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(1)道具の片付け。体の始末。

@    後始末物語

1)火を始末する。

2)道具を片付ける。

3)心を始末する。

a.      言葉は生きている間にすでに自分から解き放たれて、誰でもない移り香になっている。言葉のDNAになっている。残り香となって、言葉のDNAの海に戻っている。

4)体を片付ける。

a.      インドのベナレスで見た火葬の火は、焼香のようだった。体が香木で、煙が言葉だ。燃える火は、言葉の心だ。

b.      自分の死に立ち会えない唯一の人が自分だ。自分の死を見ることの出来ない唯一の人が自分だ。自分の死体を始末できない唯一の人が自分だ。自分の死に顔を見ることが出来ない唯一の人が自分だ。

c.       残り香にする。焚きガラを炭団の火に直接くべる。体である香木は、すべての香りを出し尽くして、灰となる。

A    考え方

1)自分の死は自分には起きない。周囲の人々に起こる事件だ。その時自分はいない。自分で体を棺に納めたり、火葬や埋葬は出来ない。自分でできないのは体の片付け、ただそれだけだ。

B    しなければならないこと

1)死亡診断書の受領(医師)。

2)遺体の引き取り。(搬送業者)

3)遺体の保管。(自宅又は有料霊安施設)

4)火葬予約。(役所の火葬場)

5)棺と骨壷購入(小売店)。納棺(遺族)。

6)死亡届。火葬許可書の受領(役所の戸籍係り)。

7)遺体を火葬場搬入(搬送業者)。

8)火葬手続き。遺骨受領(役所の火葬場)。

C    してもしなくてもよいこと

1)葬式、埋葬(散骨、自宅保存も可)。

2)家族に精神的、経済的負担を掛けさせないために、自分の意思を言葉で明らかにしておく。

3)葬式の目的は、感覚や感情の心を発散するのでなく、死者を言葉にして、家族が心に区切りをつけられるようにすることだ。しかしそれは、その場で、儀式で出来ることでなく、普段から積み上げることだ。生きている間に、言葉の心で生きようとすることがそのまま葬式なのだ。すべてが終わって、本人不在の一夜漬けで、他者が、感覚や感情の心をもてあそぶことを演出しても無意味だ。

D    家族の心の始末

1)家族の死に出会うと、何がどうなったのか、全く理解できない。混乱に襲われる。救いは日ごろ育てた言葉しかない。葬式で僧侶や年寄りから何を言われても、役に立たない。

2)言葉の心で見れば、死者は何処にも行っていない。いつもどおりに居る。お互いの脳の中でお互いを言葉に作り、交流していたのだ。体が死んでも、言葉は心の中に在り続ける。かえって、体や、感覚や感情の発する雑音が無くなり、さらに親しく交流出来る。

3)感覚や感情の心は、他者と現在の現実でつながっている。言葉の心の働きである自分は、他者と言葉でつながっている。記憶の過去や願望の未来になってつながっている。相手が死ぬと、感覚や感情の心がつながっていた現在の現実の相手は消える。言葉の心がつながっていた、言葉になっていた相手はそのままつなかり続ける。感覚や感情の心で結びついていた家族は、死に強い衝撃を受けるだろう。感覚や感情の心は現在の現実を映しているのに、それが映らなくなるからだ。

E    自分と他者の関係の始末

1)我々は、お互いを言葉にして、交際している。体が死んでも、言葉は相手の中に在り続けている。

F    自分と物の関係の始末

1)死を覚悟した時、残していく事物についてあれこれ悩むだろう。できることとできないことがある。どちらにしても、生きているうちに片付けておかねばならない。物については誰かに委ねるしかないし、行方は定かでない。言葉なら、確実に渡すことができる。渡されて本当に役立つのは、物より言葉だ。物は失ったり奪われたりする。物が心を蝕むこともある。言葉は失ったり奪われたりしない。心を強くする。言葉は、物より確かな遺産だ。

2)古代エジプトのファラオたちの誤算。残すべきものは、墓や神殿でなく言葉だった。墓や神殿は、死後に他者から癒しを集める道具で、死後に得る癒しなど無意味だし、生きているうちに自分で作らねばならない救いとは次元が違う。

G    死に関する慣行や迷信を言葉で明らかにして、感覚や感情の心に思考の邪魔をさせられたり、迷わされたりしないようにする

1)死者の体について

a.    死者とは心でつながっていたこと、体は心の容器に過ぎないことを、言葉にして明らかにする。死者の体に未練を起こし、こだわるのは、間違っている。心が抜け去った体を諦める。互いに心でつながっていたことを思い、本当のつながりを確認する。

b.    死者も、見送る人も、互いの正体は体ではなく心、それも言葉の心が生み出す言葉だ。体と心、感覚や感情の心と言葉の心は、別次元に生じている。船に例えれば、体は船、心は船長、感覚や感情の心の働きは漂流、言葉の心の働きは航海、言葉は航海日誌だ。死者である船長と、見送る人である船長が、大洋の真ん中で出会い、信号を交わして、すれ違ったのだ。互いの航海について言葉を交わし、互いを、互いの航海日誌に書き込んだのだ。信号は電波が届く限り交わされ、互いの航海日誌に記載が追加され、互いは航海日誌に書き込まれた言葉によってつながっていたのだ。互いにとって、互いは、感覚や感情の心に映った船影つまり体ではなく、互いの航海日誌に書き込まれた言葉なのだ。死者の船が沈んでも、見送る人が読み返す航海日誌に、何も変わりは無いのだ。

c.    死体には死者はいない。今すべきは、死者ではなく死体の片付けだ。死者はそこにいない。何処にも行っていない。死者はいつも、生者の言葉の心の中に居たし、これからも居続ける。

d.    死んだ体は、もう誰とも関係のない物だ。見送る者が片付けるべき対象にすぎない。

e.    夢を見た。旅の途中、道端で、誰かが寝ている。Not a shirt on my backNot a penny to my name.という歌が浮かぶ。背中にシーツが無い。墓標に名前も無い。ああ、これは自分の体だなと思う。遺体への穢れの感覚は、一日履き続けて脱いだ靴下のようなものだとも思う。

f.    体に執着しない。心が消えた体に執着しない。

g.    医学が発達した未来に生き返る為に、体や脳を冷凍保存する商売がある。「蘇生を保証するものではありませんが試さないのはもったいない」というセールストーク。お墓にお骨を収めるのと似ている。本人と遺族の両方の心を慰める商売だ。しかし本当に生き返ったら子孫にとっては大迷惑だろう。曾じいさんが生き返ったらみんな困り果てるだろう。それよりは、言葉を沢山記憶させたCDをインターネットに埋めておけば、本人はそれで十分満足だ。見たい人が見たい時に開くかもしれないし、たぶん忘れ去られるかもしれないが、それはどうでもいいことだ。

