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1.祖父が語る、言霊の海。

(1) これから辛いことにたくさん会うだろう。原因はすべて自分の心、感覚や感情の心にあるのだが、自分を観察分析することは難しいから、原因も対策も見えずに、右往左往してしまうことになる。幽体離脱は、霊魂が、死んだ体を天上から見下ろしているという迷信だが、先人が残した言葉が、幽体離脱した霊魂のように、自分を観察分析する視座を与えてくれるのは、誰もが、日常、経験することだ。

(2) 幼稚園の頃、子供同士の争いや、大人の世界の訳の分からなさに混乱して、今よりずっと悩んだ事を思い出す。自分は何処から来て、何をしたら良いのか知りたかった。「手を繋いで。聞いて。見て。教えて」という、幼い脳の助けになれればと思う。病気の牛から種痘が取れるように、救いのワクチンは、苦しんだ人の心から取れる。私のワクチンも、それなりに効くとうれしい。誰だって、生まれて、生きて、死ぬ意味が知りたい。せめて心の取扱い説明書くらい欲しい。いざという時、それがワクチンになる。60余年、生きてみて分かったことを、ここに記す。

(3)                   言霊の国から言霊が会いに来ることもある。しかし、ほとんどは、言葉の心が、自分の中にあるパズルの台にはまるピースを求めて、つまり救いを求めて、言霊の海に探しに行く場合が多い。おまえが大人になって、車を運転している時、行く先々で同じ色の信号が続いたら、わしが何かを伝えたいのだと思ってくれ。虹だったらおばあちゃんからだ。そんな時には、周囲に注意を払ってごらん。きっとどこかに伝言があるはずだよ。本当は、見えるすべて、感じる全ての現象は、40億年バトンリレーをしてきたご先祖からお前への助言なのだ。それを読み取れるかどうかは、お前の心次第なのだ。

(4)                   言霊には、優劣や新旧、正誤、順位、前後や起承転結などない。順不同、玉石混交だ。どの言霊も、或る時、或る人にとって、かけがえのないものだったのだ。その人が発信した言葉が言霊になって、人類の共有財産となった今、またいつか、誰かにとって、かけがえのない言葉になるかもしれない。言霊には善悪は無い。受け取る側の用い方次第で、善にも悪にも働く。言霊は言葉の心の道具なのだ。

(5)                   これまでの人生を振り返って思う。本当に大切なのは、客観的な、具体的な知識より、主観的な、抽象的なことが見える言葉の心の力だと気がついた。眼前の現在の現実に流されない為にも、自分や世界や、記憶の過去や願望の未来を言葉で築き、しっかり持つことだと気がついた。客観的な、具体的な知識は大切だが、その基礎は主観的、抽象的な心の土台の上に建てられる。客観的な、具体的な知識を受け入れる前に、受け皿としての自分の確立が必要だ。自分とは、世界とは、過去や未来とは、という問いへの答えだ。過激思想や、宗教原理主義に対する抵抗力も、この受け皿の器の大きさに比例する。受け皿とは言葉の心の働きのことだ。若者は、言葉の心が未熟だから、客観的な世界観を装った、過激思想や宗教原理主義に取り込まれてしまう。ヒトとして生きるとは、言葉の心で感覚や感情の心を制御することだ。オウムでは、多くの理工系や医学系の学生が巻き込まれた。客観的な世界観だけでは、邪念への抵抗力、本当の考える力は育たないということだ。哲学は技術の師になるべきなのだろうが、科学を越える哲学を、人類はまだ持っていない。一人ひとりが、自分で作るしかないのだ。

(6)                   現在の自分が、未来の自分と出会う。今日、2歳半の孫に滑り台につきあわされた。うれしそうに笑いかけ、手招きし、話しかけてくる。自分の祖父との体験、回り将棋やはさみ将棋を教えてもらっている場面を思い出す。うっすらとしか覚えていない。言葉の心が未熟だったからだ。あの時、祖父が本当に教えたかったことは、幼い私には、まだ無理だったのだ。自分も今、同じ気持ちだ。言葉を書き残そう、それしかないと思った。

 
 

2.言霊の海。

(1)                   香木の香りを単語にした。その単語は、官能のイメージと意味が重なる単語を選んだ。

(2)                   例えば、金という名前の香り。甘く、キラキラ輝く香りは、黄色い山吹の花に、光と少しの赤が混ざった、金を思わせる。もし金に香りがあれば、こんな香りだろうと思う。そして、心も、勇気を奮い起す時、心はこんな香りを発するだろう。勇気をくれる言霊の香りにふさわしい名前だ、という感じだ。

(3)                   そして、心の各段階を表す言霊の海の名として、順番に並べた

(4)                   それが、虚無、甘、辛、苦、花、渋、木、橘、乳、銀、金、白金の12の分類だ。

 

(5)人の香り。虚無。

@    感覚の心にとっては、その感覚器官を刺激するものだけが在るのであって、物質や現象として存在していても、その感覚器官で感知できなければ、無いのだ。逆に言えば、物質や現象として存在していなくても、その感覚器官が刺激されれば、在るのだ。本当の心は言葉の心だ。物質や現象として存在していてもいなくても、感覚器官が刺激されてもされなくても、言葉として知っていれば在るし、言葉にできていなければ無いのだ。その立場で言えば、感覚や感情の心に映る現在の現実は、本当は無いのだ。言葉にした時に、自分や世界や、記憶の過去や願望の未来として生じるのだ。

A    前の席にあるTレックスの化石の頭骨に話しかける。前方に開いた大きな2つの窓。鼻先には銃の照準のように突起がついている。脳があった空間は思ったより狭いね。ヘリコプターの操縦席のようだ。おまえはここに座って大きな機体を操縦していたのだね。ここにはおまえはいない。機体をカモフラージュしていた肉も皮ももうない。風防のガラスだった目玉も外れたままだ。おまえは肉でも皮でも目玉でもないが、同じように消えてしまったのだね。

B    朝日がまぶしい枝の先で、四十雀の声か聞こえた。久しぶりの暖かい朝なので、うれしそうに聞こえる。ツ・ピーとかピー・ツと聞こえるが、うまく言葉にできない。この世には言葉にできない音が満ちている。五感では感じているのに、言葉にできない。この世は、そんなことに満ち溢れている。香りも何万種もかぎ分けているはずなのに、言葉はただ5つ。甘い、辛い、苦い、酸っぱい、塩辛いだ。皮膚なら冷たい、熱い、痛い、痒い・・・。耳となると専用の言葉はほとんど無い。目は大切なので、明るさや色、形などたくさんあるがそれでもまったく不足だ。おまけに、それぞれごちゃ混ぜに使っている。甘い香り、甘い響き、甘い感触、甘い色。これでわかった気がするが、実は何もわかっていない。大人になると面倒臭くなって、感じていても言葉にできないものは無視する。そのうち感じる力を失っていく。生きようとする力も弱まっていく。香りは、香木や火加減や体調や環境で、まったく違う感じを与える。その時の香りが、その時のその人の命そのものだ。命は一瞬ごとに火花のように生じては消える。香りは、昔から線香の煙をイメージして、この世とあの世の、魂の通い路と言われるが、外の世界のものが内側の世界への入り口を通る時の形だと考えてもいい。すべての感覚についても同じことが言える。

C    感覚や感情の心には、事物の変化と差異しか見えない。言葉の心の働きである自分が見ているのは事物の象徴としての言葉、物語しか見えない。どちらも対象自体は見えない。自然科学や、宇宙物理学も、究極のところは言葉なのだ。観察者がヒトである限り、そういうものなのだ。それ以上と言うか、以外と言うか、その先は虚無なのだ。

D    瞑想とは、感覚や感情の心を鎮静させることだ。ここで止まれば、つまり言葉で自分や世界や時間を構築しなければ、癒しという、虚無で行き止まりだ。

E    虚無とは、何も無いということではない。事物として、在っても無くても関係ない。言葉になっていないという意味だ。言葉の心の働きである自分の埒外だということだ。想像もつかない宇宙の果ても虚無だろうが、日常見ている現在の現実も虚無なのだ。

F    平安時代は、使える言葉に限界があった。言葉に出来ないことばかりだった。言葉に出来れば恐ろしくなく、合理的な対処法も見えたろうが、生活に追われた庶民は勿論、貴族すら、恐ろしいことばかりだった。程度の違いこそあれ、今の私たちも同じだ。

G    感覚や感情の心にとっては、見えない、感じられない、しかし存在するように思える事物は、ただ恐ろしい。だから自分の死についても、感覚や感情の心でいる限り、恐れおののくばかりだ。要は心の切り替えだ。言葉の心になればいいだけだ。

H    感覚や感情の心は、世界が実在している、と感じている。感知している現在の現実を自分や世界や時間だと思い込んでいる。現在の現実の具体的な世界の中に、抽象的な言葉である霊魂や超能力、死後の世界を混入してしまう。言葉の心が成長すると、別々の次元として見ることが出来るようになる。

I    生物が刺激を受けるたびに、神経システムの中に一瞬だけの現在の現実が生じる。感覚は、火花のようで、刺激とともに生じ、刺激とともに消える。そこには、自分も世界も時間もない。虚無だ。

J    無意識の時は、感覚や感情の心になっていて、体として生きていると思っている。自分が信号だとはわからず、自分が体だと錯覚している。あたかも、体として外界にいるように錯覚している。

K    この世は確かに存在しているかのように見える。私の体も、活動も、関わる物も、そう見えるが、毎日変化して、川の流れのように、一寸も同じ状態に留まらない。高速度撮影を見れば、よく分かる。

L    感覚や感情の心は、現在の現実という宿命に、生きている。安楽を求める心。苦痛、苦難、苦悩から逃避しようとする心。癒しを求める心。虚無の中をさまよう心なのだ。

M    自分にはすべてが見えていると思っている。しかし蝶のようには、風の道は見えないし、クモのようには、明日の天気も見えない。犬のようには、昨日の匂いも見えない。小さいバイキンも見えないが、大きい空も見えていない。肝心の空気も見えないし、愛してくれる人の心も、見えていない、地球の裏の戦争や、悲しむ、苦しむ心も見えてないよ。

N    自信満々の孫悟空は、観音様の手のひらの5本の指を超えて出ることが出来なかった。感覚や感情の心でいる限り、五感が映し出す現在の現実を超えることはできないという意味だ。

O    目が見えるから、目にだまされる。耳が聞こえるから、鼻が利くから、味が分かるから、感触が分かるから、言葉が分かるから、だまされる。

P    魚釣りをする。釣れる。とてもうれしい。でも魚を引き寄せて見るとみんなトカゲばかりだ。お金を拾う。木の葉ばかり。言葉の心の働きである自分にとっては、現在の現実とはこういうことだ。

Q    入り口で、1円玉が無尽蔵に取り出せる財布を渡される。何でも1円で買える。買った瞬間快感が走る。籠に入れる。重いなとか、飽きたなとか、もっといいものがあったと思うと、買ったものが、自然に、日向の雪のように籠から消えてしまう。この店にあるものはみんな、1円のものばかりだと気がつくと、買い物がしたくなくなる。その意味でこの店の正体は、現在の現実だった。

R    幽霊は、言葉にし切れない感覚や感情が、見せる幻想だ。言霊は、個人を離れた言葉だ。

S    癒しと救い。癒しとは、感覚や感情の心、つまり動物としての心の渇きを満たすこと。救いとは、言葉の心つまりヒトとしての心の渇きを満たすこと。癒しをむさぼっている間も、これでいいのかという言葉の心の渇きが聞こえてくる。他者を癒すと、自分の言葉の心が満たされた感じがする。そしてその満足感は身について一生離れない。これが救いだ。癒しを与えるべき相手がいない。これが虚無だ。

21    感覚や感情の心、つまり体の心、つまり本能は、現在の現実に居る。現在の現実において必要とする事物以外には興味を持たない。物を収集し蓄えるのは、物を言葉と錯覚した言葉の心の働きである自分の仕業だ。物を収集し蓄える事について言えば、胃袋など体の受容能力の限界がある。言葉の心の胃袋は抽象的な仮想の胃袋なので、限界が無い。本来は言葉で埋めるべきなのだが、感覚や感情の心に惑わされて、物で埋めようとしてしまう。物を収集し蓄えるのは、的外れな行為なのだ。

22    隣国との競争が激しい。注目を集めるべく、競争差別の感情をあおるニュースを大きく取り上げている。個人を越えて、集団としても感情が盛り上がっている。生物にとって攻撃や被攻撃は最重要だ。ヒトも感覚や感情の心の第一の使命だ。競争差別、攻撃や被攻撃は強い酒のように感情の心を酔わす。ヒトラーはいつの時代にもいる。

23    自己満足。自分を喜ばせることを目的にしている限り、癒しばかりで救いは無い。

24    老人と少年がいるとする。二人とも、特に差し迫った病は無いとする。今日明日に死ぬ確率は二人とも同じだ。却っていろいろ活動する少年の方が高いくらいだ。それでも老人は余生の短さを嘆く。少年は、人生がいつまでも無限に続くように思っている。なぜだろう。老人は言葉の心で過去や未来が見えている。終点が見えている。若者は言葉の心が未熟で、感覚や感情の心が見せる現在の現実という永遠の世界に居るからだ。

25    現在の現実とは、個別の生物の体内で、感覚器官が作り出す信号のことだ。その現在の現実は、作り出したその生物だけのものだ。現在の現実とは、外界のことではなく、感覚器官内の信号のことだ。何かが外界に在っても、感覚器官が感知しなければ無いし、外界に無くても、感覚器官が感知すれば在る、という程度のものだ。

26    子供の頃、蝉を捕まえたかった。捕まえたセミは騒ぐだけで鳴かず、しばらく経つと動かなくなった。本当は蝉の楽しそうな鳴き声を捕まえたかったのだ。大人になっても、似たようなことばかりやってきた。現在の現実とは、そんなものだ。

27    絶望しているとする。それでも空腹になる。とりあえず、食事をする場所に向かっているとする。心に灯がともった感じだ。絶望は言葉の心の話。空腹は感覚の心の話。感情の心は行ったり来たりするだけだ。腹が満ちたら、感覚の心だけでなく感情の心も眠くなる。言葉の心もしばし消えている。しかし、目覚めれば、絶望は何も変わらない。

28    永遠とは何だろう。時間が消えて、時間は言葉だから言葉が消えて、動画がフリーズして、写真のように固定した状態のイメージだ。永遠とは、感覚や感情の心が支配する心の状態、動物の心の状態のことだ。自分は言葉の心の働きだから、そんな自分にとっての永遠とは、虚無だ。言葉が無い、記憶の過去や願望の未来が無い、現在の現実という牢獄に囚われている状態のことだ。ふと永遠を感じたり、憧れたりすることが在る。そんな時は快楽に酔ったりして、言葉の心を忘れ、感覚や感情の心にどっぷり浸っている状態なのだ。

29    欲望とは、現在の現実の中で、癒しのための事物を得ようとする感覚や感情の心の働きだ。願望は、記憶の過去や願望の未来の中で、救いのための言葉を得ようとする言葉の心の働きだ。お金は、現在の現実の中で、癒しのための事物を得るための道具だ。お金には自他の欲望を操る力が有る。しかし自他の願望は操れない。さらに癒す手段は得られても、救いの手段は得られない。食物は得られても、食欲を得ることはできない。お金は、癒しは買えるが、救いは買えない。お金は相手に癒しを与えられるが、救いは与えられない。癒しを我慢すると、言葉の心が感覚や感情の心に打ち勝ったことになり、結果救われることになる。ヒトは、動物としては現在の現実の癒しを求めている。ヒトとしては願望の未来の救いを求めている。お金は、そのうちの癒しの部分をカバーする力がある。しかし救いの部分には無力だ。お金は、自分で生産できる分だけで満たされるなら不要だ。不足分を買うというのもしかたがない。しかし、すべてを買おうとするのがヒトの性だ。ヒトは本来、怠け者なのだろうか。否、生産の喜びを求める者だ。しかし、生活物資でなく、買う道具であるお金を生産しようとしてしまうのが誤りなのだ。

30    今、自分はどこで何をしているのだろう。現在の現実は、いつ始まり、いつ終わるのだろう。現在の現実は、感覚や感情の心の働きが作る情報だ。現在の現実は、感覚や感情の心が見せる一瞬の刺激の連続だ。現在の現実には時間が無いという意味で永遠だ。過去の記憶にも未来の願望にもならない。その場限りで、始まりも終わりも無い。現在の現実に囚われてしまうと、生きてきた自信も、生きていこうとする勇気も、いつか死を迎えるのだという納得も持てない。来し方も行く末も見えず、ただ現在の現実にしがみつき、死を恐れるだけになる。

31    グルメ番組を見た。イタリアのシェフが、キノコとブランデーとチーズでスパゲッテイを作って、出演者が美味しいと連呼している。本当はその先がヒトとしての在り方なのだが、その前で止まってしまった。美味しいという単なる感覚や感情の言葉だけでなく、もっと個性的な言葉にして、自分や世界や時間を表現するのがヒトとしての在り方なのに、その前で終わってしまっている。周囲の現在の現実を見渡せばそんなことばかりだ。

 

(6)甘の香り。快楽。安楽。

@    アメ玉を口に入れた。ほんのり甘かった。1個ずつ異なるフルーツのフレーバーが入っていた。入れた瞬間、爽やかで美味しい香りや味がする。しばらくすると無味無臭になる。感覚細胞が慣れてしまったのだ。在るようで、実は何もない、蜃気楼なのだ。舌先の感覚としては確かにあるように思えるのだが、栄養を必要とする体にとっては、虚無なのだ。

A    脳が、言葉の世界構築より魅力的だと錯覚してしまうような、感覚や感情を刺激する遊びは遠ざけた方が良い。感覚や感情の心の興奮は、言葉の心など簡単に吹き飛ばしてしまうからだ。宿題がある子供に、ゲーム機を持たせるようなことか。

B    釈迦の二枚舌。体の糧が無ければ、救いを得るための努力は出来ない。一般人は、体の糧を得ることが優先で、救いを得るための努力は出来ない。誰か、泳げるであろう人に掴まるしかない。自分も、救われる資格のある人と一緒なのだという安心感、つまり癒しを受ける。僧は、そういう人々に、救いを求めている自分の姿を見せ、掴まり料、つまり布施を受ける。しかし、その修業は、本当は自分の救いのためであって、そういう人々の救いの為ではない。

C    蝶の気持ち。今飛んでいる蝶は、自分が歩いている時と同じ気持ちに違いない。驚いて舞い上がった蝶の気持ちは、自分がびっくりして飛びあがった時と同じ気持ちだろう。

D    感覚や感情の心は、変化や違いを見ている。人でなく、その人が自分とどう違っているか、どう変化しているかを見ている。変化や差異しか見えない。本当の姿を見なければならないのに。言葉の心の働きである自分にとっての本当の姿とは、言葉、意味なのだ。

 

(7)辛の香り。苦痛。

@    砂漠の熱い砂の上を渡ってきた風のように、鼻の奥を乾燥させ、ヒリヒリさせる感じ。

 

(8)苦の香り。苦悩。

@    自分を体だと思いこんでいると、自分も周囲と同じ生生流転をしているように思え、心細くなる。言葉の心の働き、つまり情報である本当の自分は、体とは別の次元の存在なのに、それが理解できていない為の迷いだ。自分が体で、現在の現実にいると思っているうちは、安心は無い。現在の現実をさ迷うことになる。現在の現実には、言葉の心の働きである自分の居場所は見いだせない。

A    その日は、一人暮らしの母の体調が優れないので、実家に泊まる事にした。母は何度も礼を言い、すぐに安らかな寝息を立てた。暗闇で寝付けずに居ると、お母さーん、と呼ぶ声がする。切実な声だ。寝言だ。昔自分が母にしたのと同じだ。辛い気持ちになった。

B    動物はそれぞれのレベルで脳の働きを発達させて、感覚や感情の心を造っている。ヒトは、大脳新皮質が発達した分さらに言葉の心が加わる。言葉の心の働きという情報である自分は、物ではないので、物である外界や自身の体と「自分」の間に、違和感が生じるようになる。息苦しくなる。物の世界が水中で、情報の世界が空中のようなものだ。ハイギョのように両方で呼吸ができなければ生きにくい。そのことに気づかないと、自分の居場所がない感じになる。物である体の中に、情報である自分が生じ、葛藤している。

C    世界の富の半分が、人口の1%に集中しているというニュースが流れた。年末には、フランスの経済学者の「21世紀の資本」という本が世界的なベストセラーになった。貧富の差の拡大を緩和するため富裕層への課税を高めよという趣旨だ。シリア、イラクの無政府地帯にイスラム国が生まれ、インターネットで、世界中の若者に参加を呼び掛けている。イスラム教徒ばかりでなく、格差社会に絶望した若者が流れ込んでいる。ここで考えたいのは、個体と個体の争いでなく、個体の中での、感覚や感情の心と言葉の心の戦いだ。これが解決しなければ、個体と個体の争いは解決しない。オウム真理教の最後の裁判が開かれている。他人や社会を変えようとするのは、イデオロギーであって宗教ではない。宗教はあくまで自分を変えようとするものだ。大切なのは、一人の中での、感覚や感情の心と言葉の心の鬩ぎ合いなのだ。

