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@      自分へのこだわりの始末。

1)        死を受け入れる

a.    死への恐れを克服する

ア.死への怖れは、体と自分へのこだわりが原因だ。体には二つある。一つは狭い意味のこの体だ。もう一つはDNAの海、広い意味の体だ。死ぬのは狭い意味の体で、広い意味の体ではない。散るのは花で木ではないように。自分にも二つある。一つはこの体から生じている狭い意味の自分だ。もう一つの自分は言葉のDNAである広い意味の自分だ。体とともに消えるのは狭い意味の自分だ。広い意味の自分は在り続ける。死への怖れは、どちらを自分と思うかで決まるのだ。

イ.生老病死の意味を考えた。生老病死は、情報生物つまり言葉の心の働きである自分にではなく、細胞生物である体に生じる現象だ。生とは生きるという意味だ。体は、生きて、老いて、病んで、を経て、死に至る。体は、そのように一生を過ごし、終わる。

ウ.恐れを克服する為には、心の持ち方を、感覚や感情の心から言葉の心に切り替え、見えない死を言葉にして、見えるようにしなければならない。

エ.初めての暗い部屋は恐ろしいが、住みなれた部屋なら暗くても平気だ。初めての暗い部屋でも、照明をつけて、部屋の中を冷静に観察すれば、恐ろしさは消える。死への恐れは未知への恐れだから、言葉にしてしまえば消える。死への恐れを言葉にすることは、未来へ生きようとする心の始まりだ。

オ.胡蝶の夢。蝶だった夢から覚めてヒトに戻る。夢から覚めるとは、生れたり死ぬことの寓意。夢の中の蝶には、夢から覚めて人になっている自分のことはわからない。今の夢を生きている自分に、死後の自分がどうなっているかは分からなくていいのだ。

カ.この世は池の中。自分はヤゴで水底にいる。時が来るとみんな水面に上がっていく。殻を脱いで、龍になって飛んでいく。水中の自分には皆が脱ぎ捨てた殻しか見えない。死体のような抜け殻しか見えない。みんな死んだようにしか思えない。自分もいつか、殻を脱ぎ捨てて飛び立つ時が来て始めて、水面の向こうが分かる。

キ.まもなく死ぬ状態を特別な状態だと思わない方がよい。普段と同じ。スウィッチを消す直前のTVと同じ。スウィッチが切れる瞬間まで生きているのだ。スウィッチが切れるだけなのだ。

ク.古代ローマの貴族は、戦争も含めて、生きていることが楽しかったのだろう。死はその楽しみの消滅だったのだろう。死は癒しを失うという意味で恐ろしかったのだろう。お釈迦様の時代や中世の庶民は、生きていることそのものが苦しかったのだろう。死はその苦しみの消滅だったのだろう。体の死は心の救いだったのだろう。

ケ.何事に付けても、終わるのは悲しい、寂しいと思ってしまう。何故だろう。自分を感覚や感情の心だと錯覚していると、世界は現在の現実しかないように思える。現在の現実が終わってしまうと何も残らない。自分も残らない。すべてが消えてしまう。自分が言葉の心の働きだと分かっていれば、現在の現実が終わっても、発信された言葉は、言葉のDNAの海に戻ることを知っている。光源だった星が消えても、発せられた光は、宇宙に在り続けるように。

コ.体には死が起きる。しかしそれは一般論で、自分の体には死は起きない。体が生きている間しか心である自分は存在しないのだから、体の死という現象は自分には生じないのだ。

サ.孫の疑問。「何処へ行ったの」。「何で泣くの」。じいちゃんから孫へ、最後の贈り物。子供の頃に置き忘れてきた疑問と答え。今日は骨身にしみるような寒い一日だった。葬式に行ってきた。故人の孫達を見ているうちに、自分が祖父の葬式の時に思った疑問を思い出した。死ぬのは痛くないのだろうか。焼かれるのは痛くないのだろうか。小学5年の頭では、すべての恐怖は痛いかどうかだった。今日まで、忘れていた。突然思い出して、良い答えを見つけた気がしたので、書き残しておこうと思った。お前は、生まれてきた時、痛かったかい。痛くなかったろう。生まれるのと死ぬのは似ている。生まれた時、心はまだ育っていなかった。痛みを感じるのは心だから、痛くなかったのさ。お葬式の時も、心はとっくに居なくなって、体だけになっているから、痛くないのさ。祖父から幼い孫へ最後の贈り物は、自分の収骨の時にでも、息子の口から伝えてもらう、この言葉だなと思った。

シ.死は生の一部だ。死は生という線の終点だ。点には大きさは無い。中身がない。線の終わりの位置を示すだけだ。死には生の終わり以上の意味は無い。それでも死という何かが生の向こう側にあるように思えてしまう。

ス.最後を迎えるまでには、思い出して恥ずかしい、情けないことをすべて言葉にしておきたい。感覚や感情のままでなく言葉にしておきたい。

セ.自分は言葉の心の働きで、感覚や感情の心の働きではない。そもそも言葉の心の働きである自分には苦痛も苦悩も無い、と言葉にして明らかにすれば、死への恐怖は消えるはずだ。さらに言えば、死を迎える時の苦痛も日常で経験済みの程度だ。

ソ.未知の事物への警戒心が恐怖の正体だ。言葉にして、明らかにすれば、消える。そのためには、まず自分とは何か、生きるとはどういうことか、自分が生きるとはどういうことかを言葉にして明らかにしなければならない。その結果として、自分が死ぬとはどういうことか、が自然に言葉になって、自分の死か明らかになり、恐怖から自由になって、生きようとする心を発揮しやすくなる。

タ.自分の死は体験できない。死の体験を死者にたずねることもできない。理解できないことは恐ろしい。恐れは、生きようとする気力の妨げになる。死への恐れを言葉にする。生きようとする気力を発揮しやすくなる。

チ.今日は大晦日で、午後、母と靖国神社へ行った。子供の頃、神仏がいるか考えたことを思い出した。いないと思う気持ちが強かったが罰が当たるのが怖くてそれ以上考えるのを止めた。神仏とは何かを言葉にしてからでないと、いるかいないか考えても無駄だ。自分は言葉の心の働きで、生きようとする気力をくれる言葉の心が神仏で、癒しへの誘惑で死に導く感覚や感情の心が悪魔だ。体は自分をこの世に生じさせてくれている。体の背後には父母や祖父母、35億年生き続けてくれた祖先達の努力がある。ジンギスカンの子孫は男だけでも、死後千年たった現在、1千万人いる。千年の間に生まれては死んでいった子孫はこの数十倍だ。未来に生まれるはずの子孫がいる。自分には祖先の意思に沿って、体を生かす責任がある。子孫の生きる喜びにも責任がある。神仏とは自分に与えられた使命のことだ。

ツ.分は言葉の心の働きだ。自分は、体を生かすために、体によって作られている。体を生かすことと、言葉の心の働きである自分を生かすことが両立できない場面もある。そんな時には言葉の心の働きである自分を殺し、体を生かせばよい。体さえあれば自分は在り続けられる。

テ.思えば、幼稚園に行き始めた頃、登園が死ぬほど嫌だった。園の入り口で母親と別れるのが嫌で泣き叫んだ。ドラマでも、臨終や通夜の場面は、そんな感じで作られることが多い。それにつられて、自分の死を考える時も、同じ感情に囚われがちだ。でもいくつかの点で違う。幼児は言葉の力が未熟だから、体としての親との別れが、永遠の別れのように思えたのだろう。大人は、自分が体ではなく言葉で、体の死と自分の死が同じではないことを知っている。

ト.感覚や感情の心には、現在の現実しか見えない。死は現在の現実の終わりだ。現在の現実の癒しに囚われるほど、死は恐ろしくなる。だから、死に対峙する時は現在の現実の癒しを抑え、過去や未来に救いを求めなければ負けだ。

ナ.死にかけている同級生が居る。去年の今ごろ、医者をやっている友人と酒を飲んだ。ふと「人は死ぬ瞬間、体重が減るんだと。それが魂かな」と言った。その年末、彼から喪中の葉書が来た。田舎で一人暮らしの母親が亡くなったとのことだった。反論したことが悔やまれた。

ニ.感覚や感情の心はこの世つまり現在の現実に居るので、現在の現実から離れることができない。現在の現実を失う死を受け入れることができない。言葉の心はあの世に居る。感情がないので、恐れもない。死を言葉にしてしまえば、言葉の心が働いている間つまりあの世に居る間、恐れは消える。しかし生きている限り、感覚や感情の心が映し出すこの世つまり現在の現実は在り続けるので、行ったり来たりする。恐れを言葉にすれば、恐れを恐れることが無くなる。こちらが恐れの本当の克服方法だ。

ヌ.死は生の一部として生じる。できるのは、どのように死ぬかでなく、どのように生きるかだ。

ネ.死の克服とは、体の死のことではない。体の死は克服できない。先延ばしできるだけだ。できるのは死への恐れの克服だ。死という言葉に負けない、生きるという言葉を身につけることだ。

ノ.死も睡眠も同じだ。自分が消え、この世に居ない状態になる。誰もが日々死んでいる。だから死をことさら恐れる必要は無い。

ハ.死は万人に共通の宿命だ。死に方に差別も区別もない。あるとすれば、それまでの生き方の違いだけだ。それでも死に方や死因に価値や意味があるように思ってしまう。命は蝋燭の炎に例えられる。炎が燈っていて蝋燭だ。火の消え方に意味などあろうはずがない。

ヒ.死体を見て、子供は、感覚や感情の心で受け止め、その人のすべてが失われたと思う。大人なら言葉の心を働かせ、その人のDNAのこと、体のこと、感覚や感情の心のこと、言葉の心のこと、発信した言葉のことに分けて言葉にして、明らかにしようとしなければならない。

フ.乳飲み子は、母親の懐から離されると泣く。懐に戻るまで泣き続ける。小児は母親が見えないと泣く。見えるまで泣き続ける。少年は、母親が家にいると思えば安心して外で遊ぶが、親しい人が、引越や卒業で会えなくなると悲しむ。成人になれば、相手が地上の何処かにいればいいが、地上ではない所へ行くと悲しむ。人と人は何処で繋がっているのか。手と手でもなく、目と目でも、声と声でもない。お互いの記憶の一部になっている。相手が見え、手が届き、触れ、声を交わせるか否かはどうでもよい。相手が記憶になっていれば、ちょっと見えなくなっても、遠く離れても、地球の裏に移住しても、あの世に引っ越しても、関係は全く変わらない。