2)死者の心について

a.    故人は死に臨んで何を思うか。すべての心の働きは消えている。こうして欲しいだろうとは、残された者が自分を癒したいための勝手な想像で、故人は、そんな癒しを超越している。自分の癒しになぞらえて、つまらない計らいをするのは、故人への冒涜だ。

b.    お墓を作って自分を残したいというのは、自分を体だと思い込み、死後には消えてしまう自分を、残るものだと思い込んでいることの証拠だ。死後も忘れられたくない、愛され続けたいという気持が捨てられない。しかし、名前を墓石に刻んでも自分は残らない。残せるものは言葉しかない。生きている日々に言葉を発信する。言葉は、発信されると、自分という殻を脱いで言葉のDNAになる。体も自分も、家電や家具のようだ。生きている間の道具に過ぎない。使用者が居なくなれば、粗大ゴミだ。

c.    自分は言葉の心の働きだ。相手を言葉にして付き合っている。体が死のうが消えようが、言葉になっているので影響は受けない。大人にとってはそれでいい。しかし、幼い者には、死者は感覚や感情の心でしか見ることができない。死は感覚や感情の心では受け入れられない。得体の知れないものとして、恐怖ばかりが湧くだろう。

d.    焼けるのを待つ間に思う。陽が差して心を写す影法師。拾う時しみじみ分かる体は影と。

e.    愛する者を、自分の死によって苦しませたくない、祖父が死んだ時、悲しみでなく、不気味さに囚われた記憶がある。明け方に、ウツラウツラ見た夢の話だ。自分の葬式なのに、部屋の片隅にいて、孫に一生懸命説明している。夢だからその矛盾に気がつかない。通夜の客がいなくなって、二人で棺の方を見ながら話している。葬式は誕生会と同じだよ。違うのは、誕生会には本人がいるけど、葬式には本人はいない。その箱の中の体は、じいちゃんではなく、じいちゃんが鳥や牛や魚や野菜から借りていたものだ。借りたところに返さなければいけない。今日は借りた体の返還式だよ。じいちゃんはその体が生み出した言葉の心の働きだ。壊れたのは体だけで、言葉の心の働きであるじいちゃんは言葉になって、ずっと前からおまえの中に一緒にいたし、これからもいるよ。鳥や牛や魚や野菜から借りていた体は生ものだから、一度きりしか使えないのさ。ゆうべ、じいちゃんの最後の言葉は、光になって、おまえの心の宇宙へ飛んで行ったのさ。何億光年も前に燃え尽きた星の光が、今頃地球に届いて、何億光年も前の姿のまま、これからもずっと、地上の私たちに見え続けていることは知っているね。今お前に話しているじいちゃんの声もそんな感じだよ。その目は信じてないな。作り話だと思っているな。宇宙は心の外側と内側に別々にある。外側の宇宙はみんなで共有だが、内側の宇宙は一人に一つずつある。そう、自分と呼んでる宇宙だ。その正体は脳の働きだ。脳には細胞が○個あって、その組み合わせで言葉のレンガを作って、内側の宇宙を作っている。レンガの数は、外側の宇宙にある星の数よりずっと多い。だから内側の宇宙の方が、外側の宇宙よりずっと深いんだ。おまえは、今見えているのは外側の宇宙だと錯覚しているけれど、本当は全部、おまえの脳が内側に創った宇宙だよ。じいちゃんも、最初からおまえの内側にいたんだ。あるのに見えないものがあるね。無いのに見えるものもあるね。心のしわざだ。幽霊が見えるのもそういう訳だ。おまえは内側の宇宙を見ているのさ。ゆうべ、外側のじいちゃんは消えちゃったけど、内側のじいちゃんはそのままだ。いつでも会ったり話をしたりできるよ。花や虫とお話しするのと同じだ。じいちゃんの方からもおまえが見えるかって。おまえの内側にいるんだから、前よりずっとよく見えているよ。おまえの目や鼻や耳は、外側の世界にしか使えないから、これからは、脳で直接、内側の世界のじいちゃんの言葉を感じ取るんだよ。お葬式は、「体は借り物だ」という大切なことを心に刻むために考え出した演劇なのさ。じいちゃんが外の世界では見えなくなって悲しいというのは、お腹がへったり、冬が寒いのと同じ、当たり前のことだから、我慢できるよね。そのうち慣れて、今までのようにお話ができるようになるさ。こんなレベルでは、まだまだだなと思いながら、なんとか孫を納得させようとして、あせっている自分がいる。

f.    この世とは、感覚や感情の心に映し出される現在の現実だ。あの世とは、言葉の心が生み出す言葉、つまり記憶の過去や願望の未来のことだ。言葉は発信されると誰のものでもなくなる。その意味でみんなのものになる。時空を超えて地球の裏側のヒトにも、数千年後の人にもウィルスのように移る。そんな言葉のウィルスの海が人類の誕生ととともに生じ、今日まで生まれたすべての人々の言葉が流れ込んで、今生きている人々、これから生まれる人々にも移って、それぞれにそれぞれの自分を作らせる。言葉のDNAの海のことだ。死者も言葉のDNAになってそこにいるのだ。

g.    お経は、どのように生きるかを説くものだから、死者にはもう不要だ。という意味で葬式にお経は不要だ。急だった、残念だった、諦めきれないなどと、故人が不幸であるかのようにゆゆするのは、人知を超えたことに対する、身の程知らずで僭越なことだ。という意味で弔辞も不要だ。体として生じて、感覚や感情の心と戦いながら、言葉の心を育て、言葉で自分や世界や時間を作り、言葉を発信して、言葉を元居た言葉のDNAの海に戻した。それで十分なのだ。周囲のヒトは、ただ静かに、人目につかぬように、抜け殻の始末をするのがよい。体を得て、感覚や感情の心の夢を見て、また覚めて言葉のDNAの海に戻る。胡蝶の夢だ。自分たちがこの世にいて、あの世に旅立つ故人を哀れんで見送っているように思うが、それは逆で、元々いた言葉のDNAの海の視点から見るのが正しい。故人は旅を終えて、故郷の駅に下車をして、ほっとしながら、これからも宛ての無い旅を続ける我々の汽車の後姿を、駅のホームから見送っているのだ。

