1)苦しみから癒やされる。苦しみから逃れるには2つの方法がある。「癒される」という逃れ方と「救われる」という逃れ方だ。まず「癒される」という逃れ方について考える。

a.    癒しを言葉にして明らかにする。癒しとは、感覚や感情の心が映し出す現在の現実の渇きや苦痛や苦悩を、感覚や感情の心への働きかけによって、現在の現実という一時だけ和らげることだ。

ア.ドラキュラの伝説は、吸血鬼に噛まれると生き血を求めてさまよう吸血鬼になるという話だ。本当は、甘い汁を吸うと、忘れられなくて、依存症になって、甘い汁を求めてさまよう吸血鬼になるという話だ。甘い汁とは癒しのことだ。生き血とは、お金で買える安楽、癒しのことだ。ハチドリは花の生き血の味を覚えて、あんな姿になった。ライオンも肉の味を覚えて、一生血生臭く生きなければならなくなった。近代文明は明るい良い方向を目指しているように見えるが、本当はみんなが吸血鬼になる道なのだ。

イ.花火が夜空を照らし続けられないように、快感は生きようとする力とは無関係に、生じた瞬間に目的を果たして終わり。快感は記憶できない、身に付かない。そんな快感という働きがなぜ脳に備わっているのだろう。生きていることに有益な行為をすると与えられるご褒美だ。そのような行為を推奨し習慣化させる仕掛けだ。そのような行為が困難な環境では生きるために有益な仕掛けだが、容易に手に入る環境では、快感の野放図な享楽に陥り、生きるためにはかえって有害な仕掛けとなる。

ウ.記憶できない、予測できないという感覚や感情の心の短所は、長所でもある。快感だけでなく、不快感、恐怖心や苦痛、悲哀も記憶できない、悩み、悲しみ、怒り続けることができないということでもある。

エ.感覚や感情の心は、安定より変化、安心より不安、平和より騒乱、日常より事件に癒やされる。要するに刺激に癒やされる。刺激が無い退屈より苦痛でも刺激そのものが癒やしとなる。それが感覚や感情の心の性だ。

オ.田舎の地図を見ると寺や神社が目立つ。薬師如来という字が目に付いた。もし今、自分や家族が不治の病だったら、きっと頼りたい気持になるだろう。迷信深いとか信心深いということでなく、誰でもそうなるだろう。言葉の心は、自分で救いを作ろうとするが、言葉にできない時には、感覚や感情の心に戻って、外の助けつまり癒しにすがるのだろう。

カ.心は、自分より暗いものを見ると明るくなる。明るいものを見ると暗くなる。だから、暗い気分なら、暗い処で、暗い仲間と、暗い話を、暗い声でするといい。悲しい人にはもっと悲しい話を、苦しい人にはもっと苦しい話を、寂しい人にはもっと寂しい話をするといいということになる。

キ.寒いと暖かさが、暑いと涼しさが、暗いと明るさが、明るいと暗さが、ありがたい。逃げられると追いかけ、追われると逃げたくなる。隠されると見たくなり、見せられると見たくなくなる。励まされるとやる気を失しない、禁止されると挑戦したくなる。与えられると捨てたくなり、欲しがられると惜しくなる。死が迫ると生きたくなり、死を忘れていると生きていることも忘れる。

ク.この世が居心地良く思われる、つまり癒しを楽しんでいる時は、自分が感覚や感情の心に囚われている時だ。動物としての心だ。現在の現実が居心地が悪い時、救いを求める言葉の心が働き始める。ヒトとしての自分の出番だ。

ケ.渇きへの癒しは、満たしたらすぐに消えてくれて、後に引かないほうがいい。空腹や疲労や眠気は良い渇きだ。生きる力の役に立つし、必要を満たせばその都度消えてくれる。いつも清らかな湧き水だ。一方で、海水を飲むように、満たせば満たすほどもっと欲しくなる癒しもある。

コ.入院してもう1週間、点滴だけで食事はしていない。胎児になったような気がする。空腹も渇きもない。目や舌を楽しませていた食事の楽しみは何だったのだろう。

サ.イセエビのテリーヌを作る料理番組を見ている。材料を見せてその新鮮さ、貴重さを話す。刻む。炒める。野菜や香辛料も由来を説明し加える。煮る。両者を型の中で合わせ、冷蔵庫で冷やし固める。取り出し方や、形を崩さぬ智恵を説きながら薄く切って、美しい皿に盛り付ける。もう十分味わった気になる。実際に食事は脳で味わっている。今回は、口からでなく目からの信号で味わったのだ。さらに数人でそれを食べ、言葉や表情で、感想を述べる。料理は脳で味わっている。口や舌の味覚や触覚は、その情報変換の道具だ。情報が脳に伝わり、快感物質が分泌されて脳が喜ぶのだ。

シ.子供は癒されることしかできない。言葉の心が未熟で、感覚や感情の心で受止めることしか出来ないからだ。感覚や感情の心のブレーキも未熟だ。だから保護者が必要なのだ。救いを求める言葉の心が成長して初めて、癒しから、保護者から、自立できるのだ。

ス.今日は米国のハロウィン祭で、TVで、遊園地の催事などを放送している。冬は心まで寒くなる感じがする。特に春の気配がない年末は、クリスマスやハロウィン、正月が温めてくれる。暖房器具や防寒着は外の寒さから、お祭りは心の内側から温めてくれる。酒のような感じだ。家庭や家族は毎日を温めてくれる。

セ.癒やしとは、感覚や感情の心にとっての、ほど良い刺激や変化のこと。

ソ.小学校の正門の近くで下校する子供達を見た。あの頃の喜びの日々を思い出した。寄り道せずまっすぐ家に着くと、母親が待っていて、ちょっとした食べ物があって、近所に夕食まで遊ぶ友だちが居だ。夜は限られたTVや本を楽しみ、宿題や明日の持ち物の準備。与えられた言葉、疑いのない夢を持ち、疑いのない世界、疑いのない願望に包み込まれて心安らかだった。

タ.今日は、台風一過、母と丹沢にドライブにでかけた。昼食に、伊勢原のファミレスで、250kcalで、塩分控えめだから、「坊ちゃんかぼちゃのグラタン」というのを食べた。小ぶりのかぼちゃを上下に2つに切って片方を容器にして、オーブンで焼いて、種があった空洞にきのこのグラタンが盛られている。味を加えない姿のままのかぼちゃをしみじみ味わった。味わわずにすぐ飲み込んでしまう蛇と違って、人は味わう。だが味は食事の手段であって目的ではない。感覚的な快感や感情的な楽しみつまり癒しは、生きる目的つまり救いではなく、行き過ぎれば心身を損なう余分な迷いなのだ。人生の感覚や感情の心に絡む楽しみ全般にも共通することだ。