ヘ.安らかな心境で死にたいと思う。しかし、安らかな心境は一瞬の感情で、言葉のような継続する心ではない。死の間際にはあらゆる「望み」が消えて、生涯ではじめての完全な安らぎを楽しんでいる。そんな死の間際に、自分は安らかかどうかなどと考えるはずがない。生きている間、どのように、生きようとする心を奮い立たせるかの方が大切だ。

ホ.生まれた時は無目的、無意味、無責任だった。生きている間、目的、意味、責任を背負い込んだ。死に臨んでまた無目的、無意味、無責任に戻らねばならない。すべてを放棄してしまうしかない。

マ.「死んだら星になるの」。ならない。もっとちゃんと考えよう。死について考える事は、どこかで、生きる力にプラスに働いているのだから。

ミ.死の告知は、本人には0.8%とか。死はどのように訪れるのだろう。どのように死んでいくのがいいのだろう。死は、本人にとって、現実ではなく言葉だ。現実は、最後まで生きたままだ。死は言葉で、何かが起こるのでなく、ただ生がフッと途切れるだけだ。死という言葉は心の平安を乱すだけだ。ただ生きていればいいのだ。死はそれまでの生き方の延長だ。死ぬと知らされて、生き方が変わるものではない。遣り残したことがあって、片付けなければ死んでも死に切れないと言い張る人には、死ぬことは告げずに、生き方として今出来ることをするように言えばよい。結果、遣り残したことは、残された者の都合などかまわず、放棄するしかないのだ。

ム.毎年、葉が落ちて、新しい葉に入れ替わる。春には葉を広げ、夏には栄養を吸収し、秋には葉を落として根を肥やす。冬には新しい芽を作る。葉のどこに死があるのだろう。花が咲く。花弁を落とす。実を作り種が宿る。実が木から離れる。花や実のどこに死があるのだろう。幹や根のことを思えば、死は無くなる。

メ.自分を月に例えて考えた。三日月になった頃、自分に気がついた。半月は中学生、満月は壮年期、今は下弦の月だ。これから針のように細くなって、見えなくなる。新月だ。新しい月、New Moon。消えるのではなく、生まれ変わるのだ。心の目を凝らせば、黒い満月が見えるはずだ。感覚や感情の心では、月の欠けが消滅のように見える。言葉の心で見れば、ただの満ち欠けの繰り返しに見える。月つまり自分を体と思うかDNAと思うか、言葉と思うか言葉のDNAと思うかだ。

モ.死にかけている鳩を見ていると、最後の瞬間まで、恐れやひるみや諦めの無い、強いまなざしで目を見開いている。親を知らず、子も兄弟も知らず、蓄えも記憶もせず、癒しを求めて、現在の現実だけを見ている。現在の現実に終わりがあろうとは、露ほども思わない。人はそうはいかない。言葉で時間を作り出し、心に未来が生じている。感覚や感情の心が映し出す、時間が無いという意味で永遠である現在の現実に身を任すことができない。死を言葉にしないまま現在の現実を過ごしていると、未来に死の影が見えた時、恐怖に囚われる。感覚や感情の心では未来の死を受け容れることができないのだ。死への恐れを言葉にすると、必然的に生きようとする言葉になる。死に方は生き方、死に場所は生き場所のことだ。動物として生きているのは、感覚や感情の心で、時間のない永遠の現在だ。ヒトとして生きようとしているのは、言葉の心で、願望の未来だ。

ヤ.他人の死と自分の死は、次元が違う現象だ。他人の死は体のこと、自分の死は心のことだ。他人の死を自分が見送る。見送っている自分が自分のことに置き換えて思う。自分の死への恐れが生じる。自分が死ぬ時のことを考えてしまう。実際の自分の死に際しては、自分を観察したり見送る自分はいない。恐れる自分もいない。ただ普通に生きている打枝。死への恐れとは、現実の事物でなく、空想の言葉への恐れなのだ。他者の死を見て、あたかも自分の死のように作った言葉なのだ。いったん張り付いた言葉は消せない。ただの言葉だということを言葉にして、上書きすればいい。

ユ.自分の死に、特別も普通も、幸福も不幸も無い。他者の死を見て比較し、色々思うだけだ。問題は生きている間の、願望の未来へ生きようとする力を、死への恐怖が損なうことだ。死についての物語が未完成だと死への恐怖が生じる。ハッピーエンドまではいかなくても、ちゃんとゴールが見えれば消える。行き先が無いことが怖いのだ。その物語を作るのが言葉の心だ。

ヨ.死んで、癒しをくれている現在の現実を失うことには未練が湧くが、癒しが、脳の中に生じた感覚や感情の心の興奮だと知れば、受け入れやすい。体が失われたり、親しかった人が居なくなるのは辛いが、実際は、親しかった人も自分の脳の中で生じていた言葉だと知れば、受け入れやすい。産まれたり、所有したりも、脳内に生じた言葉で、だから失うことも、いなくなることも、脳内に生じた言葉だと知れば、受け入れやすい。

ラ.死は、言葉であって病気ではないから、戦わなければならない、避けなければならない、忌まわしいものではない。死への恐れは、言葉の心の働きである自分が、死という未熟な言葉に取り付かれままだから生じるのだ。

リ.死ぬことは、毎晩眠ることと同じ現象だ。猫や犬はそのように死を迎える。体は犬や猫と同じように死を迎えればよい。ヒトは言葉を恐れる。正体不明の言葉として放置せずに、起承転結が見える物語にしておけばよい。

ル.死とは自分がいなくなること。自分の死を思うとは、存在していない自分が自分を観察するということ。そんな場面は空想だ。他者の死を見て、自分の死という言葉を作っているのだ。自分がいなくなるという言葉を作っているのだ。そしてその言葉を、実在する何かのように恐れているのだ。自分の死への怖れは死という言葉への恐れだから、死への怖れの克服とは、死という言葉への恐れを克服することだ。自分の死という言葉を作りきればよい。

レ.自分を風船だと思うと、割れるのが怖い。自分を風船の中の空気だと思うと、割れても元の大気に戻るだけのような感じがする。死への恐れが生きる足かせにならないように、体は風船つまり入れ物で、自分は風船の中の空気だと考えるようにする。

ロ.風船がある。生まれてきて幸せだと思っている。水素がたっぷり入っている。空を自由に飛んでいる。でも、いつかゴムが劣化して、水素が抜けて、地面で朽ちる日が来る。水素は自由になって広大な大気の一部に戻る。自分を風船と思うか水素と思うか、死ぬのが怖い、悲しいとは、そんな感じだ。

ワ.花には咲く働きがある。受粉して実をつける働きもある。萎れて落ちる働きもある。ヒトも同じだ。

ヲ.死と生は同じこと。生の終点が死だ。鉄道の終点も鉄道であるように、生の終点も生だが、死という名前をつけただけだ。死には生の終点以上の意味は無い。死を恐れる原因は、自分を感覚や感情の心だと錯覚して、現在の現実にしがみついているからだ。死は感覚や感情の心が映し出す現在の現実の終了に過ぎないのだが、言葉の心の働きである自分の終了に思えてしまうのだ。

ン.老衰ではない死は不慮の死、挫折とされる。双六遊びに例えれば、老衰以外の死は外れで、老衰は上がりなのだ。老衰は原因に名前のついていない死、原因のわからない死のことだ。抵抗する術のない死のことだ。原因が言葉に出来るうちは、例えば交通事故で死ねば、百歳でも老衰でなく不慮の死になってしまう。どうしても死は受け入れがたいのだ。名前がつけられる限り死は不慮の死だ。名前がある死は入れがたいのだ。名前のない死に、自然死や老衰という名をつけて、不慮の死ではなくして、受け入れたいのだ。DNAレベルで寿命を延ばす医学の発達で、老衰も不慮の死になりかかっている。どこまでも、死を拒否したいのだ。永久に続く体の死への拒否。体や、感覚や感情の心にとって、死は受け入れられないまま、必ず敗北に終わる。本当の自分の問題である死は言葉の心の消滅だ。言葉の心の消滅は、生きて、言葉を発信することで既に救われているのだ。

ア.死への恐れは死に方に対する空想から生じる言葉だ。恐れを生じない死に方はあるのだろうか。死なぞ気にせずに生きられ、死を迎えた時も心安らかでいられる心の持ち方は在るのだろうか。そもそも死という言葉の意味が空疎なのだ。理解不能なのだ。問題は未知だというところに有る。人は未知を恐れる。未知は幽霊なのだ。言葉にしてしまえばいいのだ。恐れは言葉にすれば消える。

イ.ハモニカの霊歌が聞こえてくる。頭の中で、去年亡くなった歌手の歌声が聞こえてくる。名前は浮かばない。顔も浮かばない。死ぬ時、本人は何を残したかったのだろう。実際には何が残るのだろう。なぜ残したいと思うのだろう。残すことに意味はあるのだろうか。死後どうなるのかなど考えずに、生きている間に、言葉を発信し続ければいいのだ。

ウ.体は地球、心は人工衛星だとする。生まれた時に打ち上げられて、今も大気圏で、感覚や感情の心のままウロウロしている。何とかして、言葉になって成層圏に至り、できれば重力圏を脱して、自由な、小さな星になって、果てしなく飛び去りたい。言葉には質量が無いから、重力からの脱出も容易だ。自分は本来、体でなく言葉の心の働きだったのだと知ればいいのだ。体は地上で、牛や鳥や豚や魚や米や豆から借りていたもので、いつかそれらに返さなければいけない、借り物なのだ。体を返す時、言葉の心まで地上に落下しないようにするのだ。

エ.感覚や感情の心のまま、言葉の心に羽化できない心の状態を成仏できないという。

オ.自分の死は、この世では出会えない出来事だ。出会えるのは、自分の死という言葉だ。死の瞬間に自分は消えている。自分の死は自分が言葉で生み出した蜃気楼だ。

カ.病院で寿命を宣告される。自分は体でなく心、それも感覚や感情の心でなく言葉の心だと思って、その事実を誰かに話したり、何かに書き残せば、平静な気持ちに戻れるだろう。自分を言葉にして、それを文字に書き表すと、自分も自分の世界もそこに永遠に在り続けることが出来るからだ。何を記せば良いのか。体が地表の何処をどう移動したとか、何をしたとか、美味しい不味いなど、感覚や感情の心が映し出す現在の現実のことでなく、言葉の心が生み出した言葉、記憶の過去や願望の未来を言葉にするのだ。