h.    死者は言葉を残して消えたのだ。遺体や遺骨には死者はいない。死者の本質は言葉だ。体が死んで、言葉の心の働きも消え、死者はそれまでに発信した言葉のDNAだけを残して消えたのだ。なされるべきは、嘆き悲しむことではない。無意味な儀式で気を紛らわすことでもない。残された者が、言葉にしきれていなかった死者を、それぞれの心の中で言葉に完成することだ。

i.    その人の本質である心は病院で消えている。心はもう体にはいない。葬式の主眼は、抜け殻となった体の始末だ。体との別れは事務的でいい。大切なのは心のことだ。その人は言葉のDNAになって、残された者の心の中に移っている。言葉は、体のようには死なない。残された者の心に宿り続ける。だから、お別れ会ではなく、その人が残した記憶の過去や願望の未来の引き継ぎ会だ。この後、お盆の法事のように、子孫達が集まると、各自の中の故人も集まる。その時、皆が話している言葉は、それぞれの中の故人が話をさせているのだ。故人は勢いを盛り返し、よりしっかりと各自の心に宿りなおし、各自の行く末を見守るのだ。

j.    春が来て、熟年夫婦が家の周りに花木を植え込んでいる。楽しそうだ。葬儀では、棺の周りを花で飾ることが多い。死者の体を送る為か、心を送る為か。きっと、死者の心を、会葬者の心に迎えさせる歓迎のレイなのだ。移るべき言葉はすでに移っている。いまさら何が必要なのだろう。何を持っていけるのだろう。行き先は言葉の世界だ。物は持っていけない。思い出も今更は作れない。春になって春に咲く花木を植えてももう遅い。

k.    死者の顔はどれなのだろう。死者は、生者の心の中で、いつも微笑んでいる。

3)形見

a.    国立公園の看板

ア.Take nothing but pictures, leave nothing but footprints

b.    形見について

ア.自分や家族を記録にして残したいと思う。なぜそう思うのだろう。本来残らないものだからだろう。若い夫婦は、子供の成長や、家族の体や、感覚や感情の心の記録を残したいと望む。写真や動画などだ。しかし心が成熟するにつれて虚しくなってくる。それは、感覚や感情が映し出す現在の現実を残そうとすることが、本来不自然で、無理なことだからだ。言葉の心の働きである自分を伝えたいと思うようになる。文章なら心が伝わる。書く過程で自分も成長する。写真や動画は癒しの手段だ。文章は救いの手段だ。

イ.体は世代を超えて自動的に伝わる。DNAの組み合わせで個体毎に少し差異はあるが、世代が移る毎に、DNAの海でシャッフルされるから、全体としては均質に保たれている。しかし生きるノウハウは伝わらない。ノウハウは言葉にしなければ受け継げない。言葉は言葉のDNAの海を経て、世代を超えて伝えられる。

ウ.死んだ人を思い出す手がかりは、死者がくれた言葉だ。物の形見を所有することで、その人と一体化した気分になるのは勘違いだ。

エ.この体の正体は、35億年前に誕生した1個のDNAであり、それが分裂と進化を繰り返し、4百万年前にサルから枝分かれした原人のDNAであり、20万年前に原人から枝分かれしたヒトのDNAであり、数万年前に枝分かれしたモンゴロイド種のヒトのDNAであり、そのDNAが60年前に咲かせたDNAの花だ。ここまでは体の話だ。今、このように思っているのは、この体に生じている言葉の心の働きである自分だ。世代を超えて言葉を伝達、蓄積できる言葉の心の働きが生まれたのが猿人の時代だとする。その後数百万年の間に形成された言葉のDNAの海から、言葉のDNAが、それぞれの体の言葉の心に流れ込んで自分が作られる。しかし自分を体だと思ってしまう。死後の自分を残そうとして、写真や銅像、ミイラ、それが難しければ骨にこだわってしまう。本当の自分の形見は言葉のDNAなのだ。

オ.母は84歳で、一人で暮らしている。今日仕事で近くへ行ったので、夕食と風呂を頼んだ。牛肉を2枚買って行った。風呂に入っている間に食事の準備をしてくれた。いつものとおり、肉は2枚とも私の皿の上にある。風邪が流行っているし薬だと思って食べてくれと1枚母の皿に移す。食べたくないからおまえが食べろと戻してくる。肉は半分になり、更にその半分になって、やり取りは納まる。1缶のビールを分けて飲む。酔いが覚めるまでTV前のコタツでうとうとする。3時間たって門で別れる時、飲酒運転は絶対ダメだ、遺言だと思ってよく聞けと言われる。まだ当分元気だろうが、今日のことをいつか思い出す日が来るだろうと思う。

c.    遺体や遺骨について

ア.死者の本質は、既に発信された言葉になって、言葉のDNAの海に戻っている。体は、水や炭酸ガス、ミネラルとなって大気圏に拡散する。Caつまり遺骨は死者の本質ではない。

イ.自分は言葉の心の働きだ。体が死んで、自分も消えた後、残るのはそれまでに発信した言葉だけだ。遺骨は体の形見だ。言葉の心の働きである自分の、本当の形見は、言葉だ。言葉なら、いつも、どこでも、いつまでも、一緒にいる。

ウ.火葬の時間や温度で、遺骨の残り方はいかようにもなる。欧米では高温で、サラサラの砂にする。日本では低温で、骨格を残す。砕いて、形を崩して遺族に見せる。故人の記憶があった顔の表情も、心があった脳も残らない。心は脳波が消えた時に消えている。

エ.死ぬと、TVが真っ白になるように、心も真っ白になる。心の働きのすべてが消える。普通は、この状態を例えて、あの世と呼んでいる。本当のあの世は、生きている間の、感覚や感情の心が映し出す現在の現実というこの世に対して、言葉の心が作り出す記憶の過去や願望の未来のことを言う。死後もこの「あの世」は在り続けている。発信された言葉が言葉のDNAの海にたまって、個々の命を越えたあの世を形成しているのだ。そのことが分からないと、体が死ぬと自分のすべてが消えるように思えて、恐れや迷いが湧く。恐れや迷いはこの心の隙間が原因だ。