D    釈迦やキリストなど宗教の開祖と言われる人が、自分の為の修行では飽き足らず、布教という道に進んだのは何故だろう。理由を二つ考えた。一つは、自分で自分を救うことはできない。もちろん他者を救うこともできない。他者を癒すことだけが出来る。他者を癒すと、自分に救いが生じる。自分を脱皮する事が救いだからだ。もう一つの理由は、ヒトは、体と心で出来ている。体、つまり感覚や感情の心は現在の現実つまり衣食住の癒しを必要とする。言葉の心は言葉つまり記憶の過去や願望の未来に、言葉、つまり救いを求めている。修行では、心の癒しは得られるが、体の癒しは得られない。体の癒しは、自給自足か、他者からの施しを受ける必要がある。自給自足でも、土地などの生産手段について、世俗の権力と共存しなければならない。癒しは、他者に癒しを与え、その対価として得るが、救いは他者に癒しを与えて、対価を求めない時に生じるのだ。それが布教だ。

E    苦しみを「寒さ」に例えて考えた。寒さに弱いエスキモーの少年がいたとする。たき火をして一時の暖を取るのが癒しだ。常夏の国ハワイへ移住するというのは救いだ。衣食住を工夫して防寒着や防寒の家を手に入れるのも救いだろう。苦しみが、老病死ということなら、老病死の無い国も、老病死を避ける工夫も無い。苦しみは、感覚や感情の心が映し出す神経の興奮だ。感覚や感情の心でいる限り、現在の現実に居る限り、苦しみから逃れられない。しかし、苦しみを抽象的な言葉にしてしまうと、感覚や感情の心を鎮静する事が出来る。言葉は鎮静剤なのだ。香木にも鎮静作用が在る。「そんなことはどうでもいいのだ」という気分になれる。

F    言葉であの世を作る。あの世は感覚や感情の心が映し出しているこの世とは異次元にある。言葉の心が作り出す言葉の世界だ。ヒトの心は二つの世界を絶え間なく行き来している。それがヒトの心の在り方だ。動物にはこの世ばかりで、あの世は無い。人はこの世にあの世を作ろうとする。それが苦の原因だ。

 

(9)花の香り癒し。

@    感覚や感情の心に癒しをくれる。

A    春の膳。

1)    重箱の隅をつついて精をつけ。

2)    菜の花を手向けられたるメバルかな。

3)    花影で虚空を睨むメバルかな。

4)    とこぶしが二つ重なるめでたさよ。

5)    卵焼き黄色いぼんぼり灯が灯る。

6)    母と妻、幾たび食えるか、春の膳。

 

(10)渋の香り。言葉。

@    道について考えた。柔道や剣道はスポーツではなかった。茶道や香道はゲームではなかった。体や、感覚や感情の心、つまり本能を鍛え、競うのがスポーツで、言葉の心を鍛えるのが道なのだと思う。言葉の心を鍛える手段として、体や、感覚や感情の心、つまり本能に試練を加えるのだ。鍛錬を手段とするか、目的とするかの違いだ。

A    自分や世界や時間を言葉で説明してみよう。もしできないというなら、原因は、自分や世界や時間を五感で感じるものだと誤解しているからかもしれない。自分や世界や時間は見聞きできるものではなく、言葉で作るものだ。だから、自分や世界や時間は、現在の現実の中には無いし、五感で感じることもできない。見えたり触ったりしているのは、動物としての本能が見せる現在の現実、つまり虚無だ。なぜ虚無かというと、ヒトとしての自分は言葉の心の働きだから、自分にとっては、現在の現実には言葉が無く、居場所が無いからなのだ。つまり説明できないというのは、動物としての世界に安住していて、ヒトとしての自分や世界や時間を持っていないということで、説明能力以前の問題なのだ。具体的な事物と、抽象的な事物。目や耳など五感で感知できる事物を具体的な事物と言う。言葉で作っている事物を抽象的な事物という。Aさんに感じられても、その他のヒトには別の感じがしたり、感じなかったり、というのが具体的な事物の限界だ。言葉にすると、抽象的な事物に変わり、他の人にも伝え、共有することが出来るようになる。抽象化するという。ヒトは言葉にしない限り絶対的に孤独なのだ。自分や世界や時間が、その人固有の五感で感知している具体的な事物である限り、他者にも、自分自身にすらも説明できない。共有できないのだ。

B    人は、他の動物より脳の働きが発達している分、欲望や感情の起伏も深い。だから、我慢したり、紛らわせたりして、抑制する働きが必要だ。強力なエンジンには強力なブレーキが必要なように。それは脳の中に自力で造らなければできない後天的な働きだ。第3の目、つまり言葉の心の働き、つまり本当の自分を作るのだ。

C    感覚や感情の心で受信する現在の現実、それは瞬間の火花だ。それとは別に、言葉で作る記憶の過去や願望の未来という世界がある。自分とは、感覚や感情の心の働きではなく、言葉の心の働きだ。そんな自分にとって、本当の世界とは、感覚や感情の心に映る現在の現実のことではなく、言葉の心が作る言葉の世界、つまり記憶の過去や願望の未来だ。快不快、喜怒哀楽の興奮は、感覚や感情の心に生じるもので、言葉の心には無い。という意味で、言葉の心はいつも平静で、安らかだ。

D    今朝、米国発のニュースを見た。株式市場が活況で、今後数年続くと、評論家がうれしそうに話していた。市況が変われば逆の表情になるのだろう。投資家心理という当てにならない波の上で踊っているのだ。この世界に救いは無い。救いとは自身から発する光のようなものだ。小さくても、乏しくても、自ら発する光だけが心を温めてくれるのだ。自ら光るホタルには救いがあるが、太陽を反射するだけの月には救いは無いということだ。言葉の心のことだ。

E    ガラパゴス諸島の海イグアナの生態の番組を見た。自然や天敵からの防御、仲間との競争、食物の獲得など、ヒトと同程度かそれ以上の知恵を発揮している。違うのはそれが本能つまり感覚や感情の心の働きだということだ。現在の現実においては、ヒトも本能つまり感覚や感情の心で活動していて、それは他の動物と同じだ。違うのは、言葉の心の働きが有って、状況を言葉にして、仮想の演習、つまり思考ができることだ。逆にいえば、言葉の心で言葉を作らなければ、動物のままであって、ヒトとしての能力を発揮しきっていないということだ。現在の現実の中でも、ヒトはヒトであって、他の動物より優れた存在だと思っているのは、誤解なのだ。記憶の過去や願望の未来に居る間だけ、ヒトなのだ。種(しゅ)としてのヒトに生まれただけでは、まだヒトではないのだ。

F    動物にも、敵が来たとか、食物が有る、快不快や喜怒哀楽など、現在の現実について情報交換をすることが出来る。しかし、互いの記憶の過去や願望の未来を伝え合うことは出来ない。それ以前に、記憶の過去や願望の未来そのものがない。抽象的な事物は、言葉の心にしか作れないし、見ることも出来ない。

G    現在の現実という虚無との戦い。それが、言葉の心の働きである自分の使命だ。体は現在の現実の中を漂っていて、現在の現実をおろそかにすれば命も危うい。しかし、現在の現実にとらわれれば、現在の現実の苦難を乗り越えて願望の未来を目指すことはできない。言葉の心の働きである本当の自分の居場所がなくなり、虚無主義、快楽主義、刹那主義などの絶望に陥り、苦難に打ち勝とうとする気力も湧かず、生老病死の苦にも耐えられないで、ゆっくり退行することになる。

H    生物の絶滅についてのテレビ番組を見た。絶滅の原因は、惑星の衝突、火山の噴火などだ。最後は、人類の活動の拡大に伴うCO2の増大だ。人類の活動を変えるには、人類の心の進化が必要だ。CO2を生じさせずに、本能である競争差別や癒しの欲を満たす為の技術開発が必要だ。しかし、感覚や感情の心がそそのかす欲望は、満たせば満たすほどエスカレートしていく。それよりも、大元の、一人ひとりの感覚や感情の心を抑える言葉の心の成長こそ究極の対策だ。感覚や感情の心が求める欲望を、言葉の心の願望に切り替えるのだ。感覚や感情の心言葉の心で、もう少し余分に制御するのだ。

I    脳の各々の働きは、秋の山肌を覆う色とりどりの紅葉のように、あちこちに同じ色がかたまって、点在している。神経細胞の誕生以来、無数の働きが生まれ、膨大な数の銀河のように散らばっている。そのほとんどは、自分が自覚できないままに、勝手にチカチカ光っている。神や悪魔や超能力のような働きも隠れている。しかし自覚できるのは、感覚、感情、言葉の心などほんの一部だ。さらに、そのほとんどは不随意つまり勝手に働いていて、随意なのは言葉の心だけだ。

J   今、草むらで「鐘叩き」が鳴いた。細い足と薄い羽をこすり合わせる。同類に話し掛けている。私にも話しかけてくる。この方法で交信していた共通の祖先がいたのかもしれない。

K    食事と心について考えた。体は栄養やカロリー、感覚や感情の心は味などの快楽、言葉の心は健康を求める。

L    心のダム。色々な刺激や情報がとうとうと流れ込んでくる。これはここ、あれはあそこという風にすぐに分類できればいいが、そうはいかない。時々湧いてくる言葉の断片もそうだ。ダムの無い川では、ちょっとした大雨でもすぐに氾濫してパニックになったり、利用する前に海に流れて行ってしまうことになる。心にダムを作ろう。仮置き場だ。それが大人の心になるということだ。

M    遊びには2種ある。1つは、快楽を求める感覚や感情の心にとっての遊び。もう一つは、その遊びの誘惑に打ち勝つ言葉の心の遊びだ。願望の未来の目的の為に、現在の現実の困難に挑戦し、我慢し、努力する遊びだ。幸福を求める遊びだ。

N    感覚や感情の心の喜びは、その欲求を満たされる喜びだ。毒を反対の毒で中和する喜びだ。その場限りの喜びだ。言葉の心の喜びは、感覚や感情の心の邪魔をして、打ち砕く喜びだ。その方法は、言葉にしてしまい、それを否定する言葉を作る事だ。悲しい、寂しい、虚しい、恐ろしい気分を打ち消す。これらの感情の暴走は、言葉の不在から来る。言葉がその薬だ。

O    感覚の心に生じる苦痛には、癒しで対処できる。つまり寒さには温かさ、空腹には食物で対処出来る。感情の心に生じる苦悩には、言葉による救いが必要だ。悲しさも寂しさも、虚しさも、恐ろしさも、言葉にすれば、感覚や感情の心は興奮の無い、ただの言葉になってしまう。

P    興味のある人にとっては、香木の部分、部分のそれぞれにそれぞれの個性があるように思える。興味のない人にとっては、ただの木片に見える。通りすがりの人も、興味を持って見れば一人ひとりが見えるが、興味を持たずに眺めれば、流れる集団のように見える。香木に限らずすべてについて同じ事が言える。

Q    科学には実験と理論がある。具体的な現象について、具体的な仮説をたて、具体的な実験で具体的に再現出来る現象を真実とする。しかし探求が進むにつれて、抽象的な性格が深まり、具体的な実験が困難になっていく。具体的な実験で証明された仮説を絶対的な真実としているが、それは「具体的な世界で具体的な方法で証明された現在の現実」にすぎない。言葉の心が居る本当の世界は言葉で作る抽象的な世界なのだ。実験科学は、本物を偽物に置き換える作業なのだ。感覚や感情の心がはびこる世界なのだ。

R    ながらえば、またこの頃や、しのばれん。憂しと見し世ぞ、今は恋しき。百人一首。小野の小町。現在、過去、未来のすべてが詰まっている。

S    小鳥の言葉とヒトの言葉。家の近所に大きな林があるせいか、毎朝、小鳥の声で目を覚ます。ヒヨドリの声が、言葉として聞こえるようになった。5月の繁殖期になると、スピークとかハークションになる。6月には、「ヘイミスター、上手に絵が書けるよ」になる。ヒトも彼らも、本能によってさえずっているのだ。大部分は同じなのだ。ヒトの言葉の心はこんな本能から出発したのだろう。

21    昨日、やさしく、分かりやすい詩を書いていた詩人が亡くなった。詩人は逆の哲学者だ。抽象的な世界を、具体的に、感覚や感情の実感を添えて、現在の現実として提供する業だ。言葉の世界を感覚や感情の世界に、戻すのだ。

22    夕焼けで寂しい気持ちになる。思い出して、痛い、息が詰まる、胸が苦しい、居心地が悪い。甘い、懐かしい、温められる。たそがれ時、のっぺら坊や死んだ肉親や、久しく会えない知人に出会う。幻想だと思うか。生きて見えているものがすべてが幻想の世界なのだから、これはこれで、実際に見えているのだ。

23    お盆には地獄の釜が開くという。「お盆ってなに」孫に聞かれて話したこと。言葉の心の世界が表に出てくる日。自分に見えているのは、この世界のごく一部だと教えられる日。体は場所や時間を越えて繋がらないが、心の世界では、死者の心といつでも繋がっている。いつでも会いに行くことができると教えられる日。

24    救われるとは、言葉の心の話だ。信じる言葉を得ることだ。要するに言葉の問題だ。

25    相手に課す「こうしてはいけない。こうしたほうが良い」ではなく、自分に課す「こうしたい。こうしかできない」。自分の脳の働きを自己観察する。

26    言葉の心は、目的がわからないままでは進めないようにできている。自分がどこから来た何なのか、ルーツも知りたがる。

27    世界と言うと、どんなものを思い浮かべますか。物で思う時には、地図(2次元)、地球儀(3次元)、天体図、などに思える。人間関係で思えば、生活圏、社会などに思える。世界はあるようで無い、無いようで在る、わけの分からないものだと分かる。自分が生きている世界(現在の現実)、自分が生きようとしている世界(記憶の過去や願望の未来)が、一人ひとり別々に、さらに同一人物でもその時その時で別々に生じているのだ。どれか一つが本物だというのでなく、どれがその時の心の働きなのかということだ。動物としての世界、つまり感覚や感情の心に見える世界がある。蟻は、仲間がつけたにおいの道を辿る時は、においの点を合成して線が想定できる場合、足取りが自信満マンに見える。においの点が疎らだと心細げだ。においの点が無い場所では、世界を見失ったかのように右往左往している。ヒトで言えば点は言葉に当たるのだろう。蛾の♂は、♀が出すフェロモンの粒子か、空気の振動か、それ以外の何かかは、定かではないが、その点や線を辿って、♀の居る場所に、遠くからやってくる。言葉の心の働きである自分にとって、言葉の点こそが、道であり方向であり、目的なのだ。

28    ここはどこか。自分が虚無の中に作っている言葉の世界だ。外界がエネルギーと物質でできているように、ここは言葉でできている。外界では、エネルギーが循環しているように、ここでは言霊が行き来している。言葉の世界は、一人一人の言葉の心に個々に生じている。言葉の世界は、ヒトの数だけあって、体とともに生じ、体とともに消える。脳神経の信号が生み出す言葉の世界。体は感覚や感情の心が映し出す現在の現実にいるが、自分がいるのは言葉の世界、つまり記憶の過去や願望の未来だ。自分は心、それも言葉の心の働きだ。自分も世界も時間も、言葉で自分が作っている。

29    見えなければ感知できない。五感で感じなければ理解できないと思っている。本当は見えたり聞こえたり五感で感じることと理解する、つまり言葉にすることは別なのだ。見えたまま、聞こえたまま、感じたままでは、理解は出来ていないのだ。理解するとは言葉にすることだ。記憶して過去の知恵にしたり、目的にして未来に挑戦するためだ。抽象的なもの、つまり言葉で出来たものは見えない。聞こえない。五感で感じない。しかし、言葉の方が、本当の意味で、見える、聞こえる、五感で感じるのだ。

30    癒しを求めている時に救いの話を聞かされても、逆でも、ありがた迷惑だ。

31    死を迎えるための施設。病院は生きるための、具体的な処方をする場所なので、抽象的な死は不本意に突然やってくることになる。本人も家族も、現在の現実という偽の明かりに目を向けて、死から目を背けて、大切な最後の時間を浪費してしまう。病気の人は勿論、健康な人で、間もなく事故にあう人、さらに今は見えなくても必ず死ぬ人として、ここで過ごしているのに。ここはどこだろう。一人に一つずつ在る言葉の心が作る言葉の世界、黄泉の国だ。

32    ヒトは言葉にそそのかされて、動物ではしないようなひどいことをしてしまう。そしてそれが言葉の記憶になって脳に刻まれる。一生その責め苦を受けることになる。

33    「自分は何処からどこへ」。こういう話を知りたくなることがある。こういう話は学問のように客観的に観察したり、実験したりできるものではない。誰かに教わるのでなく、自分の頭で生み出す、自分だけの物語だ。泡沫のように、浮んでは消え、その度に内容が変わっている。脳の中で堂々巡りをしている時に、ふと別次元の世界の存在に気がつくのだ。天井を見上げたらそこに在ったという感じだ。

34    休みだったので早朝に散歩をした。駅前の喫茶店の窓から外を眺めていた。出勤時間帯なので沢山の人が改札口へ吸い込まれていく。人々の群れを見ているうちに、昔、仕事で、沢山の人に迷惑をかけたり、期待を裏切ったり、意地悪をしてきたことが思い出され、悔やまれた。ヒトは何をもって、相手を、良い人、悪い人、どうでもよい人に分けるのだろう。感覚の心、感情の心、言葉の心のそれぞれに違う基準が有るのだろう。あの頃は、それが悪い事だとは思わなかった。昔の記憶が、針になって、刺さってくる。日が経つにつれ、言葉の心が育ち、善悪の基準が厳しくなっていく。自分で自分を罰する。言葉の心はそのように出来ている。

35    子供のころ本で得た宝島のイメージがある。宝島は、感覚や感情の心で現実に実感できる島というより、島の在り処を書いた地図や伝承の物語だ。地球の特定の一点ではなく、言葉だ。もし現実に見つけてしまえば、そこはもう宝島ではなくなる。宝島は抽象的な言葉で、現実の島ではない。それでは、空想の産物、むなしい蜃気楼かといえばそうではない。感覚や感情の心のまま、宝島を実際の島と思えば、物語の宝島は虚しい蜃気楼にしか思えないが、本当の自分は言葉の心の働き、つまり情報生命体なのだ。そんな自分にとっては、土と岩でできた島こそ空想の、むなしい蜃気楼で、宝島という言葉こそ、本物なのだ。

36    竹取物語。幼いかぐや姫の感覚や感情の心に映る現在の現実がこの世だ。成長したかぐや姫が言葉で作る記憶の過去や願望の未来があの世つまり月の世界だ。不思議の国のアリス。退屈な午後が現在の現実であるこの世、ウサギの穴の奥が、言葉で作る記憶の過去や願望の未来、つまりあの世だ。かぐや姫は行ったきりで戻ってこない。アリスは、また現在の現実に戻ってくる。かぐや姫はもう大人で、アリスは、感覚や感情の心に支配されて、まだ刺激を楽しみたい年頃の子供なのだ。

37    浦島太郎が浜辺で亀を助ける。つまり言葉の心に目覚める。亀つまり言葉の心に乗って竜宮城つまり言葉の国へ行く。言葉の心で記憶の過去や願望の未来を作りそこに遊ぶ。生まれ育った村が感覚や感情の心が映し出す現在の現実のこの世で、竜宮城が言葉の心が言葉で作り出すあの世だ。あの世つまり言葉の心にとっての世界は、楽しいことばかりで、不老不死だ。しかし、感覚や感情の心は強力で、この世に帰りたくなってしまう。戻ってみれば荒涼として何も残っていない。居場所が無い。竜宮城と生まれ育ったこの村と、どちらが本当で、どちらが夢なのか。玉手箱の煙は、現在の現実が虚無に誘う力の象徴だ。この後、浦島太郎がどうなったかは書かれていない。言葉の心に再び切り替わって、竜宮城へ戻って、言葉の世界に遊び続けたのか、玉手箱によって現在の現実に引き戻されたまま、感覚や感情の心のまま、荒涼とした浜辺をさ迷い、朽ちたのか。

38    桃太郎。桃太郎は言葉の心の象徴だ。言葉の心が少し成長して、願望の未来、つまり鬼が島という目的が出来る。猿(勇気)、犬(我慢)、キジ(努力)という言葉の心の力を従えて、目的の鬼が島に向かう。現在の現実を乗り越え未来に挑戦する物語だ。鬼は感覚や感情の心が映し出す現在の現実、つまり虚無の象徴だ。虚無を言葉に変えて、言葉の宝をたくさん持ち帰る。言葉の心が成長しましたとさ、という話だ。

39    正邪や優劣、好悪という差別の世界から抜け出したい。劣等感や優越感から自由になりたい。勝ったとか負けたとかのもやもやから逃れたい。しかし感覚や感情の心のままでは、無理だ。事物を言葉にしてしまえば、感覚や感情の心の色眼鏡から解放される。淡々と受け入れ、分析し、必要なら反省や作戦を立てることも出来るようになる。

