。それも感覚や感情の心でなく言葉の心の働きだ。それなのに、自分を体と考え、外界をすみかだと思っている。いろいろな迷いや苦しみはこの誤解から生じている。人生でもっとも大切なのは、自分の言葉の心を育てることなのだ。世界が外にあると思っているが、それは感覚や感情の心が映し出す偽の世界、現在の現実だ。言葉の心の働きである自分にとっての本当の世界は、記憶の過去や願望の未来だ。自分の中に本当の世界を言葉で築くのだ。レンガを一つずつ積み上げるように、言葉を積み上げて作っていかなければならない。材料としての言葉は、他人や先人達から貰うことも可能だが、セメントは自前だ。

f.    時間についての錯覚がもたらす苦しみ。

ア.自分は言葉の心が生み出す願望の未来にいるのに、感覚や感情の心が映し出す現在の現実にいるのだと錯覚する。やる気や勇気が湧かなくなってしまう。

    時間を、感覚や感情の心が映し出す現在がすべてだと錯覚する。

    言葉の心の働きである自分は願望の未来にいるのに、感覚や感情の心に映る現在の現実の中にいると錯覚してしまう。記憶の過去や願望の未来を見失ってしまう。

g.    言葉についての錯覚がもたらす苦しみ。

ア.未熟だったり、未消化な借り物の言葉を、自分の言葉だと錯覚して、感覚や感情の心に、言葉の心の働きである自分が乗っ取られてしまう。

  競争や差別の情動は、体が現在の現実を生き延びるための、感覚や感情の心の働きだ。ヒトはさらに願望の未来を実現するための言葉の心も備えている。情動を抑制すべき言葉の心が、自らを感覚や感情の心だと錯覚して、競争差別に参加すると、抑制が効かず、仲間や種(しゅ)の存続を脅かすことになる。できるのは、この未熟な言葉の心を成熟させることだけだ。教育や政治の役割だ。しかし、未熟な教育者や政治家は逆に競争差別をあおってしまう。そちらの方が多数の父兄や有権者の受けがいいからだ。

    感覚や感情の心に生じた快不快や喜怒哀楽は、しばらくすれば消えるように出来ている。消えなければ、心身のストレスになってしまう。動物としてはそれで十分だし、かえってうまくいく。ヒトになって快不快や喜怒哀楽を言葉にして記憶できるようになった。言葉にすれば現在の現実の感覚や感情の興奮から離れて、冷静に思考できるようになる。しかし言葉が未熟だと、昔の快不快や喜怒哀楽の興奮をいつまでも呼び起こす。仮想の快楽を求めたり、仮想の怒哀を引きずったり、仮想の苦難を恐れたりさせる。

    駅頭に、宗教の勧誘をする人が、プラカードを持って立っていた。立たされているようにも見えた。きっと、その宗教団体の初心者なのだろう。未だ信心が柔らかいのだろう。だから本部は、わざと人前で、プラカードを下げさせて、自分はこの宗教の信者だという言葉の心を固めさせているのだろう。未熟な言葉の心は、こうやって、組織のワナに囚われていくのだろう。思えば、学生の頃は、宗教団体より政治団体が同じことをしていた。誰もが反対できないスローガンを、皆の前で叫ばせる。政治や宗教団体は、そうやって未熟な言葉の心を取り込むのだ。

    言葉の心が未熟で、言葉で自分や世界や未来を作れないと、宗教や政治結社、流行や洗脳者の言葉に乗っ取られやすい。

    名前とは何だろう。生まれた時には名前は無い。父母から名前を付けられる。名前を呼ばれるうちに、自分と名前が重なってくる。持ち物に名前を書いたり、賛辞や叱責が名前に対してもたらされる。資格や権利、責任も名前に対して与えられる。自分と名前の区別がつかなくなってくる。大学の名簿に載ったり、大組織の一員になって、自分を包む大きな名前を背負うと、名前に対する愛着心や忠誠心が生じ、他者に対し排他的、攻撃的になる。名前は他者との競争差別のための武器だ。名前が同じなら味方、身内、愛情の対象となる。しかし未熟な名前は、味方より、敵、差別すべき憎しみの対象を探す方に用いられる。共通の敵によって生まれる幻の味方。細胞の免疫と同じ仕掛けだ。退職したり、雑踏にまぎれたり、旅をすると、名前を失った裸の自分に出会うことになる。自分は名前ではなかったことに気がつく。そもそも自分が自分を名前で呼ぶことは無かったことに気がつく。僕や私であって、固有名詞ではなかったことに気が付く。固有名詞では自他の区分は明確だが、僕や私は誰にもあって、自他の差別や競争はしにくい。平和で安らかな気分だ。本当の自分には名前は無い。ただの僕や私で、あなたの僕や私と同じものなのだ。敵ではないのだ。