キ.老いや死を恐れる気持ちに囚われるのは、蝶になっても芋虫の頃のまま、蜜より草を欲しがったり、空中より地上にこだわったりするのと似ている。

ク.子供の頃、夏の夕暮れ、広場で遊んでいるうちに、一人減り、また一人減って、とうとう自分だけになる。まだまだ広場にいたい、遊んでいたいのだが、子供心にも、もう一人では何も出来ないし、楽しくないとわかる。しぶしぶながら、家に帰る決心をする。生きていたいという気持ちは、自然に湧いてくる感情だ。感覚や感情の心には、生きていたいという気持ちを諦める事はできない。言葉の心になって初めてできる。しかし、子供の遊びなら、帰る家があるし、晩御飯も、母親も待っている。大人の死には、帰る場所も、待ってくれている母親もいない。どうするのか。自分で、言葉で作るのだ。

ケ.自分の死を思う時、感覚や感情の心でいると、癒しを与えてくれている現在の現実に未練が湧く。言葉の心には、すべてが、自分すらも、自分が生み出している言葉だと分かるので、体の死が即ち自分の死ではなく、言葉の心の働きである自分は情報で、体のような生死も自他の区別も無く、だから恐れる必要もないと分かる。

コ.この世界は、脳の中に作っている言葉の体系だ。ここでは、他者は死ぬが、自分は死なない。自分の消滅はこの世界の消滅なのだから、その後のことは無意味になる。自分が言葉の心の働きであるとはそういうことだ。言葉を生み出している自分がいて、この世界は存在している。自分には生老病の苦はあるが死はない。在るのは死という言葉が生み出す恐れだけだ。自分が生み出している世界で、他人の死を眺めているような気持ちで自分の死を想像しているだけだ。言葉を生み出している自分がいなければ世界もないということに気がつかねばならない。つまり、自分の死後はまったく無意味なのだ。後は野となれ山となれでいいのだ。自分の死は、他者の心の世界での出来事なのだ。

サ.考えている時に現われる死は、他人の死を観察して生み出した言葉を自分の死であるかのように勘違いしたものだ。

シ.子や孫が生まれてくるのを受け入れるのは、感覚や感情の心で十分に出来る。しかし、家族が死んでいくのは、言葉の心でしか、受け入れられない。朝日は未だ眠っている間に昇ってくる。夕日は、じっと見つめる中で沈んでいく。朝日と夕日の違いだ。

ス.体としてのその人がいなくなっても、自分にとってのその人に何も変化はない。相手の体がどうなっても、言葉であるその人に変わりは無い。かえって、感覚や感情の心の雑音抜きで、言葉の心に集中して会話ができるようになる。

セ.感覚や感情の心は、楽しい事と同様に苦しい事も時間とともに自然に忘れるように出来ている。言葉の心は楽しい事と同様に苦しい事も死ぬまで忘れない、いつでも思い出せるように出来ている。しかし言葉になった苦しいことは、感覚や感情の心を苦しめることは無い。

ソ.手術の執刀医から、「今日で卒業にしますか、それとも続けますか」と聞かれた。「病気が治っても、いつまでもこの先生に診てもらいたいたいね」と待合室で老女達が話していたのを思い出した。幼稚園や小学校の時は、卒業したくなかったことを思い出す。自分で作る願望の未来より、与えられるの現在の現実の方が楽だったのだ。中学卒業の時は、いやと言うほど努力をして高校入試を乗り越え、自分で掴んだ未来があった。だから卒業などはどうでもよかった。年をとる。いつか生きていることからの卒業が来る。死ぬのはいやだと言うのもモラトリアム現象なのだ。

タ.言葉の心が成長すると、人や物や出来事を抽象的な言葉に変換できるようになる。眼前の現実しか見えない子供の頃は、愛する人や物が見えなくなると、どうしてよいか分からなくなる。大人になるにつれて、人や事物を抽象的な言葉にできるようになる。言葉になった人や事物は、現実の人や物から独立して心の中に常駐するようになる。そうなると、実際のその人の体が、どこに居ようと居まいと、好きな時に会えるようになる。何年も前に死んだ親友と、激しい口論をして、思わぬ指摘をされて、言い負かされる夢を見たこともある。歳をとって、親しかった死者が増えても、若い頃ほど寂しくないのはそのためだと思う。

ナ.注射や未来を、パニックなしで迎えることができる。手術をした大学病院で、定期検査を受ける。待合のロビーで呼ばれるのを待つ間に、人々が通り過ぎていく。入院中の患者が運ばれたり、急患の家族に付き添う人もいる。突然家族の死病を知らされる人もいるだろう。自分や家族の死は突然現れる。心の準備とは、未来を見る目のことだ。感覚や感情の心のままでいると不意打ちを食らうことになる。現在の現実しか見えないからだ。未来が見えていれば、すべては起こるべくして起こることになる。突然注射の針を刺されるのと、事前に説明されて心の準備ができてから刺されるのと同じだ。痛みは同じだが、恐怖は無い。受け入れられるのだ。

ニ.蝶が、芋虫のまま生涯を終えても、蝶になって生涯を終えても、同じといえば同じ、違うといえば違う。

b.    死への恐れを生きようとする気力にする

ア.死への恐れを生きようとする気力にする

  自分の死をどのように受け止めればいいのだろう。他人の死は日々の出来事と同様に具体的な出来事だが、自分の死は、宇宙の果ての出来事のように、実際に見聞する事ができない、抽象的な言葉だ。自分の死とは、死という言葉なのだ。言葉の心は、感覚や感情の心を叱咤して、現在の現実の苦難を乗り越えさせようと進化した脳の働きだ。死という言葉にも、他の言葉と同様に、ヒトを強く生きさせる働きがある。しかし、死に限らずすべての未熟な言葉が、感覚や感情の心を混乱させ、眠らせ、萎縮させ、かえって生きようとする上で障害になる。言葉が悪いのでなく、言葉の未熟が悪いのだ。

  生き甲斐というのはあるが、死に甲斐というのは聞かない。良い何かを失うと思うと恐ろしい。悪い何かなら失うとうれしい。良い何かでも、もっと良いことと引き換えならうれしい。死をどう受け止めるかはこんな損得の感情なのだろう。旅について考える。目的やゴールがはっきりしているなら、道中、心安らかだ。目的やゴールが見えないままなら心細い。死ぬことについての前向きな意味、死に甲斐が欲しい。特攻隊のような大義だ。自分は生きている現象だから、自分には死ぬという現象は生じない。結局、死に甲斐とは、生き甲斐のことで、よく生きている、満足だということになる。生きる意味がそのまま死ぬ意味となり、よい生き甲斐がそのまま良い死に甲斐なのだろう。生き甲斐を言葉でつくり、よく生きると、結果として安らかな死を迎えるための死に甲斐になるのだ。

  自分の死は体験できない。体験談を誰かから聞くこともできない。理解できないことは恐ろしい。言葉にできないまま、未知のまま放置すると、生きようとする心の邪魔をする。死への恐れを言葉にすると、反対の生きようとする言葉が生まれる。言葉の心はそう出来ている。

  相手を恐れると戦う勇気が萎える。死を恐れずに済む方法はあるのだろうか。秋の午後、庭に出る。木や草の葉は、最後の収穫を終えた老農夫のように、縁から干からび、満足げにやつれている。乾いた土に、今年のセミが抜け出た穴が開いている。そのセミの声はもうしない。代わりにか細く鳴く秋の虫の声がする。姿は見えない。自然界には、目的とか意味は存在しない。皆、登場して、使命を果たして、あっさり消える。自己主張の無い名脇役のようだ。人は、生まれる時は無かった言葉の心の働きである自分を背負い込み、死ぬ時には重荷となる。言葉の心は、未来を見せて、現在の現実から救ってくれる代わりに、未来への未練にもなる。

  いつか何かを成し遂げようという言葉と、いつか死ぬのだという言葉について考えた。言葉は本来生きようとする力を増すためにある。いつか死ぬのだという言葉には願望を打ち消し、生きようとする力を萎えさせる使い方がある。未熟な言葉の使い方だ。「いつか死ぬのだ」だからこう生きようというのが、成熟した使い方だ。

  体には寿命があるが、心はそれを受入れられない。帰港すべき港を持たない船が海の藻屑になって、心だけの幽霊船になってさ迷うようだ。晩秋に、ひとり鳴き続ける今年最後の蝉のようだ。死を避けること、長生きをすることを目的にするのは、旅が目的の旅、放浪、流浪、漂流だ。長生きも旅も目的でなく手段に過ぎない。旅の目的が、漠然とした幸福のような、感覚や感情の心の癒やしでも、道草ばかりで日が暮れる。目的は言葉の心の働きである自分が言葉で作らなければ持てないのだ。

  自分が死ぬことを言葉で明らかにできないと、生きることも言葉で明らかにできない。死ぬことを理解できるから生きることも理解できる。死ぬ意味を理解しないと生きる意味も理解できない。

  東急線の二子玉川駅は、多摩川の清流をまたいでホームがあるので見晴らしがいい。早朝の通勤ラッシュで混雑する上を、鴨の群れが、延々と連なりながら、上流へ向かっていく。あちこちの茂みや川面から2羽3羽と舞い上がって合流していく。群れは、秋に分かれた仲間を、帰路も同じ経路に沿って拾いながら、秩父や上越の山々を越えて、日本海の向こうの国を目指すのだろう。春がくると、そろそろかと思い、そわそわしながら、隊列の通過を待つのだろう。

  生きているのは体や、感覚や感情の心だ。現在の現実の中にいる。言葉の心の働きである自分は、願望の未来で生きようとしている。他者の死を見聞したり、病気で余命を予告されると、自分は必ず死ぬのだという言葉が湧いてくる。限られた時間しかこの世にいないのだと思うと、見知らぬ国の旅行者のように、世界が鮮やかな色彩を帯びて見えるようになる。いつまでも生きているつもりで、やり残したり、手抜きをしたりの果てに、犬が棒に当たるように死ぬのと、死期を意識して生きるのでは、どちらが良い生き方か。振り返って思い出せる、生きている時間は、言葉でできている。死を意識すると言葉が湧いてくる。本当の自分にとって、漠然と感覚や感情の心で生きている50年と、明日の死を控えて完全燃焼して生きようとする1日とどちらが長いか。