40    自分は、一生かけて何をしてきたのだろう。積み上げることができた確かな物は何だろう。昔の喜怒哀楽の感情は薄れ、記憶の染みのようだ。疑問や悩み、苦しみのほうが、はっきり残っている。「苦しきことのみ多かりき」ではなく、快楽は記憶できないだけなのだ。確かに残るものは、疑問、悩み、そして自分が作った答えだ。心に積もった疑問や悩み、答えこそ生きた証だ。でも、どれほどできたのだろうか。疑問や悩みに目をつぶり、答えも探さず、自分は何をしてきたのだろう。今からでも遅くない。

41    航跡はどこに残るか。船か、海か。航海日誌だ。言葉だ。

42    水や豆腐、蕎麦は、禅味とか無の味と言われる。ドンブリに醤油とねぎと胡麻油数滴を入れる。うどん玉を温めて湯を切り、投入、掻き雑ぜてすする。醤油もねぎも胡麻油も香りが生きて、のど越しもよい。20年前の、日本画の大家の話だ。若い頃、食事時間が惜しくて、こればかり食べ続けたとのこと。食事は命の手段で、命は絵を描く手段だったのだろう。仕事は命の手段で、命は食事の手段というフランスのジョークを思い出した。

43    アメリカの国立公園で、野生の動物を観察するトレッキングのTVを見た。途中、林の奥の草地に寝ている熊を発見、息を潜めて観察していた。熊は気付かず眠り続けていた。熊が感覚や感情の心で、見ている人が言葉の心だ。宇宙には情報生物である宇宙人がいて、人類を観察して楽しんでいるのかもしれない。その手段が、一人ひとりに仕掛けられた言葉の心というカメラなのだという空想だ。その宇宙人は、昔から神と呼ばれている。その正体は、一人一人が持っている言葉の心だ。

44    くっついてくるもの。追いつけないもの。振り切れないもの。月、影、感情。

45    電車で、車窓の景色の進行を鏡に写すと、逆方向に走っているように思える。地図では前だが、心象世界では、後ろに進行している。どちらが真実か。心象世界の、後ろに進行が真実だ。事実と真実の違いだ。

46    芭蕉が、白内障手術の際に詠んだ俳句を見つけた。(症状)目にはカバー じゃまほっとけず 初カット。(入院)行く春や 鳥啼き魚の 眼は泪。(手術)目には青葉 山ほととぎす 初がつを(退院)あらたうと 青葉若葉の 日の光

47    名の無い何かがある。リンゴという言葉ができる。インドリンゴも紅玉も一からげで表すリンゴ一般という、見えない何かが生まれる。大きく見れば同じだという気持が生まれる。フルーツという言葉が生まれる。ミカンも梨も西瓜もみんな同じになる。人も、自分からみんなになって、人類になって、生き物になる。大きく見れば同じだという気持が生まれる。本当の言葉の力は、細かく分類するのでなく、大きく一つにする力だ。

48    言葉の心にとっての知る喜びは、感覚や感情の心にとっての食べる喜びと同じだ。

49    ふくろうは、現在の現実という昼間は眠り。時々、声だけ響かせている。夜、記憶の過去の森に、願望の未来の月が昇る。言葉の心のふくろうの出番だ。

50    一人の脳の記憶を蓄える神経細胞のシナプスは、宇宙の星の数より多い。だから、一人の欲望の井戸は、宇宙のすべての星を注いでも満たせないほど深い。だから、脳の欲望を満たすには、脳自身が生み出すものでなければならない。言葉だ。

51    私は3人いて、それぞれ別の世界に居る。その世界は決して1つにはなれない。一人目の私は、この世界全体を遥か遠くから観察している。この世界を自分の中に作っている。この世界は自分と共に始まり、成長し、終わる。残りの2人の私は、地上にいて、他の多くの人々に混ざって、その一員として生きている。一人目の私が言葉の心で、別の2人の私が感覚の心と感情の心だ。言葉の心の働きである私は、感覚の心と感情の心である私を、遥か上空から、「ウォーリーを探せ」のように見ている。ほとんどいつも、自分を感覚や感情の心だと錯覚している。時々、ひどい目に合って、反省する。

52    信じるな、疑えということ。信じるとは感情の心の働きだ。疑え、は言葉にして考えろという言葉の心の働きだ。そういえば、昔堅気の職人が弟子に、「習うのでなく盗め」というのも、こういうことだったのだと思う。技術は、教えを請うのでなく、盗めという。それは、受動的に与えられるのではなく、能動的に取りに行けという意味だ。言葉は物とは違って、受け取ることは難しいということだ。脳の中に世界を作るには。受け取った言葉は素材にすぎない。組み立てるのは自分自身だということだ。

53    写真には風が写らない、会話も写らない、ぬくもりや香り、振動や感触も写らない。流れているものは写らないのだ。昨日、愛川村の喫茶店の庭で、風の交差点を見つけた。午前と午後の境目にあった。梅雨の晴れ間、さわやかな風、山間の草の斜面に青空と太陽。強めの風がほほに心地よい。草も白い花も風にあおられて、強風の海面のようにウサギが走っているようだ。蝶が何頭か、花から花へ急降下と急上昇の飛行訓練をしているようだ。風圧が体重に反比例するなら、サーカス以上の風使いだ。渓流の鱒以上の流れ使いだ。風の交差点は、欲望と諦めの交差点でもある。蝶を見れば捕まえて標本箱に入れなければ気がすまなかった頃、世界は自分の手のひらに掴める物だと信じていた。今は、世界は外でなく、脳の中にあって、すべては掴んだり保存できるものではなく、言葉にして、記憶することしかできないことに気がつく。でもそう思う方がずっと安らかな気分だ。ケーキとお茶が置かれたテーブルの向こうで、母がなにか笑いながら楽しそうに話しかけている。意味はまったくわからないが、私も笑ってうなずいている。二匹の蝶がカップルになって絡んで戯れるように舞い始める。昔の願望を思い出しながら、遠くから眺めて、甘い悲しみのような諦めの気持ちを楽しんでいる自分がいる。これでいいのだと思う。

54    他人や木や鳥や虫も、大地や月や太陽や星も、別の存在のように思えるが、同じ大きなものの一部分なのだ。つまり言葉なのだ。

55    ご本を読んでるね。面白そうだね。さっき、ママが呼んでいたのに、ぜんぜん気がつかなかったね。本当に何にも聞こえなかったよ。その時、お前は、体を残して、どっか別の場所に行っていたんだよ。どこに行ってたのかな。僕はずっとここにいたよ。もしかするとご本の物語の世界に行っていたのかな。ご本には、紙と字と絵ばかりで、入れる場所なんかないよ。そうだね。ご本の絵や字をおまえが一生懸命読んだので、おまえの脳の中に物語の世界が映し出されて、おまえの心はその世界に吸い込まれていたんだよ。そうなると、こちらの世界の体は、見たり聞いたりできないし、時の経つのもわからなくなるんだよ。脳の中には小部屋があって、時々そこに閉じこもるんだ。そこには本棚があって、経験を積むと一冊づつ増えていくんだ。蔵書が増えると、滞在時間が、外の世界より長くなってくるんだ。外の世界の出来事をこの部屋で考えるようになるんだ。それが大人になるということさ。

56    この世は虚無と言葉から出来ている。この世は一人ひとりの言葉の心の中に言葉で作られている。一人ひとりの心の中で、感覚や感情の心が映し出す虚無と、言葉の心の働きである自分が作りだす言葉が、戦っている。自分は言葉の心を育て、言葉を受発信して、虚無に属する体や感覚や感情の心と戦い、言葉の世界を広げるのが使命だ。

57    感覚つまり見えるままを信じてはいけない。感情つまり興奮をそのまま信じてはいけない。自分は言葉の心の働きだから、言葉を信じることしかしてはいけない。言葉を求める旅をしよう。宇宙というと、子どもたちは、未来を夢見る。しかし実際に見えている星は昔の光だ。昔の宇宙の化石だ。見えている星は、昔、その星があった場所の位置だ。既に燃え尽きたり、どんどん遠ざかっていった星が昔放った光だ。今生きている者への信号、情報だ。見えているのは記憶の過去だ。

58    物語について考えた。感覚の心に映る現在の現実こそ真実で、物語は嘘、偽だと誤解している。それは、自分を忘れているか、自分を、体や、感覚や感情の心だと勘違いしているからだ。本当の自分は言葉の心の働きだ。だから、本当の自分にとっての本当の世界は、感覚や感情の心が映し出す現在の現実ではなく、言葉で作る物語、つまり記憶の過去や願望の未来なのだ。自分が居る本当の世界は物語の中にこそ在る。物語になっていない、感覚や感情の心に映るままの、物や人や光景は虚無なのだ。現在の現実に存在しない物や人でも、言葉つまり物語がついていれば、ちゃんと在るのだ。ブランド品は、もっと質が良くて安くい無名の品より、存在感が在る。それはブランドという物語がついているからだ。骨董品には時代や作者や歴史の物語がついている。物語が無ければただの中古の日用品だ。日用品に物語がつけば骨董品や芸術作品になる。ヒトは物そのものより物語つまり言葉を見ているのだと分かる。言葉になっていないものは虚無なのだと分かる。虚無からの救い、それが言葉の力だ。

59    タイムマシンについて考えた。現在の現実を記憶の過去にしたり、願望の未来にしたりするのは言葉の心の力だ。SFに登場するタイムマシンは、記憶の過去や願望の未来と、現在の現実の間を、体のまま、感覚や感情の心のまま、行き来する装置のように描かれている。間違いだ。記憶の過去や願望の未来は、抽象的な言葉で出来ている。現在の現実は、具体的な感覚や感情が映し出している。体や、感覚や感情の心では、この次元の違いを越えられない。本当のタイムマシンは、この異次元の間を行き来して、現在の現実から記憶の過去や願望の未来を作り出し、逆に記憶の過去や願望の未来から現在の現実を作り出す装置のことだ。そしてそれは、一人ひとりが生まれながらに持っている言葉の心の働きのことだ。たとえば、本を書いたり、本に感動したりする時の心の働きのことだ。つまり自分だ。

60    名を広めたい、残したい、名誉を得たいという気持ちがある。特に少年の頃に強かった。有名になるために、わざと犯罪を起こして、新聞やTVに取り上げられようとする少年がいたりする。名とは何なのだろう。なぜそう思うのだろう。本当の自分が、体ではなく言葉、つまり名だからだ。言葉つまり情報は、伝達されて成就する存在だ。情報としての自分が、情報としてそれを望むのだ。名とは情報としての自分のことだ。

61    物語とは何か考えた。物や生き物やヒトはどのように在るのだろう。事物だけが在って、言葉つまり物語が無い場合と、言葉つまり物語だけが在って、事物としては何も無い場合と、どちらが、本当に存在しているのだろう。伝説が在るだけの英雄と、雑踏ですれ違う人々と、どちらが、本当に存在しているのだろう。名前だけで実在しない人と、名を知らぬが実在する人と、どちらが、本当に存在しているのだろう。感覚の心には光などの刺激が見えている。見えても、すぐに忘れる偽の世界に居る。言葉の心は言葉つまり物語を見ている。言葉にして記憶して本当の世界を作っている。名前の無い事物は、記憶できない。記憶で作っている本当の世界に取り込めない。物語、つまり言葉になることで、本当の世界の一部になる。だから、ありふれた、どうでもよい事物でも、言葉を得た途端、本当の世界の一部になるのだ。自分は言葉の心の働きだ。だから物は見えていない、物語つまり言葉しか見えていない。物や外界がどうであろうと、自分が有している言葉、それが本当の世界なのだ。そのことを学ぶことが新しい香の道だ。

62    言葉との付き合い方。言葉のようなものが湧いてくる一瞬が有る。そのままにすると泡のように消えてしまう。言葉に固める。出来れば書いたり話したりして言霊にしてしまうともっと良い。未熟な心にとって言霊は危険でもある。外から入り込んで、吟味も消化もしないまま寄生して、心を乗っ取ってしまう。若い頃、特定の宗教や思想にとらわれてしまうのはこのためだ。

63    本当の意味で身につけられない物、残せない物を、欲しがったり、残そうとしたりしない方がいい。言葉にすれば身につき、残せる。それが香道の本質だと思う。

64    秋深し、隣は何を、煮る人ぞ。香の力。

65    ふと匂いに気がつく。気がつくとは記憶の中から、言葉が生じるということだ。香りを言葉にするということ。甘いオレンジを食べて覚えている人が、オレンジの匂いをかぐと甘い匂いという言葉が湧いてくる。酸っぱいオレンジを食べて覚えている人が、オレンジの匂いをかぐと酸っぱい匂いという言葉が湧いてくる。匂いは外から感覚の心を刺激し、言葉の心に伝達して、記憶の言葉を選び出してくる。

66    「悲しみを言葉にして固める」という本を読んだ。感覚や感情の心の苦痛や苦悩は、中途半端な言葉にしたままでは、消えない。思い出すたびに感情の心に引き戻されて、苦悩が戻る。きちんとした言葉にすれば、言葉の心に移しかえる事が出来、感情の心による呪縛から逃れられる。言葉の心は言葉で出来ている。完成した言葉には、感覚の心の苦痛も感情の心の苦悩もない。快感も安楽もない。あるのは、感覚や感情の心の暴走を鎮めようとする、言葉だけだ。さらに、言葉で目的を作って実現に努力すれば、感覚や感情の心の快楽や安楽を越えた、永続的な喜びである幸福を味わうことが出来る。癒しを超えた救いだ。苦しみや悲しみから逃げず、言葉にして、書いたり他者に話したりすると、悲しみが消えたり軽くなるのは、このためだ。「荘子」「刻意」篇。「その生(聖人の生)は浮かぶがごとく、その死は休するがごとし。・・・その寝ぬるや夢みず、その覚めるや憂いなし。その神純粋にして、その魂疲れず。」

67    日本列島に冬の低気圧が来ている。強風が吹き荒れている。低気圧とは何なのだろう。空気そのものではなく、周囲より密度が小さいという空気の状態のことだ。風は空気なのだろうか。風も空気の状態ではあるが空気ではない。空気が在っても風が在るとは限らない。心が、体から生じてはいるが体ではないのと同じだ。心も風も、物ではなく情報なのだ。風は言わば空気の心なのだ。

68    迷いや苦悩は日々の空腹や渇きと同様、定期的に生じる生理的な現象だ。悟りは心のビタミンだ。完治を目指す移植手術ではない。毎日少しずつ摂取しなければならない。それが言葉の心が生み出す言葉だ。

69    香りについて「嗅ぐ」と「聞く」の違いは、言葉にするかしないかの違いだ。現在の現実として「嗅ぐ」、記憶の過去や願望の未来として「聞く」。香りに意味、つまり言葉をつけるのが「聞く」だ。本来香りには意味は無い。感覚の心の働きだ。元々無いのだから、自由に言葉をつけていい。「嗅ぐ」ばかりで言葉をつけなければ虚無に消えるだけだ。

70    困難や苦難に遭遇した時、動物なら逃避する。ヒトの言葉の心は違った反応をする。獲物を掴むように、困難や苦難を言葉にして、挑戦しようようとする。しかし、言葉の心が未熟だと、感覚や感情の心が優勢となり、動物のように、逃避の衝動に負けてしまう。自殺も、そのような状況で起こる。

71    「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。親鸞」。意味。自分を善人だと信じている人ですら極楽へ行けるのだから、自分を悪人だと反省している人は当然極楽へ行けるはずだ。自分を善人だと思うのは感覚や感情の心の働きだ。自分を悪人だと思うのは、心に善悪の基準の言葉が有ってそれに照らし合わせている、つまり言葉の心が働いている人だ。ということだ。

72    秋も深まった。実家の金木犀の大木が花を開いた。杏のような甘い香りが広がっている。良い香りがしていると感じる自分と、これは金木犀だな、去年も今頃だったな、などと考えている自分と、どちらが本当の自分なのだろう。昔なら、実際に香りを感じているのが本当の自分で、考えているのは作り物の自分だと思っていた。今は逆だ。香りを感じている自分は、その場限りだし、香りに刺激されて生じているだけで、誰でも同じように生じる自分なのだ。樹の名前や去年の記憶を生じた自分は、この自分だけの自分、本当の自分なのだ。そんな自分を育てる。それが新しい香の道の目標だ。

73    敵と味方について考えた。Aさんはそのままでは敵でも味方でもない。しかし、Aさんがそのままでも敵になったり味方になったりする。犯人は自分の心の変化だ。犯人は自分だ。芸術に付いて考えた。芸術とは物ではなく、見る側の心に生じる心理現象だ。物はそのままでは芸術ではない。物がそのままでも芸術になったり芸術でなくなったりする。犯人は観察者の心の変化だ。本当の芸術家は見る人の自分だ。

74    ヒトは言葉で世界を作る。名所旧跡も名物も言葉で作っている。非日常の晴れ晴れとした世界は言葉で作っている。名も無い景色、名も無い料理は、感覚や感情の心のままに素通りしてしまう日常だ。ただの車窓を駆け抜ける景色だ。動物としての世界だ。

75    癒しにのめり込む事を警戒する、避ける、危ぶむ、拒否する。そんな自制心が生まれたのはいつごろだったのだろう。ずいぶん小さいころだ。4歳頃か。このままではいけない、こんなことをしてはいられない、今以上にならなければいけない、前進しなければ、努力しなければいけない。その心は高校受験の支えになった。その頃、感情の心を越え、人類という立場で考えなければならないという、武者小路実篤の本を愛読し、心の支えにした。今朝、トルストイの生涯のTVを見た。武者小路がしきりにトルストイの理想のことを語っていたのを思い出した。さらに、高校生の頃、「ドウッホボール教徒の話」と言う本を買って、読まずに大切にしていたことを思い出した。番組の最終で、カナダのドウッホボール教徒の夫婦が、トルストイの生家を訪ねる場面が在った。置き忘れていた過去の記憶がつながった気がして、気持ちが明るくなった。ドウッホボール教:世俗的権威を否定し兵役忌避などを実行したのみならず、既成の宗教的権威であるロシア正教の組織や奉神礼、さらには聖書の神聖性やイエスの神性までも否定する。人間の内に神が宿るという性善説から原罪も否定する。 これらによりロシア帝国では弾圧を受け、多くの信徒が19世紀末にカナダへ亡命した」。WIQ

76    世界や時間とは何だろう。正体は言葉だ。環境や記憶の過去や願望の未来を表す言葉だ。香りから言葉を作ろう。言葉で記憶の過去や願望の未来をつくろう。本当の自分や世界や時間を作ろう。

77    感覚や感情の心は、現在の現実を見ている。この幻想を離れて、本当の世界を作ろうとする脳の働きが、言葉の心だ。

78    何かをしても、それが感覚や感情の心の為にすることなら、一瞬で消えるはかないものなのだ。それが自分の言葉の心の為にすることなら、つまり言葉なら、永久に身につくのだ。それが救いだ。父の死後22年が経った。今は無人の実家の門の前に来て思った。奥に父がいる感じがした。父が生前、家系について書き残した原稿を見つけて読んだ。時の経過とは無関係に、直接語りかけてくる。今そこにいるように。かえって、父の体が生きている間は、こちらに感覚や感情の心の働きが生じ、真の、つまり言葉の心の交流の邪魔をした。父が言葉になった今は、それも無い。言葉が直接心に響いてくる。一方で、自分の為にする癒しは虚しいが、家族や仲間に対して癒しを与えることは自分にとっての救いになる。我執を離れるからだ。

79    癒しとは本能を満たすこと、つまり感覚や感情の心の欲求を満たすことだ。感覚や感情の心の癒しはその場限りだし、受発信できないから、共有もできない。一方で、言葉の心の疑問を言葉で満たすことも癒しだ。学習や研究、クイズなどだ。言葉の心の癒しは記憶できるし、記録もできる。自分や世界や時間を作ることもできる。受発信できるから、他者と共有もできる。しかしこれも、言葉にしたいという本能を満たすことに過ぎない。やはり癒しなのだ。かえって際限がない。しかしヒトとして、言葉の心のこの本能は如何ともしがたいし、ヒトがヒトである根本なのだ。自分以外の何かの為に考えている間、自分のことを忘れていられる。その間だけは自分から自由になる。それが救いだ。

80    今朝も寒い。パジャマを脱いで着替える。昨夜脱いだ服が枕元に積まれている。小山のようで、鬱陶しい。一枚ずつ身につけていく。一枚ずつ視野から消えていく。一枚ごとに寒さが消えていく。眼前の感覚や感情の心の興奮を言葉にするごとに、一つずつ苦悩が消えていくのと同じだなと思う。言葉にしてしまうと、感覚や感情の心から消えてしまうのだ。

81    ニホンザルの観察研究で、地域ごとに、挨拶の仕方が違うという発表があった。文化を作れるということだ。動物の心は、本能つまり感覚や感情の心だけかと思っていたが、言葉の心つまり意識的な働きもあるということだ。ヒトの心とその他の動物の心の間には、質的な違いは無く、程度の違いしかないのだ。ヒトとニホンザルの差は、言葉の心の伸ばし方の差なのだ。