オ.遺骨は燃え滓だ。残った者の自由にしてくれ、が正しい。

カ.死体は人の最後の排泄物だ。遺族の務めは、故人の尊厳を守るため、人目にさらさぬように片付けることだ。死体とお別れの儀式をするのは、トイレでいちいちさよならを言うのと同じだ。

キ.死者と死体は別だ。死者は言葉つまり情報、死体は物だ。寝顔だって見られたくないものだ。わざわざ死に顔を覗き込んで、言葉であるその人の笑顔を、感覚や感情の心に映る死顔に置き換えた方がいいと思い込んでいる人が多すぎる。

d.    墓について

ア.お寺で過去帳を見た。昔の大金持ちは三代で没落、五代で復活、復活は没落よりちょっと難しかった。今、核家族や非婚で、家ごとの盛衰は見え難くなった。墓をはさんで先祖や自分や子孫が繋がっているという幻想も消えかかっている。

イ.体は、DNAが外界の物質やエネルギーを材料にして作った道具だ。もう元に戻っている。感覚や感情の心は、外界の刺激が一瞬電気になって流れてその都度消えている。言葉の心の働きである自分も消えている。生きている間に発信した言葉が、言葉のDNAの海に戻っている。墓は何のためかは、人は死んで何を残すかに関っている。本人の心は既に無く、体は借り物で、すでに返されている。そのヒトの本質である言葉は、発信された都度、言葉のDNAの海に戻っている。残すべきは残っていて、残らないものは既に消えている。いまさら何もする必要はない。

ウ.ヒトにとって残るとは、みんなの心に言葉になって在り続けるということだ。物として在り続けるというのとは違う。墓を築いても、興味を持つ者が居なくなればおしまいだ。墓とはそんなものだ。自分を残したいというなら、言葉を残すしかない。言葉以外は残るものではないということだ。その言葉も、自分という殻を脱ぎ捨てて、みんなの言葉という言葉のDNAにならねば残らないのだ。

エ.戒名は納骨のために、信者(檀家)が教団(旦那寺)へ支払う、遺骨保管料を美化したもので、A寺で戒名をつけた遺骨を、B寺に持ち込んでも拒否される。JRの切符で、私鉄に乗れないのと同じだ。寺の収入のためで、故人の供養とは関係ない。檀家信者でもないのに、墓石のアクセサリーとして刻めば、未来永劫、物知らずの刻印になる。

オ.個別の体を超えた家系や先祖、子孫という言葉がある。体のDNAの海から、一組の男女が汲み上げた一滴。もしその一滴に、海全体との差異、個性があったとしても、次の子の一組が汲み上げる時に、全体とシャッフルされる。こうして、結局個々に特別な何かが生じるのでなく、全体の一部が点滅しているだけだとわかれば、家系の無意味さもわかるというものだ。そうは云っても感覚や感情の心は、変化や差異でしか、世界を把握できないように出来ている。家系とはそういうものだ。墓も、ヒトが共同体的存在だった頃は、結束、所属を確認して安心する手段だった。今はその意味でも血筋にこだわることは無意味だ。

カ.大きな墓は、その墓に関わる人々の、大きな欲望を象徴しているようで、平安が無い感じがする。死後も満たすものを求め続ける大きな袋のような感じがする。死んでも死んでいないと主張している苦しみを感じる。大きな墓を維持するには、大きな費用が必要になる。子孫に重荷を負わせることにもなる。

キ.戸籍法や社会制度が、家族制度を否定している。墓は苗字の由来を示すだけで、血筋の象徴ではなくなった。住居の移動が増え、少子化や核家族化で、世代を超えて維持することが困難になった。墓も石から、情報に進化する必要が生じている。

ク.江戸幕府による、戸籍管理、キリシタンなどの宗教弾圧から生まれた民衆管理手段の名残りの葬式仏教。未だ、墓で縛られ、檀家制度から抜けられない人々が、農村や下町には多い。

ケ.本人の本質は、みんなの心に、言葉になって溶け込んでいる。本人の体は、分解して大気圏に拡散する。体の形見としてCaだけを焼け残したりする。しかし物は死者の本質ではない。本質は心それも言葉の心だ。生きていた間発信されて、みんなの心に移った言葉つまり言葉のDNAの海が、本当の墓だ。

コ.おじいちゃんはお骨になった。「何故すぐ、穴に入れてしまうの。おじいちゃんがかわいそうだ」。おじいちゃんは、本当は体でなく、お前の中の言葉だったのだよ。言葉は見えないから、お骨はそのための目印だ。心はしばらくすると、みんなの心と合流して吸い込まれてしまうから、そしたらお骨はもういらなくなるのだよ。

サ.自分の正体は情報生物だ。情報生物は、体がなくても、記憶や文字などで対話ができる。死者とも対話ができる。記憶装置としての墓も作る。情報生物の墓は、心の中に言葉で作るものなのだ。

シ.TVで、蟻の巣の構造を見た。最後にゴミ捨て場が出てきた。糞や抜け殻に混ざって働き蟻の死骸もあった。最初は蟻の非情さに思えた。それに比べてヒトは葬式や墓を作るから偉いと思った。しかし、よく考えれば、蟻のほうが知的だ。生き物の本質は心で、体ではないこと、死骸は糞や抜け殻と同じものだということが、蟻によって教えられた。

ス.母と墓参を終えて、炎天なので、日陰で休息をした。顔が分からない距離に、若い三人の姿が見える。一人の女性が熱心に墓を洗っている。弟と妹らしき二人は、突っ立って見ている。長女が時々指示をして、花や供物を備え、線香をあげている。三人が整列して直立不動で合掌。しばらくして長女が供物を取り上げ、中身を配る。整列したまま食べ始める。串団子のようだ。残りを包んで手荷物に入れる。きっと二本だろうなと思う。最近、両親を亡くした兄弟達なのだろうと思う。両親の気持になった。してやりたいけれどもう何も出来ないという気分になった。でも、兄弟そろって墓参、墓前で両親と一緒に食べるなど、心はしっかりつながっている。ヒトがヒトに残せるものは心だけだ。それさえ伝われば十分なのだと思い直した。