  言葉の心に導かれて、感覚や感情の心が映し出す現在の現実と戦って、未来のために生きるのは楽しかった。還暦を過ぎたら、もう未来を気にするのはやめようと思った。感覚や感情の心が望むままに、今だけの今を生きようとしてみた。しかしできないことがわかった。自分は言葉の心の働きで、未来の空気を呼吸して生きていることがわかった。

  言葉の心の働きである自分は情報で、物としての体とは異次元の存在で、体とは別の死に方が在る。つまり体とは別の生き方が在る。

イ.自分の死とは、自分の生のことだ。良く死ぬとは、良く生きることだ。死を覚悟することは、現在の現実を捨てる覚悟をすることだ。願望の未来に生きる覚悟をすることだ。

  死ぬことの意味を考えるのは、生きていることの意味を考えることだ。生きていることの終わりが死だからだ。生きている線の右の端が死だからだ。生きていることの意味が分からないうちは死ぬことの意味も分からない。ともかくどのように生きるかだけを考えていれば良いということだ。

  生き方を直接考えても、何も見えない。自分の姿を直接見ようとしているようなもの。影を見て類推する。自分の死を下敷きにして考えると、生き方が具体的に見えてくる。

  死をどのように迎えようか考えると、結局死ぬまでどのように生きようかを考えることになる。死に方というのはなくて生き方だけがある。自殺も、生きようとする言葉の心の働きである自分の本質を放棄する生き方の一つだ。救いを放棄して癒しに我を忘れる心と同じだ。

  生きようとするのは、言葉の心の働きだ。生命の危険、生活の苦難など、生きていることに脅威が生じると、「生きたい」という言葉が生まれる。脅威が無い時は癒しを求めることが最優先だが、脅威に曝されると、救いを求めることが最優先になる。感覚や感情の心から、言葉の心へ主導権が移る。言葉の心が漠然としていると、危機に対してなすすべが浮かばなくなる。

  「死を思って生きよう」が命題だ。死を思うことは、生きようとする力の源。生きようとする気力を掻き立てる。

  生きようとする意欲は、死の恐怖への反作用で生じる心理だ。戦争や飢饉、災害など、死が身近に迫る時は、自殺は減る。生きることが困難なほど、生きようとする意欲が湧いて来る。死にたいとは、単に困難や苦痛から逃れたい、癒されたいということで、その死は癒しのための手段なのだ。生きたいとは殺されたくないということなのだ。日本が貧しかった時代、中学校で福祉国家のお手本だったスウェーデンの自殺率が高いと習って、せっかく天国のような国にいるのにと不思議に思った。人は常に食べられる側の立場で、死の脅威と戦って進化し生き延びてきたに違いない。脅威があって初めて生きる意欲が湧くように出来ているのだろう。福祉も医療も充実して、世界も平和になって、死への恐怖が遠くなった時代に、人はどのようにして、生きる意欲を掻き立てればいいのだろう。自殺は、生きる原動力である死への恐怖を見失なって、苦難に立ち向かって生きようとする救いより、日常のちょっとした苦痛や苦悩から楽になろうとする癒しに囚われて起こるのだろう。生きているというのは、苦難から逃れるつまり癒しを求めることだ。生きようとするというのは、苦難を乗り越え目的の実現に努力することだ。それが救いを求めるということだ。飢餓や犯罪や戦争、病気や災害という身近で具体的な脅威が必要だ。恐怖にさらされて、生きる意欲が湧くように出来ている。政治が敵を作ろうとするのはそのためだ。敵や戦争は国民を生き生きと興奮させるカンフル剤なのだ。時代劇の悪代官、西部劇のならず者やインデイアン、テロリストや宇宙人や怪獣は、大衆の生きようとする力をまとめ、増幅する常套手段なのだ。

  死を思うと、生きることが自覚される。つまり、自分が死ぬことを言葉にすると、生きようとする言葉が湧いてくる。死を思わないと生きようとする心が生じない。つまり、感覚や感情の心のままだと、癒しつまり現状維持を求めて生きているだけで、生きようとする力が湧いてこない。死を思うと生きようとする力が生まれる。死を思わないと癒しを求めるだけになる。白い切り絵を白い台紙に重ねると、絵が見えない。

  メメント・モリMemento mori)は、ラテン語で「死を思え」。古代ローマでは「だから生きている間は、楽しくやろうぜ」という感じで受け止められ、食堂や酒場にかかげられていた。今でもビアホールにかかげたら、売り上げがアップするだろう。中世になって、キリスト教会が、死後の審判が待っているぞ、だから現世の快楽や財産は無意味だぞ、として、墓石に刻んだり、死は刻々と確実に近づいているぞという意味で、広場の時計台に刻んだそうだ。以下は私の考えだ。感覚や感情の心のままに漠然と生きていると、日々のすべてが通り過ぎていく。記憶も残らず、自分が何者かも見えない。死を思うと、言葉の心が働いて、自分や世界や時間が固まってくる。影があると、明るさが見えてくるように。額縁にはめると、風景が風景画になるように。

  感覚や感情の心のまま、何も考えないで風景を見る。まぶしかったり、木の香りがしたり、小鳥の声が聞こえても、刺激として通り過ぎていくだけだ。記憶に残らない。言葉の心を働かせる。記憶の過去が刻まれ、願望の未来が見える。そこに自分や世界や時間が生まれる。

  医者や占い師に、「あなたは○○が原因で、あと○年後の○月○日までに必ず死にます」といわれない限り、自分はいつまでも生きていて、親しい皆が死んだ後に、自分も死ぬくらいに思っている。自分の死は、言葉にしないと理解できないのだ。同様に、余命のことも考える。残された時間が、何時間、何日、何ヶ月、何年以下なら余命と言うのか。そうではない。自分がいつか必ず死ぬということを理解した日から、余命は始まるのだ。癒しを求めて現在の現実をさまよっている感覚や感情の心が、願望の未来に生きようとする言葉の心に変わるのだ。余命だと思うと、生きていることが言葉になる。大切にしようと思うようになる。余命を意識した日から、本当の、生きる時間が始まるのだ。

  感覚や感情の心は差異を感知している。暗いと明りが見え、明るいと明かりは見えない。そのように、動物としての心は、死の脅威があると、生きようとし、脅威がないと、癒しを求め、満たされると眠るばかりなのだ。

  死は生の額縁だ。額縁がなければ、絵にならない。死を思わないと、生きようとする気力も生じない。

  心は、死について考える時、自由に羽ばたく。何からの自由なのか。感覚や感情の心からだ。何への自由なのか。言葉の心へだ。

  自分は言葉の太陽だ。この世界は自分が発する言葉の光に照らされて浮かび上がっている。自分が消えると、光が消え、言葉が消え、世界が消える。光を発している太陽に暗闇を見ろといっても無理な話だ。自分を、部屋つまり世界の中で、細々と燃えているろうそくつまり体だと思うから、死が恐ろしく思えるのだ。死ぬとろうそくの燃えカス、つまり自分という死体が、ポツンと、暗闇になった部屋つまり世界に残されるように思えてしまう。自分は光つまり言葉で、体ではないし、世界も自分が作っている言葉で、暗闇でも部屋でもない。死を思うことと、死を恐れることは違う。感覚や感情の心で思えば恐ろしいが、言葉の心で言葉にして考えれば恐ろしさは消え、生きることが見えてくる。

  動物は飴と鞭で感覚や感情の心を鼓舞すれば、生きている力を奮い起こさせることができる。自分は言葉の心の働きだから、感覚や感情の心をいくら鼓舞されても、かえって言葉の心の働きである自分を見失うことになる。必要なのは、他者からの叱咤激励の言葉でなく、自分から湧く言葉だ。道が分かっていて、燃料も満タンなら、感覚や感情の心のままで生きていることができるが、日暮れて、燃料も心細く、果たして目的地は蜃気楼ではないのかなどと思う頃には、「どんなに疲れていてもあそこまでは行こう」などと言葉で決意することが必要になる。

  その人が死んで体が無くなったと知らされても、脳の中には、相変わらずい続けていて、いつでも会える。話も出来る。戸籍がどうなっているかは関係ない。最近ちょっとご無沙汰程度だ。死体はあっても、死者とは、実在しない架空の動物のことだ。

  死を言葉にすると生きようとする言葉が出来る。結果生きようとする気力が湧く。

  自分は子宮の外に出たくなかったのかもしれない。今、この世からあの世に行きたくないと思っているように。死ぬことを思うと、今生きていることが実感できる。

ウ.死者と対話をして、生きようとする気力をもらう。癒しは生者とやり取りするが、救いは死者など言葉のDNAの海から受ける

  父の墓の近くに古い団地があって、死んで13年目の今日、その商店街に立ち寄った。夕飯の準備の時刻で混雑している。雑踏の奥から父が、買い物をぶら下げて出てきそうな気がする。今、この団地の一室で、一人で気楽に暮らしているとでも言いそうな気がする。よく見れば老若男女、みんな昔出会った、知った顔ばかりに思える。

  他者の死を観察して、自分の死を空想し、言葉にして、生きようとする力にする。

  死者は言葉になって、自分の記憶の中に居たり、書き物になって残っている。それらと対話して、生きる力をもらうことができる。

  今生きている人々より、これまで生きていた人々の方が、圧倒的に多い。毎年地面を覆いつくすサクラの花びらのように。その花びらが養分となって木に戻り、今の自分になっている。花びらは体、養分は言葉のDNAのことだ。

  生きようとする力は言葉の心で作られる。言葉の心は体とは別次元に存在する。死者の言葉も生者の言葉も区別は無い。直接聞いても、伝え聞きでも、文字で読んでも、思い浮かべても、違いは無い。かえって持ち主の居ない言葉の方が、素直に聞くことが出来る。DNAのつながりは体の血縁だが、言葉のつながりは心の血縁だ。言葉の心の働きである自分にとっての本当の血縁は、言葉のDNAのつながりだ。

  家族が死んでも、残された者にとって、すべてが消えたわけでは無い。何が失われ、何が残っているのだろうか。感覚や感情の心に映っていた、見たり、触れたり、聞いたりできた相手は消えた。言葉になって記憶されている相手は、生前のままで変わらない。かえって、感覚や感情の心が発する雑音が消え話し易くなる。