82    香木のテイステイングをしていて、ふと思った。今、自分は香木という本を読んでいるのだ。図書館は、本が沢山あって、それらの本を読む場所だ。それらの本は、他者が書いた文字でできている。自分は今、香木の香りを、味わうというのとは違って、言葉に変えて、名前を探ったり、名前をつけたりしようとしている。香木に限らず、地上や宇宙のあらゆるすべても、言葉の心にとっては、読むべき本なのだ。読んで言葉にして、自分や世界に作るための本なのだ。感覚や感情の心にとっては、本でも図書館でもない、癒しの手段かただの通りすがりの光景なのだ。

83    風を読む人、潮を読む人、星を読む人、世界は読みものなのだ。香りを読む人になろう。読むとは、言葉にする事だ。言葉にして伝える事だ。

84    3.11で、津波を受けた宮古の中学生たちについて行われた心の調査についてのニュースを見た。落着きがない。感情の起伏が大きい。どうすればよいか。時が癒してくれるのは事実だ。大空襲も、原爆もそうだ。時という形の無いものが癒すというのはどういうことか。言葉になるのだ。100年たっても1年たっても、1日しか経たなくても言葉にすれば感覚や感情の心の動揺は治まる。

85    自分との別れの達人になる。感覚や感情の心は、執着する心だ。美味もそうだし、愛情もそうだ。快楽は後を引く。常習性があるし、繰り返すほど深まってしまう。なるべく浅く生きる事がその秘訣だ。香りはそのことを体験させてくれる。

86    子供に、君は現在の現実だけに生きているのではないのだという事を伝えたい。世界は一人ひとりの脳が別々に作り出していて、その脳の働きには3つあって、感覚の心や感情の心は現在の現実を映し出している。体もそこに居る。言葉の心は記憶の過去や願望の未来を作りだしていて、本当の自分はここに居る。銀河鉄道の主人公の少年は、現在の現実では苦境にあるが、言葉の心の象徴である銀河鉄道に乗って、記憶の過去や願望の未来を旅し、勇気と元気を得て、現在の現実に戻り、遠くへ行っているお父さんもいつか帰ってくるだろうと確信し、病気のお母さんにミルクを買って帰るところで終わる。言葉の心の働きである自分は、体から生じ体によって支えられている。そしてその体は感覚や感情の心によって支えられ、現在の現実の中で生きている。だから、現在の現実をおろそかにしてはいけない。しかし現在の現実の逆境を生き抜く力、勇気や希望、生きようとする気力は言葉の心が作り出している。感覚や感情の心には作れない。現在の現実は大切だが、同じくらい過去や未来も大切なのだ。香は、大人の為の銀河鉄道なのだ。

87    命という現象について考えた。私のパソコンは、起動する時に夕暮れの湖のさざ波に映る富士山の写真が映る。友人だった人が、晩年、河口湖のダイヤモンド富士の写真を撮りに通っていたことを思い出した。命を実感するのは、見たり聞いたり食べたり触れたりする時だ。感覚器官が受けた刺激が脳に伝わり、興奮が生じる時だ。しかしこれは一瞬で消える、他人と共有する事も出来ない、体と運命を共にする虚しいものだ。だから彼は、写真に撮って、残したり、他者と共有したりしようとしたのだろう。しかし脳には他の喜びもある。その興奮を言葉という情報に変えて記憶したり、願望に作ったりすることだ。こちらの方は、体という命を越えた、独立した、人類共有の存在になる。

88    感覚や感情の心は、その興奮の信号を本当の自分だと思っている。しかしそれは偽の自分だ。感じている現在の現実を本当の世界「この世」だと思っている。しかしそれは偽の世界だ。本当の自分は言葉の心の働きだ。そんな本当の自分は言葉で作っている言葉の世界に住んでいる。これが本当の世界「あの世」だ。偽の自分や偽の世界は、本当の自分や本当の世界の影なのだ。本当の自分は救いを求めている。言葉の心が言葉を求めているのだ。偽の自分つまり感覚や感情の心は、偽の世界つまり現在の現実で、偽の救いつまり癒しを求めてさ迷っている。本当の自分が、苦痛や苦悩や苦難から逃れるために求めるのが救いの言葉だ。宗教や科学、哲学はそれを目指している。香心門の目的は香(こう)の獲得だ。香とは、香りという刺激から作り出す、救いの言葉だ。それを香の十徳に作ってみよう。本当の自分がいる本当の世界、つまり「あの世」は、言葉で出来ている。言葉以外の何物でもない。「ある香りが、ある抽象的な心の状態を作り出す」という言葉を定めれば、その言葉を信じる人の心の状態に実際に反映される。言葉はウィルスのように遷るのだ。「この香りは○○という体や、感覚や感情の心に或る具体的な状態を実現する」というのは、次元を跳び越えた偽薬だ。「この香りは○○という抽象的な心の状態を作り出す」というのは、言葉で言葉を生みだす、自分を育てる、合理的な話だ。体でなく心、それも感覚や感情の心でなく言葉の心に効く言葉の薬なのだ。香り成分による脳細胞への刺激や薬効のことではなく、言葉の効力なのだ。そして、言葉の効力こそ、言葉の心の働きである自分にとって、最高の薬なのだ。香りはそんな救いの言葉の触媒にすぎないのだ。

89    苦痛や苦悩は、感覚や感情の心が映し出す現在の現実、つまり動物としての心に生じるさざ波だ。それを観察している別の心がいる。それが言葉の心の働きである本当の自分、ヒトとしての自分だ。この、動物としての心が退いて、言葉の心が主導している時の心の状態が、ヒトとしての自分が救われているという意味で、救いだ。苦痛や苦悩を苦難という言葉に変えて、感覚や感情の心の泥沼から自由になっている状態だ。そのことを理解することが悟りだ。しかし、この体が活動している限り、感覚や感情の心つまり動物としての心の働きを消すことはできない。どうすれば、本当の自分が主導する心の状態になれるのだろう。心の画面を、感覚や感情の心が映し出している現在の現実から、言葉の心の居場所である記憶の過去や願望の未来に切り替えるのだ。どうすれば、そのスウィッチをいれられるか。感覚や感情の心を言葉の心に切り替えるのだ。言葉の心を働かせればよい。本を読んだり、記憶を紐解いたり、願望を思い描いたりするなど、言葉の世界に入ればよい。感覚や感情の心の興奮を言葉にすればよい。現在の現実の感覚や感情の興奮を、記憶の過去や願望の未来という言葉に作り替えるのだ。香(こう)は、香りが与える現在の現実の感覚や感情の興奮を、記憶の過去や願望の未来という言葉に作り替える。そのことを通して、心の画面を、感覚や感情から言葉の心に切り替える訓練をする。苦しみの画面を救いの画面に切り替える。それが和香会の目的だ。その技の習得が悟りで、それを得るのが香心門の目的だ。

90    目に映ったものだけを信じてしまう。耳に聞こえたものだけを信じてしまう。触れるものだけを信じてしまう。嗅げる、味わえるものだけを信じてしまう。これが、現在の現実しか無いと思ってしまう錯覚だ。やはり、変だと気づくだろう。現在の現実は外界に物や現象として、厳然と存在すると信じてしまうが、それは外界のほんの一部を、目や耳や鼻や口や指が映し出している、脳の中の不完全な映像にすぎないのだ。幻想なのだ。しかしこれらの感覚の心の働きが自分の正体ならそれも仕方の無いことだ。しかし自分を言葉の心の働きだとするなら、話は変わってくる。自分は目や耳や鼻や口や指が映し出している、脳の中の映像の世界にはいない。言葉で作っている世界にいる。現在の現実にはいない。記憶の過去や願望の未来にいる。動物だって、夢を見たり、少し昔を思い出したり、少し未来のことを空想したりする。ヒトならなおさらだ。

91    家族について考えた。血縁の家族だけが家族だろうか。遠くへ行って音信が途絶えたり、死んでしまったりした家族は消えてしまうのだろうか。言葉の心が成長するにつれて、家族の範囲が広がってくる。仲間や死者やまだ見ぬ子孫、人類や生物全体へと広がって行く。家族が広がるたびに、自分へのこだわりから生じてくる苦しみも薄まってくる。それが救いだ。

92    感覚や感情の心に生じる癒しと、言葉の心に生じる救い、どちらが本当の幸福なのだろう。ヒトは動物であると同時に、脳が進化して言葉の心という情報生物も同居するようになった。かく言う自分は言葉の心の働きが生み出す情報生物だ。動物としてのヒトは、現在の現実に生きていることが目的だ。そのためには癒しが大切だ。情報生物としてのヒトは、現在の現実を乗り越えて願望の未来に生きようとすることが目的だ。そのためには救いの言葉が必要なのだ。

93    坂道を自転車で登りきる極意が分かった。目先の現在の現実とは異なることを考えて、心を感覚や感情の心から言葉の心に切り替えてしまえばいいのだ。その間、坂道のことも苦痛や疲労のことも、意識から消えてしまうのだ。香(こう)と同じだ。

94    言葉の心の働きである自分にとっては、感覚や感情の心が映し出す現在の現実が幻で、言葉で作った記憶の過去や願望の未来が本当の世界だ。車で、父の姉の家が在った近所を通り抜けた。もう跡形もない。あの頃の現在の現実の記憶が、脳裏に浮かんできた。まだ幼かったので、断片の記憶だ。それでも若い父の笑顔や叔母や幼い従姉妹たちの顔が浮かんできた。しかしそれらは、その時の現在の現実ではなく、その後に見たアルバムの写真を見て作った記憶だった。現在の現実が確かに存在しているように日々を過ごしている。しかし一瞬の後には消えている。現在の現実は、走っている車窓の風景なのだ。自分の本当の居場所は、車内つまり脳の中の言葉の世界なのだ。香(こう)で香りを言葉にするのは、車窓の景色を車内の景色に切り替えることなのだ。

95    「自分」や「世界」や「時間」はどのように構築されるのか。脳が刺激を受ける。それは感覚器官からの信号や、記憶している言葉や、湧き上がる願望の言葉によってもたらされる。言葉と言葉の新しいつながりが生まれる。つながりの一つ一つが自分や世界や時間、つまり言葉の世界を組み立てる。言葉には、物理的な限界が無いので、言葉の世界も無限だ。言葉の心が未発達だと、言葉の代わりを物に求めてしまう。言葉の世界の代わりに、好きな物に囲まれていたいと思う。この欲望は果てしなく続くが、物では言葉の心の働きである本当の自分の渇きを満たすことはできず、また現実の物を集め尽くすこともできず、塩水でのどを潤そうとするように、海を飲み干そうとするように、おなかがパンクしたカエルの王様になる。

96    言葉の心は、ヒトの最強の武器だ。現在の現実しか見えない動物や、環境の激変に、記憶の過去や願望の未来を見る力で打ち勝ってきたのだ。近代は、その力を科学技術の開発に注ぎ、暴力や生産力、競争差別や快楽や安楽など、現在の現実の癒しの為に利用してきた。現代科学は現在の現実を支配する技術だ。現代人も感覚や感情の心に流されて、現在の現実に支配されがちだ。それも限界だ。言葉の心を磨き、現在の現実を乗り越え、願望の未来を洞察し、実現する力として、言葉の心の力を利用する時だ。

97    病気や受験、近親者の死や人間関係の悩みなど、苦痛や苦悩や苦難に苛まれていた時、どうしたら良いか誰も教えてくれず、言葉で、考えざるを得ない時、脳の世界の骨格が太くなったように思う。苦痛や苦悩や苦難がヒトの進化の原動力なのだ。言葉の心の成長の為の栄養なのだ。

98    山道を猟師が猟犬と歩いているとする。猟師は予め、この山には鹿が出ると知っている。猟師には、鹿が見えている。犬は言葉がないので分からない。その道をさっき、鹿が横切ったとする。人にはそのことは見えない。犬には、そのことが見える。ヒトは言葉で見る。犬は嗅覚で見るのだ。

 

(11)木の香り。自分。

@    時間について考えた。勤め人だった時代、時間は自分を縛る手綱のようだった。約束した待ち合わせや、仕事上の納期だった。感覚や感情の怠け心を抑える道具だった。今は、桜が咲いたから1年たったとか、また秋が来たという時計の感じだ。さらにこのまま老いていくのだなと言う片道だけの時間もある。農業では星座の移動、漁業では月の満ち欠けが仕事の目安だった。会社では、日々の営業日誌や、月末のノルマ達成など、社員を管理する手段にされている。それが嫌なら、農民や漁師、芸術家などになるしかない。

A    鏡。自分は体ではないことを教えてくれる。青年の頃、しきりに鏡を見た。こんな虚しいことを何故するのだろうと思いながらも目が離せなかった。今思えば、自分を考える入口だった。

B    超能力や、心が体から遊離したり、異界を旅したりする物語がある。自分が肉体の無い、心のようなものになって、自由気ままに、ふわふわ浮かんで、地上を眺めている。宙に浮いて、高い場所から見下ろしたり、広い視覚で眺めたり、別の体や心に乗り移ったり,共感したりする。その時私達の自分は、魂になったり、鳥になったり、暴君になったり、被害者になったりする。自分が感覚や感情の心の働きで、現在の現実に居るのだとだとすれば、それらの物語は実態のない空虚な蜃気楼ということになる。自分が言葉の心の働きで、記憶の過去や願望の未来に居るのだとすれば、物語こそが本当の自分のいる世界だということになる。ここでは後者の立場を取る。

C  照明の笠を選ぶ。四角と丸型があった。四角は見るからに嫌だった。四角を捨てて丸を選んだ。選ぶということは、捨てるものを選ぶということだ。良いことをしようとしても何をしたら良いかわからない。悪いことをしないことしかできない。何かをしようとするのでなく、何かをしないようにする方が簡単だ。ヒトは神ではないのだから、すべてを求めるのでなく、言葉に出来るものだけを求めればいい。言葉だけを頼りにすればいい。捨てるべきものが選べないということは、残すべきものがわかっていないということだ。

D    私はどこから来たかしら。父母越えて、祖父母越えてDNAの国から来たかしら。いえいえそうではありません。私は脳の電球の、中でチカチカ生まれてる。ここはいったいどこかしら。ご飯を食べて、仕事して、地球の上にいるかしら。いえいえそうではありません。私は脳の電球の、中でチカチカ光ってる。私はいったい何かしら。泣いて笑って百面相。鏡の中の顔かしら。いえいえそうではありません。私は脳の電球の、中でチカチカ生まれてる。私はどこに行くかしら。死んで、焼かれて、灰になり、お墓の中へ行くかしら。いえいえそうではありません。今はもうない恒星が、昔発した光のように、言霊の海で泳いでる。

E    事物が存在するか否かについて。存在するとはどういうことなのだろう。観察者が感知した気配のことだ。事物は観察者と無関係に自立して存在しているのでなく、観察者の中に作られる情報なのだ。観察者がいなければ、事物も存在しない。観察者が居ても感知しなければ、事物は存在しない。何かが存在するか否かは、個々の観察者にとっての個々の情報現象だ。別の観察者が感知をしても、当の観察者が感知しなければ、その観察者にとってその事物は存在しない。感覚や感情の心にとっては、感知したかどうかが問題だが、言葉の心の働きである自分にとっては、言葉になっているかどうかが問題だ。

F    体と心。どちらが実体でどちらが影なのだろう。自分は何なのかを決めれば、答えも決まる。自分は言葉の心の働きだ。そんな自分にとってどちらが大切なのかを考える。心、それも言葉の心が実体で、体や、感覚や感情の心が影だということになる。香心門の目的は、そのことを知ることだ。

G    19世紀ドイツのシャミッソーという作家の、「影をなくした男」という物語がある。現代でいえば名前を売った男ということか。政治家、タレント、犯罪者、その他の有名人ということだ。名前が売れるとその人はどうなるのだろう。他人から見えるのはその人の体や地位などについてのレッテルつまり名前だ。その人自身にとっての自分は、レッテルではなく心、それも言葉の心の働きだ。本当の自分である言葉の心の働きが、他人から見えるレッテルに乗っ取られて、本当の自分の居場所が無くなってしまう。香(こう)は言葉の心を育て、レッテルに負けない本当の自分を育てるものだ。

H    自分とは何なのだろう。ヒトは生物として、動物として、進化の過程で得た、すべての生物に共通な神経や脳細胞の働き、つまり本能を有している。だから本能レベルでは、ヒトはすべての生物と本質的に同じだ。もっとも基本的で強力な心の働きだ。動物には本能を制御する脳の働きが備わっている。ヒトは、その働きをする大脳新皮質の進化が著しく、本能から自立した言葉の心という働きになっている。それが自分だ。ヒトにだけ自分がある。自分はヒトに特有な言葉の心の働きだ。

I    自分は何を求めているのだろう。自分は、言葉を求め、言葉をよりどころにして、生じている。蓄積した言葉を観察して、その言葉の体系を自分だと自覚している。自分を作ることつまり言葉の体系を充実させ、整合させることを最高の目的としている。自分は世界でもあり、記憶の過去や願望の未来でもある。つまりすべてだ。

J    生きる目的について。そもそも自分と思っているこの気持ちの主は、何なのだろう。この体が産まれてきた時、「自分」はそこにいたのだろうか。「自分」を作る容器としての脳の働き、つまり言葉の心を持っているだけ。これが自分の第1の誕生だ。「自分」は言葉の心そのものではなく、言葉の心が作り出す言葉の体系だ。感覚や感情の情報から言葉を作り、「自分」に組み立てる。これが第2の誕生だ。言葉の心は「自分」や「世界」や「時間」を作り続ける。これが人生だ。脳の中に、「自分」や「世界」や「時間」を作るために生きている。「自分は何のために生きればいいのだろう」と思ってしまう。言葉の心の働きである自分は、行動するに当たり、目的がはっきりしないと、不安になってうまく機能できないようにできているから、こう思うのだ。そこで敢えて、「自分は、自分や世界や時間を、この脳の中に作るために、この世に生まれたのだ」という言葉を作り、それを目的だと思えばよい。

 

(12)橘の香り。世界。

@    自分がいて、天地があって、建物があって、たくさんの人々がいる。みんなで大きな一つの宇宙の中にいる。そう思っている。本当は、すべてがこの身の感覚器官の中で生じる情報なのだ。その情報のうち、言葉に作り変えられ、記憶された部分が、本当の世界や自分や時間になっているのだ。情報のうち、言葉になっている情報は自由に思い出せるが、そうでない情報は、何かのきっかけが無ければ思い出せない。みんなどこにいるのだろう。ここはどこなのだろう。この身の感覚器官が映しだしている情報や、既に記憶して蓄えられている情報の中だ。発信された情報はこの身を超えて独立した情報になり、そうでない情報は、自分やこの身とともに在って、この身とともに消えるのだ。

A    ミャンマーの大学生が、母親の法事の為に帰郷するテレビ番組を見た。この世に残された者が功徳を積むと、死者がこの世に生まれ戻れるのだという。ヒトの心は動物としての感覚や感情の心と、ヒトとしての言葉の心から出来ている。言葉で世界を作りそれを信じることが出来る時、心は安定し自信が持てる。つまり安心だ。それが救いだ。言葉で作る世界は、動物としての感覚や感情の心にとっては、感じることのできない記憶は嘘のように思えるが、本当の自分が言葉の心の働きだと知れば、感じるだけで言葉に出来ない現在の現実こそ、嘘ということになる。平生は、感覚や感情の心のまま、生きていることに流されて、癒しに気を取られ、願望の未来に挑戦する努力をサボって、生きようとする気力や勇気、つまり救いを求めることを忘れてしまいがちだ。香(こう)の目的は、香りを記憶しようとすることで、言葉の心を目覚めさせ、育てることだ。

B    言葉にしていない事物は、虚無で、不安や恐れ、無関心を起こさせる。どうすればいいのか。言葉にして、自分の世界に取り込めば、不安や恐怖や無関心は消える。そうやってできた自分の世界は、明るくて、安心だ。

C    香木の分類をしている。ともかく分類をしないと、この先どのように使用したらよいか、アイデアが湧かない。初めは見た目で分けた。大きい小さい、色や形が何かに似ている、軽い重いなどだ。しかし大多数は凡庸だ。改めて香木は香りが本質だと気づく。そこで一つずつ削って、香炉で聞いた。初めは五味に分けた。五味のどれにも属さぬ香りがでてきた。さらに甘くて辛いなどという五味の網の目では掬いきれない香りの存在に気がついた。今は12種に分けている。しかしこれも、テイステイングを続けていくうちに、無限に分かれてしまうだろう。さらに、同じ一片の部分部分の香りが異なることに気がつくだろう。さらに、同じ一片でも、温度や湿度、聞き手の心情や体調で異なることになるだろう。香りの発見というより、新しい言葉の発見が新しい香りを生みだすのだ。世界はそのように出来ているのだという結論に達するだろう。

D    香りに名前をつける目的。一人ひとりにとって、世界は名前つまり言葉で出来ている。名前つまり言葉が増えるほど、世界は広がり、豊かになる。そして世界は自分でもあるから、自分も豊かになる。出会った香りに名前をつけよう。親しかった人の名前や、物でも、味や音などの共感覚でもよい。香りの名前が増えるごとに、香りの世界は奥行きや広さや多様性を増して、豊かになる。ひいては香りに限らず世界全体が、奥行きや広さや多様性を増して、豊かになる。香りのテイステイングを重ねるうちに、香りが、一かたまりの漠然としたガス星雲から、多様な意味を帯びた星の銀河のようになってくる。一つ一つが独立した光を放つようになってくる。これが世界を作ることで、自分を作る事なのだ。さらに辛いという一つの星が、ドウガラシの辛さとコーヒーの辛さというふうに分離して、二つの独立した星に見えてくるのだ。