    よく使う言葉に、自分、世界、時間、未来、幸福などがある。何となく分かりきった事だと信じて寄りかかっていながら、よく考えるとわけの分かっていない言葉だ。考えれば考えるほど砂地に吸い込まれて消えていく水のような頼りない言葉だ。自分の言葉の心が未熟だからだ。

    言葉の心の働きである自分が、感覚や感情の心が映し出している現在の現実の中に迷い込んでいては、いくら言葉を作っても、未熟な言葉になってしまう。

    蟻になってテープの上を歩いているつもり。このテープをねじって両端を貼り合わせてごらん。ほら、表も裏も無くなるだろう。「何かインチキ臭い」。そうだね。表と裏は自分が作った言葉にすぎない。作った言葉であることを忘れて、言葉が絶対で、すべてが言葉の通りのはずだという思いこみがインチキなのだよ。球体である地球上の現象を見て作った言葉が、宇宙にも当てはまるはずだというのも、思い込みだよ。地球上ではすべてに行き止まりがあるから、宇宙にもあるはずだというようにね。

    天動説と地動説がある。大人は地動説の方が正しいと鵜呑みにしている。何がどうなのかは、誰が何を何処から見るかで決まるものだ。ヒトが、天を、地上から見るなら、天動説が正しい。地動説は、誰が何を何処から見ているというのだろう。ヒトではない何かつまり神や科学体系が、宇宙全体を、宇宙の外から眺めている感じだろう。学者には、そちらの方が便利だろうが、ヒトにとってどちらが正しいかは自明の理だ。

    言葉の心は、原因と結果を結び付けて理解する。しかし、見えている原因より、見えていない原因の方がずっと多い。玉がゴールに入ったら、相手が土俵を出たらすべての思考は完了、というのは気持ちが良いが、実際には、限られた情報から結論を作っているので、錯覚のゴール、癒しのゴールだ。感覚や感情の心が映し出す現在の現実にはゴールは無い。本当のゴールは、言葉の心で作る未来の目印だ。

    言葉の心は、何事にも、これとあれ、始まりと終り、原因と結果があるはずだと思い込んでいる。個々の命の現象も、木の葉の様に一つ一つ別々だと思ってしまう。実際は35億年以上前に生えて、今も葉を繁らせている一本の木なのだ。

    受信しただけの言葉は、外界からの刺激と同じだ。感覚や感情の心にとどまってしまう。消化して自分の言葉にしなければ自分の言葉にならない。それなのに自分の言葉だと錯覚して信じてしまう。

    未熟な言葉は、言葉の心の働きである自分を、感覚や感情の心に先祖帰りさせてしまう。感情を駆り立てる言葉だ。掛け声、応援、非難や中傷などだ。自分を乗っ取り操る言葉もある。経験、実績、権威などだ。

    言葉の心は、不幸から幸福、貧から富、苦から楽など、感覚や感情の心に生じる不満から、対の反対概念を言葉で作る。不幸や貧や苦は不満を表現する言葉だ。幸福や富や楽は不満を解消する目標として作り出した言葉だ。自分を不幸だと思っている人は幸福という言葉を思う。自分を不幸だと思っていない人は、幸福という言葉を思わない。逆に今を失うことを恐れ、不幸という言葉を思う。不満だと思えば幸福が生じる。満足だと思っても不幸が生じる。不満を満たしても一時の癒しで、満足はすぐに消える。幸福とは、不満な現在の現実を左右逆転して映す鏡像で、鏡像は水面の月のようで、掴むことはできない。つまり幸福に救いは無いのだ。