セ.ヒトは体だと考えると墓に意味がある。ヒトを骨だと考えると遺骨に意味がある。人を名前だと考えると墓石の戒名にも意味がある。人は心だと考えると、墓より、故人の言葉に意味があることになる。言葉は情報だから、生前のうちに、生者の中に移っていることになる。体の墓はペットでも残せるが、言葉の墓はヒトにしか残せない。

ソ.墓参りに行った。供物台に、おもちゃや人形が供えられている墓があった。子供だった骨が入っているのだろう。埋められているのは何なのだろう。言葉だろう。誰の言葉だろう。死者ではなく墓参者の中に在り続けている言葉だろう。この墓は何をしているのだろう。墓参者の中に在り続けている言葉をリフレッシュさせる物証とか、甦らせるスウィッチのようなものだろう。墓とは、物の世界と心の世界をつなぐ装置なのだろう。しかし、心の中の言葉はTVのようにスウィッチを入れたり切ったするものでなく、映りっぱなしなのにとも思う。

タ.墓は、子孫の負担にならないように。心の拠り所になるように。

チ.墓のことを考えた。何のために作るのか。血筋を信じ、その象徴を石と骨で残そうとする。血筋にこだわるのは虚しい。人類皆大本の一人から発した大河の一滴だ。一滴というより大河そのものだ。個々の一滴にこだわる心は、競争差別の心を掻き立て、互いを他者にする。血筋や体や名前は自然に帰して、生まれ出た時と同じように、どこの誰であったということは無しにして、大河に帰るのがいいと思う。

ツ.今日は多磨霊園の中央の道を抜けて、母を弟の家に連れて行った。両側から墓石の林が見ている。正月だからか、閑散としている。自分にかかわりの無い墓ほど虚しいものはない。ただのゴミ捨て場に見える。墓そのものは無意味で、墓参者の心の中でのみ意味が生じる。

4)供養について

ア.供養とは死者と対話をして、生きようとする力をもらうことだ。生者が死者に向かって何かをすることでなく、言葉になった死者が生者を生きようとさせてくれることだ。

イ.死者は絶対的に完全に平安だ。それを極楽だ地獄だ、供養しなければ死者に不幸が襲うなどという僧侶は多い。おまけに金で買った戒名があの世での地位になるなどという。時の権力者や、金持ち、現代なら大衆から金を巻き上げるために編み出した嘘の塊だ。

ウ.二つの番組を見た。チンパンジーの母親が、子供の亡骸をずっと背負っている。無くしてしまうまで背負い続けるそうだ。その群れでは皆そのようにしているという。もう一つは、ロッキーのふもとの平原のバイソンの話だ。冬、死んだ母牛のそばで、子牛が起こそうと寄り添っている場面だ。1時間ほどして群れとともに立ち去った。チンパンジーは死者の体がある限り、牛は死者がいても1時間、相手を抽象化して、心に再現していられるのだろう。ヒトは死者の体の有無に関係なく、相手を抽象化して言葉に変えて、いつまでも身近にいるように感じることが出来る。死者を言葉にしてずっと一緒にいる能力を身に着ける。その脳の進化が、自分という一代限りの情報生物を生み出し、世界や、過去や未来を生み出し、さらに言葉のDNAになって、世代を超えて一緒にいられるように発達したのだろう。

エ.祖先とは、体はもちろん、自分という殻からも脱皮した言葉のDNAの海のこと。自分が無いから邪念も無い。家族を見守っている。家族ばかりでなく、人類全体を見守っている。1万年以上前にアルタミラ洞窟の壁画を描いた人々も、今はそうやって、我々を見守っている。

オ.今日、商店街で、暑い日ざしの中、麦藁帽子を被った年配の男性が、自転車の後ろに花を乗せて去っていく姿を見た。白シャツの背中に奥さんの気配があった。奥さんは体が消えただけで、その人の心の中に生き続けているのが見えた。

カ.震災で妻や子や孫を失ったおじいさんへ。生きようとする力は、自身のためより、誰かのため、何かのために向かって湧いてくる。妻や子や孫、家や仕事を失ったおじいさんは何を目的とすればいいのだろう。何かを考える時、必ず「誰にとって」という前提が必要だ。「誰にとって」妻や子や孫が失われたのか。妻や子や孫は自身を失ったとは思っていない。おじいさんが妻や子や孫を失ったと思っている。自身を失った妻や子や孫の無念さは、本人の体とともに消えている。残っているのは生きているおじいさんの中にある言葉だ。そう考えると、どうしようもない悲しさが半分になる気がする。死者は言葉なので、おじいさんの中にしかいない。言葉になった家族はおじいさんの中だけに存在するし、対話もする。言葉は情報で、情報の本質は、誰かの中で在り続けることだ。言葉になった家族は、朝夕仏壇を拝んだり、時々思い出してもらえばうれしいのだ。おじいさんが生きている限り、言葉になった妻や子や孫も存在し続ける。順番どおりにおじいさんが先に死んでいたら、妻や子や孫も、同じことをしていたのだ。

キ.自分は言葉の心の働きだ。体は借り物、自分の入れ物に過ぎない。供養の対象はその人が発信した言葉だ。言葉は光のように元々生きていないから死ぬこともない。ずっと在り続ける。墓はその人の記念碑だ。骨を入れる壷や石でなく、表情や声を映していた感覚や感情の心のなごりでもなく、言葉のDNAになって戻っている言葉のDNAの海が、本当の墓だ。

ク.生きているうちが本当の葬式だ。今日だけが葬式でなく、これまでずっと葬式で、これからもずっと、生きている間中葬式は続くのだ。

ケ.お盆で「この世」の子供達を訪ねていた妻が戻った。「どうだった」と聞く。「何が」とはぐらかされる。「子供達の様子だよ」。知りたいのは、何をしていたかでなく、元気だったかどうかだ。

コ.9月12日、死者を悼む。日本では3.11の震災犠牲者の半年目の追悼が昨日行われ、米国では9.11の追悼が時差の関係で、今日行われ、実況中継された。昼、14時頃、母の家に行くため、小田急に乗ろうとしたら成城学園で人身事故のため休止していた。人身事故のほとんどは自殺だと皆知っている。仲間がライオンに食われているのを遠くから見て見ぬ振りをしている鹿の群れのような気持ちになる。マスコミが取り上げる集団の死の他に、日々、もっと多くの一人一人の死が進行している。命は、祖先の遺骸の先端で触手をヒラヒラさせている珊瑚虫のようだ。京都の路地裏などを歩いていると、長い年月、この場で息絶えたヒトが沢山いたのだろうなと思う。東京の下町でも、関東大震災や空襲で折り重なった死体の山が思われる。追悼は死者を成仏させるためなのか。生きている者の心に死者を蘇らせるためなのか。感覚や感情の心のまま、記憶にもなれず、かといって忘れることもできず、いつまでも現在の現実としてぶら下がっている状態に区切りをつけるためだ。受け止めきれていなかった死者の言葉を、言葉にして言葉のDNAの海に送ることだ。