E    宇宙の成り立ちや、暗黒物質、ブラックホールについてのTVを見た。その番組のスポンサーが葬儀社で、後悔しないお葬式というコマーシャルをやっていた。世界が外界にあるという話と、世界は自分の中に作っているという話だ。3つある心のどれか一つに囚われて見るなら矛盾だが、心は3つあると思うなら当然のことだ。聞香は、それらの心をつなぐ架け橋だ。

F    言葉の心の働きである自分は、世界のすべてを、言葉に変換して認識している。自分の中に言葉の世界を造っている。アメリカ大陸は元々あって、住民はすでに発見していたのだが、コロンブスにとってはその時が初めてで、コロンブスの言葉を聞いた人々も、その言葉によって初めて自分の言葉の世界の一部になったという意味で発見だったのだ。星だって、誰かに名前をつけられて初めて、言葉となり、その人の言葉の宇宙の一部になる。こうやって、自分は外の事物を発見しては言葉に変えて、自分の言葉の世界の一部にしているのだ。このようにして自分の中に言葉の世界を作っているのだ。科学者が発明や発見に嬉々として取り組むのも、言葉の世界で、神のように天地創造をするのと同じ気分がするからだ。

G    誕生後の早い時期に、目や耳や鼻を覆って、刺激を遮断すると、脳にその感覚が育たず、復活しないそうだ。幼いころに、町や自然の中で、いろいろな香りを体験する事がその後の人生に大きく影響を及ぼすと思う。近代建築の中で、無菌というか無臭の環境で、人工的に作られた、快感のみを与える芳香しか知らねば、たき火や、腐敗や発酵などの豊かな匂いの体験をせぬまま、現実から隔離された、無臭と芳香の世界をさまようことになる。香心門では、香りを感覚や感情の心でとどまるのでなく、言葉にして観賞する。快い甘い香りだけでなく、苦い、渋い、辛い香りも対象とし、それらに優劣は設けず、差異を観賞する。明快で鮮やかな刺激だけでなく、侘び寂び幽玄などの密やかな世界を探求する。

H    香りと言葉の関係。香木のテイステイングをしている。予め、いくつかの言葉を用意している。しかし、どれにも当てはまらない香りがある。不明のまま虚無とするか、新しい言葉を作るか悩む。厳密にいえば、あらゆる香木には、一つずつ別々の言葉が必要なのだ。

I    感じないことと分からないことは違う。感じるけれどわからない、というのは感じるけれどなんて表現したらいいかわからないということだ。言葉にできないということだ。香木のテイステイングでも、連続的に変化する香りをどう言葉に括ればよいか分からないことだらけだ。

J    自分の中に、言葉で香りの基準を作らないと、香りを分類できない。それ以前に、1つ1つの香りをその都度感じることはできたとしても、言葉にしなければ、思い出すことができない。

K    香りを探しているのでなく、言葉を探しているのだ。香りの森には、道も出口も無い。言葉の森ばかりだ。

L    香木のテイステイングをしている。香りをかぎ分けるのだ。香りの違いとは何だろう。もしその場に自分がいなければ、香りは存在しない。という意味で、香りとは自分がつける言葉だ。その自分がその香りについての言葉を持っていなければ、その香りは無いし、香りについての言葉を少ししか持っていなければ、少しの種類にしか分類できない。伽羅という言葉しかなかった時は、伽羅とその他しかなかった。五味を知って種の香りが生まれた。今はもっとたくさんの言葉をもっている、つまり沢山の香りの区別を持って、香りを分類する事が出来る。

M    現在の現実や感情を言葉(渋)にする。自分(木)、世界(橘)を作る。記憶の過去(乳)がよみがえる。願望の未来(銀)が生まれる。苦難に挑戦し、生きようとする意思と勇気、つま百万象(金)を得る

N    東京都が、戦後すぐ、練兵場に巨大な団地を建てた。そこから越して40年後、久しぶりに訪れた。面影は跡形もなく消えていた。団地の中に、巨大なケヤキがあって、毎日、幼い者たちが、天狗の鼻のように突き出した根に腰を掛けて話をしたり、追いかけっこをしたりした。そのケヤキも、倒木の恐れがあるとかで、ずい分前に切られて、切り株もなかった。あのころ教えてくれた先生や、一緒に遊んだ友達もいない。悲しい気持ちで作ったひよこやウサギの墓もない。自分が存在した事実が、今はもう何も残っていないように思える。言葉にしないままの現在の現実は、右から左に消えさる。しかし、言葉にしたことは脳の中に刻まれて、いつでも思い出して、心の目で見ることができる。

O    裏通りの喫茶店に入る。昼前なので誰もいない。早い昼食をすることにして、ランチとコーヒ−のセットを頼んだ。ふと聞き覚えのあるメロデイ―が流れていることに気がついた。グリングラスだ。音より先に記憶が浮かんでくる。メロデイーが追いかけてくる。とても快い。なぜだろう。自分が世界を作っている実感がするからだ。

P    虫眼鏡を持つ人が見れば、一滴の露に、たくさん虫がいるのが見える。もっていない人には何も見えない。見えなければ無いと思い込む。世界がつまらなく見える。心に宇宙のイメージを持つ人には、小石の中に宇宙が見える。そうでなければ、何も見えない。ガラクタだけのつまらない世界になる。文字が読めない人には、本は紙にすぎない。読めれば、別の次元の世界が手に入る。

Q    心の成長過程。感覚の心から感情の心へ、さらに言葉の心へ。世界の成長過程。具体世界から抽象世界へ。人は愛する者を失うことによって、抽象世界を知る。愛する者を忘れられない。惜しむ。別次元に再現しようとする。それが抽象世界の入り口だ

R    作業場の整理をして、道具類を分類して、棚に名札を付けた。名札を付けるというのは世界を作ることだ。世界を作るとは、自分との関係を明らかにすることだ。自分なりの香道を作ろうとして10年以上頑張ってきたが、結局そういうことだ。言葉にする、言葉を作るということだ。香木についても同じことが言える。初めは伽羅を探し、それ以外は無意味な虚無だった。やがて、自分の中に、新しい分類による名前が出来て、無意味な虚無が、伽羅と同格の無数の個性有る香木に変わった。

S    すべては自分の中に言葉としてある。世界はこの脳の中に言葉としてある。これまで生きてきて、見ても、感じても、言葉にしなかったことは、今はもう無いということだ。天国も地獄も、この世も,あの世もすべては今の自分の中にある言葉なのだ。

21    世界の見え方について考えた。世界を見るというのは、正確な言い方ではない。世界という物理的な何かが在るのではないからだ。生物がいなければ宇宙のすべては虚無でしかない。世界とは、個々の生物が、個々の感覚器官で作り出す個々の情報なのだ。神経組織や器官の進化は種によって異なる。微生物でもそれぞれが、それぞれの、世界という情報を作っている。植物や魚類、爬虫類、鳥類、哺乳類、それぞれ異なる感覚器官で世界という情報を生みだしている。同じ種でも個体が違えば、世界も異なる。ヒトについて言えば、体の中で、感覚の心、感情の心、そして言葉の心が、別々の世界を映したり作ったりしている。もしかしたら気がついていないだけで、さらに別の未知の心があって、その心が作っている未知の世界も在るのかもしれない。世界は、みんなを包む共通の大きな外に空間として、外に在るのではないということだ。一つ一つの命が、それぞれの中に作っている情報だということだ。

22    本当と嘘。感覚や感情の心に映る現在の現実と、言葉の心が作り出す記憶の過去や願望の未来、どちらが本当の世界なのだろう。現在の現実とは、目や耳や鼻や肌が感じている情報だ。物そのものではない。感じているのは刺激つまり情報なのだ。情報として感じていても、物として無いこともあるし、情報として感じなくても、物として在ることもある。物としては無いのに、情報としては見える蜃気楼や、物としてはあるのに、情報としては見えない暗闇の奥などがある。情報だから、同じ物でも、人によって違った感じがしたり、自分だけに感じられて、他のだれにも感じられなかったりする。物としては存在しても、ヒトの五感の能力を超えていて、感じられないものもある。渡り鳥の方向感覚や、イルカやコウモリの超音波などはヒトには感じられない。その主体が受信できる情報が、その生物にとっての本当なのだ。ヒトには言葉の心がある。感覚や感情の心が映し出す現在の現実に対して、言葉の心が記憶の過去や願望の未来を作り出す。そのヒトが感覚や感情の心でいる時は、現在の現実が本当で、記憶の過去や願望の未来は嘘なのだ。そのヒトが言葉の心でいる間は、逆なのだ。動物として生きているために大切なのは現在の現実で、ヒトとして生きようとするために大切なのは記憶の過去や願望の未来だ。そしてヒトとして生きようとすることが、結果として動物としての体を生かすことにもなる。虚と実は固定していないのだ。香(こう)は、嗅覚を通じて、香りから現在の現実を把握し、言葉の心を働かせて言葉に作り替え、記憶の過去や願望の未来を生みだす訓練なのだ。ヒトは本来、記憶の過去や願望の未来という言葉の世界の住人なのだ。それを気付かせてくれるのが香だ。かぐや姫に、地上の存在という夢から目覚めさせ、月の住人であることを気づかせてくれた満月のようなものだ。

23    「井の中の蛙、大海を知らず」の意味。本来ヒトは言葉の心の働きで、記憶の過去や願望の未来という大きな視野を持つべきなのに、感覚や感情の心に映る現在の現実を世界のすべてだと信じている。そんなお前は、ヒトでなく蛙野郎だという悪口。

24    世界は、自分の中に作るものだ。世界は自分の作品だ。だから、自分を変えれば、世界も変わる。世界は、自分の脳の中に在る。自分は世界を肩に載せて歩いている。自分が隣町に行けば、「自分の世界」も隣町に行く。自分がラオスに行けば、「自分の世界」もラオスに行く。月をお供に夜道を歩くように、影法師のように、何処までも「自分の世界」も付いてくる。でも、感覚や感情の心に映る偽の世界と、言葉の心が作る本当の世界の真偽が、逆に見えてしまう。自分の心の持ち方で決まるのだ。

25    春のみぞれの中を、車で走っている。柿の木の畑が有って、枝から黄緑の若葉が噴出していた。菜の花畑もあって、満開だ。桜は数日前に盛りを過ぎて、かすかに残った花が、若葉の緑と混ざって霞んでいる。ふと思った。若い頃はこんなに美しい風景を見ると、この世界から自分はいつか消えてしまうのかと思って、嫌な気持ちになった。今は、そんな気持ちにはならない。あそこもここも、見た目とは違い、みんな自分の中に自分が作っているのだと思うと、安らかな気持ちになる。

26    言葉の世界を育てるにはどうすればよいか。自分は体ではなく心、それも感覚や感情の心でなく言葉の心だと理解するところから、言葉の世界の発達が始まる。世界は外に物としてあるのでなく、感覚や感情の心が映し出す現在の現実に有るのでもなく、言葉の心の働きである自分が言葉で作っているもので、自分が言葉にしていないすべては自分にとって世界ではないという意味で虚無だと知ることだ。それは、死ぬまで続く、体や、感覚や感情の心が映す現在の現実という虚無と、言葉の心の働きである自分との戦いだ。

27    何故、見えるままの具体的な世界とは別に、わざわざ、自分の脳に別の抽象的な世界を作らねばならないのか。具体的な世界は、五感に感じられる刺激にすぎない。現在の現実にすぎない。そこには言葉の心の働きである本来の自分の居場所がない。記憶の過去や願望の未来もない。ただ、その場限りの不満や満足という神経細胞の興奮があるばかりだ。動物には感覚や感情の心しかないのでそれでいいが、ヒトの言葉の心は、居場所を持てないからだ。

28    国という字は、玉を囲んで守っている人々の姿が見える。守っているのが物なら玉、人なら王なのだろう。

29    孫のお守で、近所の公園に行った。子供用の低い椅子に座る。普段より地面が近く見える。広場の真ん中に太い木が立っている。幹の低い位置が、子供たちの手で磨かれてつるつるになっている。ここでは滑り台と砂場と水飲み場が世界の中心だ。懐かしい気分になる。その夜、夢を見た。昼間の公園だ。同じベンチに座っている。目の前は広場で、その真ん中に太い樹が生えている。ああここは、自分の心の遊園地で、この樹は自分の命の象徴だなと思う。こ樹は、公園の季節を、メリーゴーラウンドのように回している。この公園は、今はもう秋だ、1回しか回らない命のメリーゴーラウンドだと思う。公園だって、家族だって、いつか来る別れの予感が、暖かくしているのだと思う。

30    川沿いの遊歩道を、散歩している。陰気な藤棚の奥に、背もたれのついたベンチがある。いつも、ほとんど無人だ。たまに思いに沈んでいるような年配の男性を見かける。今日、さわやかな秋晴れだった。散歩に疲れ、昨夜の寝不足もあったので、寝転んでうとうとした。目を閉じると音ばかりの世界になる。何種類かの鳥の声が響いてくる。ヒヨドリはヒトの言葉のように、鳴くたびに違う鳴き方をする。自転車のカラカラという音が近づいて遠ざかっていく。遠くから木の葉が転がる音が近づき、顔をなでる風とともに、遠ざかっていく。舗装を歩くヒタヒタとかコツコツという靴音の速さで、どんな人か想像もつく。きっと思っていた以上にたくさんの人が、腰掛け、横になったのだろう。このベンチに心が在ったら、どんな記憶が詰まっているのだろう。ベンチが、眠っている人の夢の中で語りかけてるだろう。入院した時、病室のベッドについて同じ事を考えたのを思い出した。

31    感覚の心でいる時は、自分の外に、一つの大きな、容器のような世界が在って、自分もみんなも地球も宇宙もその中にあるように思える。動物として備わっている感覚の心が、目や耳や鼻や口、皮膚などを通じて、物としての環境を直接感知している。ヒトも、動物として自然体でいる時は、感覚の心が前面出ているので、物としての世界が自分の外に在るように思えてしまう。しかし、こうして考えている自分は、本当は言葉の心の働きなのだ。感覚の心とは異なる次元にいるのだ。感覚の心が得た情報を、言葉に変えて、抽象的な世界を作って、そこにいるのだ。そんな自分が見ている世界は、言葉で出来ている。物でなく情報の次元にある。自分にとっての世界は、脳を駆け巡る信号、言葉、情報なのだ。世界のすべては、信号、言葉、情報なのだ。そんな世界を、人類の一人ひとりの、一つずつの自分が、それぞれ別々に作っているのだ。

32    現在の現実という箱の中の蟻には、箱の外が感知できない。ヒトも感覚の心でいる時は蟻と同じだ。しかし、ヒトには言葉の心が在って、箱の外の、記憶の過去や願望の未来を見ることが出来る。

33    時間は外を流れていると思っている。皆、同じ流れの中に居ると思っている。本当は、一人ひとり、別々の流れが、それぞれの心によって作られているのだ。

 

(13)乳の香り。記憶の過去。

@    どんな苦痛や苦悩や苦難の現実があっても、思い出すと勇気が湧いてくる記憶。条件反射のように、心が温まる記憶。この世で得られる唯一の財産だ。

A   老人ホームの和香会で、香りを聞きながら、突然泣きだす人がいる。記憶の過去がよみがえったのだろう。

B   自力で得た喜びの記憶は、苦難に挑戦するために必要な、自信と勇気を強くする。言葉の心を強くする。与えられた喜びの記憶は依存の心を強くする。つまり感情の心を伸ばす。失意の経験は、言葉の心を委縮させる。言葉の心が逃避しやすく、諦めやすくなる。

C    母とアンコールワットに行った時の記憶を文章にしよう。最後の急な階段を、母は上れず、皆から離れて、二人で見晴らしの良いテラスのある部屋に、残った。急なスコール。空気が冷えてきて、冷たい風が吹いてきて、庭の巨大なやしの木の葉を揺らし始める。雲が迫って、暗くなり、雷が鳴って、稲光もする。大粒の雨が少し先のテラスの石畳に叩きつけてくる。椰子の木が雨のすだれの向こうで、巨大な軍艦の舳先のように揺れている。

D    バンコック。王様の祝日、下町の中華街で昼食。この国の人は猫が甘えるような声で、小鳥が囀るような話し方をする。大きな鳥篭の中で沢山の小鳥達に混ざって聞いている気分。外は雨季の晴れ間、暑い。キンキンに冷えたビールを口に含んで見回せば、壁には料理の紙が神社札のようだ。思い出すと幸福感が湧いてくる。

E    Yesterday:若い頃は早く歳をとりたかった。この歳になって、ふと戸惑う。身体は老いても、心はそのまま、何も変わらない。若い頃は年長者を尊敬していた。それが自分のとっても安心だった。今自分がそうなってみると、心と身体のゆがみに負けそうになる。この先は、暗闇であるかのように思える。

F    古いアルバムを開くと、古い時間が湧いてきた。奥に父母の気配。兄弟の笑い声もする。私の命はもう少し。火鉢に炭で火を熾す。一枚一枚火にくべる。私も父母も兄弟も、笑顔を浮かべて燃えていく。

G    ふと気がつくと、そこに客が座っている。昔のある時点の自分だ。あの時はこう思っていたなと思う。

H    香りを聞いていると、最も楽しかった時の自分、最も悲しかった時の自分が、香炉の中に見える。香りと記憶の関係だ。

I    感覚の心の喜びは、ブドウ畑のブドウの実。小鳥たちを楽しませる。感情の心の喜びは、搾ったばかりのブドウ汁。子供たちを喜ばせる。ふと湧きあがる言葉は、仕込んだばかりの新酒の樽。若者たちを喜ばせる。記憶のワインは無尽蔵。飲めば飲むほど増えてくる。飲めば飲むほど熟成し、飲めば飲むほど蒸留し、命の終わりのその頃は、琥珀色したブランデイー。老人たちを喜ばせる。

J    春。墓地で満開の夜桜に出会う。夏。突然の夕立に呆然として雨と風を見る。「ただ一人、林の中の蝉時雨」。誰そ彼時の、逢う魔が時の、混雑した商店街で、亡父が前を通り過ぎて、人ごみにまぎれていく背中を見た。秋。夕靄に漂う野焼き、夕餉の香り。車窓の闇にポツンと見える遠い灯。「路地裏で、昔の我家の、夕餉の記憶」。「コオロギが心の隙間に住み着いた」。冬。「ビルの向こう、そのまた向こうの、ムンクの夕焼け」。心が日常の重力から離れ、異次元の時空で、重心を失って宙に舞う感じ。

K    ドライブの途中、混雑する道路から外れて、古びたバス停の脇のわき道に入る。舗装の無い一本道だ。古い家並みの間を縫うように続いている。狭い上に曲がりくねっていて、視界が通らず、先が見えない。一方通行で、戻りようが無い。どの屋敷の門も、重厚な木造で、丸みを帯びた形に刈り込まれた植え込みに、花が咲いている。花は梅だったり、しだれ桜だったり、夾竹桃や椿などで、四季の花が入り混じっている。表通りの喧騒が聞こえなくなり。人影は見えず、音もしない。しかしどこの家からも、どこの物陰からも、こちらを見ている人の気配がする。曲がり角ごとに、停留所と墓石が立っていて、通る者を眺めているように見える。好意的な感じがする。ふと停留所の名前を読む。記憶にある地名だ。墓石には、可愛がってくれた隣家のおじいさんと同じ名が刻まれている。手入れが行き届いて明るい感じだ。50年以上前、日曜日の明るい朝、母から、隣のおじいちゃんが死んだと聞かされた事を思い出す。現在の現実だと思って走っていたのは、記憶の道路標識に導かれる過去への道だったのかと思う。過去に進むとは、記憶の世界に進むこと。どんどん進んでいく。もうもどれないなと思ったら、生垣が切れて、元の道に合流して、ダンプの後ろに割り込んだ。

L    ハイキングの途中、過疎の村に入る。老人ばかりだ。家々の軒先から明るい笑顔を送ってくれる。中央に公園があって、ベンチに座る。そよ風が心地良い。少し眠くなる。目の前で祭囃子の笛や太鼓が鳴る。目を開けると深夜。山の端に満月が乗っかって居る。明かりが点され、舞台がすえられ、沢山の若者達が、盆踊りをしたり、夜店を冷やかしたりしている。こんな遅くに、これほど沢山の若者が居るとはと不思議に思う。誘われて踊りの列に入ったり、軒先に招かれて、酒や肴を頂く。すず風で目が覚める。もう明け方だ。ふと奥を見ると、蚊帳が吊られて、老人が眠っている。あの家でもこの家でも同じだ。村中の老人達の共通の夢の中だったのだ。自分も眠ってその夢に迷い込んでいたのだ。この祭りも若者達も、皆、老人達がみている昔のことだったのだ。

M    聞香。記憶するということが、意識的に思い出して頭の中で再現できるようにすることだとしたら、香りは記憶できないことになる。そのような香りも言葉にすれば記憶でき、言葉として頭の中て自由に再現できる。香りの刺激に出会うと、昔言葉にし切れずに思い出せないままの感覚や感情がよみがえってくる。第一香は香りつまり現在の現実を言葉にし、第二香は記憶の過去に収め、第三香は願望の未来つまり生きようとする力、勇気や希望を作り出す。