チ.退屈は癒しを求める感覚や感情の心に生じる。刺激の禁断症状だ。

ツ.癒しとは、固定的、永続的に残るものでなく、その都度、その時々に生じては消える興奮なのだ。

b.    渇きと癒やしを繰り返すだけの感覚や感情の心の性質を、言葉にして明らかにする。

ア.朝日がまぶしい枝の先で、四十雀の声か聞こえる。久しぶりの暖かい朝なので、うれしそうに聞こえる。言葉にすれば、ツ・ピーとかピー・ツだが、実際に聞こえる現実の声とは違っている。言葉にならない音がある。英語のrlの発音の違いが日本語で表現出来ないように。五感はたくさんの情報を感じとっているのに、脳はそのままを言葉にできない。この世は、そんなことに満ち溢れている。皮膚なら冷たい、熱い、痛い、痒い・・・。耳となると専用の言葉はほとんど無い。目は大切なので、明るさや色、形などたくさんあるがそれでもまったく不足だ。香りも何万種をかぎ分けているはずなのに、言葉は無い。味覚で代用して、甘い、辛い、苦い、酸っぱい、塩辛い匂いというくらいだ。おまけに、それぞれごちゃ混ぜに使っている。甘い味、甘い香り、甘い響き、甘い感触、甘い色。これでわかった気がするが、実は何もわかっていない。大人になると面倒臭くなって、感じていても言葉にできないものは無視する。そのうち感じる力を本当に失っていく。生きようとする力も弱まっていく。

c.    癒しつまり束の間の安楽を得る。しかし安楽は持続しない。苦しみや渇きが追いついてくる。

ア.癒しを得る手段としての競争、差別。

  ヒトの心は、見たことのない生き物や事物に出会うと、興奮して、恐怖とも快感ともつかない緊張を生じるようにできている。生き延びる為の大切な心の働きなのだろう。

    感覚や感情の心は、刺激による興奮が好物だ。刺激が無い安全や平穏よりは、危険でも刺激がある方がましだ。退屈を紛らわすためには命も惜しまない。満腹で横たわるライオンに小鹿が近寄って挑発する映像を見たことがある。パチンコ屋に出入りする人々もそうなのだろう。今反省するに、学業も事業も、競争差別の心が生み出す興奮、つまり癒やしに囚われていた。マージャンのように勝ったり負けたりするのが癒しだっただけだ。学業も事業も、感覚や感情の心で癒しを求めてするのでなく、言葉の心で救いを求めてすべきだったのだ。事業の成功や、株式の公開や、栄光などはすべて癒しで、大切なのは生業つまり救いだったのだ。

    競争相手に出会うとうれしくなる。競争は興奮を生み出す。興奮は癒しを生じる。競争は最高の癒しだ。香道にすら競い合う組み香というのがある。ゲームも戦争も、経済活動も、競争差別の癒しを求める感覚や感情の心の働きだ。競争差別で癒しを得ることはできる。しかし救いは得られないのに、教団組織にすら位階が設けられている。

イ.癒しを得る手段としての信仰。

  自分の言葉の心に自信が持てない人は、他者の言葉を、自分の言葉とする。それが信仰だ。しかし得られるのは救いでなく癒やしだ。

  4大宗教が発生したのは、未だ読み書きがない紀元前後の時代だった。その後も庶民には、読み書きの機会のない時代が続いた。庶民の為には、読み書きや思考が不要の、既成品の言葉を与える宗教が必要だった。しかし救いに必要なのは自分を導く自分の言葉だ。宗教が与えられるのは、既成品の言葉つまり癒やしで、救いではない。

    仏教学者が、釈迦の教えを書いていた。別の仏教学者が、銀河鉄道の夜と日蓮宗の教えとの共通点を照合していた。仏教について白紙の人にとって、僧侶や仏教学者の話が救いになりにくいのは何故か考えた。説明が大前提つまり仏教から始まるからだ。話を無神、無仏から始めなくては、無神、無仏な心に言葉が届かないのだ。

    若者が、カルト教団に入ることを嘆く記事を読んだ。若い頃の自分について考えさせられた。異性との交流やヨガや瞑想のサークル活動の名目で誘うとの事。ヒトは特に若者は、なぜ惹かれてしまうのだろう。思春期の頃は、そろそろ言葉の心が台頭してきて、形が見えないままに漠然と救いを求めている。カルトは形を与えてくれるのだ。形つまり修行は偽の救いつまり癒しをくれる。偽の救いつまり癒しから逃れられなくなる。

    今日も残暑が厳しかった。母の家に自転車で向かった。途中で低血糖症の発作が起こり、全身から力が抜けた。それでも坂道を登りながら、ふと釈迦の最後を思った。高齢の身で、体調が悪いまま、托鉢の旅を続け、悪い食物を食べて下血して死んだ。托鉢は労働より楽だと思っていたが、本当は労働をして食を得る方が楽なのだと気がついた。何故わざわざ辛い托鉢をするのか、きっと大切な意味があるのだろう。考えてみた。労働は他者を癒して得る報酬だ。托鉢は、他者を救って受ける感謝だ。どちらが容易か考えなくても分かる。

    宗教教団は救いをくれるものとされている。救いは自力で思考して得るもので、与えられて得られるのはただの癒やしだ。教祖の前では自分の思考などちっぽけで、黙って信じたほうがよいように思わせられる。釈迦やキリストも、数千年間、弟子という無数の人々が各自の言葉で衣を着せて固めて、その着膨れした全体を一人の教祖に仕立てられている。それは本当の釈迦やキリストではなく、後世に作られた偽の釈迦やキリストだ。教祖や神体や仏像、荘厳な建築や飾りとしての釈迦やキリストだ。それらは、言葉の心が未熟な人々に思考を放棄させ、脳内麻薬を分泌させて感覚や感情の心を癒やさせ、服従させるための装置だ。釈迦やキリストは救いを実践して見せてくれた人であって、教団の飾り、癒やしを掻き立てる道具ではない。このような教団宗教のどこを探しても救いはなく、癒やしだけがある。

    釈迦やキリストやアッラーの教義は、個人ではなく、数千人の人間の合作なのだ。宗教を必要としているのは、個人だ。それも初心の個人だ。数千人が推敲し磨き上げた言葉では、咀嚼せずに飲み込むことしか出来ない。しかしそれでは、一人ひとりに無数に生じるそれぞれの困難や迷いを、自力で乗越えさせる救いの力など与えられない。