エ.死は癒しを失うことでなく、癒しからの解放つまり救いを得ることだと理解する

  自分は体でなく心、それも感覚や感情の心でなく、言葉の心の働きだと理解する

    体が死ぬと、感覚や感情の心は消える。苦楽も喜怒哀楽も消える。言葉の心も消えるが、言葉の心として過ごす間に発信した言葉達は、言葉のDNAの海に帰り、またいつか新しい体を得て黄泉帰る。自分を感覚や感情の心だと錯覚していると、すべてが失われることになる。

    自分の死は、体験できないから、感覚や感情の心ではわからない。ただの空想の言葉だ。苦楽も喜怒哀楽も、音もしないし何も起こらない。そうなったらどうしようという、ただの言葉だ。

    死は、咲き終えたサクラが花を散らすように、自分を言葉にして発信し終えた体や心が散ることだ。感覚や感情の心に生じる、渇きと癒やしの波に翻弄される体や心から、あれほど願った自由になることだ。ヒトは、感覚や感情の心が映し出す、現在の現実の渇きと癒しの波を乗り越え、言葉の心が生み出す願望の未来に救いを求める者だ。願わくは、死んだ後に虚無の自由を得るよりは、生きていながら、願望の未来の言葉を得て救われたい。

    苦の原因となっている、自分へのこだわりや癒しを求める心が終わり、生まれて初めての、深いやすらかな気持ちを味わっている。

  自分は癒しでなく救いを求めていると理解する

    平安な心で死にたいと思う。平安なとは、快感や恍惚感の中でというのでなく、苦痛も苦悩が無いというのでもなく、やりたいことを持ち実現を求めて、という意味だ。

    死の間際にはきっと感覚や感情の心が弱まって、生涯で初めて、癒しを求める心からの自由を楽しんでいる。そんな死の間際に、自分はこれでよかったかなどと考えるはずがない。そんなことは心配しなくていいと思う。

    死を思う時の死は風のようだ。命の火を吹き消すものが姿を現すのだ。薪や炭のようにしっかりした命にとっては、酸素を吹き込む力だ。火勢を強めてくれる。救いの力だ。戦争中や大災害の時、かえって命の火は燃え盛り、きっと自殺も減っただろう。試験や期日が迫ると学習や仕事に熱が入るようなものだ。

    苦とは癒しを求めて得られない時に湧いてくる怒りや憎しみ、悲しみの感情の総称だ。癒しても又腹が減り喉が渇く。苦が生じ、又癒すの繰り返し。それが、生物の法則だ。癒しを求める限り苦は繰り返す。しかし、生きている限り、空腹も渇きも癒さねばならない。生きるというのは苦を背負うことだ。だから、苦こそ生きようとする力の源で、命にとって一番大切なことだ。苦をどう避けるか、消すかでなく、苦の中をどう生きるかの問題だ。苦は命の営みそのものだから、死ねば勝手に消える。しかし大切なのは生きている間のことだ。救いは自分つまり言葉の心の働きによって、癒しを求める感覚や感情の心を我慢させることで得られる。つまり、苦の正体である感覚や感情の心の、癒しを求める働きを、言葉にして我慢することによって救いが得られる。

    エリザベス・キューブラー=ロス。『死ぬ瞬間』。患者が死を迎える段階を表している。@否認。自分が死ぬということは嘘ではないのかと疑う。(現在の現実を前提としている感覚や感情の心の働き。)A怒り。なぜ自分が死ななければならないのかという怒りを周囲に向ける。(現在の現実の癒しを失いたくない感覚や感情の心の働き。)B取引。なんとか死なずにすむように取引をしようと試みる。何かにすがろうという心理状態。(未熟な言葉の心の働き。)C抑うつ。なにもできなくなる。(感覚や感情の心の受動的な本質。動物の心)D最終的に自分が死ぬことを受け入れる。(死を言葉にして受け入れた言葉の心の働き。)( )筆者注記。

  自分は言葉を、言葉のDNAの海から受け入れ、新たに発して、そこに戻す者だと理解する

    生まれる前の自分がどうだったかは誰も気にしない。それなのに、死んだらどうなるのか気になるのは何故だろう。水は雨として天から降ってくる時には混じりけが無く、個性もない。人も生まれて来た時には自分を作る働きだけで中身は無い。だから自分が何処から来たのか気にしようがない。生きる過程で、仲間つまり言葉のDNAの海から言葉のDNAをもらい、自分が出来てくる。言葉を作り発信する。発信された言葉は自分を離れ、言葉のDNAの海に戻る。さかのぼって考えれば、自分という、元々無かったものが、無くなるだけの話だということがわかる。

    人が「死」を恐れるのは、自分を観察している別の自分がいて「自分の死」を想像しているからだ。他人の死は見えても、自分の死は見えない。体の死は見えても心の死は見えない。未知は恐ろしい。海面にたくさんの渦が生まれては消えていく。渦は消えて、海に戻るだけ。自分も渦のように消えて、言葉のDNAの海に戻るのだ。

2)        死に方について考える

a.    前提

ア.死に善悪、良否はあるのか。

  死には、他者の死つまり体の死と、自分の死つまり心の死がある。体の死には善悪良否はあるが、心の死には善悪良否は無い。他者の死について考えると、競争差別の心が働き、善悪や良否があるように思えてしまう。

  感覚や感情の心は対象の差異や変化しか感知できない。そのものの評価はできない。比べることしか出来ない。自分の死は体験できない。他者の死と比較して想像することしかできない。自分の死は抽象的な情報だから言葉の心で言葉にしなければ見えない。しかしそのものでなく言葉しか見えない。自分の死を言葉にすると、自分の生も言葉になる。自分の死の評価は、自分の生の評価なのだと分かる。

  自分の死は、言葉の作り物だ。本当に在るのは死でなく生だ。困難を乗り越えて、生きようとすることが生の意味であり、死の意味でもある。

  自分の死の評価は、自分の生き方の評価だ。

  良く生きる事が即ち良く死ぬ事だ。日々良く生きている事が即ち日々良く死んでいる事だ。死ぬとは生きる事だ。死は言葉が生み出す幻想で、実際には生だけがある。良い死に方と悪い死に方があるのでなく、良い生き方とそうでない生き方があるのだ。

  医学には、死と戦うという使命がある。死を遅らせることは出来ても、無くすことは出来ない。本当にすべきは、死ななくすることでなく、死を遅らせることでもなく、死への恐れをなくして、良く生きられるようにすることだ。つまり、死という未熟な言葉を成熟させることだ。

  死とは、生きている最後の瞬間のこと。生きている時間の一部のこと。死後のことではない。スウィッチが切れる直前の明かりのこと。明かりであって暗闇のことではない。

  体の死と心の死がある。体の死は医療に委ねて、心の死について考える。ヒトには3つの心がある。感覚の心と感情の心と言葉の心だ。感覚や感情の心は動物としての心だ。自分は言葉の心の働きだ。それぞれの心にはそれぞれの死に方がある。

イ.殺人について

  DNAには「このように生きろ」という命令も書かれている。本能だ。祖先たちの命がけの40億年間の試行錯誤が詰まっていて、選択の余地は無い。カマキリは動くものは皆食べてしまう。メダカは自分が産んだ卵や稚魚を食べてしまう。その命令はその生物を存在させてきた事実だから、悪ではない。ヒトに進化するまでのすべての本能は、DNAに記録されている。ヒトがメダカのように、カマキリのように生きていた時代のことも記録されている。しかしヒトには別に、言葉の心の働きがあって、本能にブレーキをかけている。

  なぜ「殺してはいけない」のだろう。

    オオカミには、仲間と順位は決めても殺すには至らない、争いについてのブレーキがある。だから十戒は不要だ。狼のDNAには、食えとか戦えとは書いてあるが、仲間でも殺せとは書いていない。DNAの命令は、満腹なら消えるし、相手が仲間ならギブアップされれば消える。

    人はなぜ、自分の行為を、十戒でわざわざ制限しなければならないのだろう。何故、殺しては、盗んでは、姦淫してはいけないのだろう。殺すことも盗むことも姦淫することも、DNAの命令だ。感覚や感情の心の働きだ。動物としての心だ。自分は言葉の心の働きだ。感覚や感情の心の暴走を止めるのが使命だ。DNAの命令を、言葉の命令を作り出して制御する働きだ。ヒトは、言葉の心を得て、命令を自分で作れるようになった。その一つが十戒だ。殺すな、盗むな、姦淫するな、だ。本能のような40億年間の命がけの試行錯誤から得た強さはない。一代限りの、言葉の心の働きである自分が作り出しているだけだ。未熟な言葉で作り出す抑制の力に比べ、本能は圧倒的に強力だ。ヒトは、言葉の働きを得て、苦しむサルになったのだ。言葉のDNAの海は、そんな自分を励まし、救おうとする応援団だ。

    新しい十戒が必要だ。ヒトは言葉や金や権力を使って仲間を操作する。自分の手を汚さずに、誰かを死なせることも殺すこともする。良心と行為の分業だ。こうなるとオオカミのようなDNAに書き込まれた安全装置はおろか十戒すらもブレーキでなくなる。DNAが進化の過程で体験していない危険について、新しい禁止が必要になっている。原子力、遺伝子操作、自由競争などだ。DNAの進化とは無関係に獲得した能力だからだ。

  感覚や感情の心には競争差別という本能が在る。動物なら、同種間の競争差別は本能の手加減で大事に至らない。ヒトには言葉の心が在る。言葉は本来、感覚や感情の心のブレーキを果たすが、未熟な言葉は逆に煽ってしまう。自殺は、自分の体を殺すことだ。他者を殺す事と自分を殺すことは、基本的に同じことだ。未熟な言葉が感覚や感情の心をそそのかしてしまうのだ。自殺も他殺も安楽死も、殺人に変わりは無い。なぜ殺人はいけないのか。人類は種(しゅ)という単位で繁殖し、種(しゅ)は一つの生命体だからだ。

  チンギスカンの男系の子孫が1千万人いるそうだ。一人の人間を殺す事は、千年後の1千万人を殺す事だ。自分を殺しても同様なことになる。

ウ.「汝、自殺するなかれ」。

    自殺は病気だ。

体の存続が目的で、細胞はその手段だ。体の存続のために細胞が自殺する。「アポトーシス(apoptosis)とは、多細胞生物の体を構成する細胞の死に方の一つで、個体をより良い状態に保つために積極的に引き起こされる、管理・調節された細胞の自殺すなわちプログラムされた細胞死のこと。」Wikipedia。しかし自分は細胞ではない。言葉の心の働きだ。