N    香りの力。「古の、奈良の都の八重桜、今日ここのへに、匂いぬるかな」。今の香りが、昔の香りが今匂っている、ように思わせて、記憶の過去を現在の現実にワープさせる。香りには、記憶の過去や願望の未来を、現在の現実に戻してしまう力が有る。

O    脳には、受けたすべての情報が焼きついている。言葉になっている情報は、言葉の心で操られ、抽象世界を生じる。感覚や感情のまま言葉になっていない情報は、言葉の心では操れず、似た刺激を受けた時に自動的によみがえる。感情の心は言葉にも刺激される。ヒトが他の動物に比べ、執念深く、残酷なのもそれによる。だから、良いコンピュータが記憶を消去する能力も高いように、ヒトも悪い言葉を忘れる力があればいいのだが、無い。出来るのは、抑える言葉を作る事くらいだ。

P    故郷という場所があるのではなく、記憶があるのだ。風景や人間関係、生まれ育ったあらゆる情報の記憶なのだ。故郷へのこだわりは、記憶つまり自分自身を失いたくないという気持ちだ。

Q    写真などを切りそろえる押し切りという道具がある。最近よく使っている。私が幼いころ、父が、写真に凝って、深夜、私が眠る枕元で、写真の現像をしていたのを思い出した。押し切りを使うことを通して、その頃の父になった気がした。幼い私の寝息も聞こえる気がした。父はとうに居なくなったが、この器具は新品同様だ。香りも押し切りも、いつも現在の現実のままなのだ。時間とは何だろう。私には在って香りや押し切りには無いもの、記憶の過去や願望の未来にはあって、現在の現実には無いもの。つまり言葉だ。

R    年末だ。正月の天気予報を見た。強い寒気が列島を覆うという。例年より寒い今日より、さらに4度下がるという幼いころの正月を思い出した。父母も兄弟の顔もよみがえる。あの日と今とは続いているのだが、まったく別世界のように思える。感覚や感情の心が映し出す現在の現実と、言葉の心が作り出す記憶の過去の、次元の違いだ。ヒトは、互いに異次元である二つの世界を見ているのだ。

S    香木を分類して、実家から持ってきた重箱に入れた。実家に誰もいなくなって、重箱がたくさん出てきた。母が茶道の生徒をもてなすために買い集めたものだ。父母が北海道から東京へ出てきて、都営アパートで生活を始めた頃のものもある。子供の頃の正月には、ごちそうが詰まった宝箱のように思えた。我々兄弟が育って、食欲旺盛になって、揃えた大きな重箱もある。子供が巣立った後、いつくるかわからない来客用に揃えたものもある。だんだん高価になる。しかし、食べる人は減り、家族団欒も消えた。価値があったのは重箱ではなく、中身でもなく、家族の団欒だったのだ。

21    過去が色あせて見える理由。それは感覚でなく言葉だからだ。記憶は言葉だから感覚としての色も、音も、感触も無い。現在の現実のバラの花には、色も香りも感触も在る。揺すれば音も在る。記憶の過去のバラは言葉になっている。色も香りも感触も無い。揺することもできない。しかし、現在の現実のバラ色も香りも感触もその場限り。失われてしまい残らない。言葉のバラはいつまでも自分の一部となって咲き続ける。

22    昨日の日曜日、昼食に一人でラーメン屋に入った。続いて入ってきたのは、中高生の姉妹と両親。受験で頑張っているお姉ちゃんは850円のワンタンメン、他の3人は本日サービスの広東メン650円だった。姉妹は互いにスプーンを伸ばして味見をしあっていた。別のテーブルは幼い男の子2人と夫婦。父はビールと餃子、妻子はラーメン2つと半ラーメン。休日の家族の外食。家族との食事は、大人になって、いい思い出になるだろう。

23    今日、いくつか、幼いころの思い出との出会いが有った。暗闇の草むらに満ちる虫の声、ツクツボウシの変わらない歌、昔の家の庭に咲いていたカンナの群生。

24    昨夜、住宅街を車で走っていたら、ポツポツと、イルミネーションに包まれた家があって、もうすぐクリスマス、保険のコマーシャルのように「人間の切ない望みが瞬いている」という感じだった。14年前の夏、ナイヤガラの滝に向かうバスで、林に囲まれた建売住宅の町を過ぎる時、小さな屋根に誇らしげに掲げられた、ダディー メリークリスマス と書かれた板が眼に入った。昔見た「パパは何でも知っている」を思い出して、今アメリカに居るんだなと思った。近づくにつれ、庭は荒れ、窓やドアが板で覆われ、貸家のプレートが斜めに打ち付けられていた。夜、ホテルの冷蔵庫のビールを飲みながら、ダディーは自分のような勤め人だったのか、そのうち、刑務所帰りやベトナム帰還兵が出てきて、考えるのを止めた。あの看板を描きながら笑う母子だけは、確かにいたのだと思った。

25    妻と二人きりになって3年、そろそろ、息子が、幼い日、壊して行った食卓椅子や、大きすぎるテーブルを買い換えようと、家具売り場へ行った。ベビー用品や学習机など、子育てを思い出させる物が目に付き、物悲しい気分になった。ロココ風とか民芸調など「これで寂しさを紛らわせたらいかが」という家具を見るにつけ、侘しさはますます深くなった。家具は、使う人の夢や思い出が滲み込んで完成する、組み立てキットのようなものだ。素材やデザインは無関係だ。今はもう、新しい家具がくれる夢より、古い家具がくれる思い出が大切。昔そこにあった暮らしが化石になって、大理石の模様や銘木の木目のように語り掛けてくる。結局、修理することにした。

 

(14)銀の香り。願望の未来。目的。

@   蜂や蟻は、何のため、誰の為に働くのだろう。本能の命令だ。本能の命令が活動の理由や目的なのだ。本能とは、意思と関係なく自動的に働く脳の働きだ。意思とは言葉の心の働きつまり自分のことだ。ミツバチには意思つまり言葉の心も自分も無いということだ。ヒトでいえば本能は感覚や感情の心に当たる。ヒトも基本は本能つまり感覚や感情の心で活動している。言葉の心はその監査役だ。監査役には実権はない。意見を述べるだけだ。言葉の心の働きである自分は脇役なのだ。主役である感覚や感情の心は、言葉で作った目的や意味は必要としないのに、脇役である自分には言葉で作った目的や意味が必要なのだ。「自分は何のために、誰の為に働くのだろう」という問いと答えが必要なのだ。言葉の心の働きである自分は、本能を抑えるご意見番として身についた能力だ。本能のように生まれながらに完成しているものでなく、未完成のまま生まれ、学習によって成長する力だ。この育成が新しい香の道の目標だ。

A   小田急線小景声がした。俺、カンニングして17だった。俺55しかいかなかった。酸素はオーツーだぞ。すげえなあ。期末テストの季節。そうだ、必要な時に、必要なだけ学べばいいのだ。次の駅で、女性が向かいに座った。求人誌を広げて、赤線を引いたり、折り目をつけていた。それから占いの雑誌で、運勢をじっくり確認していた。

B   赤く青くまだらに光る空に、ヒコウキ雲が走って伸びていく。向こうの窓からこっちを見ている自分が居る。言葉の心だ。

C   湖の岸辺だ。眼前に草の葉が水面に向ってしなって垂れている。その上にバッタが止まっている。沖から静かな波のうねりが寄せている。波紋の下に大きな魚の影が潜んでいる。これから起きることの予感が漂っている。

D   TVで子供向けの「里山の春を見つける」という番組を見た。雑木の葉が芽吹いていた。薄緑色の小さな扇子のような若葉が、枝に並んで天を仰いでいた。葉ですら、夏の葉より、若葉の方が好ましい。なぜか考えた。現在の色や姿や香りでなく、未来が好ましいのだ。感覚の目には見えない、言葉としての未来が見えるのだ。ヒトは未来に生きているのだ。どんなに老いても、病んでも、願望の未来を持つ人が好ましいのだ。

Eウォーキングをしている初老の女性を見かけた。食べたい物を我慢して、辛いトレーニングをして、健康の為に努力することが楽しいのはなぜだろう。健康かどうかは問題ではない。目標を設定し、我慢して努力していることが楽しいのだ。ヒトは癒しより救いを求めるように出来ているのだ。

F   母のいる老人ホームへ行く途中に、住宅地を流れる鶴見川があって、去年渡りをやめたカモの夫婦が居る。今は夏。暑苦しそうにしている。春に生まれた子ガモもいる。この秋、子ガモは旅立つだろうか。遠くに行けるのに行かないのだろうか。ヒトにも言葉の心を生かせるのに生かさないで終わる人が居る。お節介だが、残念だと思う。

G   「♪どこかで春が 生まれてる。どこかで水が流れ出す。どこかで雲雀が啼いている。どこかで芽の出る音がする。山の三月。そよ風吹いて。どこかで春が生まれてる。」春とそれを象徴する、水の音、雲雀の鳴き声、芽吹きの音、そよ風の音。みんな音だ。この作者にとって、春の到来を知らせるのは音なのだ。ただ春が何で、どこから来るのかには触れていない。それに触れたのが次の唱歌だ。「♪朝はどこから来るかしら。あの空越えて雲越えて。光の国から来るかしら。いえいえそうではありませぬ。それは希望の家庭から。朝が来る来る朝が来る。お早う。お早う。」朝とは幸福のことだ。幸福は、外界のどこかから来たり、光る何かから貰ったりするものではない。希望とは願望の未来、つまり目的のことだ。幸福とは目的に向かって、我慢し、努力する過程のことだ。

H   幸福や幸せについて考えた。しないではいられない何かがある時、幸福だ。

I   自分が、体や、感覚や感情の心ではなく、言葉の心だと分かったら、どうすればいいのか。現在の現実より記憶の過去や願望の未来に重点を置いて生きるのがいい。生きている事より生きようとする事に重点を置いて生きるのがいい。苦難や苦悩に対し、打ちのめされたり逃げたりせずに、挑戦する勇気に重点を置いて生きるのがいい。感覚や感情の心に映った事をそのままにせず、言葉にして、記憶の過去や願望の未来に重点を置いて生きるのがいい

J   言葉にする。感情のしがらみからの自由が得られる。救いが得られる。用いるのは、宗教の言葉でなく、哲学の言葉だ。物でなく香りだ。香りの呼び鈴で、言葉にし切れなかった記憶や願望を呼び覚ますのだ。香りの呼び鈴で、願望の未来を作り出すのだ。

K   イソップ寓話。「カラスと水差し (The Crow and the Pitcher)水差しの底にある水が欲しくて、小石を落とし、水位を上げようとするカラスの話。底に水が有って、小石を落とせば水位が上がることを経験で知っているのだろう。しかし、底が見えない。水が在るかどうかも分からない、小石で水位が上がるという経験も無いとしたら、カラスには無理だろう。ヒトだけが、感知できない底の水の存在を予想して、経験も無いまま、願望の未来に挑戦する事が出来る。言葉で願望の未来を作り出せる、それがヒトだ。

 

(15)金の香り勇気、我慢、努力。

@    老人ホームで。生きているだけの顔と、生きようとしている顔が在る。ドラマでも、苦難に耐えて生きようとする姿は感動させる。ヒトの心はそのように出来ている。

A    癒しとは感覚や感情の心の欲望を満たす事。救いとは、言葉の心の願望を満たす事。癒しとは現在の現実に生きている力を得ること。救いとは願望の未来のために生きようとする力を得ること。現在の現実にこだわる癒しは、未来を切り開いて生きようとする救いを妨害することがある。は種と確信、年寄りと若者の争いのようだ。

Bアフリカの熱帯雨林という天国で暮らしていた類人猿が、大地溝帯の出現で、半分は楽園に残り、今のチンパンジーとなり、残りの半分が地獄に追放されてヒトになった。ヒトの心にはチンパンジーと地獄のサルが同居している。チンパンジーとしての心が感覚や感情の心で、ヒトとしての心が言葉の心だ。言葉の心は地獄を生き延びるための心だ。現在の現実の苦痛や苦悩や苦難を克服しようとする。目標が生まれる。願望の未来が生まれる。生きようとする。挑戦する勇気が湧く。我慢し、努力する。チンパンジーからヒトになる。言葉の心は、この願望や勇気によって幸福、つまり救いを得る。苦痛や苦悩や苦難こそ、心を、チンパンジーからヒトに切り替えさせるきっかけなのだ。もし苦痛や苦悩や苦難が無いなら、生きるために、あえて我慢したり努力したりする必要が無いなら、ヒトはチンパンジーのままになる。そして、感覚や感情の心はチンパンジーとしての心だから、苦痛や苦悩や苦難が無ければ、安楽を喜ぶように出来ている。一方で、言葉の心は、願望を持たないという意味で、絶望している。これが退廃だ。

C    未知の事物に遭遇する。恐れて、逃げるか、知ろうと挑戦するか。動物とヒトの境界だ。幽霊や迷信、祟りを恐れる人と、正体を見極めようとする人が居る。恐れる人は、感覚や感情の心でいるのだ。ヒトは普段は動物として感覚や感情の心でいる。言葉の心は消えている。ふと何かを疑問に思うと言葉の心に切り替わる。

D    生きているためには癒しを求めて満たせばよい。順調な時はそれで十分だ。動物としての在り方だ。環境や体調の変化などで、その生き方が困難になった時、救いが必要になる。生きようとする気持ちへの切り替え、つまり、勇気を出して新しい目的を持ち、我慢し、努力する力だ。ヒトへの変心だ。

E    いろいろな道(どう)がある。道とは、癒しの誘惑に打ち勝って、救いを目指す訓練のことだ。坂道で、登るのをやめて楽になりたいという気持ちに打ち勝って、登り続ける気力の訓練。現在の現実の困難を乗り越えて、願望の未来に挑戦する勇気を出せる訓練。安楽への誘惑を我慢して、努力する訓練。つまり感覚や感情の心を、言葉の心に切り替える訓練だ。

F    記憶の過去や願望の未来に生きようとする心。挑戦する心。救いを求める心。

G    自分は言葉の心の働きだ。自分は情報生物だ。自分が生じたのは、環境の大変化に適応しなければ生き残れなかった時代に得た進化の結果だ。大脳新皮質が生じ、言葉の心が生じた。言葉で記憶の過去や願望の未来を作り、現在の現実の苦難を乗り越えようとする勇気の心だ。

H    人格について考えた。感覚や感情の心つまり本能は、人格とは無関係だ。動物としての心だ。生きている限り、動物であることから逃れられない。聖人君子でも、本能が働いている時は動物だ。それでも、言葉の心の成長度合いに差がある。本能の活動を自己抑制する脳の働きの事だ。それが、人格、つまり自分だ。

I    体は癒しを必要とする。感覚や感情の心は癒しを求める。その意味で、体も、感覚や感情の心も、癒しによって支配されている。自分は言葉の心の働きだ。癒しによる支配を拒否して、救いを求める脳の働きだ。感覚の心が映し出す現在の現実、感情の心がそそのかす、恐怖や逃避の誘惑を乗り越えて、困難を乗り越えたり、願望の未来を得るために、挑戦する勇気を生みだす働きだ。

J    感覚や感情の心は現在の現実を映し出している。感覚や感情の心は、現在の現実を受け入れるだけだ。言葉の心は、言葉で記憶の過去や願望の未来を作る。現在の現実を変えたり、乗り越えようとしたりできる。力で現在の現実を支配する武士の権力は長続きしない。記憶の過去や願望の未来を支配する公家や宗教の権力は、時代を超えて続くのと同じだ。

K    自転車で遊歩道を走っていた。昨夜の大雨で、清流に変わった川。シラサギが遊んでいた。大きなコイが群がっているのが見えた。排水溝があって、そこから生活排水が注いでいるのだ。温水や残飯や時には洗剤のような有害物質も流れ込むのだろう。そんな群れに目もくれず、少し離れた清流を、一匹の大きなコイが上流に向かっているのが見えた。

L    自信とは蓄積した言葉から生じる心の力のことだ。事前に言葉で綿密な検証をしたり計画したりしたことは、自信を深める。実行に当たり、予想しなかった苦難や変化にも、挑戦しようとする勇気が湧いてくる。感覚や感情の心のままに着手すると、困難にあったり、状況が変化したりした時に、挫折やパニックが生じやすくなる。

M    本当の強さとは、体力のことではなく、感覚や感情の心の力でもなく、言葉の心の力のことだ。持っている言葉の強さの事だ。苦痛や苦難に耐えて未来を描き、挑戦する勇気を生みだす言葉だ。失敗や挫折で身についた言葉と、苦痛や苦難を乗り越えた過程で蓄積された言葉の戦いだ。「もうだめだ」、「おれには無理だ」という言葉と「あきらめるな」「おれならやれるはずだ」という言葉との戦いだ。

N    パンを与えるか、畑を与えるか、農業を教えるか。魚を与えるか、釣り道具を与えるか、釣りのノウハウを伝えるか。ノウハウが有れば道具は作れる。道具が有ればいつも新鮮な魚が得られる。大切なのはノウハウ、未来を開くための言葉だ。

O    人生が虚しく思えるようになったら、そのことを言葉にすればいい。書くなりして言葉の国に放り込めばいい。かぐや姫が地上の生活を捨て、月に帰ったのは、そういう物語だ。

P    体の寿命は、遺伝子操作や移植などでどうにでもなる。感覚や感情の心も、薬物などでコントロールすれば、苦楽は操作可能だ。動物としてのヒトの体や心は、このような存在だ。しかし、ヒトとしての命の質を決めているのは言葉の心で、その働きである自分は、別の在り方をしている。情報生物だから、もともと不老不死だし、本籍は言霊の海にあって、その時々の言葉の心に受信されてその自分となり、また発信されて、元の言霊の海に戻る。体や、感覚や感情の心が用いる薬や手術や遺伝子操作の代わりに、言葉や絵や文字を駆使しているのだ。

 

(16)白金の香り。言霊。救い。

@    現在の現実が体を支えている。ヒトはさらに、記憶の過去や願望の未来でそれを補助している。記憶の過去の祖先たちや、願望の未来の子孫たちが支えている。ヒトは、現在の現実の仲間だけでなく、過去や未来の仲間に支えられている。

A    言葉の心は疑問文で活動を始める。疑問は言葉の不足によって生じる。解答の言葉が見つかる。納得する。これが救いだ。しかしすぐ、その回答文に対する疑問文が湧いてくる。救いは消え疑問が生じる。このように疑問と救いが繰り返されることになる。それが、ヒトの生き方だ。疑問から逃げてはいけないということだ。自分は疑問と共に生じ、疑問を糧に成長する情報生物なのだ。疑問と共存するにはどうすればいいのだろう。言葉の心を鍛え育てることだ。疑問が湧かないから救われているという訳ではない。疑問が湧かないということは言葉の心が眠り、感覚や感情の心つまり動物としての心が優勢な状態だということだ。ヒトとしての救いではなく、ヒトとしての絶望、動物としての逃避なのだ。

B    このリンゴとあのリンゴは、この目に見える通り、別々だ、と思うのは感覚や感情の心の働きだ。リンゴという言葉を作れば、このリンゴもあのリンゴも、地球の裏のリンゴも、誰かの心の中に映るリンゴも、絵や本のリンゴも、すべてのリンゴが同じになる。それでもリンゴとミカンは別々だと思えてしまう。果物という言葉を作れば、リンゴもミカンも見た事も食べた事もない果実のすべてが、同じになる。言葉の理想的な働き方は統合する働きにある。しかし、自然科学や社会科学は、差異を見つけ分断するように言葉を使ってきた。小さな言葉だ。これから求められるのは統合する大きな言葉だ。新しい香の道の目標だ。

C    子を抱く母親、孫の手を引く祖父、ペットの世話をする老人。相手に癒しを与えることで救いを得ている。しかし子や孫やペットによる救いはいつか去っていく。言葉による救いは、一生消えない。

D    ヒトは生まれた時は動物で、成長に従い言葉の心が育って、ヒトになる。言葉の心が未熟なうちは、感覚や感情の心が優勢だ。先人の言霊が流入するにつれて、言葉の心の視座から事物を見ることが出来るようになる。具体的な現在の現実を超えて、抽象的な記憶の過去や願望の未来を見ることが出来るようになる。自身を超えて、時空を越えて、人類の立場で見ることが出来るようになる。

E    お金は感覚や感情の心の癒しとの交換に用いられる道具だ。癒しを提供する店が繁盛している。未来の癒しを貯める為にも用いる。進学塾など、未来の癒しを提供する店も繁盛している。お金で救いは買えない。救いは、お金とは異次元なのだ。救いを得る手段は言葉なのだ。