    宗教はアヘンだとマルクスが言った。恐れや不安や迷いは感覚や感情の心から湧いてくる。それを克服するのが各人の言葉の心の働きだ。言葉の心の働きが未熟だと、自分で言葉を生み出せない。教義を鵜呑みにしたり礼拝、念仏や呪文、儀礼を繰り返すことで、言葉の心の代りにすることになる。つまり根本治療でなく麻酔のようなものだということだ。

    家路を急ぐ。愛する誰かが、自分を待ってくれているところに向かっている時、幸福だ。死も、その先に、愛する誰かが、自分を待ってくれていると思うと、恐ろしくなくなる。葬式仏教は、あの世で家族が待っている感じにさせる。お盆やお彼岸、法要などがそう思わせる。キリスト教では、待っているのは家族ではなく、厳しい審判だ。どちらも癒やしを与えられる仕掛けだ。

    寺院めぐりのTV番組を見る。寺院の建築や仏像の色や形をしつこく描写している。感覚や感情の心に見えたり聞こえる錯覚を克服することを教えるのが仏教なのに、寺や仏像の紹介がこれでは、逆効果だ。心は目や耳から清めることは出来ない。

    世界は、体や自分のように、一人に一つずつある。一人一人が独立国の王様なのだ。宗教団体が言う神や神の国は、この独立国の王様たちを、奴隷にする為の罠だ。王国は、自分の脳の中に自分で造って、自分が支配するもので、他人の世界に連れ込まれたら奴隷だ。親や先生でも許されない。洗脳者は、自分の世界の優位をうるさく言う。でも、各人の脳内に生じている世界は、島宇宙のように、それぞれにとって唯一無二なので、他と比べられない。お手本もない。評価もない。本物偽物、優劣もありえない。勿論、領土のように、奪ったり失うことも無い。

    宗教は、何かにすがりたい気持ち、つまり癒されたい気持ちに働きかける。癒しは救いではない。救いは自分が言葉で作らねばならない。そして救いは他者とやり取りできない。それが分からない。外にあると思い込む。誰かからもらえると思い込む。救いをやり取りできるように装った教祖や教団が生じ、信者が生じ、相互の支配従属の関係つまり政治が生じる。感覚や感情の心に言葉の心が負けているのが原因だ。言葉の心を誰にも頼らずに作ることが大切だが、それとて、その方法を宗教化したりして、人を惑わせる悪用には際限が無い。

    信者である限り、得られるのは癒しばかりで、救いは得られない。信者はそのことにいつか気がつく。だから、奇跡譚や戒律や祈祷で煙に巻き続けるのだ。

    言葉が本当の神だ。言葉を自分で作れない、つまり神仏を自分で作れない者の為に、つまり言葉の心が未熟な、感情や感覚レベルで生きる人たちが捕まるのが、癒しの宗教だ。マルクスの「宗教は阿片だ」という言葉に同感だ。宗教といえば救いに導くものだと信じられている。本当は、癒しで煙に巻くものだ。過度の癒しは言葉の心の働きである自分が、感覚や感情の心に負けて罹る病気だ。癒しの宗教から身を守るにはどうすればいいのだろう。言葉の心と感覚や感情の心、癒しと救い、生きようとする力と苦難から逃避しようとする誘惑との戦いに勝つのだ。

    神や仏は外界にあるものではない。外から与えられるものではない。それぞれ自分で心の中に作る言葉の体系なのだ。

    いつも誰かに見つめられている感じがする。それは天の目だったり、他人の目のように思われる。見つめられているのは、時により、自分の行いだったり、服装だったりする。羞恥心や自尊心、恐怖や安心をもたらす。実は、見つめているのは自分の言葉の心であったことに気がつく。神は自分の中にいるという事だ。ブランド品をまとうのは、自分の中の神に気付かず、見つめているのは他人だと思いこんでいる錯覚だ。

    孫に「死んだらどうなるの」と聞かれても、答えられるようにしたいと思う。孫には、あたかもよく知っているように説明してやりたい。人は自分にとっての神にはなれないが、孫にとっての神にはなれるのだ。この世に横行している神仏は、誰かが昔、孫のために作った作り話なのだ。

    宗教は権力に利用される宿命にある。現在の現実を映し出す感覚や感情の心は暴力で支配できるが、言葉の心の働きは言葉でしか支配できないからだ。その時々の国家がつぶれても、次の国家がその装置を必要としており、教会や寺は維持される。宗教が国家より普遍性があると見間違える。アベマリアを聴く。言葉の心を感情で制圧しようとする重苦しい企みのように思える。悪い宗教は感覚や感情に働きかける。荘厳さでごまかす、悪い宗教は狭く小さな感情を押し付ける。敵味方を差別させ、競わせる。癒しはあるが、救いはない。悪い宗教にとらわれている人を信じてはいけない。それは感覚や感情の心を信じることと同じだからだ。悪い宗教は感覚や感情の心に支配された偽の言葉で出来ている。良い宗教は言葉の心の働きでできている。つまりそれぞれの自分が作り出している。

    法然というお坊さんが、ともかく一心不乱に念仏を唱えなさいと布教し、多くの人々がそれに従って、救われているのはどういうことなのだろう。言葉を唱えると脳の余分な働きを抑えるのだろう。働き方が変わるのだろう。しかし恒久的に変えるものではない。呪文のように一回唱えればよいものではなく、唱え続けるものだ。病気を治す薬でなく、健康を維持する栄養剤なのだろう。つまり癒しなのだろう。

    癒しとは、感覚や感情の心が刺激に反応して生じる興奮のことだ。祈祷やお払い、初詣も癒しだ。救いは言葉が身につくことだ。救いには興奮はない。感情の喜びもない。言葉が増し、生きようとする力が増すだけだ。強いて言えば満足感だ。救いは、日常を離れた神秘的なものでなく、日常の中で生まれる言葉の心の満足のことだ。

    ブータン国王が来て、彼の国が、国民総生産でなく、国民総幸福を指標として国家運営をしていることが評判になっている。しかし、どちらにしても癒やしの範疇だ。3人の子供の母親がいて、長男と次男が津波で流され、末っ子だけが残ったとする。長男や次男のことを考えると不幸な気持ちになる。末っ子のことを思うと、生き残ってくれたことが幸福に思える。津波で家族を亡くす前と後では、幸福や不幸の感じ方は違っている。君と僕、子供と老人、昨日の自分と今日の自分でも違っている。ブータンの農村に日本の子供を連れて行けば、きっと不幸な気持ちになるだろう。幸福や不幸は言葉の心の救いのことでなく、感覚や感情の心の癒しのことだ。ブータンの人々にはチベット仏教の信仰がある。強力な癒しの手段だ。日本人には、宗教的な癒やしは無い。国民総生産でも、国民総幸福でも、宗教でもない、新しい幸福の尺度が必要だ。癒しから救いへジャンプする言葉だ。