    十戒には「殺すな」とはあるが「自殺するな」とはない。何故だろう。自殺は病だからだ。病は本人の心がけ、言葉の力ではどうしようもないからだ。

    体は生きているだけ。感覚や感情の心は癒しを求めているだけ。苦難を乗り越えようとするのは言葉の心だけだ。自殺は、苦難を乗り越える努力を放棄して、苦難から逃避しようとする、言葉の心の病気なのだ。

    動物のDNAには生きろという命令が書かれている。ヒトのDNAには、さらに、生きようとしろ、苦難を乗り越えようとしろという第二の命令も書かれている。しかし、生きようとすると壁にぶちあたる。だからヒトだけが自殺をするのだ。

    感覚や感情の心は、安楽を求め、苦難を避けようとする。ヒトは、言葉の心を得て、DNAの命令とは別の、自分への命令を自分で作るようになった。感覚や感情の心に乗っ取られて、安楽を求め、苦難を避けて、自身の体を殺せという命令もできるようになった。それが自殺だ。

    自殺は、言葉の心が、感覚や感情の心に負けて生じる病気だ。救いを求める言葉の心が、癒しを求める感覚や感情の心に負けた症状だ。

    高校の時、テスト前夜の一夜漬けで、眠ったら負けだと思いながら必死で教科書の文字を追った。言葉の心は眠るまいと頑張る。感覚や感情の心は眠ろうと誘う。感覚や感情の心の誘いに負けて、言葉の心が眠るのが自殺だ。

    渡り鳥は羽ばたくのをやめると海へ落ちてしまう。疲れれば、感覚や感情の心は、羽ばたくのをやめようと誘う。言葉の心は必死に頑張る。

    自転車で坂道を登っている。過去や未来のことを考えていると、知らぬ間に上りきっている。こぐ脚の痛みや疲れなど現在の現実にこだわっていると、耐え切れなくなって歩いてしまう。過去や未来のことを考えている時は言葉の心が働き、現在にいる時は感覚や感情の心が働いている。言葉の心は救いを求めて頑張るが、感覚や感情の心は癒しを求めてギブアップしようと誘う。

    スポーツマンが観客を感動させるのは、技や体力より、諦めない心の力の強さを見せられた時だ。癒しを求めて、言葉の心に諦めさせようとする心は、死に誘う心だ。自殺は、この癒しを求める感覚や感情の心に、救いを求める言葉の心が負けた結果だ。

    体には死があるが、言葉の心の働きである自分には死は無い。感覚や感情の心の誘惑に負けることが、言葉の心の働きである自分の死だ。

    ヒトは言葉という棍棒を持ったサルだ。棍棒を離せば、ひ弱いサルだ。棍棒を離すというのは、言葉の心を放棄して、丸腰つまり運命を現在の現実にまかせることだ。自殺を考えたらこの文を読んで欲しい。納得したら、自殺願望は消えるだろう。納得できなければ、自分で、言葉を作って、納得できるようにしてみよう。どちらにしても自殺願望の症状は消えるはずだ。

自分が自分の命を勝手にすることはいけないのか。自分は体ではない。感覚や感情の心でもない。言葉の心の働きだ。自分は全体の唯一の代表ではない。体や、感覚や感情の心を無視する権利は無い。さらに35億歳のDNAを裏切る権利は無い。千年後の1千万人を殺す権利も無い

自殺の目的は、苦痛から逃れることだ。苦痛から解放されるという癒しを得るためだ。現在の現実の癒しさえ得られれば未来はどうでも良いという感覚や感情の心に、苦難に耐えても未来に生きようとする言葉の心が負けたのだ。動物としての心に、ヒトとしての心が負けたのだ。

心には、感覚や感情の心と言葉の心がある。感覚や感情の心にとっては、現在の現実がくれる癒しがすべてだ。感覚や感情の心にとっては、未来の生死より現在の現実の癒しのほうが大切なのだ。自殺は感覚や感情の心から生じる。苦難や苦悩から逃げようとする、癒しの中に逃げ込もうとするのが自殺だ。

救いとは未来への活路を見出すこと。癒しとは、未来と関係なく、現在の現実の安楽を求め、苦痛や苦難から逃げることだ。言葉の心が感覚や感情の心に負けて、苦しみから逃れるという癒しを得るために、体を破壊するのが自殺だ。

言葉の心の働きである自分には、体に生じる生老病死も、感覚や感情の心に生じる喜怒哀楽も無い。安楽や癒しを求める感覚や感情の心を抑え、苦難を越えて生きようとする言葉を生み出すのが使命だ。自分は体が作る影法師だ。自殺とは、影が体を壊すことだ。体を生かすために生じている、言葉の働きである自分が、体を壊す。言葉の心が未熟で、苦難を越えて生きようとする言葉が作れず、感覚や感情の心のまま、虚無に乗っ取られてしまったのだ。

この体を自殺させるのは自分だけ。この体の自殺を止められるのも自分だけ。自殺者は最後まで誰かに止めてもらいたいと願っている。自分以外の何かに、無理やり自殺させられてしまうのだろう。魔などというが、本当は感覚や感情の心のことだろう。言葉の心の働きである自分が負けてしまうのだ。自殺を止められるのは自分だけ。言葉の心の働きである自分が弱いことが問題なのだ。

感覚や感情の心は、現在の現実の安楽や癒しを求め、苦痛や恐怖からの逃避を求める。言葉の心は、現在の現実の安楽を犠牲にしても、未来によりよく生きることを求める。必要なら現在の現実の苦痛や苦難を厭わずに救いの道を求める。勇気や挑戦心、生きようとする心だ。いくら苦痛や苦悩を与えられても、自殺はしない。

シートン動物記だと思うが、罠にかかったオオカミが脚を食い切って逃げた話を読んだことがある。これは、言葉の心が、感覚や感情の心の苦痛に打ち勝って、生きようとする行為だ。結果として死んだとしても自殺ではない。

自殺は、感覚や感情の心に負けて、安楽に生きることを求めた生き方の終着駅だ。自身でする安楽死だ。苦痛を避けて、安楽を得ることが、良い生き方だと思って生きている人や、感覚や感情の心に生じる苦悩や苦痛が恐ろしいと思う人は、安楽に生きるというか苦難を避ける手段として、自殺を用いる。安楽に生きるために死ぬのだ。命より安楽が大切、苦痛から逃れることが大切だということだ。何か変だ。問題は、生きることの大部分は苦痛や苦難で構成されているのに、水中で生きているのに水を恐れるように、苦痛や苦難を恐れていることだ。自身の在り方を自ら否定することだ。

    病気は治さねばならない。

    自分で自分を殺すのではなく、自分とは別である体を殺すことだからだ。言葉の心の働きである自分にとっては、体は他者だ。自分は言葉の心の働きで、体とは別の次元に生じている。自分と体は共存してはいるが別々の存在だ。自殺は、言葉の心の働きである自分が体を殺すことだ。仏教、ユダヤ教 ・キリスト教の十戒の「汝殺すなかれ」に抵触するのだ。

    言葉の心の働きである自分は体によって生み出されている。体は、体を生かすために、言葉の心の働きである自分を生み出している。自殺は、手段である自分が、目的である体を損なうことだ。体を守るべき免疫細胞が、健康な組織を攻撃するガンのようなものだ。

    苦痛や苦悩は感覚や感情の心に生じる感覚や感情で、言葉の心の働きである自分には生じない。言葉の心の働きである自分は生きようとする力で、感覚や感情の心の、苦難から逃避しようとする誘惑に耐え、癒しへの逃避を止める心の働きだ。苦難を避けるために体を殺すことは、自分を感覚や感情の心だと錯覚をしているのだ。動物の心のまま動物として死ぬことになる。

    自殺は家族や子孫の心を傷つけ、生きようとする力を損なわせる。子孫にとっては自分の源流である祖先は神で、神の自殺は生きようとする力の源である言葉の心を崩壊させることになる。

    予防はどうすればよいか。

    自殺は病気だ。病気は禁止しても無意味だ。治療が必要だ。自殺を禁止するのでなく、生きようとする力を掻き立てる、言葉の心の体力や免疫力を高めてやるしかない。

    自殺から脱するには、言葉の心のパワーを回復しなければならない。感覚や感情の心が生み出す毒素、癒し願望や錯覚を、言葉に固めてしまう力だ。十戒には、自殺については書かれていない。新しいタブーを書き加えることが必要だ。肥大した感覚や感情の心こそ、危機に臨んで、究極の癒しである自殺を求めてしまう元凶なのだ。言葉の心が生み出す、生きようとする力を回復させて、感覚や感情の心の情動を我慢するのだ。

    米国ではクリスマスに自殺が増える、という調査結果がある。何故だろう。感覚や感情の心は、変化を感知しているだけだ。暗い場所では弱い光でも明るく、明るい場所では暗く感じる。周囲が暗ければ自分は明るく、周囲が明るければ、自分は暗く感じられるのだろう。さらにクリスマスの癒しの雰囲気が、感覚や感情の心の働きを強め、癒しへの誘惑を強めるのだろう。

    生き抜くのが困難な環境で過ごした人ほど、自殺は少ないのではないか。争いや耐乏の必要が少ない環境で育った人ほど、自殺し易いのではないか。感覚や感情の心は癒しを求め、困難や苦難からの逃避を求める。言葉の心は困難や苦難を乗り越える救いを求める、癒しの誘惑に抵抗する力だ。生きようとする力だ。言葉の心は、苦難の時に育まれる。人と動物の差はここにある。人として生まれたからには、言葉の心を強く育てたい。言葉の心は筋肉のようだ。苦難によるトレーニングで強くなるのだ。