    鳥の生態の記録番組を見た。環境に適応して、様々な行動をする。ほとんどは脳に生まれながらに仕込まれたプログラムの通りだが、人と同じ知恵の働きも感じた。動物の行動を本能だと片付けてしまうことが多いが、本能とは何かを考えると、人も似たり寄ったりだと分かる。人を特別視するキーワードに「考える」というのがある。考えると言っても、やはり言葉の枠組みは本能と同じようにあって、脳に仕込まれたプログラムの通りだ。目的があって、正誤、善悪、差別があるのもその現象だ。

    脳の働き方の問題か、言葉の構造上の問題か、どちらにしても、○×や善悪、正誤、敵味方という風に、二元論に行き着いてしまう。この文も、同じだ。感覚や感情の心と言葉の心、つまり癒しを求める心と救いを求める心の二元論だ。世界は自分の中に作られ、そこではこの二つの力がせめぎあっているのだ。これがヒトの言葉の心の中で生じている物語だ。

    小学校に入って、数え方を習った。リンゴが一個とミカンが一個で、全部で二個と言うので分からなくなった。リンゴとミカンは同じ一個ではない。リンゴ同士だって一つ一つ違って、同じ一個ではない。リンゴと象と家と星は全部で4つだと教えられる。リンゴが3個と象が5頭います。全部でいくつと聞かれても困る。画用紙にリンゴや象の絵が1つずつ書いてあって、画用紙は全部で何枚でしょうというようなことなのだ。リンゴや象を数えるのでなく画用紙を数えるのだ。それが数字ということだ。それはそれでうまいやり方だが、無理もある。何が書いてあるのか、どちらに価値があるのかは無視して、リンゴも象もただの紙にしか思えなくなる。大人になると、言葉の心の支配が強まる。世界が抽象的に見えるようになる。感覚や感情の心で見ることが減ってくる。子供のような好奇心や、ちょっとしたことに驚いたり感動する力が失われてくる。結果、言葉も貧弱で未熟になる。

    どうしても、終点、結末、終わり、ゴール、果てを考えてしまう。果てが無い、何も無いと思うと不安になる。人生を表にして、各段階を定めて、最後は病院やお寺や墓に至る。その後は、法事、極楽へと至る。本当は果てやゴールは無いのだが、作って安心しようとする。一枚の細長いテープを用意する。端から始まり、反対の端で終わる。表と裏がある。テープの端と端をノリで貼る。端がなくなり、始めも終わりも無くなる。テープを一回ひねって端と端をノリで貼る。表と裏がなくなる。地球は球なので、地の果て、海の果ては無い。地の始まりも海の終わりもない。地球は球体なので、上も下も表も裏も無い。宇宙となると形すら無い。自分の始まりはというと、生まれた時だと思うかもしれない。自分は何なのかによって違う。DNAだと思えば、35億年前に生まれたということになる。体だと思えば母体に受胎した時からだし、言葉の心の働きだと思えばそんな自分を言葉で自覚した時だ。

    自分が生み出した言葉に自分が囚われて、思考が拘束されてしまうことがある。対策としては、日記や俳句や短歌を書いて、その言葉を自分から離して観察することがいい。自分という殻から脱皮させるのがいい

    平安時代には、科学知識が少なかった。言葉に出来ないことが多かった。結果、恐怖や不安を生じることが多かった。言葉にしてしまえば恐怖や不安は消える。今の私たちはどうすべきだろう。科学知識は未知や虚無を言葉にしてくれる。結果、みんなを恐怖や不安から解放してくれる。しかし科学知識の生み出す言葉には、自分がない。みんなの言葉だ。その意味で、科学知識が生み出す言葉は、救いではなく癒しだ。科学知識に救いを求めるのは、癒しに救いを求める錯覚だ。