    人は、癒しの海で生きている。本当の自分は救いを求める情報生物なのに、気がつかないで、癒やしを救いだと思って、その頼りなさにアップアップしている。だから、宗教団体は、癒しを救いに摩り替えて、信者を集めている。しかし、信者が本当に求めているのは救いで、癒しを救いだと信者を錯覚させ、だましているに過ぎない。羊頭は救いで、癒しはその狗肉なのだが、癒しと救いは不倶戴天の敵なので、結局羊頭の救いが消えて、癒しだけになってしまう。教団には、羊頭狗肉という宿命がある。

    お金は癒しのために用いられる。お金と癒しは同じ次元の存在だ。お金と救いは次元が違う。ヒトは、お金は癒しのためには使うが、救いのためには使わない。教団の維持のために、お金を集めようとすれば、救いを癒しに変質させなければならない。救いからご利益という癒しへ、救いから資格やお札へ、商品化するとはそういうことだ。救いを癒やしの次元へ落とすということだ。

    厄落としで、お払いや祈祷を受ける人がいる。新年にお参りをして、お守りや破魔矢を持ち帰る人は多い。言葉の心の救いではなく、病気や災難から逃れるという癒やしを求めている。鬼に象徴される悪いことから守って欲しいという気持だ。自分に悪い気持が起きないように祈るなら宗教的だが、外の悪いものを防ぎたいというのは、医療や、保険や、警備サービスに近い。ドラえもんのポケットは良いものをも出す。神社やお寺のポケットはただ悪いものを吸い取ってくれる感じだ。悪いことの大半は、自分に原因があるのだが、あたかも天災のように思い込んでいる。中世のキリスト教会では免罪符が売られていた。罪の意識があるだけこちらの方が宗教的だ。結局、すべてが癒しだ。癒しだから効果は一時的なので、定期的に繰り返さなければいけない気持ちになる。寺社の利益と合致している。善男善女は癒やしに迷うだけで、救いを求めていないから、救われないのだ。

    信仰と救いと癒しについて考えた。仏像は何のためにあるのだろう。信仰のイメージを伝えるため、信仰の無い人を誘い込むため、信仰を強化するため、維持するためなら、その信仰は頼りない感覚や感情の心による一時の癒しだということになる。宗教施設やお経や呪文も、繰り返し見たり唱えなければ消えてしまう信仰を維持するためなら、そんな信仰は癒しで、そんな宗教施設や宗教行事も癒しの手段だということになる。本当の宗教は救いだ。救いは言葉で、一度得たら失うことなく身につくものだ。そうなら仏像や施設や儀式は不要だということだ。救いなら、個人の言葉の心の問題なので、教団や教祖も不要だ。

    すべてを、出来る限り自分の言葉にして明らかにしようとする生き方がいいと思う。せっかく言葉の心があるのに、感覚や感情の心のままでいることで、無視された言葉の心に生じる未来や過去についての不安や恐怖を、別の方法で固めて閉じ込めてしまおうとする。お参りやお祓い、厄除けなど神仏に任せるのだ。これは救いではなく癒やしだ。その証拠に、毎年、毎回、繰り返さねばならない。救いは言葉によるので、いったん得たら死ぬまで有効だ。しかし、抽象的な思考が困難な人々にとっては止むを得ないのだろう。

ウ.癒しを得る手段としての祈り。

  子供が親の保護を求めるように、大人が親代わりの何かに、自分を見てくれ、愛してくれ、守ってくれという気持ちを表す行為だ。得られるのは救いではなく、癒やしだ。

  特定の宗教が無くてもヒトは祈る。山や大木、滝や湖、朝日や夕日などの大自然、石碑や墓に祈る。何に向かって何をお願いしているのだろう。親のようなものに、お願いをする、甘える、身をゆだねる安心感が癒やしになるのだろう。

    孫の七五三で、神社でお払いを受けた。祈りとは何のためか考えさせられた。荘厳な雰囲気で、感覚や感情の心のざわめきを消して、言葉の心に切り替えさせるための儀式だ。出来合いの教義を押し付ける神仏でなく、八百万の神のような、雑念を消させ、思考を促す神、思考する気持ちにさせてくれる日本の神はいいと思った。

    科学者の研究も、事業家の事業も、芸術家の創作も、願望の未来を求める行為だ。願望の未来を求める行為が祈りだとすれば、ヒトはいつも祈っている。ヒトが遊んだり、考えたり、働くのはすべて願望の未来を求める祈りだ。しかし、他力に願望の未来を求める祈りは、癒しを求める感覚や感情の心が優勢で、言葉の心の働きである自分は消えている。自力の言葉で願望の未来を求める時、言葉の心の働きである自分は、救われている。

    他者に発するSOSは、癒しを求める行為だ。言葉の心の働きである自分自身に向かって発するSOSは、救いを求める行為だ。船が嵐にあってSOSの救難信号を発するのは、救いを求めているのではなく、癒しを求めていることになる。自力で排水をしたり、荷を捨てて軽くしたり、最後には救命ボートに乗り移って、陸を目指して漕ぐことが、救いを求めることだ。他者に助けつまり癒しを求める祈りが信仰だとすれば、信仰には癒しは在るが救いは無いということだ。

    信仰は、感覚や感情の心に生じる恐れの気持ちを癒せるが、言葉の心の働きである自分を救う事はできない。言葉の心の働きである自分は言葉でしか救えない。

エ.癒しを蓄える手段としての財貨。

    感覚や感情の心は、癒しを求めて、現在の現実を生きている。環境変化に出会えば、動物ならなすすべも無いが、ヒトには別に言葉の心があって、言葉で記憶の過去を探り、願望の未来を作って、現在の現実の困難を乗り越えようとする。感覚や感情の心は、現在の現実に流されるばかりだ。ヒトは未来に備えて癒しを貯めようとする。それが貨幣の正体だ。本来、癒しは、苦しみや悲しみと同じで、その場その場で消えるのが、生物としての自然の摂理だ。蓄えた癒しは、工夫や苦悩を不要にする。言葉の心を眠らせる。動物の心のままで過ごせるようにする。貨幣による癒しの蓄積は言葉の心にとっては、睡眠薬だ。貨幣という現在の現実の癒しが、言葉の心が目指すべき未来の救いを、不要にしてしまう。

    お金は癒しをやり取りする道具だ。同時に他者を癒しの道具にする道具だ。自分を他者の癒しの道具にする道具だ。

    命は増やしたり蓄えたりできないが、お金は癒しをやり取りする道具なので、お金を増やしたり蓄えることで、命が増えたり蓄えられたような、救われたような気持ちになる。命つまり救いが貯められるような錯覚を起こす。本当は癒やしの手段を蓄えただけだ。本当の救いへの努力をしなくなるという意味で、救いを失っていることになる。