    中学1年の時、学校の健康診断で、予めアンケート用紙の提出が求められた。「死にたいと思ったことがありますか」という欄があって、喧嘩をして先生に殴られたことを思い出して、誰だってあるはずだと思い、はいという項に丸をつけて出した。一列に並んで一人ずつ校医の前の椅子に座る。校医が深刻な感じで、理由を尋ねた。後ろに級友もいるし、とっさに、間違えましたと言って、校医もそのまま聴診器を当てて診て、はい次の人と言った。50年前も、子供の自殺はあったのだろう。それでも現代に比べれば、大人も子供も自殺は少なかったように思う。当時は、生きていること自体が大仕事だった。クラスメイトが夏休みに池や防火用水にはまったり、結核や赤痢や脳炎など伝染病で死ぬことも日常茶飯だった。皆、生きようとする心の鍛錬が行き届いて、簡単にはギブアップしなかったのだろう。そんな心を、孫達に伝えたい。餓死、病死などの社会基盤の貧困は克服された。その代わりに、生きようとする言葉の心がひ弱くなった。自分は、戦争や貧困との戦いは語れないが、失われた言葉の心の生きようとする力は語れると思う。

    動物は自殺をしない。何故ヒトだけが自殺をするのだろう。ヒトだけが言葉の心を持っている。日本刀は良く切れる。剣道をしたことがない人が振り回すと自分を切ってしまう。両刃の刃なのだ。言葉の心が未熟なヒトが、未熟な言葉で自分を切るのだ。

    売春や自殺は、祖先や子孫への冒涜という観点で良くないのだ。

    見栄や体裁に囚われ、他人への見せ方に気をとられてする自殺がある。体と、言葉の心の働きである自分の区別がつかないのだ。自分の死後も自分が居て、つまり死体になっても死体が自分で、自分の死を、他人の死のように評価するという前提で考えてしまうのだ。死んで恥をそそぐとか、名誉のための死、辱めを受けるくらいなら死を選ぶ。そんな錯覚で自殺をしてしまう人も多い。自身の体の死が、他者の体の死と同じにしか見えていない。この体は誰のものなのだろう。この体をつないできた数億の祖先、この体が生み出すべき数億の子孫のものだ。さらに、この体の消滅は、自分や世界の消滅だ。この体の生成や消滅の深遠な意味を忘れてしまうのだ。今年だけ咲く桜の花が、自分の都合で木を枯らしてはいけないように、今生だけの存在である自分が、この体を勝手に放棄してはいけないのだ。

b.    死を言葉にする

ア.体にとっての死

イ.感覚や感情の心にとっての死

  感覚や感情の心には現在の現実しかなく、その中で癒しを求めている。感覚や感情の心で見れば、死は、現在の現実の消滅、癒しの喪失、つまり世界のすべての崩壊として映る。

  感覚や感情の心は癒しを求める。癒しを求めるとは、現在の現実にしがみつくことだから、現在の現実の消滅である死を受け入れる事はできない。いつまでも生きていようと願うばかりだ。

  宗教であれ何であれ、ともかく「自分の死のこと」を言葉にしてはっきりさせておかないと、感覚や感情の心を抑える言葉がないまま「死」に臨むことになり、いざと言う時、死にたくないという気持ちだけで、受け入れ不能に陥る。

  言葉の心は過去や未来を持っている。感覚や感情の心は現在の現実しか持っていない。言葉の心は救いを求める。感覚や感情の心は癒しを求める。言葉の心は現在の現実の癒しは二の次で、未来に生きるための救いを求める。感覚や感情の心は、現在の現実の癒しだけを求め、未来の救いには無頓着だ。感覚や感情の心は、現在の現実のまま、癒しを得続けていたい、現在の現実を失うことを恐れる。体に備わる生老病死という人生の季節も受け容れられない。言葉の心が未熟だと、過去も未来も、生老病死という人生の季節も、受け入れられないまま、恐れたままとなる。

  猫が死を迎える時の気持ちを想像する。眠気に近いだろう。人目につかない、安全な場所を探し、身をかくす。いままですべてがそうだったように、しばらく眠れば、眠気は去るだろう。何か特別なことが起きるとは思っていない。動物には感覚や感情の心しかないので、死に際して、苦痛に逆らわず、じっと耐えるだけだ。苦痛があまりに大きいと、脳は脳内麻薬を分泌して楽にしたり、気絶して神経回路を遮断し、楽に死を迎えられるようにできている。ヒトの基本的な在り方は動物だ。祖先たちがしていたように、死を、人生を最後の一滴まで動物として味わうのがいい。

  腹が痛む。高熱で頭痛がする。痛みの前では、あらゆる欲望は消える。世界なぞどうでもよくなる。世界が、体の痛む部分だけに小さく縮んでいく。傷む部分と自分を切り離すことだけが望みになる。感覚や感情の心は体からの脱出、死を望むようになる。昔の死はこうして訪れたのだろう。体の苦痛が生きようとする力を消し、本人も周囲の人も、諦めがついたのだろう。今は鎮痛医療が苦痛を消すので、いつまでも、生きていることへの諦めがつかない。

ウ.言葉の心にとっての死

  言葉の心の働きである自分にとっては、自分の死に特別も普通も、幸福も不幸も無い。他者の死を見ている時に色々想像するだけだ。しいて言えば、死ぬまでの苦痛や恐怖、悲哀などの感情だが、それとて、注射がどれほど痛いか程度の瑣末なことだ。

  年老いて、自分はどのような心境で死を迎えるのだろうと考えた。もっと生きていたい、死ぬのは怖いというのでなく、よくぞここまで生きてこれた。途中で消えた友人達の顔を思い浮かべながらそう思えたらいいと思う。できることはした、というか、したことが自分のできることだったのだと思えるようになりたい。「神様、この体と心をお返しします」。人は、形の思い浮かばない宇宙ではなく、具体的な受取人に自分を預けたいのだ。それはまだ、自分を手放したくないという未練なのだろう。心が体の苦痛に耐え切れなくなって、これ以上生きているのはしんどいと思うと、未練が吹っ切れる。医術が未発達だったつい最近までは、人はこうして未練を断ち切れたのだろう。

  感覚や感情の心のまま、現在の現実の中で、癒しを求めて日々を過ごしていても、動物のように知らぬ間に死を迎えられれば良いが、ヒトには言葉の心の働きである自分があって、自分の死という言葉を作り、恐れる。自分の死という言葉を知らない動物としての感覚や感情の心と、自分の死という言葉を知っているヒトとしての言葉の心が葛藤する。自分の死という言葉を知らない振りをして、動物の振りをして死ぬことは困難だ。

  言葉の心は、癒しでなく救いを求める。死後も未来へ生きようとする。年老いても消えない銀色の太陽だ。

  若さを讃える風潮が強い。年をとるとは、価値が下がることだと思っている。感覚や感情の心の見方だ。自分は言葉の心の働きで、年齢は無い。自分にとって体は道具にすぎない。言葉の心の成熟がヒトの価値を決めるのだ。

  92歳の義父が、何度も危篤を乗り越え、回復の望みがないまま、かろうじて生きている。陸軍士官学校、偵察機部隊で奇跡的に生還、自衛隊で過ごす間、「今は余生だ」という口癖をよく聞かされた。死に損なうとはどういうことか。言葉の心の働きである自分にとって、何事にも目的が必要で、目的不明のままでは何をしてもした気がしない。虚しく感じてしまう。死ぬにも目的が必要だ。しかし平和な時代では、死ぬ目的など持てない。戦争では、愛する何かを守るためという死の目的が持てた。目的を持って死ぬのが一番いい死に方だとすれば、義父は最高のチャンスを逃したと言いたかったのだろう。今は平時だ。感覚や感情の心は現在の現実の癒しを求めて生き続けようとし、意に反して体が死んで巻き添えを食う。無意味、無目的の死しかない。自殺は、癒しを求めるという感覚や感情の心によるもので、体が死ぬ前に、言葉の心の働きである自分がすでに死んでいるのだ。

  昨日は、入院中の義父の見舞いに行った。もう何も食べられず、意思表示もほとんどできない。かろうじて、お茶を綿棒に浸したもので口を湿らせるだけだ。病床では互いに癒ししかやり取りできないのがもどかしい。意識があったら、娘や孫に「救いの知恵」を話したいだろう。しかし伝えられるとしても所詮「癒しの言葉」だから、何も言わないのがいいのだろう。年寄りは救いを伝えたがり、若者は癒ししか耳に残らない。しかし歳をとった時、祖父母が伝えたかった救いの言葉が聞こえてくるだろう。

  誰かに見取られて死にたいという。見取られるとは、他者の心の中で、自分が言葉になることだ。その誰かとは家族や神仏なのだろう。しかし本当は、自分を言葉にして、発信して、言葉のDNAの海に流したいのだ。

  癒しでは救われない。昔の権力者が仏像や浄土をかたどった寺院を寄進したのは、本当は救いを得たかったのだろうが、実際には目くらましの癒しにしか役に立たない代物だ。今も、仏像や寺院から得られるのは救いでなく癒しの残りかすだ。あらゆる宗教団体は救いでなく癒しのサービス事業だ。

  愛する何かを生かすために頑張って、結果、自身の体が死ぬこともある。信じる言葉のための戦死や殉教、愛する者を生かすための自己犠牲、理想や仕事を成し遂げるために体を危険に晒して死ぬ、というのは幸福な死に方ではある。しかしこれも救いではなく癒しだ。外界の成り行きに依存するからだ。

  人生、最後は笑って死にたいというヒトもいる。生きている間中笑い続けていればもっといいというのかな。終わりよければすべてよし。つまり、株を最高値で売り抜けたいということだ。人生は株と違って、持っている間だけ意味があって、終値には意味は無い。やり残し、思い残しがないような状態で死を迎えたいというヒトもいる。それなら何もしなくても実現可能だ。死を迎える時、あらゆる願望は自動的に消えるようにできている。でも、最後だけが大切、もしくは最後は生きている間より大切とはどういう考えなのだろう。最後の瞬間は、死後の世界、地獄極楽につながる入り口で、審判を受ける場面という妄想に脅迫されているのだろう。

  いやしくも、現代科学の洗礼を受けて、迷信に頼らずに生きてきた自分にふさわしい死の迎え方を考えてしまう。そもそも死に方というのは無く、そこまでの生き方のことだ。ゴールは生きてきた道筋の最後の一部だ。ゴールへの入り方など無意味だ。大切なのはそこまでの生き方だ。死ぬのは、他人に迷惑をかけるという意味で、赤ちゃんがおしめを代えてもらうのと同じ、かっこ悪いことだ。かっこつけても仕方の無いことだ。