    夜の8時、母の家からの帰路、電車に乗った。隣では若いOLが、スマートフォンで、画面を忙しく動かしていた。何かを検索しているのだろう。昔のヒトでは考えられないくらい、広範囲からすばやく情報を集められる時代になった。しかし、情報は、自分の感覚や感情で受け止めて、それを言葉にするプロセスで身につくのにと思う。言葉がどんどん流れ込んでも、感覚や感情の心が動かされなければ虚無だし、感動しても言葉に出来なければ、未消化な言葉として身につくことになる。未消化な言葉は感覚や感情の心の支配を受けている。感覚や感情の心は受身だから思考はせずに信じるだけだ。妄信の正体は未熟な言葉の心が罹る病気だ。途中から小学6年生らしき男の子が乗ってきた。塾の帰りらしかった。携帯の端末でサッカーのゲームに夢中だった。駅を出るとパチンコ屋があって、多くのヒトが出入りしていた。感覚や感情の心の興奮の虚しさをどうしたら理解させられるのかと思って暗澹とした気分になった。

イ.癒しが救いを擬態する。癒しが、言葉の心に、救いを得たと錯覚させる。

    感覚や感情の心にとって、違いや変化は、刺激で快感だ。快感は癒しで、言葉の心の働きである自分が求める救いではない。退屈だとする。変化や刺激で得られるのは癒しだ。退屈を我慢して得られるのが救いだ。美味しい物が食べたい。食べて得られるのが癒しだ。ダイエットなど目的に沿って我慢して得られるのが救いだ。苦痛や苦悩から逃れるのが癒しだ。苦痛や苦悩を我慢して挑戦して得られるのが救いだ。救いとは現在の現実の癒しを我慢して、願望の未来を求めることだ。

    登山をしている。感覚や感情の心が働いて、水が飲みたくなる。言葉の心が働いて、飲みすぎて体力が消耗するといけないから、もう少し我慢しようと思う。この言葉が救いだ。我慢しないで飲んだとする。喉を潤す水の感触が快い。これが偽の救い、すなわち癒しだ。感覚や感情の心には本当の救いは存在しない。飲み込んでしまえば偽の救いは消えてしまう。言葉の心が、我慢できなかった自分を責める。これが本当の不幸だ。我慢したとする。喉はヒリヒリと苦痛を訴えるが、言葉の心は自分を誉める。生きていることが誇らしく思われる。自分は言葉の心の働きだから、喉の快感よりも、言葉の命令を貫徹した方が救われるのだ。安楽の中に救いは無い。苦難がなく、努力や我慢をする必要が無い状態に置かれた時、ヒトは救いがないという意味で不幸になる。安楽の中で救いを求めても、元々救いは存在しないのだから見つかるはずも無い。自分の中に我慢や挑戦や努力を必要とする苦難が見つからないまま、外に「何かいいこと」を求めても、感覚や感情の心の一時の癒ししか得られない。

    言葉の心には癒しは生じない。大脳新皮質の言語野に、言葉の組み合わせの整合性が生じるだけだ。それによって記憶の過去や願望の未来の整合性が生れる。言葉の心の働きである自分が満足する。これが救いだ。

    救いは、言葉の心が作るもので、感覚や感情の心が感じるものではない。

    救いは、言葉の心が作る言葉つまり目的のことだ。感覚や感情の心に映る癒しの手段のことではない。

    救いは、苦難を乗り越えようとしたり、願望を実現しようとする時に生まれる言葉、目的のことだ。勇気とともに湧いてくる。結果として得た成果ではなく、言葉の心が目的を持って働いている状態のことだ。

    苦難が無ければ救いは生じない。安楽な生活では言葉の心が働かないので、偽の救いつまり癒しは得られても、本当の救いは得られない。

    言葉の心になって、現在の現実の苦難に立ち向かうと、目的の言葉が生まれ、救いが得られる。

    感覚や感情の心に生じる癒しはその場限りで持続しない。癒しは、続けばかえって苦痛になる。心身の健康も害する。そうならないように感覚や感情の働きはすぐ消えてクリアされるように出来ている。癒しに永続はない。癒しでは救いは得られない。

ウ.  幸福は未熟な言葉だ。救いを擬態する癒しだ。

    幸福とは何がどうなることをいうのか。幸福になる必要があるのか。幸福でなければ不幸なのか。普通に言われている幸福は、感覚や感情の心が癒されることのように思われる。感覚や感情の心は持続しない。外界との関係で浮き沈みする。つまり癒しは持続しない。安定しない。幸福が癒しなら、そんな幸福は陽炎のように不確かなものだ。生きる力にはなりえない。自分の言葉のレンガで自分や世界や時間を作る、つまり救いに徹した方が良い。幸福でなく救いつまり言葉の目的を目指した方が良い。