サ.死者はもういない。感覚や感情の心に映っていた死者はもういない。生前発信した言葉だけが残っている。残された者の心に移って残っている。供養は、一人一人の心の問題だから、その時、その場所で、一緒に何かをするというのではなく、一人一人が、一生かけて心の中でする作業なのだ。死者を言葉にして自分を一生見守ってもらうのだ。

シ.一人暮らしになった母が、デイサービスに行っている間、実家で留守番をする。仏壇に父の写真。とうとうこの家も母一人になって、もうすぐ誰もいなるのだなと思う。庭で蝉が鳴いている。ここにも住人がいたなと思う。周囲をうかがうようにチッチと初め、わめくようなジー、疲れてしゃっくりの後終了。際限なく繰り返している。赤ん坊のようだと思う。7年前の夏に、この庭で鳴いていた蝉が産んだ子供たちだ。米国には17年周期のセミがいる。17年前の夏には父は元気だった。17年前が突然地中から蜃気楼のように現れたような気がする。お盆にふさわしいと思う。

ス.迎え火。先にあの世へ行った死者が、あの世で迎え火を焚く。この世から死者が迎えられる。死者はもうその先へは帰らないから、あの世には送り火はないことになる。さらに考える。あの世を35億年続くDNAの海のことで、この世は個々の体だと考えれば、あの世で焚く送り火とは、この世に体として生まれさせる力ということになる。あの世を、この宇宙のエネルギーと物質の循環だと考えれば、もっと話のスケールは大きくなる。あの世を数百万年前に溜まり始めた言葉のDNAの海、この世を言葉の心の働きである自分だと考えれば、あの世で焚く送り火とは、この世に言葉を送り出し、この世の言葉の心に自分を吹き込む力ということになる。

5)お経について。

ア.死んだらご馳走は食べられない。死者の口に食物を押し込むのは無意味だ。お経は人間としての生き方についての教えだ。生きていない者には無用だ。生きていない者に、お経を聞かせても無意味だ。人は死んだ瞬間に仏になる。人間のための教えなぞ今さら無用だ。

6)あの世について

ア.人は死後、在るから無いに変わるのか、物体から情報に羽化するのかはわからないが、まったく違う在り方になるのだろう。しかし理解は不能だ。本当はあの世もこの世も、一人一人の脳の働きの中にある。あの世は言葉の心が作っている言葉、つまり記憶の過去や願望の未来のことだ。この世は感覚や感情の心が映し出している現在の現実のことだ。

イ.庶民の宗教は、生きているうちに教団に寄付したり、善行や修行を積めば、死後の自分の得になるというのが多い。死後も自分があるという前提だ。死後何かがあるかどうかはどうであれ、在ったとしても、死後の在り方に、自分とか他人とかの区別はない。生前の善行を預金に例えれば、個人名義ではなくなる、みんなのものになるということだ。

ウ.脳が成長するに従って、親とのつながり方も変化してくる。幼い段階では、感覚や感情の心が主役で、至近距離にいて、触覚や視覚、聴覚などで確認できなければ安心できない。言葉の心が発達すると、脳内に言葉としての親が出来て、幼稚園などで離れていても安心できる。大人になれば、体は地球の裏表や、この世とあの世に隔たれていても、言葉のつながりで、安心できるようになる。

エ.ヒトだけが、死んだ家族や仲間と、会話をすることができる。それは、世界のすべてを言葉にしているからだ。言霊とか黄泉の国とかあの世というのはこの言葉の世界のことなのだ。動物としての感覚や感情の心でいる時は、現在の現実の具体的な世界に隠れて、抽象的な言葉であるあの世が見えない。シンドバッドの開けゴマのように、あの世の扉は言葉の心なのだ。感覚や感情の心には、死はわからない。不安になったり、目を背けるだけだ。死者の知恵を借りることができない。死者は言葉になって生者の心の中にいる。生きようとする知恵や勇気が必要になったら、死者と会話をすればよい。動物としての現在や現実に生きている力を超えて、ヒトとしての未来に生きようとする力が生まれる。

オ.自分という意識は、言葉で作られる。記憶された言葉は終生消えることが無い。言葉は、増えることはあっても、感覚や感情の心のように消えることは無い。だから、一旦言葉になった人との交流は終生途絶えることは無い。死者や、過去や未来の自分と話すことも自由自在だ。

カ.幼児のころ可愛がってくれた祖父が、回り将棋やはさみ将棋を教えてくれたことが記憶に焼きついている。将棋を見ると、いつでも、祖父に会える気がする。地上には、今生きている70億人の何万倍もの死者が残した言葉が、溢れている。これをあの世、言葉のDNAの海という。京都の古い四つ角にも、高速道路の真ん中にも、1年に一人も通わない山道にも、氷河や太平洋の底にも、きっとある。通りかかった一人一人の生者の脳の中に流れ込む。

キ.「お盆ってなに」。見えているのは、この世界のごく一部だったのだと確認する日。体は、場所や時間を越えては繋がらないが、言葉の心は、誰とでも、死者とでも、いつでもどこでも繋がる。過去や遠くに、いつでも行くことができる。感覚や感情の心が映し出す現在の現実が一日だけ破れ、向こうに言葉の世界が見える日だ。

ク.死後、自分はどうなるのだろう。子孫に体の血筋となって残るという風に考えるのも良いし、元々人類全体で一つの体だと考えるのも良い。子供を作っても、その子がさらに子孫を残す保証はない。体の流れはDNAの遺伝子レベルで考えるべきことなのだろう。さらに自分が言葉の心の働きであると気がつけば、自分が発信した言葉が、言葉のDNAの海に戻るのだと分かる。

7)葬式について

a.    葬式について

ア.自分の葬儀について聞かれて、「納得のいく葬儀にしたい」という人が居る。誰がどのように納得するというのだろう。納得すべきは自分で、参列者ではない。「納得のいく生涯」こそが「納得のいく葬儀」の中身だ。葬儀は後の祭りではなく、生きていることそのものが葬儀なのだ。