    地球の資源が有限だとわかったのだから、一人一人の欲望も有限にしなければならない。欲望は何故、ビッグバンのように、生まれてから死ぬまで、膨れ上がる一方なのだろう。

    出資者と経営者が分離したのは、欲望の最悪の進化だ。一人の人間の心の中なら、命の終りや心の成熟で、ブレーキも利くが、出資者と経営者が別々では、経営者の命と出資者の欲望が切り離されてブレーキが利かない。こうなってしまうと、制御が利かなくなって暴走する原子炉のようだ。

    物の価値は、癒しの効能と供給のバランスで決まる。しかし最も重要な癒しである水や空気、太陽の光しには貨幣価値はない。星や月や良い景色も同様だ。供給が無限だからというより、個人が独占できないからだ。家族の愛情にも貨幣価値はない。貨幣で買える供給が無いからだ。それらは癒しを最高にもたらすが、貨幣ではやり取りできない。貨幣に囚われると、貨幣が目隠しになって、独占して蓄えたり、貨幣と交換できるものしか見えなくなる。癒しは貨幣で他者から買えるものだが、救いは貨幣で他者から買えない何かだ。貨幣に囚われると他者から買えるものばかりに気をとられて、肝心の救いを見失ってしまう。

    癒しと救いの見分け方。お金は癒やしを手に入れる道具だ。だから逆に、お金で他者から得られるものは、すべて癒しだ。救いとは何かを知るには、お金で買えないものというのが、キーワードになる。他者が無償でくれる、愛情や感謝などだ。中世の武家と棟梁のご恩と奉公は、癒しの授受の典型的な例だ。

    お金は、癒しをやり取りする道具だ。お金と救いは次元が異なる。感覚や感情の心を癒す物やサービスは買えるが、救いは外からもらうことはできない。

    お金は他人の力を借りて癒しを得る道具だ。貧乏のありがたさとは、癒しへの依存から強制的に遠ざけてくれることだ。必要な癒しを、自力で得ようとする気持ちを起こさざるを得ない、つまり強制的に言葉の心に切り替わる。言葉の心が育てられる。つまり強制的に救われるのだ。

    お金を目指して努力していた頃、自分にとって、お金は何だったのだろうか。その頃は扶養すべき家族がいたから、そのお金で家族を潤すことが生きる喜びだったのだ。自分のために用いれば、小さな癒ししか手に入らないが、誰かのために用いると大きな癒しを手に入れられる。しかしそれでも、いつか終わる癒しであって救いではない。

    親が子供にお金のことをなるべく教えたくないのは何故だろう。子供はまだ言葉の心が成長していない。感覚や感情の心が優勢だ。感覚や感情の心は癒しを求める。言葉の心は救いを求める。子供にとって大切なのは言葉の心の成長だ。お金は癒しをやり取りする道具だ。言葉は目に見えないから、子供は目に見える簡単に使えるお金や物がくれる癒しに惹かれてしまう。言葉の心の成長が阻害される。それを恐れているのだ。

    体の生存に役立つことをすると脳内麻薬が分泌されて感覚や感情の心に快感を生じさせるようにできている。感覚や感情の心は、脳内麻薬の奴隷だ。言葉の心は脳内麻薬とは無縁だ。言葉の心で何をしても、快も不快も生じない。満足、不満足の感想が生じ、満足を救いという。

    ヒトは他者を自分の奴隷にする為の脳内麻薬の代替品を発明した。それが貨幣だ。金が、癒しの力で他者を動かす。他者だけでなく自分も動かされてしまう。道具である金に善意や悪意はない。金を持っている人がいる。この金に目をつけ、自分の儲けを企む人がいる。金を増やす手伝いをして一部を謝礼として受け取るのだ。その活動の末端では、金を増やすために、最初の金持ちが考えてもいないひどいことも、残酷なことも平然とやってしまう。末端以外はひどいことを命令するだけで、自分がするのではないので、心は痛まない。人は癒しで、他人を操ることができる。そこで心が行動から切り離される。暴力団のように、子分に命令して見ず知らずの人に危害を加えさせることも起こる。会社でも、出資者と経営者と従業員というふうに、心と活動を分離するように出来ている。分業とは仕事だけでなく、心と体の働きも分けてしまうものだ。言葉の心を鍛えないと、癒しの力で他人に乗っ取られてしまう。辛い、苦しい、残酷、危険なことを、自分の為ならできないことを、他人に使われて、やらされてしまう。

    お金は、ヒトがヒトを支配する便利な道具だ。

    お金は癒しを手に入れる道具だ。お金の普及は、癒しばかりで、救いのない社会を生み出す。香木を取りに行った頃のラオスはちょうどその過渡期だった。

    この世は貨幣などでやり取りする癒しで出来ている。あの世はやり取りできない救いつまり言葉で出来ている。

    すべては生きている間に生じている。死んだら何も生じない。当たり前だ。救いやゴールも生きている間に実現させる必要がある。もしくは、あきらめる必要がある。何かを実現させる道具と、そのものが救いやゴールであるもの。たとえばお金は何かを手に入れる道具だ。お金は最終ゴールにはなれない。最終的に買いたいものが買えて初めてゴールだ。それは何なのだろう。漠然とした不安つまりマイナスを打ち消す道具なのだろう。打ち消すためのお守りなのだろう。本当は何かを実現するためなら良いが、その何かを持てないから、マイナスを打ち消すことが最終ゴールの代わりになっているのだろう。

オ.癒しをつなぎとめる手段としての愛。

    愛とは、癒しをくれるヒトや物や事をつなぎとめようとする感情だ。好きとは癒しをくれるヒトや物や事に生じる感情、嫌いはその逆。

    友人から久しぶりに便りがあった。京都が好きで、定年を機に東京の自宅を処分して、京都に引っ越したとのことだ。好きとか嫌いは、対象を手に入れたり逃れるために発達した、感覚や感情の心の働きだ。だから実際に手に入れたり逃れたら用済みで消えてしまう。好きな物とは距離をとって離れていなければ楽しめないのだ。

    ペットや孫は感覚や感情の心だけで愛せる。子供は責任が重いから、反抗期などは、感覚や感情の愛だけでは済まなくなる。言葉の力が必要だ。老いた両親を愛するには、さらに強い言葉の力が必要だ。DNAはヒトが幼い子を愛するようには作ったが、老いた親を愛するようには作っていないからだ。人だけが言葉の力で、老いた親を愛することができる。ペットや孫への愛は癒やしをもたらし、子や老親への愛は救いをもたらす。