    幸福が、渇きが癒えた心の状態のことならば、幸福は一瞬のこととなる。癒えてもすぐに渇くからだ。幸福が快感のことなら、幸福は一瞬のこととなる。快感は持続しないからだ。幸福が喜怒哀楽の喜や楽のことなら、幸福は一瞬のこととなる。喜怒哀楽は感情の心の興奮なので、やがて醒めるからだ。醒めなければ醒めないで苦痛や病気に変わるだろう。本当の幸福があるとしても、感覚や感情の心のままでは、絶対に幸福になれないということだ。感覚や感情の心でいる限り、渇きと癒し、興奮と覚醒はいつまでも繰り返す。生きている限り、感覚や感情の心がある限り、これでおしまい、すべてが満ち足りたという状態は来ない。本当の幸福とは救いのことだ。救いとは願望を言葉にして作った目的のことだ。進むべき方向を教えてくれる北極星だ。本当の幸福は北極星つまり目的を実現することで得られる快感や興奮ではなく、目的を目指すこと、目指すべき目的を持つことで生じる生きようとする心の充実感なのだ。本当の幸福は言葉の心が作り出す目的という言葉だ。快感や喜怒哀楽などの興奮とは次元が違う。本当の幸福を手に入れる、本当の幸福になるとは、目指すべき目的を持てたということで、目的である何かを得ることではない。

    幸福がすべての欲望が満たされた状態のことを言うのなら、感覚や感情の心は欲望の製造機だから、感覚や感情の心でいる限り幸福にはなれないことになる。生きている限り、感覚や感情の心から逃れることはできないので、生きている限り幸福にはなれないことになる。そんな幸福を追い求めること自体が渇きを生み出し、心を不幸にすることになる。

    「幸福になりたい」と言う時、本当は、言葉の心の働きである自分が「救われたい」と求めているのに、自分が感覚や感情の心と未分化で「癒やされたい」となってしまう。子供の頃は特にそうだった。大人になって、自分は本当は「救われたい」と求めていることに気がつくと、少し迷いが晴れて、楽になった。

    今、大晦日。子供の頃は、指折り数えた正月が間近に迫り、希望が膨らみ、至福の時だった。まだ来ぬ新年は、希望の塊だった。元旦になって、お年玉をもらう。しばらくして、幸福が消えたことに気づく。正月のご馳走も、元日の朝をピークとして、普通の感じに戻っていった。幸福は、目的とする渇きが満たされる予感だ。渇きが満たされると、渇きとともに幸福も消える。つまり幸福とは目的とする渇きのことだったのだ。幸福になりたいなら、目的とする渇きを持つ。一日幸福でいたいなら、一日続く渇きを持つ。一週間幸福でいたいなら、一週間続く渇きを持つ。一月幸福でいたいなら、一月続く渇きを持つ。一生幸福でいたいなら、一生続く渇きを持つ。渇きが幸福を生み出す。渇きが、実は幸福を咲かせる種だったとは。幸福が、実は渇きという苦しみが咲かせる花だったとは。渇きによる幸福は癒されるまでの一時しか続かないが、渇きを言葉で目的にすると、永続する本当の幸福つまり救いに変わるのだ。

    危険に遭遇すると、火事場の馬鹿力が出る。脳内麻薬が分泌されて、脳や筋肉を興奮させるように出来ている。脳内麻薬は手段だ。しかし、逆転して、脳内麻薬を求めて、危険を冒すようになる。脳内麻薬の中毒になると、安全や平和を犠牲にしても、脳内麻薬を分泌させる刺激、冒険や戦争が欲しくてたまらなくなる。幸福中毒の症状だ。しかし、その未熟な幸福も、願望を言葉で目的にすると、成就を空想するだけで脳内麻薬が分泌され、本当の幸福となる。