F    苦しみについて考えた。五感に受ける刺激によって引き起こされる苦しみと、言葉、つまり記憶によって引き起こされる苦しみがある。前者は原因が消えれば消えるから、ここでは問題にしない。記憶は、消えない。生きている限り苦しめ続ける。年を重ね。思考を重ねるうちに、それまで悪いことだと思わなかった記憶が、悪いことに分類されるようになって、反省や後悔という苦しみを引き起こすようになることも多い。一度蓄えられた苦しみの種の記憶は、喜びの言葉を増やしても、奉仕や慈悲の善行を重ねても、消せない。そんな苦しみをもたらす記憶の方が喜びをもたらす記憶より圧倒的に多い。苦しみの記憶を背負ったまま人生を終わるのは、なんともやりきれない。一つ一つ思い出し、わが身を呪い続けるしかない。天罰だ。どうしても消せない、つらい記憶がある。子供の頃に、感覚や感情の心のままにしてしまった事が、その後言葉ができて、悪いことに分類されて、時に触れて、ガスの気泡のような苦しみが湧いてくる。因果応報、天罰というものだ。言葉の心の働きである自分が、感覚や感情の心である自身に対して下す天罰だ。こういう苦痛は、避けられない。死ぬ前に何とかしたいと思う。四国のお遍路にもそういう人がたくさん来るのだろう。しかし、消せない。

G    罰が当たるとは。子供の頃、蟻を捕まえ、つぶしたり、足をもいだり、牛乳瓶に入れて放置したり、水中に沈めたりした。ここまでの人生で、他人の心に対しても同じようなことをしてしまった。感覚や感情の心に任せてやってしまった。後日、自分も同じ目にあったり、他者同士のやり取りを目にしたりして、言葉の心が発達して、そのことが、してはいけないことだという言葉を得ることになる。その言葉は終生自分を責め続ける。その苦しみは何をしても防げない。それが地獄、天罰の正体だ。昔誰かを傷つけたことを思い出し、後悔の念に身を刻まれるような苦悩を生じる。その当時はそのことが、感覚や感情の心のまま言葉にしていなかったので、善悪や相手の苦痛をなんとも感じなかったが、後日自分の中に、そんな自分を裁く言葉が生まれ、苦しみが始まる。出家をしたり、他人の痛みが分かるということはそういうことだ。

H    救いとは、言葉の心が満足している状態のことだ。感覚や感情の心には生じない。感覚や感情の心には、満足不満足と、快不快が自動的に生じるだけだ。刺激が無ければ無いで、感覚の心における空腹や渇きに当たる感情の心の退屈という不満や不快が生じる。感覚や感情の心には、救いは無い。生命活動そのものが不満や不快の原因なのだ。一方で、感覚や感情の心には、現在の現実への不満や不快はあっても、受け入れるばかりで、挑戦の苦しみは無いなのだ。ヒトは、この種(しゅ)の苦しみから逃げようとして、死を選んだり、動物に退行したりする事がある。それはヒトとしての立場、言葉の心の働きである自分を放棄することだ。

I    子供の頃に暗記した和歌や論語は、一生の宝だと思う。その時は何の役にも立たないが、大きくなって、苦難や苦悩、迷いや興奮に流されそうになった時、この言葉たちが湧いてきて、言葉の心の働きである自分を支えてくれる。

J    カエルが産卵するTVを見た。一匹が千個以上生むということだった。水が気化すると、体積が1600倍になる。原子力では、無限大のエネルギーになる。このカエルも、一匹が千匹になる。ヒトの出産はもっと少ないが、それでも千年単位で見れば、気が遠くなるほどの人数が生まれる。1個とか1匹とか一人というのは無意味に思える。種(しゅ)全体で一つなのだと分かる。

K    久しぶりの休日、一人暮らしの母を訪ねるか、孫を訪ねるか迷っていた。母は必ず喜んでくれる。孫は最近、あまり喜んでくれない。母には、喜びを与えているという喜びを貰っている。孫とは、一方通行だ。孫のほうは、思い出すだけでいい。行くのは母の方にしよう。

L    言霊は進化する。或る時代の人が「人を殺しても良い」と言う。その言霊が次の時代の人の心を通過して「事情によっては、人を殺しても良い」に進化する。その言霊が次の時代の人の心を通過して「どんな事情でも、人を殺してはいけない」に進化する。その言霊が次の時代の人の心を通過して「人以外の生物も殺すのは良くない」に進化する。

M    この体と自分の関係。今、母のところに向かう途中のコンビニで弁当を食べている。横の席の若い女性も何か昼食を食べている。この人の中には未来の子供がいるのだと思う。いやその半分か。あと半分はこの地球のどこかの誰かにいるのだろう。その誰かは数十億人の♂の誰でもあり得る。そう考えると、未来の子は、特定の誰かの子ではなく、人類というスケールでの子孫なのだということになる。

N    ゲームで遊んでいる人がいる。競争差別の感情の心の癒しを求めている。ゲームでお金を稼ごうとしている人も居る。目的によっては、本人は必死で救いを求める気持ちなのだろうが、やはり、競争差別の感情の心の癒しを求めていることに変わりは無い。投資家や事業家も同じ事をしている。お金には救いの力は無いのだが、救いが買えるのだと仮想してゲームが成り立っている。救いを求めて癒しのゲームをしている。ジンバブエの通貨の崩壊の事を思う。「今回発表された米ドルとの交換レートは、残高が17.5京ジンバブエドルまでの銀行口座に対し、受け取れるのは5米ドル(約620円)。お気に入り詳細を見る これを超える残高がある場合は、1ドル(約123円)=3京5千兆ジンバブエドルで交換するとしている。つまり、約300兆ジンバブエドルにつき1円程度にしかならない計算になる。」WIQ.

O    体と体のDNA、自分と言葉のDNAとの関係について考えた。体は体のDNAが勝手に作る。感覚や感情の心つまり本能は、ヒトの動物としての働きで、体のDNAが勝手に作る。自分は言葉の心の働きだ。体のDNAが器だけ作って、中身は自力で作らねばならない。自分を、この自分だけの、孤立した存在だ思ってしまいがちだ。自分は、先祖代々蓄積してきた言霊の海から流れ込んだ言霊で満たされていく。自分は言霊の海と一体なのだ。情報には、部分も自他の区別もない。体は体のDNAの海から流れ込んだ体のDNAによって作られる。体の正体はこの体のDNAだ。体のDNAも情報だから、部分も自他の区別もない。体も言葉の心の働きである自分も、大きな情報の海に属する情報なのだ。言葉の心の働きである自分は情報だから、物は所有できない。そのことを、香りを聞くことで体験しよう。香木がある。香木の状態では誰かの所有物だし、もし所有者がいなければ、みんなが所有したいと思ってしまう。香木を焚くと、煙と香りになって四散する。もう誰にも所有できない。みな一緒に、平等に分かち合うしかない。しかも所有しているわけではない。誰も、争って所有しようとも思わない。情報である自分にとって、この世のすべては、情報なので、所有できないのだ。自分を物だと錯覚するから所有したくなるのだ。自分自身も、もちろんこの体も、この命も、所有できないのだ。そう思うと、心が安らぎ、穏やかに共存できるのだ。それが救いだ。何かをするとか、得るというのはどうでもよい事だ。しないではいられない気持ち、それが幸福なのだ。願望が作り出す幸福なのだ。

P    体が水たまりで、感覚や感情の心が魚だとする。感覚や感情の魚は、水たまりと共に生じ、水たまりと共に消える。言葉の心をトンボとする。トンボは、水中から空中に飛び立つ。また別の水たまりに産卵する。水たまりより前からいて、水たまりの後もい続ける。言霊の話だ。

Q    住宅地のはずれの雑木林を自転車で抜ける。黄金色や紅色の落ち葉が敷き詰められた泥の小道。晩秋。轍の跡には黒土がはみ出ている。命の働きが、土の成分や日差しや雨を組み合わせて葉を作り、命の働きが消えて、土に戻ったのだ。命の働きとはなんなのだろう。眼前の樹がそうなのだろうか。これは命の働きの結果であって、命の働きそのものではない。DNAだろうか。DNAはこの樹のどこにあるのだろう。細胞の中にあるのだろう。今だけここにあるのだろうか。木は、今はあっても、やがて消えてしまう。DNAは情報だから40億年前から在り続け、これからもずっと在り続ける。この樹が消えても、種(たね)が残るし、種(たね)が出来なくても、同種の樹に在り続ける。言葉が、発した人が消えても、直接聞いたヒトが消えても、多くの人に広がって残るように。香りは、香木が燃え尽きても、消えない。香りの微粒子だけでなく、香りが言葉にされて発信されて、言霊になれば、いつまでも在り続ける。

R    今朝、英国のBBCで、遺伝病をもつ両親の胚細胞から問題の無い部分を取り出し、第3者の問題のある部分と入れ替えることが議会で承認されたというニュースをやっていた。これによって、ある家系の遺伝子が永久に変わってしまうことが問題だとされていた。動物としてのヒトの正体は体のDNAつまり遺伝子だが、情報生物としての自分の正体は、言葉のDNAだ。さらに言えば、体のDNAは単独に在るのではなく、人類共通の海として在るのだ。そして、情報生物としての自分の正体である言葉のDNAも、自分独自にあるのではなく、文化として、人類共通の海として在るのだ。

S    バラバラに見えているすべての自分は、言霊の海から生まれ、言霊の海に帰る。、一つの海の一部なのだ。

21    言霊の海は知の畑だ。作物を収穫しよう。その畑の作物は自分、世界、時間だ。

22    体が死んでも、言霊は響き続ける。登山者の叫びが、木霊になって、何度も繰り返すように。言霊の木霊は、ヒトがいる限り、何度でも、いつまでも繰り返す。これが言霊の海だ。

23    善人なおもて往生する。天国の入り口は狭い。そしてその入り口は地上のどこにもない。教会や寺を探しても無い。それは、自分の心の中にある。抽象的な言葉の世界を築いた者にしか入れない。言葉の心に切り替わった瞬間しか開かない。自分が善人だと思うことは、感覚や感情の心の働きだ。自分を悪人だと思う事は、言葉の心の働きだ。

24    人生の始まりと終わり。すべては現在の現実から始まって、現在の現実とともに終わる。ように思える。体、つまり感覚や感情の心についてはそうだ。しかし、言葉の心は、現在の現実を、言葉に、つまり記憶の過去や願望の未来に作り直す。香りは現在の現実だ。香りを言葉にする。そして言葉を発信する。言霊になる。言霊は情報だから、終わりはない。死も無い。勿論体とともに崩壊消滅する現在の現実にはいない。燕のように、冬が来る前に南の国へ飛び立とう。

25   一人ひとりが、別々に、言霊の海から言霊を受信して、心の中に自分や世界や時間を作り広げている。今朝、夢の中で、教室にいて、授業を受けていた。大学ノートが開かれ、今考えている事の表題が書かれている。自分とは、言葉とは、時間とは、などだ。話を聞きとり、書き込み、ノートの空白を埋めようとしている。ああ、こうやって自分の中に言霊を蓄え、自分や世界や時間を育ててきたのだな、と得心する。父母や祖父母、友人や知人、本や映像や写真や音楽から流れ込む言霊、それらは海から来て、自分を経て、海に帰るのだなと思う。言葉を発信して、言霊にして、言霊の海に戻す。今度は自分が演壇に立って、一生懸命話している。何を話しているかは定かではないが、誇らしい気持ちで話している。誰かが聞いてくれている喜びがある。

26   100円ショップで買い物をした。香(こう)に使える小道具探しだ。どうせみんな安物だという気持ちで、眺めていた。冬の陽が店の棚の奥を照らしていた。近づく正月の為の、朱や金色をプリントした茶碗などの食器が並べられていた。ふと、若い夫婦が、正月を迎えるために、この棚の商品を買う情景を思い浮かべた。さぞ楽しいだろう、晴れ晴れしいだろうと思った。子供がいればなおさらだ。高価で立派な食器を使っても、子供のいない老夫婦に喜びはない。大切なのは、物ではないということだ。香は、そんな見えない大切なことを教えてくれる。

27   アカボシゴマダラ。自転車で、林の中を通っていた時、奇妙な蝶が横切った。日本にいるはずのない、南方系の蝶だ。白地に黒い筋と赤い点が特徴だ。最近こういうのが多い。誰かが飼育して放し、その子孫が自然に繁殖したのだ。前方の木々の奥にもそれらしいのが飛んでいる。自然に繁殖をしているのだろう。百万年前、少数の新人類がアフリカを出発したことを思った。いま70億人が地上に広がっている。さらに40億年前に地上に降ってきたDNAのことを思った。命の一つ一つに我が在って、競争差別の争いをしている。これらは大きな一つの何かの一部なのだろうか、それとも沢山の別々なのだろうか。DNAや言霊の海として見れば一つだが、命の一つ一つから見れば、不倶戴天の別々なのだ。

28    今日は、一日、春の雪。車のフロントガラスに、雪片が舞い降りたと思う間に溶けて流れていく。明るい空から、どんどん湧いてくる感じだ。雪が降ったり、川が流れたりを、見つめていると、昔のことが思い出されるのは何故だろう。変化するものを見ると脳は刺激され興奮して、記憶の再生のスウィッチが入るのだろう。ある歳になると、思考は過去へ向うのだろう。雪の結晶が溶けるのを見て、子供の頃は不思議な気分だった。大人になると、一つ一つが自分のように見えて、はかなく思えた。今は、凍ってぎざぎざしていた自分が溶けて、皆と合流して、海に帰って行くような安らかさを感じる。明日から春の暖かさの到来とか。春の小川は、さらさら行くよ。観自在菩薩 般若波羅蜜多時。岸のすみれや、れんげの花に、照見 五蘊皆空 一切苦厄。すがたやさしく、色うつくしく、色即是空 空即是色。咲けよ咲けよと、ささやきながら。受想行識 亦復如是。

29    生者の言霊の働き。各人が発信した言葉が言霊になって、記録や記憶になって、言霊の海の一部になる。死者の言霊の働き。壁画や、伝説や、本等の記録や、生者の記憶という言霊の海に居て、読まれたり、話されたり、思い出されるたびによみがえり、生者の心に入り、生者の自分の一部になる。

30    今日は一日雨で、外出がおっくうだ。本棚に目をやる。背表紙に、本の名前と作者の名前が書かれていて、こちらを見返してくる。昔読んだ本が目についた。なつかしくて開いて読んだ。昔のまま、何も変わらず、現実に語りかけてくる。この作者はどういう状態なのだろう。体はもういないはずだ。でもここにこうして確かにいる。読者だけでなく家族だってそう思うことだろう。古い写真を見て懐かしがる以上に、確かな存在感がある。ヒトの本当の姿は言霊だと分かる。

31    輪廻との関係。輪廻と言うと体が生まれ変わり続けることを思いがちだが、体の様な物ではなく、この言霊という情報のことだ。体には始まりや終わりが有るが、情報には終わりは無い。ずっと在り続けているのだ。

32    祈りと薫香。祈りとは何だろう。言葉で願望の未来を作る事だ。ヒトの脳の大切な働きだ。祈りというと、出来あいの言葉を唱えたり、偶像を拝んだりするイメージが強い。その宗派に浸っている人ならそれでよいが、一般の人にとっては、敷居が高い。薫香をすると、香りが生じる。感覚や感情の心は香りだけに集中する。つまり雑念が消える。感情の心は霧散する。言葉の心が優位になる。言葉が生まれる。願望の未来が見える。香りを言葉にしようとする行為はそのまま祈りの行為になるのだ。この全体を香(こう)と呼ぼう。

33    教室にいる。入学したり卒業したりするたびに教室を移動する。学校の教室が終わり、社会の教室に入る。社会の教室も卒業、心の中の教室に座っている自分に気がつく。思えば生まれてずっと、この教室のこの席に座って、どこにも行かず、ここにいたことに気がつく。学校や社会の教室は夢だったことに気がつく。病気で教室から消えたはずの友人もここにいた。いまやっと安らかに学べる気分になる。

34    釈迦の暗号。人は自分の体験ばかりでなく、言霊になった先人の体験を再体験することが出来る。2千年前の釈迦の体験が、言霊になって、今も漂い続けている。しかし苔むして判読し難くなっている。暗号というのはそういう意味だ。

35    一人ひとりの体験は、言霊になって、言霊の海に流れ込む。古代ハスのように、2千年後でも、きっかけがあれば開花する。体のDNAとは違う方式で伝達される言葉のDNAだ。

36    ヒトは、他の生物とは異なり、体のDNAつまり体が進化をしなくても、言葉のDNAつまり言霊で進化する。物の世界では、核分裂が、ものすごいエネルギーを放出する。心の世界でも、言霊が、別次元の力で世界を変える。百万年前に、アフリカの数百人に言霊の進化が生じ、彼らを旅に出させた。数千年前には、ゼロや空を見つけさせ、20世紀には、地球の限界に到達させた。言霊の核分裂装置つまり原子炉である言葉の心は、一人ひとり別々に備わっている。言霊は、人類の一人ひとり、洞窟の壁画や図書館にたくさん残されている。いつか臨界点を超えて爆発する。そして、ヒトは、体や、感覚や感情の心の呪縛から解放される。

37    冨には、現在の現実の冨と、記憶の過去や願望の未来の冨が在る。宗教的にいえば地上の冨と天上の富だ。この世の富とあの世の富だ。この世の富をあの世の富にする事は出来ない。生じている次元が異なるからだ。この世の富は個人に属するが、あの世の富はみんなのものだからだ。あの世の富の正体は言霊だ。脱皮したさなぎの殻を背負ったままの蝶のように、自分をくっつけたままではこの世とあの世の間の壁を越えることはできない。感覚や感情のしがらみを言葉に変え、発信して言霊にすれば、みんなのものとなり、言霊の海の一部になる。

38    生き物は皆、喜びを求めて活動している。感覚や感情の心の喜びは、生きていること、癒しを得ることだ。ヒトにはもう一つ言葉の心があって、言葉の心の喜びは、生きようとすること。体や、感覚や感情の心、つまり動物としての自身からの解放つまり救いを得ることだ。

39    他者を癒すと自分が救いを得る。その間、自分の癒しに執着する動物としての本能から自由になれるからだ。救いは言葉になって記憶され、その時ばかりでなく、生きている間中、思い出すたびに救いがよみがえってくる。さらに、言葉の心の成長に伴い、癒す対象も、仲間や家族といった狭い範囲から、みんなへと広がっていく。癒しの対象が広がることは、結果として自分の救いの機会も広がるということになる。他者を癒し、自分の救いとしよう。香(こう)はその良い手段だ。感覚や感情の心は、どうされると癒されるのだろう。言葉の心はどうされると救われるのだろう。感覚や感情の心は快楽や安楽、競争差別などの癒しを求めるように出来ている。言葉の心は、感覚や感情の心から救われることを求めるように出来ている。救われるとは、自分以外の利益を求め、自分の利害を忘れることで生じる。自分は言葉の心の働きだから、癒しではなく救いを求める。どうすれば他者を癒し、結果、自分の救いを得られるのだろう。香(こう)はそのために役に立つはずだ。

40    救いとは自己を実現することだと言われる。実現するというと現在の現実の事、虚しい感覚や感情の次元になってしまう。本当は実現する事ではなく追及することだ。次元を越えようとする我慢や努力の事だ。本当は何でもよいから目標を追求する事だ。その目標にふさわしい一つが自己実現だ。他己実現の方が上等な気がするがここではそいういうことにして話を進める。自己実現の実現すべき自己とは、動物としての心、つまり感覚や感情の心からの誘惑を抑えようとする、言葉の心の働きである自分のことだ。救いを、心の永続的な安定だとすると、体や、感覚や感情の心の安定は活動の停止、死によってしかもたらされない。生きている間に得られるのは、一時の癒し、快感と安楽だ。言葉の心の働きである自分の救いは、言霊になることよってもたらされる。言霊には、自分の、とか他人の、という差別は無い。普遍的な存在だ。自己実現とは、自己つまり自分、つまり言葉の心の働きが生み出している自分を、言霊として実現することだ。言葉の心の働きである自分の救いは、言霊になることによってしか得られない。

41    祖先を喜ばせることをしたいと思う。祖先とは何だろう。その前に自分とは何だろうということになる。自分を体だとすると今生限りだし、体のDNAだとすると2の数十億乗の祖先がいることになる。それを体のDNAの海と呼ぼう。今、地上にいる生物はすべて共通の「体の祖先」から生じている。体の祖先が喜ぶのは体のDNAの海が繁栄することだとする。あらゆる生物の、体のDNAの海を繁栄させること、ということになる。動物は兄弟である他の生物を食べて生きている。それが動物の在り方だ。動物は、自身を喜ばせることと、あらゆる生物を喜ばせることを両立できない。自身もDNAの海の一部だから、自身を喜ばせることは、あらゆる生物を喜ばせることと重なる部分もあるが、動物にはそんな矛盾が内包されている。香心門では、自分は言葉の心の働きで、自分の祖先とは言霊の海のことで、自分の祖先を喜ばせるとは、言霊の海と言葉をやり取りし、豊穣にすることだと考える。これなら両立できる。

42    「体のDNAの海」という大きな樹の枝先に毎年咲く、花の一輪が体で、種子がDNAだ。その種子はそのまま元の樹の一部なのだ。DNAは物でもあり情報でもある。物としてはバラバラでも、情報としては全体で一つなのだ。ある知恵が生まれたとする。どんどん伝わり、多くの人の身に付いたとする。知恵を持つ人数は増えても、知恵は、もともとの知恵のまま一つなのだ。イメージを伝えにくいが、そんな感じだ。一方で、大きな樹が咲かせている花の一輪、つまり個々の体は、感覚や感情の心が映す小さなだ。抽象的な存在である大きな樹を見るには言葉の心が必要だ。感覚や感情の心には、具体的な小さな木しか見えない。