    感覚も感情も、どちらも貯めておけない。感覚や感情の心は長続きしない。感覚や感情の心による愛情も長続きしない。

カ.困難を避け、安楽へと逃れる。苦痛や苦悩から逃避したり、現在の現実の安楽にしがみつくのも癒しだ。現実主義や保守主義という考え方の性向は、感覚や感情の心の、癒しを求める性向だ。

    言葉の心の働きである自分には、生老病死のように、癒しでは逃れられない苦しみが見える。

    渇きと癒しの繰り返し。救いはない渇きと癒しを繰り返すだけの、感覚や感情の心の性質を言葉にして明らかにしよう。

キ.自殺は究極の癒しだ。

    60歳の元議員が自殺したというニュースがあった。詐欺的な方法で資金を集め、訴えられて、今日が判決だったそうだ。癒しは快感を得るだけでなく、苦痛から逃れることでもある。苦しかったので、癒しを求めたのだろう。言葉で作った目的を持っていれば、苦痛や苦悩は我慢できるし、乗り越えようと努力することもできる。マラソンや登山のような喜びもある。言葉の心が折れて、感覚や感情の心に負けて、究極の癒しを求めたのだろう。恥や不安などの感覚や感情を言葉にしきれなかったのだろう。自分も会社を作り、力及ばず、心臓を病み大手術をした。もう5年経つ。言葉の心の再構築には時間がかかる。

    子供は他者からの癒しによって生かされている。大人は、言葉の心の力によって、生きようと努力している。子供の自殺は癒しの不足、大人の自殺は言葉の不足による。

    したいこと、しなければならないことのための努力は、生き物の宿命だ。しかし、疲れたり、道に迷ったり、困難に遭遇したり、勇気を失ったりして、それ以上できなくなることがある。言葉の心だけは維持して、体や、感覚や感情の心はしっかり休んで、体力や気力を回復して、再出発するといい。言葉の心を放棄して、苦悩から逃避したり、癒しに身を任せる。その究極が自殺だ。

    言葉の心は、癒しを求めないから、自殺もない。現在の現実の苦難を乗り越え、願望の言葉目的を掲げ、未来へ向かって生きようとするだけだ。感覚や感情の心が自殺に誘う。楽になろうとする。言葉の心が、感覚や感情の心に乗っ取られ、自殺を、救いだと錯覚して求めてしまうのだ。

    言葉の心の働きを持たない動物にとっては、現在の現実を甘んじて受け入れ、成り行きに任せるのは自殺ではないが、ヒトがそれをすれば自殺だ。生きようとする言葉の心が、癒しを求める感覚や感情の心に乗っ取られ、消えてしまうからだ。究極の癒しである自殺を、救いだと錯覚して求めてしまう。動物は、心と体が一体なので、心が体に危害を加える自殺はできないが、ヒトは言葉の心が体から独立しているので、感覚や感情の心にのっとられた言葉の心が、自分への殺人者になってしまうのだ。

    日常に溢れる広告宣伝が癒し万能の風潮を広げている。広告宣伝は商品やサービスの販売を広げようとするスポンサーの意図に沿わねばならない。商品やサービスはすべて癒しの手段だから、癒しへの需要を煽らざるを得ない。日常垂れ流される癒しの氾濫、癒しの肯定の雰囲気が、自殺増加の一因になっていると思う。自殺は究極の癒しの手段だからだ。

    自分は、体を生かすために備わっている、言葉の心の働きなのだ。体は、自分に関係なく、力強く勝手に生きている。体が走っている電車で、自分は、自分を運転手だと思っている乗客だ。自分は体のおかげでいるのであって、体が自分のおかげであるのではない。だから自殺は、乗客が電車を転覆させるような、本末転倒なのだ。

    みんなが属する一つの世界というのは幻想であって、この世は一人一人が生み出している自分の世界の集合だ。自分の世界がしっかりしていれば、孤独も死もまた楽しいということになる。他人の世界との狭間を調整しながら生きていることに疲れて、厭わしくなることがある。そんな時は、調整がいらない自分の世界で休めばいい。自殺は、みんなが属する一つの世界という幻想にとらわれて、その世界で追い詰められて居場所を失って起こるのだろう。みんなが属する一つの世界というのは幻想であって、そこで起こる苦痛も、人間関係も幻だ。自分を大切にするというのは、自分が外の何かの中にいる、外の何かの為にいるという、感覚や感情の心が見せる幻想から、言葉の力で目覚めることだ。

    言葉の心の働きである自分は死にたくないように出来ている。死んでも死に切れないように出来ている。これは言葉の心の働きである自分の基本的な性質なのだ。感覚や感情の心は苦難を恐れ避けようとする。その先に自殺があるのだ。

    子供が自殺しやすいのは、癒ししか知らないからだ。癒しは感覚や感情の心の働きで、甘みばかりで、生きようとする言葉のビタミンやミネラルは入っていない菓子のようだ。子供は、言葉の心の働きである自分が未熟なので、生きようとする言葉の力を発揮できず、自分で自分を、感覚や感情がくれる癒しの罠から救えないのだ。

    言葉の心の働きである自分が死について考えるのは、この体をどう生かそうか、自分をどう維持しようかということ、つまりどう生きようかということの為だ。どう死のうかということではない。死の意味を考えるのは生きようとする為だ。自分には、自分の生はあっても自分の死はない。死は生の端を表す言葉で、生の一部だ。猟師に追いつめられた鹿が、断崖から谷底にジャンプするのは、生きようとしているのだ。動物には、楽になるために死ぬという選択肢はない。言葉の心の働きである自分が、自分を感覚や感情の心だと錯覚して、癒しつまり死への逃避に誘われることがある。言葉の心の力不足だ。言葉の心は生きようとする力そのものなのだ。

    病気や事故は、体に起こる死だが、自殺は心に起こる死だ。

d.    香炉を客に廻す。

ア.自分と他者との関係を考える。

    自分を誰かに伝えたい、誰かに誉められたい、という気持ちは、子供の頃から変わらない。相手は、親から友人、先生、みんなと変わっても。芸術とは、一人一人別々にあって、互いに見えない世界を、他人と共有できるように、見えるようにすること。書は文字の意味よりも、書き手の心を伝える線の芸術だ。力強くても弱々しくても、書き手の心の状態が伝わるのがいい。ヒトに関わることでは、どちらがいいとか、こう在るべきだという定規のようなものはない。自分の心が、見る人に伝わるかどうかが大切だ。みんなそれを欲しているのだ。