    赤ちゃんを持ち上げたり、追っかけたり、ゆすったり、くすぐる。声を出して笑う。一見、幸福になったように見える。人と人がやり取りする物やサービスもこれと同じだ。

    喉が渇いた旅人が、地平線にオアシスの村を見つける。旅人はとても幸福な気分だろう。一歩一歩オアシスに近づいていく。旅人はとても幸福な気分だろう。泉から水をすくって口に含む。旅人はとても幸福な気分だろう。2杯3杯と口に運ぶ。幸福な気分は徐々に消えていくだろう。未熟な幸福は感覚や感情だ。未熟な幸福は、渇きがあって、それが癒されるまでの興奮だ。たどり着いたら、消えてしまう蜃気楼だ。

    未熟な幸福は、感覚や感情の心の渇きが生みだす、癒しを求めて見る夢だ。本当の幸福は、言葉の心が作り出す、願望を目的にした言葉だ。未熟な幸福は、現在の現実の不遇を現在の現実において消したいという感覚や感情の心の働きだ。本当の幸福は、願望の未来を実現したいという言葉の心の働きだ。

    幸福とは、ヒトの心の前向きな明るい心理が生み出す言葉ではなく、妬みや嫉み、憎しみのような、後ろ向きな暗い心理が生み出す言葉だと思う。言葉の心が生み出す未来の希望ではなく、競争差別の錯覚に囚われた呪いの言葉だ。未熟な言葉だ。

    幸福というパンドラの箱。飛び出すのは嫉妬、怒り、絶望、残虐、争い、強欲、いじめ、自殺、破壊。残ったものは平和。

    自分の幸福を願うと今の不幸が生じる。自分の幸福を忘れると不幸な気持ちも鎮まる。他人の幸福を願うと自分が幸せな気持ちになる。幸福になりたいと思うとかえって心が不安定になって、不幸な気持ちになる。不満になる。もっと幸福になければならないと思う。幸福は自滅へ導く強迫観念の呪文だ。

    幸福は感情だ。同じことをしても、いい気分だったり、何も感じなかったり、嫌な気分になったりする。要するに、天気のように変わる感情だ。幸福とは、何をするか、どういう環境に身を置くかでなく、ただの快感だ。幸福が物や環境から与えられる快感だと信じていると、同じ物や環境が、幸福にしてくれたりしてくれなかったり、その都度変化してしまうので、何が何だかわからなくなる。頼りない、落ち着かない世界に迷うことになる。

    感情は動く波。その上で揺られている限り自分がいる高さがわからない。その波の上で作られる未熟な言葉が幸福や不幸だ。そんな自分を星から見る、それが言葉の心だ。感覚や感情の心が映し出す現在の現実の海面から飛び上がって、言葉の心になって、星の視座から見下ろしている目だ。幸福も不幸も、はるか下に小さく点滅する下界のともし火にすぎなくなる。

    空腹が不幸なのか。満腹が幸福なのか。渇きがあると不幸なのか。渇きがなくなると幸福なのか。空腹になって不幸が生じ、食欲を満たしている間幸福が生じ、満腹になって食欲が消えて、火が消えたような、死んだような気持ちになる。老や病で食欲そのものが減退する。食事で幸福を感じる力が減退する。生きている実感、生きている喜び、生きている力も減退する。幸不幸は、生きている力である感覚や感情の心の波だ。活発な生命力が、旺盛な食欲を生じ、旺盛な食欲が強い不満や不幸を生み出し、強い不満や不幸を満たす時、強い幸福が生じ、満腹になって食欲が消えて、火が消えたような、死んだような気持ちになる。空腹と満腹を繰り返して、幸福と不幸を生み出しているのだ。幸福と不幸は生きている力という波が揺れて生じる心理現象で、幸福だけ、不幸だけが生じることは無いのだ。

    美味と信じている果物は、食べないうちは幸福を与えるが、実際に食べた瞬間、食欲や好奇心は満たされ幸福は消える。幸福は渇きが生み出す幻影だ。未熟な幸福とは、手に入れる前、口に入れる前、謎が解ける前の蜃気楼だ。満たしてしまえば、謎が解けてしまえば幸福の夢は覚める。恐竜や河童やUFOが人々に癒しを与え続けるのは、永遠の謎、つまり渇きを満たさぬまま幸福を永続させる言葉だからだ。