3)        愛する他者の死を言葉にする

a.    生き別れになった人や、死んだ人に、もう会えないと思うのは錯覚だ。思い出せばいつでも会える。しかし、おまえはそんなのは気休めで、思い出せるのは本物ではなく幻だと思うだろう。それでは聞くが、お母さんが生きていた時だって、そんなもんじゃなかったのか。学校に行っている間、友達と遊んでいる間、おまえから体としてのお母さんは消えていたはずだ。家に帰ればいつでも会えると思っている程度だったはずだ。今とぜんぜん変わらないじゃないか。

b.    死んだ本人の自分はもういないから、死の悲しみや恐怖は、死者を観察している人の心、それも感覚や感情の心に起こる感情だ。死には3つある。悲しくない他者の死。悲しい他者の死。恐ろしい自分の死。脳は、自分と同じだとみなした者が死ぬと、自分のことのように思い、悲しんだりおそれたりするようにできている。石が割れても悲しくないのに、葉や花が散ると少し悲しいのは、葉や花に自分のようなものが宿っていると思い込んで生じる錯覚だ。

c.    愛する者の死を言葉にして明らめ、悲哀から脱出する。

d.    自分は体ではなく心、それも言葉の心だと知れば、愛する者も言葉で、言葉には、体や物のような生死や消滅がないことが分かる。自分が生きている限り、言葉になって自分の一部になっていることが分かる。

e.    愛する者を言葉にできないと、感覚や感情の心のまま、悲哀や喪失感に囚われたままになってしまう。いつまでも苦しみ続けることになる。愛する者は外界に自分と別にいたのでなく、自分の中に言葉としていたのだと理解できれば、体の生死には拘らない気持ちになれる。

4)        死の支度

a.    死の支度は、生まれた時から始まっている。死の支度とは、体や、感覚や感情の心から、言葉の心の働きである自分を自立させることだ。言葉の心の働きである自分を成長させることだ。日々生きようと努力することが自分を成長させる。つまり日々生きようと努力することが死の支度だ。

b.    感覚や感情の心に支配されると、癒しへの渇きに取り付かれる。癒しをいつまでも得続けたいと思うようになる。結果、いつでも癒しに交換できるお金に目が眩む。死が断末魔になる。現在の現実への依存が大きいほど深刻だ。渇きと癒しを繰り返す現在の現実を失うことへの怖れ、これが断末魔の正体だ。死を受け入れ、強く生きるには、別の心の働きが必要だ。それが言葉の心だ。

c.    死に方を考えることは、生き方を考えることだ。死の意味を考えることは生の意味を考えることだ。死は生の一部、生の端にすぎない。

d.    死に方とは、最終場面での生き方のことだ。最終場面がいつどのように来るかは分からないから、つまりは普段の生き方のことだ。いつでも、死を恐れずに活動できる心の状態ということだ。死への怖れは自分が作った言葉が未熟なせいだ。苦痛は感覚だ。苦悩は感情だ。苦痛や苦悩を言葉にして、「恐れも苦悩もなく、自分の死を迎える」物語を作ればいいのだ。

e.    自分を、体や、感覚や感情の心ではないと知って、体や、感覚や感情の心が求める癒しへの渇望から自由になって、未来に向かって生きようとする言葉の心の活動をし易くする。

f.    自分の死を、映画のようなハッピーエンドにしたい。無意味に死ぬのは受け入れがたい。これが何とも重たい。体が死ぬのと、心が無意味な状態にいるのとは、次元が違う。その時、感覚は、病苦や麻酔で朦朧としているだろう。感情は、脳内麻薬のせいでハッピーだろう。余力が在れば、言葉の心は、言葉としての死を反芻しているだろう。辛いとすればこの部分で、医師も家族も何もできないだろう。感覚や感情の心の癒しは心配ないが、言葉の心の救いが問題なのだ。

g.    余命が1か月になって、死ぬ前にあれもしよう、これもしておこうでは、終わりがさらに辛くなる。満足して死を迎えることと、何かをすることは、関係がない。心の持ち方だ。大切なのは、言葉の心の育ち具合だ。

h.    老いると、体と心が離れてくる。心が欲しても、体が言うことを聞かなくなる。最後には、死だ。死は言葉の心の働きである自分の主導で迎えたいと思ってしまう。釈迦来迎図というのがある。どうしたら、その時、最高の満足ができるかという工夫だ。体が死んで自分が放り出されて、どこかに消えてしまわないように、何かが迎えに来て、どこかすばらしい場所に連れて行ってくれるという演出だ。それが成立するためには下記を信じることだ。体が死んでも自分は霊魂になってあり続ける。霊魂が行くいい場所がある。資格審査が在って、自分は大丈夫だ。どれ一つとっても、生きているこの世を複写した、妄想だ。

i.    もうすぐ自分は死ぬのだと思い、心残りのことを思う。心残りの正体は癒しへの渇きだ。家族や愛好品などだ。癒しをくれる事物は、最後には、渇きをくれるのだ。救いをくれる事物は、自分とともに生まれ、自分とともに在って、自分とともに消えていくという感じがして、失われるという気持ちが起きないので渇きも生じない。安らかな気持ちだ。救いをくれる事物とは何だろう。心の中に言葉で作った事物だ。自分や世界や時間だ。身の回りから未練につながる癒しの事物を片付け、言葉に置き換えていくのが良い。

j.    歳をとって、生きようとする情熱が褪せたように見えるが、本当は残り時間に比例して、視界が狭まって、えり好みをするようになっただけだ。子孫のために、命を投げ出す機会があれば喜んでそうするだろう。ヒトの最後の情熱は、象のように、死に場所探しなのだ。

k.    安らかに死を迎えられる心の薬。昔は念仏だった。今は何なのだろう。子供や孫の成長といっても、それは勝手に始まり勝手に終わる癒しだ。本当の薬は、外界の状態がどうのではなく、自分の心の状態なのだ。自分の言葉で作った心の城のようなものなのだ。50歳位で建設を始めても、20年以上はかかるものだろう。

l.    成仏とは死んでからのことと思われているが、それは成骨だ。成仏は、その場その場で、生きようとする心を鼓舞する言葉を生み出すことだ。

m.    自然災害への準備は物でする。死への準備はどうすればいいのだろう。死への準備は言葉でする。

n.    可愛いかった子供も大きくなって、手がかからなくなり離れていく。美味しかった食べ物も、だんだん口に合わなくなってくる。死を言葉にして受け入れることが、この先よりよく生きるために必要だ。かさぶたが自然にはがれていくように、外界から体が、体から心がはがれていく。浦島太郎が故郷の村に帰ってきて、この世はどのように見えただろう。孫を迎えに幼稚園を50年ぶりに訪れる。孫たちに混ざってみても、どうにも溶け込めない。尊敬していた保母さんだって、娘の世代だ。もうあの頃の世界はこの世にないことを思い知る。夏に楽しく泳いだ砂浜に、秋深くなって訪れた感じだ。どこも変わっていないのに季節だけが変わっている。TVチャンネルを回す。若者がちゃらちゃらして、見るに耐えないと思う。もうTVには、自分が楽しめる番組は無くなってしまった。そんなこんなの隙間風が、自分と世界を切り離し、体と心を切り離すのだ。自分は幼稚園の一部でも、浜辺の一部でもなく、そこを通り過ぎた、風だったことに気がつく。

o.    長寿への執着には際限が無い。ゴールが見えない、比較するものがないと、どう終えればよいかわからなくなる。満足できるゴールが見えなくなる。老いての心境を考える。もう少ししかないと思うか、もう十分だと思えるか。良くぞここまで生きてこれた、老人になれた。なれなかった友人達の顔を思うかべる。そこで基準ができて満足する。恩を受けた人々の顔を思い浮かべて申し訳ない気持を起こしたり、迷惑をかけてしまった人々に詫びる余裕も生まれる。

5)        感覚や感情の心が映し出す永遠の夢から覚めて、言葉の心で生老病死を言葉にして受け入れる

a.    永遠とは感覚や感情の心に映る現在の現実のことで、言葉が無いから記憶の過去も願望の未来も無い、自分も世界も時間も無い、始まりも終わりも無い、動物のような心の状態のことだ。

b.    永遠とは何だろう。何だろうと思う時、「言葉の心の働きである自分にとって」という限定をつけるといい。言葉の心の働きである自分にとって永遠とは何だろう。感覚や感情の心に映る現在の現実は、感覚や感情の心にとっては永遠だが、言葉の心の働きである自分にとっては虚無だ。言葉が本当の永遠なのだ。

c.    永遠には2種ある。感覚や感情の心に生じる永遠と言葉の心に生じる永遠だ。西の地平線を見渡せる丘の上を車で走っていたら、晴れた日没の空に、入道雲がそびえていて、ピンクの縁取りが後光のようで雄大だった。ふと永遠を感じた。感覚や感情の心には自分も世界も時間も無い。時間が無いとは始まりも終わりも無いと言う意味で永遠だ。だから感覚や感情の心になっている時に映る瞬間は、すべて永遠なのだ。感動に比例して永遠が強く感じられる。これが感覚や感情の心が生み出す永遠だ。一方で、この風景の中、すれ違う車は多いが、この瞬間は、自分だけの心理現象だ。共有も伝達も出来ない自分だけの感覚や感情だ。言葉の心はそれを惜しんで、この瞬間を言葉にして、共有や伝達ができるようにしようとする。みんなの自分、みんなの世界、みんなの時間に再構築しようとする。西行法師が千年前に、ある桜の木の、ある瞬間を和歌にして記録した。その瞬間は、サクラや法師の寿命を越えて、時間を越えて、その和歌の言葉が誰かの言葉の心に伝わるたびに、よみがえるのだ。瞬間の心理現象を言葉に変える、これが言葉の心が生み出す、無限に続くという意味での永遠だ。

d.    感覚や感情の心は現在の現実しか感知できない。現在の現実には、過去や未来という時間が無い。無限に続く今のここ、つまり永遠だ。だから自身についても、体の永遠、感覚や感情の心の永遠を前提としてしまう。自分を、体や、感覚や感情の心だと錯覚すると、死を恐れ、安楽をむさぼり、物品を収集するなど、癒しを求めるばかりになるのはこのためだ。一方で言葉の心は、過去や現在を見ることが出来るので、現在の現実は永遠ではなく感覚や感情の心が映し出す一瞬の幻だと分かる。現在の現実のはかなさを象徴する言葉として「死」という未熟な言葉を作り出す。成熟させるのは一生の仕事になる。