43    感覚の心では救われない。感情の心でも救われない。癒しでは救われないのだ。言葉の心になって救われる。感覚や感情の興奮を言葉にして、自分に対して発信して言霊に変え、我執から解放する。この我執からの解放が救いだ。

44    ホームの母に面会に行く時は、アイスクリームを持っていく。美味しそうに一口食べては、もう食べられないと言いながらこちらに押し出してくる。私がいらないといってしばらくすると自分の方に引き寄せてもう一口食べる。自分で食べる一口より、子供に食べさせる一口の方が美味しいということなのだろう。

45    救いとは、自分へのこだわりからの解放のこと。現在の現実からの解放のこと。

46    遠方に住む親が危篤で、急いで帰るように言われた医師がいたとする。担当している患者も危篤だったとする。患者の看護を選んだとする。危篤の親の元に駆け付けて得られるのと、どちらが本当の救いなのだろう。親の元に駆け付けても、危篤の親への思い、苦悩は消えない。患者の治療に没頭している間、親のことを忘れることが出来たとする。救われていたのだ。他人を癒すことで自分が救われる。自分のことを忘れられる。感情の心を抑えることで救われるのだ。

47    個人の命を超えた何かをイメージさせ、共有させる。それによって、感覚や感情の心の働き、つまり動物としての心の働きを鎮め、現在の現実から解放し、個人個人バラバラの心を束ね、願望の未来を共有させる。その正体は言霊だ。

48    体も心も、一つ一つが別々で、それぞれに始まりと終わりが在るように思える。さらに、その一つ一つに祖先という血のつながりの糸が在って、その一本一本が別々のように思える。特に、自分とその周辺の人々の関係を見て考えると、その感は深い。しかし、昆虫など、自分とかけ離れた、感情移入せずに見ることが出来る命の流れを見ていると、卵、幼虫、さなぎ、成虫、卵、幼虫、さなぎ、成虫・・・という輪が果てしなく転がっていくのがわかる。そして、この一匹とあの一匹の縦の関係など無視して、大きな一つの命のように見ることが出来る。これが輪廻だ。さらに種(しゅ)を越えて、食べたり食べられたり、寄生したり、利用し合っているのをみると、さらに大きな一つのように思える。これが連鎖だ。そして、化石などから、進化の過程を思うと、地上のあらゆる生物は、ただ一つのDNAの成長過程であって、その樹齢40億歳の樹が咲かせている、その時々の、それぞれの花だと分かる。

49    川沿いの遊歩道を自転車で走っていると、遠くの前方に、初老の男性の後ろ姿が見えた。誰にも見られないようにして、鯉に餌をやっていた。私が近付くとその場を離れて、うつむいて歩き始めた。寺社でお賽銭を上げているヒトは、他人の目は気にしない。願い事があってその成就を願っているからだ。そっと、隠れて、動物に布施をしているのは、何かの償いの気持ちなのだろう。後晦、懺悔なのだろう。だからそんな姿を他人に見られたくないのだろう。してしまった時には、そのことは当時の自分の中では、悪ではなかったのに、人生を重ねていくうちに、言葉が増えて、そのことが悪に分類されるようになる。歳を取るにつけ、そんな旧悪が増えてきて、後晦、懺悔の気持ちは増すばかりだ。救いに必要なのは、後晦や懺悔や布施などの癒しではなく、救いの言葉だ。

50    自分と言霊との関係はこうだ。自分は言葉の心の働きなのだが、感覚や感情の心との三人兄弟だ。長男や次男の方が三男の自分より圧倒的に強い。だから、一緒にいる限り、長男や次男の競争差別の心に支配されている。三人とも一つの体の中にいて、自分だけ独立する事はできない。だからせめて言葉を発信する。言葉は、体から発信されると、感覚や感情の心だけでなく、自分という束縛からも自由になる。これが自分と言霊との関係だ。

51    競争差別の衝動は、感覚や感情の心つまり本能から湧いて来る。外とみなした対象に発揮され、内とみなす対象には生じない。細胞の免疫システムと同じだ。本能は、生きているための基本的な心の働きだ。動物としての心だからヒトの規範を外れて暴走もする。しかし無くすことは出来ない。できるのは、内とみなす対象を、自分から家族、隣人へと広げていけば、いつか直接かかわりの無いものや敵すらも対象となり、競争差別の本能の発現が減り、動物としての心から自由になれる。どうすれば、内とみなす対象を広げられるのだろう。それは言葉の心の成長によって可能だ。キリストの「隣人を愛せ」「敵を愛せ」とは、現在の現実の中でそのように振舞えというより、言葉の心でそう思いながら生きろという意味なのだろう。

52    不平等は競争差別の心を掻き立て、ヒトの心を残酷にさせる。平等はヒトの心をやさしくする。香りは独占できないという意味で平等だ。だから香りの前ではヒトは和む。和香会の目的だ。死者がいると、ヒトの心はやさしくなる。死の前では、ヒトは平等だからだ。苦しむ人がいると、ヒトの心はやさしくなる。苦しみの前では、ヒトは平等だからだ。高齢者がいると、ヒトの心はやさしくなる。老いの前では、ヒトは平等だからだ。ヒトは自分の命について時計も物差しも持っていない。他者と比較するしかない。自分より年上のヒトを見ると希望が湧いてくる。何となく年齢の順に死ぬのだと信じているからだ。年上のヒトの背中を見ると、そこまで自分の命が保証されている気分になる。老人はみなに安心を与える。老人はさらに高齢の老人の背中に照らされて、若い人に光を与える。月のようだ。最高齢の老人には、もう前を行く背中が無い。太陽のように、自身が光っている、という意味で仏なのだ。

53    苦しみの多い人ほど、障害の重い人ほど、寿命の終わりが近い人ほど、神仏に近い感じがする。神仏とは何か。無欲のお手本のことだ。救われている姿の見本と言うことだ。周囲の人にとっては、その存在そのものが香木で、姿が香りだ。ラオスの山越え街道の入り口に石の小さな祠が在って、入山の際に皆、立ち止まって、山越えの無事を祈り、タバコなどの供物を備えていた。障害のある子供が堂守をしていて、お供えのたばこを吸いながら、笑顔で見送ってくれた。

54    蜂が花粉を配って蜜を集めるように、ヒトは癒しを配って救いを得ることができる。見返りに何かを求めると救いは生じない。相手が感謝して、何かをくれるのは、相手の勝手だ。相手に癒しを配って、見返りを求めなければ、自分に救いが生じる。苦しみとは自分への執着から生じる心の状態のことだ。救いとは、自分への執着から解放された心の状態のことだ。自分への執着が消えた心の状態だ。相手の立場に立つと自分を忘れることが出来る。大切にしているものを手放すと、自分から離れた心の状態になれる。子供に手がかかる間は、親は救われている。子供の事のかまけて、我を忘れる。愛する何か、信じる何かに尽くすというのも救いだ。

55    他人を癒すことと、自分が救われること。他人を救おうとして、街角で布教をする人を見かける。誰も寄り付かず、避けている。門付けの僧は、布教はしない。他人に喜捨する喜びつまり救いを与えているだけだ。その結果、僧は癒され、喜捨した人は救われる。芸人や芸術家、人を喜ばせることが好きな普通の人も、そうだ。みな他人に癒しを与えて、救いを得ている。

56    欲望と願望。欲望とは感覚や感情の心が癒しを求める自動的な衝動のことで、願望とは言葉の心が救いを求める意識的な働きだ。欲望は、日々渇きと癒しが際限なく繰り返す波だ。個々の利害で争い、互いに消しあうことしか出来ない波だ。願望は言葉という、自他の差別も無い、共有可能な波なので、協力する事が出来る。願望を発信すれば言霊になって、他者に伝わり、時空を超えて共有も協力も出来る。

57    人生に目的は在るのだろうか。体の成長は目的ではない。快楽や安楽は、手段であって目的ではない。物や衣食住も手段であって目的ではない。自分は言葉の心の働きだ。言葉を発信して、言霊にして、人類の言霊の海に戻し、海を一滴分深くすることに目的が在るように思える。海はまた別の言葉の心に流れ込み、その自分となる。そこにもっと大きな目的が在るように思える。

58    自分の為に何かをするのは、感覚や感情の心の働きだから、現在の現実の癒ししか得られない。他者の為に何かをすることは、言葉を発信して言霊にするのと同じ、言葉の心の働きだから、救いが生まれる。それが新しい香の道の目的だ。

59    今日の和香会では、清少納言の曽祖父の歌「夏の夜は・・・」をとりあげた。1200年も前の歌だが、今の、自分の心のように思われる。読み人と、1200年離れた自分と、何がどうつながったのだろう、感覚や感情の心ではつながりは見えない。言葉の心には言霊が見える。時空を超えて、同じ言霊の海にいるということなのだ。

60    チンパンジーは、困っている仲間を見て、助けを求められれば助けるが、求められなければ、何もしない。他者の苦痛や苦悩を類推する力は小さいのだろう。親しい仲間への支援は動物でも出来るが、不特定の相手に、ボランテイアができるのはヒトだけだ。それが新しい香の道の目的だ。

61    お金を使った後の満足感。自分の為に使った後より、誰かの為、みんなの為に使った後の方が、いつまでも良い後味が残る。自分だけがごちそうを食べた後より、みんなにおにぎりをふるまった方が、いつまでも思い出して味わい直すことが出来る。現在の現実の自分の為に何かをするのは、感覚や感情の心を癒すための行為だ。感覚や感情の心の癒しはその瞬間限りで、記憶できない。終われば消えてしまい、再生できない。他者の為、みんなの為、未来の自分の為にする行為は、言葉の心の働きで、記憶でき、いつでも喜びを再生できる。香(こう)も、アロマとして味わうだけなら犬にかなわない。言葉にしてこそヒトとしての行為になる。それが新しい香の道の目的だ。

62    救いとは、現在の現実の縛りから脱出すること。感覚や感情の心から言葉の心に切り替わること。さらに自分を託した言葉を発して、生老病死を超えた言葉、つまり言霊にする事。和香会の救いとは、香りを言葉にして、発信することだ。香りばかりでなく、感覚や感情の心の興奮を言葉にして、発信したり、言霊に固めてしまうことだ。香りは、救いへ導くガイドだ。

63    香木に導かれてここまで来た。香木は持ち主の心の変化に合わせて、発する香りも変化する。持ち主が、よこしまな考えに取りつかれて、香を聞こうとしても、香木は泥臭いだけ。持ち主の心の在り方を導いてくれる。ボランテイアに用いると、すばらしい花の香りを発するようになった。それとともに持ち主の運も開けた。物には物そのものの在り方が在る。しかし人にはその心の在り方を通してしか見えない。心が、物の声に導かれたのだ。

64    アリとキリギリス。アリは成虫で冬を越す。だから巣や蓄えが必要だ。キリギリスは卵で冬を越す。というか、体は冬を越さない。だから体の為の巣や蓄えは不必要なのだ。人もキリギリスのように、体は冬を越さない。死の事だ。夏の間に奏でた音楽が、言霊になって言霊の海に戻るのだ。だから、体の為の巣や蓄えよりも、言葉の発信が必要なのだ。

65    温室の棚の上に、今年も季節を終えた鉢が並んでいる。一つ一つには土と球根が入っているはずだと思う。ふと、別の戸棚に紙の箱に入った、カラカラの大きな球根を見つける。ああこれもあったのだと思う。生姜のような光沢のある金色の銀色で、剥げかかった薄皮や乾ききった根が本体を包んでいる。ああもう何年もこうして準備が出来ていたのだと、ほっとする。本棚の本、言霊の海の話だ。

66    この世にお地蔵さんがいたら、どんな人なのか、考えた。香木のように、他人の心を和ませる人か。下の世話をするのはつらい。される側もつらい。あかちゃん、病人、老人などだ。世話をする人の顔に仏の光が宿る。その人は救われている。

67    地獄があるところに天国が生まれる。地獄でこそ仏に出会える。怒りがあるところに許しが生まれる。酷薄な状況でこそ、慈悲心が生まれる。

68    他者に癒しを与えると自分に救いが訪れる。他者の喜びが自分の救いになる。

69    何かをしてあげると自分に救いが訪れる。

70    快感やスリルなどの興奮ではない喜びがある。人にはそれが得られる。

71    芸術について考えた。品物や芸能について言われることが多い。芸術とはそれ自体のことではなく、鑑賞者に救いをもたらす作用の事だと思う。感覚や感情のという本能は変化しない。言葉の心は、時代が変われば、変わってしまう。普遍なものを芸術とするなら、ヒトの動物としての本能に訴えるものが芸術で、ヒトに特有な言葉の心に訴えるものは、芸術としての命が短いということになる。しかしこれは耐久性の事にすぎない。どんなに普遍性があっても、感覚や感情の心に訴えるものは、癒しのみで救いは生じない。芸術の目的は、癒しなのか救いなのかという原点に戻る。救いだと思う。

72    生きているサイン。親を失った子供に、子を失った親に、親や子が、ずっと生きていると分からせる方法。言霊の海の話だ。

73    物語は願望の起爆剤だ。物語を読むと、願望が湧いて、勇気が湧いて、生きる気力が強まる。御伽噺の正体は、先人が子供たちのために残した勇気の贈り物だ。言霊の海だ。

74    ジャムを残そうとした少年の物語。物は残らない。感覚や感情は再現できない。作り方は残る。言葉は残る。夕方、おじさんが来て、今朝、病院で、ママが死んだと言った。明日は、学校を休んで、おじさんの家に行こうと言った。冷蔵庫からジャムのビンをカバンに詰めた。ママの手作りだ。ママの入院中に僕が食べてしまって、残り少ない。おじさんは、ママの弟で、ジャムの作り方を教えてくれると言った。言霊の海の話だ。

75    横たわったまま目が覚める。仄かな香りがしてくる。仰向けになって、軽く脚を開いて、両手を広げている。左右に人がいる。暗い中、衣が蛍のように光っているが顔は見えない。隣の人の頭の下で、一人先の人の手に触れている。皆、同じようにしている。大きな輪になっているようだが先が見えない。手を繋ぐ人々が、ひとつの卵の殻の中で、同じ映像を一緒に見ていて、言葉の光が、手の指を通じて行き交っているように感じる。誰かに、言葉の点滅が起きると、発信した人の脳の世界が、全員に見えてくる。ただただ心地よい。感覚や感情の心の世界ではバラバラでも、言葉の心の世界では1つに溶けている。

76    1個の星から枝分かれしたり合流したり、暗闇に消えたりしながら、光ファイバーの70億本の束の断面のように、無数の点がチカチカしている。僕はその一つだ。よく見れば、一本が一編成ずつの列車になっている。列車は40億連結だ。本当は広がっているのだろうけれど、僕に見えるのは、はるか彼方までらせん状に延びる連結列車だ。僕は先頭の機関車の運転手だ。子や孫の機関車が、前につながれていく仕掛けだ。

77    愛する家族も、物も、自然も、地球や宇宙も、人類一人ひとりの自分がそれぞれに作り出している信号、言葉、情報なのだ。愛する人は、感覚の心にとっては体として映るが、言葉の心にとっては言葉なのだ。愛する人が死んだとする。言葉の心の働きである自分にとって、その人は言葉だ。言葉つまり情報には体のような死は無い。その人が体であるか言葉であるかは、見ているヒトの脳の別々の働きによって生み出された別々の情報なのだ。感覚の心が優勢なら、その人の体の死はそのままその人の死と思えるだろう。言葉の心が優勢なら、その人は体とは異次元の情報、言葉として、今迄通り、いつまでも居続けるように思われるだろう。心はコロコロ入れ替わるので、同じ人が、或る時は悲嘆したりさびしく思い、或る時はこれまで通り、語り合うだろう。そしてふと、そういえばこの人は死んでいたのだなどと思うだろう。自分の死についても同じことが言える。鏡に鏡自身が写らないように、感覚や感情の心には、自分の死は映らない。言葉の心はすべてを言葉に出来るので、自分と言う言葉と死という言葉を持っていれば、自分の死という言葉も持てる。言葉の心には、感情の心のような、恐怖や不安を生じる働きは無い。医師が患者の死を観察するのと同じだ。しかし、心はコロコロ入れ替わるので、同じ人が、或る時は達観して冷静に自分の死について考え、或る時は恐れおののくだろう。

78    かぐや姫。天使が悪いことをしたので、罰として地上へ落とされることになった。神様からスタンプ帳を脳の中に埋め込まれて、これにスタンプがそろったら戻してやるといわれた。地上の旅が始まった。天使はそのことは忘れているが、脳内のスタンプ帳は勝手に言葉を作り出し、早く埋めようとしている。言葉の心の話だ。

79    年とともに出会いや出来事が降り積もって行く。いつしか雪だるまとなり、私とは独立して、勝手にころがって大きくなっていく。言霊の話だ。

80    体が消えて、自分も消えて、生きていた間に話された言葉、書き残された言葉たちがどうなるのか。ウィルス説。始めに言霊というウィルスが在った。宿主の中でインフルエンザの熱や咳の様に、自分や世界や願望を生み出し、他の宿主に感染し、感染を繰り返して、他のウィルスと混ざって、それぞれの宿主の個性は消え、世界に普遍的に蔓延するウィルスの一部になる。言霊の海の話だ。

81    体が死んだら、自分はどうなるのだろう。DNAが、肉や野菜や米で作った体は、来た場所、居た所に帰る。宇宙の一部に戻る。脳が言葉として編み上げた「自分」はどうなるのだろう。自分はその時々に言葉を発信してきた。発信された言葉は、花から離れた種子のように、自分から独立した存在になる。自分にこだわる心、我執から解き放たれるのだ。言霊になるのだ。そして人類全体の言霊の海に注ぎ、またいつか新しい誰かの言葉の心に戻って新しい自分の一部になるのだ。残った我執である自分は体と共に消えるのだ。

82    人はどのように、「自分の世界」にいるのだろう。或る人の「自分の世界」は、その人が会ったことがある、見たことがある、話したことがある、噂を聞いたことがある、写真や作品に触れたことがある、そんな事物で構成されている。親しい人が死んだ時、私たちの「自分の世界」にいるその人に、変化はあるのだろうか。感覚の心にとっては、存在を五感で直接感知できなくなったという変化がある。しかし死以外の原因でも離れ離れになることはよくある。死だけが特別という訳ではない。さらに、会えなくなったのは、その人の体で、言葉の心の働きである自分にとっての本当のその人、つまり、既に自分の世界に言葉として存在するその人ではない。しかし、言葉であるその人が死んだように勘違いしてしまう。しばらくすると、その勘違いに気がつく。感情の心の興奮が収まれば、その人は、これまでと何も変わらず、居る。今までどおり、言葉の世界で、会ったり、見かけたり、言葉を交わしたりする。言葉の世界では、すべては言葉として在り続けている。その人の体が死んでも、言葉の世界の言葉としてのその人は在り続ける。死は一時的な感情の興奮を引き起こすだけで、「自分の世界」のその人は、これまで通り、自分とともに、在り続ける。言葉の世界のすべては、自分とともに生まれ、自分とともに育ち、自分とともに消える。自分が生きて、言葉の世界がある限り、その人も、生き続けている。

83    言葉の心の働きである自分は、体のDNAでは遺伝しない。言葉の心の働きである自分は、言葉になって、発信されて、言葉のDNAつまり言霊になって、世代や時空を越えて伝わる。

84    自分とは何だろう。自分を体だと思ってみる。体の正体は、体のDNAだ。体のDNAは、人類共通の海から汲み上げたものだ。自分を言葉の心の働きだと思ってみよう。一人ひとり別々の言葉の心が、一人ひとり別々の自分を、言葉で作っていると思える。しかし、その言葉は、みんなで共有している言霊の海から汲み上げたものだ。体だと考えても、言葉の心の働きだと考えても、どちらも、見かけは無数に分かれているように見えても一つの同じ海の一滴だ。大元は一つだということだ。だから自分は大きな一つの海の一滴だと考えるのがいい。

85    不老不死の救いを得る。言霊の海の話だ。

86    言霊の海は不滅だ。言霊になって、言霊の海に戻る事が人生の目的だ。救いだ。いつか、自分という小さな言霊の水溜まりは、言葉を発信する力が尽きて、枯れ、自分も消える。それまでに発信された言葉は言霊の海に戻り、いつか言霊の海を訪れた孫や新しい誰かに汲まれ、その自分の一部になる。まるで、水の循環のようだ。

87    生物つまりDNAが誕生して40億年間、蓄積された経験の情報が、一部は体のDNAを進化させ、体の組織や、体の心つまり本能である感覚や感情の心の改善として反映された。さらに世代ごとで消えてしまう経験の情報は、言葉つまり言語や文字や道具や文化として記録され、伝承され、世代を超えて蓄積された。この情報の蓄積、特にヒトの言葉の蓄積を言霊の海と呼ぶことにする。

88    言霊の善悪。生きようとする力を増すか、減らすか。悪い言霊や、善い言霊は無い。用い方次第だ。