    名の無い何かがある。リンゴという言葉を作る。インドリンゴも紅玉も一からげで表すリンゴ一般という見えない何かが生まれる。大きく見れば同じだという気持が生まれる。果物という言葉が生まれる。ミカンも梨も西瓜もみんな同じになる。人も、自分からみんなになって、人類になって、生き物になる。大きく見れば同じだという気持が生まれる。

    人はどのように、互いの世界にいるのだろう。会ったことがある、見たことがある、話したことがある、噂を聞いたことがある、写真や作品に登場したことがある、すべての人々は、それぞれ出会い方は異なっても、言葉として記憶され、いつまでも一緒に同じ一つの世界に住みついている。今会っていたり、すれ違っている人々は、言葉にしなければ、自分にとっては、居ないのと同じだ。

    みんなの世界とは、一人ひとりバラバラにある世界が見えず、作れず、みんなという神仏のような存在が世界を生み出していて、自分もその中に居るという錯覚が見せる幻影だ。

    にわか雨で雨宿りをして、水溜りを見ていると、大粒の雨が水面ではじける度に輪が広がる。ポトンと水滴が落ちて、王冠のように持ち上がって、勢いをつけて、丸い輪の波紋となって、広がる。水滴が落ちた場所を見ても、何も無い。私は波紋の外輪の先端だ。沢山の波紋が、互いにぶつかったり、すれ違ったりしている。小さいが勢いがある波、広がりすぎて消えかかっている波、ゆがんだ波。私より後から生まれた波が重なってくる一方で、静かに平らになる波もある。周期が、私と同調したり反発する波も来る。私は波で、互いに触れ合う度に、干渉したり、入れ替わったりしている。その度にそれぞれのエネルギーのやり取りがされている。ラオスで蝶を採るフランス人からこんな話を聞いた。蝶の話を挿入。密林の薄暗い空間に舞う大きな蝶を網に入れる。蝶が暴れて翅を傷めぬように、胸をつまんで命を奪う。その時蝶の命の鼓動と温もりが指先から自分の中に入ってくる。

    「自由を得る」とは、何かを得ることでなく、隣人との関係を失うことだ。その関係の中には、支配、干渉という圧力もあるが、共生や協力もある。宗教は庇護と引き換えに、支配、干渉を受け入れるという意味で不自由なことだ。哲学は自由を得る道だ。言葉の心の働きが弱い者は宗教、強い者は哲学が好きなのだろう。宗教は他力。哲学は自力だ。宗教は生きる苦痛を消すための沈静薬だ。生きるのが困難な時代は、麻酔としての宗教が必要だったが、平和な時代、自力の哲学がよいと思う。

    言葉は、言葉の心の働きである自分と、他者の言葉の心の働きである自分が交信する手段だ。自分は言葉の心の働きなので、言葉を交換したり共有することが至高の喜びなのだ。

イ.自分とみんなの関係を考える。

    みんな、世間、人々、我々の正体を言葉にして明らかにする。

    白雪姫の継母が、鏡に世界で一番の美人は誰かを尋ねる場面がある。鏡とは何なのだろう。鏡はその前に立った時しか映さない。つまり現在の現実しか映さない。鏡には記憶力がないから過去は映らない。鏡には思考力がないから未来も映さない。こんなものに、大切な自分の評価を任せていいはずがない。カメラも鏡とどっこいどっこいだ。現在の現実しか映せない。映した瞬間、現在の現実に取り残されて、記憶の過去に埋もれてしまう。勿論未来は映らない。一世を風靡した有名人も、老いたり、死んで、マスコミに出なくなると、あっという間に消えてしまう。鏡とは、感覚や感情の心が作り出す現在の現実、みんなとか、世間、人々や我々と言う時に生じる心の状態のことだ。

    言葉を生み出す力が未熟だと、本当の自分が作れず、感覚や感情の心に映るみんなという仮想の自分に寄りかかってしまう。みんなという錯覚に迷わされてしまう。

    本当の自分は言葉の心が作り出すものだが、みんなとは感覚や感情の心が映し出す現在の現実だったり、未熟な言葉だったりする、幻覚の自分だ。

    言葉の心は、鍛錬をしなければなまくらのままだ。言葉の心がなまくらだと、自分もなまくらなままになる。みんなに乗っ取られてしまう。それが、大衆心理や神仏、悪魔や幽霊だ。その正体は、なまくらな言葉としての自分つまりみんななのだ。言葉の心が成熟すると、自分がはっきりと固まってくる。言葉で自分や世界を作り、自分の言葉で世界に対応するようになる。

  自分の世界とみんなの世界。

    箱根の見晴台にいたら、女性のグループの話声が聞こえた。景色と地名の照合競争をしている。知っている地名と景色が合致すると、ご馳走を食べたのと同じように、景色を自分のものにした気がするのだろう。名前つまり言葉を共有すると一人一人バラバラで寂しかった世界が一つになった気がするのだろう。とくに最初に名を当てた人は、コロンブスのように、アメリカ大陸を発見した気分になるのだろう。名前を共有しただけで、すべてが共有できたと思えるのだろう。

    みんなとか世間という大きな人格のようなものがあると思っているが、実際は何も無い、一人ずつの隙間だらけの宇宙なのだ。世界は、外でなく、一人ずつ各々の心の中にバラバラにあるのだ。みんなで一つの大きな世界にいるのではない。一人ずつの世界がみんなにバラバラにあるのだ。

    自分をみんなの一部だと錯覚すると、自分をみんなの目で見るようになる。自分が希薄な感じになる。見栄や外聞などによる自殺もこのように生じるのだろう。心には2つある。現在の現実を他者と共有している感覚や感情の心と、自分の世界や時間を生み出す言葉の心だ。言葉の心が生み出す自分や世界や時間こそが本当なのだが、感覚や感情の心が映し出す他者と共有できる現在の現実の方が本当の世界のように思われる。癒しを求めて、現在の現実への依存が強くなり、他者に翻弄されて自分を見失うことになりやすい。碇の無い船のようにみんなの世界という錯覚の海をさまようことになる。

    子供に、世界地図を見せて、これが世界だと教える。子供は、世界は自分の外にあって、勝手に広がっていて、自分にはどうしようもない絶望的な広がりだと思ってしまう。子供に、歴史年表を見せて、これが歴史だと教える。子供は、自分と関係なく川のような時間の流れが在って、自分はなすすべもなくその中を流されていると思ってしまう。子供に、科学技術や社会制度の発達、政治や経済の発展を見せて、この先に未来があると教える。子供は、未来とは、自分と関係なく、誰かが作っているみんなの世界で、そこに加わって何かをしたり、何かになったりしなければ、自分の未来は無いと思ってしまう。子供は、与えられる世界や時間を受け入れるだけで、生み出せない大人になってしまう。