    幸福や不幸は、感覚や感情の心が生み出している快不快の波の上下を、未熟な言葉にした錯覚だ。

    冬の寒さがあるから春の暖かさがある。夏の暑さがあるから秋の涼しさがある。不幸があるから幸福がある。不満があるから満足がある。不安があるから安心がある。寒いから暖かい。つらいから楽がある。本当は美味も不味も必要ない。ただ腹が満ちればいいのだが、感覚や感情の心は敢えて揺れたがる。穏やかな水面より、変化の波がうれしい。感覚や感情は張られた弦だ。本当はそのままそっとしておけばいいのだが、敢えて弾かれて震えて音を奏でたい。幸福を考えてしまうのは、自分を不満で不幸だと思うからだ。

    いつごろから幸福を意識するようになったのか。よその家にあるのに自分の家に無い、よその子供はさせてもらっているのに、自分はさせてもらえない。そんな不満の中から幸福という言葉が住み着いたように思う。妬み、怒り、呪いのようなものだ。貧しい騎馬民族が長城の向こうに輝く豊かな都を思う気持ち。つまり、自分は今不幸だという言葉が生まれた時、幸福という言葉も生まれるのだ。不幸は、他者との比較から渇きを生じる人間だけにある。自分より重い病気の人を見る、自分より貧しい、苦しい、悲しい人を見ると自分の不幸が減る感じ、つまり幸福になる。インドでは最下層の人に下に、路傍のイヌや牛がいて、それらの人々を慰めている。幸福は、上を見ては他者を呪い、下を見ては自分を慰める言葉でもある。

    2時間後に、今年一番の大型台風が首都圏を直撃するようだ。TVはこの報道一色だ。海辺で風に煽られながら、実況中継する人、インタビューを受ける年寄り、アナウンサー、皆、新年を迎える時のようにウキウキして楽しそうだ。共通の敵の出現は、共通の目標を生み、みんなを結束させ、心を浮き立たせ、幸福にする。オリンピックやサッカー以上だ。きっとこの間は、自殺も減っているだろう。

    数学の難問で回答を得るのと、釣りで魚を得るのとどちらも面白い。追っかけたり推理したりして、努力の結果手に入れる。競って得る、探して見つける。獲物自体にはあまり意味がない。ボールだったり、拍手や賞賛だったり、自己満足感だったりする。お金や骨董や蝶だって、遊ぶための仮の目標だ。癒やしを求めて遊ぶのだ。未熟な幸福は、癒しを求めて努力している間生じる心理現象だ。癒しを得た途端消える蜃気楼だ。

    未熟な幸福とは癒しへの渇きのことだ。

    コマーシャルや商品は、他人の脳に幸福の幻想を起こさせて、癒しを買わせ、売り手が利益という癒しを得るための罠だ。ヒトはお互いに癒しへの渇きをそそり合っているのだ。

    デザートは何のためにあるのか。癒しには2つあって、食事で言えば、命の維持に必要なもので空腹を癒すことと、快感を求める感覚や感情の心を癒すことで、後者がデザートの役割なのだろう。

    冷たい外から暖かい部屋に入る。心地良い。暑い外から、冷房が効いた店内に入る。何ともいえない爽快感だ。昔は王侯貴族もこの快感は味わえなかったろう。冬、寒いと思う。暖房は26℃欲しい。夏、暑いと思う。冷房は24℃欲しい。私たちは、適正な気温を欲しているというより、暖かさや涼しさへの変化を欲している。適量で適質な食物というより、旨みや甘味、刺激を欲している。心の平安より、興奮を欲している。未熟な幸福とはそのようなものだ。

    飢えた動物は、獲物を求めて歩む。そして腹を満たして渇きは終わる。快感は何処にどう生じているのだろう。飢えた時に、過去の食事の快感を思い出し、食事を目指して行動を始める。と言う意味では、飢えが快感のタネを生じさせることになる。獲物を探したり追ったり捉えたり腹を満たしたりする過程で快感が開花するのだ。具体的な渇きは具体的に満たされ、終わる。抽象な渇きは、際限に無く続く。カモメのジョナサンは音速に挑戦、ついには光速に達した。暴走族は、ゴールがないので、無謀運転を限りなくエスカレートさせ、ゴールよりもプロセスで快感で癒すしかない。癒しという幸福の不毛さだ。

    癒やしは貯められない、完結できない。その都度追いかけるものだ。そして手にした瞬間消える、淡雪のようなものだ。