イ.葬式とは、墓とは何なのか、考えた。そのためには、葬式や墓、そしてその対象となる自分とは何なのか考えねばならない。自分は体でも、感覚や感情の心でもなく、言葉の心の働きだ。だから、葬式や墓の主人公は、言葉の心の働きである自分であるべきだ。葬式は死者の心を慰めるために行うのだとすれば、死後の心を慰めることは出来ない。葬式は、生前にすべき事になる。言葉の心の働きである自分にとっての満足は、癒やしでなく救いだから、葬式は、日々、自分を救う何かをするということになる。救うとは、感覚や感情が映し出す現在の現実を言葉にして、記憶の過去や願望の未来にして、発信することだ。葬式は、日々、言葉を発信することだということになる。言葉のDNAの海からもらい、一時自分だった言葉を、また言葉のDNAの海に戻すことだ。体が死んだ時には葬式はもう終わっている。日々言葉をもらい、言葉を戻し続けた言葉のDNAの海が、自分の墓だ。

ウ.葬儀には、故人にとっての葬儀と、残された者にとっての葬儀がある。それぞれに4つある。体の為の葬儀、感覚の心の為の葬儀、感情の心の為の葬儀、言葉の心の為の葬儀だ。するなら、残された者の言葉の心の為の葬儀がいいと思う。

エ.愛する者の死に臨めば、家族は、感覚や感情の心に囚われ、思考停止になる。生前、葬儀についての言葉を作っておき、共有しておくことが大切だ。

オ.言葉の心の働きである自分は、この体がいつか消えることを知っている。感覚や感情の心が消えてしまうのは仕方が無いとして、言葉の心の働きである自分も消えてしまう。しかし発信した言葉は残る。だから自分を言葉にするため、言葉を発信するために生きる。自分を言葉にするための日々のすべてが、自分の葬式なのだ。

カ.悲しみは感覚や感情の心に生じる。感覚や感情の心でいる者にとって、愛する者は体として現在の現実に存在していたように思われる。愛する者の死は、大切なものが奪われたような怒りや悲しみを感じる。愛する者の死こそ、冷静に言葉にしなければならない。死者を、感覚や感情の心が映し出す現在の現実から、言葉にして、言葉の心の働きである自分が住む、過去や未来の世界に移転させよう。葬式や供養の意味はそこにある。

キ.体と体には別れがあるが、言葉の心と言葉の心には別れはない。葬式でできるのは体との別れを惜しむことくらいだ。毎晩交わしていた「おやすみなさい」と同じだ。

ク.死を迎えるにあたり、体にしがみつくな。浮き輪につかまっていては、あの世に泳げない。物にしがみつくな。あの世に飛び立てない。持っていけるのは言葉だけだ。

ケ.人は理解できないことに出会うと、何かにすがりたくなり、知識や権威のありそうな人に任せようとしてしまう。自分の死についての権威者や識者は自分だけだ。外界の権威者や識者は呪い師や祈祷師の登場が関の山だ。

コ.家族だけで、幼い者も楽しめる会食をしてくれ。食べることは生きていることの確認だ。死の悲しみを打ち消す最良の薬だ。

サ.自分や家族の葬式をどうするか判断できるようになる為には、死ぬとはどういうことなのかを知らねばならない。いざという時、子や孫の気持ちが混乱しないように、事前に死について話しておきたいと思う。遺族が余分な苦しみや負担を負わないことが最も大切なことだ。

シ.死者は、自分という心を超越したという点で、神仏に成っているのだから、世俗の人間の計らいは不要だ。残された体を、死者の尊厳を傷つけぬように、他人の目に触れさせず、速やかに荼毘に付すのが良い。

ス.司祭や僧侶の助けを借りるな。司祭は家族自身でやれ。大切なのは残された者が、死者が残した言葉を、言葉の心で受止めることだ。

セ.棺は、心の無い体の運搬用のただの木箱、目隠ししたまま運んだり燃やすための箱型のマキだ。

ソ.金は生者の癒しの結晶だ。死者には癒しは不要だ、葬儀で死者の癒やしと称して消費するより、使者が愛した者が生きていくために使うのが良い。

タ.愛する人々とは、言葉の心で結びついている。体の生死とは無関係に言葉として結びついている。

チ.死者の本質は生前に発信した言葉で、死体は壊れた発信機に過ぎない。遺骨に死者を見たり、葬式に救いを求めるのは間違っている。感覚や感情の心に見えていた体は、心の容器であることを理解し、互いが互いの言葉であったことに気がつけば、葬式に意味は無く、何もする必要が無いと分かる。

ツ.体が死んで24時間は、法律で荼毘を待たなければならない事になっている。その間、手持ち無沙汰なので、お葬式をしながら待っている。お葬式には時間つぶし以上の意味はない。これが本当の話だ。

テ.どんな葬式がいいのかは、葬式は誰のためにするのかを決めなければその先が考えられない。さらに送る人にとって、死者は何なのかを決めなければ進めない。死者が感覚や感情の心の対象なのか、言葉の心の対象なのかだ。言葉の心の対象だとしたら、その人は言葉なので、死んではいないことになる。内々に体や生活の始末つまり本人にはできないプライバシーの始末を代わってしてあげるだけでよい。

ト.父の葬儀を思い出す。お別れは病床の看護や見舞いで、数ヶ月間十分やった。しかし、死後の体は、本当はもう空なのだと思いながらも、割り切れなかった。何かしなければならないという強迫観念と、葬儀社の商魂にあおられた。葬儀騒ぎは、冷静になった今、まったく余計だった。金と家族の心身を消耗させただけだった。お別れは、家族だけで、生きているうちにする。死んでから儀式をしても無意味だ。そっと体を始末するのがよい。葬儀は、共同体に属さない都会人には無意味だ。死者も生者も、言葉として、皆の心に、そのまま在り続ければよいのだ。心は役所ではないから、死亡通知など無意味だ。体として、現在の現実の接触が必要になった時に「あああの人の体は死んでいたのか」と知ればよいのだ。