    行く年来る年という番組が好きだった。除夜の鐘が鳴り始めて、中継で神社や寺や集落の行事が映される。仏像や刀鍛冶や能舞台や、護摩供養、境内に並ぶ人々、北国の雪の庭などが映される。暗闇のあちこちから新年という時間が湧き出してくる感じがした。新しい年とは何だったのだろう。それは感覚や感情の心がみんなと何かを共有した喜びだ。意味は無い。言葉ではないからだ。ムードだ。ある年を境に、大晦日には虚しさがこみ上げてくるだけになった。高校生の頃だ。みんなと共有できない言葉の心の働きである自分が育ったせいだろう。

    漢字検定事件は悲しい出来事だと思う。不正がでなく、たくさんの人が検定に惹きつけられた事がだ。自分で自分に価値や存在意義をつけられない。何かで誰かに決めてもらわなければ、不安だ。その何かが、漢字の読み書きという愚にもつかない競争だ。鏡に映らなければ自分が消えたと思い込んでしまう。元々心に関わるものは鏡には映らないのに。本当は、自分は言葉の心の働きであって、他人に評価してもらう漢字の知識ではないのに。誰かに問題を出してもらい、採点してもらわなければ、自分の存在が生じない。子供の頃、大きな子が仕切っていた遊び仲間に入りたくて、遊びに参加したくて、身もだえしたことを思い出す。子供は自分を建設中で、他者の鏡に依存せざるを得なかったのだ。

    イワシの世界。群れの中の位置で自分を理解している。安全な少しでも中心に潜り込もうと、渦をまいている。群れから外れると自分は消えてしまうと思い込んでいる。

    本当の世界は、言葉の心の働きである自分が言葉で作った言葉の塔だが、感覚や感情の心には、現在の現実として外にあるように見えてしまう。幻想の自分、つまりみんなという大きな何かが、実在しているように思えてしまう。

    感覚や感情の心には自分は居ない。なぜなら、感覚や感情の心は、川面の泡沫のように止まることなく消えてしまうから、自分に固まらない。記憶に残らず、自分が作れない。言葉の心になって初めて、自分が生じ、世界や時間を作る。感覚や感情の心には自分が無い。みんなという集団の一部になる。付和雷同したり、快不快や喜怒哀楽をみんなと共有することが、自分だと錯覚してしまう。

    他人と同じは嫌だが、違いすぎるのは怖い。結局平均を目指すことになる。みんなという平均値付近を果てなくウロウロすることになる。

  自分の時間とみんなの時間。

    時間には三つある。DNAが刻む細胞の時間と、感覚や感情の心が刻む現在の現実の時間と、言葉の心の働きである自分が生み出す過去や未来の言葉の時間だ。一人一人別々にある。歴史や、物理の公式や、暦やカレンダー、時計の文字盤は、共有できるように言葉で作ったみんなの時間だ。

    中学で初めて英語を習った時、動詞には現在形、過去形、未来形があり、その順で教わった。それまで時間を意識した事はなく、英語はなんてめんどくさいのだろうと思った。自分の前に未来があり、後ろに過去があって、自分が現在だ。時計の針が現在で、針の進行方向が未来で、後ろが過去だ。カレンダーの昨日より前が過去、明日より向こうが未来、今日が現在だ。歴史の授業で習うのが過去だ。現在と記憶の過去だけが真実で、未来は、漫画や小説でしか語られない、共有するに値しない空想だった。本当は逆なのだ。未来こそが真実で、現在や過去は未来の実現のための手段なのだ。

    現在、過去、未来は、天候や季節と同じような外界の現象のように思われるが、実際は、脳の働きが生み出している心理現象だ。その証拠に、昨日のことを話し合えば、みんなそれぞれ違う昨日だったことがわかる。感覚や感情の心が現在の現実を作り出し、言葉の心が記憶の過去や願望の未来を作り出している。感覚や感情の心への刺激は、人により別々なので、みんなで同じ昨日、今日、明日が見ているというのは幻想だ。自分だけの心理現象である時間を、他者と共有させようと編み出したのが、時計や暦や歴史や星の運動などだ。

    人はなぜ時計を持つのだろう。みんなの時間をみんなと共有するためだ。

    朝日に惹かれて、そちらに進んでいく。自分の外で地球の自転が加速する。みんなの時間も速くなる。夕日に向かって進んでいく。自分の外で地球の自転が減速する。みんなの時間が遅くなる。

    中学生の頃、ミロのヴィーナスやモナリザが来日、上野の美術館へ見物に行った。大変な行列で、入り口から出口まで張られた誘導のロープに沿って歩いて通り過ぎるだけだった。係員が、地獄の鬼のように、立ち止まらないで前進するように連呼していた。みんなの時間はこの鬼なのだ。

    SFで、未来や過去から来て、現在の現実を変えようとしたり、現在から行って、未来や過去を変えようとする話がある。過去は言葉の記憶で、現在は感覚や感情の心の興奮で、未来は言葉の願望だ。それぞれ脳の働き方の違いだ。外界の空間を行き来するような、現在、過去、未来間の移動は妄想だ。ここに生じている、現在、過去、未来はすべて、各個人の心に感覚や感情の心や言葉の心として生じている。一人一人別々に生じている。言葉で過去の記憶を変えることは可能だ。未来の願望を変える事も可能だ。現在の現実は、感覚や感情の心が受動的に映し出す興奮なので、変えるのは困難だ。

    「百万年は、人類にとっては気の遠くなるような長さだが、地球にとっては、瞬きのような時間です」というナレーションがあった。時間とは何なのだろうか。宇宙や地球にとっての時間と、人類にとっての時間と、自分にとっての時間があるということか。ネズミの寿命は1年、犬や猫は10年、象や鯨でも50年ちょっとという。小さい動物ほど鼓動が速く、寿命も短い。鼓動の回数を時間の目盛りにすれば、寿命に差がないことになる。人間の鼓動を目盛りにして計るから、ネズミや犬や猫は人より寿命が短く思われるのだ。太陽系の惑星にとって、太陽を一周するのが1年だとすれば、金星は225日、地球は365日で、地球の1年の方が長いことになる。この宇宙に、時間について考えるヒトが出現する前は、この宇宙に時間はなかった。時間があるとすれば、今生きている自分が、地球を自分に見立てて、自分の時間の目盛りで考えた時に生じる言葉なのだ。時間は一人一人別々に生じる。主語抜きで、物差しで計るように何気なく言っている時間は、仮想の時間だ。考える主体である心がいなければ世界も時間も存在しないのだ。

  自分の願望とみんなの願望。自分の価値とみんなの価値。

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