ナ.蛍のようなお弔い。自分のために自分でお灯明。セミのようなお弔い。自分の為に自分でお経。

ニ.死を言葉にできないで恐れる人は、葬儀に意味を求めようとする。墓に花を供えるのと同じで、癒しは感覚や感情なので、救いにつながることは無い。

ヌ.葬式は、感覚や感情の心の癒しの為の行為なので、感覚や感情の心の欠陥である競争差別の心が働く。世間体や見栄だ。救いの儀式であるなら、質素とか盛大ということは無意味だ。死者にはお金や名声などこの世の価値は無意味なのだ。

ネ.葬儀の目的は、死者の心を言葉にして、会葬者がそれぞれ持ち帰ることと、死者の体を骨にして、遺族が持ち帰ることだ。

ノ.肉親を失うと、悲しみより罪悪感、慙愧の念に襲われる。贖罪のつもりで散財をしたくなる。しかし無意味だ。

ハ.死は心の世界の出来事。葬儀は死体の始末だ。

ヒ.遺影は何歳頃のどんな写真がいいのだろう。写真には、言葉の心の働きである本当の自分は映らない。遺影が嘘っぽくしか見えないのはそのためだ。本当の遺影は死者の言葉だ。

フ.葬儀では、急だった、残念だった、諦めきれないなどと言うな。死はその人の輝かしい人生の完成であって、不慮の事故や、不本意な挫折ではない。

ヘ.地域社会を巻き込んだ冠婚葬祭は、農耕社会の集落共同体に生きる人々の団体保険制度だった。共同体のない都会では、企業が村落共同体の代わりを務めた時期もあったが、終身雇用の終焉とともに、それも廃れた。知識人や文化人が、葬儀を家族だけで行うようになった。相変わらず公開の豪華な冠婚葬祭をしているのは、企業家や、芸能人、政治家など共同体で生きている少数だ。あとは、葬儀屋にそそのかされて、勘違いをしている人たちだ。読経、戒名、墓、法事などの葬式仏教も、江戸時代に始まる宗門人別帳など、政治的な民衆支配の手段の名残に過ぎない。

ホ.どんなに有能な人でも、自分の葬儀を取り仕切ることはできないし、棺のふたを閉じることもできない。しかし、事前準備はできる。いざという時、引き受けてくれる人の確保、それがすべてだ。日ごろの行いや人生の集大成だ。今からでも遅くない。お金に頼らず、自分の心で、それを実現してみよう。そんな人を一人作って逝く。死出の旅路はそれだけで温かくなる。形だけ豪華な葬式など浪費はやめた方がいい。

マ.納棺と出棺の間に、お別れの儀がある。昔の旅立ちの装束を入れることが多い。時代錯誤で、普段なら滑稽だが、何かをしなくてはという切ない気持がさせる。幽霊役の役者が着ける白い三角の鉢巻とわらの編笠を枕元に置き、白い襦袢を胸元から足元に広げ、その上に、白い帯、紙のお金を入れた肩掛け紐のついた白い布の札入れをせ、白い布の手甲を両手付近に、白い布の脚絆も両脛付近に載せ、わらじを足元に置く。白木の杖を手元に置く。死については、現代人も未開人も、同じ迷信の中なのだ。

ミ.葬式では悲痛な表情をしなければいけないという思い込みがある。本当にそうか。葬式は誰のために、何のためなのか考えてみる。苦難の場では、明るく気丈に振舞うのが良い。心を奮い立たせる力を与えるものがいい。花も、白や寂しいものにするより、喜び溢れた多彩なものがいい。孫が描いてくれたクレヨンの花の方がいい。大切なのは含まれる愛情の量だ。愛情の薄い、不特定多数の参列者は不要だ。大切なのは、葬式は誰のために、何のためにするかだ。食事も大切だ、精進料理など形だけの演出でなく、子供が喜ぶものが良い。音楽にも同じことが言える。悲しみを外観で表そうとするのは、心を薄くさせるだけだ。

ム.世界の葬式という本を読んだ。色々あるものだ。しかし、どれもこれだというのはない。当然だ。死の意味を抜いて形式だけ探しても、これだというのは見つかるはずがない。

メ.大切な人の死を、どう考えればいいのだろう。感覚や感情の心ままでは、その人が視界から消えてしまって、混乱するばかりになる。言葉の心なら、感覚や感情の心に映っていたその人は消えたが、言葉になっていたその人は、自分と伴にいつまでもいるということが分かる。葬儀で大切なのは、死者を言葉の心で見直すことだ。

モ.人は理解を超えることに対して、恐れの感情を持つ。身近な人の死はその最たるものだ。迷信に囚われたり、葬儀屋やお寺の言うなりになったりする。死は必ず起こる。死の意味が理解できないと葬儀も仕切れない。生きる意味も理解できない。

ヤ.我々は、お互いの脳の中でお互いを言葉に作り、交際している。体が死んでも、相手の中に居続ける。

b.    葬式点景

ア.納棺から出棺の間の、旅立ちの儀。祖父を見送る、娘と幼い孫二人。

イ.死に化粧のこと。荼毘を待つ時間に思うこと。花屋のこと。

ウ.枕元で一晩中、沈香を焚いた。化粧をしたように、ほほがばら色になって、微笑が浮かんできた。

エ.収骨。炉からだされてまだ熱い状態で、斎場職員が全身骨格を説明する。頭や手足は形を崩してあるが、子供も普通に見ている。脳は見えないことや理解できないことを恐れるようにできている。思考停止になって、恐怖や盲信、迷信に囚われてしまう。孫が見る夢や思い出の中で、祖父はどんな姿で現れるのだろうか。すくなくとも、正体不明の幽霊よりは、焼けた骨片で現れる方がいい。それより、生前の笑顔のままがいい。

オ.花の力。喪主である母親が父の葬儀を質素にすることに、一人娘が怒っていた。しかしたくさんの生花を見て、機嫌を治して笑顔になった。花を見て心が明るく変わったのだ。花は見る人を元気付ける良い小道具だ。葬儀でも死者や会葬者のためでなく、悲しむ遺族の心を慰めるためにあるべきだ。菊やユリの白一色とか、分けの分からない何かのために哀悼の意を表するとかは、無意味だ。動物だって、花を見て気持ちが明るくなるだろう。それは何故だろうか。花は、昔小動物だった頃の遺伝子に残された記憶が、食料となる実や蜜や昆虫の存在を連想させるのだろう。食べることは生きる力の根源だから、そこが刺激されて、生命力、生きる喜びが掻き立てられ、心を明るくさせられるのだろう。